歌手・山本潤子さんのオフィシャルブログを読んで

写真付きで、コメント、メッセージ、随想等を記す

小説・孔子と音楽・Moon River

2019-01-18 11:25:38 | 日記
潤子さん、こんにちは 平成最後の寒に入っていますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
日曜日は大寒の入りで、その2週間後は立春でしたね。寒といえば2014年1月16日に事務所
に宛てた賀状の返礼として寒中見舞いのハガキを頂いたことが昨日のように思い出されるの
です。 ブログを立ち上げて10ヶ月だったけど楽しく読んでいてくれていたことを知り、天にも昇
るような心持でした。
(どうして?・・・)
それはこの間ブ貴ログで紹介された本やDVDを読んだり見たりした感想を自分のブログに書
き連ねていたからだと思います。 やっぱり読んでいてくれたんだぁみたいな感慨があって・・・。
       

今でも時々、潤子さんはどんな本を読んでいるのかなと思うことがあります。 ぼくですか?・・・
ぼくは井上靖の長編小説「孔子」を三分の一まで読んだところです。 二千五百年前の春秋
末期の乱世の中原を十四年の長きに亘り放浪する孔子とその高弟である子路・顔回・子貢
に付き添った小説上の人物(蔫薑えんきょう)が、孔子の没後(三十三年後)に孔子研究会
の会員に思い出を語るという形で展開されます。 蔫薑には孔子に対する著者(井上靖)の
受け止め方が投影されていると思うのですがどうでしょう。

(どうして?・・・)
今読んでいるところにこんなエピーソードがあります。放浪中の孔子がある大河のほとりで
子路・顔回・子貢を前に「逝者如斯夫。不舎晝夜。」と詠嘆したそうで、「論語」には
「子在川上曰。逝者如斯夫。不舎晝夜。」と書かれているそうです。
子(し)、川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝く者は斯くのごときかな、昼夜やを舎(お)かず
過ぎ去ってゆくものは、みなこの川の流れのようなものなのだなあ。 昼も夜も休むことなく
流れさってゆくことよ。

三人の高弟は孔子の心情がどの辺にあるのか定かにできませんが、「逝く者は」の解釈は、
三人三様であったそうですよ。 でも人生というものに対する詠嘆みたいなものが詞の底に
流れているということでは一致していたと蔫薑は言っているのです。だから「逝く者」は人間
ではなく時間・生命を指していると考える人も多かったのではないでしょうか。それから十数
年後、孔子の葬儀が終わると蔫薑は夢遊病者のように彷徨、気が付くと夕暮れ時の大河の
土堤に腰を下していて、十数年前の子の詞「逝者如斯夫。不舎晝夜。」を次のように受け止
めることができました。

河の流れも、人間の流れも同じである。 時々刻々、流れている。流れ、流れている。長い流
れの途中には、いろいろなことがある。併し、結局のところは流れ流れて行って、大海へ注ぐ
ではないか。 人類の流れも、また同じことであろう。 親の代、子の代、孫の代と、次々に移り
変わってゆくところも、川の流れと同じである。戦乱の時代もあれば、自然の大災害に傷めつ
けられる時もある。 併し、人類の流れも、水の流れと同じように、いろいろな支流を併せ集め、
次第に大きく成長し、やはり大海を目指して流れ行くに違いない。 ~ 川の流れが大海を目
指すように、人間の、人類の流れも亦、大海を理想とする、大きい社会の出現を目指すに違
いありません。


この小説は井上靖が1991年1月29日食道癌で83歳の天寿を全うする2年前に出版されました。
この部分を読んで作者が蔫薑という架空の人物を登場させた意味が分かったような気がする
のです。そして昨秋、潤子さんの足跡を辿った東北の大河北上川が思い出され、83歳を天寿
とすると、自分の人生は登米大橋をとっくに過ぎて、石巻市辺りかなと思ったりして。
   登米市       北上市       花巻市
  
ということで、今日の一曲は蔫薑(えんきょう)の述懐にピッタリ収まる 【Moon River】 をルイ・
アームストロングの歌唱でをお届けします。

追伸:子は「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」と言っていますが、「六十にして
耳順う」の方はどうでしょうか。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする