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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

自分で決める 2/2

2020-01-31 15:40:38 | 社会

>かくいう私も、ニューヨークの国連本部で働いていたときには、この「足りない」という感覚にずいぶんと悩まされました。

自主・独立の気風が不足していましたね。

>ストレスと海外出張が重なり出張中の機内で倒れたこともあります。>一番苦しかったのは、いくらやっても自分のなかで「これでいい」と思えなかったことでした。

それは、あなたの向上心のなせる業ですか。立身出世の為の意欲のせいですかね。

>しかも、SNSが広く普及している現代は成功者の華やかな生活が目に入りやすく、作られた理想像と自分を比較して、自信をなくしたり、焦燥感に悩まされたりしやすい環境にあると言えます。

‘現実’ 対 ‘現実’ の比較ばかりですね。

>また、とても残念なことに、自分に与えられた才能や経験を誰もが過小評価しがちです。>理想に合わないというだけで、自分の持っている資質を強みだと思えないのです。

さうですね。理想 (非現実) の内容は頭の中にある。現実の内容は頭の外にある。両者はその所在が異なるから、内容も同じにはならない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。日本人は仕方からないから、無為無策でいる。
  ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく) 

>1つの指標や理想像に価値を見出し続ける限り、その構造は続きます。

そうですね。個人主義の不足によるのでしょうね。

>そこから解放されるためには、他人がつくった指標や理想を追うのではなく、「自分にとっての指標」「自分はこれでいい」と思える軸を作ることです。

そうですね。’現実’ 対 ‘非現実 (自己の考え)’ の比較が必要ですね。

>それこそ、「美味しいかまずいかは、自分で決めればよい」というスタンスは1つの方向性です。

そうですね。 好みは人により違います。Tastes differ. 

>そこまで極端な言い方をしなくても、ある物事に対してどう思うかは自分が決めればいいのです。

そうですね。自主・独立ですね。思考停止の状態ではいられませんね。

>では自分なりの「軸」を確立するにはどうしたらいいのでしょうか? 

非現実 (考え) の内容を自己の頭の中に持つことですね。日本人にも世界観が必要ですね。
全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
非現実・考えの内容は、時制のある文章内容になる。その内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) になる。人生の始まりには、それぞれの世界は白紙の状態である。白紙の状態は誰しもきになる所である。だから、各人が自主的に内容を埋め合わせていく。かくしてそれぞれの世界観が出来上がる。未来の世界の内容は、自分の ’あるべき姿’  (things as they should be) になる。世界観 (非現実) を基準にして現実の内容を批判すれば、批判精神の持ち主になる。
日本語には時制がなく、日本人には世界観がない。だから、日本人には批判精神がない。
英語には時制があり、英米人には世界観がある。だから、英米人には批判精神がある。我々日本人も日本語と英語の両言語を良く学び、文法における時制の大切さを理解するとよい。さすれば、非現実 (考え) の内容を表現することか可能になる。英米人は日本語を話す時でも閉塞感に煩わせられることはない。考え方はいくらでもあるからである。彼らのやり方でやれば、我われにも道は拓ける。かくして、自己実現も可能になる。

>それには、身体面からのアプローチをおすすめしたいと思います。

意味が良くわかりませんね。



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自分で決める 1/2

2020-01-31 15:17:32 | 社会

> 就活、婚活、妊活、終活……「○○活」という言葉を見るたび、どう英訳したらいいのかと悩みます。これらは日本にしかない特有の言葉だからです。

就活は就職活動のことですね。

> 「○○活」という言葉には、ある1つのモデルが存在していて、それこそが正解であるというニュアンスがあります。

「○○活」という言葉は、試験問題のようなものですかね。

>この「唯一無二の理想がある」という考え方は、日本人のランキング好きにも関係しているように思います。

そうですね。日本人の理想は、序列の一位になることではないですかね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。ですから、世俗的な上下 (序列) 判断は欠かすことができません。上下判断に疎い人は日本語の日常会話にも支障が出てきます。
その上、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、上下判断が疎かであっては、礼儀正しい日本人になることもできません。序列なきところに礼儀なしです。
人を見損なってはいけないという想いが、世俗的な序列の存在を探求してやみません。

