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日本の15歳  

2024-05-01 17:43:01 | 文化

>現代ビジネス   >じつは「日本の15歳」は世界でもトップクラスに、なぜか「数学ができる」のに、なぜか「数学に自信がない」 最近のPISAの結果から見えて来た意外な実態  >飯田一史の意見・   >1日・   

OECD加盟国および参加を希望した国・地域の15歳を対象に3年に1度行われる、学力到達度調査PISAの最新2022年度の結果を分析した、国立教育政策研究所編『生きるための知識と技能 OECD生徒の学習到達度調査(PISA)2022年調査国際結果報告書』(明石書店、2024年)が刊行された。   

PISAは日本の順位やスコアが低かったり下がったりした時にだけメディアで大騒ぎされるが、2022年度は数学的リテラシー、読解リテラシー、科学的リテラシーのいずれも国際的に見てトップクラスの好成績を収めたためにあまり注目されなかった。   

>しかし同書の分析を見ると、OECD平均と比較した場合の、日本の15歳の非常に興味深い特徴が見えてくる。   

>数学の順位と国際比較&経年比較と日本の教育のレジリエンスの高さ   

PISAの特徴は、今の、そしてこれからの社会において必要な能力を測定することにある。   

>だから2015年からはコンピュータを用いた調査が一部導入され、2018年からは全面的に導入された。   

>今の時代に紙のテキストと手書きで現地に赴いて行うオフィスワークや公共施設での手続きなど少なく(日本は例外的にそれが多い国だが……)、普通はPCかスマホを使ってオンラインで行う作業の方が多いのだから、当然である。   

>たとえば数学的リテラシーの調査ではExcelのような表計算ソフトを使って計算したり、割合の変化の増減を比較したりする問題が出題されたり、読解リテラシーの調査では複数のデジタル資料を読みこなして回答するような問題が出題されたりしている。   

>まずPISA2022に参加したOECD加盟37カ国と非加盟44カ国・地域の中での日本の順位を見ておこう。   

>数学的リテラシーは全参加国・地域中5番目に高い。   

>ただし平均得点には標準誤差が含まれるため、統計的に考えられる日本の順位は参加国全体では3位~6位の間、OECD加盟国中では1位から2位の間である。   

2018年調査と2022年を比較するとOECD平均では平均得点が1516ポイント低くなっている。   

>一方で、日本は9ポイントプラスだ。   

2018年から2022年にどうしてOECD平均では大幅に減少したのかといえば、コロナ禍における学習環境の激変である。   

>日本はコロナ禍での「数学の成績」「教育の公平性」「教育におけるウェルビーイング」、この3つの側面でのレジリエンス(立ち直り)に関してすべてを満たす国・地域に該当する(なぜ「数学」の成績が項目として立っているかというと、PISAは毎回、数学、読解、科学のいずれかを重点的に調査しており、2022は数学の回だったからである)。   

>同様にコロナでも教育のレジリエンスが3側面すべてを満たした国・地域は、ほかには韓国、リトアニア、台湾のみである。   

>日本国内では2020年には突然に一斉休校となり、リモート授業、オンライン学習の不備に関してさんざん叩かれたが、国際的に見ると例外的に良かった部類に入っている。   

>北米ではコロナ禍明けでも学校に戻れない子どもが多いことも報告されている(もっとも、コロナと関係なく日本では不登校の児童・生徒の数は増え続けているが、不登校の15歳はPISAを受験していないことは差し引いてスコアや順位を捉える必要がある)。   

>読解リテラシーと科学的リテラシー   

>話を戻す。   

>続いて「読解リテラシー」は、日本の得点は全参加国・地域中3位。   

>統計的に考えられる順位では参加国全体で2位から11位の間、OECD加盟国中では1位から6位の間だ。   

>日本は2018年から2022年で見るとレベル2未満の生徒の割合が統計的に有意に減少した。   

>しかし2012年から2022年の変化を見るとレベル2未満の生徒の割合は増加し、レベル5以上の割合は減少している。   

OECD平均では2022年の平均得点は2018年から1011ポイント低くなったが、日本は得点が12ポイント高くなっている。   

>出題形式別に見ると「選択肢」71.9%、「複合的選択肢」57.3%、「求答」64.7%、「自由記述」56.3%。   

>「科学的リテラシー」の平均得点は全参加国中では日本はシンガポールに次いで2位、統計的に考えられる順位は2位~5位の間であり、OECD加盟国の中では標準誤差を考慮しても1位だ。   

2018年から2022年の変化を見ると日本はレベル2未満の生徒の割合が統計的に有意に減少し、レベル5以上の割合が増加。   

2012年から2022年の間の変化を見ると統計的な有意差はない。   

>また、日本は2022年に2018年と比べて17ポイント得点が高くなった一方で、OECD平均は23ポイント低くなっている。    

>出題形式別に平均正答率を見ると「選択肢」70.0%、「複合的選択肢」63.2%、「求答」65.4%、「自由記述」48.2%とやはり自由記述が低い。   

>無答率の割合が高い問題はいずれも自由記述だった。   

>大学入試に記述式を導入しようと文科省が動いてはメディアや教育関係者にぶっ叩かれているが、PISAでは以前から日本の子どもが記述式が不得手であることがわかっており、カリキュラムや入試制度改革の背景のひとつにこの課題があることはもう少し知られてもいい。   

