歌手・山本潤子さんのオフィシャルブログを読んで

写真付きで、コメント、メッセージ、随想等を記す

山の辺の道を歩く②

2016-05-31 16:28:31 | 日記
潤子さん、こんにちは お元気でしょうか。 11年ぶりに火星の大接近です。 10時頃南の空に
ひときわ明るい火星が見えるかも知れません。

さて、歌聖の続きです。 行程の中間くらいにまた柿本人麻呂の歌碑がありました。
衾道(ふすまじ)を 引手(ひきて)の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし
(引手の山に妻の亡骸を置いて、寂しい山道をたどると、とても自分が生きているとは思え ない)
引手の山は現在の龍王山のことです。 そして家に戻って詠んだ歌も忘れられません。
家に来て わが屋を見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕
(家に戻ってきて妻の寝室を見ると、使っていた木枕が、床の外の方に向いてころがっているの
だった) 人麻呂の深い歎きと寂寥感が伝わってきますね。 大津京跡に次の歌碑がありました。
淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(琵琶湖の夕波を飛ぶ千鳥よ、おまえが鳴くと、心もしおれるように、しみじみと昔のことが思わ
れるのだ) 持統天皇に仕える宮廷歌人の彼は天皇の意を受けて、近江大津京があった琵琶
湖に赴き、壬申の乱で滅んだ近江朝の人々の魂を鎮めたのでしょうか。 さすがに歌聖ですね。
 

さらにゆくと、大きな古墳が見えてきます。 犬をつれた土地の人にきいてみると祟神天皇の
陵墓とのこと。 大学時代の日本史の講義で、第10代祟神天皇は実存した可能性のある最初
の天皇で、神話上の初代天皇・神武は祟神天皇をモデルにしているのかも知れないという話を
聞いた記憶があり、近くまでいきましたが、その景観は司馬遼太郎さんの筆をかります。
石上から三輪へ南下する途中、道の左手に祟神帝の御陵がある。私が兵隊にゆくとき、葛城に
住む外祖母がこの三輪までお詣りにつれてきてくれたが、そのとき、この御陵をみて、その樹叢
のうつくしさにうたれた記憶がある。いま車窓からのぞいても、なおその美しさは衰えていない。


さきほどの男性にあれが三輪山でしょうかと尋ねると正解でほっとしました。 石上神宮の杜を
出たあたりから、前方やや左にそれらしい山が見えたのですが、山の天辺に鉄塔のような螺旋
階段状の見晴らし塔みたい構造物が立っているように見えるから半信半疑でしたが、望遠で撮
ってみると巨木の枯れ木がご神体を示す標のように立っているのでした。 額田王は振り返り
振り返りして、遠ざかっていく三輪山との別れを惜しみつつ北上、対して三輪山を常に目の端に
入れながらの道行きなのでした。
   

土曜日で絶好のウォーキング日和だというのに、15kmにわたるトレイルでそれらしい人と出合
ったのは6名、予想が外れてラッキーでした。 黒澤監督の映画に「夢」 という作品があったけど、
歩きながらこんなオムニバスを追加したくなりまいた。 丘へ続く山の辺の道から近江へ向かう
大和朝廷の首脳たちの隊列がこちらに下りてくるのです。 青年は道をゆずって端の木の下で
一行をやりすごしていると、最後尾の輿が目の前で停り、御簾が上がると「ファンなのですね・・・」
と女性が言葉をかけます。 青年はこの女性があこがれの額田王だとわかるのですが、なにせ
天智、天武の兄弟王に愛された美貌の宮廷歌人、位負けして、ただうなづくだけ。
「ありがとう・・・私も大好きなの・・・」 と三輪山を振り返るのです。 「おたがいに、いい旅になると
いいわね。 では、お元気で・・・」 との声に青年は最敬礼で応え、輿が見えなくなるまでたたずん
でいるのです。
 

