歌手・山本潤子さんのオフィシャルブログを読んで

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歌枕・象潟(きさかた)へ

2020-12-06 09:09:35 | 日記
潤子さん、おはようございます 遅れましたが旅の続きをご報告します。

次の目的地は秋田県の象潟なので、仙台駅周辺のホテルで一泊、 翌朝、JR仙山線の快速
(8:18仙台駅発ー9:29山形駅着) 山形県入りを目指します。 先ずは仙台駅の待合室にある
駅蕎麦(傍)で、かき揚げ蕎麦の朝食。 なぜか2012/12/15の標題「二子玉の駅蕎麦」で紹介
されて食したかき揚げ蕎麦が目に浮かびました。 きざみ葱がたっぷりでしたね。 ちなみに、
前日の昼食はコンビニのサンドイッチ、夕食はホテルのコンビニでカツ丼弁当と缶ビールを
求めて部屋食でした。

山形駅に9:29着。 観光案内所で 「酒田駅に行きたいのですが...」 と案内を乞えば女性職員は
「乗り換えが複雑ですから、直通の高速バスをオススメします。」 と言うでありませんか。
山形駅から列車で日本海側の酒田駅に出て、JR羽越線で数駅北上すれば象潟だとの認識で
いたので、内心ドキリとしましたよ。 前日多賀城駅の案内所で経験したことがまた起こるなんて!
老人の一人旅を見て、彼女なりにいろいろ危惧したのでしょうけど。 まぁ、”老いては子に従え”
ということで、2800円を払って10:23発の高速バス酒田行を利用しました。 酒田着は12:54。

乗客は僕ひとり、高速道路上のバス乗り場数か所で停車も乗客なし、終点のバスターミナル迄
タクシーを利用した感じで、2800円では高速料金にもならないだろうななんて思っていると、
2012/11/16の標題 「斜里まで?! 」 に応え次の様に投稿したことを思い出すのです 。
北のアルプ美術館を辞して12時37分発網走行は一両編成で乗客は自分だけでした。 
途中駅からも乗客はなく網走までの一時間は貸切状態でしたよ。


8年前は始発駅「知床斜里」から終着駅「網走」まで、右手に斜里岳を見て1時間の貸切状態。
今回は高速バスで右に鳥海山を視野に入れて、庄内平野を縦断する2時間30分の一人旅。
コロナ禍だからでしょうか。 途中、藤沢周平の小説 「風の果て」 に出てくる大櫛山と書かれた
道路標識を見つけて嬉しかった。この山の裾野にある太蔵が原という荒地がこの小説の重要
な舞台なっています。 山本周五郎の 「長い坂」 も一人の侍が荒地を新田に変えて、藩の財政
再建するという似たような筋立てでしたね。 「風の果て」 は 「 長い坂」 をオマージュした
作品でしょうか。 二人のペンネームの共通項は”周”ですから。
   

バスターミナルから徒歩5分で酒田駅に到着。 待合室でパンをかじりながら 「風の果て」下巻
を読むなどして、15:37発ー16:13象潟着の秋田行特急いなほを待ちます。 羽越本線に乗る
のは三度目だけど鳥海山の山頂はいつも傘の雲、日本海に浮かぶ飛島の姿にいつか行って
みたいと思うのに未だに実現しない、遠望するから美しい旅情的距離感がいいですね。
鳥海山の裾野が日本海に達する辺りでは、列車は海岸線の近くを走り絶景の連続でした。

象潟駅で下車したのは一人、 駅長が事務室から出て来てぼくを待っているのです。
「蚶満寺(かんまんじ)へ行きたいのですが・・・」 とぼく。 それに応えず黙って僕を見つめている
駅長。 日没が迫っていたので焦っていたのでしょうね。 乗車券と特急券の提示を忘れていた
のです。 徒歩で15分くらいですと丁寧に教えてくれましたよ。 羽越本線の踏切の向こうに
蚶満寺を示す石柱が立っています。 山門をくぐり進むと視界が開け、「奥の細道」で芭蕉が
舟を付け場所を示す標石や芭蕉が見たという、西行法師ゆかりの桜の老木の跡に植栽
された西行桜があります。
   

