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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

生存の時間

2017-03-26 10:01:46 | 日本語脳
>経済活動の時間は外在的な時間であるために時計で計ることができ、世界中の人びとが共有できます。
>そのような時間は、ベルクソンによれば「現在」という点の一次元的な集合であって、現在、現在、現在・・・・と瞬間が切れている現在の集まりなのです。

日本人が、’まだか、まだか、まだか・・・・・’ といらいらしながら待つことですね。ナウな感じがしますね。一寸先は闇、過去は疾く風化する。

>そのように切れていることによって、開始と終了の時を計ることができるので競争の勝ち負けを決めるために使うことができます。
>ですから、外在的時間は「競争の時間」でもあります。また、同じ理由によって利子の計算に使うこともできます。

‘今だけ、金だけ、自分だけ’ の処世術の応用で勝ち負けが決まる。

>一方、居場所において「生きていく」時間は内在的な時間であり、人間が、自分が生きていくことを「行く河の流れ」にたとえるときに意識される時間であり、ベルクソンの言葉を使えば、切れずに続いていること自体に大きな意味がある時間なので純粋持続と呼ばれました。
>その実態は、主客の二つに分離できない自己の〈いのち〉そのものを感じていることから現れるものですから、外に取り出して測定することはできません。
>それは居場所において生きているときに感じる時間、すなわち「生存の時間」なのです。

悠久の大河の流れを前にしているようなものか。日の下に新しきものなし。

>現在のように、どんな存在も経済成長に結びつけて解釈してしまう社会に生きていくことが苦しさを感じさせる理由は、「生きていく」という存在のために必要な「生存の時間」が「競争の時間」に置き換えられてしまい、前後が切れた「生きている」という状態に置かれるために、〈いのち〉が続きにくくなり苦しくなるからです。

我々は、勤め人のように時間を売って生活しているのですね。’競争の時間’ の中にも、’命の洗濯’ をする時間が必要になりますね。

>「生存の時間」を取り戻すためには、どうすればよいでしょうか。それには、苦しくても、できる範囲で自分の〈いのち〉を、地球という〈いのち〉の居場所に与贈し続けることです。与贈を継続していれば、やがて〈いのち〉の「ドラマ」が生まれて「生存の時間」が広がっていきます。 

時間を売ることなく生活できると良いですね。我々にとっては、定年後の生活のようなものか。楽しみですね。



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春風一過

2017-03-21 17:10:25 | 政治
>在日と左翼たちがさまざまに姿形を変えて新聞、テレビ、政治、市役所、大学、日教組などに髑髏を巻いています。さらに図書館という公的機関が、購入される図書の多くが左翼の価値観で占められています。つまり図書館という公的機関によって国民が知りえる情報に制限が加えられているということです。それからもう一つ在日左翼がキリスト教会にもすっかり根を下ろしています。

西洋風の価値観ですね。

>左翼の常套句は「すべての人間は平等でなければならない」「世の中のあらゆる差別をなくさなければならない」この言葉を聞けばほとんどの人は抵抗することはできません。

哲学ですね。日本人には、難しい考え方ですね。

>そして在日左翼はみんな微笑みとともに近づいてきます。左翼の誰もが純粋で真っすぐで、正義感にあふれているように見えます。

‘純粋である’ ということは、’処世術に長けていない’ ということですか。

>しかしよく考えてみてください、地球上に存在するすべての人間は、決して平等の運命にあずかれるようになっていません。ひとりひとりの運命の違いは神以外にはどうにもならないのに、左翼たちは運命の不平等を社会の不備や政治のせいにして善人たちを左翼に染めていきます。

もし、社会の制度の不備や政治の貧困が原因であるならば、それは改善の余地がありますね。理想に向かって励むことは、人を幸福にすることではありませんか。

>全ての人間は生まれながら不平等や差別の運命から逃げることはできません。金持ちの家に生まれる人、極貧の家に生まれる人、人間は出発点から大きな違いやハンディが存在しています。

人間万事不平等ということですか。我々の努力の余地がない。現実肯定主義では閉塞感にさいなまれますね。’我らはどこに行くべきか’ に答えを出すべきでしょう。

>しかしそのハンディを恨んで社会や政治に転嫁して日本人でありながら、日本人としての国民意識を投げ捨てて、よその国がふりかざすタテマエを信じると、祖国に害をなす売国奴となり果てます。

自国の理想の実現に向かって励みましょう。頭の外側の内容 (現実) と頭の内側の内容 (理想) が一致いることは、まず無いでしょうがね。改善の余地はあるでしょう。

>日本の共産主義者や社会主義者が反国家の姿勢をとり、反日本の構えを見せ、日本国に背き、日本国を非難し、常に日本国の過去と現在を攻撃する人たちは、祖国に害をなす売国奴になっていることにきがついていません。

