gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

失敗を責める

2018-02-20 22:11:59 | 文化

>先日アイルランドに滞在していたんですが、カフェに入ったときに店員さんがお皿を落として割っちゃったんですよね。>でもまわりのお客さんたちは笑いながら「やっちゃったね〜」「どんまい」と店員さんに話しかけていました。>この光景をみて、「ああ、だから日本は失敗を恐れてだれも新しいことをやらなくなるんだな」と気づいたのです。

この店員さんは、どのような新しいことをしたのですか。

>◆失敗をとにかく責める日本>これがきっと日本の飲食店だったら、こんな和やかな雰囲気にならないと思うんです。>どこに行ってもお皿割ったりしたら店員さんが申し訳なさそうに「失礼いたしました!」「申し訳ありません!」と謝ってるし、お客さんは怪訝そうな表情をする。>アイルランドでバスに乗ったときに、揺れた反動で隣のおじちゃんにぶつかってしまったときがあったんですが、「Sorry」というとおじちゃんは笑って「No problem.」と肩をポンポンとたたいてくれました。

日本でしたら、’どういたしまして’ というところでしょうね。

>これもまた、日本の混み合った電車で足を踏んづけてしまったら、人によっては舌打ちしたりしますよね。>でもこういう些細な日常のミスへの対応は、そのまま仕事や新しい挑戦に対する対応につながっていくと思います。>すべての人がそうとは限りませんが、間違いなく日本は失敗することに対して異常に責めるし、「許されない」という雰囲気がある。

礼儀正しい日本人の生活は、真剣勝負そのものですね。

>◆失敗を恐れると、だれもチャレンジしなくなる>よく同年代と仕事の話をしていても、「上司にミスをめちゃくちゃ責められた」「入社したての時に、”こんなこともできないのか”と怒られた」という話をよく聞きますが、こうやって「失敗したお前が悪い」と頭ごなしの責め方をするのは一番やっちゃいけないと思うんですよ。

そうですね。あまり良い効果は、期待できないですね。

> 一方的に責められた側は、「なぜ失敗したのか」の原因を冷静に探る前に、「失敗をしちゃいけない」という恐怖心に支配されてしまうから。>「失敗は悪」という価値観が植え付けられると、みんな失敗をしないように恐る恐る行動して、なるべく新しいことをやらずに「今まで慣れ親しんできた失敗しないやり方」を選ぶようになる。

そうですね。’安全第一’ ですね。もし失敗したら隠蔽工作をしますね。

>そうなると、誰も新しいことにチャレンジしなくなり、まわりの目を気にしながらずっと同じやり方や価値観に固執してしまう。>日本人が極端に安定志向なのも、この「失敗=悪」という文化がずっとこびりついてきたせいでもあると思います。

通常、失敗には損害が伴いますからね。’失敗=善’ にはならないですね。

>◆一番しんどいのは「失敗する以前に何もしないこと」だ>以前厚切りジェイソンさんのツイートを見てその通りだなぁと思ったのが、「日本にはセカンドチャンスがない」という言葉。

日本人の場合は、真剣勝負ですからね。

>新しいことにチャレンジして失敗したときに、その失敗から得たことを次に活かすチャンスがめったに与えられないということです。

そうですね。日本人は、’考える人’ になれないでしょう。

>たぶん、その失敗を許して次に活かす余裕が日本にはないんだろうなぁと思います。

次の機会に活かす余裕はないですね。何もしないのが、その人の功績ということになります。

>でもだからといって失敗しないように生きようとすれば、きっと手も足も出なくなる。>そうなると自分が成長する機会は一気に失われてしまう。>そして気づけば「失敗=悪」が根付いて他人の失敗を責めるようになる。

そうですね。他人を責めていれば、相対的に自分の序列は上がりますね。成長などしなくても序列順位は上がるのです。

>だからわたしは「失敗以前に何もしないこと」が一番リスクで苦しいと思います。>本当は変わりたい、本当は挑戦したい、そう思いながら他人の目と失敗を気にして踏みとどまり続ける人生が一番苦しい。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のないところには方法がない。日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。意思のない人間が意思を表そうとすることは、一番苦しいことでしょう。

>わたしはたとえなにか失敗しても、「なぜうまくいかなかったのか?」を冷静に考えて次に活かすところから、本当の理解ができると思います。>失敗してもそれを次に活かすこと、そしてまわりに失敗している人がいたら「次はどうすればうまくいくか一緒に考えよう」と言える環境を作ること。>この意識がもっと日本に根付いてほしい。

本当にそうですね。’失敗は成功の基’ ですね。建設的な議論のできる教養基盤を持つことが必要ですね。


.