山門近くの解説板には天然記念物・象潟の誕生の経緯が次のように書かれています。
紀元前466年に鳥海山が噴火し、大規模な山体崩壊によって日本海に流れ込んだ岩の塊
(流れ山)は多くの島々となり、やがて島々を囲むように砂嘴が発達して、一帯は入り江に
なった。 島々には松樹が茂り、水面に鳥海山を映し、松島と並ぶ景勝地として広く知られる
ようになった。 しかし、文化元年(1804)の大地震によってこの地域は隆起して陸地になり、
往古の潟は一変して現在の稲田になったのである。



酒田駅から象潟駅までの距離は鉄路で35.5km、要した時間は36分。 芭蕉はどんな旅をした
のだろう。 奥の細道からその紀行ぶりを現代語訳で象潟の写真を添えて紹介します。
海や山、河川など景色のいいところをこれまで見てきて、いよいよ旅の当初の目的の一つで
ある象潟に向けて、心を急き立てられるのだった。 象潟は酒田の港から東北の方角にある。
山を越え、磯を伝い、砂浜を歩いて十里ほど進む。 太陽が少し傾く頃だ。 汐風が浜辺の砂
を吹き上げており、雨も降っているので景色がぼんやり雲って、鳥海山の姿も隠れてしまった。
暗闇の中をあてずっぽうに進む。「雨もまた趣深いものだ」 と中国の詩の文句を意識して、
雨が上がったらさぞ晴れ渡ってキレイだろうと期待をかけ、漁師の仮屋に入れさせてもらい、
雨が晴れるのを待った。

次の朝、空が晴れ渡り、朝日がはなやかに輝いていたので、象潟に舟を浮かべることにする。
まず能因法師ゆかりの能因島に舟を寄せ、法師が三年間ひっそり住まったという庵の跡を訪
ねる。 それから反対側の岸に舟をつけて島に上陸すると、西行法師が「花の上こぐ」と詠んだ
桜の老木が残っている。 水辺に御陵がある。神功后宮の墓ということだ。寺の名前を干満珠寺
という。 しかし神功皇后がこの地に行幸したという話は今まで聞いたことがない。 どういうこと
なのだろう。

この寺で座敷に通してもらい、すだれを巻き上げて眺めると、風景が一眼の下に見渡せる。
南には鳥海山が天を支えるようにそびえており、その影を潟海に落としている。 西に見えるは
むやむやの関があり道をさえぎっている。 東には堤防が築かれていて、秋田まではるかな道が
その上を続いている。 北側には海がかまえていて、潟の内に波が入りこむあたりを潮越という。
入り江の内は縦横一里ほどだ。 その景色は松島に似ているが、同時にまったく異なる。 松島
は楽しげに笑っているようだし、象潟は深い憂愁に沈んでいるようなのだ。 寂しさに悲しみまで
加わってきて、その土地の有様は美女が深い憂いをたたえてうつむいているように見える。

象潟や 雨に西施が ねぶの花
~以下略
(意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施が
しっとりうつむいているさまを想像させる。


芭蕉が取り上げている西行の~象潟の 桜は波に うづもれて 花のうえ漕ぐ 海士の釣り舟
という歌は出典が明らかでなく伝承ですが、否定も肯定もせずサラッと流している感じですね。
神功皇后の墓には疑問を呈しているのに。 いずれにしても、芭蕉は西行の500回忌に当たる
元禄2年(1689年)の3月27日、曾良を伴い 『おくのほそ道』 の旅に出たそうですから西行を
オマージュした旅であることは間違いありません。 西行ファンである芭蕉は、かって西行が
能因法師の足跡を追って 陸奥国(福島県・宮城県・岩手県)の歌枕を訪ねたことを文献から
知っていたと思います。 そういう状況証拠から、~世の中は かくとも経けり 蚶方(象潟)の
海士の苫屋をわが宿にして
~という能因の歌が 「後拾遺集」 にある以上、芭蕉は西行が
象潟で 「花のうえ漕ぐ」 の歌を詠んだはずと思ってたのかもしれません。

ちなみに、司馬遼太郎は 「街道をゆく・秋田県散歩」 で象潟の蚶満寺を訪れ次のようにいって
います。
私は、能因法師は奥羽を歩いたとおもっている。 象潟にもきた。 さらに伝説ではこの入り
江の島(能因島)で三年も幽居したというのである。 三年も島住まいしたかどうかはべつと
して、漁師の家に逗留したことはあろう。

