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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

白井聡氏 3/3

2019-06-30 23:58:16 | 政治





>――日本は日本としての自立を模索する必要があるということですね。
> 国家主権は常に相対的なものです。

そうですね。

>しかし、日本がアメリカに従属しているとしても、可能な限り少しでも自由でありたいと願うのが、生き物としての本能。>その本能を取り戻せるかどうか、ということが問われています。

自由とは、意思の自由のことでしょう。日本人には意思がない。だから、自由そのものにも意味がない。不自由を常と思えば、不足なし。

> 一昨年、ロシアのプーチン大統領が来日する前に、インタビューで痛烈なことを語っていました。 >「日本は日米同盟に縛られている。それはわかるが、独立国家でありたいという気持ちを少しでももっているのかね。
>どうやらもってないみたいだけど、そういう国とは真面目な話はできない。 >中国は独立国家たらんとしている。 >そういう国とは真面目に話す」と。

そうでしょうね。保護者付きの人物とは、我々は真面目に話ができませんね。

>その証拠に、動く、動くと言われていた北方領土の返還交渉は1ミリも動かない。 >それどころか、返すと言っていたはずの二つの島で、アメリカと提携して発電所を造ると言っている。 > 人々を愚鈍にするシステムを150年続けてきた

日本語を使っている人々は、世界観が持てない。自己の意思を表すこともできない。こうした自己実現のない人たちは、愚鈍になるのでしょうね。

>――最近の北朝鮮の核をめぐる東アジア情勢の劇的な変化などみていると、日本は一人、取り残されているのが露呈しています。>まったくのみそっかす。>こんなバカな国には国際情勢の重大な次元に関わらせるべきでないというのが現実です。

非現実 (あるべき姿) の内容がないと、現実は動かせない。日本人には、世界観 (非現実の文章内容) がない。それを公表する意思 (未来時制の文章内容) もない。だから、実行もできない。

>なぜ、日本がここまで堕ちていったのかというと、「国体」という人々を愚鈍にするシステムを150年続けてきたからです。

序列人間は、自分で考える必要がない。自分の行動は、他によりすべてが決められる。思考停止の状態であるから、楽ちんである。

>支配を否認させるのが、「国体」ですが、さっきも言ったように、支配と向き合い、抵抗するところからしか、知性は生まれない。>支配を否認させる「国体」のせいで、幼稚で愚かな状態に落ち込んでしまったのです。

日本語の世界は、二人称ばかりの世界である。’お前’ と ‘お前のお前’ しか存在しない。




>――近代の歴史を知らねばならないということですね。
>『国体論』では大きな歴史の見取り図が描かれています。
> 大きな見取り図から見ないと、歴史の因果関係がわからないのです。
>大きな“風呂敷”でくるむように捉えることで現実の見え方が違ってくると思います。

そうですね。しかし、日本人には世界観がない。

>アメリカを頂点とする「国体」による弊害は、政治や社会のあらゆる場面でひずみとなって表出している。

そうですね。無哲学・能天気の因果ですね。

>「この先の日本に待っているのは2度目の破局かもれしない」と白井は言う。

そうですね。’過ちは、繰り返しませぬから’ では、何が過ちであったかはわからない。だから、前回の過ちを避ける方法は見当たらない。

>それを回避するのは、品位のある知性しかない。 >それには近代の歴史を知り、学ぶことだと強調する。

そうですね。日本人には、さらなる教養が必要ですね。
英文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章内容は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。英米人は、過去の内容を現実とは関係なくどこまでも展開できるから、優れた歴史書を書くことが可能になっている。彼らは、未来の内容を現実とは関係なくどこまでも展開できるから、理想郷の内容を完成させることも可能である。自己の ‘あるべき姿’ (非現実) の内容を基準にとって現実を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。だがしかし、日本語文法には、時制というものは無いので、日本人には、考え (非現実) の内容というものがない。あるのは、現実ばかりである。だから、閉塞感を持っている。我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解して自己の意思と世界観を表現する技術を獲得しよう。さすれば、我々日本人は、国際的にも信頼を得て、協力者を得て、未来社会の建設の指導者になることもできる。

