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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

7つの理由 3/3  

2021-04-29 20:22:57 | 文化

>どこかで見たような内容だし、教科書の穴埋めだしで面白いはずがないんです。>どうやって学問にのめり込めば良いんだよ。  

 

哲学が必要ですね。政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。歴史に関する考えは歴史哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。   

大学に進学して自己の哲学を作る方法を学ぶべきですね。哲学の作り方を習得すれば、学士・修士・博士と進むことが可能になります。このようにして、学問にのめり込むことができます。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

>友だちと話す以外に何を楽しみに学校に行けば良いんですか? >もはやランチだけを楽しみにしてるOLと同じですよ。 >もっとこう「俺だからこんなこと教えられること」みたいなその人にしかない授業をやってほしいよね。>教科書なんていらないから、その先生だからこそ教えられることを教えて欲しかったなぁ。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)   

 

>〇理由その7「レベル間を合わせようとする」  >別に個別指導にしろっていわないけど、「みんな一緒!」って教育はそろそろ終わりにして欲しいです。  

 

そうですね。個性の尊重は大切ですね。   

 

>できる人とできない人、得意な人と苦手な人を一緒にするなら一緒にするでやり方を考えて欲しいよね。>どのレベルの人も一緒くたにいして、先生が教えるやり方はもう古いです。し、面白くないんですよ。 >どっちの立場も。

>わかる人にはわかってることだから面白くないわけだし、わからない人にはさっぱりだから面白くない。>で、中間層だけだ「ふむふむ」って感じになる。>得する人少ないでしょ。 >だったら、レベルを別けるなり、できる人ができない人を教える感じにするなり工夫をして欲しいですね。  

 

だったら Tutorial (個別指導時間) がよろしいですね。   

 

>「みんな一緒!」なんてのはNHKの子ども番組くらいでいいです。>学校はもっと工夫をして欲しいですね。 

 

そうですね。工夫をすれば何でもできる。それには受動ではなく能動の作業が必要ですね。      

 

>———————————   

 

 

 

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7つの理由 2/3  

2021-04-29 20:08:37 | 文化

 

>できないこと矯正所は、塾とか習い事だけにしてほしいです。>学校はもっと「できること」を伸ばせる環境であるべきだし、誰かとコミュニケーションとったりとかする場所だと思うんですよ。  

 

そうですね。我々には議論・対話が必要ですね。   

 

>ダメなところばかり指摘されたらたまったもんじゃないです。    

 

それではケチの付け合いになりますね。目の付け所が適当でない。      

 

>先生だってできないことあるんだから、できないことの一つや二つできないくらいで「できないからダメだ」「できないからできるようになれ」なんてやめて欲しい。  

 

駄目よダメダメばかりでは立つ瀬がありませんね。   

 

>〇理由その4「受験校を押し付けてくる」 >僕はこれが一番「イラ」っとしました。 >「なんでてめぇなんかに僕が受験する高校とか、大学を押し付けられなきゃダメなんだよ」って思ってました。 >というか、今でもそういう人を見るとそう思ってます。 >自分の考えが正しいとでも思ってるのか?   

 

そうですね。考えの内容は人様々ですからね。   

 

>それとも学校の知名度とか、自分の成績のためなのか知らないですけど、押し付けるのは勘弁して欲しい。 >人の人生に100%の責任を持てるのなら、押し付けてもらっても構いませんけど、その覚悟がないなら押し付けないでいただきたい。

 

日本人には意思がない。能動が無く受動ばかりの行動になる。だから、目上の者の発言は全て押し付けになる。   

 

>先生は、「こういう選択肢もあるよ」とか「こうしてみたらどうだろう?」とかアドバイスをするべき人なんじゃないんでしょうか?