しばらくして葛城山脈の二上山が見えてきて、頂上には大津皇子の墓があることは前回お話しま
した。 悲劇を記した案内板。 そして大和三山の耳成山と香具山、その後には葛城山がうっすら
と、西行の墓は葛城山の麓にあるのでしたね。 近くに三輪山と龍王山を俯瞰した案内板があり、
三輪山が女性的な山であることが見てとれます。
   

10時50分、誰もいない茶店でラムネとワラビ餅を注文。 素足になって足の火照りを冷まします。
そこで”三輪そうめん”を食してJR三輪駅に向かって歩き出します。
  

12時00分に発券された切符を手に桜井線で車を置いてある天理駅へ向います。休憩30分で
4時間あるきました。 4時間もご神体を目にしながらあるいたので大神神社(おおみわ神社)の
拝殿にはゆかず、駅のホームから雲居立つ三輪山に拝礼。
  

山の辺の道ウォークの〆に司馬遼太郎の「街道をゆく1」から引用します。
言葉の意味はわからないが、ミワという物理的な物については多少いえる。 三輪山は面積ざっと
百万坪、倭青垣山(やまとあおがきやま)という別名でもわかるように、大和盆地におけるもっとも
美しい独立丘陵である。 神岳(かみやま)という別称もある。  秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を
古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて、山そのものを神体としてまつったが、神南備山で
ある三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。 伊勢神宮の形式など、はる
かにあたらしい。 

「日本最古の神社」 とよくいわれるが、その程度の言い方でもなおこの三輪信仰の霊威の古格さ
を言いあらわしがたいでであろう。 なにしろ、むかしむかしその昔、いつごろからこの丘陵への信
仰がはじまったのかは、測るすべもないが、しかしどういう民族が祭祀していたかについては、ほ
ぼ想像がつく。 いわゆる出雲族である。 すると、出雲族とはどういうグループかとなれば、もう
霧のむこうの人影を見るようで、わかりにくい。 大和土着の種族であることはたしかである。 

イヅモとは、『倭名類聚抄』 で以豆毛と発音し、古代発音ではおそらく ingdmo と発音していたかと
おもわれる。「出雲国」というのは、明治以前の分国で、いまの島根県出雲地方をさす地理的名称
だが、しかし古代にあってはイヅモとは単に地理的名称のみであったかどうかは疑わしい。 種族
名であったにちがいない。  さらに古代出雲国族の活躍の中心が、いまの島根県ではなくむしろ
大和であったということも、ほぼ大方の賛同を得るであろう。  その大和盆地の政教上の中心が、
三輪山である。 出雲国の首都といってもいい。 

三輪山は、神の名として「大物主命(おおものぬしのみこと)」 という。人格神ではない。大物主とは、
国土のもちぬしという意味だろうが、この神とこの神の系統の神々については 「記紀」 などの神話
には人格が記述されているが、それは記述法であるにすぎまい。 要するに、「ミワ」 という意味は、
大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、三輪山のまわりに住み、ふもとの海柘榴市(つばい
ち)で市をいとなみ、主として大和東部に広がって農耕をいとなんでいたイヅモであることは、異論
がすくないであろう。  

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山の辺の道を歩く①

2016-05-29 20:26:42 | 日記
潤子さん、こんばんは 旅の続きをお届けします。
6時半にホテルを出発、天理駅前の駐車場に車を置き、ハイキングをスタートする石上神宮に
向かって歩き出します。 天理といえば天理教の街ということとあの天理高校しか知らないけど
一泊して正解でした。 市内で目立つ建物は天理教の関連施設なので、道すがら神殿と本部
を写真に収めました。 駅から歩いて20分、石上神宮の杜が見えるコンビニのベンチでサンド
ウイッチを頬張っていると、天理教の印半纏を身にした男性が話しかけて来て、山の辺の道を
歩くことを知ると、石上神宮から三輪大社までは緩やかな下りになっていること、標識があるの
で道に迷うことがないこと、途中2箇所に飲み物を買える休憩所があること、疲れてしまったら
右に坂道を下ればJR桜井線あるので利用すればいいと教えてくれました。 老人の侘しい一人
旅に何かを感じたのでしょう。
  

