素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 宿場町:由比 🐾

2023年02月25日 | 日本の歴史

歌川広重が東海道五十三次で描いた浮世絵の『由比』は「薩埵(さった)峠」からではないかと云われ、そこからの富士を眺め、由比宿を見学しながら由比駅に戻りました。

昔は「由井」という字が使われていた この由比の町は東海道の 53宿中、16番目の宿場町で当時はおよそ 700人程の人が住んでいたといわれています。

歌川広重 完全復刻愛蔵版『東海道五拾三次』55図揃和紙大判錦絵 ...

薩埵峠から下って来たら、由比宿に入る案内板が出ていました。

蒲原宿(十五番)       由比宿(十六番)       興津宿(十七番)

広重東海道五十三次の蒲原宿の浮世絵広重東海道五十三次の興津宿の浮世絵

十五番目の蒲原(かんばら)宿は、現在の静岡県静岡市に置かれた宿場で、浮世絵は雪景色 しんしんと静まり返った夜の様子を描いたのだそうです。                                  十六番目の由比宿は、山と海が迫り東海道の難所の一つといわれ、難所ではありましたが富士の見える美しい風景で有名な宿場でありました。                                 十七番目の興津(おきつ)宿は、由比町とは打って変わり平坦な道が続き、川を渡る力士の旅が描かれているとのことです。                                             力士ということで、身体が馬からはみ出していたりとユーモラスな一枚となっています。

午後になると雲 が出て来るので、必死に歩いたつもりなのですが浜石岳で見た時よりも、雲が煙の様に流れていました。

                            

主な目的のコースは歩いたので、薩埵峠を下ってからは観光客気分でノンビリ。

坂を下って由比宿の町並みが見えて来た。 13時 20分。

下り切った左手には「一里塚跡」の石碑。 ここは日本橋から 40番目の西倉沢一里塚跡。

坂を下り一里塚跡の道の反対側には、間(あい)の宿「藤屋」という当時の茶屋がありました。  薩埵峠の東側登り口に位置していることから、一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶屋を営み磯料理、アワビ、さざえのつぼ焼きを名物としていたとのことです。         また、店内の部屋からは富士山の眺望が良いので「望嶽亭」とも呼ばれ文人墨客が好んで休憩をされたようです。

明治天皇御小休所「柏屋」                                          江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいたそうです。                   明治元年(1868)及び 11年(1878)、明治天皇ご行幸のみぎりは、御小休所に当てられた茶屋であったとのことです。

由比宿の町並み  

(あい)の宿 川島家                                                   西倉沢は薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって旅人は ここで茶を飲み、疲れを癒し駿河湾の風景を賞して旅立って行かれたとのことです。            ここ川島家は、江戸時代 慶長から天保年間およそ 230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の中心をなし、大名も ここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村 名主も務めた旧家であったそうです。(右手の平屋の建物です。)

住民の方が生活されており、長野県の妻籠宿奈良井宿の様に宿場全体が当時のままの町並みではありませんが、史跡名勝が沢山見られました。

由井宿場町の途中から見えた富士山、東名高速道路、国道バイパス、東海道本線。      東海道の「親知らず」、海に山が迫った狭い場所に日本の大動脈がひしめき合っています。

小池邸                                                   小池家は江戸時代、代々 小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を代々務めてまいりました。   名主は年貢の取立て・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でも、最も重要な役割を担っていたとのことです。

この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成 10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されたそうです。

東海道の賑わいと共に発展した由比町は、空襲に遭わなかったこともあり、東海道の宿場町の中でも比較的 江戸の面影を今に伝える建物が多く残っています。

                                                    桜エビ、しらす漁の他、温暖な気候を生かした夏ミカンやオレンジなどの柑橘類やビワの栽培が盛んに行われています。

計画通り、由比駅~浜石岳~薩埵峠~由比宿~由比駅の周回コースを完歩し、13時55分、由比駅に無事到着しました。

 

 

         ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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▲ 浜石岳から薩埵峠へ ▲

2023年02月23日 | 私の見た山・登った山

浜石岳 は標高が 707mと低い山ですが、駿河湾 に面しており富士山を含め眺望が広大で、設置されたテーブルベンチで休憩しながら、天下を取った様な爽快な気分が味わえます。

薩埵(さった)峠から見た富士山を撮るのも今回の目的でありましたが、展望台へ行く道が崩壊のため通行止めということで、「親知らず・子知らず」と言われる東海道の難所から眺める絶景の写真は撮れませんでした。

