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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

二島圭入氏

2019-07-30 15:25:11 | 文化

>二島圭入 ( 24 東京都 会社員 ) 17/08/02 PM05 【印刷用へ】
>現在の世の中は、「人はもともと善であり、成長するにつれて悪を知っていく」という前提の元できている。> 例えば、政治であれば「政治家は社会を良い方向へ導く」という大前提の本、国民に選出され、政治を行っているが、現在お上の暴走によって政治家に対する不信感はどんどん増大していて、この前提は崩れつつある。

そうですね。

>しかし人はもともと悪ということを前提にした社会では、誰も政治家のことを信じず、選挙演説やマニフェストなどで、政治家は「心から国を良くしたい」ということを淡々と述べるが、それは基本的にすべて嘘である、と捉えられる。>「正しい政治家がいない」という前提のもとで選挙を行うと、有権者はひとりの人間に権力が集中しないようにするだろう。

そうですね。

>すると自然と「自分たちがより良く生きていくために社会をどうする?」を考えるようになり、みんなで協力して追求し始めるようになる。

‘あるべき姿’ の内容を、みんなで協力して追及するようになりますね。

>また、教育分野では人間は完全な生き物ではないと考えることで、新たな知識やスキルを習得するための場としてではなく、理性的に物事を考え、行動するにはどうするか、ということを追求するようになる。

そうですね。我々は、‘考える人’ になるのですね。

>結果的に知識ではなく人間力の育成をする場として学校は機能し始める。

そうですね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  英米流の高等教育が必要ですね。

>さらに、人は未熟であると言うことが共通認識となっている社会では、自分発の思考が生まれることはありません。

我々は、自己中心主義者にはなりませんね。

>誰もが気持ち良く生きるにはどうするのが賢明かを追求することで、共同体としての意識も醸成していきます。

政治哲学が必要になりますね。

>こう考えてみると、いかに人類は自分たちの能力に驕って生きてきたかが分かります。

そうですね。処世術に追われて生きてきましたね。

>今一度人類は自分たちの無能を自覚し、その上でどうする?を追求することで、現代の不整合を簡単に見破ることができるようになるだろう。

そうですね。自分が知らないということを知っただけでも大きな進歩ですね。それで、態度が謙虚になります。


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楽観・悲観

2019-07-30 06:15:10 | 政治

>リンク
>「人口減社会」についての論集の編者を依頼された。
(略)
> 先日毎日新聞が専門家に人口減についての意見を徴する座談会を企画した。>その結論は「楽観する問題ではないが、かといって悲観的になるのではなく、人口減は既定の事実と受け止めて、対処法をどうするか考えたらいい」というものだった。>申し訳ないが、それは結論ではなく議論の前提だと思う。

そうですね。

>最後に出席者の一人福田康夫元首相が「国家の行く末を総合的に考える中心がいない」と言い捨てて話は終わった。

わが国には、国家の行く末を総合的に考える中心が抜け落ちているのですね。その原因は、日本人に世界観がないからでしょう。

>人口減については、政府部内では何のプランもなく、誰かがプランを立てなければならないということについての合意さえ存在しないということがわかった。

世界観がないのでは、国家のマスター・プラン、グランドデザインといったものを考える余地はないですね。だから、合意もありません。

>その点では有意義な座談会だった。> 出席者たちは「悲観的になってはならない」という点では一致していた。

日本人は、常に ‘今・ここ’ を考えている。ナウな感じのする人間である。浮いた気分でいて、奥がない。だから、浮世に住んでいる。しかし、常に閉塞感に付きまとわれている。だから、憂世にも住んでいる。これは、昔からそうである。浪花節の題材にもなっている。
日本人には、非現実 (考え) の内容がない。だから、考えの文章内容から矛盾を取り除くことができない。その結果、思索の結果は哲学にはならずして、支離滅裂な空想・妄想になる。だから、日本人は、真面目人間にはなれない。座談会の面々のようになる。お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になった。

>ただ、それは「希望がある」という意味ではなく、「日本人は悲観的になると思考停止に陥る」という哀しい経験則を確認したに過ぎない。

そうですね。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人には、意思がない。無為無策でいる。仕方がないから、座して死を待つ。
意思 (will) は未来時制の文章内容である。日本語の文法には、時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には、未来時制もない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。こうした日本人の困難を克服するために、戦時中には精神主義が唱えられた。武芸の鍛練をとおして機敏な動作のできる人間を育成することはできたが、いかんせん、日本人にリーズン (理性・理由・適当) を持たせることはできなかった。だから、日本人には、リーズナブルな答えを期待することはできない。
'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)

>わが国では「さまざまな危機的事態を想定して、それぞれについて最適な対処法を考える」という構えそのものが「悲観的なふるまい」とみなされて禁圧されるのである。

そうですね。‘縁起でもないことを言ったりしてはならない’ のですね。それは、気分・雰囲気が悪くなるからです。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

