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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学歴病

2018-10-17 12:57:48 | 教育


>●希望の会社に安住して失速~「勝ち組」にも根を張る学歴病~
>(略)
>大前氏は、偏差値教育により、多くの人が「自分の“限界”を意識して、それ以上のアンビションや気概を持たなくなってしまった」と述べている。

そうでしょうね。偏差値教育は、序列人間の製造装置ですからね。思考停止と暗記力で限界が見えています。自分の序列が定まれば、あとはアンビションや気概には縁がない。

>このことは、若者が希望の会社に入った後についても言えると筆者は思う。>たとえば、準大手・中堅の出版社に入った人の中には、その後何らかの理由でやる気を失い、失速したと思しき人が数人いる。

この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけがない。未来のことは、未来時制が存在しないと考えられない。ところが、日本語文法には、時制というものがない。だから、日本人は、未来の世界を筋道立てて考えることができない。未来の世界を脳裏に構築できないからです。

>筆者が専門学校で教えていたときに感じた限りでは、その中にはもっと大きな舞台で活躍できそうな力を持つ人が2~3人いた。

‘なんとなく’ でしょうね。

>しかし彼らは、自らの“限界”を意識し、それ以上の野心を持たなかったことで、失速してしまった可能性がある。

‘少年よ、大志を抱け’ ですね。日本人の場合は思考停止の中にあって、野心の限界は序列の限界により決まるようですね。現実は頭の外にあり、見ることが可能である。考え (非現実) は頭の中にあり、見ることができない。見ることができるものは ‘本当’ の事であり、見ることのできないものは ‘嘘’ である。だから、考えの内容は思考停止となっている。

>本当に学歴にこだわるならば、「俺は一流大卒。一流の出版社に行くのがふさわしい」と自らを果敢に売り込んで、さらに大きなステージに転職するという方法もあっただろう。

学歴は、人間の序列順位ですね。実力ではありませんね。転職は、既存の序列を離れることになり危険ですね。

>一流大卒が多いテレビ局や全国紙に進んでもよかった。

IT時代になっては、テレビ局・新聞社には未来がないですね。

>企業規模の大小では一概に語れないものの、一流の人材がそろう会社にいかないと、自他ともに認める一流の人材になることは難しいのではないか。

‘寄らば大樹の陰、中小企業よりは大企業’ ということですか。もっと、自主・独立の気概が必要ですね。独自の発想により起業する必要があるでしょう。

>しかし、彼らのほとんどが、40歳を前に現在の職場に安住しており、中にはやる気を失っていると思える者もいる。

日本人には、意思がない。だから、優柔不断・意志薄弱に見える。このように状態を見て、精神を鍛える必要があると感じる人が多い。恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。精神主義の道を選びます。精神主義は、先の大戦で大きな力を発揮しました。これで、人間の動作は機敏になるが賢くはならない。

>「高い偏差値の大学を出てそこそこの会社に入ったのだから、野心を持って失敗し、今の自分に見合わない場所で厳しい働き方をするのは嫌だ」というプライドも、背景にあるのかもしれない。

日本人には、意思がない。彼らは、大人になれば自分の序列順位に安住していますね。彼らには世界観 (world view) というものがないので、お変わりのないことが何よりなことです。もし自分に意思があるならば、失敗しても後悔はしない。

>10年ほど前に、懸命に就職活動をしていた頃の姿を知るだけに残念で、さびしい気がする。

そうですね。無為無策で、座して死を待つ姿か。‘少年よ、大志を抱け’ ですね。脳裏に、未来時制を使った未来社会の展開が必要です。英文法には時制 (tense) というものがあるので、それが可能です。ですから、日本語と英語の勉強に励みましょう。

