gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語人

2018-08-29 12:05:18 | 教育


>「日本語人の脳」  >今から38年前「日本人の脳」を書かれた東京医科歯科大学名誉教授角田忠信先生が新しく「日本語人の脳」(言叢社)を出された。
>(中略)
>その主張は、正確には、日本語、ポリネシア語を母語とする人は、虫の声、鳥の声、動物の鳴き声、そして人の感情音を、言語を処理する側の脳(大半は左脳)で処理をする、というものであるが、今回の「日本語人の脳」は、その後の最新機器による実験結果や研究成果をあらためて纏めたものとなっており、基本的な主張は変わっていない。>当時、友人たちに「日本人は虫の声をコトバとして聞くが、外国人は雑音としか聞かない。」と言うと、「ヘエー、成程」、「面白いね」とは言うものの、それで終わりだった。

虫の声は、文章ではない。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>しかし、虫の声をコトバとして聞くか、雑音としてしか聞けないかは、非常に重要なことである。

虫の声には意味がない。意味のない言葉として聞くか、雑音として聞くか。どちらも似たような非言語ですね。

>虫の声は意味を持ってはいない。>ただ、日本人はその虫の声に、秋を感じ、寂しさを感じ、あるいは、もののあわれをしみじみと感じるのである。

虫の声は、芸術 (音楽・絵画・彫刻など) 鑑賞と同じですね。

>非日本語人にとってはコトバは意味を伝えるもの。

そうですね。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章には、意味・意義がある。 

>しかし、日本語人はコトバに意味以上のものを託し、また話されたコトバに意味以上のものを読み取ろうとする。

それは忖度 (推察) ですね。聞き手の勝手な解釈ですね。非言語活動に対する期待ですね。

>非日本語人にとっては言葉は情報でしかない。>日本語人にとっては言葉のやり取りは、情報の交換であると同時に気持のやり取りでもある。

そうですね。日本人は、文章の理解よりも忖度 (推察) に頭を使いますね。だから忙しい。

>ここから日本語人と非日本語人のものの考え方の違いが出てくる。>ものの考え方の違いは文化の違いとして表れる。

それは、そうですね。’東は東、西は西’ ですね。

>日本人と欧米人のものの考え方の違いの根本にあるものは自然に対する考え方、感じ方である。>日本人は自分も自然の一部であり自然とは繋がっていると感じているが、欧米人は自然は自分の外にあり、自然とは対決し、克服していくべきものと考えている。

現実は、頭の外にある。その内容は、見ればわかる。
非現実 (考え) は、頭の中にある。その内容は、見ることができない。単なる話である。その文章には、理解が必要である。

>欧米人は人間は他の何ものとも異なる絶対のものであると考えている(人間中心主義)。>もちろん、一神教という宗教のせいもある。>しかし、そのような宗教を採用し、そのように作り上げたのは彼等自身である。

そうですね。すべては人間発ですね。

>その考え方が自らの内部にも向かい、自らの内部の自然、すなわち情・感情を蔑視し、知・理性を至上のものと考えるようになった(主知主義)。

考え (非現実) は、感情 (現実) とは同じになりませんね。かれらは、理性的な人間を目指していますね。

>この知至上主義と人間絶対主義とが相まって、自分が絶対という個人主義を生み出した。

そうでしょうね。そうでなければ、人間はアニマルと同様に自然に埋没しますね。

>この個人絶対主義は必然的に自らの自由の宣言となり、一方、対外的には平等の要求ともなった。>本来、自由と平等は矛盾した概念である。

そうですか。どこがどう矛盾しているのですかね。

>これは、個人絶対主義がそもそも自然とは相容れない概念だからである。

意思がなければ、自然ですね。意思を表現しない人は、傍観者としてとどまりますね。

>日本人は自分も自然の一部で自然とは繋がっていると感じているが、周りの人々とも繋がっていると感じている。

日本人は、自然に埋没していますね。周りの人とのつながりは、主として序列感覚でしょうね。

>日本語には身内という言い方がある。>同じ一つの身の内にあるという感覚である。

自分と同じ序列に属する人は、身内の人ですね。そうでない人は、よそ者ですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、日常生活にも欠かせません。序列の上をたどってゆくと、天皇陛下に行き着きます。我々の序列は世界につながっていません。日本語の世界に限られています。

