ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

台風一過?いや、今日は〝子規忌〟ですよ!

2021年09月19日 | 俳句

 台風14号は昨日のうち温帯低気圧に変り、今日19日(日)は、高気圧に覆われて全国的に秋晴れの所が多いと。関東から九州では真夏日になる所もあるとか。

 しかし、昨日は東日本太平洋側で19日(日)午前中にかけて大雨となる所があるなどと報道していましたし、7月初めに起った熱海の土石流災害がまだ目に生々しく残っていましたので、何もなければと祈っていました。しかし、今朝のニュースでは土砂災害や河川の氾濫など、災害のニュースが流れていませんでしたので、ホッ!です。

 宇部市では一昨日午後4時半ごろに21.1メートルの最大瞬間風速を観測したらしいのですが、家の中に籠りっきりで…私は気づかず。夜も早めに寝て、昨日朝外を見ると植木鉢がいくつか転がり、柿の枝が折れてあちらこちらに散乱している程度。まあ、山口県も被害ニュースがありませんでしたので、今回の14号は無事に終ったと、よかったです。

 昨日は第3土曜日ですので、本当なら〝きらら俳句教室〟と午後から宇部馬酔木句会があった日。一昨日のK教室も中止になっていますし、9月25日(土)防府で開催の俳人協会県支部俳句大会も、昨年に続き中止になりました。27日(月)・28日(火)も俳句教室なんですが、閉鎖は26日(日)までですので大丈夫だろうと…が、どうでしょうか。

 本当にもうそろそろコロナから解放されたい!そう思うのは私だけ?いや、これは間違いなく全国民の願いですよ。でも専門家はまだ安心は出来ないと。

 さて、今日9月19日は言わずと知れた「子規忌」。正岡子規が明治35年、36歳で亡くなった日です。他に「糸瓜(へちま)忌」「獺祭(だっさい)忌」とも。

  老いて尚君を宗とす子規忌かな  高浜虚子

  叱られし思ひ出もある子規忌かな   〃

 子規は、慶応3年(1867)愛媛県松山市に生まれました。虚子も、明治7年(1874)松山に生まれて、7歳違い。虚子と子規の繋がりは、明治21年(1888)、伊予尋常中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に入学して、1歳上の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と同級になり、彼を介して正岡子規を知り、兄事して俳句を教わります。「虚子」という俳号も本名の「清(きよし)」から、明治24年(1891)に子規が授けたもの。

 子規や虚子と碧梧桐のことなどはいろいろ言われていますし、今日のブログにもいろんな人が書いておられますので、私は書くのを控えましょう。

 しかし、子規の後継者になることを一旦は断った虚子が、その遺志を受け継いで、子規の「客観写生」という俳句理念を守り、「ホトトギス」を継承してきて、今日に至っているということは、考えてみれば子規に先見の明があったということになるでしょうか。

 もしこれが碧梧桐の方だったら、今日の俳句の様相も違っていたかも知れませんものね。でも、どんなに変化していったとしても、行き着くところは同じだったかも。それが時代の〝流れ〟なのかと思います。

  句修業の三十路に入りぬ獺祭忌  

 『秋櫻子俳句365日』(梅里書房刊)に掲載の、9月19日の秋櫻子の一句です。

 獺祭忌は、糸瓜忌とも言われる正岡子規の忌日。子規は、慶応三年九月十七日松山で生まれた。明治十八年頃から句作。二十五年に日本新聞社に「獺祭書屋俳話」を連載し、これが明治俳句革新の始まりになった。同三十五年宿痾の肺患で死去するまで、明治の俳句和歌に近代精神を確立するなど多大な業績を残す。獺祭の意味は、カワウソが捕獲した魚を食べる前に並べておくこと。転じて、多くの参考書をひろげ散らかすことである。自らの喀血から、子規と名乗った人の別号に相応しい機知に富んだ名前である。

 秋櫻子がこの句を詠んだのは三十六歳。二十七歳で「木の芽会」に入会して句作を始め、三十歳で富安風生、山口青邨、山口誓子と共に「東大俳句会」を復興。三十二歳の十二月「ホトトギス」雑詠欄で巻頭を占める。夢中で俳句にのめり込んだ三十路である。(昭和3年作・句集『葛飾』所収)

 ちなみに、初心者がよく間違って作句するのに、この「……路」という言い方があります。これは「……歳」ということで、「七十路に入った」というのは〝七十歳になった〟という意味。「七十代」の意味ではありませんので気をつけて使いましょう。

 秋櫻子は、この句を詠んだ自分と同じ年ごろに、子規が志半ばで亡くならねばならなかったという無念さを感じとり、今やっと俳句の修行の坂を上り始めてきたばかりの自分を振り返って…しっかりと虚子についていって学ばねばと、気持を新たにしたのではと…私は思います。

 だというのに、この句を詠んでから3年後の昭和6年(1931)、秋櫻子は「馬酔木」10月号に「『自然の真』と『文藝上の真』」を掲載して、虚子の「ホトトギス」から離脱します。このことについてはいろいろあり、書くと長くなりますのでまたの機会にでも…

 だから、何がどう動いてどう進んでいくか、その渦中にいるときには分からないことでも、いまこうやって〝俳句の流れ〟を時間をおいて歴史的に眺めてみれば、見えてくることも多々ありますよね。しかし、こういうことには正解だというものはないでしょうし、まして勝ち負けの問題でもないと思うのです。私にはよく分かりませんが、でも未だに…という所はあるようで、人の繋がりというのは本当にムズカシイ!

 写真は、「台風一過」の空。今日は最高気温28度、ちょっと蒸し暑いかな…。

 

コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする