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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

自己実現

2018-11-29 02:12:34 | 教育

>●誰も「自立とは何か?」と考えたことがない
(略)
>親たちが漠然と思っている自立とはこういうことです。
>朝は自分で起きて、自分で顔を洗って、食事をしたら自分で歯を磨き、自分で着替えて、自分で学校の支度をして…。
>帰ってきたら自分でうがいと手洗いをして、遊ぶ前に自分で進んで宿題をやり始め、次の日の支度も自分でして、玩具で遊んだら自分で片づける、整理整頓がバッチリできる…。
>いちいち親に言われなくても、こういった生活習慣的なことが自分でできる、それを自立と呼んでいるのです。

そうでしょうね。自立とは、生活習慣的な自立のことでしょうね。

>●本当の自立とは自己実現力があること
(略)
>親たちの望み通りに動く、親たちにとって都合がよい、手のかからない育てやすい子というに過ぎないのです。>もちろん、そういった生活習慣的なことはできたほうがいいです。>できるにこしたことはありません。>でも、実は、今できないことがあってもそれほど心配することはありません。>なぜなら、本人がその気になれば一瞬にしてできることばかりだからです。

そうですね。本人の気持ち次第ですね。

(略)
>本当に大切な自立とは、自分がやりたいことを、自分で見つけて、自分でどんどんやっていくということです。>つまり、自己実現力のことなのです。>「自分がやりたいこと」を「自分で見つける」のです。>親がやって欲しいことではありません。>自分の人生を自分で展開するということです。>そのために人は生まれてきたのです。

そうですね。自己実現は、個人主義の意義そのものですね。

>それができる人が本当の自立した人間です。>そして、それは大人になって急にできるものではありません。>なぜなら、その人の生き方そのものだからです。>子どもの頃からさんざん「そんなことはやめて、これをやりなさい」と言われ続けて大人になり、そこで急に「あなたはなにをやりたいの?自分のやりたいことを自分で見つけなさい」と言われてもできるはずがありません。

そうですね。そのことで後悔する親が多いですね。

>●自己実現力がある人は苦手な生活習慣も直ってくる
(略)
>本当に自立している人、つまり自己実現力がある人は、仕事でもプライベートでも自分でやりたいことを見つけてどんどんやっていきます。>そういう人は同時に自己肯定感も高いので、「これをやりたい。自分ならできるはずだ」となって、勝手にスイッチを入れて勝手にがんばります。>自分で決めた目標や夢ですから大いにがんばります。>すると、その途中で生活習慣的なことで苦手だったこともだんだんできるようになることが多いのです。>なぜなら、「Aをやりたい」と思っても、時間にルーズでは成し遂げられないからです。
>そこで初めて時間を守るようになります。>「Bをやりたい」と思っても、忘れ物ばかりしていては達成できません。>そこで初めて忘れ物をしなくなります。>挨拶ができなければを夢をかなえることができない、とわかったとき挨拶ができるようになります。>片づけができなければ目標を達成できない、とわかったとき片づけができるようになるのです。
>ですから、本当に自立している人は、子どもの頃に苦手だった生活習慣的なこともだんだんできるようになります。>親がいくら叱ってもできなかったことが、本人がその気になれば一瞬にしてできるようになります。>それ以前には、モチベーションがないので無理なのです。

そうですね。’自発性・積極性’ (motivation) が大切ですね。本人の自発性を発見するには、面接試験が有効ですね。

>●子どもがやりたがることをやらせて、応援しよう
>では、どうしたらこのような自己実現力がついて本当の自立ができるようになるのでしょうか?>そのためには、子どもがやりたがることをやらせてあげるのが一番です。>そして、さらに深められるように応援してあげてください。

そうですね。応援の力が大切ですね。世界チャンピオンも、応援の力に感謝しています。

(略)
>●できないことはやってあげよう
>これは一つの例ですが、このように親が応援してくれると、子どもは好きなことをどんどん深めていくことができます。>すると、「自分はこれが得意だ」と思えるので、自信がついて自己肯定感が高まります。

そうですね。’好きこそ物の上手なれ’ と言われていますね。自己肯定感は、自信喪失の裏返しですからね。

>そうなると、他のことでもできると思えるようになります。>同時に、自分がやりたいことを自分で見つけてどんどんやっていく自己実現の喜びを味わうことができます。>こういう経験をたくさんさせてあげることで、自己実現力がつき、自立できるようになります。

そうですね。それは才能教育ですね。人間には自己実現力が大切ですね。そうでなければ、人間は没個性的なりますね。金太郎飴のような顔をした人間になりますね。

>ですから、生活習慣的な面で苦手なことは、できるように工夫してあげて、それでも無理ならやってあげてもいいですから、いつまでもそんなところをつつかないでください。

そうですね。人口呼吸器の必要な子供には、必要な装置をつけましょう。

>その分もっと伸ばせるところを先にどんどん伸ばしてあげましょう。>そうすれば、よい循環が始まります。>子育てや教育のコツは、「難しいことは後回しにする。先に上げられるところから上げていく」ことです。

そうですね。才能教育ですね。

>このようなわけで、「できないことをやってあげると自立ができない」などという迷信・ウソ、作り話で苦しむ必要など全くないのです。>できないことはやってあげてください。
>しかも明るく楽しく。

親子ともども楽しく暮らしましょう。

>叱り続けて親子ともども弊害の泥沼に沈む、などといった最悪のパターンだけは絶対に避けてください。

そうですね。反省の押し売りはやめましょう。
山本七平は、自著 <ある異常体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)


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ICT教育

2018-11-28 17:38:44 | 教育


>■ゲイツはどんな教育を受けたのか
>ゲイツは12歳のとき、シアトル市内にある名門私立中学校に入学した。>この学校では、若い数学教師がコンピュータ管理を担当する一方で、運用は生徒たちの裁量に委ねられていたという。>1960年代の時点で生徒にコンピュータの運用を任せているとは、にわかには信じがたいかもしれない。>ところが、シアトルではそれが現実のものとなっていた。>こういう教育法はラーナー・センタード(学習者中心)と呼ばれ、日本でも最近ようやくその必要性が認められてきた。>また、ゲイツが通った中学校には「母の会」というものがあった。>これはただの保護者会ではない。>ある面では学校を経済的に支援する役割を担っていた。>母の会では度々、バザーを開いた。>そこで得られた売り上げを学校に寄付して、コンピュータの購入資金に充てたという。>日本の学校では考えられないことだが、海外の学校では教育資金を賄うために教師と保護者が一体となって資金を稼ぐことが珍しくない。>卒業生の寄付品をオークションにかけたり、ホールを建設してコンサートや演劇で収益を上げたりすることもある。>ファンディングと渉外担当の校長がいる国もある。

わが国における猿真似では、長続きしませんね。精神がない。

>アメリカのビジネス誌フォーブスが今年発表した長者番付によると、ゲイツが1994年以来24年間続けていた首位の座を明け渡したという。>その座を奪ったのが、アマゾン創業者で最高経営責任者(CEO)のベゾスだった。>ベゾスはシアトル出身ではないものの、彼がシアトルに与えた影響は計り知れない。>アマゾンの成功がシアトルに巨大な雇用を創出し、優秀な人材が大挙することとなった。>その結果、シアトルに拠点を置くIT企業が増え、必然的にITスキルが高い保護者も増えた。>これに伴い、学校もそれなりの環境が求められることとなり、シアトルの教育は今、大きな注目を浴びている。

‘類は友を呼ぶ’ のでしょうか。わが国には、ITの類がない。

>では、当のベゾスはどんな教育を受けたのか。>ブラッド・ストーン著『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』によると、ベゾスはヒューストンの公教育の一環として推進する英才教育プログラムを受けている。>プログラムは授業以外に、実践活動としてグループの討論や個別学習の時間があった。>ベゾスは当時、校長室で車座になり、生産的思考の実践を受けた。>ベソスはこれを機に、勉強した内容がどういう意味を持つのか考える力を持たなければならないことを悟ったという。>その後ベゾスはヒューストンを去り、シアトルに移り住んだ。>そしてアマゾンを創業した。

GAFA (Google, Apple, Facebook, and Amazon) は、知的企業として有名ですね。資源小国のわが国にとっては、打って付けの産業ですね。

>「どの子どもにも等しく学びを」という日本の教育は賛美されるべきであろうが、教育には「機会の平等」も大切であり、あまりに強く「結果の平等」を求めすぎた場合は、才能ある子どもにとってはマイナスになることもある。

個性は、一人一人違っていますからね。各人の個性を引き出すのが、真の教育ですね。結果の平等を目標とすると、金太郎飴のような顔をした人間ばかりが製造されますね。
現在のわが国は、人手不足に悩んでいます。しかし、頭脳不足いう話は聞いたことがない。日本人の仕事は、頭脳の役割を人手で賄う方向に進んでいるのですかね。知的な日本人の育成を目指すべきですね。

>「たられば」ではあるが、もしゲイツとベゾスが日本で教育を受けていたら、その才能は開花していただろうか。>今のシアトル経済を支える2人がイノベーターになれたのは、自由な空気に包まれた英才教育のおかげなのではないか。>ゲイツやベゾスのように個性の強かった子どもには、日本の学校はやや窮屈かもしれない。

タラレバの話は、限りなく広がりますね。わが国には、自由の空気がないのでしょうね。’不自由を常と思えば不足なし’ の精神は生きているのでしょうね。

>■ICT教育に必要な人材が豊かなシアトルの学校 [ICT: Information Technology]
>筆者は今年9月、シアトルの小学校を訪問した。>先端テクノロジー都市らしく、小学生には1人1台のパソコンが割り当てられていた。>加えて、教師に対して先進的なICT教育の説明や情報発信を行う「マイクロソフト認定教育イノベーター」が、教員の中になんと7人もいた。>この資格を有する教師は、さまざまなテクノロジーを活用した実践を進め、ICTを生かす授業をクリエイトできることで知られる。>日本の学校にも極たまに存在するが、1校に7人もいるとはすごい。

物量の話ですか。物量は、責任者により適当に定められるものでしょう。彼は、その裏付けを明らかにする必要がありますね。

>この学校の授業では、パソコンの使い方を理解したり、ネット上の情報をただ暗記したりするだけなく、そこで得た知識を日々の体験に生かすことに価値を置いていた。

そうでしょうね。わが国の教育のように思考停止と暗記力が頼りでは、自己の体験に生かすことができませんね。

>たとえば、歴史の授業ではロールプレイの方法を用い、歴史の中の人物になる。>その人物になることで、よりその時代に生きる人々の気持ちを理解することが可能になる。>そのような体験を客観的に捉えることで、これまでより歴史を俯瞰できるようになる。

歴史の学び方にもいろいろありますね。

>教師による生徒の評価も、ITを使って効率的に行われていた。>この学校では、児童を評価する場合、「経験と勘」に頼ることなく複数の教員がチームとなる。>生徒1人1人の傾向をデジタルデータを見ながら複数の目で丁寧に成長のプロセスを重視しながら分析し、個々に合わせた教育内容を検討していた。

わが国では、’経験と勘’ がものを言いますね。非言語の精神活動が大きいですね。

>日本であれば、クラスの担任教師や、教科担任が1人で評価を行うケースもあるので、これも日本ではお目にかかれないケースで、筆者は驚いた。

一人で評価すれば、恣意的になる恐れがあります。チームで評価すれば、責任の所在が明らかにならない。’とかく、この世は無責任’ ということにならなければ良いですね。

>さらに、この学校では、年齢を超えた複式授業で、ネットを使い、クラウド上にデジタルデータを共有して活用する授業が行われていた。>ネットの翻訳機能やパワーポイントを使って、日本の良さを日本語で発表するという「おもてなし」があり、筆者は心打たれた。

ご愛嬌ですね。

>歴史の授業も、筆者へのプレゼンも、「アウトプットするために学ぶ」という方法がとられ、子どもたちの学習意欲を高めていた。>こうした教育を日本の学校でも行うべきだろう。

わが国でもうまくゆくと良いですね。’サルの人まね’ にならないことが肝心ですね。それには、彼らのリーズン (理性・理由・適当) を理解しておく必要がありますね。

>■日本の教育には創意工夫の機会が足りない
>国際NGO「オックスファム」によると、世界で1年間に生み出された富(保有資産の増加分)のうち82%を、世界で最も豊かな上位1%が独占しているという。

富の偏在ですね。何の役に立つのやら。

>この状況は歓迎できないものの、資本主義では教育を受けさえすればどのような階級にあっても能力や地位、個人の資産も向上して行くというパターンがあることも事実である。

資本主義には、自由と希望がありますね。

>これまでの経済の方程式が成り立たなくなってきている今、日本がまずやらなければならないことは、時代にフィットした新しい教育方法にシフトし、そこに資本を集中することである。

それは、指導者の個人判断に大きく依存するものですね。

>IT産業が成長を続ける現代においては、日本の企業もITに関する教育に積極的に関与すべきである。

我々の ‘後追い姿勢’ は、どこまでも変わりませんね。これでは、先を越すことなどありえない。

>シアトルでの起業の活性化から日本が学び取れるもの、それは、まず教師が授業や評価においてITを駆使できる「教育イノベーター」としての能力を持つことである。>また、子どもたちにクリエイティブな活動をさせることはもちろん、積極的に学校自体がファンディングも含め、創意工夫を行うことであろう。

人間には、創意工夫が大切ですね。


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集団主義・個人主義

2018-11-27 11:34:35 | 政治


>日本人は本当に集団主義的か
>中野:第2次世界大戦についてのベネディクトの主張は、「集団主義に個人主義が勝った」ということなんでしょうか。

集団主義は、’個人の構成員よりも集団に優先権を与える主義’ ですね。

>実際にはアメリカは物量で勝ったわけで、軍隊のマネジメントを考えても個人主義では成り立たない。

集団が存在するから物量がひとりでに集まるわけではないでしょう。個人の優れた考えがアメリカ軍に必要な物量を算出し集めた結果によるものでしょう。
わが国にも集団は存在したが、必要な物量は集まらなかった。有能な個人が存在しなかったからかな。

>アメリカは集団主義で勝ったに決まっていると思いますが。

集団の方向を決める個人の育成も大切だとおもいますが。

>佐藤:「全体主義に(自由)民主主義が勝った」と言えば、もっと的確でしょうね。

そうですね。それに間違いはありませんね。

>なるほど、外的な要因による影響をゼロと見なしてよいのであれば、協調性を重視する国民のほうが、集団主義や全体主義に走りやすい傾向を持つかもしれません。>しかし人も社会も、真空の中に存在するわけではない。>国民の気質が個人主義的なら社会システムは民主主義になるとか、協調重視なら集団主義や全体主義になるなどと、安易に断定はできません。

そうでしょうね。

>社会の置かれた具体的状況、およびその背後にひそむ歴史的な経緯や条件が、大きくかかわってくるのです。>特に重要なのが、19世紀後半以降の第2次産業革命。>これによって製造業を中心に「生産規模を拡大し、みんなで助け合うほど、効率よく豊かになれる」状況が成立します。>いわゆる「規模の経済」ですが、ならばどの国でも集団主義が魅力的に映るはず。>実際、流れ作業による自動車の大量生産を実現したのは、アメリカのヘンリー・フォードでした。

そうですね。アメリカの個人主義が集団主義の大量生産を実現させた個人を育てたのですね。

>柴山:資本主義の歴史は、個人企業の時代から大組織の時代へと移行してきたわけで、その中で「組織をどう運営していくか」が競い合われることになった。

「組織をどう運営していくか」は、経営者間の個人の争いですね。

>佐藤:往年のアメリカ自動車産業など、日本的経営をやっていたのか? という感じですからね。>ミシガン州にフリントという町がありますが、ここは住民の多くがゼネラル・モーターズ(GM)で働いていた。

企業城下町というのでしょうか。

>そのため1950年代には、GMに感謝するパレードを毎年開催しているんです。>パレードの横断幕いわく、「チームワークこそ栄光の秘訣、さらなる高みを目指して進もう」。>これが集団主義でなくて何なのか。

