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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

国の権威

2017-04-21 12:57:32 | 政治

>俺は祖国を愛しているんだけど、祖国は俺たちを愛してくれないんだよな・・・・ >日本の新幹線は民衆のためにあるんだな・・・・  なのに中国の新幹線ときたら・・・・
>この二つのコメントは、たまたま同じ年の3月に開業した九州新幹線と今月開業した自国の「(北京=上海)高速鉄道」の違いを、九州新幹線のCMを通してシナと日本の決定的な違いとして率直に感じた思いを素直に綴ったのだろうと、敬天は思うのです。

‘中国人は、’祖国に対して片思いだ’ ということですね。

>まず「俺は祖国を愛しているんだけど・・・・」はシナ人民の思いをこれほど象徴的に表した言葉は無いと感じるのです。>「(今の政府を見れば)日本だって似たようなものじゃないか」と言われるかもしれません。確かに、国の権力という観点で考えれば残念ながら日本もシナも似たようなものです。しかし、日本には「国の権威」という「国の権力」を超越した存在があります。

我が国の超国家主義 (国粋主義) の内容の話になりますか。

>つまり、天皇であります。シナでは「俺は国を愛しているんだけど」の思いを返してくれる存在はありませんが、日本にはその思いを返してくれる天皇のご存在があります。>今回の大震災でもそうでしたが、天皇は「国民の不幸は自分の不幸」と共にしてくださいます。

確かに、我が国には国を代弁する声がありますね。それは、天皇のお言葉ですね。

>国民が国を愛すると同時に天皇も国民を愛して下さるから、国民の安全を第一に物事が進められてきたのが日本の歴史です。新幹線然りです。>これはどんなにシナ人が逆立ちしても叶わないことです。>日本にあってシナにないもの――アメリカにも言えますが――国の権威です。

我が国は、権威主義 (authoritarianism) の国ですね。

>国に権威が無いということは、あるのは「権力と金」だけということになります。

シナ・アメリカは金権主義の国ということになりますか。

>たとえば、アメリカには国の権威がありませんが、例えばプロテスタントという宗教的権威と法治主義という法的権威が厳然と存在しているおかげで社会的不正に一定の歯止めをかけ、国民の利益と生存権を守ろうとするシステムが機能しています。>しかし、宗教的権威も法的権威もないシナにあるのは権力=金だけです。

シナは金権政治 (plutocracy) ですか。

>話は横道に逸れますが、アメリカが日本に絶対に敵わないと認識していることは、国家権力はいうまでもなく、「宗教・法」という権威を超越した、国家として絶対的権威(=天皇)が日本にあるということだそうです。この絶対的権威は誰も否定できないと認識しているそうです。

我が国は、序列制の国ですからね。日本人序列の最高権威は天皇です。でも、日本語の通用する地域にしか、その権威は通じませんね。グローバルでもなく、ユンバーサルでもない。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがありますから、日本人の礼儀作法は、序列に基づいています。ですから、序列のないとことでは、礼儀なしです。
 
>敬天が何を申し上げたいのかといえば、宗教的権威や、歴史・伝統・文化といった人間の拠り処となる権威を否定した社会には、暴力的に獲得し暴力的に維持されている暴力装置としての権力しか存在しないから、人民あるいは国民の生命・安全をものともしない人民にとっては暗黒社会でしかないのが、今のシナ人民共和国そのものだということなのです。

力は正義ですね。(Might is right). 正義の内容が問題になりますね。力による平和もありますからね。

>そして、例えば仕事や旅行などで高速鉄道など公共交通機関を利用するという、日常的生活においても、脆弱な安全性の下に人民が大きなリスクを負わなければならない国って、「どうよ?」なのです。>その「どうよ?」に集約されているのが「日本の新幹線は民衆のためにあるんだな・・・・  なのに中国の新幹線ときたら・・・・」に尽きると思うのです。

中国人の方が我が国民よりも、’今だけ・金だけ・自分だけ’ の処世術にたけているようですね。
 
>自衛隊を(国家権力における)暴力装置と発言した与党の偉い人がいましたが、敬天に言わせれば、現代においては人間社会の伝統的権威を否定しイデオロギーと私兵を使った暴力革命による権力そのものが、暴力装置と定義されるべきなのです。

権威主義は良くないですね。民は盲目の人になっています。この国をひっくり返して、国民に塗炭の苦しみを味わわせた時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>そして、人民の安全性を無視した、権力と金にまみれた「暴力装置」に支配された国家に、世界に賞賛される国家プロジェクトを構築できるはずはありません。

中国は、覇権主義の国です。中原の鹿を追う覇者の国の伝統があります。暴力装置に歯止めがかかりません。
特亜三国 (日本・中国・韓国) は無哲学・能天気の民の住む地域です。これらの民の言語には、時制というものがないので、非現実の内容を文章にすることが出来ません。
民は、現実しか信じていません。現実肯定主義者になっています。’あるべき姿’ を主張する者に対しては、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’ と反論し受け付けません。
‘あるべき姿’ は非現実の内容です。現実の内容は小異になるが、あるべき姿は大同になる可能性があります。小異を捨てて、双方が大同につけば未来への道が開けます。お互いに大同に注意を集中しないと提案もなく、小異の争いに明け暮れることになります。これが、現在の北東アジアの不安定要因になっているのでしょう。
ですから、特亜三国の人々も哲学を持つことが大切です。それには、英米の高等教育が必要です。英語の文法を勉強すると、正しい考え方を否応なく教えられます。英語を使えば、過去の世界、現在の世界、未来の世界という非現実の三世界の文章内容 (世界観) の枠組みを脳裏に作ってくれます。ですから、非現実のあるべき姿の内容を未来の世界として考える余地ができます。民は考えに奥深くなり、’烏合の衆’ は、’考える人’ になることができます。未来社会に対する夢と希望が湧いてきます。



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道徳の授業

2017-04-15 13:24:42 | 日本語脳
>子どもの頃、道徳の授業ほど気持ちの悪いものは無かった。

そうですね。教師による説教ですからね。問答はありませんでしたね。上意下達の習慣を励行するのみですね。

>いいこと風の内容や、現実から遠く離れた場面で強制される感じ。

現実から離れた話は、我々日本人には受け入れられませんね。退屈します。
日本語には時制というものがないので、非現実の内容は文章になりません。日本人には、非現実の世界は想定外になっています。
だから、日本人脳裏には ‘あるべき姿’ の世界がありません。’あるべき姿’の世界は、 ‘今はない’ 世界だからです。それで、日本人は、無哲学・能天気になっているのです。
自分自身の ‘あるべき姿’ が無いので、それと比較して、現実を批判することが出来ない。だから、判断力を持たない。付和雷同する人間のままでいる。

>人が人として成長する、誰かを想う、みんなの為に行動できる。

それはアニマルも同じですね。みんなの為に行動できる。種族保存の本能ですね。

>それは、生産を含んだ社会過程でしか学べない。(学ぶというより適応)

実学 (技術) の様なものですか。それは、今まで我々・日本人がやってきたことでしょう。それはそれで、日本が成功してきたこと。
だが、英米流の高等教育にはなりませんね。

>この世の中の混沌と、人間力の低下を、学校という社会から遮断された空間で、架空のお話しの中でナントカしようとしているが、なんだか相変わらず、教師という人種がお遊びしかしていないと感じる。

無哲学・能天気の人々の世の中は、混とんとしていますね。人間に固有な知力も低下します。考える人になるのには、俗社会から隔絶されることも必要でしょうね。大人の教育には、大学村のようなところが良いでしょう。

>ましてや、道徳を教科化し、評価までするという。

自分自身で ‘あるべき姿’ の内容を考えることが大切ですね。各人にそれぞれの哲学が必要です。さすれば、判断力のある人間が育成されます。烏合の国から脱却できます。今は民主主義の時代ですからね。自分自身で判断できる人が多いほど、政治の質が高められます。
自分が考える人になれなければ、外から教え込むしかないでしょう。徳目を暗記させる。伝統的な中国式でしょうね。試験地獄が待っています。その努力は袋小路になっています。

>とにもかくにも、早いこと、「学校」という狂った場から飛び出すのが一番の人間力アップに繋がると強く思う。

学校から飛び出す必要はないでしょう。学校でソクラテス式問答法 (対話法) をすると良いでしょう。真理の探究・教育の手法になります。人間力がアップします。


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外国人への差別

2017-04-14 10:50:20 | 日本語脳

>2017年4月11日、中国のポータルサイト・今日頭条は、日本で暮らす外国人への差別がしばしば発生する理由に関する評論文を掲載した。

外国人への差別は、我々・日本人はあまり気にしていないようですね。

>筆者は、華字紙・日本新華僑報の編集長である蒋豊(ジアン・フォン)氏。
>蒋氏は、世界で日本旅行の人気が高まっている一方、日本国内における外国人への差別が数多く発生していると指摘。

日本旅行の人気はありがたいことです。差別は、そうですね。残念なことです。人気はあるが、我が国は決して理想社会などではありません。

>法務省が3月に発表した調査結果で、在日外国人の3割近くが「差別的な言論を受けたことがある」と回答したことなどを伝えた。

残念なことです。アジア系に対しては、特にそうですね。解消する努力が必要ですね。

>その上で、「必死に外国人観光客を呼び寄せてお金を集めようとする一方、外国人にノーを突き付けるという日本社会の二面性は、実は意外なものではない」とし、二面性が成り立つ背景について論じている。

日本人の処世術は、’今だけ、金だけ、自分だけ’、ですからね。我々の共に行き着く先の内容が持てない。話し合いもできない。
今だけ: ‘その場主義’ と言われています。永遠の内容を考えることはありません。目の前での決着だけを求めます。ナウな感じがする。
金だけ: 金は目的に対する手段にしかなりませんが、無哲学・能天気な日本人には建設的な生涯にわたる目的がありません。金の持ち腐れが起こります。
自分だけ: 日本人には世界観が無いので、相手と共に未来社会を作る発想がありません。だから、その提案もなく、協力関係も考えられない。

>まず、「資源が乏しいことによる排他的な文化が日本社会に深く影響しており、表面的には謙虚で礼儀正しいが、内心には弱肉強食の競争心がなおも残っている」とした。

我が国は、地熱エネルギーに関しては、世界第三位の資源大国です。そのエネルギーは無尽蔵・枯渇なしです。ほとんど利用されていないところが、残念なところです。我々は、宝の山の上で暮らす貧乏人です。知恵が足りないのです。
日本人の礼儀は、序列作法です。上下判断で、下と見られたら、たまらない。割が悪くなる。だから、日本人には、向上心があるのでしょう。毎日が勝負・勝負の精進です。弱肉強食の競争心が序列社会を活性化しています。

>次に、「経済発展を遂げた日本社会や日本人は長きにわたり優越感を抱いてきた」とし、「途上国に対して日本の基準を持ち出す日本人や日本の業界は多い。

我が国の経済発展は、我が国民の向上心のたまものです。日本人は、’上とみるか、下とみるか’ のメンタリティですからね。序列人間は、’上意下達’ には慣れています。途上国の人とは違うかもしれませんね。教え方は知らない。議論はできない。

>高圧的な心理はなかなか元には戻らない」と説明した。

日本人の上下判断は、強迫観念にまで達していますからね。元に戻す方法は有りませんかね。

>さらに、「社会問題が山積して自らの生存や発展が危ぶまれる日本国内の状況が、台頭する外国との競争や大量の外国人流入に対する警戒心や排他的な姿勢を抱かせており、それが差別となって表面化している」と分析。

悪いものは、海外からやってくる。この発想法は、どこの国でも多かれ少なかれ見られますね。’日本第一主義’ の号令が大統領により掛けられないところが、我が国民の歯がゆいところでしょう。

>最後に「日本が積極的に国際化の看板を掲げたいのならば、在日外国人の生存環境改善から取り組み、『心の病』を徹底的に治さねばならない」と結んでいる。

我が国は貿易立国ですから、我が国に国際化は必要ですね。島国根性ですから、国際化は難しい。在日外国人の生存環境改善のご忠告ありがとうございます。心の病を根治する、何か良い療法をお持ちですかね。




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文章にして語れ

2017-04-10 11:49:30 | 日本語文法
>【日本語とは何か ( 日本語と英語は本質的に違う )】  
>世界には、本質的に異なる言語が、二種類ある。

その他にも本質的に違った言語があるかもしれませんよ。

>少なくとも、日本語は英語とは本質的に異なる。多分、欧米の他の言語とも本質的に異なるだろう。
>日本語と英語のそれぞれの語彙、文法、そして発音が違うのは勿論であるが、日本語と英語の基本的なスタンスが全く違う。
>結論から言うと、日本語は‘気持’を伝えるための言語であり、英語は物事、すなわち‘モノ・コト’を伝えるための言語である。