 

そうですね。先生はあらゆる選択肢を並べて学生に見せると良いですね。   

 

>〇理由その5「学生の興味を学問の視点からしか引き出さない」 >学校の先生ってなんで受験と関わる勉強からしか興味を引き出そうとしないんですかね? >大学の学部とか将来の職業とか。 >もちろん大学に進学したい子が「どの学部を受験したら良いのかわからないんですよぉ」って聞いてきたのなら良いと思うんです。   

 

そうですね。     

 

>けど、大学進学に興味ない生徒とかにさえも「どの教科が好きなの?」とか聞くのはどうかと思うんです。 >もっと聞き方あるだろ!って思うんですよ。 >合コンとか婚活でももっと上手く引き出しますよw >学生にとって受験はたしかに必要かもしれないですけど、受験ありきで話をするのもどうなんでしょうか?    

 

卒後の人の進路は様々ですからね。   

 

>受験だけが人生じゃないわけだし、受験じゃない道を示してあげることも先生としての役割なんじゃないかな?って思うのは僕だけでしょうかね?   

 

それは、あなただけではないですね。   

 

>〇理由その6「とりあえず授業が面白くない」 >いやこれはマジで面白くないです。>大学も、高校も、中学校も、小学校もどこも面白くない。

 

日本人の思考停止が祟っていますね。

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。

 

>会社でいえば、どの部署に行っても仕事が面白くないってことですよ。 >そりゃブラックでしょ。 >だってですよ。>教科書つかってそのまんま教えてるだけなんですよ。>何が面白いんですか? >テストも同じ感じ。  

 

そうですね。暗記力万能のテスト社会ですね。   

 

 

 

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7つの理由 1/3  

2021-04-29 19:44:45 | 文化

>「学校に行きたくない」はむしろチャンス | メイン | >20210423

>学校をブラック企業のように感じる7つの理由 >成績至上主義、理不尽な支配関係、勉強の強制・・・学校をブラック企業に例えることがありますが、子供たちにとってはそれ以外選択肢がない、という点ではブラック企業よりもたちが悪いと言えそうです。>普通の感覚ならおかしいと感じることも、通っているうちに当たり前になってしまう・・今回はそんな学校に対する違和感を取り上げてみます。

> にほんブログ村 子育てブログへ >以下(https://tou-tou-tou.com/archives/2382)より引用します。

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>〇理由その1「成績上位者だけ讃える」 >この文化はどこの学校にもあると思います。>「成績がすべてだ!」みたいな感じ。>先生によっては、成績がいい子と成績が悪い子への対応がまったく違う人もいて、うんざりしました。>で、勉強ができればいいんですよ。>彼らは。 

 

先生はそのために雇われているのですからね。  

 

>「スポーツはできるけど勉強はちょっと・・・」とか「調理実習、裁縫はできるけど、勉強はちょっと・・・」っていう子は、あんまり褒めないんです。 

 

誰にも得意・不得意がありますね。

 

>何か一つでもできたらいいじゃんって思っていた僕にとっては、「勉強こそがすべてだ!」って思ってる先生は最悪でしたし、学校にそういう雰囲気があると、もはやブラック企業だとしか思いませんでしたね。 

 

そうですね。個性を無視した励みはブラックな感じですね。    

 

>〇理由その2「ダメなやつの人間性を否定する」 >ダメなやつっていうのは、勉強できなくてダメなやつです。

 

序列制度では、順位の低いのはダメな奴ですね。オリンピック・ゲームでは個性の比較をしていますね。ですから人間性を否定したことにはなりませんね。     

 

>勉強できないってそんなにダメなんでしょうかね?ってよく思うんですけど、先生たちはよく思っていないようで。

 

先生方は順位付けが役割ですね。それが彼らの身の上ですね。   

 

>個人的には勉強って大学とか高校に入るためのツールというかスキルでしかないと思っていて、本人が音楽が好きなら音楽をやれば良いし、スポーツで頂点狙うならそれでも良いと思うんですよ。

 

そうですね。好きこそものの上手なれですね。自分の好きなことに全力を投入していれば自己実現も可能ですね。芸術のような非言語の世界ではこれが可能ですね。      

 

>でも、学校というか先生はそれを認めてくれないんです。 >(たまに認めてくれるぶっ飛んだ感じの先生いますけどねw

 

