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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

諦観は良くない

2020-02-29 14:53:51 | 社会
>353731 日本の活力衰弱、諦観している時ではない。 >持国天 ( 古稀超え )  20/02/14 AM09 【印刷用へ】
 (略)
>本能も観念機能も脅威の本質に照準を絞り仲間を守る行動と思考に徹する。>自然の脅威=外圧を捨象すれば直ちに死に直面する。

現実の環境は千変万化するので、その対応も大変ですね。

>・然し今、各世代にまたがる引きこもりの実態数がなんと1千万人時代に入ったとも、これが日本の直近の推定数らしい。 >30年前から御用組合となり下がった労組は機能せず、マネーゲーム関連の企業以外の社員給与は低下するばかりだ。 >若者のまともな社会運動も影を潜め、国民の祝日日数は先進国一となり、さらに働き方改革や男の育休など、活力を萎えさせる負の側面ばかりが具体化される。 >日本人の生産活力は衰弱するばかりだ。

困ったものですね。 

>・与野党問わず自堕落な政治家は、日本の活力衰弱の上っ面しか見ていない。>安倍政権の国民を愚弄する政治姿勢と権力行使の暴走を成すがままにさせてきた。

日本人には、批判精神 (critical thinking) がないからでしょう。わが国には、‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

>政権に好都合らしい東京高検の検事長の異例な定年延長人事に踏み込み、各中央官庁の中枢人事、裁判所から検察庁最高人事にまで内閣府の人事権行使はエスカレートするばかりだ。 >無気力な政治と国民を尻目に、政権の暴走は度を増すばかりだ。

日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容として表現されるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い日本人には仕方がない。無為無策でいる。意思がないので能動が無く、受動ばかりで無気力な生活を送っている。  ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく)

>閉塞感は深まるばかりだが、日本の活力再生は正念場である。

我々日本人は思考停止の状態にあるので、閉塞感は募るばかりですね。
現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。Seeing is believing. 正解はただ一つである。考える必要はない。これは楽ちんである。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。その内容を知るには文法に従って文章を理解しなければならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、日本人は通常、この理解を避けている。
理解の代わりに忖度 (推察) を使っている。忖度と理解は似て非なるものであるから注意を要する。忖度は聞き手・読者の勝手な解釈であるから、話し手・著者にはその責任がない。たとえその内容に食い違いが生じても話し手には何の責任もない。議論にもならない。忖度の主に現実直視になっていないことを指摘すると、’だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか’ と反発し批判を受ける余地がないので話にならない。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は ‘嘘’ である。誰しも見て来たような嘘を吐く人にはなりたくない。だから、自己の非現実・考えは語らずじまいになる。これがとりも直さず日本人の思考停止の状態である。
かくして、我々には解決策の選択肢がない。だから、閉塞感が募るばかりである。解決策の提案が再生活力の正念場である。
考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。考え (非現実) の内容は、時制のある文章内容として表される。非現実の内容は、各々独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容として示される。それぞれの世界の内容は各人の努力により自己の脳裏に展開される。かくして個人は ‘考える人’ になる。非現実・考えの世界は世界観 (world view) と呼ばれて各人に固有なものになる。自己の世界観を基準にとって現実の内容を批判すれば、それは批判精神の表れとなる。批判精神は、現実改革の原動力となる。
英文法には時制があって、英米人には世界観がある。だから、彼らには批判精神がある。日本語の文法には時制がないので、日本人には世界観がない。だから、我々には批判精神がない。マスコミは、言われた事をただたれ流す。有力紙が存在しない。

>お先真っ暗な日本と日本人の活力を如何にして取り戻していくか、諦観している時ではない。

無為無策、座して死を待つのは賢明でない。まず隗より始めよ。
.我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、言語における時制の重要性を深く理解しなければならない。時制を利用して自己の意思を表現して、その内容を広く議論の対象としなくてはならない。時制を利用して自己の世界観を示し、この世のあるべき姿に対する賛同を広く得なくてはならない。そして、協力を得て未来社会の建設に取り掛かるのがよい。


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ダイヤモンド・プリンセス号 2/2

2020-02-28 21:11:26 | 社会

> 第三に、1を捨てて9を取る、ということができず、すべての人を救わなければいけないというきれいごとに縛られ、リスク判断ができなくなり、政治的には、つねに八方美人的な対応を取らざるを得ず、各方面がそれなりに納得するように神経をすり減らし、危機の時には結局、全員の不満を残したまま、全体の判断としても、わかっていながら次善の現実的に望ましい対応ができなくなってしまうことだ。 >良い顔をみんなにしたい、八方美人社会という問題点だ。

