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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

敬語 2/2

2019-05-31 21:01:55 | 政治

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>重要なのは原点の部分だろう。>つまり、大自然を畏れ敬う精神性。

世界遺産 (複合遺産) に登録されている豪州のUluru (ウルル) のようなものでしょうか。

>それを背景にしたウチ(集団)とソト(森羅万象)という世界観(認識)。

‘ウチの人’ と ‘ヨソの人’ が現実に存在しますね。’世の中は、、、’の発想法ですね。

>これがあったから、古代の日本人は集団を超えた偉大な対象に対して、別の言葉を必要とした(ウタを使って対話を試みた)。

‘日本人’ にも ‘日本人の神’ にも意思がない。意思の文章内容がないので、意味がない。だから、対話ができない。それで、歌詠みになる。言いっぱなしの一方通行になる。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。日本人の歌はバラバラな単語よりなるので、文章ではない。だから、意味がない。人々は、忖度 (推察) により、歌を鑑賞している。言語を考えの伝達手段として使っていない。

>日本語の敬語は、大自然に対して畏敬の念を示そうとする意思を原点にしている。

‘もったいなくも畏くも’ (graciously) ということですね。
日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語脳の脳裏には、未来時制は存在しない。そして、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。日本人は、おとなしい。

> 階級社会に移行した後も、三徳をもつ上位者に対して、まずは古代から変わらぬ位相(ウタ)で意思を示した。

歌はバラバラな単語で文章にならないから意味はありませんね。ですから、意思ではなくて恣意 (私意・我儘・身勝手) を示したことになるのではないですか。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

>これにより上位者との対話が可能となり、その成功体験がウタを超えた更なる敬意の表現を求めて、敬語という語彙と体系が形成されていったのだろう。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>くわえて、日本語の敬語表現が発達した背景には「日本語の意思疎通の力点が共感におかれている事(313641)」も相乗しているように思う。

日本人は、意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。だから、意思疎通は無いが、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。これが共感になっているのでしょうね。恣意には意味がないので議論にならない。なあなあになる。

> 上位者と下位者の意思疎通においても、微妙な感情の変化を看取して「共感」する必要がある。

下位者は、上位者の顔色を読む。これも、非言語の精神活動ですね。言語活動の領域が狭いですね。

>そのために、動詞の活用変化にとどまらない、新しい単語(敬語)を必要としたのではないだろうか。

そうかもしれませんね。

> 外国人が日本語の敬語表現を難解と捉えるのは、こういった歴史的背景から生じた敬語の必要性を理解できない点にあるのだと思う。

日本人社会における世俗の上下を知識として持たなければ、敬語の実用も難しいでしょうね。序列があるので敬語ができるのか、それとも敬語があるので序列社会ができるのでしょうか。

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敬語 1/2

2019-05-31 04:02:19 | 政治


>日本語は、多様な敬語が体系化されて用いられている珍しい言語だそうだ。

そうでしょうね。

>たとえば、「行く」という動詞を丁寧語で言うと「行きます」。> 尊敬語で言うと「いらっしゃる」「おいでになる」「行かれる」。> 謙譲語で言うと「伺います」「参ります」「○○しにあがります」などとなる。

相手を上と見れば尊敬語、自分を下と見れば謙譲語となる。上とみるか・下とみるかに関係がなければ、丁寧語になる。上下判断を駆使するところが、日本語・日本人の特徴ですね。

> 日本語の敬語は、同じ意味の言葉が動詞の活用(≒語尾の変化)という領域を超えて、別の単語になってしまう。>なおかつ、これを相手との関係性に応じて使用する“相対敬語”である。

韓国は、絶対敬語。わが国は、相対敬語。中国は敬語なし。ですね。

> 外国人が日本語を学ぶとき、大半が敬語で挫折するらしい。>日本人ですら適切に使えない場合があるのだから、無理もない。

そうですね。世俗の番付表に関する知識がないと、序列判断ができない。だから、外国人は挫折する。

>では、このように日本語の敬語表現が発達したのはなぜだろう?

