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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

対話

2016-08-27 18:35:06 | 文化
>日本では対話とか意味のある会話がほとんど話されないと思いませんか。

同感です。腹にたまっているものは、整理がつかないから話されないのでしょうね。

>日本人は対話が本当は好きじゃないのですよ。

そうですね。’ああいえば、こう言う’ という結果になりますからね。

>ケンカになりますからね。

つかみどころのない人間を相手にしていては、喧嘩の対象にしかならないでしょう。

>しかし創造性が養われるのはテーゼとアンチテーゼのこの対話のなかですからね。

日本人は、唯一の正解の存在を信じているから、自分と反対の見方をする人は、好きになれないでしょうね。意見が一つであれば、心が休まる。
個人に関する各種各様の話の筋 (矛盾のない内容) を確かめてみる習慣がない。個人主義・世界観が考えられないから、個人意見そのものに興味を持たない。

>創造性そのものが妨げられますね。

正しい考えは、矛盾のない考え。誰に気兼ねすることもなく、自由に新しい内容を話したら良い。結論はリーズナブルの範囲内に収まることでしょう。

>日本の学問が点と部分でしか発達しなかった大きな理由は意義ある対話が欠けているせいじゃないですか。

同感です。
現実の世界は、過不足なく成り立っている。見ればわかる。
それと同じように、過不足のない内容を脳裏における非現実の世界にも成り立たせることができれば、それは哲学である。高尚な内容である。見てもわからない。
失敗すれば、点と部しか残らない。
考えに関する個性は認められないから、日本人には意義ある対話がないのでしょう。

>・・・・科学者が小説家や会社社長と対話することとなると、日本人はそういう出会いを楽しみませんね。

畠 (専門分野) が違うので、話 (現実) が合わない。小異 (現実) の中には期待される内容は何もない。哲学 (非現実) であれば、大同がありうる。だが、無哲学・能天気の民には、その見込みもない。

>それで同じような人間がいつも同じような場合に集まるので、話はなんの役にも立たない。

同感です。
発言内容の一致を心強く感じているでしょうね。唯一の正解の下で異口同音の練習により鍛えられていますからね。これは、言語・教育の問題ですね。


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日本人の意識

2016-08-24 22:48:04 | 文化

>【集団依存】会社にぶら下がっている。どうせぶら下がるなら「寄らば大樹の蔭」と考えている。数を頼む

出過ぎた真似はご法度ですね。序列制度に身を任せているのですね。

>【絶対平等主義】パフォーマンスの低い人の報酬や労働条件に、全員が「平等に」合わせるという「平等主義」
「出る杭は打つ」ものの、決定的な敗者も作らない。

不自由を常と思えば不足なし。

>【他律性】自律性がなく、周囲の意見に従って自分の態度を決定する。だから思考停止していても不便を感じない

日本人には意思がない。だから、能動的行動は難しい。
意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。

>【論理性欠如】論理とかセオリーに従わず、感情的、感覚的判断を行う。自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準で物事を判断する。

理論とかセオリーは考え (非現実) で、その内容は頭の中にある。気分・雰囲気は考えではなく、腹の中にたまり、腹芸の原動力となる。処世術 (現実) の内容は、頭の外に存在する。

>【目的意識の欠如】明確な目的意識を持たず、集団への依存心が強いので、自己を超克する努力などしない。飲み屋で同僚とぼやき合って、マイナス方向のエネルギーを蓄積していく。

日本人には世界観がない。’あるべき姿’ の世界が想定できない。だから、目的意識を持たない。小言・片言・独り言は建設的な考えにはならない。

>【「知」に対する無感覚】「知」の決定的な重要性を意識していない。だから洞察力も判断力も磨けないし、自分で物事を考えようとしない。組織的な判断(稟議)を行い、責任を回避する。自分にとってメリットがあるか、自分の立場にプラスかどうかという近視眼的な基準でしか物事を判断しない。

日本語には時制がないから、日本人は脳裏に未来の世界を展開できない。だから、洞察力も判断力も磨けない。
意思決定には、根拠が無い。自分の頭で考えられることは、処世術 (現実) のみである。

>【批判精神の欠如・内向性】「目上の者を指さしてはならない」と思っている。自分の仲間なら、反社会的なことをしていても批判しない。「身内の恥は我が身の恥」として不祥事を隠匿する。しかし、たいていはバレてひどい目にあう

序列メンタリティが発達している。だが、社会的責任感は持っていない。この国がひっくり返っても、責任者は出なかった。

>【権威主義・虚礼重視】たとえ無能で、年功で出世した者でも、あくまでもメンツにこだわる。メンツの後ろ盾になっているのはカイシャ。肩書きを取ると、途端に無力になる。

序列社会の仕来りですね。序列意識は強迫観念となり、序列への帰属意識がさらに強まってゆく。人生はむなしくないのかな。

>【親分肌の明るい笑顔】性格は明るく、根拠なく楽観的。人に好かれる。それは資源をばらまいて、人にいい顔をするのが仕事だと思っているからである。その資源は自分のモノではないのだが……

花さか爺さんですね。何事もパットやりたい。一時的な慰めに身を任せているのかな。ナウな感じよ。

>【即物的】所有という概念に執着する。無形資産の価値を理解しない。

現実の価値は存在する。見ればわかる。日本人の非現実の価値は真っ赤な嘘になる。

>【価値軽視】モノの「価値」をあまり深く考えようとしない。だからさし迫った危機意識を持たないし、価値観の違いを根拠にして他人に「NO」を言わない。「現状のままでいれば、常に明日という日は来るはずだ。何が問題で騒いでいるのか」と他人事に受け流している

‘何事も、成ってみなければわからない’ ということか。

>【保守主義・前例主義・教条主義・拝外主義】「現状を改変してはならない」という信念を持ち、革新的なことは認めようとしない。自分たちと異なる立場は絶対に許容しない。新日本人を敵視する。

お変わりのないことは良い証拠。天下泰平の世の中である。眠りをさます蒸気船は撃退しなくてはならない。

>【ご都合主義・相対主義】何事にも「白黒」をはっきりさせず、自分の態度を表明しない
付和雷同的に「他人がよいと言っているものはいいんだ」と思い込み、物事を実質本意に判断しようとしない

日本人には意思がない。意思のあるところに、方法がある。だから、他力本願・神頼みとなる。無事息災を願っている。

>【中庸・無為無策を尊ぶ】決して「物事の大元を変更してはならない」と思っている。
前任者の責任を問うような方針変更は「過激」として排除され、「改革」は単なる弥縫策に矮小化される

日本人には世界観がない。次の世界への移行は想定されていない。グランド・デザイン、マスター・プランは存在しない。だから、常に修繕程度になる。



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教育大国のアキレス腱

2016-08-22 15:11:00 | 教育
>国民のうち英語が必要なのはせいぜい数%しかいない、という日本の状況は世界でも珍しいのです。

情報交換に関する鎖国状態ですかね。

>例えば、英語の話せるインド人は9千万人以上いるといわれています。総人口が12億6千万人なので、それでも7%ですが、国際会議や向上の場で、インド人があの変わった抑揚の英語でリードしている場面には良く出くわします。
>インドの大学では英語で授業が行われています。これは5百万人以上の話者を持つ言語が26もあるという多言語国家で、英語が準公用語となっていることと、大学の教科書は英語で揃っているので、そのまま使ったほうが効率的であるという事情があります。

かならずしも英語を話せば教養人ということでもないようですね。英米流の高等教育が可能になるということでもないようですね。

>そもそも世界で、自国語で大学まで学べるという国はそれほど多くはありません。ヨーロッパでもドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ロシア語などの大言語を除けば、デンマーク語とかアイルランド語とかチェコ語といった話者の少ない言語の国では、大学の教科書のような少人数向けの本は出版出来ないからです。

人類の知識の大半は、英語の文献として蓄えられているのではありませんか。

>もう一つは、大学で使う高度な近代的概念用語を揃えた言語もそれほど多くない、という事情があります。例えば、「中華人民共和国憲法」とか「北朝鮮民主主義人民共和国」などでの「人民」、「共和国」、「憲法」、「民主主義」などは、日本も明治の先達が漢字にした概念用語を直輸入して使っているだけです。

