歌手・山本潤子さんのオフィシャルブログを読んで

写真付きで、コメント、メッセージ、随想等を記す

報徳寺の枝垂桜によせて

2024-04-06 19:30:57 | 日記
潤子さん、こんばんは いかがお過ごしでしょうか。5日東京はさくらが満開になりましたね。花冷えの
曇天だったけど柴犬を連れて報徳寺の枝垂桜を訪ねました。朝ドラ「ブギウギ」が終わりなんとなくその
余韻に浸っていたのかもしれません。笠置シズ子(福来シズ子)に江利チエミ(水城アユミ)が絡む場面
が終盤の山場でドラマに花を添えていました。こういうセミドキュメンタリータッチはぼくは好きですよ。
福来シズ子(笠置シズ子)、羽鳥善一(服部良一)、茨田りつ子(淡谷のり子)水城アユミ(江利チエミ)
みたいな。とくに「茨」と「淡」の対比、「りつ子」は「律子」、「のり子」は「法子」をイメージして
いるかもしれない。性格は曲がったことが嫌いな「キッチリ山の吉兵衛さん」ですね。

では、水城アユミ(江利チエミ)はどうなんだという話だけど、江利チエミの「江」は海が陸地に入り込
んだ地形を指し、「利」はその様の鋭さを表しているのでしょう。大河多摩川を見下ろす国分寺崖線上に
あるチエミさんが眠る報徳寺周辺に北条氏の城がありました。村江の戦いに敗れた日本が唐・新羅の連合
軍の侵攻に備えて大宰府に築城した古代の城塞・水城(みずき)をなぞって命名されたのでしょう。
いずれにしても脚本担当の足立 紳(あだち・しん)氏は「福来山 報国寺」に来たのではないでしょうか。
福来シズ子の名の由来は福来山だと思うのです。本命の桜は満開でしたが、曇り空にさっぱり映えません。
隣は11年前にあなたが撮られたもの。あの日より今年の満開は2週間も遅かったのですね。
         

江利チエミさんといえば、松林正暁さんが「江利チエミ ジャズ・シンガーとしての魅力を語り尽くす!」
という標題で、彼女の評伝等を取り上げています。松林正暁?・・・かもしれないけど、僕が2023ー2-1
に紹介した【山本潤子さん(赤い鳥/Hi-Fi Set)の魅力を語る!】という彼の評論を思い出してください。
山本潤子さんが普通のシンガーソングライターと違うところは英語で歌うという裏技を持っている唯一
無二のシンガーだと思うのです。普通はポップスならポップス、フォークならフォーク、ロックならロッ
クと一本道を行く人が多いです。例えば松任谷由美さんとか、尾崎亜美さんとか、一本道をひとつのスタ
イルとして貫かれいる方が多いのです。たまにはカヴァーで歌いますけど。そのたまに歌うのと山本潤子
さんが違うのは彼女は完璧に洋楽の人なんです。それぐら英語が素晴らしいということ。


今回の評論「江利チエミ ジャズ・シンガーとしての魅力を語り尽くす!」は15分足らずの動画ですので
地縁のあった潤子さん、是非ご覧ください。なるほどと思ったのは次の通りです。
 *ジャズシンガーはリズム感が大切だということ。チエミさんはこれが完璧だったそうです。
 *ビブラートにはビブラートを意識しないナチュラル(天性)なビブラートがある。
 *カレン・カーペンターズはポップスだと思っている人が多いが、あれはジャズ。微妙に濁りのある声。
潤子さんを「完璧に洋楽の人」と評価した彼はジャズシンガーとしての能力が高いことを認識していたと
思います。そうでなければ「それぐらい英語が素晴らしい」なんていう言葉は出てきませんから。そして
ビブラートとカレン・カーペンターズのくだりで思い出したのは、かって紹介した森山直太朗の「ファル
セットと地声が自由に行き来する歌声、その中にもしっかりと芯を感じる!」との潤子さんへの評価です。

それから疑問がひとつ解けました。15歳の江利チエミが主演した「青春ジャズ娘」の映画監督・松林宗恵
は彼の父親だったのですね。前回アップした【家においでよ】は「青春ジャズ娘」のビデオクリップかな。
26歳も年下の松林正暁さんがデビュー当時の江利チエミを語れるのは宗恵氏の口伝もあると思うですが
どうでしょう。とういうことで、今日の一曲は松林正暁さんオススメのカウント・ベーシー楽団をバック
に歌うチエミさんの【CARIOCA】をブログに添えます。
ちなみに”CARIOCA”はポルトガル語で、サンバに似たブラジルのダンスのこと。この曲を聴くと潤子さん
がAPRILのセカンドアルバムで歌った「One Note Samba」を思い出します。
原題はポルトガル語で「Samba de Uma Nota Só」。

報徳寺の枝垂桜の縁で、話が東宝の映画監督だった松林宗惠氏におよびました。実家がお寺だったので
龍谷大学専門部を卒業して僧籍(釈 宗惠 )を得るも、創作のこころざし止みがたく日本大学芸術学部に
入学、繰り上げ卒業後、東宝入社という経歴をお持ちの方です。彼の作品の中で好きなものをあげると
 *青春ジャズ娘(1953年9月22日)
 *社長シリーズ(1958年1月3日~1970年2月28日)23作品
 *潜水艦イ-57降伏せず(1959年7月5日)
 *ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年4月26日)
 *世界大戦争(東宝、1961年10月8日)
 *太平洋の翼(1963年1月3日)
 *関白宣言(東宝、1979年12月22日)
 *連合艦隊(1981年8月8日) 
「潜水艦イ-57降伏せず」以降の海軍4部作が精彩を放っているのは、氏が学徒出身の海軍少尉だった
からだと思います。とりわけ「連合艦隊」では38歳で逝った佐田啓二の遺児・中井貴一(20)を主役
の一人として抜擢、芸能界入りさせたことに、氏の”ロマン”というか”仏ごころ”みたいなものを感じて
しまうのです。

そしてエンドロールで流れる主題歌「群青」のドラマチックなことといったらもう・・・
さすが龍谷大学専門部出身の和尚、日本大学芸術学部出身のアーティストといった感じで、「映画は
監督のもの」という通念を新たにしたものです。「群青」誕生の秘話を語る松林正暁さんの動画をご
紹介します。要点は以下の三点。
 *ある日いつものように大音量でレコードをかけていると、たまたま宗惠さんが在宅していて、部屋
  に入って来るなり、その曲はなんだと訊くので、ジャケットを渡すといい歌詞だと言ったそうです。
  それが谷村新司 作詞・作曲の【チャンピオン】 その時シンガーソングライター・谷村新司を知る。
 *制作スタッフから”ゴダイゴ”等の起用案が出たが、谷村新司への確信は揺るがずオファーをかけるも
  戦争映画の主題歌はどうも・・・と断られてしまいます。諦め切れず今度は東宝本社の一室に来て
  もらって、一時間に及ぶ説得で承諾を得たとか。
  殺し文句は「あなたが引き受けないなら、わたしはこの映画を作りません」。
 *「チャンピオン」と「群青」は同根というか、底でつながっているという松林正暁さんの見解。

ぼくはこの秘話を知って、谷村新司がなぜ断ったのか想像できるのです。前年の1980年に”さだまさし”
が日露戦争を題材にした映画「203高地」の主題歌「防人の歌」を作詞作曲したとき、戦争を賛美して
いる、節を曲げたなどと批判を浴びたことが頭にあったのでしょう。その前年松林監督は”さだまさし”
の弟が主演する「関白宣言」を作っているから、さだの名曲「防人の歌」を引き合いにだして説得した
のかもしれません。決定稿ではないシナリオやプロット、絵コンテを示しながら。
「チャンピオン」と「群青」は同根だという松林正暁さんの説にぼくは「防人の歌」を加えたい。
老いていく哀しみ、別離の悲しみ、戦いを繰り返す人間の業が通底に流れていると思うからです。
「チャンピオン」を歌ったことのある潤子さん、そう思われませんか。

以下に龍谷大学文学部を卒業、NHK記者、関西芸術短期大学教授、龍谷大学校友会長などを歴任され
た太田 信隆氏が書かれた松林宗恵氏の経歴やエピソードご紹介します。

      
           
                                         太田 信隆
一)
 松林宗恵と森繁久彌は、「和尚」「繁さん」と呼び合う仲であった。森繁は松林が監督した映画に三十
本以上出演していた。松林の自伝『私と映画 海軍 仏さま』に寄せた序文に、森繁はこう書いている。
「長い年月、この飄逸で暖かい心の持ち主に教わることが楽しみだった。それでいて結構生ぐさい人間味
のある方で、それが混然とこの人の身上を作っていると信じて疑わない」「飄逸で暖かい心の持ち主」で
あったことは、多くの人が認めるところであろうが、松林の「生ぐさい人間味」というのは、どんなこと
なのか。謦咳に接したが、これは、ちと、面と向かって聞くわけにはいかなかった。

松林は、平成二十一年八月十五日、終戦記念日に八十九歳の生涯を閉じた。九月十日、東京都世田谷区の
東宝スタジオで、お別れの会が開かれた。ステージは海軍士官であったことをイメージして、海原を進む
船が花で模ってあった。中央に白いあごひげを生やした大きな遺影が飾られていた。[海ゆかば]の曲が
流れた。遺影の前で、司葉子が追悼の辞を述べた。《青い山脈》の撮影の時の話をした。石坂洋次郎のこ
の題名の小説が評判を呼び、戦後、五回、映画化された。松林が監督したのは、昭和三十二年であった。
司葉子、雪村いずみ、草笛光子、宝田明らが出演した。ロケ地は、岐阜県の恵那市であった。

来る日も来る日も雨がふって、撮影は休止、スタッフは、宿舎の旅館に閉じ込められた。「誰か、精進の
わるい人がいるからよ」と女優の一人がつぶやいた。「それは、和尚よ」女優達は口を揃えた。松林は、
女優達に捕まった。二階の広間で布団蒸しにされ、海苔巻きのようにくるくる巻かれた。女優達はそれを
神輿のように担いで、わっしょい、わっしょいと部屋をまわった。松林は「御免よ、御免よ」と言った。
司葉子は、「もっとやれ、もっとやれと、と聞こえました―」と語って、しばし、壇上の遺影を見つめた。