> 近年、東芝や神戸製鋼など日本のリーディングカンパニーで不祥事が相次いだが、これらの企業でも「こんなことを続けていると、いずれ大変なことになる」ということを訴えた人々はいたはずである。>でも、経営者たちはその「悲観的な見通し」に耳を貸さなかった。>たしかにいつかはばれて、倒産を含む破局的な帰結を迎えるだろう。>だが、「大変なこと」を想像するととりあえず今日の仕事が手につかなくなる。>だから、「悲観的なこと」について考えるのを先送りしたのである。
(略)
>黙って破局の到来を待っている。

座して死を待つばかりですね。一億総玉砕のようなものですね。

> 寄稿は以上。
>しかし、これは人口減に限らず、今日本で起きていることのすべてに適用できそうな話である。

そうですね。日本人のメンタリティに起因した現象ですからね。

>公文書改竄事件でも、省庁の各所に「こんなことを続けていたら、いずれ大変なことになる」ということを訴えた人はいたはずである。>でも、要路にある人々は耳を貸さなかった。

要路にある人々は、自己利益に囚われた小人ばかりでしたね。わが国には、なぜそれほど小人が多いのか。それは、世界観 (world view)を持っていないからでしょう。処世術 (how to get on in the world) ばかりの人間が、小人ばかりの国を作り上げている。
世界観は、時制 (tense) のある文章内容で表現される。世界観は、非現実 (考え) の内容で、それぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) 分かれて存在する。各世界の内容は、個人により限りなく展開が可能である。初めは、各人共に内容のない白紙の状態であるから、各人が成長過程で自分なりに内容を容れている。この世界観の内容を個人の基準にとって現実の内容を批判すれば、個人が批判精神を示したことになる。英文法には、時制というものがあるので、英米人には世界観がある。そして、批判精神もある。だが、日本語には時制がないので、日本人には、批判精神がない。処世術オンリーになっていて時流に流されるのもやむを得ない状況にある。

>彼らには耳を貸さない代償に個人的な栄達が約束されていたからである。

それ以外に、進むべき方向は無いでしょうね。批判精神を示す道は、残念ながら日本人には閉ざされています。

>組織の長期的な信頼性や安定よりも、わが身たいせつを優先させる人々たちが選択的に出世できる仕組みを作り上げたこと、それが安倍政権5年間の際立った「成果」である。

立身出世の物語は、今に始まったことではない。昔の話にも出て来るテーマである。だが、今の日本人には、これしかない。ナウな感じのする現象である。

>それで日本社会がどれほど損なわれたのか、被害の規模と深さを思うと気が遠くなりそうである。

驚いている場合ではない。正しい道を考えるときに来ています。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解すべきです。さすれば、英語を使って、自己の意思と世界観を表現可能なものにすることができます。一旦、文章ができれば、その内容は、脳裏にとどめおくことが可能になります。だから、世界観を持たずに、つかみどころのない人間にとどまることもありません。意思がなくて、優柔不断・意志薄弱な人間でもなくなります。
英米人は、日本語を話すときでも日本語の欠陥による閉塞感に囚われることがありません。日本語以外にも考え方があるからです。我々日本人も、二刀流の構えで行きましょう。


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私が語る

2019-07-29 15:03:13 | 文化

>田野健 HP ( 58 兵庫 設計業 ) 19/05/04 PM08 【印刷用へ】 >内田樹氏と池上六郎氏の対談集「身体の言い分」という著書の中に言葉に関して書かれている部分があったので紹介したい。 >内田先生が語られている言葉の本質の部分。
> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
> コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。

そうですかね。本人の発言が首尾一貫しないと、つかみどころのない人間になりますね。他人の内容を受け売りするのであれば、その内容は、様々になりますね。

>「互いの声が届く」ということです。>でもこういうことって、なかなか理解してくれる人がいないんですよ。

そうでしょうね。私にもわかりませんね。問題は、話者と聞き手の距離にあるのですか。

>むしろそれとは反対に、どんな場面でも、同じ顔、同じ声で押し通すことがよいことであるという考え方の方が、今ではコミュニケーションについては支配的なイデオロギーですよね。

そうですね。 個人の信用にかかわる事柄ですからね。‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)

>どんな局面でも、どんな相手でも、つねに「自分らしさ」を貫き通せ、と。

そうですね。人格変化を起こしては、信頼されませんね。

>親に対しても教師に対しても目上の人間に対しても庇護しなければいけない人間に対しても、同じメッセージを同じ言葉使いで語り続けろ、と。>そういうことを言う人がいるんですよね。知識人たちの中にも。