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

自己弁護

2018-02-19 20:56:08 | 文化
>日本人自身の手(口)による日本人論には色々とある訳ですが、総じて実態を的確に表していると言うよりは、むしろ醜悪な自己弁護と言いますか、本当は真逆である現実を覆い隠すものでもあるように思います。

そういうところもあるでしょうね。

>最もタチが悪いのは「日本人は時間に正確/時間にうるさい」みたいな類いで、これは他国に対する排他的優越心の表れでもありますけれど、しかし本当に時間に正確な国民性であればダラダラ会議で長時間労働なんて起こりえないわけです。>そしてもし日本人が時間にうるさいのであれば、サービス残業なんて許されようはずもありません。>ところが「日本人は就業時間を守らない」と憤る外国人がいる一方で大多数の日本人は時間を破ることを意に介していなかったりします。

そうですね。日本人は、必ずしも時間厳守ではないですね。

(略)
>「日本人は曖昧」というのも然りで、実態は正反対、日本ほど曖昧さを受け入れられない社会もないと言いますか、何事も善悪二元論で考える、原発事故やワクチンの副作用等々でもリスクを「ある」か「ない」かでしか考えずに、その「程度」を理解しようとしないのが日本文化であるように思います。

‘嘘・本当?’ の質問形式ですね。

>大多数の日本人にとって存在するのは白か黒だけ、グレーなんて学者の誤魔化しぐらいにしか受け止められていないわけです。>日本人は曖昧なのではなく、「日本人――我々――は曖昧だからよくないのだ、もっと曖昧さを排さなければ!」というのが、最大公約数的な認識なのではないでしょうか。

優柔不断・意志薄弱ですからね。’もっと、ハキハキせよ’ ということでしょうか。

>日本人は「指示待ちが多い」云々も実態を表さないどころか正反対のような気がしますね。
>むしろ「指示待ちではいけない、自分で考えて行動しなさい」と子供の頃から吹き込まれて育ったのが日本人であって、そうであるが故に統制が取れない、勝手な思い込みで突き進んで周りに迷惑をかける人も多いところがあるはずです。

それは、恣意 (私意・我がまま・身勝手) の自由ですね。自由のはき違えです。

>先日の熊本の大地震では、「野良ボランティア」などとも呼ばれる、社会保険協議会や行政の指示に従わない自称ボランティア集団の存在が問題視されたりもしました。
>必要のないものを押しつける、勝手な行動で現場を混乱させる、それを「善意」で行う人々の存在は日本の「指示を待たずに行動する」文化の現れに見えます。

そうですね。日本人には意思が無い。だから、意思を示す指導者がいない。待っていても仕方がない。指示を待たずに行動する。このような順序に恣意の行為が進むのでしょう。
意思は、未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがありませんので、日本人には意思がありません。だから、優柔不断・意志薄弱に見えます。
カレル・ヴァン・ウォルフレンは、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。

国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

>そして「日本人は失敗を恐れる」云々も嘘八百で、強いて言うのなら日本人が恐れているのは「詰め腹を切らされる」ことでしょう。
>日本は自己責任の国、失敗したときに己に全責任が降りかかってくるような場面であれば、確かにそれを日本人は恐れるのかも知れません。
>しかし、責任を問われない場面では? 

意思が無いのだから、責任もない。’とかく、この世は無責任’ と言うことか。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

>前段の野良ボランティアも然りで、自身の行動で周りに迷惑をかける、状況改善を遅らせるようなことになっても知らぬ存ぜぬで、失敗の可能性を微塵も憂慮せずに行動している人は少なくないように思います。

そうでしょうね。誰も反省は好まない。

>会社だってそう、「失敗するとわかりきったプロジェクト」が当たり前のように強行されることは全く珍しくありません。>もう少し失敗の可能性を意識して「退く」ことも考慮して欲しいなと私などは感じるところですが、偉い人は楽観論で突き進みます。

先のインパール作戦の様なものか。偉い人には責任感 (sense of responsibility) が無い。意思が無くては、責任感のあろうはずがない。

>政治にしても同様で、たとえば消費税増税のように過去の失敗から何も学ばずに同じことを繰り返し、同じ結果を招いたりもしてきたわけです。>なぜ失敗を恐れないのか、もう少し失敗を恐れて慎重に検討するべきではなかったのかと思うのですが……「日本人は失敗を恐れすぎる、もっと果敢に挑戦しなければならないのだ」と、そう考えている人の方が多いのでしょう。

一寸先は闇である。だから、果敢な挑戦は危険ですね。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。考えるとは、作文をすること。文章が結論を出してくれる。日本語文法には時制が無いので、未来の世界の内容を文章にすることは出来ません。ですから、一寸先は闇であります。にもかかわらず、果敢な挑戦をするのは、飛んで火に入る夏の虫であります。増税については、私は詳しく分かりませんけどね。



.