そうですね。言語の世界は没個性の教育ですからね。個性を踏みにじられた学生たちは取得がないですね。      

 

>偏差値至上主義というか、勉強できないやつなんてこれから生きていけないとまでいう先生はホントありえなかったです。

 

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがあります。ですから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるいうのも云うのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでくまなくつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティ (考え方) を有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。     

 

>もはやブラック教師ですね。 

 

そうですね。ブラック国家のブラック教師でしょうね。   

 

>〇理由その3「できないことはダメとする考え方」 >学校はできないこと矯正所なんですか逆上がりできないとダメ、九九できないとダメ、作文かけないとダメ、英単語覚えないとダメと「お前はこれができないからできるようになれ」ばっかりです。  

 

それは減点主義ですね。   

 

>これが学校のあるべき姿とは思えないんですよ。 

 

各人の個性を伸ばす方針がないですからね。   

 

 

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愛国心のあり方 5/5  

2021-04-29 01:46:51 | 文化

 

>日本でもフェミニズムや男女平等などに対し、西洋のロジックを押し付け、自分たちのローカルな文化を無視して暴力的に無くす存在だと主張する声があります。

 

気分・雰囲気’ 対 ‘ロジック’ の戦いですね。 

 フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to beに当る適当な動詞がない。”beingとか   “realityのような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り) 

 

>アメリカのQアノンにも似た状況がある。>難しい問題ですね。>(以下引用) >※M+...香港に新設される現代美術館。 >著名なアーティスト・艾未未(アイ・ウェイウェイ)氏の展示予定作品のうち、北京の天安門に向けて中指を突き立てた写真などが『国家安全維持法に抵触する』などと批判された。 >(以上引用) >© ハフポスト日本版  >伯川: >おっしゃる通りです。>日本にいる中国人留学生のなかには、海外に来てまで『中国のやり方こそが正しい』と証明したくてたまらない人も見受けられます。     

 

彼らの祖国中国は、中華思想の本場ですからね。彼らにはその歴史的背景に自信がありますね。来るべき世界の内容は想定外になっている。        

 

>これは日本人においても同じように見えます。>ネット右翼関係でなぜ話がこじれるかというと、彼らは『自分たち』と『あなたたち』を分けるんです。>そして『あなたたち』に分類されると絶対正しくないと言われる。>反日だ、韓国人だと。  

 

自分たち’ と ‘あなたたち’ の喧嘩ですね。喧嘩をする為には議論する必要があるのか、それとも議論をすると喧嘩になるのか。もちろん議論は付け足しでしょうね。         

 

>もちろん自分なりの価値観はあります。>ただ相手の言い分も尊重するとか、『自分はこう思うけど、絶対的な答えもないよね』というのが今のグローバル社会の学習の一環かと思います。

 

そうですね。正解は常に一つとは限りませんからね。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示しています。  

 

>藤田:>『我々』と『敵』に2分法して、『我々が正しく、信じない人は敵だ』と分けて動員する手法はどこの国にもあると思います。>アメリカの陰謀論者もネット右翼もそう。 >右派だけでなく左派にもそういう人たちはいます。  

 

そうですね。正と反に分けるのは討論会の形式ですね。討論は反対派を撃退する常套手段ですからね。   

 

>自分たちが絶対善になり、不遇さや問題は全部相手のせいにしてしまうと、心理的に倫理的にも楽なんですよ。 >でもそれは全く事実ではない。 

 

絶対善は現実直視を避けることによって個人が安堵を得る方法ですね。現実から逃避する情けない方法ですね。     

 

>中国の場合、批判を検閲などで抑え込むことによって、自分たちが絶対が正しい国と全体で思い込んでいるのだとすると、社会心理学的にはちょっと病的なことになりかねません。 

 

そうですね。中国には焚書坑儒の伝統がありますからね。中国人には何としてでも現実を支配しようとする飽くなき執念がありますね。       

 