英語も日本語も、気持ちを伝えることが出来るのではありませんか。

>日本語は自分の気持を相手に伝えようとするのだから、当然、‘主観’の表明である。

自分以外の人の気持ちを伝えることもあるでしょう。気持ちは主観的な内容ではありますけれどもね。

>英語はモノ・コトを伝えようとするから、‘客観’的説明となる。

日本語も、実況放送・現状報告の内容を伝えるための言語の様ですよ。つまり、現実しか表現できない言語の様です。

>そして、その結果、日本語は自分の主観的気持を述べる‘感想文’とでもいうようなものになってしまう。

感想文よりも、気分を述べるバラバラな単語の群れの様です。和歌・俳句がその例です。日本人に人気があります。

>これに対し、英語は客観的にモノ・コトを伝える‘説明文’である。

英語は文章になります。歌詞も文章になっています。日本語の歌詞は、バラバラな単語の群れです。

>気持と事実(モノ・コト)、主観と客観とはまさに正反対のものである。

気分の内容は主観的、事実の内容は客観的ですね。

>主観的気持を主観的に伝えようとする日本語と客観的事実を客観的に説明しようとする英語は本質的に異なる言語である。

英語も日本語も、主観的な気持ちと、客観的な事実を伝える言語の様ですよ。

>(略)

>【追補 主観と客観、そして、意識の誕生 (日本語とは何か)】  
>日本語は主観の言語である。

日本語には、客観もあるのではないのですか。

>英語は客観の言語である。

英語には、主観も客観もありますね。

>ところで、主観とは、客観とは何か。なにが違うのか。

思想において、個人に依存する判断が主観、そうでないものが客観ではありませんか。

>日本語の「悲しい」は、自分の気持ちそのままの表明である。

単語には文章としての意味が無い。「悲しい」は、自分の気持ちか、他人の気持ちか、判断できませんね。

>主体である私の感情のそのままの表明である。

他人の感情かもしれませんよ。

>いってみれば、主感の告白である。

文章にならないと判断の内容がわかりません。ですから、主観・客観の区別はできませんね。

>ただ、言葉、例えば‘悲しい’という言葉は概念である。

そうですね。

>事態を抽象化し、言の一葉に託したものである。

そうでしょうね。

>感情という事態を ‘悲しい’という言葉に見做したのである。

そうですね。’悲しい’ は感情の種類でしょうね。

>そういう意味で「悲しい」という表現は主観である(観るという見做しが入っている)。

文章でないから、判断はできませんね。

>言葉が発明されたことによって、主感が主観として表明することができるようになったのである。

主観と客観の区別は、文章内容に関した区別でしょう。「悲しい」は単語ですから、その区別はありませんね。

>英語の「I am sad.」を日本語に直訳すれば、「私は悲しい状態にある」となり事態の説明である。

‘I am sad’. は文章ですね。文章には意味がある。この場合は、主観的ですね。

>これは、第三者の立場に立って自分の状況を観察し、これを描写しているのである。

自分の立場に立って述べているのでしょう。

>これが客観である。

自分のことを述べているのだから、主観的でしょう。相手は全く逆に狂喜しているかもしれません。

>日本語の「悲しい」により近い英語訳は「I feel sad.」である。

「悲しい」の主語は、’I’ (私) とは限りませんでしょう。直訳にもなっていませんね。
前者は単語、後者は文章です。両者はantonym (反意語・反義語・反対語) の関係にあります。文章は単語の集合体であります。文章でなければ、単語でしょう。単語には、文章としての意味がありません。
「悲しい」は、文章ではありませんね。単語です。文章としての意味もありませんから、その矛盾も指摘できません。

>‘feel’は主感である。

ただの単語では、主観・客観の区別はつかないでしょう。完全な思想を表さなければ、主観・客観の区別はできないのではありませんか。

>ただ、どう‘feel’するかという意味で‘sad’を加えなければならないので、やはり説明的となってしまう。

完全な文章になっていますね。

>英語には、例えば「I sad.」、あるいは「I sady.」という表現はありえないのである。

‘I sad’ とか ‘I sady’ は文章ではありませんね。文章の形態をなしていません。ですから、文章としての意味が無い。しかし、英語にも日本語にも、単語も文章も存在しますね。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