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

英語・国際人

2018-02-18 22:38:13 | 教育
>日本では、未だに「英語=国際人」という印象が強く、電車の中は英会話教室の広告で溢れ、書店には◯◯で学ぶビジネス英語のような本がところ狭しと並んでいますが、本当に日本は小学校から全員が英語を学び、ユニクロや楽天のように社員全員が英語を話す必要があるのでしょうか。

’小学校から全員が’ は、疑問のあるところですね。英語は、特殊学校でやればよいでしょう。日本人は、’全員’ が好きで、’特化’ を嫌う傾向がありますね。’世の中は、、、、、’の形式にすると、安心できるのかもしれませんね。

>1991年から2000年まで、日本マイクロソフトの代表を務めた成毛眞さんは、日本の9割の人に英語は必要なく、国語や数学は自分の頭で考えて結論を出す学問ですが、英語はただ暗記するだけの科目なため、得意科目を聞かれて、「英語」と答える人は、自分は物覚えがいいだけのバカだと自覚すべきで、現代では創造力がない人ほど、英語を勉強すると述べています。

非現実の内容を現実の内容に変換できれば、それは創造力を発揮したことになります。現実の内容を現実に再現すれば、それは模倣になります。
日本人は、模倣が得意で、創造が苦手です。非現実の内容を脳裏に描きだすには、文法に時制というものが必要です。
時制があると、非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容が文章として表現できます。英語には時制がありますが、日本語にはありません。ですから、日本人の話は、非現実->現実とはならずに、もっぱら現実->現実となります。ですから、創造は難しく、模倣が易しくなります。

>日本人の英語に関しては、様々な議論がありますが、世の中の雰囲気は圧倒的に「英語ができる人=優秀」で、マスコミや企業などが英語の習得が必要でない9割の人にまで、英語ができないと世界で生き残れないような錯覚を日々植えつけており、ましてや、子供の頃から国民全員に英語を教えたりすれば、日本から国際人がいなくなってしまいます。

英米においては、英語が話せても ‘ただの人’ ですね。優秀は、日本人との価値観の違いなのかな。それとも、日本における希少価値ということかな。

>人間は母国語で考える時、最も創造性を発揮し、19世紀から高校や大学の授業をすべて英語で行っているインドの人々は、母国語で自然科学や社会科学といった高度な学問を学べることを羨しがると言いますが、数学者で「国家の品格」の著者でもある藤原正彦さんも、数学という論理的学問であっても、新しい解法を模索する際、最終的に頼るべきものは母語のもたらす感覚や情緒だと述べています。

母国語のない国はないでしょうから、それぞれに高度な学問を作り上げたらよいでしょう。人類は皆さん母語のもたらす感覚や情緒を頼りにしたらよいでしょう。

>言語社会学者である寺沢拓敬さんの「日本と英語の社会学」によれば、英語をよく使う人は、どの世代でも全体の2~3%しかおらず、産業ごとに、2006年から2010年の間で、「過去一年に英語を少しでも使った人」の割合を見てみると、ほとんどの産業で英語使用が減っており、ほんの少し増えたのは農業だけだと言います。

天然資源の乏しい我が国は、外国と貿易をして暮らしを立ててゆかなくてはなりませんから、外国人との付き合いは大切にしたいものですね。友達付き合いを良好に保つには、言葉足らずでいては不利になります。第二言語を学ぶときには、英語が有利でしょうね。言語を必要になってから学ぶというのも難しいですね。

>元マイクロソフトCEOの成毛眞さんは外資系企業ですら、英語を使うのは一部の経営幹部だけで、英語を学ぶために仕事をするわけではないのだから、楽天やユニクロのように会社から英語を強制されたら、転職を検討する方が利口だと述べており、一年に数回しか乗らない車を買う意味がないように、大して使わない英語を全員が学ぶことは、大きな無駄だと言えます。

英語の強制があるかないかを入社前に調べておいた方が良いですね。強制されてから転職を検討するのは、あまり利口とは言えませんね。大きな無駄です。

>英語が国際的な言語になっていくのは19 世紀はイギリス、20 世紀はアメリカの順番で、世界の覇権を握ったからであり、現在日本で英語を学ばなければ、おいていかれるというムードを作り上げているのは、アメリカ・イギリスが自国の影響を維持するための戦略にすぎません。

そうとばかりは言えないでしょう。どの国も、実利が無ければ英語などを使ったりしないでしょうからね。世界中の航空管制も英語で行なわれているようなものでしょう。第二言語としての英語の有用性は大きいと思いますよ。日本語も第二言語になるように我々が努力すれば、世界の人の技術力が向上して大きな貢献できるでしょうね。ローマ字 (alphabet) を使って日本語の音読を容易なものにして、国際社会に日本語会話を盛んにすれば、我が国での技術研修も大きな成果を上げることかできるでしょう。日本の影響力を維持するための戦略になりますね。


.



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

自他未分離

2018-02-16 14:18:24 | 文化

>『できる』は『可能』を表す言葉であるが、この『できる』は、『いでくる』→『でくる』→『できる』と変化したものである。>『「いでくる」というのは「(内にあるもの、隠れているものなどが進み動いて)表に現れる」「(なかったものが)新しく生じる。できる」(日本国語大辞典)といった意味である。』 (敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)
>このことは、 『「自然展開」「自発」的であるものが、そのまま日本人にとって「可能」となり得ているということを意味している。したがって日本人にとって何かが「可能になる」ということは、その人の主体性においてその「可能」をつかみ取るということではなく、まさに「自発」の世界と同じように「主客合一の世界においてある行為が成立する」ことなのである。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P112)

日本人の解釈は、物事の生起は ‘自然展開・自発的’ によるということですね。’子ができる’ といったようなものですか。

>ここでいう『自発』とは、 『自発的に行動しなさい』の『自発』ではなく、>『おのずからそうなる』という意味の『自発』である。

無意思の自発ですね。出来心の様なものかな。

>この『自発』においては、その行為の『主体』(subject)性はかえって妨げになるものである。>そこでは『誰が』ではなくて『おのずと』が大切になる。>したがって『自発』を表現する文においては『主語』(subject)は不要であるばかりか、かえって自発本来の意味を損なうものとなる。

この世界は、神の意思により作られたものではなくて、自然にできたものですね。神様の姿の描かれていない風景画の様なものですね。

>可能表現の根が自発表現に発しているのはほんの一例であり、その他にもさまざまな表現がこの自発表現から発している。>『(「明日来られるか来られないかはお天気次第ですね」の「れる」「られる」は本来「自発」表現だが、) 「自発」「自然展開」をよしとする日本人の価値意識は「自発」を本意とする言葉に「価値」の意味を付与することになる。すなわち「自発」「自然展開」的になされる行為に価値を与え、価値を付与された語によって「尊敬」をあらわすという言語史的展開が見られるようになる。「先生は明日来られる」に見られるように、本来「自発」を意味する「られる」によって尊敬をあらわすようになってゆくのである。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P120)

そうですね。そう考えるとわかりやすいですね。

>また、『「れる」「られる」、「できる」のような本来「自発」をあらわす言葉は、「自発」が日本人の価値意識の中核に存在している故に、それがそのまま「可能」(例「自転車に乗れるようになった」)「尊敬」をもあらわすべき契機を本来的に秘めている。』(敬語日本人論 荒木博之 PHP P122)

そうかもしれませんね。

>さらに、『「れる」「られる」に見られるような「受身」(例「雨に降られる」)の意味は「自発」とほとんど重なるようにしてある。』((敬語日本人論 荒木博之 PHP P110)112)

受け身も無意思、自発も無意思ですね。ですから、日本人には意思が無い。意思は、未来時制の文章内容でありますが、日本語文法には時制というものがありませんので、日本人には意思がありません。優柔不断・意志薄弱に見えます。

>『自発』と『受身』はそのどちらもが行為の主体性を消し去っているという点で共通している。

そうですね。無我の境地ですね。

このような特徴を持つ日本語のなかで、『主体性』を意識させ、『主語』の使用を条件づけようとすれば、日本語のもつ表現の細やかさは、大きく後退するにちがいない。

‘私’ か、’わし’ か、’俺’ か、’わっし’ か、それが良く分からない。環境変化により、主語の持ち味は変わる。もちろん、この変化は本人の自由ではない。

>『自発』表現は『主客合一』『自他未分離』の状態に足場をおいた表現であり、『自我』や『主体性』や文法上の『主語』表現を嫌うものである。

そうですね。文章自体を嫌いますね。バラバラな単語を並べることにより雰囲気を楽しみますね。

>このように、日本語のバリエーションの多くは『自発』または『受身』を中心にしてその周囲を取りまいている。

日本人には意思が無い。だから、意思の内容による表現は考えられない。それで、すべてが自発とみなされる。
意思が無ければ、能動的な動作もなく、すべては受動的動作・消極的態度となる。責任もなければ、責任感もない。
自己の意思を表明すれば、当事者・関係者になる。意思を表明しなければ、傍観者にとどまる。意思表明のない我が国は、世界の中に在って、世界に属していない。

>なかでも『主語』を必要としないのは『自発』のほうであり、その意味で最も特徴的な表現は『自発』であるといえる。

そうですね。自発的行為には意思が無くて、恣意が関係していますね。アニマルの様なものですね。

>日本語は、その状態が『自発』に近づけば近づくほどプラスの価値をもつのである。

恣意であれば作文の必要は無く、意思による精神的負担を回避できますね。

>『自発』とは、さきに見たように、『主客合一の世界においてある行為が成立すること』であり、そのことは日本人の感情の心地よい原点が、『主客合一』『自他未分離』にあることを示している。

そうですね。’自然にそうなった’ が歓迎されますね。赤子の様なものかな。

>日本人にとって良い関係とは、それが人間であろうと物事であろうと、『主客合一』『自他未分離』の状態を感じさせる関係である。

そうですね。未分離の状態ですね。とかく、’この世は無責任’ ということにはなりませんか。

>その関係が成立しているかどうかという判断が『場を読む』『雰囲気を読む』『空気を読む』ということであり、それが一旦成立していると見られた場合には、その関係を崩さないようにお互いが会話し行動することが求められる。

完全なる日本語の世界ですね。それが成立するのは、日本人だけがいる世界ですね。開国でもすることになったら、我が国は崩壊の危機にさらされますね。

>いわば『我』を目立たせないことが大切になってくる。『我』を出すということは『自発』の嫌う『主体性』を発揮するということであり、その結果『場の空気』を乱すことでもある。

そうですね。主体性を発揮しようとすれば、場の空気を乱して嫌われるということですね。この様な環境では個人が指導性を発揮することは難しいですね。

>それはまた『主客合一』の居心地のいい状態を崩すことであり、『自他未分離』の状態から『自他分離』の居心地の悪い状態へもどることである。

日本人の太平の眠りを醒ますことになりますね。お変わりの無いことは、本当に良いことですね。

>このようなことから日本人にとっては『主体性』を表現しないようにすることが常に求められているのであり、そういう意味では常に『主語』を表現し『主体性』を誇示することを求められる英語の表現とはかなり違った能力が求められている、ということができる。

そうですね。確かに日本人にとって、英語の学習は難しいものですね。

>『我』を出すばかりで、『場の空気』を乱すものはやがて排除されていくようになる。

村八分ですね。島国根性の表れですね。

>『個性尊重』の教育にともない、『自己主張』をするように絶えず求められている今の子供たちに、『いじめ』が起こりやすくなっていることはこのことと無関係ではないように思える。

自己のリーズン (理性・理由・適当) を皆様方に理解してもらえるか、それとも何が何でも穏やかな顔つきをして無事過ごすか。それが問題ですね。

(略)


.


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

正鵠への不安

2018-02-15 11:51:39 | 文化
(略)
>日本人が、米国の意向を忖度する、霞が関官僚組織とマスメディアや経団連等々の既得権益集団が、どれ程「民意」を無視して、政治主導政治を阻止しているか、それを鳩山がウィキリークス(暴露)した点は、非常に重要だ。

日本人は、忖度 (推察) の考察を深くしていませんね。

>判り切っている事のようだが、案外多くの国民は、未だに判っていないのである。

そうですね。忖度は、我々にとって空気のような存在ですからね。

>米国の意向に何らかの形で反論、乃至は逆鱗に触れた政治家は、彼の祖父である鳩山一郎も石橋湛山も重光葵も田中角栄も本人も小沢一郎も、その多くが、米国の手により政治的打撃を蒙ったか、官僚マスメディアらによって総攻撃を受けたのである。>この事を書き始めたらきりがないのでやめておく。