 

そうですね。   

 

>学校に対しては国際的に見ても高評価だが、自分の能力に関しては自信がない   

PISAでは毎回アンケートも実施しているが、これも興味深い。   

>たとえば数学の授業における教師の支援に関するアンケートに対する肯定的な回答の割合を見ると   

>「先生は、生徒ひとりひとりの学習に関心を持っている」日本74.3%、OECD平均63.3%   

>「生徒が助けてほしいときは、先生は助けてくれる」日本83.6%、OECD平均70.2%   

>「先生は、生徒の学習を助けてくれる」日本85.3%、OECD平均71.7%   

>「先生は、生徒がわかるまで何度でも教えてくれる」日本78.8%、OECD平均63.6%   

>と教師への評価が高い。   

>また、生徒の学校への所属感に関するアンケート調査では、日本は平均値ではOECD加盟国中6番目に値が大きかった。   

 

我が国は序列社会ですから自己の学校 (序列) への帰属意識は強くなりますね。  

 

>つまり肯定的な反応が多かった。

>「学校ではよそ者だ(またはのけ者にされている)と感じる」「学校ではすぐに友達ができる」「学校の一員だと感じている」「学校は気後れして居心地が悪い」「他の生徒たちは私をよく思ってくれている」「学校にいると、さみしい」のどの項目でも、日本は他国より学校への所属感がポジティブな回答の割合が多い。   

 

そうでしょうね。   

 

>経年比較で見ても、より肯定的な評価の割合が増えている傾向にある。   

>ところが「次のような数学の問題を解くことにどのくらい自信がありますか」と数学の課題に対する自己効力感に関する9つの項目について「とても自信がある」「自信がある」「自信がない」「全然自信がない」から選んでもらうと、日本はOECD平均を下回っており、自信がない生徒が多い。   

>実際には国際的にはトップクラスの成績なのに、である。   

>子どもたちが教師や学校を評価するだけでなく、自分自身を肯定的に捉えるような教育をした方がいいのではないだろうか。   

 

そうですね。我が国の伝統的な鍛え方は 下におれ、下におれですからね。立つ瀬なし。      

 

>日本の子どものICT利用は低い、が……   

>また、教科ごとでのICTの利用頻度を見ると「社会と情報」の授業を除く国語、数学、理科で日本はOECD平均より低く、ICTを用いた探究型の教育(文章を書く、オンラインで調べる、データを集めて記録する、など)の頻度も日本はすべての項目で日本はOECD平均より低い。   

>平日の余暇活動におけるICT利用に関しても「13時間以上利用している」割合を項目別に見ても、デジタルゲーム、SNS閲覧、SNS以外のインターネット閲覧、実用的な情報をインターネット上で探す、何かのやり方を学ぶために、情報を読んだり、訊いたり、見たりする、デジタルコンテンツの制作・編集のいずれでも日本はOECD平均より少ない。   

>授業でもプライベートでも日本の子どものICT利用は活発ではない。   

>しかし13時間以上もやる必要が果たしてあるのか? とも思うし、PISAのスコア・順位は高いのだからOECD平均並みに学校で用いることが果たして必要なのか? とも感じる。   

>ともあれ、いずれにしても15歳段階では日本の子どもの教育水準は国際的に見て高いのは疑いようのない事実である。   

>産業界を中心になんでもかんでも教育のせいにする風潮があるし、保護者も学校現場も大学の先生もメディアもみんな口を開けば文科省批判をしがちだが、もう少し客観的に実態を把握した上で日本の初等・中等教育に対して提言したほうが、生産的な話になるだろう。   

 

そうですね。マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

マ元帥の発言はどの駐日大使よりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。      

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)    

 

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。思春期の到来とともに発達する言語能力を待ってこの教育は行われる。英文法の中の時制 (tense) を活用して非現実の内容を文章に表現する訓練である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供から大人に変わる人間に哲学を獲得させようとする仕組みである。すると浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも英語の高等教育に力を入れることになる。

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを表す言語である。日本式の判断だと、見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘(きれいごと) ばかりを語っては学習に力が入らない。だから思考停止になっている。日本人は相変わらず無哲学・能天気の民となっている。わが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。  

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっている。これらは高等教育の賜物である。

当の日本人の若者はいまなお国内の序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりで持切りである。注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族の知識人を相手にして苦戦を強いられることになる。   

 

現実は只ひとつ。それに比べて、非現実 (考え) は無数ある。論文の内容は一人一人違っている。考えは人人により違うからである。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを示している。内容の違いは個性の表れである。それで個性豊かな社会が形成される。         

序列競争は没個性でなくてはならない。異次元の戦いであっては競争に不公平が起きるからである。学生は他人の受売りとその後追いで受験戦争に備える。同次元で序列を激しく争う結果、金太郎飴のような同じ顔をした若者が続々と輩出される。序列には色がない。だから没個性の社会が形成される。           

だがしかし、細い序列の階段を昇り詰めることを人生の成功と考えない方が良いですね。成功の道は多岐にわたると考えるべきですね。       

トットちゃん (黒柳徹子氏) のように小さい時から自分の好きなことだけをやっていれば、仕事に興味津々で神経は集中して能率は上がるし、それ相当の自己実現が期待できますね。その上、個性豊かな社会が形成されます。 

 

 

 

 

 

 



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