>たとえば、偏差値、人気企業、芸能人のランキングなどです。

‘上と見るか・下と見るか’ の判断ですね。日本人の熱心にはそれしかない。数値による表現が可能ですね。オリンピック競技のようなものか。

(略)
>ただ、ランキングがある限り、1つの指標に従った上下関係が生まれます。

それは、同次元序列の競争のようなものですね。 天皇を頂点とした序列国家のようなものかもしれない。

つまり「勝者」と「敗者」が作られるのです。

常に我が国民には勝者決定戦が必要ですね。ただ、天皇の存在が我が国民に天下取りを断念させています。

> 私たちの社会がある一定の指標を前提としている限り、その構造は変わりません。

日本人の社会は、人間序列を指標としていますね。

>ランキングがあれば、自分の頭で考えて判断しなくて済みますから、人間はある種の「秩序」というか、一見もっともらしい理由にすがって安心したいのかもしれません。

そうですね。我々日本人は序列人間ですから、序列の存在を確認すればメンタリティ(考え方) が救われますね。個人の基準による判定から解放されることになりますね。

>しかしながら、そうした指標が妥当かどうか、または自分にとって役に立っているかどうかはまったく別の話です。

それはそうですね。世俗の上下には理不尽なものが多く含まれているでしょうね。何しろ日本人には批判精神 (critical thinking) がありませんからね。自然放置の状態です。

> 常に満たされない日本人 > 日本人はよく自信がないと言われますが、それにも「○○活」好き、「ランキング」好きの国民性が深く関係していると思います。

そうですね。わが国には、‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 
国民は無哲学・能天気ですから、 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>なぜなら、ある1つのモデルを理想にしていると、いつも何かが「足りない」からです。

日本人には、個人的な世界観 (world view) がない。だから、世俗的な価値観を現実の中の他に求めなくてはならない。’期待される〇〇像’ ということになるのかな。

>ある理想像のもとでは、私たちは常に「減点評価」の対象になります。

そうですね。ある理想像 (非現実) のもとでは、私たち (現実) は常に「減点評価」の対象になりますね。そして我々は、その理想像をわが国家の為政者に求めていますね。現人神とか皇民化教育の始まりですかな。

>すると自分の能力や努力が足りないという強迫観念に急き立てられ、いつまでたっても満たされることがありません。

そうですね。為政者の理想像に近づこうとする生涯の努力を必要とする哀れな人間ですね。


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現代の学校教育 2/2

2020-01-28 13:50:40 | 教育

> 教団の教祖とか、一国の独裁者といったような特別な立場の人でなくても、普通のお母さんや普通の先生でも、子どもを思い通りに支配しようとする人は、子どもを洗脳しようとするのです。
>そして、自分の頭で考えることや、自分の感覚で感じることを許さず、お母さんや先生の言うことに従うことだけを求めるのです。

そうですね。考えは個人個人により違いますね。しかし、思考停止の状態では人々は没個性になりますね。

>そのような人は、子どもが自分の価値観とは異なることを言ったり、したりすると、子どもの言葉には耳を傾けずに、一方的に「反抗的だ」「悪い子だ」と非難、否定します。

そうですね。信心のようなものですね。折伏あるのみですね。

>そして、叱ったり、怒鳴ったり、時には叩いたりもします。

暴力沙汰ですね。家庭内で悲劇が繰り返されますね。                                                                                                                                                    

>また、自分にとって都合の良いことをした時にはすごく褒め、そうでない時には無視することもあります。

論功行賞ですね。

>そうやって、大人の都合の良いように支配しようとするのです。

それは懐柔策ですね。

>それを繰り返されていると、子どもはお母さんや先生の顔色を見て行動したり、お母さんや先生に褒めてもらうために積極的に行動するようになります。

空気の読める人間になるのですね。立派な日本人になるのですね。

> 洗脳の成功です。>そう見ていくと、残念なことに、日本の教育の現状は「教育」というより、「洗脳」に近いものです。

そうですね。

> 日本の教育現場では、「なぜ?」「どうして?」は受け入れてもらえません。

疑問には、答えを出す必要があります。それには考える必要が生じます。考える人の出現になります。教養ある人間の出現になります。

>それを言えば、反抗と受け取られてしまいます。

思考停止の状態への反抗ですね。無哲学・能天気の国への反抗ですね。

>そして常に「お上が決めた正解」を覚えるように求められるだけで、自分の頭で考えることは求められていません。

そうですね。現実には、唯一の正解が存在しますね。

>それでもそれを「洗脳」と感じる人が少ないのは、今のところ覚えさせようとしている内容が勉強に限られているからです。>でも、その方法は洗脳と同じ方法を使っています。>それは戦争中と同じ方法です。

そうですね。方法は皇民化教育と同じですね。 覚えさせようとしている内容はグローバル (全地球的) でもなければ、ユニバーサル (普遍的) でもない。

> 戦争中と今とでは「教える内容」は変わりましたが、「教え方」は変わっていないのです。

そうですね。暗記中心ですね。暗記内容を変えての序列競争ですね。

>だから自分の頭で考えることが困難な人が増えてきてしまっているのです。

そうですね。これでは進歩がありませんね。
 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り) 