江戸期の芭蕉は能因を古人として好もしくおもっていたが、それ以上にすきだったのは、
源平争乱の世を見た西行法師だった。

西行は能因を先行の人として尊敬していた。 能因が杖をとどめた以上、象潟にも行った
にちがいない。 確実とはいえないらしい。 窪田章一郎氏の『西行研究』(東京堂出版)では、
「象潟まで足をのばしたという伝えがあり」 といい、安田章正氏の『西行』(弥生書房)でも、
「出羽の象潟へ行ったという可能性も全くないことはない」と、している。
ただ、私は研究者ではないから、西行が象潟にきたということは、一議もなく信じている。
江戸期の芭蕉もむろんそのように信じていた。 かれは能因や西行の跡をたどるべく、奥州
・羽州の山河を歩いたわけで、白河の関をこえるときも、ふたりの古人を思って感動した。


西行が象潟で詠んだとされる歌は、二首ある。 現実と幻想をざっくりと造形した絵画的
風景といっていい。

   象潟の桜の波にうづもれて花のうえ漕ぐ海士の釣り舟

ただし、前掲の安田章正氏の『西行』では「西行の作として必ずしも信用できるものではない」
と、控えめである。 が、芭蕉は西行の作と信じていた。 到着した翌朝、日がのぼるのを待ち
かねるように舟に乗るのである。 能因島に舟をよせ、能因の三年幽居の跡を訪い、そのあと、
向こう岸に舟をつける。 ここは、西行の”歌” の遺跡である。 能因と西行とが象潟において
ならんでいる。

この「向こう岸」こそ、蚶満寺の境内である。 芭蕉は「干満珠寺」と書いている。 芭蕉は地の
文のなかに 「花のうえ漕ぐ」 と折り込んでいるだけで、西行の歌ぜんぶを紹介していない。
せずとも当時のひとはわかっていたのであろう。



白洲正子著 「西行」 を読んだことのある潤子さん、いかがでしょう。 蚶満寺の住職が戦車学校
の同期で、親交があることをわりびいても、司馬さんの能因、西行、芭蕉にたいする思い入れは
すごいとおもいませんか。 前回のブログで取り上げた西行の歌二首と
    名取川 岸の紅葉の うつる影は おなじ錦を 底にさへ敷
    踏まま憂き 紅葉の錦 散り敷きて 人も通はぬ おもわくの橋

今回の真偽がとわれている
    象潟の 桜の波に うづもれて 花のうえ漕ぐ 海士の釣り舟
を比べてみると、三首とも視点(目の付け所)というか、感性が同じなんですね。司馬さんの言を
借りれば、現実と幻想をざっくりと造形した絵画的 風景といっていい。
西行は生涯で二度26歳時と69歳時に奥州へ旅立っているので桜の花と紅葉は矛盾しないのです。

30分ほどの滞在でしたが、日没時間も過ぎていたので最寄りの島に上陸して帰ることにしました。
  

象潟駅であの駅長さんの手を煩わせて、自動券売機で新潟までの乗車券と特急券、新潟から
東京までの新幹線のチケットを発券してもらったのですが、お釣りの紙幣と硬貨を手にして、
待ち合い室に入ってしまったのです。 券売機から異常を知らせる警告音が出ていて、事務所
から出てきた駅長に 「切符を取りましたか」 と聞かれ自分の不手際に気がついた次第で、
落ち込みましたよ。 この駅から乗車するのは僕ひとり。乗り込んだ 車両も僕ひとりで、
「象潟は深い憂愁に沈んでいるようだ。 寂しさに悲しみまで加わってきて、」 との、
芭蕉のコメントを思い起こすのでした。 無事に帰宅できました。 いい旅でした。
  

今日の一曲は、西行の歌~象潟の 桜の波に うづもれて 花のうえ漕ぐ 海士の釣り舟
を想い起こして、作詞:武島羽衣、作曲:滝廉太郎で、【】 をお届けします。
    春のうららの 隅田川
    のぼりくだりの 船人が
    櫂のしずくも 花と散る
    ながめを何に たとうべき

    見ずやあけぼの 露あびて
    われにもの言う 桜木を
    見ずや夕ぐれ手をのべて
    われさしまねく 青柳を

    錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
    暮るればのぼる おぼろ月
    げに一刻も 千金の
    ながめを何に たとうべき
    ながめを何に たとうべき

作詞の武島羽衣(たけしまはごろも)は、上記した西行の歌を意識してというか、オマージュ
して作詞した様に思えるのですが、どうでしょう。

追伸:今回の旅は”go to トラベル ”に便乗したものではありません。

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