
写真上左はアイゼンハワーとダレス。 下右は副大統領ニクソンと。
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アイゼンハワーの大統領時代 私は10歳未満でしたから、彼を論評する立場にはありません。 多くの歴史書からの印象を述べるだけです。 殆どの人もそうじゃないでしょうか。
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Wikipedia から ... アイゼンハワー Dwight David Eisenhower は、1945年ドイツ降伏後 陸軍参謀総長、48年にコロンビア大学の学長、50年に北大西洋条約機構 (NATO) 軍の最高司令官になり、政界に入るに当たって52年陸軍を退役した。 大統領時代 (53~60年) は、ソ連を筆頭とする東側諸国との冷戦によって支配され、国務長官ダレスが共産主義との戦いを指揮した。
アイゼンハワーは行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束、停戦は53年に実行された。 56年のスエズ危機で、エジプトから英仏の手を引かせるのに米国の経済支配力を使用した。 57年にレバノンへ軍隊を送り、パーレヴィによるイランでのクーデターを支援、中東問題に没頭するようになった。
アイゼンハワー時代、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、53年のスターリンの死後、後継者フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。 フルシチョフは、事あるごとにダレスの助言がないと返答出来無い、と彼を見透かしたという。
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… と、彼の大統領時代、外交を仕切っていたのはダレスだったことは周知の事実ですね。 第二次大戦の英雄として国内で大きな人気を誇っていましたが、大統領としての評価は高くないようですね。
「戦争に勝利する」という大目標に向かうための管理/統率能力は抜群だったかもしれませんが、政治外交は海路図のない航海のようなもので、出たとこ勝負ともいえ、刻々と変わる その時その時の状況に応じて最適解を繰り出すことを求められる大統領職にはどうだったのでしょうか?
また ニクソンが大統領選で敗れたのは、アイゼンハワーの下記のヒトコトだけではないと想像します。 他にも多くの理由があり、トータルでニクソンがケネディに見劣りしたために勝てなかったように認識しています。
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彼は、多くの実業家を閣僚に任命し 国を統治させることにより外交問題に専念することができたが、マッカーシー議員による反共産主義キャンペーンに対する公的な態度をとらなかったことで非難された。
ヒトラーがドイツに導入したアウトバーン・システムを戦争中に知り その効率性に感動、56年 アメリカ国内41,000マイルの幹線道路網を提供するアメリカ史で最大の公共工事を承認した。 もう一つの成功は、在職中の世帯所得の 20% の増加だった。
アイゼンハワーが、副大統領ニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき、「一週間ください そうすれば、考えてもよい。Give me a week and I might think of one」と答えた事でニクソンが決定的に傷き、大統領選ではケネディが勝った。
日本との関係では、60年の「ハガチー事件」がある__日米安保条約が国会で強行採決された後、羽田空港でアイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領秘書官ハガチーが空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生、訪日は取りやめとなった。
何人かの歴史家は、アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだったと判断する (Wikipedia)。
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以上
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アイゼンハワーの大統領時代 私は10歳未満でしたから、彼を論評する立場にはありません。 多くの歴史書からの印象を述べるだけです。 殆どの人もそうじゃないでしょうか。
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Wikipedia から ... アイゼンハワー Dwight David Eisenhower は、1945年ドイツ降伏後 陸軍参謀総長、48年にコロンビア大学の学長、50年に北大西洋条約機構 (NATO) 軍の最高司令官になり、政界に入るに当たって52年陸軍を退役した。 大統領時代 (53~60年) は、ソ連を筆頭とする東側諸国との冷戦によって支配され、国務長官ダレスが共産主義との戦いを指揮した。
アイゼンハワーは行き詰まった朝鮮戦争を終了すると約束、停戦は53年に実行された。 56年のスエズ危機で、エジプトから英仏の手を引かせるのに米国の経済支配力を使用した。 57年にレバノンへ軍隊を送り、パーレヴィによるイランでのクーデターを支援、中東問題に没頭するようになった。
アイゼンハワー時代、アメリカは初の世界的核戦力を保持したが、53年のスターリンの死後、後継者フルシチョフと核兵器競争の停止の合意に達する可能性を望んだ。 フルシチョフは、事あるごとにダレスの助言がないと返答出来無い、と彼を見透かしたという。
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… と、彼の大統領時代、外交を仕切っていたのはダレスだったことは周知の事実ですね。 第二次大戦の英雄として国内で大きな人気を誇っていましたが、大統領としての評価は高くないようですね。
「戦争に勝利する」という大目標に向かうための管理/統率能力は抜群だったかもしれませんが、政治外交は海路図のない航海のようなもので、出たとこ勝負ともいえ、刻々と変わる その時その時の状況に応じて最適解を繰り出すことを求められる大統領職にはどうだったのでしょうか?
また ニクソンが大統領選で敗れたのは、アイゼンハワーの下記のヒトコトだけではないと想像します。 他にも多くの理由があり、トータルでニクソンがケネディに見劣りしたために勝てなかったように認識しています。
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彼は、多くの実業家を閣僚に任命し 国を統治させることにより外交問題に専念することができたが、マッカーシー議員による反共産主義キャンペーンに対する公的な態度をとらなかったことで非難された。
ヒトラーがドイツに導入したアウトバーン・システムを戦争中に知り その効率性に感動、56年 アメリカ国内41,000マイルの幹線道路網を提供するアメリカ史で最大の公共工事を承認した。 もう一つの成功は、在職中の世帯所得の 20% の増加だった。
アイゼンハワーが、副大統領ニクソンを後継者としてどう考えるか聞かれたとき、「一週間ください そうすれば、考えてもよい。Give me a week and I might think of one」と答えた事でニクソンが決定的に傷き、大統領選ではケネディが勝った。
日本との関係では、60年の「ハガチー事件」がある__日米安保条約が国会で強行採決された後、羽田空港でアイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日した大統領秘書官ハガチーが空港周辺に詰め掛けたデモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生、訪日は取りやめとなった。
何人かの歴史家は、アイゼンハワーの最も大きな業績は大戦中の軍司令官時代のものだったと判断する (Wikipedia)。
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以上