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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

柴田昌治氏  

2022-05-31 22:28:53 | 文化

 

>AERA dot.  >日本人の努力はなぜ報われないのか? 「職務に忠実で勤勉」が日本低迷の原因だった  > 2022/05/31 06:00

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>この数十年の間に他の競合国が急速に生産性を伸ばしている中、日本も懸命の努力は続けているのですが、その努力がバブル崩壊後の生産性の伸びにはほとんど結びついてはいない、という厳しい現実があります。  >なぜでしょうか? 

>『日本的「勤勉」のワナ』の著者で、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた柴田昌治さんにその原因を聞きました。   

>*  *  *

>■個別の努力が全体の成果につながっていない  > 約30年前のバブル崩壊以降、日本の給料はまったく上がらず、世界の水準から取り残されてきている、という事実があります。  >今、そのことがようやく問題だと認識され始めています。  > 努力は必死に続けているにもかかわらず、給料の水準は伸びていない。  >この厳しい現実は、努力の方向性が間違っていることを示しています。 > その前提にあるのは、高度経済成長期以来、日本の得意だった経済モデルが通用しなくなってしまったことです。

 

我が国の薄利多売は通用しなくなりましたね。   

 

>すなわち、日本の代わりを圧倒的に安い人件費でやってしまう国々が、一瞬のうちに世界市場を席巻してしまったのです。  >従来通りの日本的モデルでは、成り立たない時代になったことが明白になっています。 > 一方、世界では、米国を中心にデジタル化が急速に進んでいきました。 >日本も相応の努力はしているのですが、結果として一歩も二歩も後れを取っています。  

 

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話しはありませんからね。   

 

> 確かに、個別に見れば素晴らしい結果も残してはいるのですが、残念なことに全体として見れば、新しい価値を生み出せていないのが日本の実態なのです。 >■いちばん必要とされているのは「創造性」  > 今、私たちにいちばん必要とされているのが「創造性」です。  >しかし、それが当たり前になっていないところにこそ、問題があるのです。   

 

そうですね。 創造力の育成を目指した教育はなされていませんね。      

 

> なぜ創造性というものが当たり前になっていないのか。  >それは、みんなの力を合わせてものづくりに励む、という経済の高度成長を支えてきた旧来の考え方ややり方、いうなれば、ある種の文化が今もそのまま残っているところに問題が潜んでいます。   

 

そうですね。わが国には思考停止の文化がありますね。   

 

> 日本人はまじめで勤勉です。 >この性格は経済の高度成長には間違いなく大きく寄与してきました。 >しかし、そこに問題が隠されている、ということです。 > つまり、「日本経済の高度成長を支えてきた、日本人が持つ職務に忠実な勤勉さこそが、今の停滞の主因になっている」というのが、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた私がたどり着いた結論なのです。   

 

職務に忠実なばかりでは新鮮味がありませんね。   

 

>■職務に忠実で勤勉な「現代の武士」  > では、この「職務に忠実な勤勉さ」とは、どのような中身なのでしょうか。  > まだ記憶されている方も多いと思いますが、20172月から20183月にかけて、学校法人森友学園問題が日本中を騒がせました。 >中でも衆議院予算委員会等で、財務省の佐川宣寿理財局長(当時)が重ねた答弁は、私たちの記憶に何かおさまりの悪い感覚で残っています。  > その答弁は、「交渉や面会の記録は速やかに破棄した」「電子データは短期間で自動的に消去されて、復元できないようなシステムになっている」などと、当時の政権を擁護する姿勢で終始一貫していました。  >しかし、佐川氏のそうした言動に対して、たいていの人は彼が実際にあったことをそのまま正直に言っているとは思っていないのではないでしょうか。 > ただ、ここで私が問題にしたいのは、佐川氏の言っていることが事実に即しているかどうか、ではなく、彼が取った行動が彼なりの「規範を守り抜く」という信念に基づいていたように見えた、という点です。   

 

それは自己の属する序列の体制を擁護する態度ですね。自分自身が自己利益を得ているのだから当然なことでしょうかね。      

 