>「国体」の抱える欠陥と向き合うことは、日本のこれからを切り開くための鍵なのだ。

そうですね。言語のさらなる勉強が必要ですね。

> 白井聡(しらい・さとし)
> 政治学者、京都精華大学人文学部専任講師
>1977年、東京都生まれ。
>早稲田大学政治経済学部政治学科卒。
>一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。
>博士(社会学)。
>専攻は政治学・社会思想。
>『永続敗戦論 戦後日本の核心』で、石橋湛山賞、角川財団学芸賞、いける本大賞を受賞。
>近著に『国体論』(集英社新書)がある。
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白井聡氏 2/3

2019-06-30 23:35:15 | 政治

>――天皇の上にアメリカがいるという構図には、なるほどとうなりました。

序列社会の構図は、あくまでも序列体制ですからね。

>アメリカを頂点にいただく天皇制が「戦後の国体」であるという、この構図を導く際に示唆を与えてくれたのは、政治学者・豊下楢彦さんの「安保体制が戦後の国体になった」という分析です。>「天皇とアメリカは代替関係にある」と主張する社会学者の吉見俊哉さんの議論からも多くを学びました。>このふたつの視点をいれないと「戦後の国体」の姿は決して見えてこない。

そうですね。日本人の序列メンタリティは不変です。力士の序列を例にとりますと、外人力士と日本人力士は、代替え関係にあるようなものです。日本人には、何の抵抗感もありません。

>こうした先行研究を踏まえつつ、『永続敗戦論』以来思考を重ねたこの『国体論』では、現代日本の問題の本丸がどこにあるかを示しえたと考えています。

本丸は、日本語の階称 (言葉遣い) に基づく日本人の序列メンタリティにあります。

> 「唯一の被爆国」なのに核軍縮を拒む矛楯
>――戦前と戦後の「国体」の歴史を相似形として描いていますね。

日本語から派生する産物は、全て相似形になりますね。

> 明治維新を起点として「国体」、つまり近代の天皇制は形成され、いったんは安定をみた(大正デモクラシー)ものの、昭和初期になると日本を破滅的な戦争という破局に導いていった。

そうですね。序列体制には、理性判断がない。全てを上意下達でやる。上意とは、上に立つ者の恣意 (私意・我儘・身勝手) のことである。

>「戦後の国体」も、それと同じような三つの段階を踏んでいると考えます。
>今年明治維新150周年で、まもなく平成も終わりますが、2022年には戦前(維新~敗戦)と戦後(敗戦~現在)の長さが同じになります。 >それぞれの歴史を見てみると、明治の国体が「天皇の国民」であったのと同じように、戦後日本は占領された状態、「アメリカの日本」として始まる。

そうですね。日本人は、常に頭に冠を戴いていたことになりますね。

>しかし、その条件を利用して復興を果たし、経済大国へと成長する。>それは「アメリカなき日本」の時代であり、戦前では大正デモクラシーの「天皇なき国民」というつかの間現れた天皇制の支配が緩んだ時代と重なります。>ところが、戦前はその後、天皇制支配のハードな時代になる。>戦後もアメリカの支配を相対化できていたはずなのに、悲惨な見苦しい対米従属の国になった。

序列作法が緩やかなほど、民の活動は盛んになりましたね。

>それが現代です。>なぜそうなったのか。

日本人の序列メンタリティによる閉塞でしょう。

>戦前のファシズム期には「国民の天皇」という観念が現れますが、同様に、「日本のアメリカ」という不条理な観念を無意識に持つようになってきているからだと考えられます。

いずれにしても、自主性というものはありませんね。

>そのことがいま一番鮮やかに表れているのが核兵器に対する日本政府のスタンスの取り方です。 >「日本は唯一の被爆国」と繰り返してきたのに、反核平和団体がノーベル平和賞を取ったら全然相手にしない。 >アメリカが核軍縮をしようとすると「お止めください」と言う。 >つまり、ここには「《日本のアメリカ》の核兵器は日本の核兵器だ」という観念がある。

実に変わった考え方ですね。二人称の世界ですね。’日本語には “二人称” しかない’ と、イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本教について> の中で書いています。

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>――ふだん「国体」についてあまり考えたことのなかったという人にどう読んでもらいたいですか。> 自由を求めて自立する生き方ということを考えてほしいのですが、その出発点として、アメリカ崇拝がどれだけわれわれの無意識に入り込み、卑屈さを生んでいるのかについて自覚が生まれないといけない。

日本人には、意思がない。’自由’ とは ‘意思の自由’ のことなので、意思の無い人には ‘自由’ そのものにも意味がない。
序列社会には上意下達の習慣があって、我々は無意識に卑屈さを取り入れています。序列人間のわびしさですね。

>例えば大リーグの優勝決定戦。>あれはワールドシリーズと言います。>全米一決定戦なのに、世界一決定戦を自称している。

おかしいことは、何処の国にもあるでしょうね。

>そのことのおかしさを日本人は全然意識していない。

戦時中の ‘国民は、ただただ天皇の為’ ‘天皇は、ただただ国民の為’ という関係によく似ていますね。

>本当なら世界一決定戦を太平洋の間でヤレというのがスジというもの。>アメリカは応じないだろうけれど(笑)。>でも、それでも言い続けるのが気概というものです。

日本人には、自分自身の考えがない。だから、それを言い続ける意思もない。優柔不断・意志薄弱に見える。そこで、精神主義が必要になるのか。


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白井聡氏 1/3

2019-06-29 05:04:45 | 政治

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> 日本は世界に類を見ない特殊な「対米従属」の国である。

そうですね。’アメリカ大好き’ ですね。

>なぜそこまでアメリカを尊重するのか。>それは戦後の日本が「天皇の上」にアメリカを戴くという形で、「国体」を生き延びさせたからではないか――。

そうでしょうね。日本人の序列メンタリティ (考え方) のせいでしょうね。

>政治学者・白井聡氏は新著『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)でそう喝破した。>なぜそうした確信に至ったのか。>白井氏に聞いた――。
> 「日本を愛してくれるアメリカ」という幻想

これは、日本人の伝統的な幻想ですね。日本人の嬉しい幻想ですね。仲良く遊んでやーとくれ。

>――まず『国体論 菊と星条旗』というタイトルが衝撃でした。 >ふだん「国体」について考えていない日本人が多いと思います。 >なぜこのタイトルを。

それは、菊と星条旗は日本とアメリカ両国の象徴だからでしょう。

>ごく一般的に「国体」といえば、万世一系の皇統のことですよね。

序列メンタリティによれば、連綿と続くことはそれ自体が良いことだ。

>「国体」を護持するために命を捧げよ、という価値観に戦前の日本社会が覆われていたのは周知のとおり。

序列国家が序列人間を心理的に護るための考え方ですね。国家に連なる序列の中に自己の名前を差し挟むことにより、帰属意識が湧いてくる。これが、わが国の成り立ちです。

>敗戦をはさんで、戦後の日本では「国体」は死語同然となった。

そうですね。国体の名は、一般的には ‘国民体育大会’ の意味になりましたね。

>しかし、「国体」が本当に棄却されたなら死語で構わないのですが、じつは形を変えて存在する。 >これが重要なのです。

そうですね。’国体’ の言葉を抑えても、日本語から派生する ‘序列メンタリティ’ (考え方) は抑えられませんでしたね。

>占領をきっかけにアメリカが「国体」システムの中に入り込むことで「国体」は生き延び、今やアメリカが「天皇制」の頂点に立つものとなっている。

日本人は、あくまでも序列による秩序を求めていますね。外人力士の名前が、日本相撲の番付表に載るようなものですね。

><菊>を頂点としていた「国体」は、<星条旗>を戴いて戦後も生きているのです。>その結果が、世界に類を見ない特殊な対米従属です。

日本人の序列に依存する形式ですね。いくら外人力士が参加しても、日本相撲は国際相撲にはならない。

>日米関係において「思いやり予算」「トモダチ作戦」などエモーショナルな用語が繰り返し使われるように、「日本を愛してくれるアメリカ」という幻想がふりまかれてきました。

いつの世も、‘天皇は国民の為、国民は天皇の為’ ですね。’お前のお前’ すなわち二人称の世界は確立していますね。無哲学・能天気の人間は、感情・情緒に頼るしかないでしょうね。