浜石岳山頂では 25分もノンビリと最高の気分を味わい、10時半 薩埵峠に向けて出発。

薩埵峠へは尾根伝いの稜線を南下、最初のうちは木の根の露出した急斜面を下り、登りの時に通過した野外センターと薩埵峠への分岐を10時 40分通過。

この稜線沿いはスギやヒノキが植林された中の道を、アップダウンしながら進むので、全般的に薄暗い登山道を歩く。 写真では明るいですが、実際は もっと薄暗いのです。

下記写真の登山道まではアルミ製の一本のレールに沿った道であり、その周りに道標が設置されているので見落とさないように注意した。

ここで一本のレールと分かれた。

11時 25分、立花池と薩埵峠への分岐を通過。

立花池は稜線から少し下った林の中に有る、周囲 150mほどの池だそうです。鯉が釣れるらしい           薩埵峠からの富士山を撮りたく、雲が掛かると不味いので、先を急いだ。

12時 15分、太い孟宗竹の林を抜ける。

手入れがされていない様で枯れて倒れていたり、竹の皮が根元に付いたままの太い孟宗竹にビックリ。 見上げると竹の葉と青空のコントラストが綺麗だった。

竹林を抜けたら、薩埵峠への林道に出た。12時 25分、通過。 横断して階段を下る。

階段を下りて舗装道を更に南下すると、薩埵峠駐車場が見えた。

浜石岳から歩いて2時間 10分。  今回の見学予定地『薩埵峠』に 12時 40分到着。       流石ミカンの産地であり、ミカンの無人販売店やトイレがあった。

歌川広重(安藤広重)の描いた『東海道五十三次』

浮世絵に描かれた江戸時代の東海道沿いにある、情緒ある美しい風景の数々は 170年以上たった今日大きく様相を変え、今やそのほとんどが往時の面影を残していません。

ですが、その中で広重が描いた構図に近い風景が残っているといわれている数少ない場所が、かつての東海道「由比宿」と「興津(おきつ)宿」の間に位置する『薩埵峠』であります。

薩埵峠

※ 現在は薩埵峠駐車場までは入れますが、展望台へは道が崩壊のため通行止めとなっています。(2023年2月20日 現在)

描かれた当時と比べると、東海道線、国道バイパス、東名高速道路という交通・物流の大動脈が走り、大きく様変わりしたことに相違ありませんが、それでも広重が見たであろう光景が目の前に広がっているのです。

「親知らず・子知らず」の難所から眺める絶景                           由比宿から興津宿の間は大井川などと並び東海道の難所と言われたところで、波間を縫いながら岩伝いに浅瀬や岩の合間を通る「下道」を通らなければならず、「親知らず・子知らずの難所」とも呼ばれた、まさに旅人泣かせの場所であったとのことです。

その後、薩埵峠を越える「中道」が切り開かれたようですが、数キロに渡って険しい山道が続く難所に変わりはなかった。

しかし、険しい峠を越えた旅人には(晴れていれば)旅の疲れを吹き飛ばしてくれるような素晴らしい景色が待っていました。

眼下に広がる海と地平線に見える山並み、そしてその向こうに雄々しく美麗な姿を見せる不二の山 「富士山」とで織りなされる「絶景」であります。

由比

広重も、さぞや感激したことと思います。                        「ヒロシゲブルー」の美しい 海と優雅に浮かぶ帆掛け 舟、そして画面中央よりも、やや左側に聳える富士山。

絶景を目にした広重の興奮が伝わってくるような一枚です。

『由井(由比)』東海道五十三次の中でも心に響く印象的な風景であります。

 

※ 次は薩埵峠から東海道線「由比駅」まで約4Kmノンビリ由比宿を見学しながら戻ります。

 

    ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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▲ 由比駅から浜石岳へ ▲

2023年02月21日 | 私の見た山・登った山

山頂からの展望が素晴らしい『浜石岳』行って来ました。

浜石岳 は静岡県静岡市清水区の北東部に位置する標高 707mの山であります。

東海道本線の由比駅を7時 50分出発。

由比駅を出て右の北東方向に戻る感じで由比桜えび通りを進んで行く。

この通りの山側にある旧国道1号線に出るための狭い階段が住宅街の間に幾つも有り、その階段を上がり旧国道に出て、更に北東に進む。

各所に「浜石岳へ」の案内板が設置されており、見落とさなければ順調に歩けます。       町のシンボルの様で「ようこそ浜石岳の里、西山寺へ」と橋の両側に綺麗に描かれていました。

北側に聳える山に向かって徐々に斜度を上げていく。                   この上には静岡市の体験宿泊施設「浜石野外センター」が有るので舗装された車道を登る。

やがて人家がなくなり、ミカン畑の中を登って行く。 分岐を8時 20分通過。

右に富士、そして時折立ち止まって振り返れば駿河湾が輝いて、その向こうに伊豆の連山が一幅の絵をなす様な景観は圧巻であります。

30分歩いたら「ちょっと、一休み」と書かれた案内板があり、見晴らしも良くテーブルベンチが有ったので、防寒着を脱いだ。

ミカン畑の中の九十九折りの舗装道を登っていると、時々富士山が顔を出してくれる。

9時丁度、浜石岳一帯の案内地図と公衆 トイレのある所を通過。

カーブを一曲りしたら、左手の林の中に延びる登山道があり、標示板には「三本松経由、浜石岳へ」とあり、舗装道は飽きたので登山道に進む。 9時 10分。

20分、急な登山道を登り 9時半、浜石野外センター上部の三本松に出た。

三本松付近は広場となっており、子供たちのアスレチック遊具やキャンプ用の炊事施設、展望台などが設置されていた。

この広場は青少年浜石野外センターといい、小・中学生がハイキングやキャンプで飯盒炊さんなどを行う施設になっています。                                5分ほど広場を歩き回り、後30分程という目的の『浜石岳』に向かう。

山頂までは植林された杉林の中の、木の根が張り出した急斜面を登る。

10時 05分、浜石岳(標高 707m)山頂に到着。

南東方向に富士市街や駿河湾の沼津港、伊豆半島を望む。

南側には駿河湾の清水港や三保の松原、日本平を望む。

北側には遠く南アルプス、中央の白い頂は日本第二の高峰「北岳」であります。

好天の中であり、360度の素晴らしい景色を楽しむことができました。

天気良く乾燥している日に遠くの景色が霞んで見えるのは、花粉の影響かも知れません。

 

 

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▲ 高松山でノンビリ ▲

2023年02月13日 | 私の見た山・登った山

昔懐かしい『はなじょろ道西コース』に別れを告げ、シダンゴ分岐から高松山へ。

この辺りのハイキングコースは、昔から花女郎路といわれ山北、ビリ堂、高松山、ヒネゴの頭、遠近沢と割沢の尾根筋を通り八丁集落に通じる路となっていたようです。

シダンゴ分岐辺りで、ほぼ登り切った様で後は軽いアップダウンの道であった。

地図には見当たらなかったが、太尾山と標示された所を通過。

鹿よけ の柵に沿って下る。

下り切った所がビリ堂分岐、通過 11時 10分。  高松山から山北駅へは左へ下る。

ビリ堂分岐に高松山まで、あと5分と表示があり、山頂に向かう。

11時 15分、高松山(標高 801m)山頂に到着。  

到着してからの富士は山頂が少し見えるだけで、その後見えなくなってしまった。

朝方とは違い、風も無くポカポカと暖かくノンビリ休憩できた。   

春には、エイザンスミレ、ミツバ                                  夏は、テンナンショウ、オオバギボウシ                            秋は、フシグロセンノウ、モミジガサ、ツリガネニンジン                      冬は、カンアオイなどの野草が咲き乱れる花の山である。

沢山の花の見られる山であり、田中澄江著の「花の百名山」にも紹介されています。

相模湾が見える南側が開け、展望最高でしたが霞がかっていたのが残念だった。          足柄平野を流れる酒匂川。

左手が小田原市街 、右手に遠く真鶴半島と薄っすら大島や初島が見えた。

35分の休憩を済ませ、山北駅 に向い下山開始。11時 50分。                    ビリ堂分岐から少し下った辺りの道は荒れて幾重にも分かれているが、そこを過ぎれば整備された歩き易い道である。

ビリ堂着、12時 15分。                                 ビリ堂とは、一番ビリ 最後にある観音堂のためビリ堂と呼ばれているとのことです。

『朝日はや ビリ堂山の 観世音 庭の千草も 花となるらん』                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

山伏修験者が、ここの風景を詠ったといわれています。

ビリ堂を過ぎてからは、道もなだらかな下りとなる。                              

369号鉄塔を 12時 35分に通過し、新東名の工事現場上部に 12時 50分に着いた。

4年も遅れて2027年の完成を目指して、急ピッチで新東名高速道路の工事が進められていた。                                            工事現場には登山者専用の通路としてアルミ階段が用意されアップダウンを繰り返し、南斜面のミカン畑へと抜ける。

ミカン畑の農道脇には白梅が花開き、香気が漂っていた。

車道の登山口に無事下山。13時 10分。

この辺りも高速道路の工事が完成すれば、大分景色が変わりそうである。

東名高速道路の高架橋下にある公衆トイレを通過、13時 20分。

この日の午後は春の様な陽気となり、歩いていると暑かった。                           御殿場線の山北駅通過、13時 45分。

駅から観光客用駐車場は直ぐで、駐車場着 13時 50分。 周回コースを無事踏破しました。

 