さて、石上神宮(いそがみじんぐう)ですが、なぜ”石”を”いそ”と読ませるのでしょうか。 司馬
遼太郎は 「街道をゆく1」 のなかで海の磯から出たと。 なぜなら大和盆地は古代にあっては
一大湖沼であったからである。 古代集落は盆地のまわりの麓や高地に発達したから、今でも
磯野、浮孔、南浦、磯城島といったふうに磯くさい古い地名が多く残っており、となれば石上の
地形からみてやはりこれは磯ノ上にちがいないと思うほうが、穏当のような気がする。

調べてみると太古の大和盆地は海で、それが湖に変わっていったのです。 大和湿原といった
時代もあったのでしょうね。 古事記や日本書記にも出てくる石上神宮の萱葺きの拝殿(国宝)
に参拝してから山辺の道にはりました。 
   

小径を辿ってるとかっての大伽藍内山永久寺跡に27歳の芭蕉がこの地を訪れたとき詠んだ
句碑がありました。 ~うち山や とざまは知らずの 花さかり~ 伊賀上野に住んでいたころ
の作だとか。 さらに歩くと視界がぱっと開けて、大和盆地と二上山を目にして息をのみました。
二上山には大津皇子の墓があります。 父は天武天皇、母は天智天皇の娘・大田皇女で人望
もあり、皇位継承の最有力候補だったのに、父が没すると謀反の疑いをかけられて24歳の時
殺されてしまいます。 大田皇女は天武天皇の皇后鵜野讃良(後の持統天皇)の姉で、大津皇
子が4歳の時亡くなっているので後盾がなかったのかもしれません。

叔母の鵜野讃良皇后が画策して死に追いやったという話があって、情況証拠としては鵜野讃
良皇后がみずから持統天皇として皇位を継承して、自分の息子だった23歳の草壁の皇子を
天皇にしなかったことでしょうね。 世間では死の背景が見え見えだったのかもしれません。
結果、天皇になることなく亡くなった草壁皇子、謀反の疑いで死を賜った大津の皇子は、ぼくに
とって有馬皇子と並んで明日香の悲劇の皇子なのです。 幽かに見える二上山の雄岳と雌岳
に、大津皇子が二上山に移葬されたとき、姉の大来皇女(おおくのひめみこ)が作ったと万葉集
にある二つの挽歌が思い出されるのです。

大津皇子の屍を葛城の二上山(ふたがみやま)に移し葬はふる時に、大来皇女(おおくのひめ
みこ)の哀傷(かなしみ)て作らす歌二首

うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む
(現世に生きている私だけれど、明日からは二上山を亡き弟だと思って眺めましょう)
磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が ありと言はなくに
(磯に咲いている馬酔木を手折ろうとしても、お見せする君がいるのですね、とは誰も言わない)
幼少時に母・大田皇女と死別、24歳で父・天武天皇を失った翌年に1歳年下の弟を謀反の罪で
失った大来皇女の寂しさがにじみでてくるような名首だと思います。 そこでクロアゲハの死に。 
   
 
一週間前、多摩川の兵庫島の近くでクロアゲハの死を見たばかりなのに、今回も死んでまもな
い様子で、路上に止まっているようにみえました。 クロアゲハのブーローチなんて女性の喪服
に似合いそうですね。 それにしても、短い間にクロアゲハの逝ったばかりの亡骸に路上で二度
もあうなんてどう結べばいいのでしょう。 山の辺の道は古墳が多いですよ。 大和がよく見える
場所に墓を造る、これも人情ですね。 1時間以上歩いたでしょうか、振り返ると今朝前を通った
天理市役所の大和の青垣を模した青銅の青い屋根が見えます。 少し先に教えてもらった無人
の売店があり、冷たい牛乳をゲット。 夏のような陽気でした。
   

前半のハイライトは柿本人麻呂がこの道を歩いているとき巻向山(弓月が嶽)から雲が湧き上
がっている様を詠んだ歌碑があったこと。
あしひきの 山川の瀬の なるなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る
(山から流れ落ちてくる川の瀬の音が高くなりひびくにつれて、弓月嶽には一面に雲が立ち渡ってゆく) 

