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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

仮説

2020-07-03 18:59:50 | 社会

 

>358127 仮説思考のすすめ  >野崎章 ( 46 会社員 )  20/07/03 PM01 

> 先日の社内会議で、仮説を立てる事の重要性が話された。

 

仮説とは考えのことですね。考えの内容は、見ることができない。

 

>学校の授業はもとより、マスコミやネットも含め、世の中には様々な情報が溢れており、学生に限らず社会人でも、大半の人が、何かを考える≒情報を集める事と勘違いしている。

 

そうですね。情報は頭の外にありますね。その内容は見ることができます。

 

>  仕事の世界において、成果が高い人というのは、少ない情報の中で、まず自分の頭で、「おそらくこうだろう」、「これが一番可能性が高い」といった「仮説」を組立てる。

 

そうですね。頭の内側を使うのですね。

 

>そして、その検証のために必要な情報を収集して、修正をくりかえりながら、場合によっては大胆に組み替えてながら、もっとも確からしい答え(突破方針)に最速で辿り着く。

 

さうですね。仮説を実証するのは、科学者のやり方ですね。

 

>  そのような人を前に、学校の「答えがある勉強」ばかりしてきた人、あるいは、前例主義や常識にとらわれている(いわゆる答え待ちの)人々は、「何を根拠に言っているのだ」と、否定から入る。

 

そうですね。頭の外にある内容ばかりに気を取られていますね。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

見ることのできる内容は ‘本当の事’ である。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。

恐竜時代には、人はまだこの地球上には住んでいなかった。しかし今日の古生物学者たちは、事細かに恐竜の生態を説明する。

見て来たような嘘’ には価値がある。実況放送・現状報告の内容ばかりを口にする人は、’見て来たような嘘’ の価値を知りませんね。

 

>もちろん、そのような人々は成果が低い。

 

頭の機能をまだ十分に使っていないからでしょうね。

 

>  仕事の成果とは他に先駆けるスピードで決まる。

 

そうですね。考えには、新奇性 (originality) が貴重ですね。

 

>みんなが「確かにそうだよね」と思う段階では、すでに無数の競合がいて、勝率は極めて低くなる。

 

前例や常識ばかりを主張する人は勝率は低いですね。  

 

>他社に先駆けるとは、前述の仮説思考によるスピードであり、まだ多くの人が気づいていない段階で、その可能性をいち早くキャッチすること。

 

そうですね。仮説思考とは、’考え’ そのものでしょうね。

 

>  多くの人がますます情報収集に走る中、この「仮説思考」を実現できれば、大きなアドバンテージを持てることになる。 

 

そうですね。情報は頭の外にある。それは見ることができる。考えは頭の中にある。それは見ることができない。見て来たような嘘には価値がある。

 

 

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サル化

2020-05-04 23:19:05 | 社会

>355081 過去を振り返らず目先的な対応のみ=サル化する世界のままでは何も突破できず滅亡していくのみ! 
>どうなる資本主義 ( 27 会社員 )  20/03/28 PM07 【印刷用へ】
>まさに朝TVで見る国会答弁やニュースは、過去の経験も活かさず(取り組んでいても浅はか)目先的な対応のみ。嘘をついてもバレなきゃ平気の世界になっている。

それを ‘その場主義’ というのですかね。’後は野となれ山となれ’ か。

>これまで色々な壁に当たりながら進化してきた私たちですが、ここで追求するために少しくらい苦しむことさえやりたがらない(=実現の意思がない)ままでは退化→滅亡の道しか残されていない危機感を感じました。

日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思 (will) がない。
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 無意思の日本人は仕方がないから、無為無策でいる。座して死を待つのか。危機感を感じます。