> 佐川氏の答弁する姿勢に関して言えば、多少苦しげではありましたが、余計な迷いは見えませんでした。  >もし本当に悪いと思っているのなら、首は垂れるものです。 >しかし、首を垂れることなく堂々としていた。  

 

特攻隊員のようなものですね。   

 

>つまり、佐川氏には、「国家公務員たるものこのようにふるまうべきだ」という彼なりの信念があったということです。 > 彼の心のうちは想像するしかありませんが、「ことを荒立てて属している組織に混乱を起こすことよりも、穏便に済ますことのほうが最終的には日本のため、日本人のためだ」と考えていたのかもしれません。   

 

それは、あらかたの日本人の考えることですね。   

 

> このときの佐川氏は、私が日本に停滞をもたらしていると考える「職務に忠実で勤勉な日本人」の象徴のような存在です。 >彼のことを、お上に仕える「現代の武士」と呼んでもよいのではないか、とも考えています。   

 

そうですね。彼はわが国の停滞を支える礎のような人ですね。   

 

>■社会規範として深く根付いている日本人のふるまい  > 日本人の組織人としての勤勉なふるまいは、武士の信条である「主君に対する忠義を尽くす」ことからすべてが始まっていると、私は考えています。   

 

そうですね。序列作法の基本ですね。   

 

> 主君との関係性において忠義を尽くすことで、自らの「拠り所」(居場所)をつくっていたのが武士でした。 >そして、そのような在り方は、私たち日本人の多くが会社に対して持っている姿勢にも通じるところがあるように思います。 

>会社という存在がまさに自らの「拠り所」だということです。  >そのような傾向は、伝統のある規模の大きな会社や、日本の中心に位置する会社ほど強く残っています。   

 

そうですね。 これは序列社会を維持する方法ですね。  

 

> たとえば、もし会社に重大なコンプライアンス(法令遵守)上の問題が生じて、自分がどう動くかでその問題が世間の目にさらされるかどうかが決まる、という立場に置かれたならどうでしょう。 > 出世街道を順調に歩んでいる人ほど、「組織を守る」という規範を踏み外さないことが会社員としての大前提になっていることが多く、佐川氏と同じような行動を取る人がいたとしても不思議ではありません。 >実際、似たようなことは企業の中でも起こっています。     

 

嘘つきは泥棒の始まり。日本は一億総泥棒の国でしょうかね。   

 

> 忘れてはならないのは、置かれている前提を問い直さず、どうやるかしか考えない姿勢は歴史由来であり、ある種の社会規範としてあまりにも深く根付いているために、誰もがそのことがもたらす意味の大きさに無自覚である、という点です。   

 

そうですね。日本人には哲学 (あるべき姿・非現実) がなくて、処世術 (損得勘定・現実) だけが存在するということです。   

 

>まさか自分が思考停止に陥っているなどとは考えたこともない、ということが往々にして起こりがちなのです。   

 

そうですね。思考停止=無哲学の指摘はありませんね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.     

 

>■自分が属する組織を守ることを優先する日本人  > 少し前のデータですが、日本生産性本部が2018年度まで行なっていた「新入社員 春の意識調査」の中に、「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。   >このときあなたは……」という問いがありました。  >これに対し、おおよそ4割程度が「指示の通り行動する」と回答しています。 >過去最大だった2016年度にいたっては45.2%です。     

 

縦社会には指示待ち人間が多いということですね。   

 

>そして、「わからない」という回答が約半数、「指示に従わない」が1割程度というのがおおむねの傾向です。 > こうしたことを見ても、善悪はともかく、自分が属する組織を守るという姿勢を優先するのは決して例外的な話ではないということです。  

 

自己の属する序列組織を基準にした内外の差別が甚だしいということですね。   

 

> 今の日本の主要な舞台で活躍している人たち、特に順調に出世街道を歩いている、もしくは歩いてきたような組織人たちは総じて、まじめで勤勉であればあるほど、上司が言っていること、先輩が言っていることがそのまま規範になり、どうさばくかしか考えない思考停止に陥っているのです。  

 

わが国は非常に危険な社会であるということができますね。   

 