柿本人麻呂といえば当時の桂冠詩人、さすがですねぇ。

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大津から明日香村へ

2016-05-27 17:48:01 | 日記
潤子さん、こんばんは 旅の続きです。
ナビを明日香村にあるガソリンスタンドに設定して大津を出発しました。 帰宅してから調べて
みると大津ICから京滋バイパス、近畿自動車道、西名阪自動車道を通って、南から明日香村
に入ったようです。 最初に車を停めたのは明日香村の阿部山で、この周辺は国営の歴史公
園になっていて、近くにキトラ古墳があります。 ここからの展望は倭建命(ヤマトタケル)が故
郷を懐かしんで詠った次の歌が思い出されます。
倭(やまと)は 国のまほろば 畳(たた)なづく青垣 山隠(やまごも)れる 倭し美(うるは)し
大和三山の畝傍山が右に香具山が中央に、その後は大和の国境をなす畳(たた)なづく青垣。
   
そして額田王が仕えた斉明天皇が即位した板蓋宮(いたぶきのみや)跡へ。 斉明天皇は天智
天皇と天武天皇の母でした。 母の没後、半島で唐・新羅の連合軍に敗れた中大兄皇子は唐の
来攻にそなえ都を大津に移すこと決意します。 その門出の日を井上靖は小説 「額田女王」 で
次のように書いています。

祭壇は二つあった。一つは天照大神(あまてらすおおみかみ)、倭大国魂(やまとのおおくにたま)
の二神を祀った祭壇であり、もう一つは三輪山(みわやま)の神を祀る祭壇であった。 三輪山は
都が飛鳥にある間、飛鳥の人たちの山でもあった。 都大路からは眺められなかったが、小高い
丘に登るか、郊外に出ると、一種独特の美しさを持ったその山を望むことができた。 その美しさ
にはどこか犯し難いものがあり、人々は心のどこかで美しい三輪の山の神を怖れていた。
この都を、この都に住む人々を守り給う神であった。 三輪山の神を崇め、怖れたのは民たち許り
ではなかった。 為政者も朝臣たちも同じであった。 国が安泰であるためには、三輪山の神の心
を鎮めておかなければならなかったのである。

この日朝廷では、天照大神、倭大国魂に遷都のことを奉告し、新しい都に遷る国の安泰を祈念す
ると共に、三輪山の神には飛鳥の都から離れて行くことについての許しを得、新しい都における国
の繁栄を祈念する儀式を併せて執り行おうとしていた。 この神事を行わなければ、この日、飛鳥
を発って行くことはできなかった。 やがて式場には多くの朝臣、武臣たちが集まって来て、それぞ
れ所定の場所に着いた。 誰も彼も眠り足りない筈であったが、新しい都に遷って行く日の緊張が
そこに居並ぶすべての者の顔を別のものにしていた。 神に捧げる楽の音が流れ出す頃、時折薄
陽は照ったが、すぐまた翳り、人々はこの日が曇った薄ら寒い日であることを知らねばならなかった。
都を取り巻く山々こそ曇天の下にその姿を見せているが、その奈良の山々に重なっている三輪の
山はすっぽりと雲の中に姿を匿している筈であった。

中大兄、大海人の両皇子、それに続いて鎌足を初めとする朝臣の重だった者たちが姿を現した。
楽の音は一段と高くなった。 神事は恐ろしいほど長い時間にわたって行われた。 そこに居並ん
でいる者は何回も立ち上がっては、その度に深く頭を下げ、時にはいつまでもその頭を上げるこ
とはできなかった。 神事が一応終わると、土器の盃が配られて、神酒が注がれた。 この頃から
列席の者たちの心に、しみじみとした思いが流れ始めた。 もう何刻も経たずして、この都を離れ
ていかなければならないのである。翁とでも言いたい老いた朝臣の一人は、都を棄てる悲しさを
はっきりその面に現していた。 翁は絶えず口の中でぼそぼそ呟いていた。 周囲の誰にも、この
老人が都を離れることを死ぬほど辛がっていることが判った。