漢字は漢人 (中国人) の考えを表すために作られた文字であります。ですから、漢字は外国人の意味を表すために作られてはいません。中国人自身の考えが増えなければ漢字の数も増えません。我が国には、カナ書き外来語が増えてくる。中国人は、どうしているのかな。
日本語の概念用語は英語に対する漢語の当て字ですね。当て字は真の意味を伝えるとは限らないでしょう。人工語の欠陥か。だから、我が国では、概念・観念の学習に対する不具合と疑問が絶えることがない。かくなる上は、丸暗記するしか手がない。詰め込み教育は、教育大国と自称する我が国のアキレス腱となっています。

>輸入品だから、いつまでも憲法や民主主義が根付かないのだろうと皮肉の一つも言いたいところですが、逆に日本から輸入した概念用語が無ければ、中国語や朝鮮語では大学教科書は作れなかったか、作れても何十年も遅れたことでしょう。

特亜三国 (日本・韓国・中国) の言語には時制が無いので、民は非現実の内容を文章にして考えることができません。それで、無哲学・能天気になっています。我が国民に対する曽我部氏の懸念は、以下のような内容です。

懸念されるのは、自民党の憲法草案で基本的人権をめぐり天賦人権性が否定されていることだ。これは近代の人権観念の端的な否定であり、見過ごせない。立憲主義、人権、民主主義といった近代憲法の諸概念は欧米由来のものであり、これらを後に受け入れた日本を含む国々では反発を呼ぶこともある。しかしこうした諸原理自体は、多様な個人の共生を可能にする基礎であり、普遍的なものとして受け入れなければならない。 (曽我部真裕 京都大学教授) (引用終り)

多様な個人の共生を可能にする国は、外国人の共感をよびます。移民・難民の殺到する国になります。だから、民度の高さが外から見てもわかります。決して国土の広さでもなく、資源の豊富さでもない。人間の問題です。

>自国語で大学教育ができるというのは、それだけその言語で高等教育を受ける人口規模が大きいことと、その言語が高度な近代的概念用語を揃えている必要がある、ということなのです。

日本語には概念がない。言葉のみで理解する内容が無い。
日本語の内容は、見ればわかるものばかり。それは、現実の内容である。文章の内容は、頭の外にある。
英語には、現実の内容以外にも内容がある。それは、非現実の内容で、概念である。
英語には概念がある。言葉でしか理解できない内容が存在する。その内容は、外から見てもわからない。文章の内容は、頭の中にある。

フランク・ギブニー氏は、著書 <人は城、人は石垣> の中で以下のように指摘をしております。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。
英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には “to be” に当る適当な動詞がない。”being” とか “reality” のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。

他方、日本語は純粋に具体的なことがらの区別では豊かである。数え方を例にとってみよう。単複の区別では弱いが、具体的物体の種類の数を表現するのに、アングロ・サクソンの詩人にとっても想像を絶した多数の言葉を持っている。たとえば動物は「二匹」で、鳥は「二羽」、銃は「二挺」、飲物は「二杯」、石は「二個」、箱は「ふた箱」、葉巻は「二本」など。 (引用終り)



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2016-08-18 11:12:32 | 教育
日本人の夢は、はかない。それに比べて、英米人の夢は生きる希望になる。どうして、このような違いが生まれるのか。どちらも、非現実の内容である。見ることはできても、触ることはできないものである。非現実の内容に価値を認めるか、認めないかの英米・日本の差である。

日本人にとって非現実の内容は意味がない。それは、非現実の内容が日本語の文章にならないからである。文章にならない内容には、意味がない。矛盾がありそうでも、それを指摘できない。だから、価値がない。雑念として放置されか、脳裏から振り払われる。
英米人の非現実には価値が有る。それは、非現実の内容が文章になるからである。非現実の内容は、時制のある文章内容になる。文章になっている非現実の内容には、意味がある。矛盾も有れば、それを指摘できる。矛盾を訂正すれば正しい考えになる。だから、価値がある。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
日本人の夢は、非現実であり、文章にならない。だから、意味もなければ、価値もない。打ち捨てられている。
英米人の夢は、非現実であるが、それは時制を使えば、文章内容になる。夢は未来時制の文章内容になる。だから、意味もあれば、価値もある。

