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人の世が続く限り、裏切り金吾の名は永遠に語り継がれていく

2018年06月22日 | ドラマ
毛利家は、系譜上は鎌倉幕府の大江広元を祖としています。系譜というは実に怪しいものですから、本当のところは私なぞには分かりません。

考えてみれば、これほど日本史に影響を及ぼした藩はありません。

中国地方の毛利家は、最初は小大名、というか豪族でした。毛利元就の時、版図を一挙にひろげ、中国地方全体を領有します。「大毛利」と呼ばれました。

毛利元就の時、周りの国人勢力を次々に「乗っ取り」ます。代表例が吉川、そして小早川です。

関ケ原において、吉川は徳川と密約をし、全く動きません。吉川が動かないので、後方の毛利家本体も動けませんでした。

ここは、ちょっと気になります。吉川が動かなくても、毛利家本体が動けないってことはないのではないか。追い越していけばいい。

合戦素人の私にはそんな疑問が湧きます。とにかく毛利本体、大将毛利秀元は動きませんでした。宰相殿の空弁当なんて言葉も、ここから生まれます。

毛利家はややこしい藩で、この時の当主は毛利輝元です。が大阪城におり、関ケ原にいません。代わりの大将は毛利秀元です。でもこの人、この後長州の「当主」にはなりません。

で、最後の最後に、秀吉の親戚筋で小早川の養子となり、当時は当主だった、小早川秀秋が裏切り、関ケ原は家康の勝利、、、ということは誰でも知っていることでしょう。

この小早川秀秋は当時、金吾中納言と言われていました。「金吾」とは、官職の唐名です。

金吾中納言が裏切ったので、東軍が勝った。このことにあまり異論を唱える人はいないようです。裏切り催促のため、家康が鉄砲で脅したのか、大砲で脅したのか、は時々話題になります。

まあ、東軍が負けたとして、徳川が滅亡したかは、わかりません。徳川には後詰がありました。秀忠です。「秀忠は関ケ原わざと遅れた」という説は、負けた場合を想定したばあい、少しばかりの真実味を帯びてきます。

金吾中納言、その後若死にします。ドラマでは精神がおかしくなって、石田三成の怨霊を見るようになって、乱行を繰り返し、とまあ、こんな感じで描かれることが多いようです。

処刑される直前の三成を「見に行くシーン」も有名です。

ドラマで三成はこう叫びます。「人の世が続く限り、裏切り金吾の名は永遠に語り継がれていく。わしは、死んで鬼となっても、汝を殺さずにはおかん」と。

裏切り金吾の名は永遠に語りつがれたか、それは分かりませんが、小早川秀秋の裏切りは、ちょっと歴史が好きな人間なら知らない人はいません。

さて、徳川と密約を交わした吉川。予定ははずれ、毛利本家は取り潰される寸前までいきます。吉川は己の功績をもって毛利本家を助けてほしいと頼み、実際そうなります。

ところが、毛利本家には「吉川が余計なことをしなければ、毛利が天下を握っていた」という恨みが残ることになります。じゃあ本体が動けばいいのに、という風に私なぞは思います。

毛利はいうまでもなく「長州藩」となります。で、260年後に徳川を倒します。日本史にこれほど影響を与えた藩は、ほかにないでしょう。島津,薩摩藩は、関ケ原では勝敗を左右したわけではありません。長州藩は幕府成立に手を貸しただけでなく、倒幕でも主体となって戦いました。


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