歌手・山本潤子さんのオフィシャルブログを読んで

写真付きで、コメント、メッセージ、随想等を記す

オリンピック・2024パリによせて

2024-08-12 19:19:56 | 日記
潤子さん、こんばんは 立秋が過ぎたのに猛暑が続きますが、お元気でお過ごしでしょうか。「オリンピッ
ク 2024パリ」が無事終了しました。12年前の「2012 ロンドン」で日本の金メダル獲得数は7だったのに
今回は20、すごいですね。貴ブログで発信されるテレビ観戦の感想にこたえて、書き込まれるコメントを
読むのも楽しかった。ぼくはイギリスのソウルフード「フィッシュ&チップス」に掛けてハイファイセット
のオリジナル曲【フィッシュ・アンド・チップス】を添えて投稿したのを覚えています。


で、今回のパリ大会を”食”と”ハイファイセット”絡みで考えると、2009-10-7にリリースされた山本潤子
オリジナルアルバム6th「音楽に恋している」に【Restaurant du ciel】というフランス語表示の楽曲が
あって、日本語に直せば「天空食堂」、英語では「Sky Restaurant 」。ちなみに英語の”restaurant ”は
フランス語からの外来語で、フランス語の”restaurant ”は ラテン語「再度良好な状態にする・回復させる」
を意味する「restauro」に由来するそうです。

ここまで書けばぼくが何を言おうとしているかお分かりだと思います。ハイファイセットは1975-11-15に
4枚目のシングル「スカイレストラン」(作詞:荒井由実 作曲:村井邦彦 編曲:松任谷正隆)を出して
いるんですね。【Restaurant du ciel】のフランス語表示を目にして、これは「スカイレストラン」の
フランス語バージョンかなとか思ったりして。ということで、今夜の一曲は【スカイレストラン】を
ブログに添えます。

追伸:作詞の荒井由実はフランス語の”restaurant ”がラテン語の「再度良好な状態にする・回復させる」
を意味する「restauro」に由来することを知っていたと思うのですがどうでしょう。
(どうして?・・・)
「スカイレストラン」は破綻した二人の関係をもう一度修復できたらという儚い女ごころがを歌っている
からです。そうであれば、当時20歳の荒井由実さんは凄いですね。
Restaurant Le Ciel de Paris

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報徳寺の枝垂桜によせて

2024-04-06 19:30:57 | 日記
潤子さん、こんばんは いかがお過ごしでしょうか。5日東京はさくらが満開になりましたね。花冷えの
曇天だったけど柴犬を連れて報徳寺の枝垂桜を訪ねました。朝ドラ「ブギウギ」が終わりなんとなくその
余韻に浸っていたのかもしれません。笠置シズ子(福来シズ子)に江利チエミ(水城アユミ)が絡む場面
が終盤の山場でドラマに花を添えていました。こういうセミドキュメンタリータッチはぼくは好きですよ。
福来シズ子(笠置シズ子)、羽鳥善一(服部良一)、茨田りつ子(淡谷のり子)水城アユミ(江利チエミ)
みたいな。とくに「茨」と「淡」の対比、「りつ子」は「律子」、「のり子」は「法子」をイメージして
いるかもしれない。性格は曲がったことが嫌いな「キッチリ山の吉兵衛さん」ですね。

では、水城アユミ(江利チエミ)はどうなんだという話だけど、江利チエミの「江」は海が陸地に入り込
んだ地形を指し、「利」はその様の鋭さを表しているのでしょう。大河多摩川を見下ろす国分寺崖線上に
あるチエミさんが眠る報徳寺周辺に北条氏の城がありました。白村江の戦いに敗れた日本が唐・新羅連合
軍の侵攻に備えて大宰府に築城した古代の城塞・水城(みずき)をなぞって命名されたのでしょう。
いずれにしても脚本担当の足立 紳(あだち・しん)氏は「福来山 報国寺」に来たのではないでしょうか。
福来シズ子の名の由来は福来山だと思うのです。本命の桜は満開でしたが、曇り空にさっぱり映えません。
隣は11年前にあなたが撮られたもの。あの日より今年の満開は2週間も遅かったのですね。
         

江利チエミさんといえば、松林正暁さんが「江利チエミ ジャズ・シンガーとしての魅力を語り尽くす!」
という標題で、彼女の評伝等を取り上げています。松林正暁?・・・かもしれないけど、僕が2023ー2-1
に紹介した【山本潤子さん(赤い鳥/Hi-Fi Set)の魅力を語る!】という彼の評論を思い出してください。
山本潤子さんが普通のシンガーソングライターと違うところは英語で歌うという裏技を持っている唯一
無二のシンガーだと思うのです。普通はポップスならポップス、フォークならフォーク、ロックならロッ
クと一本道を行く人が多いです。例えば松任谷由美さんとか、尾崎亜美さんとか、一本道をひとつのスタ
イルとして貫かれいる方が多いのです。たまにはカヴァーで歌いますけど。そのたまに歌うのと山本潤子
さんが違うのは彼女は完璧に洋楽の人なんです。それぐら英語が素晴らしいということ。


今回の評論「江利チエミ ジャズ・シンガーとしての魅力を語り尽くす!」は15分足らずの動画ですので
地縁のあった潤子さん、是非ご覧ください。なるほどと思ったのは次の通りです。
 *ジャズシンガーはリズム感が大切だということ。チエミさんはこれが完璧だったそうです。
 *ビブラートにはビブラートを意識しないナチュラル(天性)なビブラートがある。
 *カレン・カーペンターズはポップスだと思っている人が多いが、あれはジャズ。微妙に濁りのある声。
潤子さんを「完璧に洋楽の人」と評価した彼はジャズシンガーとしての能力が高いことを認識していたと
思います。そうでなければ「それぐらい英語が素晴らしい」なんていう言葉は出てきませんから。そして
ビブラートとカレン・カーペンターズのくだりで思い出したのは、かって紹介した森山直太朗の「ファル
セットと地声が自由に行き来する歌声、その中にもしっかりと芯を感じる!」との潤子さんへの評価です。

それから疑問がひとつ解けました。15歳の江利チエミが主演した「青春ジャズ娘」の映画監督・松林宗恵
は彼の父親だったのですね。前回アップした【家においでよ】は「青春ジャズ娘」のビデオクリップかな。
26歳も年下の松林正暁さんがデビュー当時の江利チエミを語れるのは宗恵氏の口伝もあると思うですが
どうでしょう。とういうことで、今日の一曲は松林正暁さんオススメのカウント・ベーシー楽団をバック
に歌うチエミさんの【CARIOCA】をブログに添えます。
ちなみに”CARIOCA”はポルトガル語で、サンバに似たブラジルのダンスのこと。この曲を聴くと潤子さん
がAPRILのセカンドアルバムで歌った「One Note Samba」を思い出します。
原題はポルトガル語で「Samba de Uma Nota Só」。

報徳寺の枝垂桜の縁で、話が東宝の映画監督だった松林宗惠氏におよびました。実家がお寺だったので
龍谷大学専門部を卒業して僧籍(釈 宗惠 )を得るも、創作のこころざし止みがたく日本大学芸術学部に
入学、繰り上げ卒業後、東宝入社という経歴をお持ちの方です。彼の作品の中で好きなものをあげると
 *青春ジャズ娘(1953年9月22日)
 *社長シリーズ(1958年1月3日~1970年2月28日)23作品
 *潜水艦イ-57降伏せず(1959年7月5日)
 *ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年4月26日)
 *世界大戦争(東宝、1961年10月8日)
 *太平洋の翼(1963年1月3日)
 *関白宣言(東宝、1979年12月22日)
 *連合艦隊(1981年8月8日) 
「潜水艦イ-57降伏せず」以降の海軍4部作が精彩を放っているのは、氏が学徒出身の海軍少尉だった
からだと思います。とりわけ「連合艦隊」では38歳で逝った佐田啓二の遺児・中井貴一(20)を主役
の一人として抜擢、芸能界入りさせたことに、氏の”ロマン”というか”仏ごころ”みたいなものを感じて
しまうのです。