全員に良い顔をしようとして八方美人になるのですね。取捨選択をすれば、選択をした自分に責任がかかるから。兎角この世は無責任。自己の説明責任に自信を示す指導者がいない。 

>しかし、今回の現場、政府の対応は、現実的には非常に良くやっていると思う。

我々国民は幸運ですね。現今の政府は他の内閣よりも良さそうだから。

>一方、政府の対応をしたり顔で批判する輩どもは最悪だ。 >これは今に始まったことではないが、揚げ足だけをとる。 >部分的に攻撃する。 >今回の問題はそれで政府の動きに制約条件が増え、結果として政府の対応が難しくなってしまうことだ。 

建設的な意見が必要ですね。破壊的な意見は不要ですね。適切でない条件を切り捨てることも必要ですね。

>■出来ないアドバイスは有害なだけ
>YouTubeで告発した専門家。 >彼は駄目な専門家である。 

彼は実行不可能な提案をしたのですね。それではダメですね。

>政府にアドバイスを本気でする気があれば、いや政府に限らず、息子でも友人でも学生に対してもそうだが、できないアドバイスは意味がないどころか、百害あって一理無しである。 

できないアドバイスをするのは、現実直視が欠けているからでしょう。

>できないことをやれ、と言われると慌てふためく。 >いままでできていたこともできなくなってしまう。 >危機にあるときはなおさらそうだ。 >子供や学生ならパニックになってしまって、受験にも人生にも失敗してしまうだろう。

無責任な人のアドバイスをやすやすと受け入れるのは良くないですね。

>今回の政府は冷静だから大丈夫だと思う。

幸運ですね。

> 今回の専門家の指摘の何が問題か。 >指摘が事実としては正しい、理論的には正しいだろう。 >そして、指摘の事実は政府は120%わかっていることなのである。 >わかっているけどできないのだ。 >できていないのだ。 

‘わかっちゃいるけどやめられない’ ということですね。

>なぜか。 >怠慢だからでも、あほだからでもない。 >制約条件がきつすぎて、現実的にはできないのだ。 

実現可能な内容が必要ですね。現実直視をして提案しましょう。

>人が足りない。クルーズ船の船内という極めて難しい環境である。 >3700人という極めて大人数である。 >対応する医師、職員、スタッフの数が足りない。 >新型ウイルスでまだ分かっていないことが多すぎる。

そうですね。多難の条件ばかりですね。

 ><批判ではなく提案を>
>このような条件の中、現実に全力で対応しながら、考え、試行錯誤も重ねながら対応しているのである。

それは誰もがやることでしょう。もっと斬新的な対処方法があったら出して欲しい。

 >わかっているが、できていないことを、したり顔で指摘して、できていないと世界中に拡散しても、何も改善しない。 

そうですね。現実直視しつつ対応策を繰り出すより仕方がありませんね。

>ただ、日本は危機だ、という誤解が世界中に広まっただけのことだ。 >民間同士、日本でなければ訴訟を受けてもおかしくない。

そうでしょうかね。

>テレビのワイドショーもそうだ。 >本来なら訴訟をうけてもいいはずだ。 >風評被害を起こす、という犯罪なのであり、風評で動く人々も罪深いのである。 

風評被害により致命的な損害を被る人もいるでしょうね。

> 危機の現実、危機における心理を分かっていない人々は黙っていて欲しい。

そうですね。から騒ぎは迷惑をかけますからね。

>検証は後だ。

そうですね。後ですね。だが、事後の検証も大切ですね。

>今は、今できることを全力で行い、何か改善できることが政府にある場合には、改善策、現在すぐに実行可能で具体的なアクションプランとして提案するべきだ。

そうですね。実行可能で具体的な改善策・対応策が必要ですね。ここが、頭の使いどころですね。

> 今するべきは、批判ではなく提案なのである。>しかも、現実を踏まえた具体的な提案なのである。

そうですね。批判は易しくても提案は難しい。専門家の腕の見せ所ですね。

>ワンチームという言葉を軽薄に使っていた人々、メディアは、いまこそワンチームだということを分かっていないのだ。

自己の意思を示す人は、当事者・関係者になる。示さない人は、傍観者にとどまる。彼はワンチームの外にいる。 
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ダイヤモンド・プリンセス号 1/2