     

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▲ はなじょろ道西コースより高松山へ ▲

2023年02月11日 | 私の見た山・登った山

昔、花嫁が牛や馬の背に家財道具を載せ、隣町へ嫁いでゆく時に使ったといわれる『はなじょろ道』と呼ばれる古道を歩いて来ました。

平成21年(2009)「虫沢古道を守る会」が往時と先人の労苦を偲んで山北町共和の八丁地域から松田町寄(やどりき)の虫沢地域ヒネゴ沢(ヒネゴ橋)に至る総延長約5Kmの道を間伐材等を利用して整備されました。

 

 

山北町観光用駐車場を 7時 05分、 出発。

「はなじょろ道」入口の八丁地域まで御殿場線の山北駅から皆瀬川沿いに走る県道 725号を7Km北上する。山間部の県道であり冷え込みが厳しかった。

東名高速の高架橋下 や新東名高速の工事現場の下を抜け、川沿いにうねる道を進む。

道路沿いの茶畑「足柄茶」は凍えていた。

人遠(ひとと)橋通過、8時 15分。

道路脇の景色、全てが凍っていた。

道路に沿って流れる皆瀬川の一支流の河岸に露出する、丹沢層群の地層中にサンゴ石灰岩が見られ、その石灰岩は約 1500万年前の火山島周辺に発達したサンゴ礁で堆積したものだそうです。

これは丹沢山塊がフィリピン海プレートに乗って遥々、南の海から来て日本列島に付加したことを明示する生物化石が詰まっていて、伊豆~小笠原弧の移動方向を示しています。

この様に丹沢山塊は南の海で成長し、日本列島に合体して現在に至っています。

                            

県道 725号の一番奥にある八丁集落に8時 45分到着。

辺りは、まだまだ冷え込みアスファルト道が滑る。

ようこそ『はなじょろ道』へという看板を見つけ前進。                         右手の道を進み、私有地表示された手前から皆瀬川を左岸に渡る。

予定通りの地点に到着したが、はなじょろ道西コースの取付き点がハッキリせず 、庭で焚火をする住民の方に伺ったが、余りご存じではなく大体の方角を教えて頂いた。

左岸に渡った所に標示板らしきものを発見、だが朽ちていた。                        目指す山の方向は判っていたので、立ち木に付けられた赤のテープを発見し、点々と付けられたテープを追い沢を遡上した。9時 12分通過。

途中より、どこを探しても目印のテープは発見できず消えた。                    地図で確認したら、はなじょろ道西コースは沢沿いでなく尾根に記されていたので、GPS で現在地を確認、今立つ北側の尾根上に西コースがあることを知った。

距離的には、そう遠くはなく急傾斜を避け、落ち葉で見えにくい足元を確認しながら北斜面に取り付いた。崩れ易い 砂の斜面で、不用意につかむ木は朽ちているものが多かった。

悪戦苦闘が続き 、凄く長い時間を感じたが、下の沢から尾根道に出るまで 25分で上がって来た。尾根上にでる。9時 37分。

ホッと 切り株に腰掛け休憩、汗をかいたので防寒着を脱いだ。

予想外に時間のロスをしたが、尾根に出てからは快調ではなく、今迄の疲れが出た。     でも登り以外は頑張って歩き続けた。

9時 47分、登る右手に富士山が顔を出してくれた。

登山道脇ではミツマタが芽吹き迎えてくれた。

景色は良くなってきたが、登りがきつかった。                             こんな道を本当に牛馬が家財道具を載せて通って行ったんだろうかと不思議に思った。

10時 15分、富士見台に到着。 雪化粧の富士が望めた。

 

富士を見てホッとはしたものの、その後の登りの道は不明瞭だし厳しさを増した。

登山道の途中ではヒノキ科の常用高木でヒノキに酷似した幹高約 30mという椹(さわら)の大木が見られた。10時 50分。    中央の木です。                                                葉の裏面の白斑が X字形で、ヒノキの Y字形と区別がで、花は4月に開き雌雄同株。      材は耐水性に富み香気が少なく、桶・障子・襖などの組子の材となるようです。

椹の大木を過ぎたらヒネゴ沢乗越に着いた。 11時。                           ここで、はなじょろ道西コースの全 5Km 中、3Kmを踏破した。

今回は西コースの全行程を踏破せず、山北町へ下るため高松山に向かった。

       

      

 

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