> 『サル化する世界』についてのインタビュー  >リンク
>―――――以下、リンクより引用――――――
>いくつかのメディアから新刊『サル化する世界』についてのインタビューがあったので、まとめて再録。
(略)
>  イノベーションというのは未来にぼんやりとした手応えを感じる直感力なしには成立しません。>「何だか知らないけれど、この先に『いいこと』がありそうな気がする」という直感に導かれてはじめてあらゆる創造は可能になります。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
非現実 (考え) の内容を現実の内容として実現できれば、それは創造力を発揮したことになります。
英文法には時制というものがあるので、非現実 (考え) の内容を文章として表現できます。
日本語の文法には時制がないので、考え (非現実) の内容を文章にすることができません。
日本人の判断によれば、見ることのできる内容は ‘本当’ の事、見ることのできない内容は ‘嘘’ である。
誰しも見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、自分の考え (非現実) は口にしない。これが則ち思考停止の状態です。

>でも、そのためには「この先」に、まだ現実になっていない時間に指先が届かなければなりません。

そうですね。文法に時制があれば、遠い未来に対しても指先が届きます。

>「この先」という言葉に何のリアリティーも感じられない人間に何かを新しく創り出す能力が育つわけがない。

文法に時制があれば非現実 (考え) の内容は脳裏に焼き付きますから確信できます。

>○ 社会が脱サル化するために必要なこととは?
>  サル化した人間の特徴は「過去を反省しない」「未来に対して見通しを持たない」ことです。

非現実 (考え) の内容は、時制のある文章の内容として表現される。非現実の世界は、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として陳述される。考え (非現実) の無い人は、未来の内容も過去の内容も想定外になっている。だから、サル化しているのでしょうね。

>だから、悔恨もないし不安もない。

考えの内容が脳裏に存在しないと後悔も不安もありませんね。あるのは眼前の事実だけですね。

>どれほど失敗しても同じ失敗を繰り返すし、「こんなことを続けていたらそのうちたいへんなこと」になるとわかっていても、「こんなこと」を続ける。

そうですね。この道はいつか来た道。ああ、そうだよ。歴史は繰り返す。

> 「前にこれで失敗して手痛い思いをしたこと」も「そのうち起こるかもしれないたいへんなこと」にもリアリティーを感じることができない。

そうですね。一寸先は闇である。過去の想いは疾く風化して幻となる。

>  こんな生きづらい時代ですから、「過去のことは忘れたい 未来のことは考えたくない」と思ってしまうことは止められません。>でも、「後悔に苛まれたくない、不安に怯えたくない」という人は、それと同時に、遠い記憶の中を逍遥したり、未来に夢を描いたりすることもあきらめなければならない。

後悔に苛まれたくないならば、贖罪の宗教 (キリスト教) が役立ちますね。深刻な反省が得られます。時と場合によっては、人生の方向が変わることがあります。不安に怯えたくないならば、’備えあれば憂いなし’の道をたどることですね。’力は正義である’ (Might is right.) ことを信じて、軍事大国の道を歩むか。

>それがどれほど多くのものを失うことなのか、それについては少し立ち止まって考えた方がいいと思います。

そうですね。我々は考える人 (the thinking man) になる必要がありますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy. 
>―――――――――――――――
>以上


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人材育成 2/2

2020-04-26 21:36:46 | 社会

>286303 つづき
>文部科学省側は正直、きょとんとした表情であり、答弁としても「これまで産業界にもヒアリングを繰り返している」「産業界の中でも議論は収斂していないと承知している」といった内容のものに終始していた。>私のみならず、この「レビュー」の審判である評価員たちからも不満の声が漏れたのは言う までもない。

それでも、事業の責任者は安泰なのでしょうか。

> 特に「グローバル人材育成事業」については私自身、この事業の実施母体として採択された複数の大学が現場でレヴェルでどのような作業をしてきたのかをつぶさに見てきた経緯がある。>その時の様子を今回の「行政レビュー」の場でも文部科学省側にぶつけてみた。 > 「ある大学は『申請したら、思わず通ってしまった』とてんやわんやの大騒ぎ。

関係者は事業に対して冷静沈着ではいられないのですね。

>担当教官が決まるまで実に3か月もかかっていた」 

申請の前に予定担当教官の承諾をあらかじめ取っておくとよいですね。行き当たりばったりは良くないですね。

> 「また他の大学では最初は外部有識者の意見も聞いていたが、採択され、資金が国から入って来るとなった途端に内向きな議論に終始し始め、結果的に外国からの留学生の受け入れ担当に仕事を押し付けつつ、特任准教授を雇って一任することでお茶を濁していた」 

お茶を濁すという表現が気になりますね。真面目な感じがしない。

> 「結局、大学の先生方は『研究者として英語でコミュニケーションできる学生が育てば良い』と考えている。とある大学でははっきりとそう言っていた」 

今更の感じのする発言ですね。それが事業の目的ですか。いままでやってきたこととどこが違うのですか。

> 文部科学省の担当者たちもある意味、可哀想ではある。>我が国における現在の大学教育システムを見る限り、「大学の自治」をかざされると文部科学省の出る幕はない。

大学のことは大学に任せたらよいですね。大学の自治の確立が必要ですね。

>彼らは予定調和で書かれた申請用紙を見比べ、補助金申請の判子を押しているだけなのだ。>そのため、現場レヴェルで一体何が起きているのか分からないのである。

彼らは盲判を押したのですね。

>それに産業人財は「経済産業省」の所管であり、彼らの仕事ではないのである。

それは産業界の問題ですね。経済産業省の責任者の仕事ですね。

>だが、産業人財としてのグローバル人財こそ、財政窮乏にあえぐ我が国では求められているのであって、ここにこの仕事を文部科学省が大学を現場にして行うことの最大の矛盾がある。 

そうですね。産業人材のことは経済産業大臣の専任事項でしょう。
わが国の産業界は、海外から多数のグローバル人材を招き入れるべきですね。そうしたら、わが国の若者とも切磋琢磨することができます。彼らは海外に行く必要はない。国内で研修が可能になります。わが国には、産業がある。だから、まず産業界が外国人に心を開くべきですね。有能な外国人を大量に国内に雇い入れる努力をしなくてはならない。外国人と知り合いになれば、わが国の若者はどのような大学に行くことが自分の為になるかを知ることになる。自信がついたら、日本人も自主的に海外に出かけてゆくと良い。それが正しい産業人の発展の道になるはずです。

> 「現状のデータを見る限り、学生たちが1年間留学するのに1000万円も国費が使われていることになる。 >一体何をもって成果といっているのか。>指標を示せないのならば、正に無駄というべきなのではないか」

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。留学の成果は論文でなくてはならないでしょうね。他のものが出てきたら理に合いませんね。高等教育の成果は論文の内容しかありませんからね。

> 「留学させなければグローバル人財は出来ないということは、要するに我が国の大学そのものが当事者能力を失っているということなのではないか。

そうですね。わが国の大学は、欧米の高等教育の成果を上げる力がありませんね。
 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
だから、留学がわが国の国策になるのでしょう。わが国の学生は、わが国で働く外国大学の卒業生から直接やり方を教えてもらうのが早道です。社交術が必要ですね。

>本当にそれで良いのか」 > 私だけではなく、評価員たちからも矢のような質問が飛んだ。(後略)

現状が良くないから海外に助けを求めているのでしょう。’他力本願・神頼み’ は良くない。産業界の人は、もっとグローバルな態度に変身すべきです。

>引用おわり



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人材育成 1/2

2020-04-26 21:13:40 | 社会

>286303 行き詰まる大学のグローバル人材教育①~グローバル人材とは何か?  >橋口健一 HP ( 50 大阪 技術者 )  14/01/17 PM08 【印刷用へ】
>秋の行政レビューを所管している内閣官房・行政改革事務局からの依頼で、「大学の教育研究の質の向上に関する事業(グローバル人材育成及び大学改革)」に有識者(参考人)として出席した、原田武夫氏の報告より引用。 >リンク
>(前略)
>ここ数年、急激な円高が進行する中、我が国においては産業人財としての「グローバル人財」が求められるようになった。