そしてエンドロールで流れる主題歌「群青」のドラマチックなことといったらもう・・・
さすが龍谷大学専門部出身の和尚、日本大学芸術学部出身のアーティストといった感じで、「映画は
監督のもの」という通念を新たにしたものです。「群青」誕生の秘話を語る松林正暁さんの動画をご
紹介します。要点は以下の三点。
 *ある日いつものように大音量でレコードをかけていると、たまたま宗惠さんが在宅していて、部屋
  に入って来るなり、その曲はなんだと訊くので、ジャケットを渡すといい歌詞だと言ったそうです。
  それが谷村新司 作詞・作曲の【チャンピオン】 その時シンガーソングライター・谷村新司を知る。
 *制作スタッフから”ゴダイゴ”等の起用案が出たが、谷村新司への確信は揺るがずオファーをかけるも
  戦争映画の主題歌はどうも・・・と断られてしまいます。諦め切れず今度は東宝本社の一室に来て
  もらって、一時間に及ぶ説得で承諾を得たとか。
  殺し文句は「あなたが引き受けないなら、わたしはこの映画を作りません」。
 *「チャンピオン」と「群青」は同根というか、底でつながっているという松林正暁さんの見解。

ぼくはこの秘話を知って、谷村新司がなぜ断ったのか想像できるのです。前年の1980年に”さだまさし”
が日露戦争を題材にした映画「203高地」の主題歌「防人の歌」を作詞作曲したとき、戦争を賛美して
いる、節を曲げたなどと批判を浴びたことが頭にあったのでしょう。その前年松林監督は”さだまさし”
の弟が主演する「関白宣言」を作っているから、さだの名曲「防人の歌」を引き合いにだして説得した
のかもしれません。決定稿ではないシナリオやプロット、絵コンテを示しながら。
「チャンピオン」と「群青」は同根だという松林正暁さんの説にぼくは「防人の歌」を加えたい。
老いていく哀しみ、別離の悲しみ、戦いを繰り返す人間の業が通底に流れていると思うからです。
「チャンピオン」を歌ったことのある潤子さん、そう思われませんか。

以下に龍谷大学文学部を卒業、NHK記者、関西芸術短期大学教授、龍谷大学校友会長などを歴任され
た太田 信隆氏が書かれた松林宗恵氏の経歴やエピソードご紹介します。

      
           
                                         太田 信隆
一)
 松林宗恵と森繁久彌は、「和尚」「繁さん」と呼び合う仲であった。森繁は松林が監督した映画に三十
本以上出演していた。松林の自伝『私と映画 海軍 仏さま』に寄せた序文に、森繁はこう書いている。
「長い年月、この飄逸で暖かい心の持ち主に教わることが楽しみだった。それでいて結構生ぐさい人間味
のある方で、それが混然とこの人の身上を作っていると信じて疑わない」「飄逸で暖かい心の持ち主」で
あったことは、多くの人が認めるところであろうが、松林の「生ぐさい人間味」というのは、どんなこと
なのか。謦咳に接したが、これは、ちと、面と向かって聞くわけにはいかなかった。

松林は、平成二十一年八月十五日、終戦記念日に八十九歳の生涯を閉じた。九月十日、東京都世田谷区の
東宝スタジオで、お別れの会が開かれた。ステージは海軍士官であったことをイメージして、海原を進む
船が花で模ってあった。中央に白いあごひげを生やした大きな遺影が飾られていた。[海ゆかば]の曲が
流れた。遺影の前で、司葉子が追悼の辞を述べた。《青い山脈》の撮影の時の話をした。石坂洋次郎のこ
の題名の小説が評判を呼び、戦後、五回、映画化された。松林が監督したのは、昭和三十二年であった。
司葉子、雪村いずみ、草笛光子、宝田明らが出演した。ロケ地は、岐阜県の恵那市であった。

来る日も来る日も雨がふって、撮影は休止、スタッフは、宿舎の旅館に閉じ込められた。「誰か、精進の
わるい人がいるからよ」と女優の一人がつぶやいた。「それは、和尚よ」女優達は口を揃えた。松林は、
女優達に捕まった。二階の広間で布団蒸しにされ、海苔巻きのようにくるくる巻かれた。女優達はそれを
神輿のように担いで、わっしょい、わっしょいと部屋をまわった。松林は「御免よ、御免よ」と言った。
司葉子は、「もっとやれ、もっとやれと、と聞こえました―」と語って、しばし、壇上の遺影を見つめた。