その時、再び楽の音が流れ出した。 その楽の音が終わると、それを待っていたかのように、澄ん
だ高い声が代わった。 誰も、その方に顔を向けなくても、その声を発している主が誰であるか知
っていた。 額田女王(ぬかたのおおきみ)であった。
     味酒(うまさけ) 三輪の山
     あをによし 奈良の山の
     山の際(ま)に い隠るまで
     道の隅(くま) い積もるまでに
     つばらにも 見つつ行かむを
     しばしばも見放(みさ)けむ山を
     情(こころ)なく 雲の 隠(かく)さふべしや

歌は二回繰り返して詠われた。 ああ、美しく尊い三輪の山よ、毎日のようにこの都で仰ぎ親しん
で来た神います、三輪の山よ。 その三輪の山が、美しい奈良の都を取り囲んでいた山々のあたり
に隠れてしまうまで、これから新都に向かう途中の道の曲がり曲がりで、何回でも、よく見て行きま
しょう。 これほどまでに別れを惜しんでいる三輪の山を、どうして雲が隠すことがありましょう。
老朝臣は手を眼に当てたまま、そこから離さなかった。 額田の歌の心が老朝臣にはまるで自分の
いまの思いのように聞き取れたのである。 自分も亦、そのようにして、この都を離れ、新都へ向か
うであろうと思った。 併し、額田の歌の心を、己が心として受け取ったのは、この老朝臣ばかりでは
なかった。 一座はしんとした不思議な静まり方をした。 すると、再び、額田の声が響いて来た。

     三輪山を
     しかも隠すか
     雲だにも
     情(こころ)あらなも
     隠さふべしや
雲よ、なぜ三輪山をそのように隠すのであるか。 せめて雲だけにも、思いやりのこころは持って
貰いたい。 どうしてそのように隠すのであるか。

こんどの額田の歌声は前より烈しい調子で聞こえた。 都と別れる悲しい心、三輪山と別れる悲し
い心は、急にその都を覆っている雲に対して、三輪山の姿を隠している雲に対して、まるでその
雲を霽(は)らさずにおかぬといった烈しい調子に変わっていた。 人々ははっとした。 そしてそう
した烈しさが、いつか自分の気持の中にはいり込んでいるのを感じた。 確かに三輪山は雲に隠
されているに違いがなかった。―――併し、やがて、雲は霽れるに違いない。 人々はみな一様
にそのような思いを持った。 大和と別れて、新都へ向かう日は、一点の雲もなく晴れ渡った春の
日であって貰いたかった。 誰も同じ気持であった。

大和朝廷の首脳者たちが、長い隊列を作って、住み慣れた飛鳥の都を立ち出でたのは、神事が
終わって暫くしてからであった。 都大路には全く人影はなかった。 この日のこの時刻、民は自由
に出歩くことを停められてあったので、そのために人の姿はなかったのではあるが、いかにもそれ
は既に都が打ち棄てられてしまっているかのように見えた。 隊列が都を突切って行く頃から、陽が
当たり始めた。 いつか一点の雲もなく、空は晴れ渡っていた。 額田が念じていたように雲も亦、
情を持っていたのに違いなかった。 隊列は春の陽の照っている静かな飛鳥の都をたち出て行った。 
隊列に加わっている朝臣や武臣たちの心も明るくなった。 都を棄てて行く悲しさは薄らぎ、湖畔の
新しい都に向かう明るい気持がそれに代わった。

隊列は奈良坂で進行を停めた。 ここで人々は大和の都と三輪山に本当の別れをした。 もはや
三輪山のあたりに雲はなかった。 額田は隊列の後尾に配された輿に揺られていた。 興奮はまだ
額田の面を上気させていた。 大和の都を離れていく心の昂ぶりではなかった。 中大兄の心で詠
い、民の心で詠い、自分の心で詠ったと思った。 そしてそれは自分の満足できる形で詠えたという
気持であった。

   

板蓋宮跡近くに住む夫人の柴犬を撮らせてもらって、近江遷都の隊列に貴人たちの愛犬が加わって
いる情景を思い浮かべました。 それから額田王に第一皇女・十市皇女をうませた天武天皇の陵へ。
この陵には天武の正妃だった持統天皇も眠っていて、墳丘から見える香具山に彼女の歌
春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山~を思い出すのです。
額田王は史実にはありませんが、天武天皇の大葬の時この陵に詣でていると思うのですがどうでしょう。
情況証拠としては天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)と万葉集にある歌を交わしていること。

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓弦葉(ゆずるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く~ 
(昔を恋する鳥でしょうか。 弓弦葉の御井の上を鳴きながら渡り過ぎていく事よ。)
”いにしへ”とは近江の湖畔に都があった時代を指しているのでしょうか、当時潤子さんと同じ60代
だった額田王は、問いかけに次のように返しています。
古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥(ほととぎす) けだしや鳴きし 我が思へるごと
(遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。
私がこうして昔を偲んでおりますように。)

そしてもう一首、弓削皇子が吉野から苔のむした松の枝を贈って来た時、額田王が献上した歌。
み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言(みこと)を 持ちて通(かよ)はく
(吉野の美しい松の枝は、なんて慕わしく思えるのでしょう。 あなたのお言葉を持って飛鳥の都
まで通って来るとは。)
玉松が枝の 「玉」 は 「魂(たま)」 と同根で、霊力を持つものであることを示し、常緑・長寿の松
は生命を守る精霊が宿った樹と考えられたそうです。 額田王の長寿を願って、松の枝を贈った
弓削皇子へのお礼状だったのではないでしょうか。
   

夕暮れの三輪山を右に見ながら、今日の宿泊地天理へ向います。

宿は交差点を挟んで天理市役所と向い合う小さなホテル。 チェックインして夕食に出ます。
露地の赤提灯で食事を済ませてメーンストリートに出ると、7時半だというのにシャッター通
りになっていました。 次の日は駅前の駐車場に車を停めて、山辺の道をJR三輪駅まで歩く
予定なので、駅前を偵察してから宿に戻り、テレビをつけると奈良公園の鹿についての
ドキュメンタリーが放送されていて、ご覧になりましたか。 これもなにかの縁、予定になかっ
た奈良公園に寄ってみようか思ったのでした。
   

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天智天皇への挽歌

2016-05-25 17:37:22 | 日記
潤子さん、こんばんは 東京はサミットに合わせて警備がきびしくなりましたが、二子玉川周辺
はいかがでしょうか。 先週名神高速のサービースエリアでサミット期間中交通規制があるとの
告知を見かけました。 無事終わってもらいたいものです。 さて、旅の続きです。  
大津港のマリーナで海を眺めながらきつねうどんの昼食、美味しかったですよ。 外は夏日、
アイスコーヒーを注文して、歩き終わった大津京跡周辺の余韻にひたりながら、井上靖の小説
「額田女王」の終盤、天智天皇の崩御と妃たちの挽歌の部分を読み返してみました。
額田女王の足跡をたどる旅の記念にその部分を添えます。
   
    
それから何日か、悲しい事件ばかりが続いた。 陵は山科の鏡山の地に定められた。 十二日、
そこに天智天皇の霊は眠った。 大葬の執り行われた夜、妃たちは、天皇の居られなくなった
妙にがらんとした感じの王宮の一室に集まった。 何日か打ち続いた仏事や神事のために、
誰も彼も疲れ果てていたが、その疲れた妃たちを、新しい悲しみが包んでいた。 この席で天
皇の霊に捧げる挽歌の発表があった。 先きに皇后の御歌が、役人によって詠み上げられた。
    青旗(おをはた)の
    木幡(こはた)の上を
    かようふとは
    目に見れども
    ただ逢わぬかも
山科の木幡のちのあたりを、大君の霊は天がけっていらっしゃる。 そのお姿はいまありあり
とこうしている私の眼に見えるけれど、直接お逢いすることができないとは、何と悲しいことで
しょう。 この歌が詠み上げられると同時に、到るところから嗚咽する声が起こった。

