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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

こころざし

2018-09-26 20:34:28 | 文化



>人間は志や目的、目標や夢の大きさによって物事の取り組み方や見え方が変わっていくものです。

そうですね。わが国には何でも揃っているが、ただ夢と希望がない。

>人それぞれ同じことをやっていたとしても、その志がどうなっているかでそのやることは変わっていきます。

日本語は写生画のための言語であると言われています。存在するものは絵 (文章) として表現されるし、存在しないものは内容にならない。
現実の内容は頭の外にある。だから、見ることができる。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。だから、見ることができない。
見ることにできる内容は、’本当’ の事。見ることのできない内容は、’嘘’ ということになっている。
志 (心指し) は見ることができない。ただの話である。だから、信じることが難しい。

>田坂広志さんに「二人の石切り職人」という寓話の話があります。>以前、お聞きしたときには観得なかった世界が今ははっきりと私も観えてきました。>如何に志を抱かせることが大切か、何よりその人が一隅を照らしたいと願うようになるか、その発心の大切さを深く感じるようになりました。

それは良かったですね。

>改めてその話を紹介します。>「二人の石切り職人 」>「旅人が、ある町を通りかかりました。>その町では、新しい教会が建設されているところであり、建設現場では、二人の石切り職人が働いていました。>その仕事に興味を持った旅人は、一人の石切り職人に聞きました。>あなたは、何をしているのですか。>その問いに対して、石切り職人は、不愉快そうな表情を浮かべ、ぶっきらぼうに答えました。>このいまいましい石を切るために、悪戦苦闘しているのさ。

彼は、処世術に従って悪戦苦闘しているのですね。

>そこで、旅人は、もう一人の石切り職人に同じことを聞きました。>すると、その石切り職人は、表情を輝かせ、生き生きとした声で、こう答えたのです。>ええ、いま、私は、多くの人々の心の安らぎの場となる素晴らしい教会を造っているのです。

そうですね。偉大な社会の建設が大切ですね。

>どのような仕事をしているか。>それが、我々の「仕事の価値」を定めるのではありません。>その仕事の彼方に、何を見つめているか。>それが、我々の「仕事の価値」を定めるのです。」

我々の行き着く先の内容が仕事の価値を決めますね。

>これが二人の石切り職人の話です。>この話は、志の話です。

意思と言った方がわかりやすいのではないでしょうか。

>あなたの志は何かと質問されたとき、その志をどのようにその人が語るのか。>それによって仕事の価値が定まる。

そうですね。その人の哲学 (非現実) が大切ですね。

>つまりは志の中身がどうなっているのかが先で、仕事の技能や実践は後からついてくるのです。

見上げた志の内容が必要ですね。

>本来、何のためにやるのか、その人の志が育っているのなら必ずその仕事は価値があるものになっていくということです。

人間には世界観 (world view) が必要ですね。

>吉田松陰に「志を立てて、以って万事の源となす」 があります。

‘心指’ (心の目当てを定めること) は万事の源ですね。優柔不断・意志薄弱ではどうにもならない。

>その人が一生の一度の人生に何を成し遂げたいか、それさえ立てられるのならそれが全ての根本になるということです。

各人に哲学 (非現実) が必要である。Everyone needs a philosophy.

>もしその成し遂げたい志に出会わずに進むのなら、私利私欲や自我慾に負けて狭い世界で迷い惑い続けて自分の人生を歩むことを忘れてしまいます。

そうですね。手段となるべき処世術 (現実) に自分自身が翻弄されてしまいますね。’適当ではないが、法律違反とまでは言えない’ といった程度の低品位の生活に明け暮れることになるでしょう。