集団主義を盛り立てたのはGMの経営者ですからね。やはり、個人の発想は万物の源のようですね。


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斉藤社長

2018-11-27 10:07:52 | 教育
>日本式の個人主義とは 困っている人を放置 >インテカー社長 斉藤ウィリアム浩幸

>日本人は「集団主義」の国民性である、という自己認識はどうも誤解のようです。

そうでしょうね。日本人の主張する ‘組織優先’ は、いわゆる ‘建て前’ (口実・言い訳) であって、その中身は ‘本音’ (恣意) にあるのですからね。

>米国の文化の中で育った人間からすると、組織より個人を優先させる傾向は、欧米人より日本人の方が強いと感じることがあります。

そうでしょうね。本音の中身は、恣意 (私意・我儘・身勝手) ですからね。

>日本人の間に、「個人主義」という言葉が流行したと聞いて驚いたことがありました。

そうでしょうね。日本人の個人主義は、利益の配分単位が個人になるということでしょうね。個人タクシーのようなものか。

>その時の話の流れは確かこうです。>「日本人の残業が多いのはなぜ?」と私が聞き、ある日本人は「上司や同僚の仕事が終わらない間は帰りにくい雰囲気がある」と答えました。>私は重ねて聞きます。>「じゃあ先に仕事を終えた人がまだ終わってない人を手伝えば良いのでは?」と。>その日本人は「自分の割り当てではない仕事を手伝う例はほとんどない」と言いました。>なぜなら個人主義が浸透しているからで、しかもその個人主義の文化は「欧米にならって始まった」そうです。>私はいろいろおかしいぞ、と思いました。

そうでしょうね。おかしな事は、いっぱいありますね。’東は東、西は西’ ですからね。

>まず、欧米の職場には日本人が言うところの「個人主義」なんていうものは存在しません。>成功している組織では、先に仕事を終えた人間は自然と同僚を手伝います。>仕事の遅れには必ず原因があります。>仕事の分配量に誤りがあるか想定外のトラブルが発生しているかです。>当事者が解決できない問題であれば、周囲の人間が助けなければと考えるのが、チームワークを重視する欧米人の感覚なのでしょう。
>どうも日本人が使う「個人主義」は、困っている人を放置してそれで良しとする「selfish(利己的)」に意味合いが近いように感じられます。

そうでしょうね。日本人の個人主義は、受益の単位が個人であるということですからね。

>本来、英語で言う「個人主義(individualism)」の意味とは、集団に所属する一員としての役割や権利を相互に尊重しあう立場のことで、「私利」が「他利」に優先されるというワガママを容認してしまっては成り立たない概念です。

そうですね。恣意 (self-will) は ‘恥を知れ’ (Shame on you!) と一喝されますね。

>特に米国は、多民族の国です。>人種も違う。>宗教も習慣も、思考回路も違う人が職場に集まれば、最初に待っているのは混乱です。>しかし、だからこそ仲間に関心を持ち相互理解を深め、「他利」を「私利」に優先させなければ仕事にはならないのです。

米国人は、見上げた信念の持ち主ですね。

>対照的に日本人は互いの常識を「暗黙の了解」で共有できる極めて同質性の高い社会で生きてきた結果、コミュニケーション・コストを軽視してきた経緯があります。

そうですね。我々日本人は、長いこと慣れあって住んできましたからね。

>誤った解釈で輸入してしまった「個人主義」という言葉は隣の席で困っている同僚を助けることができないほどに個人を組織の中から孤立させてしまったのではないでしょうか。

自己利益の切り売りが盛んですね。

>一子相伝の技術を「目で盗み」、一人前になるまでに10~20年かかるのが当たり前だった時代は過ぎ去っています。
>グローバル社会を生き残るには「暗黙の了解」ではうかがい知れない様々の常識に耳を傾け、自らを改め続けなければなりません。
>日本式の個人主義はそんなとき、いかにも足かせになる概念です。

