潤子さん、こんにちは お元気でしょうか。 11年ぶりに火星の大接近です。 10時頃南の空に
ひときわ明るい火星が見えるかも知れません。
さて、歌聖の続きです。 行程の中間くらいにまた柿本人麻呂の歌碑がありました。
~衾道(ふすまじ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし~
(引手の山に妻の亡骸を置いて、寂しい山道をたどると、とても自分が生きているとは思え ない)
引手の山は現在の龍王山のことです。 そして家に戻って詠んだ歌も忘れられません。
~家に来て わが屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕~
(家に戻ってきて妻の寝室を見ると、使っていた木枕が、床の外の方に向いてころがっているの
だった) 人麻呂の深い歎きと寂寥感が伝わってきますね。 大津京跡に次の歌碑がありました。
~淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ~
(琵琶湖の夕波を飛ぶ千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるように、しみじみと昔のことが思わ
れるのだ) 持統天皇に仕える宮廷歌人の彼は天皇の意を受けて、近江大津京があった琵琶
湖に赴き、壬申の乱で滅んだ近江朝の人々の魂を鎮めたのでしょうか。 さすがに歌聖ですね。
さらにゆくと、大きな古墳が見えてきます。 犬をつれた土地の人にきいてみると祟神天皇の
陵墓とのこと。 大学時代の日本史の講義で、第10代祟神天皇は実存した可能性のある最初
の天皇で、神話上の初代天皇・神武は祟神天皇をモデルにしているのかも知れないという話を
聞いた記憶があり、近くまでいきましたが、その景観は司馬遼太郎さんの筆をかります。
石上から三輪へ南下する途中、道の左手に祟神帝の御陵がある。私が兵隊にゆくとき、葛城に
住む外祖母がこの三輪までお詣りにつれてきてくれたが、そのとき、この御陵をみて、その樹叢
のうつくしさにうたれた記憶がある。いま車窓からのぞいても、なおその美しさは衰えていない。
さきほどの男性にあれが三輪山でしょうかと尋ねると正解でほっとしました。 石上神宮の杜を
出たあたりから、前方やや左にそれらしい山が見えたのですが、山の天辺に鉄塔のような螺旋
階段状の見晴らし塔みたい構造物が立っているように見えるから半信半疑でしたが、望遠で撮
ってみると巨木の枯れ木がご神体を示す標のように立っているのでした。 額田王は振り返り
振り返りして、遠ざかっていく三輪山との別れを惜しみつつ北上、対して三輪山を常に目の端に
入れながらの道行きなのでした。
土曜日で絶好のウォーキング日和だというのに、15kmにわたるトレイルでそれらしい人と出合
ったのは6名、予想が外れてラッキーでした。 黒澤監督の映画に「夢」 という作品があったけど、
歩きながらこんなオムニバスを追加したくなりまいた。 丘へ続く山の辺の道から近江へ向かう
大和朝廷の首脳たちの隊列がこちらに下りてくるのです。 青年は道をゆずって端の木の下で
一行をやりすごしていると、最後尾の輿が目の前で停り、御簾が上がると「ファンなのですね・・・」
と女性が言葉をかけます。 青年はこの女性があこがれの額田王だとわかるのですが、なにせ
天智、天武の兄弟王に愛された美貌の宮廷歌人、位負けして、ただうなづくだけ。
「ありがとう・・・私も大好きなの・・・」 と三輪山を振り返るのです。 「おたがいに、いい旅になると
いいわね。 では、お元気で・・・」 との声に青年は最敬礼で応え、輿が見えなくなるまでたたずん
でいるのです。
しばらくして葛城山脈の二上山が見えてきて、頂上には大津皇子の墓があることは前回お話しま
した。 悲劇を記した案内板。 そして大和三山の耳成山と香具山、その後には葛城山がうっすら
と、西行の墓は葛城山の麓にあるのでしたね。 近くに三輪山と龍王山を俯瞰した案内板があり、
三輪山が女性的な山であることが見てとれます。
10時50分、誰もいない茶店でラムネとワラビ餅を注文。 素足になって足の火照りを冷まします。
そこで”三輪そうめん”を食してJR三輪駅に向かって歩き出します。
12時00分に発券された切符を手に桜井線で車を置いてある天理駅へ向います。休憩30分で
4時間あるきました。 4時間もご神体を目にしながらあるいたので大神神社(おおみわ神社)の
拝殿にはゆかず、駅のホームから雲居立つ三輪山に拝礼。
山の辺の道ウォークの〆に司馬遼太郎の「街道をゆく1」から引用します。
言葉の意味はわからないが、ミワという物理的な物については多少いえる。 三輪山は面積ざっと
百万坪、倭青垣山(やまとあおがきやま)という別名でもわかるように、大和盆地におけるもっとも
美しい独立丘陵である。 神岳(かみやま)という別称もある。 秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を
古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて、山そのものを神体としてまつったが、神南備山で
ある三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。 伊勢神宮の形式など、はる
かにあたらしい。
「日本最古の神社」 とよくいわれるが、その程度の言い方でもなおこの三輪信仰の霊威の古格さ
を言いあらわしがたいでであろう。 なにしろ、むかしむかしその昔、いつごろからこの丘陵への信
仰がはじまったのかは、測るすべもないが、しかしどういう民族が祭祀していたかについては、ほ
ぼ想像がつく。 いわゆる出雲族である。 すると、出雲族とはどういうグループかとなれば、もう
霧のむこうの人影を見るようで、わかりにくい。 大和土着の種族であることはたしかである。
イヅモとは、『倭名類聚抄』 で以豆毛と発音し、古代発音ではおそらく ingdmo と発音していたかと
おもわれる。「出雲国」というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称
だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。 種族
名であったにちがいない。 さらに古代出雲国族の活躍の中心が、いまの島根県ではなくむしろ
大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。 その大和盆地の政教上の中心が、
三輪山である。 出雲国の首都といってもいい。
三輪山は、神の名として「大物主命(おおものぬしのみこと)」 という。人格神ではない。大物主とは、
国土のもちぬしという意味だろうが、この神とこの神の系統の神々については 「記紀」 などの神話
には人格が記述されているが、それは記述法であるにすぎまい。 要するに、「ミワ」 という意味は、
大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、三輪山のまわりに住み、ふもとの海柘榴市(つばい
ち)で市をいとなみ、主として大和東部に広がって農耕をいとなんでいたイヅモであることは、異論
がすくないであろう。
ひときわ明るい火星が見えるかも知れません。
さて、歌聖の続きです。 行程の中間くらいにまた柿本人麻呂の歌碑がありました。
~衾道(ふすまじ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし~
(引手の山に妻の亡骸を置いて、寂しい山道をたどると、とても自分が生きているとは思え ない)
引手の山は現在の龍王山のことです。 そして家に戻って詠んだ歌も忘れられません。
~家に来て わが屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕~
(家に戻ってきて妻の寝室を見ると、使っていた木枕が、床の外の方に向いてころがっているの
だった) 人麻呂の深い歎きと寂寥感が伝わってきますね。 大津京跡に次の歌碑がありました。
~淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ~
(琵琶湖の夕波を飛ぶ千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるように、しみじみと昔のことが思わ
れるのだ) 持統天皇に仕える宮廷歌人の彼は天皇の意を受けて、近江大津京があった琵琶
湖に赴き、壬申の乱で滅んだ近江朝の人々の魂を鎮めたのでしょうか。 さすがに歌聖ですね。
さらにゆくと、大きな古墳が見えてきます。 犬をつれた土地の人にきいてみると祟神天皇の
陵墓とのこと。 大学時代の日本史の講義で、第10代祟神天皇は実存した可能性のある最初
の天皇で、神話上の初代天皇・神武は祟神天皇をモデルにしているのかも知れないという話を
聞いた記憶があり、近くまでいきましたが、その景観は司馬遼太郎さんの筆をかります。
石上から三輪へ南下する途中、道の左手に祟神帝の御陵がある。私が兵隊にゆくとき、葛城に
住む外祖母がこの三輪までお詣りにつれてきてくれたが、そのとき、この御陵をみて、その樹叢
のうつくしさにうたれた記憶がある。いま車窓からのぞいても、なおその美しさは衰えていない。
さきほどの男性にあれが三輪山でしょうかと尋ねると正解でほっとしました。 石上神宮の杜を
出たあたりから、前方やや左にそれらしい山が見えたのですが、山の天辺に鉄塔のような螺旋
階段状の見晴らし塔みたい構造物が立っているように見えるから半信半疑でしたが、望遠で撮
ってみると巨木の枯れ木がご神体を示す標のように立っているのでした。 額田王は振り返り
振り返りして、遠ざかっていく三輪山との別れを惜しみつつ北上、対して三輪山を常に目の端に
入れながらの道行きなのでした。
土曜日で絶好のウォーキング日和だというのに、15kmにわたるトレイルでそれらしい人と出合
ったのは6名、予想が外れてラッキーでした。 黒澤監督の映画に「夢」 という作品があったけど、
歩きながらこんなオムニバスを追加したくなりまいた。 丘へ続く山の辺の道から近江へ向かう
大和朝廷の首脳たちの隊列がこちらに下りてくるのです。 青年は道をゆずって端の木の下で
一行をやりすごしていると、最後尾の輿が目の前で停り、御簾が上がると「ファンなのですね・・・」
と女性が言葉をかけます。 青年はこの女性があこがれの額田王だとわかるのですが、なにせ
天智、天武の兄弟王に愛された美貌の宮廷歌人、位負けして、ただうなづくだけ。
「ありがとう・・・私も大好きなの・・・」 と三輪山を振り返るのです。 「おたがいに、いい旅になると
いいわね。 では、お元気で・・・」 との声に青年は最敬礼で応え、輿が見えなくなるまでたたずん
でいるのです。
しばらくして葛城山脈の二上山が見えてきて、頂上には大津皇子の墓があることは前回お話しま
した。 悲劇を記した案内板。 そして大和三山の耳成山と香具山、その後には葛城山がうっすら
と、西行の墓は葛城山の麓にあるのでしたね。 近くに三輪山と龍王山を俯瞰した案内板があり、
三輪山が女性的な山であることが見てとれます。
10時50分、誰もいない茶店でラムネとワラビ餅を注文。 素足になって足の火照りを冷まします。
そこで”三輪そうめん”を食してJR三輪駅に向かって歩き出します。
12時00分に発券された切符を手に桜井線で車を置いてある天理駅へ向います。休憩30分で
4時間あるきました。 4時間もご神体を目にしながらあるいたので大神神社(おおみわ神社)の
拝殿にはゆかず、駅のホームから雲居立つ三輪山に拝礼。
山の辺の道ウォークの〆に司馬遼太郎の「街道をゆく1」から引用します。
言葉の意味はわからないが、ミワという物理的な物については多少いえる。 三輪山は面積ざっと
百万坪、倭青垣山(やまとあおがきやま)という別名でもわかるように、大和盆地におけるもっとも
美しい独立丘陵である。 神岳(かみやま)という別称もある。 秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を
古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて、山そのものを神体としてまつったが、神南備山で
ある三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。 伊勢神宮の形式など、はる
かにあたらしい。
「日本最古の神社」 とよくいわれるが、その程度の言い方でもなおこの三輪信仰の霊威の古格さ
を言いあらわしがたいでであろう。 なにしろ、むかしむかしその昔、いつごろからこの丘陵への信
仰がはじまったのかは、測るすべもないが、しかしどういう民族が祭祀していたかについては、ほ
ぼ想像がつく。 いわゆる出雲族である。 すると、出雲族とはどういうグループかとなれば、もう
霧のむこうの人影を見るようで、わかりにくい。 大和土着の種族であることはたしかである。
イヅモとは、『倭名類聚抄』 で以豆毛と発音し、古代発音ではおそらく ingdmo と発音していたかと
おもわれる。「出雲国」というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称
だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。 種族
名であったにちがいない。 さらに古代出雲国族の活躍の中心が、いまの島根県ではなくむしろ
大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。 その大和盆地の政教上の中心が、
三輪山である。 出雲国の首都といってもいい。
三輪山は、神の名として「大物主命(おおものぬしのみこと)」 という。人格神ではない。大物主とは、
国土のもちぬしという意味だろうが、この神とこの神の系統の神々については 「記紀」 などの神話
には人格が記述されているが、それは記述法であるにすぎまい。 要するに、「ミワ」 という意味は、
大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、三輪山のまわりに住み、ふもとの海柘榴市(つばい
ち)で市をいとなみ、主として大和東部に広がって農耕をいとなんでいたイヅモであることは、異論
がすくないであろう。