> 日本人は、勤勉で粘り強く、結束力は世界一でありながらも、こうした「思考停止」に陥りやすいという特異性を持っています。 >それは、「運命として与えられた規範を耐え忍ぶ姿勢」にどこか親近感を持ち、それを率先垂範することを美徳とする、という一種の「勤勉美学」が組織の中に息づいている、ということでもあります。   

 

礼儀正しい日本人の陥る落とし穴ですね。   

 

> だからこそ、組織人としての規範から外れる行動を選ぶことは、日本人にとってハードルの高い課題になってしまうのです。   

 

そうですね。寄らば大樹の陰ですね。人の振り見て我がふり直せか。   

 

 

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年功序列  

2022-05-30 09:29:12 | 文化

 

>東洋経済オンライン  >日本人は年功序列賃金の弊害をよくわかってない 単に歳を重ねただけで生産性が上がるのだろうか  > 野口 悠紀雄 2022/05/29 10:00  

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>日本型報酬体系が、日本の変革を阻害している。   >日本企業の報酬体系は、年功序列賃金と退職金制度を核として作られている。 >労働力の企業間移動が必要な社会において、この報酬制度と社会的要請との齟齬が顕著になっている。

 

そうですね。労働力の企業間移動が阻害されているのは日本病のようなものですね。      

 

>昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。 >野口悠紀雄氏による連載第70回。 >日本の賃金は年功序列型   > 日本企業の報酬体系は、年齢が上がるほど賃金が上昇する「年功序列型」の仕組みになっている。 > これは、男子の一般労働者においてとくに顕著だ。 >図表1に見るように、賃金月額は、19歳未満の18.3万円から年齢とともに増加し、5559歳で42.0万円のピークになる。 >その後は下落し、70歳以上では26.1万円となる。 > (外部配信先では図表などの画像を全部閲覧できない場合があります。 >その際は東洋経済オンライン内でお読みください)   > これに対してアメリカの場合には、図表2に示すように、30代中頃までは職務経験の蓄積を反映して賃金が上昇するが、30後半以降60代前半までは、ほとんど年齢に関係なくフラットになる。   

 

アメリカはお前と俺の社会ですからね。日本の礼儀正しい (序列作法の発達した) 社会とは価値観が違いますね。    

 

> なお、OECD, Connecting People with Jobs, Towards Better Social and Employment Security in KoreaFigure1.18に、各国の年齢別賃金のデータが示されている。 > それによると、韓国も、日本と似た年功序列型だ。   

 

韓国語には日本語と同様に階称があますね。ですから両国民のメンタリティ (考え方) は似たものになりますね。      

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は世俗的なモノの上下を覚えて堅苦しい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。日本人の宗教には儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

[序列人間] 日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分の名前を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。   

 

>それに対して、ヨーロッパ諸国では、アメリカと同じように、30歳以降は、65歳以上まで含めて、ほとんどフラットな形になっている。 > 日本の報酬体系は、生産性の向上を妨げている面が大きい。 > 第1の問題は、年功序列的な賃金は、労働の成果に応じる報酬になっていないことだ。   

 

そうですね。年功は労働の成果ではありませんね。     

 

> 図表1に見るように、5559歳の賃金は19歳未満の2.3倍であるが、単に歳を重ねただけで、生産性がこれほど上がるとは考えられない。  > むしろ、歳をとることによって、時代の変化に対応できなくなる危険のほうが大きいだろう。  > それにもかかわらず日本の賃金体系で賃金が年齢とともに上昇するのは、歳をとれば管理職の地位につくという、それだけの理由による場合が多いだろう。   

 

そうですね。一も二も無く序列のありがたみだけが反映されていますね。    

 

>年長者が意思決定権を持つことで新事業が阻害される理由   > そうした人たちが意思決定権限を持つことによって、企業が新しい事業に取り組むことが阻害される。   

 

そうですね。日本人には意思がない。だか、恣意がある。    

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)    

要するに日本人は意思の内容に焦点を当てて話をまとめ上げることが苦手である。だから集団行動のスタートが遅れるのである。  

 

日本人には意思がないが恣意がある。だから、我が国では恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて意思の代わりに利用する。鍛えられた恣意は意地・根性・大和魂などとよばれている。