>ここにも、「学歴病」の症状が見える。

学歴病は、序列病の一種ですね。学歴がなくても序列は存在します。序列社会の宿命ですね。

>日本の成長を議論するときに、欠落している視点ではないだろうか。

そうでしょうね。日本人には意思がない。
学歴病は序列病原体により発病し、日本人は常に序列順位を求めています。日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。人間の序列順位を心得ていないと、日本語を自由に話すこともできません。また、礼儀正しい日本人もなれません。日本の成長を議論するときには、日本病の視点は欠かせませんね。


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江戸と明治

2018-10-15 09:56:09 | 教育


>転載開始
>今日はこれまでのメルマガとは趣を変えて、江戸と明治について書く。>江戸と明治は、現在の政治状況を語るときに折に触れて出てくる。>重要な概念である。>なぜ重要なのか。>さしあたって3点を指摘できる。
>1 明治も江戸も、政治的にも文化的にも現在に生きている。

そうですね。相変わらずの日本語メンタリティですからね。

>2 現在の日本の政治は長州汚職閥の政治である。

談合の得意な政治家たちに汚職は避けられませんね。

>3 長州には李氏朝鮮の影響が深く影を落としている。

李氏朝鮮は、日本にとって大切な隣国でしたからね。

>遅れた江戸に、開明の明治。>そして「維新」という言葉自体がもつ洗脳力。>これによって、明治は善であり、近代であり、文明開化ということになった。>これは戊辰戦争に勝った薩長史観であり、司馬遼太郎や犬HKによって作られた史観だ。

そうですかね。それは、気分・雰囲気の問題ですかね。

>薩長にはそうしなければならない理由があったのである。>明治維新は、薩長の下級武士たちによって起こされたクーデターであった。>それは革命ではなかった。

日本人は、無哲学・能天気ですから、革命は不可能でしょうね。恣意による腹芸のようなものかもしれませんね。おかげで、溜飲を下げた。

>だからかれらは維新後に政権をたらい回しにし、明治時代になんと14人の総理のうち、8人が長州人であった。

日本人は、なーなー主義ですからね。内輪・内輪で話が進む。政治家と言えども声明・議論は得意でない。

>明治維新によって中央集権化され、長州汚職閥の政治が権力を握ることで、太平洋戦争敗戦後の日本の植民地が決まった。>なぜなら長州汚職閥の政治(岸信介)は戦犯免責と売国を取引したからである。

岸信介は、アメリカのエイジェントになっていたようですね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>現在は小選挙区比例代表並立制と内閣人事局によって、岸の孫のアホぼん三世こと安倍晋三が独裁を築いてしまった。>日本は、米・朝支配の実質的な植民地になってしまった。

日本の政治家には、自主性というものがないですからね。

>こう考えると、悪としての後れた江戸に、善としての開明の明治というのは、どうも捏造のようである。

そういうことになりますかね。

>江戸時代を知るのに、もっともいいのは、来訪した外国人の言説を辿ることである。>驚くべきことは、外国人の国も年齢も性も違っても、一様に江戸の民度の高さに感嘆していることだ。

意見は、各人各様ですからね。いろいろなものがありますよ。以下は、私の ’精神的なもの’ からの引用です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>渡辺京二氏の前掲書『逝きし世の面影』に何人もの西洋人の日本人観が紹介されています。>三つ選んで、以下に引用します。
>■バード(Isabella Lucy Bird 1831-1904 旅行家・探検家『日本奥地紀行』、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性)>「(日本人の)最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は拒否する」

そうですね。日本人の最高の信条は、処世術ですね。

>■ オールコック(Rutherford Alcock 1809-1897 初代駐日英国公使 主著『大君の都』)>「(日本人は)崇高な原理やロマンチックな幻想や活動的な没我的信仰によってすこしも啓発されない、本質的に下劣」であって、「かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去3世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、非常に低い位置におかなければならない」

そうですね。わが国には何でもあるが、ただ、夢と希望だけが存在しない。知的かつ道徳的な業績が存在しない。

>■ ブスケ( Georges Hilaire Bousquet 1846-1937 1872明治5年から76年まで司法省顧問として在日した仏人)>彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、おなじく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。