そうですね。建設的ではありませんね。消去法の達人が多くいますね。未来社会が脳裏に描かれていないから、その建設は考えられませんね。
悪いところがあれば改めればよい。我が国は、さらに良くなる。

>日本の左翼の多くは不思議と東大や京大など一流と言われている大学出身者が多くいます。この人たちが日本の中心にいて日本国をリードしていきます。戦後左翼全盛時代、自分たちが国民を教え導いてやっているのだとうぬぼれる優越感で新聞や評論家などは左翼風の説教をまき散らしていました。

頭でっかちになっている人たちですね。詰め込み教育の成果でしょう。

>国民も彼らの出身校や肩書を見て、頭の良い人たちが言っているのだから間違いはないと信じてしまった。

権威主義ですね。自分で考えるよりも、相手の言うことを信じる方が楽ですからね。

>左翼は「日本人は愚かで考えなしで思慮分別に欠けているから、常に説教をしないと神聖な憲法第9条をないがしろにするからいつも怠りなくタガをはめてやらなければならない」と日本国民を徹底して見下していました。

階称(言葉遣い)ある日本語によれば、序列メンタリティは避けられませんね。権威を笠に着るようになる。

>しかし戦後70年国民もやっとアホで間抜けなのは左翼の方だと分かってきました。人間平等の極致を実現するはずの共産主義が、実際には世界史上に空前の圧制と虐殺を生んでいたのです。そして「国民を守るために防備に熱中するから相手国の敵愾心をそそるのであって防備さえしなければ先方も安心して、こちらに敵意をもたなくなる」という左翼の理想主義への幼稚な傾斜、誰でも首をひねるアホな理論に振り回されてきたのです。

そうですね。力は正義ですね。(Might is right.) 強者の怒りは抑止力となる。

>世間は、大衆は、あくまで真にものを見ようとはしません。その出身校や経歴で判断しています。例えば僧侶を見るときその人格能力というものを吟味せず、ただ、その「外形」すなわち袈裟に尊敬をはらい、供養もします。このことはなにも僧分に止まらず、新聞、テレビ、評論家、大学教授、その他、広くは社会的に地位の高い人たちの意見が正しいと信じてしまいがちです。

内部がない。外形にとらわれる。気分・雰囲気に流されやすい。信心・信念ですか。

>さて自分はふと自分自身にかえる。自分はしかしどうだ。自分はいったいこの社会で何をしているのか、どんな役割を占めているのか、輝きのない、ほんの一人の老人にすぎない。日本という弱弱しい国の、その一角に立つ枯れかかった樹木にすぎないではないか!

みじめですね。人は力を合わせて生きるものです。頑張りましょう

>しかしこの貧弱な存在を措いて自分にはどこにも世間に立つべき場所はない。私にとってはただ、この拙いブログを掘り下げ、これを掘り下げてゆくだけが、私のなしうる唯一つの、仕事だと信じています。

貴方は、考える人ですね。尊敬します。

>私は常に自分の胸に言い聞かせます.自己の弱小を忘れて何か世間のお役に立ちたいと思いますが、私はふたたび自分の弱小を恥じます、自分はやはり自分の力しかない。

我々は、身分相応で良いのではありませんか。

>人生の潤いというものは、決して自分だけの境地に安立している者に味わう事は出来ない。すすんで、自己の一身一命を投げだせば、自分の中に宗教的な心のときめきを感じます。そこに私はいつ死んでもいい自覚をかすかにうちに感じます。

我々は、共に助け合って生きるものなのでしょう。

>そしてブログを書き始めてから強迫され続けた結果うつ病になり長く苦しめられました。生きてゆくことは、一日を送り、一日を迎えるということは、まこと,死の領土にちかづいているということです。いかに盛んなる者も、かならず衰える日のあるという、なんとも抜きさしのできない、逃げることも、どうすることもできないところの一つの哲学を与えられました。

生物は生死を繰り返して進化してきました。生まれ変わりが無くては、我々は姿を変えられません。

>つまり死についてのたしなみとか、しつけであります。生きる事だけが生命の全体ではないこと、真実に生きるためには身命を惜しまぬ心境のあることを知りました。

我々の願いは死後も残ります。願いは死なない。

>春風一過、春の風がなごやかに頬をなでるというような、のどかな気持ちで静かに死んでゆきたいものです。

願わくは 花のもとにて、、、、ですか。同感です。


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情けない

2017-03-17 00:59:58 | 日本語文法
>原発災害も放射能汚染も国民を見殺しにしようとしている政治家と官僚も看過して、このまま傍観者を続けるつもりなのだろうか?