>そして、この繋がりを断つこと、断たれることを非常に嫌がる。

そうですね。日本人には、’つながり・絆’ が大切ですね。よそ者・外人・非国民と呼ばれるのが恐ろしい。

>日本語には英語の‘I’、‘you’に当たる言葉がない。>敢えて言えば、そのような概念がない。

そうですね。一人称・二人称などという概念がありませんね。我々には、パーソン (person) がない。アニマルには、パーソンがない。

>英語の‘I’は、自己を主張する、あるいは自己を宣言する言葉として、幼児期から教え込まれる。>‘you’は相手を自分から切り離す決め付けの言葉である。>日本人はこのような表現を自分の子供や家族には絶対に使わない。

文法上の違いによるものでしょうね。日本人は、’なれ合い’ を主としていますからね。

>日本人は知・理性を至上のものとは思っていない。

日本人は、リーズン (理性・理由・適当) を知りませんからね。リーズナブルな答えは、期待できませんね。

>情・感情も大切と思っている。

日本人は、情に左右される人間ですからね。浪花節調の生活をおくっていますね。

>むしろ、情を知よりも信頼できるものと感じている。

それは、他のアニマルも同じですね。民信無くんば立たず。

>「頭でっかち」、「理屈っぽいやつだ」、「腑に落ちない」、「胸にストンと落ちた」などはその表現である。

罵詈雑言ばかりですね。

>「なんとなく嫌な気がするから、やめとくわ。」などの表現は感覚をすら信頼しているのである。

‘虫の知らせ’ ですね。

>こんなことを言うと、欧米人はバカにするだろうが、日本人にはこれで通るのである。> (中略)>欧米では日本人的ものの考え方は理解されない。

それは、難しいでしょうね。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではありません。

>虫の声を言語として聞くことが、日々の会話で‘I’と自己を主張し、‘you’と相手を突き放すこととは真逆であることには考えも及ばない。

虫の声は、文法なしの言語ですからね。文法の知識の必要性を理解して子供を文法学校 (grammar school) に通わせる国々とは違いますね。

>個人主義が絶対であると今も思っている。

個人主義は大切ですね。我々は、個人的な考え (非現実) を大切にすべきです。何もかも個人が発信源となります。

>男と女は絶対的に平等でなければならないと信じている。

それは、哲学 (非現実) の内容です。現実の描写ではありません。日本語は、現実描写のための言語ですからね。非現実は描けない。それを描こうとすれば、幻想・妄想となる。

>科学的にありえないことであっても、である。

哲学は、科学哲学ばかりではありませんからね。

>角田理論が世界で正当に評価されるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。>世界が自然との繋がりを取り戻す、すなわち日本的ものの考え方を理解してもらうには、日本語を世界に広めるのも一つの方法だろう。

言語の習得には、音読が効果的であることが知られていますね。日本語の音読を易しくするために、現行の仮名漢字表記を廃してローマ字表記にすると良いですね。この表記の変更により、非漢字圏を含めた世界の人々にも日本語は普及することでしょう。さすれば、日本語は世界の第二言語になる可能性も出てきます。


.





技と感覚

2018-08-28 03:20:48 | 教育



>「人から人へ技を伝えるというのは容易なことではありません。言葉で技や感覚を伝えることは不可能です。

そうですね。言葉は言語活動であり、技と感覚は非言語活動ですからね。同時に語ることはできませんね。

>こうしたことは本文で詳しく話しますが、言葉や数字やデータ、映像に頼ってものを学んできた若者にそのことを教えるだけでも簡単ではないのです。

そうですね。
考え (非現実) は文章であり、見ることができない内容です。だから、理解が必要です。
技と感覚は、現実の中にあり、’見ること・感じること’ ができる内容です。非言語の内容は ‘言語と理解’ には無関係です。
非言語の励みは、芸術家 (音楽・絵画・彫刻など) の励みと同次元です。意味もなければ・意義もない。ただ、鑑賞者の勝手な解釈は存在しますがね。これは、忖度 (推察) というのかな。非言語の芸術家の生活は、我々日本人の言語環境に似ていますね。