日本の精神主義は、彼らのものと違いますね。

以上で ‘精神的なもの’ からの引用終り。

>かれらの多くは母国で日本を紹介し、書物にもした。>それを読んで日本に来る者もいたのだから、いい加減なことは書けなかったはずだ。>それが絶賛に近い書き方をしている。

そうですね。考え方は人によりけりですからね。

>わたしたちには黒船でなじみのマシュー・カルブレイス・ペリーも、次のように日本を認識していた。>実際的および機械的な技術において、日本人は非常に器用であることが分かる。>道具が粗末で、機械の知識も不完全であることを考えれば彼らの完璧な手工業技術は驚くべきものである。>日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にもいつまでも後れをとることはないだろう」(『ペリー提督日本遠征記』)

さすが、彼の見識は高いですね。彼の指摘した日本人の特質は、今も昔も変わりませんね。

>日本人の器用さ、その器用さから生まれる「完璧な手工業技術」。>それにペリーは驚いている。

そうですね。目先手先に精神を集注させる技術に日本人はたけていますね。

>「日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にもいつまでも後れをとることはない」と断言していることは、さすがである。

彼の洞察力は素晴らしいですね。おかげさまで、わが国は技術立国になり経済大国にまでなりました。

>この江戸時代の徳川政権のままに、長州に任せずに進んだ方が日本は幸せだったのである。>少なくとも長州の暴力主義と対外膨張策による日清、日露、大東亜戦争はなかっただろう。

タラレバの話ですね。きりがない。

>またペリーは、江戸の教育の高さにも驚嘆していた。>下田でも函館でも印刷所を見かけなかったが、本は店頭に並んでいた。>たいていは安価な初歩的実用書、通俗物語や小説だった。>人々は全般的に読み方を習っており、情報収集に熱心なので、明らかに本の需要は大きかった。(同書)

‘読み書き算盤’ の普及ですね。処世術は発達したが、聖人・君子のいない国です。

>アジアにやってきて、本屋を見つけたことは衝撃だったにちがいない。>なぜならそれは庶民が本を読めることを物語るからだ。

一昔前までは、日本人は世界一新聞好きな国民でしたね。

>「人々は全般的に読み方を習っており、情報収集に熱心なので、明らかに本の需要は大きかった」と冷静に書いているが、心中穏やかではなかったはずだ。>それはこれから交渉する幕閣の見識の高さを予想させるからだ。

見識の高さも処世術 (現実) どまりですね。哲学 (非現実) にまでは及ばない。

>さらには日本を植民地化することの困難さを物語るからだ。

誇り高い日本人には、植民地は似合わない。敗戦も良くない。

>本といえばこのような証言もある。>デンマークの海軍士官のエドゥアルド・スエンソンは幕末に日本にやってきた。>そして見聞録を書き上げた。

新しい東方見聞録ですね。

>(日本の 注 : 兵頭)科学の分野が幼児期の段階にあるなどとは決していえない。>ひとつには日本人自身の努力のおかげで、またオランダ人によって日本へもたらされ、日本語に翻訳された数多くの西洋科学書に関する知識がそなわっていたことが理由としてあげられる。

今も昔も一方的なわが国の知識の吸収ですね。

>私の日本滞在中、あるフランスの将校が江戸の本屋で、ナポレオン一世に関する詳しい書物を発見した。>それはオランダ語から翻訳され、うまく活写された皇帝の肖像で飾られていたという」(『江戸幕末滞在記』)

わが国における蘭学の発達ですね。自己慶賀の材料には、事を欠きませんね。

>日本人には「オランダ人によって日本へもたらされ、日本語に翻訳された数多くの西洋科学書に関する知識がそなわっていた」。>もっとも驚くのは、「私の日本滞在中、あるフランスの将校が江戸の本屋で、ナポレオン一世に関する詳しい書物を発見した」という証言だ。>オランダ語から日本語に翻訳された書物だった。>これは日本人の、外国への好奇心の強さと、ある程度の外国情報を得ていたことを物語る。>鎖国といっても、武士はもちろん庶民までもがある程度、外国の事情まで知っていたのである。>日本人が情報に敏感なこと、熱心なことは、いろんな外国人が書いている。