次にもう一首、皇后の御歌が披露された。
    人はよし
    思い止むとも
    玉鬘(たまかづら)
    影に見えつつ
    忘らえぬるかも
ほかの方は思い休まることがありましょうとも、私の場合は、その面影が眼に浮かんでは消え、
どうしても忘れることができないのです。 これも亦、新しい悲しみで一座を満たした。 
更に続いて、もう一首、皇后の歌が詠みあげられた。
    ~
    いさなとり 近江の海を
    沖放(さ)けて 漕ぎ来る船
    辺(へ)附きて 漕ぎ来る船
    沖つ櫂(かい) いたくなはねそ
    へつ櫂     いたくなはねそ
    若草の つまの 思ふ鳥立つ
    ~
ああ、近江の海で、沖の方を漕いで来る船よ。 岸近くを漕いでくる舟よ。 沖の船は沖の船で、
岸近い船は岸近い船で、共に漕ぐ櫂でひどく水をはねないでください。 亡き夫天皇がお好き
だった鳥が飛び立ってしまいますから。

額田は深く頭を垂れたまま、皇后倭姫王の歌に籠められた悲しみの情に打たれていた。 
余人が企てて及ばぬみごとな歌であった。 大勢の妃たちの歌も次々に発表されたいった。
    ~
    うつせみし 神にたへねば
    さかり居て 朝歎く君
    はなり居て 吾が恋ふる君
    玉ならば 手にまき持ちて
    衣(きぬ)ならば ぬぐ時のなく
    吾が恋ふる 君ぞきその夜
    夢に見えつる
    ~
この歌には署名はなかった。 妃たちの一人が作った歌であることは確かであったが、その名は
秘せられていた。 この現世にいま生きている私は、神になられた大君とご一緒にいることはでき
なくなりました。 幽明境を異にして、遠く離れていて、毎朝のように私の歎き思う君、私の恋い慕
う君、玉であるならば手にまいて、衣ならば脱ぐ時もなく、常に肌身はなさずいましょうものを。
その君にゆうべ夢の中でお逢いしました。

額田は思わずあたりを見廻した。 同じような悲しみの歌であったが、額田にそのようなことをさせ
ずにおかぬものを、その歌の心は持っていた。 嫉ましいほど、天皇と作者の親しさが、巧まずして
誇りかに、美しく、悲しく詠われてあった。

    ささ浪の
    大山守は
    誰がためか
    山に標結(しめゆ)ふ
    君もあらなくに
署名は石川夫人とだけあった。 姪娘(めいのいらつめ)である。 美しい近江国、ささなみ付近の
大山守は、いったい誰のために山にしるしを立てているのでありましょうか。 天皇はお亡くなりに
なってしまったのに。 これも素朴で、素直ないい歌であった。
     
やがて、額田の歌が詠み上げられた。
    かからむと
    かねて知りせば
    大御船
    泊(は)てしとまりに
    標結(しめゆ)はましを
このようなことがあろうと、かねた知っていたのでしたら、天皇の御船の泊まった港にしめを張って、
御船をとどめたことでありましょうに。

額田は自分の歌が、役人の一人によって詠に上げられたいるのを聞いていた。歌は、これまでの
歌と同じように、二回繰り返して詠われていた。 その間、額田が眼に浮かべていたものは、刻一
刻高まって来つつある黒い潮の面であった。 ”熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は
漕ぎ出でな”とかって詠ったあの熟田津の海であった。今にして思えば、あの出征の船旅は、額田
にとっては生涯の最も仕合わせな一時期であった。 斉明女帝の崩御、半島の敗戦、容易ならぬ
事件はあのあと次々に続いて起こって来たが、あの熟田津の泊まりに於いては、まだそのような
暗い影はどこにも感じられなかった。 天智天皇もお若く、半島出兵へすべてを賭けて、毎日毎日
忙しく過ごしておられた。 その天皇のお心になり代わって、額田は出陣の歌を詠ったのであった。
大御船をあのまま、あの熟田津の港にとめておいて、しめを張り廻すらすことができたら、―――
そんな思いの中に額田ははいっていったのである。