>それらは、支配の現実を否認するための方便なのです。

‘心ここにあらざれば、視れども見えず’ ですね。日本人の世界のとらえ方は、英米人のとらえ方とは違っていますね。

>この「支配の否認」というゆがんだ心理構造の起源は、戦前の「国体」の概念を考察することで見えてきます。

そうですね。序列思考は、近代国家の形成には役立ちませんね。

>それによれば、天皇と臣民の関係は親密な「家族」であり、そこに支配は存在しない。

天皇はただ一心に国民のためをのみ思い、国民はただ一心に天皇のためのみを思う。

>そのように、支配の現実を否認させたのが戦前の「国体」ですが、戦前に作られた日本人のゆがんだ心理構造が横滑りするかのように、アメリカを頂点とする「戦後の国体」においても働いていて、それが日米関係を不健全なものとしているのです。

アメリカはただ一心に日本のためをのみ思い、日本はただ一心にアメリカのためのみを思う。はたして、これは成り立つか。それとも白昼夢であるのか。

>その影響は対外関係にとどまりません。>支配を否認している限りは、自由への希求も、抵抗する知恵も生まれてこない。

そうですね。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、’上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断は避けられません。こうした世俗的な上下判断に習熟していないと、日本語の日常会話にも不自由することになります。また、日本人の礼儀作法は、序列作法になっていますから、世俗的な序列判断の疎かな者は、礼儀正しい日本人にはなれません。序列感覚を喪失した日本人は、非国民と呼ばれて序列協力の対象外とされています。村八分は本当に恐ろしい。人を見損なってはいけないと言う想いは脅迫観念の域にまで高められて、日本人は四方八方に気配りをしなくてはなりません。どうか、いつも頑張ってください。

>つまり、「国体」のなかに生きる人間は「自己満足した愚かな奴隷」になるわけで、このような国民がまっとうな社会を作れるわけがありません。

我が国の国体は序列を基礎にして成り立っていますから、国体の中に生きることは序列の中に生きることになりますね。わが国には、奴隷制度がない。

>経済にせよ、政治にせよ、今の日本の末期的状態の根本原因はここにある。>だからこそ、今、「国体」を問う意味があるのです。

そうですね。日本語は、日本の末期的状態の根本原因でありましょう。


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隷属思考 3/3

2019-06-28 01:32:26 | 政治

>■欧米へのコンプレックスとアジアへのレイシズム
>國分:そこで白井君のビジョンを聞きたいのですが、日本国民はきちんと責任を取る近代的主体になるべきだと考えていますか。

主体になるべきでしょうね。しかし、日本人には意思がない。意思の無い人には、責任がない。だから、日本人が責任を取ることは難しい。

>『国体論』は近代的主体を肯定しているように見えると同時に、そういう安易な解決策を拒否しているようにも見えます。>この点についてどう考えていますか。

我が国の国体は、序列メンタリティで支えられています。近代的主体とは関係がありませんね。

> 白井:それは結局のところ、どのような政治秩序を目指すべきかという話になると思うんですが、僕はあまり「こうあるべきだ」という理想がないんです。

無哲学・能天気の人には、 ‘あるべき姿’ の内容は考えるのが難しい。

>アメリカやヨーロッパではデモクラシーが理想とされていますが、彼らのデモクラシーが今うまく機能しているようには見えません。 >それではデモクラシーが無理だからといって、中国やロシアのように権威主義でいけばいいかというと、こちらにも多くの問題があります。

そうですね。’ああでもなければ、こうでもない’ という論旨ですね。

> 政治について研究すればするほど、それに期待することが少なくなりました。 >まあ大体において政治なんてろくなもんじゃない。

あなたは、未来社会の建設には否定的なのですか。

> 重要なのは、政治ではなく、国民が元気でいられるかどうか、です。

田中角栄首相の時は、日本国民は元気でしたね。

>国民に元気さえあれば、政治はろくでもなくても、それなりの秩序を形成できると思います。

序列体制を励行すれば、国内の秩序は維持できますね。不自由を常と思えば不足なし。

>たとえば、中国の人たちと話をしていると、彼らの中にナショナリズムと非ナショナリズムが共存していることがわかり、すごく面白いんですね。>彼らは「共産党なんてろくでもない」と思っている一方で、「共産党しかない」とも思っている。