意思疎通の代わりに、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) をする。意思に関する討論の代わりに、恣意に関する談合 (腹の探り合い) をする。そして、日本人は意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。恣意決定は自己満足の為に行われる極めて危険な行いである。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

> なぜなら、新しいものの導入は、年長者の地位を危うくするからだ。   

 

日本人には処世術 (損得勘定) があって哲学 (あるべき姿) がない。損得勘定は現実の内容で、あるべき姿は非現実の内容である。日本人の脳裏には現実 (事実) があって非現実 (考え) がない。これが考えの疎かな基になっているようです。      

 

> 本来であれば新しい技術体系に応じて新しいビジネスモデルを導入する必要があるのに、日本企業は古い技術体系にしがみつこうとする。 >そして、変化する技術体系に適切に対応することができない。   

 

そうですね。考えがなければ一寸先は闇ですからね。  

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞いたことが無いです。 

 

> ましてや、新しい変化を世界に先駆けて実現することなど、ほとんど不可能だ。   

 

そうですね。   

 

> また、年功序列的な報酬体系は、能力や生産性に応じて賃金を支払うことを難しくしている。  > このため、若い人材が持つ専門知識が適切に評価されない。 > 日本の企業の多くが新しい社会状況にうまく適応できない大きな原因が、ここにある。   

 

そうですね。日本人にはリーズン (理性・理由・適当) が無いので、リーズナブルな答えは出せませんね。      

 

> デジタル化の遅れということが言われるが、それは、こうした傾向の1つの現れに過ぎない。 >日本の報酬体系が、さまざまな変革を阻害していると考えざるをえない。

 

それは老害ですかね。思考を停止しながら受け売りと後追いばかりしていてはデジタル化にも遅れをとりますね。     

 

> 日本の報酬体系の中で、退職金は重要な地位を占めている。 > その額は、勤続年数と強く関連付けられている。  > 「 退職金・年金に関する実態調査結果 (日本経済団体連合会 、東京経営者協会、2022 3)によれば、大学卒の退職金は、勤続年数が38年の場合には2243万円であるのに対して、10年の場合には289万円でしかない。 > このように、勤続年数によって、非常に大きな違いがある。   

 

そうですね。アンリーズナブル (理不尽) ですね。      

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)  

 

> このため、早期に退職して他の企業に移ると、得られる退職金額が大幅に減ってしまうという問題が発生する。 >労働力の企業間移動が少なく、退職金が阻害   > 労働政策研究・研修機構「データブック国際労働比較2022」によって勤続年数別雇用者割合(2020)を見ると、日本では、短期間勤務者の比率が低く、長期間勤務者の比率が高い。 >アメリカは、ちょうどその逆になっている。 > すなわち、勤続年数1年未満が、日本は8.5%、アメリカは22.2%であるのに対して、20年以上は、日本は21.7%であるのに対して、アメリカは10.8%となっている。  > これは、日本では企業間の労働力移動が少ないことを示している。

 

そうですね。わが国には当家に代々仕える忠義な家臣が多いのですね。彼らはひたすら義理 (序列関係より生じる義務) を果たしています。     

 

> このことは、産業の新陳代謝を遅らせ、生産性を低める要因になっている。 > 企業間の労働力移動が少ない理由として、日本では解雇規制が厳しいこともあるだろう。  > それに加え、先に見たように、ある企業に一定年数在籍しないと十分な額の退職金を得られないことが、他の企業への移動に対して大きな障害になっていると考えられる。  

 

そうですね。我が国においては忠義な家臣はより手厚く保護されていますね。    

 

> 変化が激しい世界では、労働力が他の企業に容易に移動できることが重要だ。  > 確定拠出年金など、ポータブル型の退職金制度も導入されつつはあるが、まだ限定的だ。   

 

我が国においては、どこの馬の骨かわからない人間は冷遇されていますね。   

 

> 図表1でもう1つ重要な点は、日本の場合には、60歳を過ぎると、賃金が急激に減少することだ。 > 上で述べたように、欧米では、このような現象は見られない。  > 日本の雇用は「終身雇用的」と言われるのだが、実は60歳以降は、賃金の急減という深刻な問題を抱えているのだ。  > 「人生100年時代」に適応した体制にはなっていない。   

