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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

天皇利用 

2020-09-30 17:16:17 | 文化

 

>360604 明治維新とは薩長の天皇を利用した暴力クーデター以外の何ものでもない①  >孫市 ( 44 会社員 )  20/09/30 AM10 

>小坂正則の個人ブログ >リンク

>2018年 10月 23日 > 明治維新とは薩長の天皇を利用した暴力クーデター以外の何ものでもない

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>■「明治150年記念式典」に明仁陛下が不参加の思いとは?

> 本日23日に「明治150年」を祝う政府主催の記念式典が開催されたそうです。>しかし、その式典は天皇陛下と共産党や社民党など一部の野党は参加しませんでした。 

 

嫌なら態度で示そうよ’ ということですね。わが国は自由な国ですからね。   

 

>朝日新聞ネット版によると、「佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇と香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。>宮内庁は「政府からお声がけがなかった」(西村泰彦次長)としている。

 

朝日新聞は、事実の垂れ流しですね。日本人には批判精神 (critical thinking) がない。  

 

>共産党は「明治150年の前半は侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史。>丸ごと祝い、肯定するような行事には参加できない」(小池晃書記局長)として欠席した。」(ここまで引用)

 

そうですね。反省も必要ですね。共産党には批判精神がありますね。 各人に哲学が必要である。Everyone needs a philosophy. 我々日本人は無哲学・能天気ではいられませんね。     

 

> 官邸は「式典に天皇をお招きして、来てくれなかったら赤っ恥だから呼ぶまい」と考えたのか、それとも天皇を最も嫌っている安倍晋三が「天皇なんか呼ばなくていい」と菅に伝えたのか知りませんが、明仁天皇も「呼ばれたって、安倍晋三が自分の山口県を持ち上げる式典なんかに行くものか」と思っていたのかどうかは知る術もありません。  

 

後は連想ゲームのようなものですね。  

 

>でも、呼ばれなくてよかったよかった。>明治100年式典では佐藤栄作首相が「日本国万歳」と唱和して昭和天皇も一緒に万歳を唱和しています。 

 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)     

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

 

>なぜ明仁天皇が安倍の主催する式典に参加したくないのか、あの2013年4月28日の悪夢のような「主権回復の日」を再び繰り返したくはないからです。 >「主権回復の日」とは、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が連合国の占領体制から抜け出して61周年をむかえた28日に初めて開催したものです。 >その式典が終わって天皇夫妻が退席しようとした時、安倍首相が「天皇陛下万歳」を3回唱和したのです。

 

国民の序列メンタリティを鼓舞することが為政者たちの政権の安定につながると考えているからでしょうね。’一億一心’ の始まりか。   

 

>これに対してマスコミは「天皇の政治利用だ」という批判。>中国からは「戦前回帰だ」と言う批判が出ていたのです。 

 

天皇利用は序列利用ですね。中国政府も他国に対する批判だけは励行していますね。  

 

>ですから、今回の式典に明仁天皇は「また安倍に利用されてたまるか」と考えていたことでしょう。

 

歴史的にも天皇利用はわが国の政治家の常ですからね。

日本人には序列メンタリティがある。日本人の序列思考は西洋人の聖書に匹敵するほどの強力な精神的な支えとなって為政者の役に立っています。

日本語には階称 (言葉遣い) というものがある。日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。この上下判断・序列判断には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料とされている。

日本人の礼儀作法は、序列作法に基づいている。だから、世俗的な序列なきところに礼儀なしである。

礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’( グレゴリー・クラーク)   

 

>それにしても不参加が共産党と社民党に自由党だけというのは実に寂しい限りです。

 

そうですね。共産党員も社民党員も自由党員も例外なく日本語を話し、階称 (言葉遣い) を使っていますね。ですから、果たして彼らも序列メンタリティから逃れられていることやらどうやら。序列とそれに基づく帰属意識にとらわれていないだろうか。    

 

>政府のHP動画では「天皇陛下」の声は消して「万歳」だけが聞こえているそうです。>その理由として「マイクが故障した」と答えているそうです。(「天皇陛下」のところだけマイクが故障するか?) 