>でも、方法が変わっていないのですから、為政者の判断次第では簡単にその内容を戦争中に戻すことも出来ます。>その時、「教える内容」に反対してもあまり意味がないのです。

そうですね。為政者の恣意により変えられますね。我々には、自主・独立の手段が必要ですね。

> 「何を教えるか」も大事ですが、それ以上に「どう教えるのか」ということがもっと重要な問題なのです。>でも、その議論は聞こえてきません。 

そうですね。
日本には、 ‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク) 
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)

>もっと根本的なところから議論を始めないと、同じ歴史が繰り返されるだけです。

そうですね。この道はいつか来た道 ああそうだよ、、、、 根本的な教育改革が必要です。

> (引用おわり)


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現代の学校教育 1/2

2020-01-28 13:27:27 | 社会

>匿名希望             17/01/30 PM01 【印刷用へ】  >現代の学校教育、そして学校教育を受けてきた親たちが抱える子育ての弊害について、歴史を踏まえた平易な言葉で発信されている方が増えてきています。 > 以下、(リンク)より紹介させて頂きます。> * * *
> 世に言う「洗脳」と、子どもの育ちに必要な「教育」の違いが分かりますか。

分かりますけど、その説明は難しいですね。

>その一番大きな違いは、「洗脳」では疑うことが許されないのに対して、「教育」では疑うことを大切にしていることです。

そうですね。洗脳のモットーは、’ゆめゆめ疑うことなかれ’ ですね。疑うことの命題は、’我らは何処からやってきたのか’、’我らは何者であるか’、’我らは何処に向かうのか’ などが知られていますね。

>つまり、「そんなの当たり前だろ」「そんなの常識だよ」という態度を育てるのが「洗脳」で、「なぜ?」「どうして?」「不思議だね」を大切にするのが「教育」だということです。

そうですね。現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。答えはただ一つ。だから、考える必要は無い。楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。
考えを知るのにはその文章を文法に従って理解する必要があります。これは厄介な作業であります。だから、日本人は通常理解をしない。その代わりに忖度 (推察) を使います。 
忖度と理解は似て非なるものである。だから要注意である。忖度は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。両者に食い違いがあっても議論にならない。かくして忖度の主は孤立する。
忖度の主に現実直視になっていないことを指摘すると、’だって私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と言って反発を示す。だから議論にならない。かくして日本人の無理解は続く。 

>それはまた、誰かが決めたことを覚え込ませ、信じ込ませるのが「洗脳」で、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、実際の体験や活動を通して自分の力で学ぶ力を育てるのが「教育」だということです。

そうですね。

> 「洗脳」では知識を覚え、それを信じればそこで終わりですが、「教育」では、知識は自分の頭で考えるためのきっかけや道具に過ぎないのです。

そうですね。

> 一度洗脳されるとそれがなかなか抜けないのは、洗脳されると「なぜ?」「どうして?」という感覚を失い、自分の考えていることを疑うことが出来なくなってしまうからです。>そのため、他の人にも自分が信じていることをそのまま押しつけようとします。

そうですね。自己の暗記力に絶大な信頼を寄せているからですね。

>また、洗脳された人間は、マニュアルや誰かの指示がないと動くことが出来ません。

そうですね。
  ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)                                                                                                                                                                            

> 自分の頭で考えることが出来ないからです。

日本人には理解は難しく忖度に頼りますから現実離れのした妄想・空想になります。戦時中は、’日本は必ず勝つ’ などと力説していました。

>でも、上の方から指示を与えられると、その内容の是非の判断をせずに、素直に従います。

まるでロボットのようなものですね。

> 極端な場合は、「敵を殺せ」とか「サリンを撒け」と言われたら、「分かりました」とそのまま行動に移すのです。>そして、罪悪感を感じません。

そうですね。日本人には意思がない。だから、受動があって能動がない。被害者意識ばかりで加害者意識が無い。だから、罪の意識もない。意思の無い人には責任もない。とかくこの世は無責任。この国がひっくり返った時にも責任者は出なかった。

> 自分の頭で考えず、自分の意識で判断しない人は罪悪感も感じないのです。 >それはロボットと同じです。 

人間性に欠けていますね。

>またそのような人は言われたことしかしないし、出来ません。> 自由に作ったり、描いたり、歌ったり、踊ったりというような、創造的で人間的な「趣味」を楽しむことも出来ません。

非現実 (考え) の内容を現実の内容に変換できれば、その人は創造力を発揮したことになります。
現実の内容を現実の中で再現できれば、その人は模倣力を使ったことになる。模倣力も有力な手段となります。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の人々は、模倣力に優れていて、創造力の発揮が苦手であります。
模倣力の競争には参入者が多く、競争が過酷なものになりがちです。