額田は歌が詠まれ終わった時、顔を上げた。 この場合も嗚咽があちこちで起こっていた。 併し、
額田はこの歌の心が判るのは、亡き天皇だけであるという確信を持っていた。 聞く者の心に悲し
みがはいるなら、それはそれでよかった。 が、本当にこの歌の心が判るのは、亡き天皇おひとり
なのである。 こう思った時、額田は烈しい悲しみに襲われた。 殆どその場に居たたまれぬほどで
あったが、額田は必死にその悲しみに堪えていた。 死をすら棄ててしまったのである。 どうして
この悲しみぐらいに堪えられぬであろうかと思った。 額田は悲しみに取り乱した姿を、大勢の妃
たちに見せてはならなかったのである。 天皇亡きいま、このような妃たちに対する闘いは、これが
最後のものであろうと思われた。 これからは誰も知らぬ、こうした額田だけの闘いもなくなってしま
うのである。 そう思うと、またそれが新しい悲しみを誘った。

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近江路・大津京跡へ

2016-05-23 21:04:21 | 日記
潤子さん、こんばんは 真夏日でしたね。 間があきましたが旅の続きを書きます。
新羅善神堂から大津京跡をめざしてさらに北上します。 錦織(にしきこうり)と彫られた石柱
があり、次のように書かれていました。古代よりある地名で、古くはこのあたり一帯が錦部織
と呼ばれていました。 錦部織の地名は機織関係の開発に携わっていた朝鮮半島の渡来人
である錦部氏が、奈良時代以前より、当地一帯を居住地にしていたことに由来します。

近くに案内の表示板があって、建物の柱が立っていた礎石部分に丸太が置かれていました。
   

万葉集に 「額田王(ぬかたのおほきみ) の近江天皇(あふみすめらみこと) を思(しの)ひて
作れる歌一首」 と詞書がある額田王の歌碑を発見。 近江天皇とは天智天皇ことです。
君待つと わが恋ひをれば わが屋戸(やど)の すだれ動かし 秋の風吹
井上靖、白洲正子の両氏は、額田は天智天皇の方が好きだったのではとの見方をしていま
すが、ぼくもそんな感じがしました。 隣には小倉百人一首でおなじみの天智天皇の歌碑が
あります。 ~秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

その傍に~さざ波や 志賀のみやこは あれにしを むかしながらの 山ざくらかな
(さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったのに、長等山の桜だけが昔と同じように
咲いていることよ。) 天智天皇からおよそ520年後、平家の勇将薩摩守忠度が木曽義仲
との瀬田川の戦いに敗れて都へ引き上げる途中、通りかかった大津市と京都市の境界にある
長等山(ながらやま)の桜を詠んだものでしょうか。 壬申の乱の結果廃都になった志賀の
都の荒廃ぶりに平家一門の行く末をかさねているのかもしれません。
  

近江路のラストは天智天皇が祀られている近江神宮へ。 境内で懐かしい乳母車に出会い
ました。 東京では見たことがありませんが、名古屋の祖母が妹の誕生にあわせて同じよう
な乳母車を送ってくれたことをおぼえています。 近江神宮は昭和15年に皇紀2600年に
あわせて創建されました。 例大祭は大津宮に遷都された記念日の4月20日に勅使が参向
して行われるそうですから、格式が高そう。 まぁ天智天皇といえば歴代天皇の中でも別格
の感がありますね。 なのに参拝する人がいなくて閑散としていました。
    境内        外拝殿      内拝殿       回廊
   

近江神宮から琵琶湖に出て大津港のマリーナで昼食後、大津駅近くの駐車場まで歩きました。
歩数は2万歩。 車で奈良県の明日香村へ向います。
  

追伸:俊さんが彦根市のご出身だと知りちょっとびっくり。 ぼくの感覚では彦根市といえば
国宝・彦根城で、彦根藩は北近江を領有しています。 潤子さんがお住まいになっている
地域は江戸時代には瀬田村とよばれて、彦根藩領でした。
 

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