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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

幕末の海外留学(慶應2年以前)

2023-11-23 06:15:54 | 日記

幕末に我が国から海外に派遣された留学生は、1862年(文久2年)3月に幕府が蒸気船開陽丸を発注した際に、榎本武揚、西周らの15名をオランダに派遣したのが始まりです。

幕府が幕臣以外の留学希望者の出国を解禁したのは4年後の1866年5月で、この間に幕府に隠れて密航して海外留学をした留学生も能力や意欲が抜群で、我が国に特別の貢献をもたらしました。

1862年6月18日幕府がオランダに派遣した最初の留学生は、軍艦操練所から榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、田口俊平、蕃書調所から津田真道、西周、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海で、鋳物師や船大工等の職方7名が加わりました。

品川から咸臨丸で出発しましたが4名が麻疹に罹り、下田で療養して8月23日長崎着、9月11日オランダ船でバタビアへ向かいます。ジャワ島沖の暴風で船が座礁して無人島に漂着、救出されてバタビアで客船に乗り換え、1863年(文久3年)4月18日オランダのロッテルダムに到着しました。

1865年オランダで撮影した幕府留学生

後列左から伊東玄伯、林研海、榎本武揚、(布施鉉吉郎)、津田真道

前列左から沢太郎左衛門、(肥田浜五郎)、赤松則良、西周

内田正雄と田口俊平は欠席、( )は留学生でない

翌1863年長州藩が幕府に知られぬよう、井上馨ら5名を英国へ密航させます。1864年には幕府操練所で洋学を学んだ江戸在中の安中藩士新島襄が、まったくの個人で米国へ密航しました。

1865年幕臣6名がロシアへ留学し、薩摩藩から英国へ森有礼ら15名が密航、佐賀藩士3名も英国へ密航します。

1866年幕府から英国へ中村正直ら14名が留学、薩摩藩から米国へ仁礼景範ら8名が密航、横井左平太、横井大平兄弟が個人で米国へ密航しました。

1866年5月幕府は希望者の海外留学を解禁します。

1867年福井藩の日下部太郎が幕府発行の海外旅行免許で米国へ留学しましたが、病を得て3年後に留学先で亡くなります。日下部は八木郡衛門の長男に生まれ、13歳で入学資格が15歳以上の福井藩校明道館に入学、21歳で長崎へ遊学した俊英で、グイド・フルベッキが教える済美館で横井小楠の甥の横井左平太(伊勢佐太郎)、横井太平(沼川三郎)兄弟と英語習得に励みました。22歳の時に藩主の松平春嶽から日下部の名を拝領します。

日下部はニュージャージー州ニューブランズウィックに到着、1年前に密航していた伊勢佐太郎と沼川三郎の変名を名乗る横井兄弟に迎えられます。ラトガース大学付属中学校で英語と基礎教育を受け、ここの教師でラトガース大学生でもあった2歳年上のウィリアム・グリフィスと出会いました。

23歳でラトガース大学に入学、常にクラスの首席で通し、3年間に読破した本は優に200冊を超え、これらの本は日下部の遺品として故郷に送られました。

藩からの仕送りだけの乏しい生活と過度の勉学で結核を患い、卒業2か月前に24歳で夭逝したのです。ラトガース大学は抜きんでた秀才の死を悼み、大学の傍のウィロー・グローブ・セメタリーに埋葬して墓碑を建立し「大日本越前日下部太郎墓」と日本語表記しました。

大学はさらに全米大学の優秀な卒業生で組織するファイ・ベータ・カッパ協会の会員に日下部を推薦し、その証の金の鍵が、教師として福井藩に招聘されたグリフィスによって父の手に渡されました。当地で病を得た日本人留学生は多く、横井兄弟も帰国後に結核で亡くなっています。

日下部太郎

我が国では海外留学以前に外国人教師を招いていて、ペリーの初来航から2年後の1855年幕府は長崎に海軍伝習所を設け、オランダ海軍士官を教官としました。海軍伝習所で仕込まれた榎本武揚たちは、幕府がオランダに軍艦を発注したのをきっかけに留学が認められたのです。

幕末の留学生には日本には海軍がない、国際社会のことを何も知らない、自ら海外に赴いて知識や技術を修得して外敵から祖国を守りたいと云う、共通の抱負がありました。

オランダで榎本たちを世話したのは、日本に滞在して教えた経験のあるオランダ人とその紹介による人々で、留学の目的は攘夷のためでしたが、実際は国際親善そのものでした。

この時武士に同行した7人の職方が、オランダで造船や機械工学を学んでいます。輸入するだけでなく、自分たちで動かし、さらには自分たちでそれを造る、新しい人材に必要なのは身分ではなく、知識と技量と強い信念でした。

身分制を脱した西洋社会の活力をその目で見た武士達は、もはや、武士だけでは国を護れないと祖国に変革を求めます。かつて外夷と認識した相手を学ぶべき模範とみなすのに、時間はかかりませんでした。

同じ頃、職務上多様な外国語文献に接していた幕府雇の洋学者西周と津田真道は、西洋に学ぶべきは国防のための自然科学だけではないと、人文科学を学ぶ留学を希望してオランダ行きを許されました。榎本も化学に熟達する一方で、国際法等を熱心に学んでいます。

