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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の問題 3

2019-12-30 21:39:06 | 社会

日本人は無哲学・能天気であるから、インテリは仕方なく西洋の哲学者の受け売りをして知識人らしく振る舞うことが仕事になる。日本人にはそれしかない。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り) 
自己に ‘あるべき姿’ (things as they should be) の内容がないということは大変不便なことで、現実 (things as they are) から絶対とすべき内容を借りてこなければならなくなります。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
日本人は現実しか認めることができない。そして、その現実は千変万化する。だから捉えどころのない主張になっています。これでは、日本人は相手から信用を得ることはできませんね。現実内容を絶対 (非現実) の内容にしていますので、日本人にとってはこれが唯一の真実の道です。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

日本人が政治音痴であるのは、政治哲学を持たないからである。無哲学・能天気であっては、政治指導者は我々の未来における行き着く先を明白に語ることはできない。だから、常に目先・手先の雑事に囚われて気をもんでいる。指導性に欠けている。
世界観がないので、政治家は哲学による結束をしない。政治家には現実的な都合により離合集散を事とするものが多くいる。これは、手段の目的化であって本質には近づかない。
意思の無い人には責任もない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも殺人罪に問われることはない。彼らには殺意というものがないからである。
わが国には、意思を主体とした責任というものが存在しない。だから、社会は ‘とかくこの世は無責任’となっている。
個人の意思の力に社会的な権力を持たせることによりその個人は社会に大きな力を発揮することができる。だが、意思の無い社会においては ‘責任はただの義務’ となり、指導者による解決の手段となることもなく責任者に指名された個人は牛馬の苦しみを味わうことになる。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  
自己の意思を示す人は、当事者・関係者になる。自己の意思を示さない人は、傍観者にとどまる。高みの見物人というか、孤高の人である。意思を持たない日本人は、元来当事者能力に欠けている。



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日本の問題 2

2019-12-30 16:08:51 | 文化

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。
意思の無い人には能動がない。受動ばかりであって能動がない。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく) 
それで、被害者意識があって加害者意識がない。罪を知らない人間に謝罪を要求すれば自虐を強要したことになる。だから、日本人の謝罪には心に達するものがない。
加害者意識が無ければ、罪もない。それで、個人は深刻な反省には至らない。わが国には、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も必要ない。日本人の宗教には、儀式があって教義がない。日本人には作法があって意思がない。
自己の意思を示せば、当事者か関係者になる。示さなければ傍観者にとどまる。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。わが国は、孤高の国か、独り善がりか。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任もない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも殺人罪に問われない。彼らには殺意というものがないからである。
責任のない人には信用がない。民信無くば立たず。(論語・顔淵) 兎角この世は無責任。
政治哲学を持たない政治家たちには信ずるものが何もない。未来社会の内容に合意するものはなく離合集散を事としている。哲学の内容は政治の目的、政党政治はその手段である。無哲学・能天気の国民には、手段の目的化は避けられない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。非現実 (考え) の内容は、文法上の時制 (tense) のある文章の内容になる。
歴史に関する考えは、歴史哲学になる。政治に関する考えは政治哲学、宗教に関するものは宗教哲学、科学は科学哲学、人生は人生哲学、などなど学問になる。だが、家族に関する考えだけは哲学にならない。
日本人のインテリから私は何度も ‘哲学とは何ですか’ と尋ねられた。きっとその人は、大学において自己の哲学を卒業論文として発表してこなかったに違いない。
‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー氏) 