(二)
 松林は昭和十六年、龍谷大学専門部を卒業した。当時、文学部と予科と、専門部があった。専門部はほ
とんどが寺院の出身であった。松林は在学中に吉川英治の『親鸞』を読んだ。「非僧非俗」という言葉が
胸に焼きついた。法衣をまとわない僧侶で行こうと決心して上京した。日本大学の芸術学部に籍を置いた
が、映画の魅力にひかれて、二十二歳の時、東宝の入社試験を受けた。当時の映画界は花形産業で、若者
には憧れの職場、いや、雲上の別世界であった。〈ダメ元〉の積りであったが合格した。

こまめによく働き、演出助手から助監督に昇進した。「これから○○組、セットに入ります」うるさ型が
たむろする部屋に告げて回ったりもした。「あれ、誰?」と若い女優が目をとめて、付き人に訊ねた。
「ああ、あれは坊さん大学を出た松林という助監督です」「へぇっ、坊さん大学、じゃ、和尚だね」この
女優は、誰あろう、日本中の映画ファンが胸をときめかせたデコちゃんこと、高峰秀子であった。和尚は
元来は、禅宗の僧家の呼称であるが、松林が僧籍を持っていたので、愛称となった。今に名が残る大スタ
ーや巨匠達も、松林を「和尚さん」と呼び慣わしていた。

(三)
 太平洋戦争が勃発し、若者は戦場に駆り出された。予備学生から従軍した松林は、昭和十九年の十二月
海軍少尉に任官し、部下百五十人を率いて、佐世保から玄界灘を経て、中国南部の廈門島に向かった。戦
況は日々に悪化していた。松林の乗った船は、米軍機の襲撃に遭って沈没した。松林は九死に一生を得た。
松林の生家は、中国地方の山峡を流れる江ノ川のほとり、島根県江津市桜江町の浄土真宗本願寺派の福泉
寺である。捕虜となった後、復員し帰郷した。ほどなく会社から招かれて、映画の道に戻った。

監督としてのデビュー作は、上原謙、丹阿弥谷津子主演の《東京のえくぼ》であった。キュートで洒脱な
コメディで、都会的なセンスが観客に受けた。森繁久彌主演の映画 社長シリーズは、サラリーマン社会
の哀歓を描いた喜劇であった。大入りであったので、会社はドル箱路線として、約十五年の間に、計三十
七本を世に出した。松林はこのうち二十三本を手掛けている。名優森繁が美人に弱い恐妻家の社長に扮し
芸達者な小林桂樹、加東大介、新珠三千代、池内淳子らが出演した。会社の経費で、銀座のバーへ行った
り、旅行先で宴会をしたりする場面が多かった。営業部長の三木のり平が発する「パーッとやりましょう
パーッと」というセリフは流行語になった。

(四)
松林は、〈戦争もの〉と呼ばれる映画を、五本撮っている。このうち、《連合艦隊》は、太平洋上で艦隊
とともに戦い、共に散っていった将兵を描いた大スペクタクル映画で、その年の興行収入、動員数、とも
に第一位を記録した。《連合艦隊》のお終いの方で、戦艦大和が爆破されて海に沈んでいく壮烈なシーン
がある。特攻機で上空を飛ぶ息子(中井貴一)が、艦上で手を振る下士官の父親(財津一郎)に向かって
つぶやく。「俺は、父さんより、ちょっと長生きができて、せめてもの親孝行になった・・・」この映画
が封切られたのは昭和五十六年八月で、戦後すでに三十余年を経ていた。〈親孝行〉という言葉は、もは
や聞くことはなかったが、映画館で目頭を押さえていた人がいた。