そうですね。受け身ばかりでは、立つ瀬がありませんね。例を上げたらきりがない。

>しかし、このような米国支配から、幾多に亘り多くの政治家が迫害を受けたにも関わらず、それを唯々諾々と受けとめる日本人と云う存在は、“何なのだろう”と云う大きな疑問が残される。

第二の天性の持ち主ですね。

>単に山本七平の「空気」だけで説明するのも安直過ぎるのだろう。

山本七平の説明は、現象論ですね。その機序 (mechanism) に関する内容を知りたいですね。

>原爆投下の非人道性について米国内で宗教団体を中心に論議盛んだった時、その鎮静化に成功したのがトルーマン大統領とマサチューセッツ工科大学総長のカール・テイラー・コンプトン氏だった。>このコンプトンと云う人物が的確に日本人について述べた言葉を孫崎亨氏は「日本は事実上、軍人をボスとする封建組織の中の奴隷国だった。一般人は、一方のボスの下から他方のボス占領軍へ。彼らにとってこの切りかえは、生計が保たれていければ、別に大したことではないのである」と語っている。

そうですね。日本人は、相変わらず無哲学・能天気ですからね。

>このコンプトン氏の、日本人を小馬鹿にしたような言動に腹立たしさを感じつつ、一抹の不安も憶えないものでもない。

日本人の上下判断が、彼らの言動を許しませんね。

>鎌倉幕府時代からの、日本における庶民の生活を思うにつけ、もしかすると正鵠を得ているのかもしれない、と云う不安である。

彼らは常に分析的ですからね。

>徳川幕府の圧政の中でも、農民職人商人は強かに生きていた。>支配者が信長でも、秀吉でも、家康でも、庶民は平気だった(笑)。>この歴史的経緯の中に、日本人の生命力のルーツがあるのかもしれない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way.
日本人には意思が無い。だから、方法がない。仕方がないから諦める。それで、強かに生きるしかない。

>コンプトン氏に言われると腹立たしいが、日本民族には、隷属に堪え得る免疫力が備わっている可能性を感じる。

日本人には意思が無い。意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものが無い。ですから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。自発性のないこの民族性が、隷属に耐えうる免疫力になるのでしょう。

>この事は、どんな時代でも生きていける逞しい生命・生活力はある事を示しているが、哲学・思想・理念と云った類には、カラッキシ興味がない民族だと云う方向性も示している。

そうですね。時制のない日本語では、過去・現在・未来の三世界の内容を脳裏に各々独立に展開することはできません。ですから、考え (非現実) の内容というものは無く、現実ばかりの話になります。
現実の内容は、頭の外に存在する。それは、見る事が出来る。非現実の内容は、頭の中に存在する。それは、見ることが出来ないただの話である。両者は所在が異なるので、内容も同じにはならない。
考える人は、自分の哲学を持つ人になる。考えない人は、如才ない (機転が利く) 人になる。つまり、忖度をする人になる。それで、我が国は忖度の国になる。

>しかし、筆者などは、その逞しさが政治を劣化させると考えるわけで、此処で納得してしまう訳にはいかない。(若干、無理をしている(笑))

そうですね。忖度 (現実) と哲学 (非現実) では、次元が違いますからね。確かに日本人の忖度の逞しさが、政治哲学を劣化させていますね。

>“誰が支配者だって生きていければ良いじゃないか”と云う日本人から脱皮しても良い時代が来ているような気がする。

そうですね。‘衣食足りて礼節を知る’ 時代に来ていますね。

>世界中の国が、自分の足で立ち、自分の意志で生きて行こうとしているのに、“平穏な隷属なら、支配者が誰でも構わない”はもうやめても良いような気がしている。

同感です。各人に哲学が必要ですね。Everyone needs philosophy. 自己の哲学に従って個々の判断を下すべきですね。そのためには、非現実の内容を脳裏に持つ必要があります。
時制のある英語を習得すれば、その目的は達せられることでしょう。英米流の高等教育は、大人になるための英語の再教育です。これにより、彼らは教養のある人になる事が出来ます。
一方、日本の大学では哲学 (非現実の内容) に関する考察がりません。現実ばかりで、日の下に新しきものなし。空気を読み、歌を詠む毎日で、考えは一向に深まらない。大学内ではもう学ぶものがなく、退屈男・退屈女で校内が溢れかえっています。ですから、大学教育の価値自体にも疑問が差し挟まれる状態になっています。高等教育は、我々が英米人から学ぶべき事柄です。さすれば、我々に未来への道が開けます。


.



コメント
この記事をはてなブックマークに追加