そうですね。処世術の発達ですね。でも、政治音痴も共存していたでしょうね。

>その前提の識字率が江戸で8割ほどもあり、武士たちに限れば10割だった。文武両道といって、武は文(知性)と一体のものと考えられていたのである。

確かにわが国は、西洋人の植民地には向いていないようですね。

>以上転載終了


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精神力

2018-10-13 13:27:11 | 教育


(略)
>敵に向かってとにかく前進、相手を粉砕して陣地を占領という状況では、まず必要なのは精神力になります。

そうですね。日本人には意思がない。だから、おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。精神力の必要性は、明らかであります。そこで、思考停止と暗記力を活用して、洗脳 (皇民化) 教育により筋金入りの人間を育てる。その結果、動作は機敏になるが賢い人間にはならない日本人が生まれる。

>兵卒で言えば、敵に攻撃されても逃げ出さないということ、下士官以上の指揮官で言えば、戦場で兵士たちをまとめ、殺されるかもしれないような場所で自分の思い通りに動かすこと……はっきり言って理屈もへったくれもない世界です。>ですから陸軍ではまず、精神力を身につけること、指揮官の指示には必ず従うことを文字通り身体に叩き込まれるのです。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意を鍛えて、意地・根性・大和魂などとする。これが、わが国の精神主義である。先の大戦で、精神主義は大きな力を発揮した。戦争に負けた時、’我々はアメリカに物量作戦で負けた。だが、精神力では勝っていた’ と日本人は言った。

>対する海軍ですが、当然ながら精神力や根性では船は動きません。>必要なのは、どこをどうすれば自分が担当する機械をうまく扱い、力を出させることができるかという技術、うまくいかない場合はどうすれば解決できるか筋道を立てて考えることができる力です。

そうですね。筋道を立てて考えられると良いですね。

>ですから海軍では、問題を様々な角度から客観的に検討できる視野の広さや、主観にまどわされずに最善の方法を探る論理的能力が教えこまれます。

日本人の‘主観に惑わされず’ には、限界がありますね。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>こういう「必要とされる資質」と「資質を育てるための教育」の違いが、陸軍精神、海軍精神というものを生み出し、のちに軍そのものの動きまでも左右するようになっていくのでした。

陸海軍間の協力の欠如。省益あって国益なし。序列社会 (縦社会) の弊害ですね。’必要とされる資質’ の不確かさと、’資質を育てるための教育’ の非理性が、我が国民を奈落の底に突き落としたのでしょう。



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暴力指導

2018-10-12 18:29:13 | 教育



>日本のいたるところで、ダイナミックな「暴力指導」が次々と明るみとなっている。>なぜ我々の社会は「暴力指導」を止められないのだろうか。

日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意では、暴力指導は止められない。
意思は、未来時制の文章内容になる。文章になるものには、意味がある。恣意は、ばらばらな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味も無ければ矛盾もない。そして、暴力指導の釈明にもならない。

>答えは明白で、「人間が成長をする上で、ある程度の暴力は必要」という「幻想」というか「妄想」にとらわれている方が思いのほか多くいらっしゃることが原因だ。

日本人には自分自身の考えというものがない。’あれではいけない・これではだめだ’ という。否定形による反応が指導原理となっている。それが文章にならないで暴力の形をとって現れる。自分の正解を相手に話せるようであれば、暴力を使う必要はない。