傍観者ですね。自分の意思をしめす人は、当事者・関係者となります。意思を示さない人は、傍観者にとどまる。
意思は、未来時制の文章内容として示される。だが、日本語には時制がない。だから、日本人には意思がない。日本人は蚊帳の外。
政治家は、有権者の標本のようなものでしょう。政治家の思慮のなさは、有権者の思慮のなさを反映しているといえるでしょう。

>それとも食べ物、大地や海が放射能に汚染されていても安全だとでも思っているのだろうか?

日本人には、序列メンタリティがある。序列判断は、日本人の強迫観念になっています。世俗の上位の事柄にとらわれて、現実直視ができない。敗戦を終戦と捉えるようなものですね。現実軽視の風潮が、災害をより大きくしています。

>ほんと情けない。

我々は、変わらなくてはならない。(We can change!) そうでしょう。

>日本人に希望を持てなし、期待も出来ない。

そうですね。希望は未来の内容であります。だが、未来の内容は、日本人には想定外となっています。
未来の世界の内容は、未来時制の文章として語らなければならない。ところが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人は未来が語れない。我々は ’声なき民’ にとどまっています。だから、お先真っ暗であります。
我々には、未来構想が必要です。さすれば、希望が持てる。期待できる。

>もちろんこの中には、脱原発・反原発のデモに出ている人たちもいるだろう。

政治に対する意思表示は大切なことですね。

>しかし、そのデモも子供を連れていたり、犬や猫を連れていたりする勘違いしている奴らもいる。>デモは政治活動だという事がわからないのだろうか?

政治には、個人の意思表示が大切ですね。身なりではないでしょう。我々の意思の内容でしょう。

>ほんと情けない。>こんな情けない国にいると自分もレベルが低くなりそうだ。

皆さん似たようなレベルの人間ではないですか。心がけさえ変えれば、さらに立派な国になります。我が国には国内の紛争が少ないから、その分発展に力を集めることが出来ます。

>外国に移住する事を本気で考えなければならないのかも知れない。

情けない人は、移住先でも情けない生活をするでしょうね。日本人が海外に出て、偉大な国を作った話は聞いたことがありません。意思が無ければ、社会建設のための力も発揮できないのでしょう。本人の自覚が大切ですね。意識改革というのかな。


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ナナメの関係

2017-03-16 14:13:11 | 日本語文法
>世代を超えた先輩・後輩との関係のことを、僕は「ナナメの関係」と呼んでいます。その地域に住んでいるおじさん、おばさんとの関係や、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟との関係などがそうです。>教師と生徒の関係は「タテの関係」、親子の関係も「タテの関係」、それに対して、同世代の友だち同士の関係は「ヨコの関係」。>それらと区別しているのです。

わかりました。

>「タテの関係」は基本的に上下がはっきりしていますから、君は従うか反発するかの二者択一になりがちで、コミュニケーション能力を鍛えるにはあまりふさわしくないんです。>「ヨコの関係」では、興味のあるタレント、テレビや部活の話に花が咲くでしょう。親友には、好きな人のことや悩みの相談もするかもしれません。>しかし、友人との会話は、チャットのような独り言の応酬になりがちなことに君自身は気づいていましたか?

はい、気づいておりました。それ以外は考えられません。

>独り言の応酬というのは、合間合間にひたすら自分の話をしていくような会話のことを指します。

はい、わかりました。小言・片言・独り言の類ですね。

>「昨日、このテレビ見た」と友人が言うと、君が「僕はこっちを見た」と、自分のしたことや感想を独り言のようにつぶやくマナーで会話が続きますよね。>これだと、相手を傷つけてしまう心配がないので仲良しを続けるには好都合なのですが、コミュニケーション技術を高めることにはならないのです。

そうですね。小言・片言・独り言は文章にはならないので、意味はありません。だから、コミュニケ―ションには役に立ちませんね。せいぜい感動を伝える程度のものですね。

>友だち同士のシチュエーションでは、意見を戦わせるようなこともないでしょう。

意見もないので、論戦もないのでしょう。

>コミュニケーション能力を伸ばすのは、「ナナメの関係」の第三者との会話です。

タテの関係は上意下達。ヨコの関係はナアナア主義。ナナメの関係は文章による会話ですか。

>親子やよく知っている先生とも違うし、友だちでもないから、相手のアタマのなかにある情報を想像して会話しないと理解しあうことができません。

相手の頭の中にある情報は、文章にして理解しましょう。勝手な想像をしていては相手に迷惑がかかります。

>相手のことがわからないから、どういう切り口でコミュニケーションし、関係を結ぶかを試行錯誤せざるをえない。

そうですね。以心伝心の効果が期待できないから大変ですね。

>だから、「ナナメの関係」の知り合いが豊かになると、君のコミュニケーション能力を向上させる機会も豊かになることになります。

同感です。ブログで意見を公表すると、知り合いが豊かになりますね。コミュニケーション能力を向上させる方法を具体的に考えてゆきましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現実の有様は、文章になる。
非現実 (考え) の内容は、日本語の場合は、文章にならない。英語なら、時制のある文章になる。意思は未来時制の文章内容になる。