>そうならないためにも、初心や原点といった志をその人がまず立てることが大切なのです。>吉田松陰は「志定まれば、気盛んなり」とも言います。

自分の ‘あるべき姿’ (非現実) が定まれば、夢と希望のある建設的な生活になりますね。

>この「志を定める」ということの真価、そこに人生の全てが凝縮され方向性が決まってしまうのです。

‘我々はどこから来たか、我々は何者であるか、我々はどこに行くのか’ といった哲学的命題に自分自身が答えを出す機会が必要ですね。

>結局は、人に成るとは何か、成人の本質は志を抱く人にすることなのです。

そうですね。意思のある人間になることが必要ですね。つかみどころのない人間は、無哲学・能天気です。
だがしかし、日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。英語には時制があり、英米人には意思がある。
日本人には、意思はないが恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。この恣意を使って動作の機敏さを得ようと日本人は考える。無意志の欠点を克服するために、’精神主義’ が必要と考えられている。すなわち、精神力の強度の集中・緊張によって物質力を支配し克服しようとする努力である。先の大戦では、精神主義が力を発揮した。これにより個人の動作の機敏さは得られるが、思慮ある人間は生まれない。

>私は足元にあるものに気づかず、随分と遠回りしてきました。

そうですね。日本人に意思のなさを気づかせるのは、大変なことですね。

>教育は引き出すものだということは知っていても、何が引き出すのかまでははっきりと自覚していませんでした。

考え (非現実) の内容を文章にして引き出すことですね。

>今こそ確信するのが志こそ万物万事の根源であり、その志を立てることができるようにし志を抱いて生きる手助けと手伝いをするのが私たちの伝道でもあります。

西洋人なら神の意思が大切ですね。万事万物の根源です。日本人の神様たちは、出雲に集まって談合ばかりしている。わが国では、神様の意思は定かにならない。

>子ども達に未来を譲っていくためにも、今の時代の人たちが一人でも多く自分の志に気づき、その志に生きた背中を遺していくことが世の中を今までよりもっと善くしていくことになります。

そうですね。各人に哲学が必要ですね。Everyone needs a philosophy. これが、人づくりの基本です。

>いのちを活かし使命感を持たせることは、本物の人をつくっていくことです。

そうですね。使命感 (sense of responsibility) は大切ですね。無意味に生きるのは良くないです。

>本物の人とは志を持つ人にしていくことです。

意思のない日本人には、英米流の高等教育が必要ですね。英語には時制があり、英米の大学では哲学を教えます。

>未来の子ども達のためにも、自分が何が本業かを間違えないように真摯に志を実践し弘めていきたいと思います。

それは良いことですね。大学で哲学を学んだ後に大学院で職業教育を受ければ、高度な職業人を育成できます。わが国にも、こうした教育制度が必要ですね。


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自覚

2018-09-23 04:39:32 | 政治

(略)
>表面的には情報を調べ現状の危機を認識しているふりをして、自覚したふりをしますが自分も社会も何も結果が伴っていることを、あえて無視している自分に目を向けないことこそ自覚の欠如です。

そうですね。上辺だけの解釈が多いですね。個人主義がないですね。

>あなたがもし真の意味で危機感を自覚していれば、きっと今の仕事などやめてしまうくらいに行動するでしょう。

そうかもしれませんね。

>真の意味で「社会を守るために行動しているとうそぶく自分」に気付けた人は、恥ずかしくて休みを取ることさえできなくなるでしょう。

そうかもしれませんね。

>自覚と行動と結果が重要とあなたが真に気付いていれば、自分たちが嘘つきでなくなるのは日本がよくなった時だけだと気付くことでしょう。

それは、難しいことですね。

>しかしネット住民は自分の正義に現在は酔いしれているだけのようです。

誰しも自分だけは例外ですからね。

>人間が真に行動すれば結果は100%です。

それは、どうですかね。失敗しないということですかね。

>これは様々な反体制運動にも共通することです。
>それらのすべては現状で全く成功していない、ということを受け入れている人を見かけることはほとんどありません。

それは、そうですね。

>我々は常に失敗しており何も言う資格がないくらいに負け続けています。

そうですね。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>経過がどうとか一歩ずつとかそんな言葉など本質的に必要ないものです。

そうですね。本質は、意思の問題でしょうね。

>FBのウォールにはいろんな社会問題の記事であふれていますが、社会が何一つ変わっていないのは、私たちの自覚がまだまったくないからなのです。

そうですね。
意思のあるところに方法・仕方がある。Where there’s a will, there’s a way.
日本人には、意思がない。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。英文法には時制がある。だから、英米人には意思がある。方法がある。
仕方がないから、無為無策でいる。座して死を待つか。情けない。