(二)
 松林は昭和十六年、龍谷大学専門部を卒業した。当時、文学部と予科と、専門部があった。専門部はほ
とんどが寺院の出身であった。松林は在学中に吉川英治の『親鸞』を読んだ。「非僧非俗」という言葉が
胸に焼きついた。法衣をまとわない僧侶で行こうと決心して上京した。日本大学の芸術学部に籍を置いた
が、映画の魅力にひかれて、二十二歳の時、東宝の入社試験を受けた。当時の映画界は花形産業で、若者
には憧れの職場、いや、雲上の別世界であった。〈ダメ元〉の積りであったが合格した。

こまめによく働き、演出助手から助監督に昇進した。「これから○○組、セットに入ります」うるさ型が
たむろする部屋に告げて回ったりもした。「あれ、誰?」と若い女優が目をとめて、付き人に訊ねた。
「ああ、あれは坊さん大学を出た松林という助監督です」「へぇっ、坊さん大学、じゃ、和尚だね」この
女優は、誰あろう、日本中の映画ファンが胸をときめかせたデコちゃんこと、高峰秀子であった。和尚は、
元来は、禅宗の僧家の呼称であるが、松林が僧籍を持っていたので、愛称となった。今に名が残る大スタ
ーや巨匠達も、松林を「和尚さん」と呼び慣わしていた。

(三)
 太平洋戦争が勃発し、若者は戦場に駆り出された。予備学生から従軍した松林は、昭和十九年の十二月、
海軍少尉に任官し、部下百五十人を率いて、佐世保から玄界灘を経て、中国南部の廈門島に向かった。戦
況は日々に悪化していた。松林の乗った船は、米軍機の襲撃に遭って沈没した。松林は九死に一生を得た。
松林の生家は、中国地方の山峡を流れる江ノ川のほとり、島根県江津市桜江町の浄土真宗本願寺派の福泉
寺である。捕虜となった後、復員し帰郷した。ほどなく会社から招かれて、映画の道に戻った。

監督としてのデビュー作は、上原謙、丹阿弥谷津子主演の《東京のえくぼ》であった。キュートで洒脱な
コメディで、都会的なセンスが観客に受けた。森繁久彌主演の映画 社長シリーズは、サラリーマン社会
の哀歓を描いた喜劇であった。大入りであったので、会社はドル箱路線として、約十五年の間に、計三十
七本を世に出した。松林はこのうち二十三本を手掛けている。名優森繁が美人に弱い恐妻家の社長に扮し、
芸達者な小林桂樹、加東大介、新珠三千代、池内淳子らが出演した。会社の経費で、銀座のバーへ行った
り、旅行先で宴会をしたりする場面が多かった。営業部長の三木のり平が発する「パーッとやりましょう、
パーッと」というセリフは流行語になった。

(四)
 松林は、〈戦争もの〉と呼ばれる映画を、五本撮っている。このうち、《連合艦隊》は、太平洋上で艦隊
とともに戦い、共に散っていった将兵を描いた大スペクタクル映画で、その年の興行収入、動員数、ともに
第一位を記録した。
《連合艦隊》のお終いの方で、戦艦大和が爆破されて海に沈んでいく壮烈なシーンがある。特攻機で上空を
飛ぶ息子(中井貴一)が、艦上で手を振る下士官の父親(財津一郎)に向かってつぶやく。
「俺は、父さんより、ちょっと長生きができて、せめてもの親孝行になった・・・」
この映画が封切られたのは昭和五十六年八月で、戦後すでに三十余年を経ていた。〈親孝行〉という言葉は、
もはや聞くことはなかったが、映画館で目頭を押さえていた人がいた。

人が操縦して敵艦に体当たりする《人間魚雷回天》は、松林が自らの体験を踏まえて企画した映画であった。
声高に反戦を叫ぶわけでなかった。人の命の尊さを考えさせた。作品の底流に仏教があった。
松林が監督した作品は七十本を数える。松林のモットーは「うららかに、まことしやかに、さりげなく」で
あった。スタッフを率い、スターを配して、メガフォンを執った松林の心情であった。信条であり、真情で
もあった。また、これがこの人の人生哲学でもあった。

第一回の龍谷賞が松林に贈られた。平成二年五月、松林は会場の京都全日空ホテルの大広間の壇上に立って、
「母校の校友会から贈られるこの賞は、私の人生の最高の勲章です」と述べて、目をうるませた。賞状と記
念の盾は、生まれ故郷の桜江町にある「松林宗恵映画記念館」に展示されている。
(本文敬称略)
大住広人さん(元毎日新聞編集委員)が『映画監督 松林宗恵《まことしやかに さりげなく》』という本を
出されている。(財団法人仏教伝道協会発行)好著である。一読をお薦めしたい。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 桜と江利チエミさん | トップ |   
最新の画像もっと見る