現実の内容は、頭の外にある。これに対して、考え (非現実) の内容は、頭の中にある。
現実の有様は、見ればわかる。考えの内容は、理解しなければわからない。
日本人の夢は、文章にならないから、理解不能である。
英米人の夢は、未来時制の文章内容になるから、理解可能である。非現実の内容は大同になりうる。だから、小異 (現実) を捨てて大同 (非現実) につく人々を増すことにより、大同団結できる。
今は民主主義の時代である。民が力を示す時である。それには、民の理解が必要である。考え (非現実の内容) を理解する力が必要である。

我々は、‘あるべき姿’ の提案を受けて、’そんなことを言っても駄目だぞ、現実はそうなってはいない’ と反発する現実肯定主義者にとどまってはいられない。
‘嘘も百回繰り返せば真実になる’ といった (矛盾した) 現実を受け入れる態度ではいられない。たとえ、その内容が有史前に関する事柄であっても、(矛盾のない) 正しい考え方を受け入れる人間になる必要がある。矛盾のない内容はすべて正しい。だから、与えられた唯一の正解を後生大事にして暗記の勉強に励む必要もない。各々が自由な議論を盛んにすれば、我々は夢を追いかける人となることができる。
我が国においても、英米流高等教育の無償化は、最重要課題であるといえよう。さすれば、未来社会の建設にも弾みがつく。

日本人が非現実の内容を頭から拒否するのは、和文の中では理解不能だからである。意味もなければ、筋も通らない。夢物語となっている。
英米人が非現実の内容を高く評価するのは、正しい考えの表明だからである。英文の中では、理解が可能だからである。ちょうど、アインシュタインの理論が評価されるようなものである。彼の考えは、非現実であっても正しい。実証されなくても正しい。実証されれば、なおのことおめでたい。

人間の偉大さは、夢を正夢にすることにある。非現実の内容を現実の世に実現することにある。さすれば、我々は、人類固有の創造力を発揮したことになる。人類の進歩はこれにある。




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日本の学校

2016-08-14 16:46:31 | 教育
>日本の学校は教師にとって大変教えやすい場になっています。学校以上に教えやすい場と思われる場は、教えやすい順に監獄、病院、軍隊くらい。教えやすいとは、はい、と言わせる強制力とも言えます。一つ忘れていましたが、悪質な?熱心な?宗教団体を抜けるときは、・・・・・教義に逆らうことなどできるはずがないので、ひたすら、はい。


他人に強制する人たちには、それ相当の利益が用意されているのでしょうね。

>たとえ、子どもが危険な遊びをして重大な結果が予想されるようなことをしていたとしても、はいを強制したのでは、隠れてこそこそ同じことを別の場所でする子になってしまうでしょう。

嘘も方便ですね。

>内圧で共感したうえで理解しないとダメなのです。政治家が汚職をする、どんなにマスコミが叩いてもダメ、強制力のある法律を作ってもダメなと同じように、それはますます巧妙さを増すばかり。

処世術とは、えてしてそう言ったものになるでしょうね。

>・・・・・とすれば、生徒にとって学びやすい場とは、根拠のない強制と共感無き同意、の要らない環境、人間関係ということになるはずです。

‘あるべき姿’ の考えが無ければ、何を学ぶのかわからない。’あるべき姿’ の内容は非現実であって、頭の中にある。だが、日本語で話せる内容は、実況放送と現状報告の内容である。これらの内容は頭の外にある。見ればわかる内容である。現実肯定主義の日本人には、頭の中の内容は受け入れられない。自分自身の考えを述べれば、’そんなことを言っても駄目だぞ。現実はそうなっていない’と反論される。’あるべき姿’ の内容は、未来時制の文章内容であるから、時制のない日本語脳では考えることができない。英語なら時制があるので、考えられる。だから、一概に大学と言っても、国際的に見ればその程度には大きな差があることになります。我が国の学校は、無哲学・能天気の人の集まりで、’根拠のない強制と共感なき同意’ の学び舎になっているのでしょう。


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