>学校では先生が教科書を使い、黒板を駆使して教えてくれます。>子ども達は教わることが当たり前だと思っています。

先生が教えてくれる文章内容には、子供の理解が必要ですね。

>教わればわかると思っています。

現実の内容は見ればわかりますが、考え (非現実) の内容には理解が必要ですね。見ることができない。ただ聞いていてもわからない。

>教わらないことは知らなくて当然です。

自ら考えだすことは、非常に難しい技ですからね。考え (非現実) を生み出す技術は特殊でしょうね。成功すれば、博士になれるでしょう。
ただ今わが国は、深刻な人手不足に陥っています。でも、頭脳不足といった話はついぞ聞いたことがない。頭脳労働は、日本人には適さないからでしょうね。頭を働かせないと、過当競争に陥りがちですね。この調子では、世界規模の大企業はわが国には出現しないでしょう。我々は、わが国の現状を考え直す必要があるのではないでしょうか。

>中学や高等学校は一年が経てば進級し、三年経てば卒業します。>学校には期限があります。>生徒はみんな同じ能力があると設定され、同じ方法で、同じ期間学びます。

残念ながら、個人の個性は無視されがちですね。

>進級するには最低、決められた点数を取ればいいのです。>その点数を取るためには近道があり、早道があり、要領があります。>学校ばかりではなく、塾も予備校も、家庭教師も、それを教えてくれます。

そうですね。それは、処世術 (現実) ですね。処世術ばかりで、哲学 (非現実) がない。だから、雄弁がない。

>このすべてが私たちの世界では、技や感覚を師匠から受け継ぐための障害になるのです。

非言語の活動に専念すれば、当然なことながら言語活動は障害になますね。

>少なくともこの方法に慣れた子どもに、技を教え、感覚を身につけさせることは無理です。

言語活動と非言語活動を区別することは、子供には難しいでしょうね。これは、大人でも難しい。

>技も感覚も大工の考え方も、本人が身につけるものなのです。>体に記憶させる、体で考える。

そうですね。その要領はアニマルの生活と同じですね。非言語の生活の中にある。

>このことを理解してもらうには、親方や師匠と一緒に暮らし、一緒に飯を食い、一緒に働くしかないと思っています。」

そうですね。西洋の言語教育でもでも、寄宿学校 (boarding school) の長所が認められていますね。生活を共にすることには、教育効果が認められますね。


.






違和感の根元

2018-08-26 21:49:46 | 政治



>73年の歳月を経て、毎年の終戦記念日にマスコミから念仏のように繰り返される言葉・・・「かけがえのない命」「歴史を顧み」「深い反省」・・・。>これらはすべて現天皇の言葉である。>これらの言葉には、強烈な違和感を覚える。

そうでしょうね。日本人には意思がない。だから、加害者意識というものがない。深い反省に至らない。人生の進路を変えることもない。我々日本人は、罪の意識とは縁の遠い民族になっている。だから、贖罪のための宗教 (キリスト教) にも違和感を持っている。
加害者意識は罪の意識にまで達することが多い。だから、人は懺悔する。違和感ではなく、人々の共感を呼ぶ。

>数百万人が犠牲になり、一般庶民はボロボロになり生きるか死ぬかを彷徨った・・・その事実に比べた軽さ、他人事のような、うわべの表層さ加減・・・。>この違和感はものすごく深い。

日本人の言葉は、軽薄ですからね。深みも重みもありませんね。その主な原因は、日本語の文法の特性にあるものと考えられます。日本人は、考え (非現実) を語らないからです。

>このどうしょうもない違和感を言葉にしてみると以下3つぐらいに集約できると思う。>にほんブログ村 政治ブログへ
>①何のための戦争だったのか? なぜ負けるとわかっている戦争に突き進んだのか?

日本人には意思 (will) がない。だが、恣意 (self-will) がある。意思決定はないが、恣意決定がある。意思には意味があるが、恣意 (私意・我儘・身勝手) には意味がなく、恣意決定にはリーズン (理性・理由・適当) というものがない。だから、盲目の判断により突き進む。突入は、気分・雰囲気によるところが多い。

>②1945戦争終結時、軍を統括し最大の責任者であるはずの天皇の責任が問われなかったのはなぜなのか?あるいは全うな人間なら自ら退くだろう。

日本人には、意思がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。真面目な責任追及が誰にもできない。加害者意識がない。