2020-02-28 20:51:28 | 社会

>山上勝義 ( 55 建築士 )  20/02/26 PM06 【印刷用へ】  >yahooニュース リンク より、以下転載  > -------------------------------
> 遂に「日本売り」を招いた新型肺炎危機──危機を作り出したのはウイルスでも政府でもなくメディアと「専門家」
> <日本は新型コロナウイルス危機の震源は中国の武漢と思ってるが、世界には横浜のダイヤモンド・プリンセス号が震源だと思われている混乱ぶり> (略)
> 日本では新型肺炎と言えば武漢だが、世界では東京の(実際は横浜だが)ダイヤモンドプリンセス号だ。>中国では新型コロナウイルスの抑え込みに成功したが、日本では混乱が生じているとみられている。 

それは本当でしょうかね。中国には内部レポートのようなものは存在も拡散もしていないのでしょうかね。情報操作の問題とも関係していませんか。

>それにとどめを刺したのが、感染症対策の専門家とみられている大学教授が、船内に入り、対策チームや政府の対応がいかに杜撰で不適切が世界に向けて発信したことだ。 >これが世界の金融市場で日本売りが始まるきっかけを作った可能性がある。 >株価についてはともかく、為替はドル高が進んだが、20日早朝はユーロドルは落ち着いており、日本円だけが売られたので、日本売りであることは間違いがない。これがプリンセス号の船内レポートによるものであるかどうかはわからない。

船内レポートによるものかの決め手はないのですね。

>■きれいごとに振り回される世論
> 海外では、以前から日本の方針について危惧が一部に見られた。 >もっと強権的に隔離したり、移動や行動を制限したりするべきではないか、という日本政府の人権を尊重した対応にたいする批判だった。 >問題なのは、日本国内では、当初、中国人観光客が減ることによる短期的な経済への影響が最も懸念された。 >次には、クルーズ船船内で不自由な思いをしている乗客の不満をテレビのワイドショーが電話で生で会話をして取り上げ、政府の拘束や自由を認めない対応を批判した。>しかし、その後、感染が判明した人数が増加するのに驚き、一転して、感染対策が甘いという批判に180度打って変わった。 >そして、件の専門家の大学教授(神戸大学感染症内科・岩田健太郎教授)の内部告発動画が世界的に話題となり、世界的に話題となったことで、日本国内でも話題になり、政府は猛烈に批判されることとなった。 > 各方面の圧力を受けて、政府はやむを得ず、ということなのか、ある程度落ち着いたからかは、外部からは判断できないが、乗客を船内に押しとどめる方針から彼らを下船させる方針に切り替えた。そうすると次には、感染の可能性がある人たちを日本中に拡散させていいのか、という批判が高まっている。 >いったいどうしろというのか。

他人の気ままな発言をいちいち気にしていては、政府は ‘ロバ売りの父子’ のようになりますね。最初から、乗客をどうしたらよいかはわかっていなかったのでしょうか。

>つづく  ><すべてを救うことはできない>
> 問題点は3つある。第一に、日本の人々、社会は目先のこと、それも極めて部分的なことに情緒的に反応することである。

そうですね。日本人は、目先・手先の事柄に情緒的な反応を強く示しますね。だから、とかく話が小さくなる。

>これによって、長期的な戦略も立てられないどころか、このような危機対応に対しても社会、世論自体が揺れすぎてしまい、危機に対する社会としての方針を政府あるいはトップが定めることがむつかしくなってしまう。 >ぶれる社会だ、ということだ。

政治責任者の社会・世論に対する強力な説得力が必要ですね。説得力のないトップは、社会の方針を定めることが難しい。

> 第二に、部分的かつ瞬発的かつ情緒的な反応が群集的なうねりを作ってしまうことから、大局的な判断を社会全体でできなくなってしまう、ということだ。 >つまり、大局判断のできない社会、という問題だ。

そうですね。部分的・瞬発的・情緒的などおよそ世界観とは無縁な発想法が社会全体を覆ってしまう。無哲学・能天気の民族性に基づいていますね。まともに国の進路が考えられない。
 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。'  (カレル・ヴァン・ウォルフレン)  