生涯のつまずきを避けるためにも我々は発言を文章にして語ることが大切であります。だが、日本語の場合は、時制がないので、英語のように異なる次元の文章を並置した上で比較して自らの結論に導くことはできません。だから、英米人のような大人の話はできない。そこで、以心伝心・不立文字となる。こうした精神状態では、国際社会に立つことはできないでしょう。彼らの言語では、考えは必ず文章になる。文章にならないものは、考えではありません。



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森友学園

2017-04-09 01:58:47 | 政治
>官僚の世界における“忖度”について「確かに言えること」
>投稿日: 2017年3月26日 投稿者: nobuogohara [郷原信郎]
>森友学園の土地取得をめぐる問題に関して、「忖度」(そんたく)という言葉が話題になっているが、この言葉は、典型的な官僚世界の用語であり、日本の官公庁や官僚的体質の企業等に所属したことがない人にはなかなか理解することが難しいようだ。

処世術として開発された官僚の常套手段でしょうね。

>外国特派員協会での籠池氏の講演の際に、この言葉がなかなか理解されなかったのも無理はない。

外国語に対応していない日本語ではありませんか。

>過去に、23年間、検察という官僚組織に所属した経験に基づいて、私なりの理解で、この「忖度」という言葉について、「確かに言えること」を書いておこう。

よろしくお願いいたします。

>①「忖度」は、される方(上位者)にはわからない。
>「忖度」というのは、上位者の意向を、本人に確認することなく、もちろん、指示・命令を受けることもなく、推察して、その上位者の意向に沿うように行動することである。

下位者による上位者の恣意 (私意・我がまま・身勝手) の内容を推察することですね。

>他人にはわからないように行うところに本質がある。

以心伝心・不立文字の様なものですかね。本質は、文章・言説になりませんね。他人には分からない。

>少なくとも、間違いなく言えることは、「忖度」は、される側にはわからないし、わかるようなものであれば「忖度」とは言わない。

テレパシーの様なものかな。泣きじゃくる赤子の側の様なものかな。

>直接確認し、指示・命令を受けるのであれば、「忖度」をする必要はない。

言語になれば問題がない。意思の内容を表明すれば、責任者となります。

>「直接、意向を確認しにくい関係・内容」、「確認して指示を仰ぐことに差し障りがある事柄」であるからこそ「忖度」が行われる。

日本人には意思が無い。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) はある。恣意は文章にならないが、小言・片言・独り言になる。文章でないものには意味が無い。矛盾も指摘できない。忖度 (推察) は勝手な解釈です。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。日本人は、優柔不断・意志薄弱に見える。

>森友学園の件では、財務省理財局、近畿財務局、大阪府等の職員の「忖度」が問題にされているが、彼らは、まず直接的には、それぞれの組織のトップないし幹部の意向を「忖度」するわけだが、さらに、そのトップないし幹部の意向が、「『安倍首相の意向』に沿う意向」であろうと「忖度」しているのではないかが問題になっているのである。つまり、「忖度」が何重にも積み重なっている。

>②「忖度」は、行う本人も意識していない場合が多い。
>「忖度」というのは、終身雇用制、年功序列制のピラミッド型官僚組織の中で、役人が生き残り、昇進していくために、わきまえておかなければならない「習性」のようなものであり、有能な官僚であればあるほど、意識しないで、自然に上位者の意向を「忖度」することになる。

序列社会の処世術でね。子供が親の顔色を窺うようなものですね

>私の場合、もともと、理系出身で法学部も出ておらず、検察の世界にたまたま引きずり込まれただけの全くの異端者だった(郷原信郎著【検察の正義】ちくま新書)。
>それだけに、組織内で行われている「忖度」には、かなりの違和感があり、それを自分なりにリアルに感じとることができた。