>軍隊のマネジメントを取り入れた「軍隊式教育」>暴力指導は悪いことだと頭では理解しているが、どうしても子どもに手を挙げることが止めれない――。

‘わかっちゃいるけど、やめられない’ ということか。スイスイスーダララッタ~

>薬物中毒患者の禁断症状を思わせるような話だが、この70年前の人々と全く同じことを、先日、謝罪会見を催した速見コーチが言っている。>「指導9年目になるんですが、最初のほうは危険が及ぶ場面で、たたいてでも教えることが必要だと思っていた。>ここ数年はよくないって分かっていながらも、我慢できずたたいていたのが数回あった」

歌の文句じゃないけれど、口で言うより手の方が早い。恣意の行為に身を任せていますね。意思がなければ、そうなるより仕方がないですね。意思のあるところには、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.

>「気持ちが入っていない時、危ない時にたたかれていた。>当時はそれに対し、教えてもらえたという、むしろ感謝の気持ちを持ってしまっていたので、そこが自分の根底にあった」

調教風ですね。文章を使わない調教ならアニマルにも通じます。動物虐待で告発されるかな。

>実はこれは暴力指導の本質を突いている。>体罰を受けながら一人前の選手に成長をした速見氏は、頭では「今の時代、体罰はダメだ」と理解しながらも、我慢できずに女子選手を張り倒したり、髪を引っ張ったりした。>暴力やハラスメントで一人前になった人にとって、それを全否定することは、自分がこれまで生きてきたことを否定することになってしまうからだ。

せっかくの貴重な経験も ‘役立たず’ ですね。

>あの経験があるから今の自分がある。>そういう思いが強くなればなるほど、人は自分が受けた暴力やハラスメントを、愛する人に再現する生き物なのだ。>それが日本の伝統的な子育てなんだからしょうがないだろ、と思う人もいるかもしれないが、実はそうとは言い難い。

さあ、それはどうですかね。

>実は戦時中に「一人前の大人」となった人たちは、これまでの日本の伝統的教育とかなりかけ離れた教育を受けている。>それは、軍隊のマネジメントを取り入れた「軍隊式教育」ともいうべきものだ。

集団として、てきぱきと行動する訓練ですね。

>きっかけは、1885年に文部大臣・森有礼が始めた教育改革だった。>森は愛国者で、教育に、愛国的思想を大きく取り入れたことでも知られているが、一方で、後のラジオ体操にもつながる「兵式体操」を学校に導入したり、教師を目指す若者を寄宿舎に押し込んで、厳しい上下関係のもとで規律を学ばせたりという、「教育現場の軍隊化」を進めたことでも有名だ。

上下関係を使って規律を守らせることは、日本人には比較的容易なことでしょうね。

>運動会、前へならえ、整列行進、そして暴力指導……現代日本にも残る学校の「軍隊臭」はこの教育改革の賜物なのだ。

そうでしょうね。日本人は、何事につけても型に嵌らないと自己の行動に自信が持てませんからね。

>なんてことを言うと、「そんな昔の話を現代に結びつけるな、この反日左翼め!」と怒る方がたくさんいるが、「そんな昔の話」がいまだに我々の「常識」として脳みそにこびりついていることを示す証拠は枚挙にいとまがない。

我々の脳みそは、今も昔も変わらない日本語と結びついているからではないでしょうか。

>暴力指導の本質は「信仰」では、なぜそこまで渡辺は子どもに「軍服もどき」を着させることに執着したのかというと、親交の深い、森有礼の影響だと言われているのだ。
>130年以上が経過しても、いまだに我々がなんの疑問も抱くことなく、当たり前のように子どもたちに軍服を着させていることを踏まえると、平成日本の教育現場も、当たり前のように「軍隊」をひきずっていると考えるのは当然なのだ。

‘人のふり見て我が振り直せ’ と言うことかな。これは、わが国の処世術でしょう。

>森が目指した「教育現場と軍隊の融合」。>その是非はさておき、どういう結果を生むかだけは明らかだ。>それは、世界中の軍隊でたびたび報告される「いじめ」や「暴力」という問題が教育現場で再現をされることだ。

教育現状は真空地帯ですね。力士の傷害事件が起こるような雰囲気がある。

>寄宿舎に入れられた師範たちの証言がまとめられている、唐沢富太郎の『教師の歴史』(創元社)には、この教師育成施設で、「四年生は神聖、三年生は幹部」「鉄拳の乱下」など体育会運動部のベースとなる価値観がまん延していた事実が無数に記されて、以下のような問題も指摘されている。>「師範の寄宿舎生活には極端な軍隊的な階級制が存していたのであるが、これに伴って併発した現象が上級生の下級生いじめということである」(P.60)

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断が疎かであると、礼儀正しい日本人にはなれません。わが国の階級制の問題点は、リーズン (理性・理由・適当) が度外視されることにありましょう。

>厳しい上下関係のもとで暴力とハラスメントを受けながら「師範」となった人々が、教育現場に出て子どもたちに、自分が受けた教育をどのように「再現」するのかというのはもはや説明の必要はないだろう。

そうですね。縦社会の人間関係ですね。同じやり方で、やり返すのみ。

>1949年の親たちが暴力を我慢できないのは、すべてこの森の教育改革の賜物である可能性が高いのだ。

森の教育方針は、実質的に国民の支持を得ていたのでしょう。

>よく日本人の暴力は、軍国主義が原因だという話になることがあるが、正確には「教育現場が軍隊になった」ことが大きい。

そうかもしれませんね。教育現状が暴力軍隊になっていたのですね。

>そして、教育が恐ろしいのは、中国や北朝鮮の反日教育などをみれば分かるように、パンデミックのごとく爆発的に社会に広まって、それが長く尾を引く点にある。

まさに国家による教育の力ですね。

>顔をひっぱたかれ、髪を引っ張られて18歳の少女が「暴力はなかった」と訴えた。>その親も、娘が暴力を受けているのを知りながら、その指導者を「信頼している」とおっしゃっていた。

この現象は、‘精神を集注してなせば、いかなる難事でも成功しないことはない’ という昔からある信念によるものでしょうか。

>その構図を見て、「宗教みたいね」と言って日本中から叩かれた人がいた。

信念の問題ですからね。雉も鳴かずば打たれまい。

>確かに、相手の気持ちに寄り添わない不適切な発言であって批判されてしかるべしだが、実は本質的なところでは、それほど間違ったことは言っていない。>暴力指導とは日本人にとって、理性や合理的思考を超越した、もはや信仰のような存在なのだ。

そうですね。日本人は、感情的な人間ですからね。リーズンを超越していることが多いですね。感情以外にないようです。

>神を信じる人に対して、神を否定しても聞く耳を持つわけがない。

そうですね。これは信心の問題ですね。

>「何も知らないお前に何が分かる」「あの素晴らしい体験があったから今の自分がいるのだ」――。

‘問答無用・切り捨てごめん’ ですね。悟道は文字・言説を以て伝えることができず、心から心へ伝えるものである。(禅宗の立場)

>そんなややこしい反論がきて、平行線だろう。

そうですね。わが国には、文字・言説では指導できない人たちが大勢存在していますからね。

>「愛のムチ」に対する信仰も、これと全く同じだ。>どんなに「暴力はダメよ」という社会になっても、ひっそりと一部の熱心の「信者」が隠れキリシタンのように守られていく。

文字・言説で指導ができないのは、日本語の言語機能が理性に関して弱いためではないでしょうか。

>それが日本人にとっての「体罰」なのかもしれない。>これからも日本ではこっそりと暴力指導が続いていくのだろう。

そうですね。’阿吽の呼吸’ と同じようなもので、‘わかっちゃいるけど、やめられない’ ということですね。



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精神的なもの

2018-10-11 14:15:52 | 政治

(略)
>***
>■西洋列強と日本~西洋文明と日本文化(2)
>日本人は物質主義・現世主義の度が過ぎており、西洋の精神的なもの・宗教的なものがわからないし、わかろうとしない、どうもそういう印象らしい、と。>彼らのそのような感じ方を紹介しながらぼくは、ある種の違和感をもちました。>物質主義的なのは逆に彼ら西洋人のほうであって、精神的なものを大事にしてきたのはむしろ日本人なのではないか、という “反発” があったからだと思います。