 

そうですね。わが国のシステムは時代遅れですね。      

 

> 現在、公的年金の支給開始年齢は65歳に向けて引き上げられており、2025年に完了する。このため、企業は、65歳までの雇用維持を期待されている。 > 企業は、その要請に応えて雇用を維持することとしているが、賃金をカットしているのだ。  > 政府は、年金支給開始年齢を65歳からさらに引き上げることはないとしている。 >しかし、年金財政の実情を考えると、70歳にまで引き上げられる可能性は否定できない。 > そうなった場合に、70歳までの高齢者の世帯の生活を、企業の負担で面倒を見るのかどうかが、重大な問題だ。  

 

旧制度をそのままにして新しい時代に適合することは無理ですね。日本人にはリーズナブルな決断が必要ですね。      

 

>日本社会の基本的な仕組みを変えることが必要   > 以上で見たように、企業の報酬制度が現在のような形では、日本経済が変化に対応することは難しい。  >ましてや、世界をリードしていくことは、絶望的なほど難しいと考えざるを得ない。

 

そうですね。我々日本人は心を入れ替える必要に迫られていますね。  

 

> 現在の制度をどう変えていくかが、未来に向かっての重要な課題だ。

 

良い考えの持ち主がこぞって意見を述べると良いですね。 それが進歩の第一歩ですね。    

 

>これは、日本社会のもっとも基本的な仕組みを変えていくことを意味する。  

 

その次が国の意思決定ですね。これは日本人には難しいでしょうね。憲法改正のようなものですから。金科玉条を踏みにじる思いですね。         

 

> 「ジョブ型雇用」の導入などが始まっているが、その行方を注視したい。   

 

そうですね。しかし注視だけでは現実は動きませんね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。これを自然の中に生きているというのであろうか。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

 

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かつぜん氏  

2022-05-29 05:45:59 | 文化

 

>感動の名言!アインシュタインの名言の解説1「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ」   >2017122201839   

>こんにちは!かつぜんです。  >今日のテーマは、「アルベルト・アインシュタイン」が残した、名言の解釈〈その1〉です。  >20世紀最大の物理学者とも呼ばれる、アインシュタインが残した言葉は、妙に強い説得力を感じます(笑)   

 

そうですね。   

 

>けっこう好きな言葉が多い人です。  >物理的な事実を根拠とした言葉であるからこそ、強い説得力をもっているのでしょう。  

 

それは印欧語族の考え方ですね。   

 

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>「過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである」   

 

過去・現在・未来を語るのは印欧語族の特色ですね。前世・現世・来世を考えるのもその一つでしょうね。   

各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 

 

>アインシュタインが残した名言の解釈。  >今回は、この名言を解釈したいと思います。  >解釈・解説   >過去、現在、未来とあって、   「過去」、つまり過ぎた事は、絶対的にいじることが出来ません。 >変える事が出来ません。 >過去の失敗を思い出して『ああしとけばよかったな』と思う事。 >つまり『後悔の念』は、誰しも抱きがちですが、後悔だけしていても、ただただ元気がなくなるだけで、なにも意味は有りません。   >「後悔」を「反省」に変換すべきだと、僕は思っています。

 

そうですね。禍を転じて福と為すの心構えが必要ですね。   

 

>反省とは、過去の失敗から学んだことを、「未来のための今」に、活かすことです。 >過去、現在、未来とあって、   >大事なのは「未来」で、  >そして、   >いま触ることができるのは「今・現在」のみです。 >何のための今か?   >未来のための今です。  >「理想とする未来」という結果のための、「原因としての今」を、過ぎてしまった「過去から学び」、それを活かして生きるべきなのだと思います。   

 

そうですね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)   

 

>ただの後悔に、何の意味もないと、僕は思います。 >後悔から反省を生み、「そうなった原因」を見つめなおし、疑問が生まれ、それを解いて、改善し、今に活かす。  >“同じ轍を踏まないようにする”といってもいいかもしれません。   

 

それは学習ですね。    

 