敬語表現は、一種の文法なのでしょうね。それがないと気持ちが悪いもの。英語・英米人の世界観 (world view) のようなものではなかろうか。

> 敬語の起源は定かではないといわれているが、有意な仮説(論文要旨)を見つけた。>以下『敬語の原理及び発展の研究』リンク (PDF)より。

それは、幸運なことですね。

>――――――――――――――――――――――――――――――――――
>~前略~
> 日本は自然を神として畏怖する原ユーラシアの多神教的宗教観を、現代まで保持し続ける世界でも稀な国である。>日本の自然は、平素は穏やかで美しく実り豊かだが、数年ごとに各地で大災害を引き起こし、日本人にとって賛美し畏怖すべき親のような存在であった。

自然は、力の強い存在ですね。その祟りは恐ろしい。

> 自然の圧倒的な力の前には人間はまったく無力であったから、日本人は自然を凌駕したり改造したりする意欲を持たず、死者は自然に帰って神の仲間入りをするから、日本人の宗教は基本的には先祖崇拝であり、先祖の秩序を乱すことを忌んだ。

そうかもしれませんね。戒名のない祖先崇拝ですね。

> 日本語においては音を延ばすと遠くへ伝達する表現になる。「おい」と「おーい」の例でもわかるように、これは現代でも連綿と行われており、原始時代においてはこの遠隔表現がウタ(和歌の原型)であった。

歌詠みの始まりですか。
子音は長音にならないが、母音は長音になる。子音と母音を組み合わせておけば、音を延ばす発声が可能になりますね。

>日本人の世界認識はウチ・ソトで、ウチは自分を中心とするごく親しい人間、ソトはそれ以外の森羅万象で自然も含まれる。

ウチは、自己の所属する序列である。ソトは、それ以外である。鬼はソト。これらは、あくまでも現実の内容のことです。非現実 (考え) の内容とは違います。過去・現在・未来とか、前世・現世・来世の考えとは、次元が違いますね。

>原日本人はウチへの伝達には普通の言葉を使い、ソトに対しては音を延ばして言うウタを使った。

銅鑼の音のような声でないと、遠くには届きませんからね。母音の多い言語は、都合が良いということになりますか。

>日本に上下の階級秩序が発生すると、このソトに対する言葉遣いは、上位者に対しても使われるようになり、また上位者から下位者への返事にも使われるようになった。

上位者は、ソトの存在と同じになったのですね。

> 日本の上位者は自然の持つ三徳(寛容・鷹揚・寡欲)を要求されたため、下位者がウタによって訴える願いやお詫びを寛容に聞き入れ、上下の交流はウタの交換によって行われてきた。

長音を使う言語の威力ですか。‘初めに上位ありき’ですね。

>ウタが五七五などのリズムや掛詞などの修辞技巧を凝らし、歌となって芸術への舵を切ったとき、日常の訴えのための待遇表現が必要となり、それが敬語となったのである。

歌詠みであっては日常生活に支障があるので、敬語が発達したというのですか。韓国のような歌詠みのない国では、敬語はどのようにして発展したのでしょうかね。

>この敬語は日本独特で、上下の階級間の橋渡しとなる意義をもっており、筆者は「階級遵守語」と命名する。

階級遵守語は、橋渡しというよりも序列順位の固定に役立っているのではありませんか。

> 日本の歴史を通覧すると、下位者が階級遵守語を使って上位者にお願いやお詫びをすれば上位者は寛容にこれを聞き届け、両者一体となって社会を担っていく意識を持ち続けてきたことが瞭然となる。

日本人には、意思がない。意思の無い人には、責任がない。‘天皇は国民の為、国民は天皇の為’ というやりかたによれば、 ‘誰一人お上を恨む者無く’ということになるのでしょうか。上位者による下位者への抑圧は無かったことになるのですかね。下位者になればなるほど、自己利益に関して不利になるのではありませんか。

>そのため、前近代の日本においては、身分階級秩序が世襲で交替できないにもかかわらず、革命やクーデターがほとんどなく、しかも上下の交流が活発に行われて抑圧社会とはならなかった。

序列社会の固定化による諦めでしょうね。無哲学・能天気の人々の ‘打壊し’ では、革命やクーデターは成功しないでしょうね。自由・民権の運動は無意味ということになりますか。わが国の昔は、’不自由を常と思えば不足なし’という抑圧社会ではなかったのですか。