貴方は鋭い感覚の持ち主ですね。経験がものを言いますね。

>そのような世界に抵抗なくなじんだ組織人は、意識することなく、まさに呼吸をするような自然さで「忖度」をしている。

ああ、それで思い出しました。’息をするように噓を吐く’ という言い方がありましたね。慣れの問題ですかね。

>だから、「忖度」をした人に「忖度をしたでしょう?」と聞いても、それを肯定する人はあまりいないのではないだろうか。

日本人には意識が無いのですね。非言語の活動ですね。

>③「忖度」で違法・不当な行為は行われない
>「忖度」は、官僚が、その「裁量の範囲」で、上位者の意向に最も沿う対応をするものである。

忖度 (そんたく:推察) あまり聞きなれない言葉ですね。官僚特有のの処世術の言葉でしょうね。

>裁量を逸脱する違法・不当な行為は、後々、それが指摘されれば、処分等のリスクにつながるため、意図的には行わない。

法律は、明文化されていますからね。決着が早いです。

>「忖度」は、上位者に報告や指示・命令を仰ぐことなく行うのであるから、違法・不当な行為のリスクは、すべて下位者が負うことになるからだ。

危ない作戦ですね。

>「忖度」で行う範囲は、裁量権の及ぶ範囲内で、最も上位者の意向に近いもの、ということになる。
>「忖度」したかどうか、というのは、その状況と、行われた行為が裁量の範囲の中で、最も上位者の意向に近いかどうか、という客観的状況から、推認を働かせるほかないのである。

不適切でも違法性のない行為は、上位者にも見受けられますからね。無哲学・能天気では、自分の品性など構っていられないのでしょう。無教養の結果でね。

>④ 官僚は「忖度」で評価される。
>官僚の世界で、上位者から評価されるのは、違法・不当ではない「裁量」の範囲での方針決定について、上位者に方針を確認したり、判断を仰いだりせず、その意向を「忖度」して動ける人間である。

意思が無いから、自分勝手な解釈をするのですね。

>上位者にとっては、そういう人物こそ、上位者の意向・方針を、上位者の手を煩わせることなく実行してくれるので、大変好都合なのである。

不適切で役に立つ人間が増えるのですね。

>しかも、それは、今回のように、「忖度」によって行った対応が問題にされた時には、実際に問題に関わっていないので、上位者にとって、リスクを最小化できるという面でもメリットがある。
>そういう意味で、官僚の世界では、「忖度」の「習性」を身に着け、それを確実に行える人物が、「能力の高い官僚」と評価され、いちいち上位者の意向を確認しなければ対応できない人間は「無能」と評価されるのである。

有能・無能は、処世術で決まりますね。不適切でも違法性のない官僚が増えてゆきますね。非言語で、不透明な活動が幅を利かせますね。

>以上のような「忖度」についての基本的な理解を前提とすれば、国会で「忖度した事実がない」と答弁している安倍首相は、官僚の世界における「忖度」の意味を理解しているとは思えない。

そういうことになりますね。

>一方で、野党側が、参考人招致や証人喚問等で「忖度」の事実を明らかにしようとしているのも、あまり意味があることとは思えない。

非言語の世界を言語で解釈するのは難しいですね。

>「忖度」というのは、組織内に、「磁場」のように存在し、物事を一定の方向に向かわせていく力であり、それは、官僚にとって特別のことではなく、しかも、違法・不当なものではなく、裁量の範囲内でやっているだけであるから、「忖度したか」とか、「それが、具体的にどの程度影響したか」ということ突き詰めようとしても、その解明はほとんど無理である。

‘不適切でも、違法・不当ではない’ ということですね。最低の水準を得ようと争うのですね。

>むしろ、その「磁場」の存在の背景となっている、権力構造そのものの問題を考えていくしかない。

序列社会の権力構造ですね。脇道にそれる事のない立身出世一筋ですか。

>現状で言えば、官僚の世界が、終身雇用制、年功序列制が維持されるピラミッド型組織で、内閣人事局に各省庁の幹部人事権が握られ、それを動かす政治の世界が、国会は与党が圧倒的多数、その与党の党内も、小選挙区制のために、公認候補の決定権を持つ党幹部に権力が集中しているという状況は、まさに、最も「忖度」が働きやすい構図であることは間違いない。

同感です。意思には理解が対応します。恣意には忖度が対応するのでしょうか。腹芸・談合に近づきますね。言葉のない不透明な世界。

>むしろ、重要なことは、今回の問題がまさにそうであるように、行政の透明性を高め、その手続が問題になった時に、「忖度」が働いたかもしれないプロセス自体を公開することである。

日本人には、意思が無いので、意向を明文化できない。だから、行政の透明性が高められない。
‘不適当であるが、違法性が無い’ というのが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の働きでしょうね。これを問題にする必要がありますね。不適切な人間を追い出しましょう。

>森友学園の土地売却をめぐる問題がここまで深刻化した原因は、国有地売却の経過や交渉についての文書・記録が「廃棄された」と説明され、「忖度」の実態が覆い隠されているように見えることなのである。

同感です。文章・言説を大切にする習慣をつけましょう。

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