人が操縦して敵艦に体当たりする《人間魚雷回天》は、松林が自らの体験を踏まえて企画した映画であった。
声高に反戦を叫ぶわけでなかった。人の命の尊さを考えさせた。作品の底流に仏教があった。松林が監督
した作品は七十本を数える。松林のモットーは「うららかに、まことしやかに、さりげなく」であった。
スタッフを率い、スターを配して、メガフォンを執った松林の心情であった。信条であり真情でもあった。
また、これがこの人の人生哲学でもあった。

第一回の龍谷賞が松林に贈られた。平成二年五月、松林は会場の京都全日空ホテルの大広間の壇上に立っ
て、「母校の校友会から贈られるこの賞は、私の人生の最高の勲章です」と述べて、目をうるませた。
賞状と記念の盾は、生まれ故郷の桜江町にある「松林宗恵映画記念館」に展示されている。(本文敬称略)
大住広人さん(元毎日新聞編集委員)が『映画監督 松林宗恵《まことしやかに さりげなく》』という本
を出されている。(財団法人仏教伝道協会発行)好著である。一読をお薦めしたい。


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桜と江利チエミさん

2024-03-23 11:42:11 | 日記
潤子さん、こんばんは 桜の開花予想は24日だそうですが、早朝犬を連れて洗足池に行っ
てみると花芽は固くて咲く気配はなく、ひとけのない屋台と風に揺れる提灯に場違いな所
に来た感じでした。帰宅すると朝ドラ「ブギウギ」が放映中。江利チエミ?に見立の水城
アユミと笠置シズ子に擬せられる福来スズコ、日本のブギウギの生みの親である服部良一
と思われる羽鳥善一が絡むシーンで、このドラマが佳境に入り、来週の桜の満開時に大団
円を迎えそうですね。
   
で、水城アユミがなぜ江利チエミなのかという話ですが、彼女の両親から推測されます。
両親は芸能人だったけど、家庭の事情で12歳で江利チエミ(本名・久保智江美)は進駐軍
のキャンプで歌手として芸能活動に入ります。ピアニストだった父がマネージャー、英語
が達者だった兄が付き人でした。愛称は”エリー”、これが三年後メジャーデビューする際
の”江利”につながったのかもしれません。レコードデビューのA面は「テネシーワルツ」、
B面は「家においでよ(Come on -a my house)」でした。前者はカントリー調で創唱は
パティ・ページ、後者はブギウギ風というかブギウギそのもの。オリジナルはローズマリ
ー・クルーニーだったかな。江利チエミが歌って踊る【家においでよ】をご紹介します。

話は桜にもどりますが、洗足池の枝垂桜がまだ花もつけず寂しそうでした。2013/3/22
に貴ブログでアップされた報徳寺の枝垂桜はどうでしょう。今年は江利チエミさんの没後
42年、高倉健さんは10年をむかえます。結婚してから12年間、二人が見上げたであろう
この見事な枝垂桜。別れて11年後、45歳で逝った江利チエミさん。この桜の下を通ると
高いところにお二人の魂魄が留まっているような感じがして、チエミさんのデビュー曲
「テネシーワルツ」が聞こえてくるような気がするのです。彼女の死から17年、健さん
は映画「鉄道員」に主演しました。その冒頭に亡き妻との楽しい思いでを回想している
ような感じで、「テネシーワルツ」を口笛で吹く場面がありましたね。ちなみにチエミ
さんは家庭では健さんをダーリンと呼んでいたそうです。
映画の夫婦とオーバーラップしますね。今日はお二人を偲び、チエミさんの歌唱で歌詞
にダーリンが出てくる【テネシーワルツ

と、ぼくが8年前の3月30日に撮った報徳寺の枝垂桜の写真を添えます。


I was waltzing with my darling
To the Tennessee Waltz
When an old friend I happened to see
I introduced her to my loved one
And while they were waltzing
My friend stole my sweetheart from me

去りし夢
あのテネシー・ワルツ
なかし愛の歌
面影しのんで 今宵もうたう
うるわし テネシー・ワルツ

I remember the night
And the Tennessee Waltz
Now I know just how much I have lost
Yes, I lost my little darling
The night they were playing
The beautiful Tennessee Waltz