>敬語があったからこそ、かえって言いたいことが言えたのである。

敬語があるから、上下社会ができたのか。上下社会があるから、敬語ができたのか。同じく敬語を使う韓国人は、その答えを見出しているのかな。

>だが、このような社会運営に不可欠な敬語システムは、明治維新によって崩壊した。

維新により序列社会の固定は不可能になったのですね。新型の序列社会になったのでしょう。

>それは明治新政府の権力者が生まれついての上位者ではなかったため、三徳を持ち合わせず狭量に下位者を抑圧し、しかも富を独占する強欲に走ったからである。

明治時代に立身出世の機運が高まりましたね。

>下位者もまた我が身大事の臆病者となり、前近代の下位者の持っていた社会運営の当事者たる覚悟も勇気も、上位者を階級遵守語によって操る言語技術さえも失ってしまった。

水平の社会が到来したのですね。それにしても、老若男女の全てが、自分のことを ‘俺・俺’ と呼ぶ社会にはならなかったですね。

> ~後略~

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白井聡氏 2/2

2019-05-28 06:42:36 | 政治


> 対米従属とアジアでの孤立意図した米国
>  本書では、この対米従属構造が、90年代以降のグローバリズムの下で異様なる国益の売り飛ばしになっていったことを追っている。
>1989年に日米構造協議が始まり、それは後に日米包括経済協議と名を変え、年次改革要望書となり、日米経済調和対話となり、TPPとなった。
>これらすべては、アメリカのグローバル企業が日本市場に参入する道筋をつくるもので、日本の国民生活の安定や安全に寄与するための規制や制度すべてが、たとえば国民皆保険制度や食料自給までが、「非関税障壁」として攻撃の対象になる。

グローバル企業の自由が、民族国家の究極の目的と一致するものでしょうかね。

>  そして、「戦後の国体」の末期である現在、戦後日本の平和主義は「積極的平和主義」に転化し、それはアメリカの軍事戦略との一体化を意味し、実質的には自衛隊が米軍の完全な補助戦力となり、さらには日本全土がアメリカの弾除けと化している。

わが国に、積極的平和主義は可能でしょうかね。日本人には意思がない。だから、常に消極的にならざるをえないのではないでしょうか。無哲学・能天気では、心もとない。

>著者はそこに、かつての敗戦と同じ破滅の道を見ている。 >また、著者によれば、この対米従属構造の下でつくられるイデオロギーは、欧米に対する劣等感や崇拝意識と、アジア諸民族に対するレイシズム(人種差別意識)である。

日本人の上下判断は、何処まで行っても離れることはないでしょうね。孤高のメンタリティでしょうね。

>サンフランシスコ講和条約と日米安保条約をとりまとめたジョン・フォスター・ダレス(元米国務長官)は、日本人のこの2つのイデオロギーをうまく利用すれば、「日本人はアメリカに従属する一方、アジアで孤立し続けるだろう」と見通していたという。

日本はアメリカの一番子分でいたい。日本人は、水平の社会では生きられない。ダレスの慧眼ですね。

>  戦後、アメリカが日本に持ち込んだイデオロギーは、自由でも民主主義でもなかった。

恣意の日本人は、’不自由を常と思えば不足なし’ ですからね。無哲学・能天気の民の民主主義は、衆愚政治となる。

>さらにいうなら、日本を出撃基地にした朝鮮戦争やベトナム戦争をはじめとして、アメリカが「アジア人同士を戦わせる」という戦略の下で戦後、何をやってきたかということである。

アメリカ人は、お人よしにはなれないですね。日本人だったら、アジアのために国運を懸けるか。

>また、無謀な戦争を引き起こし日本を破滅に導いた日本の戦争犯罪者たちも、国内外の人民にはかりしれない犠牲を強いたその責任に頬被りして、戦後は中国・朝鮮やアジア人民への反感を煽り立ててきた。