そうですね。日本人には世界観がない。’あるべき姿’ (非現実) のない現実においては自己利益を守ることは難しいからでしょう。

>さて、世間は新年度。チームに異なる常識を持つ新人が参加してくる季節です。>新しい仲間が何か相談してきたらどうしますか。

世話好きな人と、そうでない人では対応が違いますね。

>「自分でやってみろ」と突き放したり、「俺はもっと大変だったぞ」と苦労自慢したりするだけの応対は、仲間のためになるのでしょうか。チームのためになるのでしょうか。

浪花節調で話すのは、わが国の伝統・陋習ですね。

>私には、後進を育てる手間を嫌う、あるいは自らの職域を奪われることを避けるための利己的な応対に感じられてなりません。

そうですね。利己的な処世術を捨てて、建設的な努力を重ねましょう。


下とみられた

2018-11-27 02:50:36 | 教育


>西洋的統制と日本的統制
>施:教育史学者の江森一郎氏に『体罰の社会史』という本がありますが、それによると日本では昭和の初めごろ、軍事教練が学校に入ってくるまで体罰は決して一般的ではなかったそうです。>武士でも子どもを殴ったりはしなかったんです。

武道の稽古だけで十分でしたね。

>逆に西洋の小学校では、昔から教室の後ろにムチが置いてあった。

西洋では、小学生には調教が必要であると考えられていたのですね。小学生は、まだアニマルの段階ですね。

>なぜ日本では体罰なしで40人学級がうまく運営できるのか。>実は小学校の先生は生徒との間に心理的絆や一体感を最初にうまく作り、子どもたちが信頼を裏切るような行為をすると、その絆を切ってしまうぞ、と暗黙裡に半ば脅してやめさせているんです。

‘非国民’ とか ‘外人’ 呼ばわりされる時の恐ろしさですね。’村八分’では、ついてゆくしかない。

>たとえば、子どもたちがあまりにもいうことを聞かないとき、教師がよく使う手は、子どもたちに「もういい、勝手にしなさい」と言って職員室に引き上げてしまうというものです。>そうなると子どもたちは、徐々に不安になり、シュンとなって、「皆で先生に謝りに行こうよ」ということになる。

わかりやすいですね。理屈ではない。

>中野:天の岩戸だ。

昔からある話ですね。

>施:心理的な絆を先に作り、言うことを聞かないとその絆が損なわれますよと暗黙裡に語り、子どもを統制しようとするこのような手法は、日本ではよく見られます。

なあなあ主義 (なれ合い) ですね。

>どの世代の人にもそういう経験がある。

他に方法はありませんね。

>たとえば親は好き嫌いをする子に野菜を食べさせるために、「じゃあもう食べなくいい」とお皿を引き上げてしまう。>これも心理的絆を切るという脅しなんですね。

もたれあいの精神ですね。

>企業でも昭和の時代には「ノミニケーション」などといって、新人が来たらまず飲みに行き、先に親密な関係性を作ってから指導するというやり方をしてきた。>ただそういう手法は欧米人には理解しにくい。

なれ合いの手法ですね。

>「伝統的な技芸だ」とアメリカから来た教育学者が感心していました。

何事も伝統ですね。逸脱は許されていない。

>西洋の場合、法律や規則を作って外面的に統制するけれども、日本の場合は集団の和を大切にすることを教え、共感力を利用して内面的に統制しようとする。

法律や規則は考え (非現実) ですから、これは内面ですね。集団の和 (現実) は見ることができるから、これは外面でしょう。

>文化によって統制の手段が違うんです。>だから日本の教育においては「人の気持ちがわかるようになる」という共感能力、感情移入能力の獲得が第一の目標になっています。

そうですね。日本人の場合は、忖度 (推察) の活用ですね。

>中野:おっしゃるとおり、日本では人に共感する能力が高いことが、人格的に成長している証しとなっている。

高文脈文化 (high-context cultures) のメンタリティですね。世界における孤児になるのかな。

>その意味では日本的見方からすれば、日本人はほかの外国人より人として高い位置にあるはずなんですよね。

日本人は、’下とみられた’ ということですね。

>それなのに「日本人は遅れている。個が確立されていない」となぜ自分たちから言うのか、不思議ですね。

日本人は、自分の文化を卑下しているのでしょうかね。


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