 

政府には都合の良いマイクがあるのでしょうね。   

 

(略)

 

 

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教育レベル

2020-09-29 22:33:22 | 文化

 

>歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに >小名木善行です。

>その国の経済や、その国の発展は、その国の教育レベルと比例します。>バカでは世界に通用しないのです。>あたりまえのことです。

>世界の大学ランキングというものがあります。>日本の大学は、戦前は世界のトップクラスの学問の府でしたが、いまではチャイナの清華大学や、北京大学、シンガポール国立大学にさえ抜かれ、東大がようやく36位。

 

残念な結果ですね。

 

(略)

>かように、ひとつの説が、さまざまな人達によって検証され、さらにその説を元にして、そこから次のステップへと研究が深化していく、それが学問の世界です。

 

そうですね。矛盾のない文章は全て正しい考えを示していますね。これは学問の自由です。矛盾のある文章も矛盾を取り除けば正しい考えとなり、さらに考えは前進します。かくして、人類は限りなく進歩を続けます。   

 

>そしてこの深化は、もしかするとそれまでの研究成果の一切を否定することになるかもしれない。 

 

それも学問の自由ですね。   

 

>国家は理念によって成立します。>しかし、学問は、ときにこの理念までをも、まるごとひっくり返してしまうことがあります。

 

革命により国家が転覆することもありますね。  

 

>ですから権力を第一とするウシハク国では、学問を権威にします。 >つまり、一切の反論を許さない学会システムを築いてしまうのです。

 

それは、暗記の為の勉強会のようなものですね。   

 

>たとえばシャンクスの小数点以下第707位までの答えを国王が認めれば、それが権威による裏付けとなります。>すると実際に正しかったのは527位まででしかなくて、それ以降は計算間違いでしたとなれば国王の権威に傷がつく。

 

国王は学問に対しては素人ですからね。学問の内容にかかわらないのが国王の最大の功績になりますね。  

 

>こうなると、人々は間違っていると知りながら、間違いのままに生活しなければならなくなるわけです。>これは、人々にとっても学問にとっても不幸なことです。

 

そうですね。素人の介入は人々と学問の不幸を招きますね。      

 

>つまり学問は、権威ではなく、分野に関わらず常に自由でなければならないということです。

 

学問の自由は思想の自由ですね。思想の分野にはかかわりませんね。

 

>そして学問の自由のあるところにこそ、学問は発展するし、また切磋琢磨が起こるわけです。>江戸時代の日本がおもしろいのは、学問を権威にしなかった、ということです。  

 

学問を知的な探求ともしなかったのでしょうね。

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

 

>学問は権威ではなく、どこまでも経世済民のためにある、というのが江戸時代の思想です。

 

日本人には現実だけがある。だから、わが国には何処までも実利だけがある。

 

>権威や権力は、その学問を保護するためだけにある。>なぜ保護するのかといえば、それが「経世済民のため」になるからです。  

 

日本人は何処までも実利の追及にこだわりますね。  

 

>戦後の、特に文系における大学の間違いがここにあります。>政府は大学に補助金を出して学会を保護してますが、その学会は権力機構になっています。>そして学会の権威を護るために、あらゆる異説・新説は無視されます。

 

矛盾のない文章は全て正しい考えを示しています。ですから、正解は幾らでもある。これを無視することには意味がない。      

 

>その典型が、戦後の学会を構成する自虐史観です。

 

意思の無い人間は自虐史観に囚われますね。訳の分からぬ罪悪感の虜になりますね。         

 

>こうなると自浄作用は働かないし、学問の進歩も深化もなくなります。 

 

そうですね。思考停止の状態に陥りますね。   

 

>日本は、あらゆる意味で世界の最先端になければならない国です。 

 

それは日本人の序列メンタリティによる思い込みですね。出世欲・向上心のなせる業でしょう。  

 

>それは理系の最先端工学ばかりではありません。 >文系における理念や新事実の認知や、新しい学説の研究などが本来、盛んに行われなくてはならない。  

 

そうですね。我々は、’考える人間’ (the thinking man) になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.     