意思があれば、加害者意識もある。罪の意識も獲得できる。深い反省に陥ることもある。教訓を得て、以後の生活態度が一変する。意思がなければ、加害者意識もない。アニマルと同じである。被害者意識ばかりがある。無哲学・能天気な人間のままでいる。罪を知らない大人を見るのが実に恨めしい。
我々日本人は、日本語と英語を学んで、意思の使い方を覚えよう。理解が自覚になる。さすれば、我々は社会変革の手段を得て世界の先頭に立つことができる。だから、両言語の研鑽は我々にとって極めて重要な課題なのであります。



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評価

2018-09-20 20:51:44 | 教育


>近年、家族内の評価が所謂「いい子ちゃん」でいると言う子が増えているように感じる。>親や家族が心配しないようにマジメに何かを答える。>心配をかけないように笑顔でいる。>自分にとってマイナスな情報なことは言わない。

大本営発表のようなものですね。

>相手のマイナス話をするのは自分が普通だと言う感覚でいたいから。

‘上か下か’ の相対的な問題になりますね。

>家族という狭い空間には味方がいないから。

何でもあけすけに話す人はいないでしょうね。

>もちろん、家族で本音をいうのは難しいことだ。

本音 (恣意) の発言は、本人がリーズン (理性・理由・適当) を失った証拠ですからね。不自由を常と思えば不足なし。

>一回言ったその評価はずっと続くし、死ぬまでその思いは変わらないと言う感覚があるのだ。
>親と話していて、子供のその想いは感じているようで「家の中では本当に自分がやりたいことを言わない。何故なんでしょうか。応援したい気持ちもあるが、想いは子供には響かないんです。」

恣意 (私意・我儘・身勝手) の内容では、無理でしょうね。ばらばらな単語のままで、文章にはならない。意味も無ければ、矛盾の存在も指摘できません。親からもあまり干渉されたくないからでしょう。

>子供たちと話していても親のまえでは絶対に「自分のことはプラスで伝える。本音は言ったことがありません。だから親が自分事をどれだけ知っているのかはわからない。」

本音 (恣意) の発言は良くないですね。我々は、意思の表現を学ぶ必要がありますね。意思は未来時制の文章内容で、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。だが、英文法には時制があり、英米人には意思がある。だから、我々日本人は、英米流の高等教育を受ける必要があります。

>一回の評価、親の表情で子供たちは本音を隠す。

子どもたちは、空気を読むのですね。それは親の真似ですね。

>ただそこで不思議なのは、週2・3回しか会わない人間には心を開いて話せるのか。>反対に言えば、家以外でしか話せないのだ。

そうですね。家の中では無理ですね。

>それは大人も一緒だと思う。>始めは緊張するが、話していく中で会わないから話せると言う感覚が出てくる。

‘一度は言ってみたかった’ ということか。

>「この人になら話しても良いかな・・・。あんまり会わないし、評価が悪くても大丈夫かな・・・」って感じになるのだと思う。>それは別に不思議なことではなく、人として当たり前の行動なのだ。

人には聞こえないように話すのですね。

>ただ、一緒にいる身としては一緒にいるのに話してくれないのは寂しいとか、分かりたい、分かってあげたいという感覚になってしまいがちいなのだ。

そうですね。突然自殺でもされたら困りますからね。

>70年前ぐらい前までは3世代ぐらいで一つ集団として住んでおり、現代と比べて少し広い人間関係の中で過ごしていた。>だから色んな意見を聞いて自分の中の味方が少なくても家の中にはいたのではないか。

そうでしょうね。

>現代は本当に狭い人間関係(家族と同世代)の中でしか生きていないので自分のプラスの評価に縋ってしまう。

人々は、核家族化を望んでいますね。
 
>少し遠い存在がいるだけで誰もが本当に救われると言う感じになるのは、自分の評価を気にせずに話せる人がそこにしかいないからだと思う。>子供も大人も評価を気にしすぎなのだ。

そうですね。日本人には、上下の評価が必要ですからね。評価は我々にとって強迫観念のようなものになっていますね。

>その評価という枠組みから脱出できるのか。

それは、非常に難しいですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上とみるか・下とみるか’ の判断は、常に会話の中で必要となります。また、礼儀作法も序列作法になっていて、’序列なきところに礼儀なし’ です。ですから、日本人には序列関係の知識が必要です。評価の枠組みから脱出できませんね。