意思の無い日本人には、戦争に対する責任感は無い。無哲学・能天気な民には、批判精神もない。兎角、この世は無責任。これは、歌にもなっている。

>戦争が生み出す悲劇を二度とくり返さないために、戦争犯罪者を処罰し、現在その方向に進む者を許さず、アジア諸国との平和と友好、平等互恵の経済関係を発展させてこそ、誇り高い民族の伝統を子どもたちに受け継がせることができるというものだ。

美辞麗句は、いくらでもある。しかし、日本人には、その意思がない。

>  今や資本主義の総本山アメリカの衰退はあらわとなり、パクス・アメリカーナ(アメリカの下での平和)は終焉を迎えている。
>朝鮮半島は平和へと向かい、中国が「一帯一路」構想の下で創設したAIIB(アジアインフラ投資銀行)にアメリカの同盟国が次次に参加を決めている。

中国のあくどいやり方が、どこまで通用するものやら。民は、自分の幸福がどこにあるかを知っている。政治家に教えられなくても知っている。アメリカや西欧には、移民・難民が押し掛ける。中国に押し掛ける民はいない。

>世界情勢が大きく変化するなかで、アジア諸国との平和、友好を進めることが日本の国益にかなう道である。>そのためにも戦後の対米従属構造を根本的に改め、民族の主権をとり戻すという課題が、われわれに突きつけられている。(浩)

意思の無い民に独立・自立の道は無理でしょうね。空念仏に終わるでしょうね。対米従属構造を改めることは、おいそれとはできないでしょうね。序列判断で行けばわが国は、アメリカ名親分の下の一番弟子で、それなりに存在感を意識できる状態にあります。この状態が、日本人のメンタリティに適合しているのであります。’あっしは、〇〇組の者でござんす’ と見栄をきるのが序列メンタリティのある人間にかなっているのでしょうね。これは、浪花節の世界か。
日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、英文法における時制 (tense) の大切さを十分に理解しなくてはならないでしょうね。発言に時制を使うことができれば、自己の意思も持てるし、積極策も採れる。世界観 (world view) を持つことにより、批判精神も持てる。’あるべき姿’ を公言して、国際社会で信頼を得ることも可能になる。我々日本人の道は開ける。

>  (集英社新書)



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白井聡氏 1/2

2019-05-27 21:56:49 | 政治
>・・・・・・・・・・・・・引用開始・・・・・・・・・・・・・・・・
>    『国体論 菊と星条旗』 著・白井聡
>  最近、北朝鮮と韓国の南北首脳会談がおこなわれ、65年間休戦状態であった朝鮮戦争を終結させ、朝鮮半島の非核化と平和体制実現に向けて進むことで合意した。>この東アジアにおける戦後史を画する動きは、日本人にとっても、かつての大戦と戦後をどのようにとらえ、どのような未来を切り開いていくかを突きつけている。

はたして、日本人に、その答えが出せるか。

>京都精華大学専任講師の著者が4月に著した本書は、その意味で示唆に富んでいる。 >  本書は明治維新以降の日本の「国体」、つまり権力構造を概観している。>注目すべきは1945年の敗戦によってそれがどのような根本的変化を遂げたかを明らかにしていることだ。

日本人は変わらないでしょうね。日本人の魂は、’君が代’ のようなものでしょう。

>根本的変化とは、天皇のかわりにアメリカが権力を握ったことであり、民主化だけをやったと見せかけて、天皇制というピラミッドは残したままその頂点にアメリカが鎮座したことである。

それは、正解でしょうね。序列体制は、依然として元のままですね。

>  戦前の「国体」は、「万世一系」の天皇を頂点にいただく専制君主制国家であった。

そうですね。為政者の恣意 (私意・我儘・身勝手) による政治ですね。

>天皇制政府はアジアに対する侵略戦争から対米戦争へと突き進み、日本人320万人、中国やアジアの人民1900万人という膨大な犠牲者を出したあげくに破滅した。

本当に、無軌道の極みでしたね。

>そして1945年8月、天皇制政府は「国体(天皇の国家統治の大権)護持」を唯一の条件として敗戦を受け入れた。

国体は、序列国家の根幹ですね。これにより、序列国家の解散はまぬかれた。

>1946年に新憲法の審議をおこなった帝国議会でも、当時の首相・吉田茂は、新憲法によって国体は「毫も変更せられない」と主張した。

吉田茂の断言する如く、日本人の序列メンタリティは毫も変更させられませんでしたね。

>  しかし、1950年のサンフランシスコ講和条約の締結、それによる「日本の主権の回復」「国際社会への復帰」は、ファシズムの温床となった軍国主義の除去と体制の民主化、つまり国体が根本的に変更されたと認められることで可能になった。