>※すべてが陸軍に背負わされた。 

外国で住民とのトラブルがあったからではないでしょうか。

>「國体護持」のための終戦

国体とは、わが国の序列制度のことですね。国体護持は、序列人間の精神的安定の護持ですね。序列がなくなると、日本人は日系移民のような心境になって、持てる力を発揮できません。序列による団結ができないからです。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあって、’上とみるか・下とみるか’ の判断なしでは、日本語会話も自由に話せません。この序列メンタリティ (考え方) が ‘国体護持’ を熱望する日本人の根源をなしているのでしょう。

>③明治以降の戦前・戦中の仕組みや支配体制は、表面的な制度・体制が変わっただけで、まったく変わっていないのではないか?という感覚。>支配層の精神構造(蓄財第一、属米精神、国民は支配対象)も明治以来一貫している。

そうですね。日本人は、何回、姿・形を変えてもそのメンタリティは不変ですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
これは、正直者の怒りである。
日本語には、時制 (tense) というものがない。だから、考え (非現実) の内容を文章にすることができない。現実ばかりを語るので、時流に流される。だから、英米人に信頼されていない。’民信なくんば立たず’ です。
現実だけを語るのは子供です。マッカーサは、1951年4月19日に上下両院の議員の前で ‘日本人12歳説’ を明らかにした。そして、日本人から不評を買った。これは、正直者がバカを見た例である。
我々日本人は、日本語と英語を学んで、現実と非現実の両方を文章にして語る技を習得しなくてはなりませんね。さすれば、国際的にも信用さる人間になれます。



.






大本営発表 続き

2018-08-26 17:32:15 | 政治


>・予期せぬ敗北で損害隠し…ミッドウェー海戦「日本の勝ち」
>軍内部の対立で大本営発表が歪められるきっかけとなったのが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦の大本営発表だ。>霞が関の海軍省・軍令部では祝杯の準備をして戦勝報告を待っていたが、飛び込んできたのは空母4隻を失う予想外の知らせだった。

本当に、残念でしたね。

>開戦以来初めてとなる大敗に直面し、これをどう発表するかをめぐる調整は難航を極めたという。>報道部は「空母2隻沈没、1隻大破、1隻小破」とする発表文を起案したが、作戦部が猛反対した。3日後に発表された味方の損害は「空母1隻喪失、1隻大破、巡洋艦1隻大破」に減らされた。一方で、敵の損害は「空母1隻の大破」が「2隻撃沈」に水増しされ、「沈めた空母の数で日本の勝ち」と発表された。

頭も使いようですね。

>報道部の担当者は戦後、ミッドウェー海戦の大本営発表のなりゆきについて、「真相発表とか被害秘匿とかそんなものを飛び越えた自然の成り行きであった。理屈も何もない」と述懐している。

理屈を抜くのは、日本人の得意技でしたね。

>誰かの決定も指示もなく、あうんの呼吸で部署間のバランスに配慮した結論が出された。

‘以心伝心・阿吽の呼吸’ は、日本人の誇る国技のようなものですね。畏れるものなし。

>情報軽視と軍内部の対立という欠陥は放置されたまま、空気を読んで戦果を忖度し、でたらめを発表する仕組みができ上がった。

嘘も方便ですかね。情報軽視と内部対立を抱えた欠陥軍であったか。

>良心の呵責もあったのか、ミッドウェー海戦以降、いったん大本営発表の回数は激減する。

意気消沈したのですね。

>しかし、しばらくして再び増え始めた大本営発表には、当たり前のようにウソが混じるようになる。>辻田さんは「ウソをつくことを覚えたのだろう」と分析する。

息をするように嘘をつくですかね。

>海軍はミッドウェーでのごまかしは、すぐに勝って帳尻を合わせればよいと思っていたようだが、戦いの主導権は二度と戻らなかった。>一部の海戦については後から戦果を訂正する発表もあったが、これは誤りが判明したからでなく、過去のウソから生じた矛盾を取り繕うためだった。

嘘から出たまことか。全ては、見栄と外聞の問題ですね。

>しかし、同時に新たなウソをついていたから、実際の戦果との開きは拡大するばかりだった。

それは普通のことですね。

>・「撤退」は「転進」…言い換えで責任不問に
>1943年(昭和18年)になると、ごまかしは戦果以外にも及ぶ。>ガダルカナル島からの撤退は「転進」に、アッツ島の守備隊全滅は「玉砕」に言い換えられ、大本営の作戦や補給の失敗は不問とされた。