政治と日常生活は、分けて考えられているのですね。

>それで自分は何をするのかというと、自分の商売を頑張る。こういう発想なんですね。

それは、きわめて現実的ですね。政治は、未来 (非現実) を目指していますからね。なくても困らないのでしょう。

>これは「自民党なんていいとは思わないけど、自民党しかない」として自民党を支持している日本国民とは似て非なるものだと思います。

そうですね。序列社会の日本人は、非序列社会の中国人とは違いますね。日本人はあくまでも党派的ですね。

>日本の場合は政治に対してすごくナイーブなんですよ。> 実際、日本はそれをうまく利用され、支配されてきました。

日本人には、意思がない。常に受け身になっている。

>戦後の日本がアメリカの支配の中で受け取った価値観は、自由主義でも民主主義でもなく、結局のところ近隣のアジア諸国を差別する権利だったわけです。

上と見るか・下と見るかの判定ですね。非差別国民を作ることですね。

>こうしたコンプレックスの中にいるかぎり、日本の奴隷根性がなくなるはずがない。

強者と弱者の間に挟まって、大きくなったり小さくなったりして見せることですね。日本語の階称 (言葉遣い) に起因していますね。


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隷属思考 2/3

2019-06-28 01:10:53 | 政治

>■思考を奪う「国体」という病
> 國分:それは別の言い方をすると、そもそも日本は戦争に勝とうとしていなかったということになりますか。
>去年の夏にNHKがインパール作戦の番組を放映して話題になりましたが、イギリス軍がたとえば兵站(へいたん)でも合理的な作戦を立てて戦争に臨んでいたのに対し、日本軍は精神論で突き進んでいった。

優柔不断・意志薄弱な日本人は、戦争指導者にとっては歯がゆい存在です。そこで、精神を鍛える方法を思い付きます。武芸の稽古により動作の機敏な人間が生まれます。しかし、リーズン (理性・理由・適当) のある人間は、育ちません。

>合理的な作戦を立てている軍隊に対して精神論で挑んでも、勝てるはずがない。

そうですね。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

>これを見るかぎり、日本軍が本気でイギリス軍に勝とうとしていたようには思えない。

英米人には、リーズンがある。日本人には、それが理解できていない。

>日本は最初から戦争に勝とうとしていなかったから、実際に負けたときにも、負けたことに対して何とも思わなかったのではないかという気がします。

そうですね。全ては、’やってみなくては分からない’ という程度の悪さですね。洞察力がない。

> 白井:負ければ大変なことになる、そして現実に敗色濃厚になりつつある。>それらは自明だったわけですね。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は全く無い。楽ちんである。

>そうなると、もうそんな現実は見たくない、というメンタリティではないでしょうか。

そうですね。他力本願・神頼みですね。指導者の責任のことは、考えられない状態になっていますね。

>そういう意味では1945年の敗戦以前に「敗戦の否認」をしているのですね。>「国体護持」を唱えながら、国を真剣に守るという思考が停止していたのです。

国は敗れても、国体は守る。親分・子分の上下関係だけは、維持しています。

>で、敗戦の事実が確定した後にも、それをだらしなく続ける。>だから、関係者たちの責任が放置され、今日でも追及が甘い。

この国がひっくり返った時にも、その責任者は出なかった。

>インパール作戦では、作戦を立てた牟田口廉也(むたぐち れんや)の責任は極めて重いわけです。 >この点についてはインパール作戦を検証する番組などでも論じられます。 >しかし、牟田口が戦後も何の罰も受けずに天寿を全うしたことはほとんど取り上げられません。 >彼はあれほどひどい作戦を遂行したのに、畳の上で死んでいるんです。>そのことには全然光を当てない。

そうですね。日本の闇ですね。

>これは731部隊もそうですね。 >731部隊が戦時中にいかにひどいことをやったかについては何度も論じられているので、そのことは広く知られているわけです。 >だから今日では、731部隊の連中が戦後も活躍し、ついには薬害エイズ事件まで引き起こしてしまったということに関心を向けさせるべきです。

そうですね。人道上の罪ですね。


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