産業人材という特化した人材の育成が必要なのですかね。

>無論、国としてもこれを議論し、関係省庁による取組を進めている。 >しかし率直にいえば「グローバル人財とは一体何なのか」について、国としての名目なスタンスが決まっているとはおよそ言い難い状況にあるのだ。

グローバル人材とは、さしずめ教養人の事でしょうね。

> 例えば今回の「秋の行政レビュー」にあたって文部科学省が作成・提示した資料(「グローバル関連事業の戦略的取組」)には「グローバル人材の要素とは」として、「グローバルな時代を生き抜く力」とだけ書いてあり、次の5つが列挙してある。 > 「日本人としてのアイデンティティ」 > 「教養と専門性」 > 「語学力を含むコミュニケーション能力と協調性」 > 「新たな価値を想像する能力」 > 「社会貢献の意識」 

日本人としてのアイデンティティとは、歌詠みである事かな。教養と専門性は、哲学的な人間のことですね。社会貢献の意識は、世界観を持つ人間のことですね。

>そしてこれをベースにしながら、「スーパーグローバル大学事業」や「グローバル人材育成推進事業」などを新規・継続で展開していくのだという。
> 文部科学省側からはこれらについて「学生たちをグローバル人財とするために、まずは教育を行う大学をグローバル化する必要がある」「語学偏重ではいけないが、英語能力がまずは重要」「留学生を積極的に招き、かつ我が国の学生たちも積極的に外に送り出す」といった説明が繰り返しなされた。 

わが国は序列社会 (上下社会・縦社会) で成り立つ国ですから、縦社会の外に序列人間を送り出すことは難しいですね。海外に出た者は心身ともに疲れ果てて挫折することが多い。

>だが、これを聞いて有識者(参考人)として参加した私は大いなる違和感を覚えた。

それは、どうしてでしょうか。

>なぜなら私たちが支払う貴重な税金を大量に(平成26年度 分の概算要求額で約229億円)用いてこれらの事業を行う以上、そこで成果物として出て来るはずの若きグローバル人財たちは、「海の向こう側から富を我が 国に取って来る」という役割を果たすという意味での産業人財であるべきだからだ。

個人の教養は金では測れませんね。労働力なら金で表すことができますが。学生は知恵を運び、出稼ぎは金を運びます。

>ところが文部科学省側、さらに言えばその背後にいる大学法人の側において そうした発想は微塵も感じられなのである。 

そうでしょうね。教養のない人間は、グローバルに通用することはないですね。

> 発言を求められ、私からは全国津々浦々の民間企業に対して「グローバル人財研修」を行ってきた経験を踏まえ、次のように説明した。 
> 「グローバル人財にとって第一に必要なのは言語ではない。メラビアンの法則という確立された原則によれば、言語が対人コミュニケーションで果たす役割は7パーセントに過ぎない」 
> 「むしろグローバル人財、特に我が国のそれに必要なのはリーダーシップとコンセプチュアル・スキルだ。
>前者は目標設定、競合戦略の策定、実行力、人を巻き込む力、そして事後的に評価できる力を指す。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には意思がない。仕方がないから日本人は無為無策でいる。
‘やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)  
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人は意思の内容を言い表す方法がない。

>後者は論理的思考力、システム的思考、これらの時間・空間への拡張、さらには感性によるイノヴェーションを内容としている」 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
言語 (非現実) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造である。
非言語 (非現実) の内容を現実に示しても、それは創造になる。
いずれにしても創造力が高い評価を受けることになります。  

> 「またそもそもグローバル人財には、国境を超えるビジネス・モデルを創るグローバル・リーダー、海外拠点で現地採用職員を使いこなす現地マネジャー、そして両者のつなぎ役をつとめる伝道師の3つのカテゴリーがある。
>こうした現実論を意識しながら教育しないと適切な形でグローバル人財は育たない」 