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女子バスケットボール選手の思い出

2024-03-17 17:24:39 | 日記
潤子さん、こんばんは おかわりなくお過ごしでしょうか。
春の陽気に誘われて自転車に柴犬リン(11歳)を載せて多摩川へヨモギを摘みにでかけました。
土手の斜面は野大根の花さかり。河川敷にリンと同じ黒柴(3歳)がいて名前は大福(ダイフク)
ちゃんだとか。ヨモギ大福を作ろうと思い立って来たら大福ちゃんですから嬉しかったですねぇ。
こりゃぁ春から縁起がいいというか、ヨモギも手頃なのがありましたよ。
   
 
縁起がいいといえば、メジャーリーガーの大谷翔平選手が結婚したという吉報がありましたね。
15日には自身のインスタグラムに二人の写真がアップされていました。
それまでSNS上で、お相手は早稲田大学出身で身長180cmの文武両道のバスケットボール選手
らしいといううわさが飛び交っていて、二刀流に文武両道、193cmに180cm、ベースボールに
バスケットボール、話が本当ならお似合いのカップルだとお思いましたよ。
早稲田大学出身、バスケットボール、身長180cmをキーワードにして、あの人かなとか想像し
たりしました。
(あの人?・・・)
その人とは10年前、柴犬リンと専修大学の女子バスケットボール選手の取り持つ縁で、代々木
第二体育館で二言三言と言葉を交わしたことのある桂葵さん。その時彼女の身長が180㎝である
ことを知ったのです。略歴は以下の通りで、大谷夫人・真美子さんの四年先輩でした。
 
1992年9月2日生まれ。180㎝。小学校の3年間をドイツで過ごし、帰国後の小学4年生から兄の
影響でバスケットボールを始め、高校ではインターハイ優勝。早稲田大学4年時インカレで優勝、
MVPを獲得。大学卒業後は競技を離れ総合商社・三菱商事に入社。その後3年のブランクを経て、
3人制バスケットボール女子の世界初プロリーグの設立を契機に商社勤務をしながら競技に復帰。
2022年、商社を退職し、日独合同クラブ「Düsseldorf ZOOS」を設立。クラブオーナー兼選手
として活動中。
 
彼女が【バスケットボール人生を語っている動画】がありますのでご紹介します。10年一昔と
か。美しくなりましたね。専修大学のHaさんとSiさんも結婚してママさんになっているかも。
桂葵
今日の一曲は早稲田大学出身の桂葵さんと大谷真美子さんに作詞:相馬御風 作曲:東儀鉄笛
早稲田大学校歌】を、専修大学出身のHaさんとSiさんに作詞:高野辰之  作曲:信時潔
専修大学校歌】を、それぞれ贈ります。熱き血潮が覚めぬこを願いながら。
 
追伸:ヨモギ大福が出来上がりました。ここに初めて来た方には何のことやら話の通じない方
もおられると思います。関東女子大学バスケットボールリーグ戦に魅了された
十年前の過去ログ三篇を添付しますので参考にしてくださ。
 
潤子さん、こんばんは
ぼくもモルトウイスキーで献杯させていただきました。 チビチビという感じよくわかります。
琉球泡盛を上回る46度ですから。 とにかくありがとうございます。
そのうえお若い時の写真までアップしていただき、すごく心がなごみます。
誰でもこういう時間があったんですよねぇ。 ウイスキーのキャッチコピーでいえば
~すこし愛して、ながく愛して~ 
~恋は、遠い日の花火ではない~ もっと踏み込めば~恋が着せ、愛が脱がせる~でしょうか。

いずれにしても星の数ほどおありの俊彦さんとの思い出の写真、羨ましい限りです。
ぼくはそういう仲睦ましい写真がほとんどないので。
お返しに今日素敵な女子大生に会ったことを写真を交えてご報告しますね。
午後から柴犬リンを駒沢オリンピック公園にあるドックランに連れて行きました。
でも誰もいなくて、早々にそこを引き上げ木陰のベンチで本でも読もうと売店に飲み物を買いに。 
缶ビールを受け取って振り向くと若い女性が二人かわい~と言いながら柴犬をかまっているのです。
 