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章内容になる。非現実の内容は、それぞれに独立している非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容として表わされる。この内容は、世界観 (world view) と呼ばれるものである。
世界観は人生の初めには白紙の状態であるが、白紙の状態は誰しも気になるものである。だから、日ごろからその空白を個人的な内容で補充している。
思春期になれば、言語能力が著しく発達するので、人は ‘考える人’  (the thinker) になる。この時期が英米人の大学進学への適齢期になり、自己の哲学を作る時期になる。
高等教育機関で自己の哲学を作成して学士号を得る。さらに哲学を作成して修士号、博士号を得ている。アメリカでは、学校の先生を長く続けるには修士号が必要であり、研究者になるには博士号が必要である。
各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 自己の世界観 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、その人は批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。
日本語の文法には、時制というものがない。だから、日本人には世界観がない。それで、批判精神もない。個人の脳裏に構築すべき世界の内容 (哲学) の枠組みがないから、大学に入学しても学習作業がはかどらない。
英米人は日本語を話していても、自己の意思を表すことができる。彼らは自己主張の内容が頭の中にできていてゆるがない。我々も英米人の如くやれば、自己主張が可能になることが予測できる。
我々日本人も日本語と英語を良く学び、英語の時制の大切さを十分に理解して個人の内容を高めよう。その内容を公表して広く賛同者を獲得しよう。さすれば、国際的に協力者を得て未来社会の建設に貢献できる。だから、我々日本人の未来は明るい。


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日本の問題 1

2019-12-27 23:37:50 | 文化

見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできないものは嘘である。見て来たような嘘を吐く人は悪人なのか。
現実の内容は見ることができる。見ればわかる。だから、考える必要はない。楽ちんである。
現実ばかりで非現実 (考え) というものがなければ、’現実’ という言葉も必要ない。現実には存在しないという考えがなければ、’存在’ ということには意味がない。
フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。
日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being”[存在] とか “reality” [現実] のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り)

非現実 (考え) の内容は見ることができない。ただの話である。話の内容を了解するためには文法を理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常理解はしない。日本人は、理解を忖度 (推察) で代用させている。
カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)氏は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
要するに、日本人は理解という言葉を使って忖度 (推察) を要求しているのですね。これでは、相手の理解は得られない。忖度は理解とは非常に違ったものであるから気を付けなくてはならない。
忖度は、聞き手の自分勝手な解釈である。現実直視になっていない。話し手との内容に食い違いがあっても話し手の責任にはならない。議論にもならない。
現実直視になっていないことを指摘すると、忖度の主は、’だって、私は本当にそうだと思ってのだから仕方がないではないか’ と言って反発を示す。だから、議論にもならない。独りよがりのままである。歌詠みのようなものか。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上> の中で下記の段落のように述べています。(p.54)
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)     




子ヤギたち 1/2

2019-12-24 09:18:59 | 政治
オオカミと七ひきの子ヤギたち。The Wolf and the Seven Young Goats
ある母親のヤギは7匹の子供を持っていて彼女は森に食べ物を探しに出ていた。
母親は出かける前に子ヤギたちに大きな悪いオオカミについて警告した。そのオオカミは家に忍び込んで子ヤギたちを丸のみにする。そのオオカミは、母親の真似をして、ドアその子供たち開けることを納得させる。その子ヤギたちは、母親の白い足と美声によって真の母親を見分けることが可能である。とのことである。
その母親が去って7匹の子供たちが家に残った。まもなく ‘子供たちよ、私を中に入れてください。あなたの母親は一人一人に与える何物かを持っている’ というと声がした。彼のしゃがれたこえは彼を裏切った。その子供たちは彼を中に入れなかった。そのオオカミは市場に行って蜂蜜を盗んで声を美声に変えた。
少し経つと、その子供たちはドアの所でまた別の声を聴いた。’子供たちよ、あなたの母親はあなたがた一人ずつに与える何物かを持って来ている’ このたびは、声は高くて彼らの母親のように美しかった。
彼らは、彼を入れようとした。最も若い子供がドアの隙間より観察していて、オオカミの大きな黒い足をみた。彼らはそのドアを開けることを拒否した。そのオオカミは再び去って行った。
そのオオカミは、パン屋に行って粉を盗んだ。コートの上にその粉を塗って彼の黒い足を白く変えた。
彼は子供たちの家に返ってきて、’子供たちよ、私を入れておくれ。あなた方の母親はあなたがた一人ずつに与える何かを持っている’ その子供たちは、彼の白い足を見て彼の美声を聞きその扉を開けた。
そのオオカミはその家に飛び込み6匹の子ヤギを丸のみにした。一番小さいヤギは、振り子式で床置きの箱型大時計の中に入りオオカミから隠れて呑み込まれなかった。
その日の後、その母親は森から帰ってくる。広くドアが開けられていて、一匹の子供以外は行方不明であることに落胆する。彼女は周りを見渡してそのオオカミを見る。彼は木の下でしっかりと眠っている。オオカミはあまりにも多く食べ過ぎて動くことができなかった。その母親のヤギは最も若い子供に鋏と針と糸を急いで届けように命ずる。彼女はそのオオカミの腹を開き、6匹の子供は不思議に傷つくことなく外に飛び出す。彼らは石でそのオオカミの腹をみたしてその母親はもう一度縫い上げる。そのオオカミが目を覚ました時には彼は非常にのどが渇いている。彼は川に水を飲みに行く。そして、川に落ち石の重みの下敷きになり溺れ死ぬ。その家族は、その後常に幸福に暮らした。