>社会を生きていくには、その評価を無視して求められる人間としてやっていくのが大事だと思う。

そうですね。評価を無視するためには、英語のような階称 (言葉遣い) のない言語を使って考え方を学ぶ必要がありますね。また、’求められる人間’ といったような ‘あるべき姿’ (非現実) の内容を考える時には時制 (tense) が必要ですね。時制は英文法にあって、日本語文法にはありません。ですから、我々日本人は、日本語と英語の両方を学んで、言語機能の不足を補う必要があるでしょう。


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擬声音

2018-09-15 13:42:19 | 日本語脳


>身体感覚にいちばん近い言葉がオノマトペで、既存の言語みたいに定義がはっきりしているわけではないので相手に感じてもらうしかない。>つまり受けての感性に依存する部分が大きい。

そうですね。相手の忖度 (推察) に依存していますね。忖度は、聞き手の勝手な解釈ですから、話し手には責任がありませんね。

>近代は何かを固定して、前進しようとしていた。

文章は、考えを固定しますね。考えの体系は、学問になりますね。

>組織の在り方もトップが明快なビジョンを持ち、それを一方通行で所員に伝える。

考えは個人個人でその内容が違っている。トップを定めれば、その内容は所員に対して明確になる。

>だから、自分が言葉で伝えた以上の面白い答えが出てくることはないし、トップもそれを期待していない。

その通りですね。責任の所在も明らかになりますね。

>近代化する社会では、それが最も生産性がよかったからだ。

理詰めの世界ですね。言語の世界の長所ですね。

>しかし、時代は大きく変わっている。>創造性が必要とはすでに広く言われているが、1人の人間の脳から生み出されるものには限界がある。

天才には、限りがあるということですかね。

>建築家の隈研吾氏が所員とのやりとりで意識していることで以下のように言っている。

‘以心伝心・不立文字’ のようなものですかね。

> >僕のやり方というのは、所員に対して唆味なメッセージを投げて、それに対して所員が僕が思っていた以上の、あるいはそれから微妙にずれた答えを出してくることを期待しているんですね。>「なんでこんな答えが返ってくるんだよ」って(笑)、期待していたものとまったく違うじゃないかっていうことが多い。>全然違っていて使い物にならないというのが5パーセントかもしれないけれど、5パーセントぐらいすごく面白い答えが返ってくることがあるわけです。>「あっ、こういう手もあったな」って。>「そうかこういうふうに解釈するお前のズレ方は面白い」と(笑)。>そしてその5パーセントのある種の誤読みたいなものを利用して次のステップに進んでいく。>1段階階段を上るのにその誤読を使うわけです。>1段階ずつ、やり取りの中で階段を上っていかないと面白くなくて、これが所長からの一方的なやり方だと階段を下がるだけという感じになってしまう。>僕はやっばり階段を上っていきたいし、自分でもワクワクしたい。所員とのやり取りで意外な答えが出てくるところが驚きであるしワクワクする。>それが設計のいちばんの醍醐味だと思っている。>そういう醍醐味を味わうために、ある種曖昧性を保ったままの、前・言語としてのオノマトぺを多用するわけです。<

そうでしょうね。芸術 (音楽・絵画・造形美術など) は、非言語の作品ですからね。

>言葉には定義するとか明確化するという役割がありますが、オノマトペというのは、定義せず明確化しようという意思もない。

意思は未来時制の文章になる。だから、意味がある。オノマトペ (onomatopoeia: 擬声音 ) は、ばらばらな単語である。だから、意味がない。

>一種の体験的レベルで発せられる、動物的な音声であり、書き言葉だけど、話し言葉やイメージのような、そんな身体的な言葉。

日本人の言葉は、書いても文章にならないことが多い。ばらばらな単語のままで存在する。歌詠みのようなものか。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