文章は、意味を表す。文章は頭の中にたまる。だが、これは胸にたまった感じがする。熱い胸の内を打ち明けることはできる。筋道だった表現ができる。意思となる。議論もできる。

単語は文章にならないと意味を表さない。だが、バラバラな単語も頭の中にたまるが、これは腹にたまったように感じられる。腹を割って話をするのは難しい。公言できない。小言・片言・独り言になる。内容の筋が無いので表現に難渋する。恣意 (私意・我がまま・身勝手) にとどまって腹芸となる。



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道義国家と愛国心

2017-03-15 23:20:03 | 政治




>稲田氏の発言に出てくる「道義」とは、人のふみ行うべき道。
>つまり道徳と同義で、稲田氏が国会で発した「道義国家」は、安倍首相とともに憲法改正を推し進めようとしている極右団体「日本会議」の関係者がよく口に出す言葉である。

彼らは、旧来の道徳教育を好んでいますね。

>道徳を国家の軸に据えるということであり、この理念を示したのが、明治23年に発布された「教育勅語」。
>その道義・道徳を具体的に示したのが、籠池氏が言う「12の徳目」になる。

日本人は、無哲学・能天気であるから、哲学の習得は無理ですね。すると、徳目による教育をすることになりますね。
‘あるべき姿’ の世界は、個人個人でその内容を考えなくてはならないから、無哲学の日本人には難しい。
だから、個人個人が頭を働かせる必要がない方法による教育が必要になる。それが徳目の暗記する教育ということになる。

>教育勅語が説く12項目の徳目とは、親への孝養、兄弟・姉妹間の友愛、夫婦の和、友との信義、謙遜、博愛、修学、智能啓発、人格の向上、社会奉仕、順法、義勇。
>これだけなら、たしかに「何が悪いんだ」は説得力を持つ。

徳目による教育は、昔から中国で行われていましたね。’修身・斉家・治国・平天下’ と言ったように。あの方式をまねたのでしょう。

>だが、問題は12の徳目の先にある教育勅語のもっとも重要な部分――『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』――にある。簡単に言えば、≪もし国家に危険が迫れば正義と勇気の心をもって公=国家のために働き、皇室を助けよ≫ 。>現人神である天皇こそ絶対。

日本人の考えには、序列があって、非現実の内容がないのだから、現人神が絶対君主ということになりますね。

>進んで命を捧げよというのが戦前の国家方針だった。

上意下達ですね。上位の者の恣意に従って、下位が働くことですね。恣意には意味がないから、発言者には責任もない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。

>教育勅語は、「歪んだ愛国心」を育てるための“道具”だったと見るべきだろう。

そうですね。臣民を育てるための道具立てだったのでしょう。

>これは“悪い”に決まっている。

日本人には、自己の判断力がありませんからね。これは民族性でしょうね。

>だからこそ、衆参両院が教育勅語の廃止を決議しているのである(1948年=昭和23年)。

そうでしょうね。それで解決すれば問題はないのでしょうね。

>稲田氏も籠池氏も、目指しているのは愛国心に裏打ちされた道義国家。

愛国心は、悪党の最後の隠れ家となるので、気をつけなくてはいけませんね。

>両人を含め安倍首相や日本会議は、愛国心の醸成こそが「教育」だと信じている。

危険思想の持ち主とでも言うのでしょうかね。無哲学だから、結局そういうことになるのでしょう。

>理想としているが、戦前の日本の姿であることは言うまでもない。

徳目に頼らなければ教育ができないと、固く信じているところが問題ですね。

>教育勅語の理念が戦前の日本をどれだけ歪めたのか――。

日本語による思考ですからね。戦前・戦後はあまり変わっていませんね。理性の教育がありません。

>理解していないとすれば、彼らに政治や教育を語る資格はあるまい。

日本語脳で英語脳の内容を理解することは、難しいですね。
哲学の勉強と、政治哲学が必要ですね。徳目教育と政治音痴は廃止すべきですね。

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徳目による教育:  与えられた徳目を暗記する。異口同音を教育の目的とし、成果とする。没個性的。一人ひとりで考える必要はない。だから、個人固有の力を発揮できない。個人主義ない社会の教育である。一億総玉砕・一億総懺悔の危険がある。

哲学: 一人ひとりで考える。個人の考えを擁護する習慣が必要である。非現実 (考え) の内容で個人が相互に団結し、未来社会の建設を実現する。世界観を必要とする。

特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には時制がない。だから、非現実 (考え) の内容を文章化できない。世界観が持てない。非現実の内容を基として未来社会の建設ための団結が出来ない。民は ‘考える人’ になれない。付和雷同して、過ちを繰り返す。


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