 

>日本の大学が、世界ランキングで常にトップに立つくらいでなければ、日本が世界の学問や学説が世界のトップに立つことはないのです。

 

そうですね。序列メンタリティをただ鼓舞するだけでは、知的作業ははかどりませんね。   

 

>その国の経済や、その国の発展は、その国の教育レベルと比例します。>バカでは世界に通用しないのです。 

 

そうでしょうね。金持ちが必ずしも賢い人間というわけではありませんけれどもね。   

 

>お読みいただき、ありがとうございました。

>歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに >小名木善行でした。

 

 

 

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新疆政策 

2020-09-28 21:33:34 | 文化

 

>習氏「イスラム教の中国化を」 ウイグルの教育強化主張 >LINE共有ボタン >2020年9月27日 21時55分 >朝日新聞デジタル   

> 中国の習近平(シーチンピン)国家主席は25、26日に北京で開かれた新疆ウイグル自治区に関する政策会議「中央新疆工作座談会」で、「中華民族共同体の意識を心の奥底に根付かせよ」と語り、住民らへの思想教育を強めていく考えを示した。> 国営新華社通信が26日に伝えた。

 

この教育は民族自決に逆行していますね。昔の中華思想そのものですね。中華思想は中国の伝統的な自己中心の思想で、東夷・南蛮・北てき・西戎など、周辺民族の蔑視ですね。   

 

> 共産党指導部メンバーや関係幹部が顔をそろえて新疆政策の方針を確認する同座談会の開催は、2014年以来6年ぶり。

 

ご唱和のための座談会ですね。  

 

>ウイグル族住民などへの弾圧が続いているとして米欧などが非難を強めるなか、習氏自ら政策の正当性を訴えた。

 

中国は中原の鹿を追う伝統的な覇者の国であります。覇者の物語は、中国人の愛読書となっています。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、他国の文化に対する尊敬の念もありません。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作りました。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、自己中心的にならざるを得ません。これを中華思想といいます。外国人の影響を受けて彼らが ‘発想の転換’ (paradigm shift) をすることも期待できませんね。

 

> 習氏は演説で、「正しい国家観、歴史観、民族観、文化観、宗教観を確立」するための教育を強化するよう指示。

 

中国人には世界観が無いのでしょうね。’来るべき世界’ の内容は明らかにされていませんね。

 

>「イスラム教の中国化を堅持せよ」と語り、ウイグル族などイスラム系少数民族の信仰を党の指導の下に置き、党指導部が唱える社会主義的価値観と融合させるよう求めた。

 

中国人は、何でも中国化しますね。昔、インド哲学の仏教も中国化して日本に伝えました。  

 

> 習氏は過去6年間で同自治区の約292万人が貧困状態から抜け出したなどとして、「住民の幸福感や安心感は強まっている」と統治の成果をアピールした。 

 

人はパンのみにて生るものに非ず’ ですね。   

 

> 米トランプ政権は6月、人権弾圧に関わった中国高官らに制裁を科す「ウイグル人権法」を成立させるなど対中圧力を強化。  

 

ならず者に鉄槌を下す良い機会ですね。  

 

>欧州連合(EU)も監視団の受け入れを中国に求めている。

 

監視団も必要ですね。わが国の政府はどうしているのでしょうかね。後追いの専門家になりきっているのでしょうかね。   

 

(北京=高田正幸) >朝日新聞デジタル

 

参考: 

東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     

南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 

西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。・

北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。

 

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    

 

 

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内藤朝雄准教授

2020-09-27 21:14:40 | 文化

 

>360534 「日本の学校は、身近な小さな世界の全体主義をかたちづくっている」 日本の子どもの精神的幸福度ワースト2位 なぜ?  >HAYABUSA ( 40代 )  20/09/27 AM09 

>スプートニクの記事に興味深い内容があった。 >表題。 >リンク より引用する。

>――――――――――――――――――――――――――

(略)

> 最近発表されたユニセフの報告書によると、先進国と新興国38ヶ国の子どものうち、日本の子どもは身体的健康度が1位だった一方、精神的幸福度はワースト2位だった。

>この調査は子どもの健康、スキル、幸福についての複雑な状況を明らかにした。>しかし、子どもたちのこうした体験は社会の中で孤立して存在するのではなく、彼らの暮らす社会全体に根ざしている。

 

そうですね。日本人社会の問題ですね。   

 

(略)

>こうした状況について、明治大学文学部准教授の内藤朝雄氏に話を聞いた。

> 内藤朝雄准教授:「ユニセフ(国連児童基金)は、日本の子どもの精神的幸福度は、先進38カ国中37位、つまりワースト2位であるというデータを公表した。>この背景には、日本の極端で独特な集団主義の学校教育がある。 

 

日本人には個人が無いので、集団としてとらえるより方法が無いのでしょうね。   

 

>日本の学校を観察した日本以外の国の人は、その集団主義教育のありかたが、軍隊に似ているという印象を受ける。 

 

そうですね。軍隊生活は個人生活と関係がありませんね。   

 

> 日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。

 