わが国が軍国主義であろうとなかろうと、日本人のメンタリティは変えられませんね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。’上とみるか・下とみるか’ の判断は、片時も忘れることなく続けられております。世俗の上下判断が疎かであると、その人は日本語会話にも支障が出ます。
また、日本人の礼儀作法は序列作法になっているので、世俗の上下判断ができない人は、礼儀正しい日本人にはなれません。逆に、序列なきところにては、日本人は礼儀なしです。

>これに「国体は毫も変更せられない」と宣言した同一人物が調印した。

‘軍国主義’ や ‘民主化’ は単なる建前 (言い訳・口実・言い逃れ) であり、日本人の本音 (私意・我儘・身勝手) はまた別のところにあります。

>  ここには重大な欺瞞があった。>新憲法で「主権者が天皇から国民に移動した」とされたが、実際には占領下での主権は移動しようにも日本側にはなく、アメリカが握っていた。>主権は天皇からマッカーサーに移動したのである。

日本人には意思がない。だから、主権がどこに移動しようとも、日本人には大した問題にはならないでしょう。建前は、建前にしかならないでしょう。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在しない。だから、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。

>それは、戦後日本の武装解除を決定した権力と同じ権力が、1950年の朝鮮戦争にさいして、一切の民主主義的プロセス抜きで一片のポツダム政令によって、再軍備(自衛隊の前身である警察予備隊の創設)を命令したことにもあらわれている。

上位下達は、生きていますね。

>そして、サンフランシスコ講和条約は、同時に結ばれた日米安保条約とワンセットであった。>安保条約でアメリカが要求したのは「我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」であった。

アメリカ人にとって、無哲学・能天気の日本人は当てにならないですからね。

>  著者によれば、戦前戦中の保守支配層は、かつてみずから主導して「鬼畜」と呼んだ相手に膝を屈し、とり入ることで復権の機会をつかみ、それとひきかえに自発的に主権を放棄した。

鬼ノ弁慶が牛若丸に降伏したようなものですね。よくある日本話です。今後も語り続けてゆきましょう。

>革新陣営はアメリカの民主化を支持することで補完的な役割を果たした。>この国家主権の構造は占領終結で終わらず、日米安保体制として現在まで続いている。

安定しているメンタリティですね。

>それを象徴するのが、1959年に最高裁判決が出た砂川事件である。>  一審では「日米安保条約は憲法違反である」とする伊達判決が出た。>これに飛び上がったのがアメリカで、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世は伊達判決を無効化するよう、外相・藤山愛一郎や最高裁長官・田中耕太郎に圧力をかけた。

日本人は、つかみどころのない人間ですからね。

>最高裁は「米軍の駐留は憲法の趣旨に反しない」「日米安保条約のように高度な政治性を持つ条約については、違憲かどうかを司法が判断することはできない」との判決を下した。

弁慶が勧進帳を読むようなものですね。窮余の策。これは、日本人の好むストーリーです。民主的でも何でもない。昔から語り継がれた話の筋ですね。

>この判決は、駐日米大使から指示と誘導を受けながら書かれたという事実がある。

あくまでも、アメリカ人は日本人の教師ですね。日本人には、自己判断というものがないですからね。

>この判決で、日本の法秩序において、日米安保条約が日本国憲法に優越する構造が確定された。

憲法違反を理由にして、その条約を破棄することはできないのですか。

(略)


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唯我独尊

2019-05-27 02:35:59 | 哲学

>リンク
>他人から鬱陶しがられそうな言動を繰り返していても、相互不干渉がマナーになっている現代社会では、誰かが叱ったり注意したりしてくれることは少ない。

個人に対する干渉は、御法度ですね。

> 自分を叱ってくれる人、それもちゃんと心に刺さるようなかたちで叱ってくれる人は貴重な存在だ。

それは、神様しかいないでしょうね。それも、自己の意思を示す神様でないと駄目でしょうね。

> 大人の世界では、他人がまずい言動を繰り返していても叱ってくれる人はいない。>ただ黙っていられるか、距離を取られてしまうだけである。

そうですね。自主的な判断を待つばかりですね。大人の社会ですね。

>ひょっとしたらこの男性の兄弟や妻も、最初のうちは注意や忠告ぐらいはしていたのかもしれない。>だが、言うだけ無駄、言っても逆恨みされるのが関の山、と思って距離を取ることにしたのだろう。>こんな具合に、まずい言動を繰り返している大人は、自分の何がまずいのかを自覚する機会も無いまま、人が離れていき、唯我独尊に陥ってしまう。

困ったことですね。国際社会でも、そうした態度の国はあるでしょうね。

>■叱られにくく、自省もしにくい社会
> 私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい生活空間で暮らしている。> 赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。

そうですね。大人による叱責・体罰は子供の世界ですね。

>近所の人や地域の人から「おまえ、そんなバカなことやってどうすんの」などと言われる筋合いなどどこにも無くなった。

バカなことをしでかすのは、個人責任ですね。自主的な判断を待つばかりです。

> 万が一そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。

個人に干渉すると仕返しがありますね。

>そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られにくくなり、注意も忠告もされなくなる。>コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。

自己責任ですね。他人の判断は、当てになりませんね。

>「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く恰好の大義名分になる。>家族や兄弟ですら、3度も言って変わらなければ「もう言うだけ無駄だからなるべく離れて暮らそう」になってしまうし、一人暮らしをしている場合などは、誰も! 本当に誰も! 自分を叱ったり注意したりしてくれない。> 相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、他人から叱られる・注意される・忠告されるといった学習ルートを失ってしまった。

すぐに戦争を仕掛けることなく、ならず者の国に経済制裁を加えるようなものですね。これは、自分で考え直す機会を与えるものです。

> 失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。

直接的な個人干渉は子供向けですね。叱責・体罰はアニマルに対する調教のようなものですね。

>そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方で、自分自身の言動のまずい点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。

それは、個人の責任になりますね。個人の責任を認めなければ、おせっかい (不当干渉) になりますね。

>信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。

我々は、考える人になる必要がありますね。大人は、幼児期を卒業する必要がありますね。そうでなければ、知恵遅れです。

>そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、かりに誰かから何かを言われても、えてして自分自身の言動を省みない。

それは、その人個人の責任ですね。

>だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。

そうですね。個人主義の社会は、唯我独尊の社会ですね。個人の人権を認める社会ですね。全ての責任は、個人にかかります。個人主義がなければ、国がひっくり返った時にも責任者は出ませんね。

>■ネットは自省よりも自己正当化を促してしまう
> こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。>ネットを介して自省する筋道も無くはないだろう。>だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。

それは、個人次第ですね。

> 自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、たとえばネトウヨのようなアイデンティティの入れ物におさまるというのはよくわかる話だし、実例も見かける。>政治的なセクト・思想的なセクト・趣味的なセクト、その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。

デジタルによるツーカーですね。類は友を呼ぶ。Birds of a feather flock together.

>セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティも補償されるのだから、可否はともかく、セクトができるのは理解できる。>だが、セクト化した人は、えてして自分自身を省みなくなる。>セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。

それは本人の勝手な解釈によるものですね。現実直視から外れますね。

>この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。

それは、無理でしょうね。考える機会が失われていますからね。

>いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。

そうですね。アクセルですね。

>意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者・異議を唱える者とは対立しやすい、>このSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、ネットで唯我独尊を避けるのはリアル以上に難しいのではないだろうか。

個人主義は、唯我独尊を擁護します。考えの内容は、人さまざまですからね。他人の考えにも興味を持つ必要がありますね。

>こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。

個人主義の社会構造ですからね。対話・議論を盛んにしましょう。意思疎通が大切ですね。友好的にならないと、話も通じないですね。

>だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には思われる。

我々には、意見交換が必要ですね。自分自身の意見があったら世界中に広めよう。百花繚乱の世の中になるか。


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