失敗を不問にしていると、過去の教訓は得られないでしょうね。

>44年(昭和19年)以降、本土が空襲にさらされ、戦いの前線が迫ってきても、大本営はウソを発表し続けた。

大本営の嘘がバレることはなかったのですね。

>ごまかしや帳尻あわせが破綻した後は、神風特別攻撃隊の攻撃が発表の目玉に据えられた。

これは、自爆攻撃ですね。

>特攻隊の戦果は大幅に水増しされたが、国に身を捧げて得た戦果を疑うことは許されない。

‘ゆめゆめ疑うことなかれ’ ですね。

>大本営は特攻隊まで戦果の取り繕いに利用したのだ。

‘使えるものは、何でも使え’ でしょうね。

>「魚雷を浴びて大火災を起こし、断末魔のあがきを見せつつ遁走を続ける」サラトガの姿をとらえたとする旧日本軍の提供写真(1942年5月撮影、読売新聞社刊「大東亜戦争報道写真録」より)

(米空母) サラトガは、旧日本軍の役に立ちましたね。

>辻田さんの集計によると、大本営発表では太平洋戦争中に敵の空母は84隻、戦艦は43隻が撃沈されているが、実際は空母11隻、戦艦4隻しか沈んでいなかった。

牛乳に大量の水を混ぜて売るようなものか。

>でたらめな戦果は昭和天皇にも奏上され、天皇は戦争末期に「(米空母)サラトガが沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが」と苦言を呈したといわれる。

サラトガは、不沈空母でしたね。

>太平洋戦争を首相として主導した東条英機(1884~1948)は、大本営発表の内容については電話で数回要望を伝えてきただけで、「敗北を隠せ」といった指示はしていない。

八方破れですからね。敗北は隠しようもないでしょう。

>東条については、日米開戦前日に昭和天皇が開戦を決意したことに安堵し、「すでに勝った」と高揚していた様子を記すメモの存在が明らかになった。

昭和天皇の意思決定があったのですね。東条は、他力本願・神頼みですか。

>・「暴走」誰も止められず…メディアの責任も
>戦争遂行の最高責任者だった東条だが、人に弱みを見せることも多く、軍内部すら完全に掌握できていなかったという。

この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。

>辻田さんも「形式上は天皇が最高指揮官だったが、実際にはトップ不在のまま手足が勝手に動いていたのが大本営の実態。誰もコントロールしないからウソがまかり通り、それを誰も止めなかった」と見ている。

わが国は、烏合の衆の理性無き世界ですね。

>評論家の山本七平は『「空気」の研究』(文春文庫)の中で、戦争末期の戦艦大和の出撃について「全般の空気よりして、特攻出撃は当然と思う」という軍令部幹部の証言を紹介している。>出撃が無謀なことを示す論理やデータはそろっていたが、「全般の空気」がそれに勝ってしまったのだ。

日本人は、気分・雰囲気に弱い。だから、真面目に勉強しても、いざという時には役立たちませんね。

>でたらめな大本営発表には、記者発表で仕上げの尾ひれがつけられた。>発表後に軍の担当者が「この発表の意図はこうだ」「ここはこう書いてくれ」とオフレコでレクチャーし、記者たちは軍の意向に寄り添った記事を書いた。

皇民化教育の成果でしょうね。すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>軍の意向に逆らわず、むしろ積極的に空気を読んで戦争の片棒を担いだメディアの責任も大きい。

メディアは、から騒ぎの増幅器にしかなりませんね。’脳足りん’ ですからね。

>・「空気を読む」公権力には歯止めを
>組織ぐるみの忖度については、対馬藩が国書を偽造した「柳川一件」を紹介した。>森友学園問題では、役人の忖度が公文書の改ざんにまで発展した。>辻田さんは「今の政治を戦時中と同一視するつもりは全くない。だが、だから歴史から学ぶことなどない、というのも間違っている」という。

国書偽造・公文書改ざん・なんでもござれ。日本人には、歴史から学ぶものなど何もない。その気になってやれば、何でもできるのだ。

>書類の電子化が進んでいる今でも、役所や会社の中を回る決裁文書にはハンコを押す欄がずらりと並ぶ。>権力がトップに集中する組織ほど、「上はこう望んでいるだろう」と忖度した文書が回る。