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適応 3/3

2020-02-26 18:00:46 | 社会

時制のない言語を話す日本人が、自分の考え (非現実) の内容を公表しようとすれば、非常に難しいものになることが想像できる。英文で自分の考えを論文にして発表しようとする日本人の初学者は難渋する。非現実を表す構文を持たない日本語で論文を発表しようとすれば、それはほとんど絶望的で大学生は四年間をキャンパスで遊んで暮らさなくてはならなくなる。だから、国民もその困難な事情を薄々推測していて奨学金による援助も躊躇せざるを得ないのであろう。英米人は自己の哲学を組み立てる為に高等教育に進学する。だから、遊んでいられない。各人に哲学は必要である (Everyone needs a philosophy.) という国民の要求に応える励みである。その成果は歴然とする。彼らは、その成果に従って学士・修士・博士等の称号を付与される。博士の称号は大概、哲学博士 Doctor of philosophy: Ph. D.) になる。
未来時制のない日本人の発想法では、未来の内容は ‘、、、、だろう’ となる。それは、推量である。ところが英語では、(things as they would be) と自己の考えを表す構文を使うことになる。これは、過去から見た未来を表す形式で、日本語にはない形式である。このような過去の世界に身をおいて、未来を語る形式がないと、自己の世界観は表すことができない。‘だろう、だろう’ の連続では、誰もその内容を本気で受け取る気にはなれない。語る本人にも自信のないことをよく示している。

実験・観察の結果を過去の内容として表し、自分の考えを過去未来の内容として語れば、それは話になる。だが、日本人のように実験・観察の結果を過去 (?) で表現して、自己の解釈を ‘現実を推量する形式’ で語れば、誰も本気にしない。’Maybe, may be not.’  (そうであるかもしれない、ないかもしれない) と茶化されて終りになる。要するに、真面目な話にはならない。だから、それから先には進めない。挫折するしかない。

現実の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。考える必要はない。見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできない内容は嘘である。正解は一つである。だから、現実は分かりやすい。
非現実 (考え) の内容は、全てが頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。考えの内容を知るには、文法に従って文章を理解しなくてはならない。しかし、これは骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は理解をしない。その代わりに 忖度 (推察) をする。

忖度と理解は似て非なるものであるから注意を要する。忖度の内容は聞き手・読者の勝手な解釈であり、話者・執筆者に責任は無い。だから、内容の食い違いは議論にならない。歌詠みのようなものである。忖度の主に現実直視になっていないことを指摘すると、だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないかと猛反発をくらう。だから、議論にならない。’理解’ という言葉を理解してもらう前に物別れに終わる。忖度がおおてを振るって歩く姿は、目には見えない国難である。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>  (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)

“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。 
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)

日本人の官僚の意味する ‘相互理解’ は、’相互にうなずきあう事’  (相互忖度) であって、西洋人の意味する ‘理解’  (understanding) ではない。だから、わが国の国際化は容易ではない。受験勉強では解決しない問題である。



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適応 2/3

2020-02-26 17:08:38 | 社会

この状態は、おそらく意思の内容に注意を集中できない日本人の性質による結果であると考えられます。日本人は事の次第 (流れ) により行動を開始するから、敏速でない。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。意思の無い人間は効果的な責任の取りようがないことを示しています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)

意思のあるところには方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には意思 (will) がない。意思のない日本人は仕方がないから無為無策でいる。そしたら、優柔不断・意志薄弱に見える。 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず'  山本五十六 (やまもと いそろく) 
意思の無い日本人にも恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。だから、恣意が意思の代わりにわが国では活用されている。意思は文章になるので意味があるが、恣意はバラバラな単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。そこを何とかしようとするのが日本人の思いやりである。西洋人の意思疎通の代わりに日本人は恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) を使用する。議論の代わりに談合 (腹の探り合い) をする。意思決定 (理性判断) の代わりに恣意決定 (盲目の判断) をする。これは危険極まりない行為である。だが、意味がないので説明責任はとることは誰にもできない。だから、わが国では ‘兎角この世は無責任’ となる。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

日本人をアメリカ人のように敏速に行動させるためには、精神修養が必要であると考えられてきたのであろう。作法・流儀を教え込んで形式の枠にはまった行動をする人間を育成すれば自己の意思決定はなくても行動は敏速になる。各動作に個人判断が必要なくなるからである。このような記憶力を活用した習いものがわが国では流行っている。家元制度や受験生のための塾のようなものになっている。

日本人も英米人も子供の頃は、’事の次第・成り行き’ だけを語る。このように現実に基づいた内容だけを語る大人は、子供のような人である。それでは、英米人の大人はどのような内容を語るのであろうか。
日本語のような時制がない言語では、人は世界観 (非現実) を持つことができない。世界観は、非現実 (考え) の内容であるが、非現実の内容は英語のような時制のある文章により表現が可能になる。
時制のある言語では、非現実の世界は各々独立した三つの世界 (過去・現在・未来) に分かれて文章内容ができる。各々の世界の内容は決して互いに交じり合うことは許されない。それは the sequence of tenses (時制の一致) という文法により規定されているからである。



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