子供には、非現実 (考え) の内容がない。目先・手先に関する現実の内容が全てで唯一の正解が存在する。だから、意思の内容は子供にとって常に想定外になっている。オオカミの悪意に対する深い警戒心もない。
母親は大人であるから、非現実 (考え・意思) の内容も想定する能力がある。だから、悪いオオカミの話ができる。この能力の差が結果の明暗を分けている。
日本人は、現実の中にのみ生きている。そして、非現実 (考え) の内容は、想定外になっている。だから、子供のようなものである。ヒットラーの考えも、ルーズベルトの考えも、スターリンの考えも日本人には想定外になっていた。このような指導者たちの精神状態であっては、我が国運を過たずにはいられようか。意思は、未来時制の内容であって、それは非現実 (考え) の内容である。日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思というものがない。
騙す人が悪いのか、騙される人が悪いのか、いくら修身の徳目を論じても現実の世界では通用しない。自己の信念を貫くためには、ありとあらゆる手段を総動員して全力を挙げて自己実現あたるのが常道である。こうした西洋人の信念は、日本人にはわからぬことかもしれない。現実の内容しか持たない人間には解せない非現実の世界のことである。
我々日本人は日本語と英語を良く学び、時制の大切さを深く十分に理解しよう。英米人は日本語を話す時でも日本人のように閉塞感にさいなまれることがない。考え方も内容も人様々でいくらでもあるからである。彼らの話法を取り入れれば、我々は唯一の正解が存在する世界 (現実の世界) に囚われることなく生活することができる。だから、我々日本人の未来は豊かで明るいものになる。

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子ヤギたち 2/2

2019-12-24 05:32:03 | 政治

> なぜ追放するの???

それは、’オオカミと七ひきの子ヤギたち’ の話を考え合わせてみると分かるのではないでしょうか。

><【元ロシア・スパイ】20カ国が露外交官を追放 史上最大規模 >BBC NEWS 3/27(火) 12:20配信 > 米国や欧州連合(EU)加盟国が26日、相次いでロシア外交官の国外追放を発表した。 > 今月4日に英南西部ソールズベリーでロシアの元スパイ、セルゲイ・スクリパリ氏(66)と娘のユリアさん(33)にロシア製の神経剤が使われたとされる殺人未遂事件に関して、英国が駐英ロシア外交官23人を追放したことに追随するもの。
(略)
>しかし、なぜイギリスだけでなく他の国も外交官を追放するのでしょうか? 