そうでしょうね。’東は東、西は西’ ですね。

>よくよく考えると、何をもって精神とするかの問題なのでしょう。>彼らには彼らの唯一神に由来する精神的価値があるように、ぼくらにはぼくらの精神的な価値があって当然です。

そういうことになりますか。あまり意味がありませんね。

>そういう思いからぼくは、前々回の終わりに、とりあえず結論めいたことを、こう書きました。>――「これはもうキリスト教という一神教の存在に尽きるのであって、彼我の違いには如何ともしがたいものがあるのではないでしょうか。>彼らは「絶対」の「一」へ向かって生きてきたのに対して、我々は「八百万の神々」「草木国土悉皆成仏」の世界に生きてきたわけですから」と。

そうかもしれませんね。

>今回は、この彼我の違いについて、いま少し掘りさげて考えてみたいと思うのです。>彼我の違いをより明らかにすること、それはとりも直さず、ぼくら日本人自身を知ることにつながるはずだと思うからです。

‘汝自らを知れ’ ですね。Know thyself.

>渡辺京二氏の前掲書『逝きし世の面影』に何人もの西洋人の日本人観が紹介されています。>三つ選んで、以下に引用します。
>■バード(Isabella Lucy Bird 1831-1904 旅行家・探検家『日本奥地紀行』、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性)>「(日本人の)最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は拒否する」

そうですね。日本人の最高の信条は、処世術ですね。

>■ オールコック(Rutherford Alcock 1809-1897 初代駐日英国公使 主著『大君の都』)>「(日本人は)崇高な原理やロマンチックな幻想や活動的な没我的信仰によってすこしも啓発されない、本質的に下劣」であって、「かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去3世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、非常に低い位置におかなければならない」

そうですね。わが国には何でもあるが、ただ、夢と希望だけが存在しない。知的かつ道徳的な業績が存在しない。

>■ ブスケ( Georges Hilaire Bousquet 1846-1937 1872明治5年から76年まで司法省顧問として在日した仏人)>彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、おなじく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。

日本の精神主義は、彼らのもの違いますね。

>そのことと、日本語が「本質的に写実主義的であり、抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念についてまったく貧困である」ことは、密接な関係があるとブスケは考えていた。

そうですね。正鵠を射た観察ですね。日本語は写生画のような言語ですから、実況放送と現状報告の内容 (現実) を表現します。現実の内容は、頭の外にある。見ることができる。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。考えは単なる話の内容であって、受け手は理解する必要がある。
日本式の判断によれば、見ることができる内容は、本当のことである。見ることのできないものは、嘘である。抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念は、’嘘・本当?’ の ‘嘘’ になる。誰も嘘つきにはなりたくない。

>ほんの数行の上記の文章ですが、そこには、西洋人には生まれつき備わっているが日本人には欠けている美質――と彼らが信じこんでいるもの――が、これでもかこれでもかといわんばかりに噴出しています。

そうですね。

>曰く、「崇高な原理」「ロマンチックな幻想」「活動的な没我的信仰」「内面的で超人的な理想」「彼岸への憧れ」「絶対的な美と幸福」「霊感」「絶対への躍動」等々と。

上掲の「、、、、」は全て、非現実 (考え) の内容ですね。日本人にとって ‘嘘’ と判断されるものですね。

>これらの美しげな言葉・観念はすべて、唯一絶対の神への信仰から発しています。

‘初めに言葉ありき’ ですね。In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.