そうですね。日本人の社会は序列 (上下・縦) 社会であるから、学校は子供を内人 (うちのひと) に仕立てようとしていますね。  

 

>学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。

 

そうですね。わが国の教育は、気分・雰囲気の獲得に重点が置かれていますね。無哲学・能天気の励みによるものでしょうね。      

 

>日本の学校は、国家の規模の全体主義ではなく、身近な小さな世界の全体主義をかたちづくっている。

 

そうですね。人間序列 (閥) に基づく全体主義的傾向ですね。   

 

>ただ外形的行為が同じであることを要求されるだけでなく、心をこめて、表情や涙などをふくめて、全存在が、独立した個人ではなくなり、響き合う合唱のアンサンブルのような学校の生徒らしい生徒になることを要求される。

 

個人主義の否定ですね。’一億一心’ の始まりに似ていますね。  

 

>日本の学校で最も大切とされることは、勉強をすることではなく、心を一つにすることである。(略)

 

それは没個性の修行ですね。  

 

(略)

> 内藤朝雄准教授: 「このような学校生活の全体主義は、児童生徒同士の人間関係にもあらわれている。>学校で、こどもたちは、いつも他人の目を気にして生きる習性を身につけさせられる。

 

そうですね。‘人の振り見て我がふり直せ’ ですね。  

 

>空気を読むことが、何よりも大切だという価値観を身につけさせられる。

 

忖度 (推察) する人間の養成ですね。   

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

 

>こころを一つにすべしと、きめ細かくベタベタさせる集団主義のしくみのなかで、子どもたちは、「友だち」がいないと悲惨な境遇になるとおびえ、必死でベタベタして生きている。   

 

なあなあ主義’ ですね。 ‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。   

 

>その、無理に無理をかさねて「友だちを作為する」こわばりの結果が、このワースト2位にあらわれたと考えられる。

 

そうですね。それは、無理な生活の結果ですね。   

 

> 私は、このような不健全な小さな全体主義ともいうべき日本の集団主義は、子どもたちを不幸にし、日本を不健全な社会にするので、やめるべきであると世に訴えている。 >集団主義教育をやめると、子どもたちがバラバラになってしまうという人もいるが、逆だ。日本独特の極端な集団主義教育をやめて、学校を先進諸国の普通の学校にした方が、子どもたちは、個人と個人として、気楽に「友だちになり」やすくなる。」

 

そうですね。   

 

>おそらく、理想の教育の形というものは世界のどこにも存在しない。 >しかし、子どもが適度な配慮と自由を与えられるようなバランスを目指すだけでも、子どもの精神的幸福には十分効果的なのではないだろうか。

 

そうですね。具体的には、今の生活のどこをどのように変えればよいのですか。  

>―――――――――――――――――――――――――― 

 

 

 

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奈緒美先生 2/2

2020-09-26 13:23:52 | 文化

 

>でも、もっともっと未来を想像してみたら、リスクを負えない人ばかりが育ったら、親の老後も大変なことになるのかもしれません。

 

そうですね。この国がひっくり返った時にも、責任者は現れませんでしたね。この世は無責任体制でしたね。  

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。これは、意思の無い社会の常識か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって世界に属していない。   

 

> 話は戻って、「先端までいききる」ということは、リスクや大変な部分もあるのですが、奈緒美先生が言われるように、そこに大きな価値や成長があるというのも事実だと思います。

 

そうですね。自己実現の可能性が増大しますね。     

 

>「人より遅れている」とか「恥ずかしい」とか「危険なことはさせたくない」とか、大人が目先の問題とらわれずに、子どもの未来に何が大切なのかをもう一度考え直すことが大事なことだなぁと感じています。 

 

そうですね。同感です。考え直す必要がありますね。   

日本人には現実しかない。我々日本人には非現実 (考え) の内容が存在しないので、奥ゆかしく見えても奥がない。だから、手先・目先の事柄に囚われます。軽薄になっています。     

現実の世界においては見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。楽ちんである。正解はただ一つである。考える必要はない。

非現実 (考え) は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が生じても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を埋めて行く。その内容は変化しない。だから個人判断の基準になる。  

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。批判精神のない人の文章は、現実の内容の垂れ流しになる。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神もない。マスコミも現実の内容を垂れ流す。だから、個性がない。有力紙が育たない。

個人主義が理解できない。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。協力者が得られない。社会に貢献する度合いが限られる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

 

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