これは、日本人や子ヤギたちの疑問でしょうね。

> 問題は、殺人未遂に使われた道具。>ロシア製の神経剤「ノビチョク」が使われたと発表されている。> 「神経剤」といってもよくわかりませんが、「化学兵器」です。 >スクリパリと娘だけでなく、周辺500人が影響を受けたとされる。>それで、「ロシアは、NATO加盟国イギリスを、化学兵器で攻撃した!!!」という論理なわけです。

そうでしょうね。

>BBCの記事には、「どの国が何人外交官を追放するか」リストがでています。 >・米国:60人 >・EU加盟国: >フランス、ドイツ、ポーランド(各4人)、 >チェコ、リトアニア(各3人)、 >デンマーク、オランダ、イタリア、スペイン(各2人)、 >エストニア、クロアチア、フィンランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニア、スウェーデン(各1人) >・ウクライナ:13人 >・カナダ:4人を追放したほか、3人の新規受け入れを拒否 >・アルバニア、オーストラリア:各2人 >・ノルウェー、マケドニア:各1人 >この記事が出た時点では、20か国となっていた。 >しかし、さらに5か国増え、結局25か国がロシア外交官を追放するそうです。
> 中略 >ところが、今回は、なんと60人の外交官を追放・・・・。
>▼スクリパリは、外交官追放「真の動機」ではない > しかし、この話、よく考えると「変」なのです。 > 皆さん、スクリパリさんを殺そうとしたのは、「ロシアで確定だ! 」と思っているでしょう??? > 実は、まだ確定していないのですね。

そうですね。日本人は、何事も起こってみなければ分からないと考えていますからね。

>たとえば、日本は、この「外交官追放運動」に参加してません。>なぜ追随しないのでしょうか? 

日本人は、米国や欧州連合の人達とはメンタリティ (考え方) が違いますからね。

>その理由は、こちら。>↓ ><ロ外交官追放、同調せず=日本政府 > 時事 3/27(火) 11:59配信 > 英国で起きた元ロシア情報員暗殺未遂事件への対抗措置として米国や欧州連合(EU)各国がロシア外交官の追放を決めたことに関し、河野太郎外相らは27日、> 「事実関係の解明が先だ」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~と強調し、日本政府としては当面、同調しない方針を示した。> >どうですか、これ????

奇妙ですね。日本人は、あくまでも事実 (現実) にこだわっていますね。洞察力 (非現実・未来) の内容というものが想定外になっています。

> 河野さんは、「事実関係の解明が先だ!」といった。 > 別の言葉で、「まだ事実関係は解明されていない!」ということでしょう?

そうですね。河野さんは事実にこだわっていますね。

>ということは、欧米25カ国は、 「犯人はロシアかどうかわからないが、とりあえずロシアということにして、外交官を追放しよう!」
と決めたことになります。

そうですね。欧米25か国は、お母さんヤギの心境ですね。事実 (現実) だけではなく、悪いオオカミの意思 (非現実) の内容も事前に想定のうちに入っていたのですね。

> なぜ???? >▼プーチン、教書演説の「脅迫」が原因? > 「犯人は、まだロシアと断定できない」 > 「しかし、ロシアということにして、外交官を追放する」 >ここまでは、はっきりした「事実」です。

オオカミが子ヤギたちを丸のみにするとはまだ断定できませんね。しかし、丸のみにすると仮定して用心するに越したことはないのです。

(略)
><「フロリダ州を核攻撃」のビデオ、プーチン大統領が演説に使用
(略)
> これ、欧米は、「プーチンが、俺たちを【核】で恫喝している!」と受け取りました。>いってみれば、「プーチンは、金正恩と同じことをしている」と認識された。>それで、「プーチンを罰する必要がある」との「共通認識」が生まれた。 >そんな折、「スクリパリ暗殺未遂事件」が起こった。 >イギリスは即座に「ロシアの仕業だ!」と断定し、プーチン演説に >怒っていた欧米諸国が捜査の結果を待たずに同調した? >これが私の推測です。 > 皆さんは、どう思われますか?

そうかもしれませんね。筋書きが存在すれば、あとは実行あるのみですからね。日本人の空想・妄想とは内容の次元が違いますね。
ロシアは悪いオオカミですね。いつ子ヤギたちを飲みこむか分かりませんからね。

(略)


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