昨日は一日中かなり雨が降りました。今日も朝からどんよりとして、まだ地面は濡れていましたし、天気予報では曇のち晴れと出ていましたのに、時々小雨のぱらつく天気でした。
昨日も句会で、兼題は〝葉桜〟。初夏の季語ですが、今年は桜が早く、それもアッという間に散ってしまいましたので、葉桜になるのも早かったですね。
葉桜のひと木淋しや堂の前 炭太祇
葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵
「葉桜」について、上の二句を取り上げ長谷川櫂氏が、前句はもはや葉桜になってしまったと花を惜しむ思い、後句は葉桜のすがすがしさを愛でる思いが込められていると、歳時記に解説しています。果たしてそんな思いを詠むことが出来たでしょうか。
〈葉桜や木漏れ日揺るる宴跡〉という句がありました。確かに葉桜の頃は木漏れ日が揺れて気持ちいいですよね。篠原梵の「無数の空さわぐ」という情景と同じです。同じなんですが、「木漏れ日」という葉桜中心のありきたりな表現で満足しないで、空を中心に据えて、まるで生き物であるかのように葉桜の中で「さわぐ」と詠んだところに並大抵でない非凡さを見ることが出来ます。ひいてはそれは作者の夏へ向っての躍動感でもあるのでしょう。まあそれで有名な句なんですから、初心者の句をそれと比べてはいけませんね。
上掲の句の一番の欠点はというと、「宴跡」なんです。作者にどういう意味で言ったの?と聞きますと、「桜の頃は花見客が多かったのに、葉桜になったらその時のおもかげが無くなっていたから…」と。すると「花を惜しむ」気持ちもあるんですね。
しかし、俳句は〝今〟を詠むものです。今葉桜で、その木漏れ日が揺れているところに作者は来ている…とすれば宴のあとは当然みえないでしょうし、それを想像して詠むのならばいつでも良いと言うことになるでしょう。一瞬のうちに葉桜になるわけでもないので、過去のことを持ち出せばきりがありません。〝今〟に焦点を絞りましょう。その今を通して過去のことは連想してもらえばいいのです。例えば〈葉桜やいま木漏れ日の揺るるのみ〉とでもすれば、読む人は桜の満開の頃を想像してくれるでしょうから、それに委せるということですね。
写真は〝オオデマリ〟の花です。最初の頃の緑色を撮り損ねましたが(緑がかっているのは四日前のもの)、このように日差しを浴びてだんだんと真っ白になります。〝コデマリ〟という花もありますが、それは全く違う科の花ですよ。