忖度 (推察) は、聞き手の勝手な解釈ですから、話し手には何の責任もありませんね。だから、議論の対象にはならない。とかく、この世は無責任。

>ハンコは起案者が読んだ空気に同意した証し。>正しく空気を読んだ文書ほどハンコがそろいやすく、効率的に仕事が進み、起案者は上の覚えもめでたくなって出世できるわけだ。

昔からある立身出世の物語ですね。

>物事がうまくいっているうちはいいのだが、ひとたび問題が起きた時は、上が指示をした証拠はなく、たくさんのハンコもかえって責任の所在を不明確にしてしまう。

個人主義がない。個人の考えの内容が、想定外になっている。とかくこの世は無責任。

>辻田さんは「空気を読むことがすべて悪いわけではないが、日本には他国以上に空気を読む文化がある。だからこそ、特に公権力を持つ組織では、他国以上に権力集中に歯止めを設ける仕組みが必要ではないか」と指摘している。

空気の話ばかりが出てくるのは、異常な事態ですね。文章内容の理解の重要性を常に強調すべきですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。文章を読まないで、空気を読む。そして、歌を詠む。古風な暮らしを続けている。このような言語環境では、先進諸国に置いて行かれるでしょうね。現実を直視することと、あるべき姿 (非現実) を堅持することが人間には必要でしょう。日本語と英語の両言語を学んで、現実と非現実の内容を文章にできるよう努力しましょう。それには、英米流の高等教育を受けるのが早道ですね。



.




大本営発表

2018-08-26 03:55:12 | 政治


>・組織の欠陥が生んだ「ウソとでたらめ」
>終戦の日が来るたびに、「日本は、なぜ無謀な戦争に突き進んだのか」という反省が繰り返される。

反省は、深く掘り下げられることはありませんね。

>特に罪深いとされるのが、国民を騙し続けた「大本営発表」だ。

大本営発表に罪を着せることが可能なのでしょうかね。

>ウソとでたらめに満ちた発表は、今でも「あてにならない当局に都合のいい発表」の代名詞として使われる。

そうですね。

>戦果のごまかしは他国もしていたが、大本営のでたらめぶりは常軌を逸しており、「国民の士気を鼓舞するためだった」では片付けられない。

建前 (口実) は容認されないのですね。

>そもそも大本営は天皇に直属する最高の統帥機関で、陸海軍のエリートが集められていた。

今も昔も役所はエリートばかりですね。なんの役に立つのやら。

>発表は幾重ものチェックを経ていたし、ウソがばれれば国民の信頼を失い、戦争遂行が難しくなることも分かっていたはずではないか。

‘民信無くば立たず’ ですからね。

>私がキャスターを務める「深層NEWS」では、『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書)を書いた近現代史研究者の辻田真佐憲さんをお招きして話を聞いた。>辻田さんは、でたらめ発表が行われた背景に、「情報軽視」と「内部対立」という2つの構造的な欠陥があったと分析している。

先の大戦で、’日本は情報戦に敗れた’ といわれていますね。情報の取り扱いを誤って、自滅するのですね。日本は、序列社会ですからね。序列間の対立は昔からつきものですね。

>・情報軽視の悪癖、現場の報告を鵜呑みに
>大本営発表が最初からでたらめだったわけではない。>真珠湾攻撃の戦果は、航空写真を綿密に確認するなどした上で、3度も修正されている。>戦闘機から見た艦船は点のようなもので、本当に沈んだのか、沈んだ艦は戦艦なのか、駆逐艦なのかを判別するのは、熟練度が高い搭乗員でも簡単ではないからだ。

几帳面なところもある。

>戦線が拡大し、熟練度が低い搭乗員が増えるにつれ、戦果の誤認が急増した。

几帳面では、やってゆけない。誤認は、我が方に有利か不利か。

>誤認は米軍にもあったが、大本営には情報を精査したり、複数の情報を突き合わせたりする仕組みがなかった。

情報の裏を取ることを知らなかったのですね。相変わらずの能天気か。

>特に作戦部には現場からの情報を軽視する悪癖があった。

‘彼を知り己を知れば百戦危うからず’ ですね。中国の古典は、日本人には通用しなかったのですね。

>根拠もなく報告を疑えば「現場の労苦を過小評価するのか」と現場に突き上げられる。>誤った報告は鵜呑みにされ、そのまま発表されていった。

根拠を掴む努力は払われなかったのですね。鵜呑みは、それほど易しいことなのかな。なにしろ意思のない人たちのことですからね。加害者意識が存在しない。

>・「敵空母11隻、戦艦2隻撃沈…」幻だった大戦果
>誤報の極みとされるのが、1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦に関する大本営発表だ。>5日間の航空攻撃の戦果をまとめた発表は、「敵空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻を轟(ごう)撃沈、空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦4隻を撃破」。米機動部隊を壊滅させる大勝利に、昭和天皇(1901~89)からは戦果を賞する勅語が出された。>だが、実際には米空母や戦艦は1隻も沈んでおらず、日本の惨敗だった。

自己の誤報で自滅ですね。自業自得でしょう。

>熟練度の高い搭乗員はすでに戦死し、作戦に参加したのは初陣を含む未熟な兵卒が大半だった。>多くは米軍の反撃で撃墜され、鹿屋基地(鹿児島県)に帰還した搭乗員の報告は「火柱が見えた」「艦種は不明」といったあいまいな内容ばかりだった。>だが、基地司令部は「それは撃沈だ」「空母に違いない」と断定し、大本営の海軍軍令部に打電した。

我が方に有利な解釈ばかりですね。相変わらず、おめでたい人たちばかりですね。事態を深刻に考える人はいないものか。

>翌日に飛んだ偵察機が「前日は同じ海域に5隻いた空母が3隻しか発見できない」との報告が「敵空母2隻撃沈」の根拠とされ、さらに戦果に上乗せされた。>さすがに疑問を感じた海軍軍令部は内部で戦果を再検討し、「大戦果は幻だった」ことをつかんだが、それを陸軍の参謀本部に告げなかった。

軍人といえども、勇気はないのですね。

>陸軍は大本営発表の戦果をもとにフィリピン防衛作戦を変更し、レイテ島に進出して米軍を迎え撃ったが、台湾沖で壊滅させたはずの米空母艦載機の餌食となり、壊滅した。

自業自得ですね。

>各部署は大本営発表から戦果を差し引いた独自の内部帳簿を持っていたが、その数字は共有されず、共有しても相手は参考にしなかったという。

空想・妄想に耽っていたのですね。呑気ですね。

>・「水増しと隠ぺい」内部対立がさらに歪める
>情報の軽視によって水増しされた戦果は、公表範囲を決める幹部会議に持ち込まれ、「軍事上の機密」を理由に都合の悪い部分が隠ぺいされた。

軍事上の機密とは、水増しのことですね。

>報道部が大本営発表の文書を起案する時点で、すでに戦果の水増しと隠ぺいが実施済みだったわけだが、ここからは「内部対立」でさらに戦果は歪められていく。

昔からある源平合戦のようなものか。

>大本営発表は軍の最高の発表文で、起案された文書は主要な部署すべてのハンコがなくては発表できない。

ハンコ行政は、健在ですね。

>陸軍を例にとると、参謀本部に参謀総長、参謀次長、作戦部長、作戦課長、情報部長、主務参謀などがいて、陸軍省に陸相、次官、軍務局長、軍務課長らがいた。>特に、作戦部にはエリート中のエリートが集まり、他の部署を下に見ていたという。

序列社会においては、上位者の恣意の増長が癌ですね。

>他の部署は作戦部を快く思わず、何かにつけていがみあっていたから、すべてのハンコをそろえるのは大変な作業だった。

‘和をもって貴しとなす’ を忘れたか。教育不足か。

>それでも勝っているうちはよかったが、日本が負け始めると、どの部署もハンコをなかなか押さなくなった。>「そのまま発表すれば国民の士気が下がる」というのは建前にすぎず、「敗北を認めると、その責任を負わされかねない」というのが本音だった。>発表が遅れれば、報道部の責任が問われる。

日本人は、建前 (口実) と本音 (恣意) によって、自滅しますね。’あるべき姿’ (things as they should be) の内容と ‘意思’ (will) が必要ですね。

>報道部はハンコが早くもらえるように、戦果をさらに水増しし、味方の損害を減らした発表文を起案するようになった。

日本人には、リーズン (理性・理由・適当) がないので、暴走に歯止めがかからない。リーズナブルな答えが出せない。個人主義もなければ、意思もない。だから、ただ ‘事の次第’ を述べるだけになる。浪花節のようなものか。

.