国際的な対人関係が大切ですね。


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決定権者に寛容

2020-04-25 15:29:48 | 社会

>匿名希望         14/01/06 PM06 【印刷用へ】
>原発問題や2世議員問題も同根だが、この国は国民の期待を大きく裏切る決定権者に寛容すぎる。

我々には、考えの内容を吟味する力が不足しているからでしょうね。多くの矛盾を見逃したまま事柄が進められているからではありませんか。

>政治の暴走に歯止めもかからない。

日本人は議論が出来ませんからね。こうした状態からでは矛盾の除去は難しいでしょうね。国民の期待を裏切ることもしばしばでしょうね。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思 (will) がない。
意思はないが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから恣意決定 (盲目の判断) をする。
日本人にはリーズン (理性・理由・適当) がない。だから、責任者は、リーズナブルな説明をする責任が果たせない。だから、全てが寛容にならざるを得ない。

> 嘆かわしい国論の分裂リンクから転載します。
> _________________________________
> 筆者が靖国問題の本質だと考える問題についてあえて触れたい。 >これら社説や安倍総理の談話で全く触れられていない論点が1つある。 >それは「戦争に敗北した結果として数百万の国民が犠牲となった場合、その戦争を企画し実行した者は国内政治上いかなる責任を負うべきか」という命題だ。

政治指導者は、法の定めに従って責任を取るべきですね。

>単純化による誤解を恐れず、より分かりやすく申し上げよう。 > 仮に、企業の経営陣が経営に失敗し、数千人もの従業員に多大な損害を与えたとしよう。 >その場合、経営陣は株主総会でその経営責任が厳しく問われることになる。 >同様に、1930-40年代に日本国家を指導し戦争を実際に企画・実行した者は敗戦の政治責任を負うべきだろう。

そうですね。政治指導者は政治の責任を取るべきですね。

>それが本当のサムライである。

そうですね。わが国の伝統に従って一国の主は自己の居城に火を放って自害するはずですね。

>この政治責任はいわゆる「東京裁判」、「A級戦犯」とは別次元の問題だ。

そうですね。東京裁判・A級戦犯は外国人が自主的に行った行為ですね。ですから、我々日本人の政治とは関係がない。

>後者が国際法上の問題であるのに対し、前者はあくまで国内政治上の政治責任だからである。

そうですね。これは国内政治の責任問題ですね、とかくこの世は無責任になっていますね。

>「東京裁判」の有無にかかわらず、日本国民は、欧州諸国と同様、国家指導者の戦争の失敗につき責任を問うべきだったのかもしれない。

そうですね。しかし、日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。わが国には問うべき責任者の責任というものが存在しない。日本人には責任観念・責任感がない。

> 残念ながら、そうしたチャンスは1950年の朝鮮戦争勃発により潰えてしまった。

何があっても何がなくても、日本人は意思の問題に考えを集中させることは不可能ですね。だから、わが国の責任問題はうやむやになる。日本人は意思の力で行動するのではなくて、事の次第・成り行きにより行動を開始している。

>日本は否応なしに冷戦構造に組み込まれ、米国の同盟国として再出発することになったからだ。

日本人は、頼まれ仕事はいつでもできますね。意思の無い人は、受動態の発想により行動しますからね。

> 現在の日本国内の議論の混乱は、「東京裁判による戦争犯罪」と「国内政治上の敗戦責任」が混同されたために生じているのかもしれない。

外国人の考えの内容と、日本人の考えの内容が混同されているのですね。それは、自己の考えの内容が不確かだからでしょうね。

> 要するに、靖国問題の本質は「東京裁判」や「A級戦犯」が国際法上有効か否かではなく、日本が国家として先の大戦の「国内政治上の敗戦責任」をいかに捉えるか、にかかっている。

そうですね。我々日本人には我々自身の自己主張が必要ですね。靖国問題の本質は、日本人の持っている内容の問題でしょうね。

>この微妙な問題を正確に理解しない限り、靖国に関する国論は分裂したまま、首相靖国参拝をめぐる混乱も収斂しないだろう。

考えの内容は、人により様々ですからね。外国人の考えと、日本人の考えは違いますからね。ところで、この微妙な問題をあなたは正確に理解しているのでしょうか。混乱の収斂の見通しは立てられたのでしょうか。


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