>そういう意味で、相手の潜在思念にうったえかける、相手の創意工夫を引き出す、といった時にはオノマトペは可能性のように思います。

そうですね。‘小鳥のさえずり、せせらぎの音’ といったようなものですね。非言語の材料は芸術作品になりますね。


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恣意撃滅

2018-09-13 20:49:13 | 政治

>最近、特に若い世代(私含めて)で見られる人間の特徴 >それは、怒られたことに対して、まず始めに謝罪することがない。

内容を理解していないのですから、謝罪はありませんね。

>①に理由を説明し。⇒【言い訳】>②に誤解であることを説明⇒ 【自分発】>そして自分は何も悪くないと思い込む。

それは、本人の意見ですね。

>例えば、怒られることに対して誤解や、すれ違いによるものは間違いなく起こる事象ではあるが、これらはどうしてそもそもが起こるのか、>一番は、伝えるべき相手に対して伝えないといけない事をまったくイメージできていない。

そうと理解すれば、本人は謝罪するでしょうね。

>一見何もおかしいことはしていなくても、相手にそのように誤解されてしまったら、その時点で相手に対してなにも配慮できていないということになる。【相手発を捉えきれていない】

相手に誤解されないような配慮をすることも必要ですね。

>人ははなから怒ることなど無く、一番は意図が通じることができないとこからによる苛立ちが発端になる。

相互理解が必要ですね。民信なくば立たず。
意思は、未来時制の文章内容です。時制 (tense) というものは英文法にはあるが、日本語文法にはない。だから日本人には意思がなく、意思疎通はむずかしい。苛立ちが起こりやすい。

>つまりここで言いたいのは相手が怒ってたらまず始めに考えることは、そういう風に心配・苛立ちを覚えさせてしまった事象にひたすら同化すること。

相手の主張 (文章内容) を理解することが大切ですね。

>何故こんなふうに怒るのかひたすら考える事が大事。

考えることは、常に大切ですね。わからないことがあれば、相手に質問することですね。

>たとえ、それが誤った認識だったとしてもまずはそれを見つけて謝罪し、その後から実はこういう意図がありましたと、自分発の共認を相手に伝えること、でなくなちゃ話は常に平行線になっていく。

お互いに、相手の主張する文章内容を理解することが大切ですね。

>まずは相手の言いたいことを理解し、それに対してそういう不安や苛立ちを発生させてしまったことに対する謝罪をする。(相手の言い分を受け止める)

文章にならないものを抱えていては、お互いに腹の探り合いになるのではないでしょうか。日本人は、感情的ですから危険ですね。

>その後、自分の考え方(意図)を相手に伝えること。

日本人には、意思がない。意思があれば、その文章内容は伝達可能です。相手の理解も必要です。
恣意しかなければ、その文章内容はなく、ばらばらな単語であって意味はない。だから、その意図は伝達不能であります。もやもやした感情になります。

>言葉のキャッチボールとはよくいったもので、相手の言葉をキャッチして受け止めた後、相手に言葉を投げていく。>この受け止めるという言葉はただ言葉を聞いたではなく、その言葉にたいして同化したことを指している。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、見ることが可能である。非現実 (考え) の内容は、見ることができない。ただの話である。だから、どうしても文章の理解が必要になる。日本人は、文章内容の理解よりも、忖度 (推察) の方に興味があって、理解がおろそかになりやすい。歌詠みのような性質なのかな。

>同化したら、今度もこちらの言葉にも同化してもらう相互で成り立てば話はスムーズに進んでいくものだし。

文章にならない内容は、理解不能ですね。
日本人は、ばらばらな単語を使うことが多い。だから、理解の得られないことが多い。理解は得られなくても、相手の忖度 (推察) の方を期待している。忖度は、聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には責任がない。議論にもならない。独りよがりか。とかく、この世は無責任。

>信頼・親和というものは自ずと構築されていくものだと感じる。

日本人には、意思疎通 (相互理解) はなく、恣意疎通 (阿吽の呼吸) がある。なーなー主義 (なれ合い) が横行している。首相もそうなら、国民もそうか。日本語言語環境の改善が未来の日本には必要ですね。
意思を明確に表現して、恣意 (私意・我儘・身勝手) を完全に撲滅しないと議論にはなりませんね。国際社会に出ても、相手を説得できないでしょう。 その目的のためには、日本人が日本語と英語をよく勉強して、意思の表現に習熟する必要がありますね。この日英の二刀流により、我々は鬼に金棒の国民になることができるでしょう。


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