>その信仰によると、人間とは、「唯一絶対の神・キリスト」によって、この世の万物のなかから、「特別」に「神の代理人」として「選ばれ」、「万物の上に君臨する」ことを許された――そういう存在だ、ということらしいのです。

そうでしょうね。

>神により霊魂を与えられ、神から祝福されているのが、ただ人間のみであるとしたら、人間は神の意を体して、万物・自然に働きかけて改造し、積極的に万物・世界を変えていかなければならない、それが人間の使命だ――そういうリクツにならざるをえません。

そうですね。神・人間が存在しなければ、万物・自然に良い悪い (適・不適) は存在しませんね。

>唯一の神をおのが後見人として独り占めにし、その金看板のもとで万物(自然・世界)に対してフリー・ハンドの振る舞いに及んでよしとする、まぁ、呆れるほど傍迷惑な人間至上主義ではあります。

どこまでも人間が大切ですね。

>***(引用以上)******>ところが、ぼくら日本人は、人間だからといって自然よりも立派だとか尊いというふうな、人間を特別視する考え方にはそもそも馴染めませんでした。

そうですね。わが国では、人間もアニマルも自然に溶け込んでいますね。

>万物・自然のもとで、人間もそのメンバーとして、ほかの生きとし生けるものたちとともに自然の富を享受し、ひとしなみに生きてきたわけですから。>何千年も前から。>宗教と言ってよいのかどうか、神様も八百万の神々を崇め、仏様も草木国土悉皆成仏を信じて、生き生かされてきた、長い長い歴史を考えると、唯一絶対の神の代理人として生きてきた人たちとは、文化の質みたいなものは自ずから違ってくるのではないでしょうか。

そうですね。’所変われば品変わる’ ですね。

>このように書くと、西洋人たちは得たりとばかりに決めつけてくるでしょう。>“それだと日本人は、自然と同じじゃないか、人間になっていないじゃないか” と。

そうですね。日本人の差は、アニマルの個体差と同じですね。事の次第・行きがかりに従って行動していますね。

>あるいは次のように言うかもしれません。>“ヒトが人間になるには神様の存在が必要不可欠であるのに、キミタチ日本人には神様がいないじゃないか” と。

そうですね。日本人には、判断を下す神様がいないですね。出雲に出かけて談合を繰り返すばかりですね。

>西洋人の言わんとするところをぼくなりに噛み砕いて言うと、こうなります。>“ 我々西洋人は神様から、一人一人が別々に、その人その人の「精神」spiritをインスパイアーしてもらっている。

そうですね。考え (非現実) の内容を言語で表現できれば、それぞれの個人が分別のある人間になりますね。

>肉体という名の自然に、神様が「心」ないし「魂」を吹き込んでくれているのだ。

そうでしょうね。考え (非現実) の内容を表現できるのですからね。’心’ ないし ‘魂’ の内容の違いを自他ともに確認できますからね。

>我々はそういう存在だからこそ、「一人」という「存在」にかけがえのない価値があることを確信できるのだし、であればこそ「個人の人格」というものに侵すべからざる尊厳を認めることができるのだ“ と。

個人の特性を自他ともに確認可能な状態であれば、個人主義の社会の建設も可能になりますね。

>彼らの言う通り、「一人」「存在」「個人」「人格」などの概念は、「唯一絶対の神」への上記のような信仰(=キリスト教)があるからこそ、成立するのかもしれません。

そうでしょうね。考え (非現実) の内容は、一人一人で違いますからね。個人主義がなければ、一人一人の考えの違いは表現できませんね。

>そして、「自由」「平等」などの価値にせよ、「民主主義」や「ヒューマニズム」の理念にせよ、それらが生まれてきたのも、やはり「唯一絶対の神」への信仰があってのことなのでしょう。

私も、そうだと思いますね。理念は非現実の内容ですからね。日本人にとっての嘘になります。個人の考え (非現実) が認められなくては、唯一絶対の神への信仰も容認されませんね。

***(引用以上)***