>自分が思っている姿と周りの反応が違うと、ストレスを受けますよね。>例えば『自分は天才だ』と思ってモノを書いて発表しても周りから全然相手にされなかったら、傷つくかショックを受けますよね。>「俺は本当は天才なのに、認めない社会が間違っている」「社会が悪に洗脳されているから評価されないのだ」「正してやらなければいけない」などとなっていくと、危険です。>『自分が絶対正しい、理解されないのは不正があるか何か悪がいるからだ』というパターンは全世界で繰り返されています。>それに対する反省も広がってきていますが、まだ十分には生かされてないようです。>相手の価値観を尊重しないこと自体が危なさであると思います。    

 

そうですね。凡人が ‘唯我独尊’ でいる時の危うさですね。     

 

>※後編へ続きます

(略)   

 

 

 

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愛国心のあり方 4/5  

2021-04-29 01:21:22 | 文化

 

>愛国を宣伝する中で「日本民族は」という言葉が出てきます。>しかし日本だって単一民族ではないですよね。

 

我こそは日本人だ’ ということでしょうね。自己中心的ですね。       

 

>ただ島国だからか、『自分』と『外』を作って内側だけが愛国者になりえて、外の人は全然違うとしている。

 

内外を隔てるのは日本人の常ですね。相対的な敬語を使う民族のメンタリティでしょうね。よその人は外人に通じていますね。だから非国民です。              

 

>外の考えで日本を測ろうとすると、それは反日だと言われる。>そういう構造はあると思います。

 

そうですね。‘井の中の蛙 大海を知らず’ですね。我田引水でなくては反日になりますね。   

 

>藤田:>それはありますね。>例えばフェミニズムは海外から来た思想だから日本には合わないとか、上位者に異論を唱えることが封建的な価値観に逆らうから反日だと言われることは十分にあると思います。

 

それは、礼儀正しい日本人からの見方ですね。 正当か不当かの判定ができないでしょうね。       

 

>伯川:>大阪で香港に関するトークをしたら、(中国人)留学生の方がいて口論になったことがあります。 >彼ら曰く「欧米の価値観で中国で測るな。>その価値観は中国を批判するために生まれたもので、中国は絶対悪になるからやめろ」ということでした。>そういうわけではないし『普遍的な価値観で中国を見るとこういう問題ありますよね』と話しても、中国の愛国者にとっては受け入れられないことなんですよね。

 

そうですね。中国人には中華思想が絶対に必要ですからね。    

 

>藤田:>中国を批判するために生まれたわけではないですよね。>『あいちトリエンナーレ』という展示会で(昭和)天皇が燃える写真や従軍慰安婦を思わせる作品があり、愛国者を名乗るネット右翼が炎上させました。 >© ハフポスト日本版 >香港の現代美術館『M+』でも、締め付けが始まりそうな気配があるというニュースを見ました(※)。 

 

締め付けておかないと、国家のタガが外れてしまいますね。   

 

>ヨーロッパの基準では政府批判のアートはいっぱいあります。>一方で日本では法的には合法で全く問題ないにも関わらず、問題があると感じた人が大勢いました。>ナショナリズムやシステム(への忠誠心)とは違う情緒的な問題は日本にもあるということです。

 

そうですね。日本人も討論 (debate) には興味がないですね。思考を停止していますからね。議論がなくて、我田引水がある。だから炎上する。    

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。思慮ある人は ’純粋によく観察する’が、凡人は ‘期待したもの’ しか見ようとしない。

 

>おそらく中国でも同じだと思いますが、普遍的価値=グローバリズム=西洋のローカルな価値なのか、それとも本当に人類の普遍的な価値であるべきなのかは議論になっていますよね。

 

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

 

>中国の立場から考えると、西洋からローカルなルールを勝手に押し付けられ、植民地支配をされ、傲慢な暴力を受けているという主観になるのはわからないでもないのです。

 

そうですね。中華思想が西洋により踏みにじられましたね。自己中心者の恨みですね。       

 

 

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