そうでしょうね。別に、不思議なことはないですね。

> (中略)
> 今の若い人たちが、単一の「自分らしさ」をあらゆる場で押し出すというのは、谷川俊太郎的にいうと「うるさい」ということですね。

谷川俊太郎氏は、反個人主義者ですか。彼は、若い人たちの個性の内容には興味がないのですかね。

>そのうるささ、その不愉快さというのは「礼儀正しくない」とか「敬意がない」というようなレベルのことではなくて、「私が語る」ということそのものの不快さなんです。

彼は、’滅私’ の世界の支持者ですか。

> 言葉というのは、本来「わたし以外のだれか」が「わたし」の口を通して語るのを「わたし」が聴く、という屈折した経験なわけですよね。

そんなことは、無いでしょう。それでは、受け売りのような内容になりますね。自分の口から他人が出るのはおかしいですね。

>自分の言いたいことがあらかじめあって、それを告知するわけじゃない。

自分の言いたいことがなければ、無哲学・能天気な状態なのでしょうね。

>今自分が何を話しているのか、これから何を話すのかを自分は「知らない」。

‘兎角、この世は無責任’ ということですかね。

>だから自分の声に耳を傾ける・・・・というかたちで言葉に対する最初の「敬意」は生まれるんです。

そんなものですかね。相手の発言に耳を傾けるのが大切ではないですか。傾聴は、発言者に対する敬意を表すことになりますね。

>そうやって自分自身の口から出てくる言葉の「静けさ」を聴く修練を積むわけですよね。

自己の考えの力説は無いのですか。相手の口から出て来る言葉の意味を理解する修練も無いのですか。

>だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語るときに「うるさい」ものになる。

兎角、この世は無責任ですね。私ではない誰かは、不特定多数の人間ですか。私が語る時でなければ、発言内容にいかなる他人も責任は持てませんね。ですから、他人の考えを絶対化するのはやめた方が良いですね。それは、危険な遊びです。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、絶対化について次のように述べている。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
つかみどころのない人間は、絶対化のインフレを起こす傾向にありますね。


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世界一の想像力

2019-07-29 02:10:56 | 文化

>345876 世界一想像力があるのに自信がない日本人 >大崎 ( 25 千葉 会社員 ) 19/05/14 AM09 【印刷用へ】 >(リンク
(略)
>■結果を出す人は「目を輝かせ、胸を張り、大きな声を出す」
>「世界5カ国の5000人を対象とした最近の調査によると、日本以外の国の回答者たちは、日本が世界でいちばんクリエイティブな国だと答えました。>ところが、日本がもっともクリエイティブだと回答した人の割合は、なんと日本人がいちばん低かったのです」 >……なんとなく、納得のいく結果ですよね。>ぼくもこの結果を見て「日本人らしいなあ」と感じました。

そうですね。誰もが感じていることでしょうね。

>これはひとえに、「自分たちがもっともクリエイティブなんてとんでもない」、ひいては「自分はクリエイティブな人間ではない」という自身に対する自信のなさのせい、「ブレーキ」のせいでしょう。

‘謙譲の美徳’ というのでしょうかね。自画自賛かな。

>ここでみなさんにお伝えしたいのは、「自信(クリエイティブ・コンフィデンス)がなければ創造性は発揮できない」ということ。>「自分のアイデアなんて」と萎縮しているうちは、創造的にはなれないということです。

そうですね。常に第二バイオリンばかりを奏でている日本人ですね。

>ちょっと思い浮かべてみてください。 >いい切り口の企画を考える同僚、メディアやSNSで見かける起業家、「新しい働き方」を生き生きと実現している人たち。 > 彼らは、自分のアイデアに強い自信を持っているように見えませんか? >目を輝かせ、胸を張って、大きな声でみんなに呼びかけ、行動に移している。 >もちろんそう「見せる」こともアイデアを実行するための戦略のひとつです。>しかし、彼らは間違いなく自分の発想に対して信頼感を持っている。

そうですね。

>そしてこの「自信」が行動につながり、次のクリエイティブを生み出す。 >より創造的になっていくのです。

そうですね。成功の経験が自信につながりますね。

>クリエイティブな人とは、ただ発想力に優れている人ではありません。>自分の主観を信じる力が強い人が、結果としてクリエイティブになっていくのです。

そうですね。意思 (will) のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。だから、日本人には能動が無くて受動ばかりがある。他人の後追いばかりでは、自信が持てない。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。だが、英文法には時制があり、英米人には意思がある。
日本人には意思はないが、恣意 (self-will) がある。意思の自由は認められても、恣意 (私意・我儘・身勝手) の自由は、認められていない。それは、’自由のはき違え’ になるからである。だから、日本人は、常に自重する必要がある。自分の行動にブレーキをかけていなくてはならない。

>自信と創造性は、ニワトリと卵のようなところがあるんですね。

創造性と自信は、車の両輪かな。
非現実 (考え) の内容を現実の世界で実現すれば、それは創造力を発揮したことになります。現実の世界の内容を現実の世界で再現すれば、それは模倣をしたことになります。
非現実 (考え) の内容を文章にするには、時制が必要です。時制のある文章内容は、それぞれに独立した三世界 (過去・現世・来世) の内容を表すことができます。これらの世界の内容は、何処までも展開可能です。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本語には、時制がないので、日本人は、自己の考えを文章にすることができない。だから、日本人の文章内容は、論理的な哲学にはならず、支離滅裂な空想・妄想となる。おかげさまでわが国は、漫画・アニメの大国になった。
日本人は、真面目人間にはなれない。いつも浮いた感じがする。ナウな感じで、奥がない。だから、浮世に住んでいる。しかし、常に閉塞感に付きまとわれている。だから、憂世にも住んでいる。これは、昔からそうである。我々は、日本語と共に歩いてきた。

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矮小化

2019-07-28 03:15:15 | 政治

>347986 日本の政治レベルを低下させた要因は >匿名希望 19/07/27 PM00 >リンクより転載
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> 日本の政治レベルが著しく低くなった要因はいくつかありますが、その1つが日本の役人の影響力が低下し、レベルが下がったことです。

役人には、政治責任がありませんからね。彼らは、民主主義により選ばれた国民の代表ではありません。ですから、役人が政治に影響を与えることは好ましくありません。

>これは役人の人事権を取り上げてしまった安倍政権にも責任があります。

政治家には、政治責任がありますからね。責任ある態度を示すことが必要です。

> 従来なら、事務次官が握っていた人事権が政治家に移ってしまったため、役人が政治家に頭が上がらなくなり、その結果、数多くの「忖度」が生まれることになっています。

忖度 (推察) は、危険な病気のようなものですね。国民病でしょう。忖度は、自分勝手の解釈です。政治家には、関係がありません。ですから、議論の対象にもなりません。議員には関係のないことです。

>かつての誇り高き日本の役人なら、政治家の言いなりにならなかったのですが、今の役人はすっかり牙を抜かれてしまった状態です。

政治かも役人も自己の責任順位に従って行動すべきですね。

>そして、日本の政治レベルを低下させた最大の要因は小選挙区制です。

無哲学・能天気の有権者には、’あるべき姿’ の内容は通じませんね。

> 以前の中選挙区制なら1つの選挙区から複数人の議員が選出されましたが、小選挙区制では1人のみです。

政策の議論を期待してのことでしょう。同じ政党の候補者同士が争うことがありません。

> 約人口30万人に議員が1人という割合になります。>1つの選挙区から複数人選ばれていたときなら、余裕がある人は金融や外交といった「広い」「外側」のことに目を向けることもできました。

一つの選挙区から複数人選ばれたのでは、政党別による政治にはなりませんね。各政党は ‘広い’ ‘外側’ のことに目を向けた人物を党公認の候補者として挙げるべきですね。

>しかし、小選挙区制になったことで、議員は広いビジョンなどを語っている場合ではなくなりました。> 端的に言えば、「おらが村にいくつの米びつを持ってきてくれるのか」というような非常に小さいレベルの話に終始するしかなくなったのです。

日本人には世界観 (world view) がない。人々は、目先・手先の事柄に専念している。だから、政治音痴はさけられない。

> 小選挙区制により、国会議員が矮小化してしまったと私は思います。

大言壮語すれば、空想・妄想の類になります。国がひっくり返っても、責任者は出ない。矮小化なら被害が少ないかな。それもはっきりとはしませんね。お陰様でわが国は、漫画・アニメの大国になりました。だが、我々は、真面目人間にはなれない。

> 小選挙区制を変えない限り、日本には大きな発想を持てる議員は現れないでしょうし、現れても選挙で選ばれません。

そうですね。有権者は、大きな発想を求めていない。現れても選挙で選ばれないのが根本にある原因ですね。
日本人は、話が小さい。非現実・考えの内容は、頭の中にある。外からは、見えない。ただの話である。話の筋がわかる為には、文法に従って文章内容を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人の我々は、理解をしない。忖度で行く。文章内容は理解されるが、忖度は聞き手の勝手な解釈である。現実直視ができていない。だから、極めて危険である。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

> 小選挙区制によって、日本という国が不可逆的に矮小化してしまったのは本当に残念です。

同感です。我々は、自己の判断を問われて ‘元の木阿弥’ にかえったのですね。目先・手先のことしか考えない国民ですからね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、英文法にある時制 (tense) というものの大切さを理解すべきですね。さすれば、我々は、自己の世界観を持つことができます。自己の意思を表現することも可能になります。自己の主張を広めることにより、世界の人々から広く信頼されるようになるでしょう。自己の世界観に従って未来社会の建設に着手し、広く協力者を得ることができるでしょう。我々は、人類の進歩に貢献できます。


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