君たちの方が可愛いじゃないか。 大学生?」 と言うと 「はい」 と。 背が高く体がシャンとしているので
「スポーツ選手でしょう?」 と訊ねたら黒シャツの学生がにっこりしてバスケットの選手ですと応えると
白シャツの学生は体育館を指し 「今あそこで試合をやってきたばかりです」 と。
二人は専修大学の学生さんで法政大学を破り、第48回関東大学女子バスケットボール選手権大会
トーナーメントのベスト8に進出。 明日の白鷗大学戦に勝てば上位4チームのリーグ戦になるそうです。
わが母校もでるので明日、応援に駆けつけることを約束、後はいつものような展開になり写真を撮ったり撮られたり。

木陰のベンチで 「輝ける闇」 を読み終えました。 「夏の闇」 とは一味も二味もテイストが違う小説でしたね。
腹にずっしりきました。体育館では学芸大学と山梨学院大学戦が。
  

追伸:写真をアップすることは了解すみです。 二人のたたずまいが似ているので姉妹ですかと訊ねたら、
白シャツさんはハーフとのことでした。 似ているなんていわれるのは初めてなんて言っていましたが、
すごく仲が良さそうでした。 きっと潤子さんにもこんな時代があったのでしょうね。
お二人の写真から 【アフリカの星のボレロ】 が聞こえてくるような。
 
2014-05-16【バスケットボール
潤子さん、こんばんは 遅れましたが昨日のレポートです。
今日、国立第二体育館へ関東大学女子バスケット選手権の決勝リーグ白鴎大VS早稲田大を観てきたので
ご報告します。 15:59五反田駅発の山手線で16:12に原宿駅着。 改札は人の波で入口は入場制限でした
 ウオームアップ     入場券      早稲田大学の練習   白鴎大学の練習
      
 試合開始直後     反転速攻   キャプテンのシュート 180cm超のキャプテン
   
残り時間6秒で1点差  ゴール下白鴎大学のシュートを阻止して早稲田大学が勝利。
  

一昨日の専修大学と白鴎大学の一戦を観て白鴎大学が優勢かなと思っていました。 
前半に9点差をつけられたときはだめかと。 でも後半逆転して10点差をつけましたが
終盤じりじり追い上げられ1点差。 からくも逃げ切り。
キャプテンが活躍してくれたのでうれしかったです。 明日も行くつもりです。
 
潤子さん、こんばんは いかがお過ごしでしょうか。
午後から関東大学女子バスケットボール選手権試合を観戦に行ってきました。 12時7分発の山手線で
原宿に着くと改札を出るのに10分くらいかかる混雑ぶり。 近くでタイフェスチバルがあったようです。
歩道橋をわたり国立代々木第二体育館に向う途中、背の高い女性二人がヒールのない靴で前を歩いていました。
バスケットボール部のOGかな?と。 早稲田大学のOGでした。 選手が応対していましたから。
決勝リーグに進出した4チームは共に1勝1敗の成績で最終日を迎えました。

今日試合会場でうれしいことがいくつかありました。
(その一)第一試合で早稲田大学が医療保険大学を70対62で破ったこと。
  試合前の練習  キャプテン桂が主審と握手して試合開始。 彼女と先日偶然話をすることができました。
 

(そのニ)格下の二部リーグ所属の山梨学院大学が強敵白鴎大学を83対71で降し、得失点の差で
早稲田大学を押さえ優勝したこと。 二部リーグ校が優勝するのは47年の歴史で初めてだそうです。
登山の帰りに山梨の中学生や高校生になんども挨拶されたことがあるので、うれしくて。
7番のキャプテンお疲れさん!  二位だけど早稲田もよくやった!
 

(その三)駒沢公園で偶然出会った専修大学のHaさんとSiさんに再会したこと。
試合はないはずなのでビックリしましたよ。 5位になったので閉会式にでるのだとか。
相変わらず仲のいい二人。 なんとHaさんが先頭に!
 