>また、 失敗をただ後悔だけする事に、何の意味が無いのと同じくらい、失敗を、ただ「他の人の責任だ」「自分には問題ない」「この失敗と自分は関係ない」「何も疑問は無い」として、スルーしてしまう事も、意味が無いと思っています。   

 

日本人には意思がない。受動があって能動がない。だから他人のせいにする。   

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。 

 

>一時的に感情を鎮めるテクニックとしては「責任転嫁」というのは、有効であると思います。  >しかし、一時的であり、失敗を誰かのせいにしてスルーし続けていたら、未来に必ず同じような失敗が起こります。 >そしてまた同じような「いやな気持」になります。  >それを、繰り返すことに意味はなく、無駄と言えます。   

 

進歩がないですね。賽の河原の石積みのようなものですね。      

 

>仮に、直接的に失敗を起こした他人や、または足を引っ張った他人がいたとしても、それを事前に見抜けなく、対処できなかったのは、自分です。 >その場合、事前に見抜いて、対処できる自分になればいいのです。 >失敗したら、反省し、その原因を学び、理想的な未来のための、今に活かす。   

 

そうですね。それは建設的な意見ですね。    

 

>進化成長の人生を歩む人にとって、この意識の使い方は、常に必要であると思います。   

 

そうですね。   

 

>「過去の全ての失敗から学ぶ」   

 

失敗は貴重な学習の元ですね。

 

>「自分が認識する全ての失敗の原因は、自分の中にある」   

 

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

>「その原因を学び、改善し、今に活かす事が、その失敗の無い理想的な未来を作る」  >「それを続けることが、自らの理想を実現させる」   >というスタンスで生きる事が、成長を生み、理想的な未来を創るのだと、僕は思います。   

 

そうですね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。これを自然の中に生きているというのであろうか。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。       

 

 

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スギタシンゴ氏  

2022-05-28 11:42:04 | 文化

 

>日本の教育が進化しない理由  >スギタシンゴ (ンゴ先生)   2022414 09:05   

>日本の教育は、お父さんの代…いや、おじいちゃんの代から大きな変化をしていない。   

 

そうですね。学校は教えるところですね。   

 

>それは黒板を使っているなどの物質的な話だけではなく、もっと本質的な話である。   

 

そうでしょうね。   

 

>今の3040代のお父さんお母さんも、学校に母校に行けば思わず「懐かしい」と口にしてしまうだろう。 >それほどまでに時が止まっているのである。  >その頃、社会はどうかというとポケベル→PHS→携帯電話(ガラケー)→スマートフォンと変わっている。 >なぜ、このようなことが起こるのか?  

 

教育は単なる実学 (技術) ではないですからね。    

  

>過去の成功体験が邪魔をする   >日本は戦後、ものづくりで高度経済成長を迎えた。 >その頃の日本を支えていた教育、それが今も残る、私たちが教育と言われてイメージするものである。   

 

そうですね。それは知識の詰め込みでしたね。     

 

>今の教育システムが悪者という議論ではない。 >今の教育システムが、かつて日本の成長を築いたことは紛れもない事実である。  

 

そうですね。それはマニュアル人間の製造でしたね。手順書にしたがって間違いなく作業できる人たちでしたね。       

 

>しかし、あくまでそれは過去の話。 >その時代にはまさにマッチした教育システムだが、教育が止まっている間に社会のほうが先へ進んでしまったのである。  

 

そうですね。日本人は思考を停止していますからね。時代の方が先に進みますね。    

 

>新しいテクノロジーによりライフスタイルが変わるのは自然なことで、ライフスタイルが変われば必要な仕事や能力も変わる。 >必要な仕事や能力が変われば、教育も変わるのが当たり前である。   

 

そうですね。創造力が必要ですね。    

 

>しかし教育は変わらなかった。   

>それが教育と現実社会のギャップを大きくしている。   

>日本の教育は世界でも遅れをとっており、ここにきてようやく【自分の力で考えて解く】という当たり前の議論がなされるレベルである。   

 

そうですね。日本人には現実 (事実)があって、考え (非現実) がないですね。だから、自分の力で考えて解くことには不向きですね。       

 

>日本は先進国ではなくなる   >今後、あらゆる面で日本は世界から遅れをとり、取り残されるという意見すらある。  

 

思考を停止しているとそういう事になりますね。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)    

 

>これに関して、もっとも悪い例が教育である。 >実際に日本の教育は遅れている。  >この原因は、まさに過去の成功体験が邪魔をしているからである。    

 

我らは何処から来てどこに行くのか。日本人は何処にも行かないですね。それは日本人には世界観というものがないからでしょう。      

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>発展途上国は成功体験が無い分、ものすごい速さでテクノロジーを導入していく。 >先進国が経験した途中段階を飛ばして成長するのだ。   

 

そうですね。テクノロジーの導入は受け売りの作業ですからね。受け売りの学習はあまり難しくないですね。能率が良いですね。        

 

>これに対し日本は、過去の成功体験が邪魔をし、新しいモノを取り入れるのに躊躇し、批判し、否定し、変化の速度が遅れてしまう。  >そうして世界から取り残されるのである。   

 

他から新しいもの取り入れるのは、受け売りの作業ですね。これは新しい世界を自ら切り開くことにはなりませんね。ですから、世界から取り残されることになりますね。        

 

>実際に新しい教育論を展開すれば、たちまち古い考えの教育者から叩かれてしまう。 >古い教育を守ろうとしている人たちにより、日本の教育はどんどん遅れをとっているのである。   

 

議論することは大切ですね。議論に弱いと叩かれますね。新しい考えの教育者は議論に勝つ必要がありますね。理論国語に磨きをかける必要がありますね。      

 

>ここがヘンだよ日本の教育  >先生は教え、生徒は聞き、それでお互いに仕事をやっているという表面上の教育になっていて、次世代リーダーが育っていないのである。  >いわゆる、やっているフリになっているのである。    

 

日本人は思考を停止しているので、他人の考えを仕入れてそれを生徒に教える教育しかできないですね。   

 

>しかし、社会では全く逆のことをしなければならない。 >それこそ、やっているフリではなく、やった成果が求められるのだ。 >それを考えると、自分で考えて自分でやれ!教育のほうが、むしろしっくりくるのではなかろうか?

 

そうですね。しかし、日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。  

 

>そんなこんなで大人が教育について真剣に考えましょうね!   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

 

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文学と理論  

2022-05-27 06:39:35 | 文化

>47NEWS   >「文学」と「論理」は分けられるか 教科書から見た高校国語教育   > 全国新聞ネット 2022/05/22 07:00  

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> 国語教員はここ数年、一つの問いに頭を悩ませてきた。 > 「果たして『文学』と『論理』は分けられるのか」   

 

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)    

 

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>文部科学省=2015年   > 以前なら学習指導要領が大きく改定される際、文科省や都道府県教育委員会による丁寧な周知や研修があったが、今回はそれもない。  >「一方的に押しつけられた感じで、それでは現場はなかなか変わらない」とため息をつく。  

 

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。   

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。思考停止に陥っていて生きる力 (vitality) が不足している。   

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではないでしょう。   

 

> 教科書編集者の一人はこう言う。  >「ここまで来たら、論理か文学かという議論はナンセンス。   

 

そうですね。

日本人には現実 (事実) があって、考え (非現実) がない。日本語は写生画の言葉である。それは非現実の内容が日本語の文章にならないからである。日本語では、見えない内容は嘘になる。それで考えは捨てられている。日本人は現実直視に興味が無く、忖度 (推察) に熱中する傾向がある。だから、わが国には多くの歌詠みが輩出する。だが歌詠みには現実を変える力がない。

現実直視から得られる内容と、考え (非現実) を組み合わせて文章を作ると科学という学問になる。科学者の知的産物には現実を変える力がある。これが歌詠みと違うところである。非現実の内容を持たなければ、人間はアニマルと共に自然の中に溶け込んで暮らしている。日本人も英米人と共に現実の変革者になるべきである。そして非現実の内容を文章にするには、英語の文法が必要である。    

 

>目の前にいる生徒の国語の力を付けるにはどうしたらいいのか。 >それを考えて動くしかない」   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

 

 

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