> 人は洗脳化されると、人間性を失ってしまうからです。

人間性を失った競争を強いられますね。

>だから怖いのですが、だから、支配欲の強い人ほどこの方法を使いたがるのです。

そうですね。敗戦後シベリヤ送りで筋金入りの人間が大量につくられましたね。



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吉田氏・吉本氏

2020-01-27 16:09:42 | 文化
>男と女の職場話  19/06/22 PM09 【印刷用へ】  >こんばんは☆ >先日の実現塾で、西欧科学のどこが狂っているかという事例として、「作りっぱなしで、無責任である」こと、例えば、 >・便利だといってプラスチック作りました。>→でも今環境破壊を引き起こしています。

悪いところがあれば我々利用者の側で改めればよいでしょう。

>・効率的だと言って原発作りました。>→放射能汚染廃棄物をどうするの?を誰一人考えていませんでした。

悪いところがあれば我々利用者の側で改めればよいでしょう。

> 等が挙がったのですが、それに対し「科学は中立だから、科学に責任はない」との反論が世の中にはあるということを知りました。

そうですね。科学には意思がない。だから、科学には責任がない。だが、我々には意思がある。意思のあるところには方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だから、人間が現実の内容を改めればよいでしょう。
ところが日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。
科学には意思がない。だから、科学には責任がない。日本人にも意思がない。だから、日本人にも責任がない。とかく、この世は無責任。仕方がないから、日本人は無為無策でいる。思考停止の状態でありながら閉塞感を伴っている。これが ‘日本の問題’  (The Japan Problem) である。

>へ? >なんじゃそりゃ?と思ったので、調べてみると、原発推進派の方の衝撃の発言が・・・ >続きはこちら♪⇒リンク               
 > 少なくとも日本では、半世紀、死者を出すような事故はないんですから、逆に考えて『これほど安全なものはない。航空機よりもっと安全だ』ということになる。〈『原発に集ってきた人々』(吉田矩彦著)、19p〉 と言っていたというかことだが、吉本は続けて、 それから科学技術は、それが危険であろうとなかろうと、中立であり、そこに政治性が入る余地がないわけです。

そうですね。科学自体には政治性はありませんね。政治家は、科学技術をただ利用するだけですね。日本の政治家にも意思がない。だから、責任もない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) があるので、これにより指導する。意思は文章になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在するので意味がない。だから、恣意の政治家は説明責任が取れない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。だから、危険千万である。
科学に関する考えは、科学哲学になります。政治に関する考えは、政治哲学になりますね。原発は政治家により建設されました。科学と政治は混ぜて論ずるわけにはいけませんね。

>科学技術をよく知っているか、どうかの差はあっても政治的見識見解が原子力についての考え方を分けてしまうのはおかしいので、科学技術は政治的に中立だということは非常にはっきりしなければと思うんです。〈同19p~〉と述べていたということを、吉田矩彦氏は教えてくれる。

科学技術の内容には政治的な内容は関係ありませんね。分けて考える必要があります。

>そこで私は、なんだこの吉本の論理はと訝ってしまう。>「科学技術は、それが危険であろうとなかろうと、中立であり、そこに政治性が入る余地がないわけです」という論理はおかしいだろうと。

そうですね。科学技術が原発を出現させるわけではありませんね。政治家が科学技術を利用して原発を建設しているわけですね。だから、原発には政治性が大ありですね。まさに政治そのものです。

>百歩譲って「科学技術は、それが危険であろうとなかろうと、中立であり」までは是としても、「そこに政治性が入る余地がないわけです」という理屈が私にはわからないし、入る余地があるはずだと思うからだ。

そうですね。放射能は危険ですね。放射能の発見者キューリー夫人はそれがもとで白血病になり死にました。原発は政治家の努力により政治的に建設されているものです。政治が無くては原発の建設はあり得ないものです

> それ故にだろう、吉田氏が、 しかし、扱う人間は中立ではない。

そうですね。建設する人は賛成派の政治家ですね。

>吉本は「問題は恐怖心や倫理性の組織化だ」と言うが、吉本が原発についての恐怖心を持たないのは、ただ鈍感だからだということになる。 〈同20p〉と鋭く反論していることは尤もなことだ、と私も思った。

‘めくら蛇に怖じず’ ですね。倫理に関する考えは、倫理哲学になる。取り返しのつかない災害を引き起こす原発にエネルギー源を求めるのは浅はかな考えですね。政治哲学には倫理性も必要ですね。倫理無き政治の遂行であっては幸福にはなれません。

>吉田氏の反論の論理の方がはるかに吉本の論理より説得力がある。

そうですね。政治哲学と科学哲学を混ぜて論ずるのは間違いですね。科学は学会で、政治は議会で論じて決着すべき内容ですね。

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