(その四)今日のチケットは輝く星を背に早稲田の桂キャップテンの写真が載っていたこと。
インタバルに場内アナウンスがあり、チケットの裏にシールが貼ってある方には記念品を差し上げますと。
  
とにかくハッピーな1日でした。 
こんな日は母校の校歌・作詞:相馬御風 作曲:東儀鉄笛 【都の西北】 を添えます。
 
 
 

 


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旧暦のお正月

2024-02-14 06:34:56 | 日記
潤子さん こんにちは 2月10日は旧暦の正月でしたがお元気でお過ごしのことと存じます。
日本では旧暦の正月を祝うという風習は見かけなくなりましたが、沖縄にはまだ残っている
そうですね。沖縄といえば向田邦子の大ファンだった沖縄在住のlunaさんが思い出されます。
それはこんな経緯でした。貴ブログに向田邦子さんの講演の音声を紹介したら2012/06/21に
潤子さんから【まさかの生声】という標題でこんなお礼のコメントがありました。

向田邦子さんの生声を初めて聴けました!
高目だけれどしっとりとした美しい声ですね。
文章というものは書いて気にいらなければケシゴムでさっと消して何度も書き換えられる。
それに反して、話言葉は一旦出ると引っ込める事が出来ない。その事による恐ろしいお話から
公演は始まりましたね。
最後まで前のめりで聞き入りましたよ。
面白かったです。ありがとう!


これを受けて夜更かしのlunaさんが潤子さんとぼくに対して以下の投稿で応えてくれましたね。

YouTubeはすごい。ホシノさん、ナイスです!私はカセットテープ(なつかしい響き)で今も
持っていますよ。潤子さんが向田さんの本を読みだしてから、先日また聞きました。内容もお
もしろかったし、控えめで心落ち着く素敵な声です。
おいしいもの情報を入れる「う」の引き出し、人との待ち合わせによく遅れる、若いころ黒の
服ばかりで「黒ちゃん」と呼ばれていたとか、自転車が乗れないとか(私もうまく乗れないの
で密かにうれしかった)、腕ずもうが強い、とにかくお茶目で、同時に美しい大人の女性とし
て、また才能ある作家として魅了されます。23日からのクルーズ、楽しく快適な旅でありま
すように!どうぞお気をつけて!
投稿情報: luna | 2012/06/22 02:20


その五時間後の早朝、お二人に親愛の情を込めうて次のようにエールを送りました。

潤子さん、おはようございます
貴ブログへコメントさせていただくとき消しゴムがあればと何度思ったことか。
しまった! この行、取り消したいとか。
さて、いよいよ明日ですね。
まぁ、船は沈みこそすれ、墜落することはありませんから。
こんなブラックジョークを思い出しました。
日本人客室乗務員:Enjoy your fright(恐怖). とニッコリ
イギリス人乗客・:I sank(沈める) you. とウインク

lunaさん、ありがとうございます。
そして、潤子さん ボン‐ボワイヤージュ
投稿情報: ホシノ | 2012/06/22 07:14


さて、本題に入ります。旧正月ということで東急沿線の大倉山梅園に梅花を見に行って来ました。
急坂を登りきると映画やテレビのロケでよく出てくる1932年創建の横浜市大倉山記念館があり、
梅園はその裏手にあります。往時は1000本くらいの梅林だったそうですが、今は100本足らずの
梅園の態。戦時中は芋畑にされたからだとか。梅の花は咲いていなかったけど小学2年の遠足は
ここでした。梅園の”せせらぎ”を目にして、2015/1/24「小網代の森2」の”せせらぎ”の写真が
貴ブログの止めになっていることを想い出すのです。その”せせらぎ”に天智天皇の第七皇子・
志貴皇子の一首を添えます。
~石(いわ)走る垂水(たるみ)の上のさわらびの 萌もえ出づいずる春になりにけるかも~
   

追伸:2023/11/9に大橋純子さんがお亡くなりになりました。SNSを検索したらNHK「フォーク
フェスティバル」収録現場。左から大川茂、山本潤子、大橋純子、山本俊彦、田山雅充、松任谷
由実(1977年8月19日撮影)
というキャプションのついた写真がありました。寄り添う二人の
ジュンコさんは同学年だったのですね。

今日の一曲は大橋純子さんのご冥福祈りながら
シルエットロマンス】で彼女の歌唱を偲びましょう。

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