幕末の武士はすべてを身分で縛られていました。幕藩体制の不安を自覚している幕府は海外の知識や情報の独占に固執し、西は津和野藩、津田は津山藩出身で、能力に優れ幕府の機関に採用されていたがゆえに留学できたのです。

1866年(慶応2年)7月17日開陽丸が竣工し、10月25日榎本ら留学生が開陽丸とともにオランダを出発、1867年(慶応3年)3月26日横浜港に帰りました。

開陽丸

蒸気機関での巡航速度18哩、砲の射程距離3,900m

幕府以外の各藩にとって、藩士を海外留学させる途は幕府に隠れてさせる密航でした。諸藩士の海外密航の先頭を切ったのは「長州五傑」です。

長州五傑

後列左から遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔

前列左から井上聞多、山尾庸三

ペリー艦隊来航時に密出国を試みた吉田寅次郎(松陰)の刑死から4年後、長州藩は国を護る海軍を興すために西洋で学びたいという井上聞多の願いを叶え、5人を脱藩者扱いにして金策までしましたが、密航に不可欠なのは現地まで運んでくれる外国人協力者でした。

英国系商社が長州藩士のイギリス密航にあえて手を貸したのは、幕府への背信を犯しても、最も強硬な攘夷派の藩と人脈をつくることの得失を計算しての政治的判断でした。

1863年(文久3年)5月10日攘夷の朝命を受けた長州藩が、下関海峡を通過する米・仏・蘭船を砲撃します。同年8月15日~17日(文久3年7月2日~4日)前年の生麦事件の解決を迫るイギリス艦隊が、鹿児島湾で薩摩藩と激突しました。

1863年には尊王攘夷の高まりから、攘夷の即時断行を命じる朝廷に幕府は従わざるをえなくなっていました。イギリスは西国諸藩の排外主義の強さを十分に認識していても、幕府が日本政府という認識を捨てて、現時点の友好的政権である幕府とのパイプだけに依存することはしませんでした。

長州藩が留学をさせたのは攘夷のためですが、井上は最初に寄港した上海で海外の現実をその目で見て、早くも攘夷の無謀を覚り、攘夷の考えを捨てています。

長州五傑は山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助の3人と、半年前に英国公使館焼き討ちに加わった伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)の5名で、1863年5月12日横浜を出港し11月にロンドンに到着します。

長州藩に次いで薩摩も隠密留学をさせました。1863年にイギリスと交戦し彼我の実力を思い知らされた薩摩藩は、2年後の1865年に森有礼ら15名(他に視察員4名)を抗戦相手国であったイギリスに一挙に密航させます。

長州、薩摩の両藩は外国勢との武力衝突の体験だけでなく、密航藩士がもたらす情報によって、国際社会の現実を直視する政治的構想能力を獲得していきます。それは幕府に代わって開国政策を継承できる、政権交代可能な対抗勢力の出現を意味しました。

政権交代はイギリスにとって、貿易の独占に固執する幕府よりも望ましい体制でした。19世紀の大英帝国の極東におけるプレゼンスは、幕府とフランスの提携を除けば、優位だったのです。薩長両藩への接近はイギリスの必然でした。

藩による密航が期待できない藩士がやむにやまれぬ留学の志を抱いた場合、絶望的なリスクを承知の上で個人の密航に踏み切らねばなりません。1864年の安中藩士新島襄の個人的密航が今日に伝わるのは、函館から1年かけてたどり着いたボストンで明日をも知れぬ身となった彼に、密航した船の持ち主A.ハーディという支援者が奇蹟的に現れたからです。新島の密航の成功は個人の密航の一般的な例では決してないのです。

横井小楠の二人の甥の左平太と大平の密航についても藩の許可こそありませんでしたが、国元に小楠を慕う支援者がいて、長崎で師事した宣教師フルベッキがいました。それにもまして米国改革派教会伝道局幹部の J.M.フェリスたちの善意がなければ、横井兄弟のニューブランズウィックへの途はありえなかったのです。

日本の武士の志に感じて無償で手を差し伸べる現地の支援者との出会いと云う、攘夷の理念とは対極の現実が単独密航者に不可欠で、最も得難い条件でした。

幕府の留学生は現地で、薩摩人や長州人と思わざる出会いをします。幕府に対する藩や、藩同士の競争意識は密航の動機ではあっても、外国で巡り合った留学生たちは志を同じくする日本の同胞でした。

幕府が留学を解禁したのは1866年5月で、大政奉還まで1年半を残す時期です。1867年3月に渡米した日下部太郎は幕府の認可留学の最も早い例ですが、密航留学時代が終わると金とコネのある有力者の子弟が、続々、海を越えます。

日下部が客死した1870年だけでも40人近くの留学生が渡米し、その前年までに渡航していた学生も20名以上いました。彼ら異郷に学ぶ同胞の交流の中心地がニューブランズウィックでした。

5年前に英国に密航した薩摩藩留学組からも何人かがニューブランズウィックに合流して、日下部と共に学び、亡くなった際にはグリフィスと一緒に、葬儀や遺品の整理に尽くしました。病床で学業を手放さず異国の土となった日下部の姿は、現地同胞とグリフィスに忘れがたい記憶を残したのでした。

高橋是清は1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれの幕府御用絵師川村庄右衛門の子で、生後まもなく仙台藩の高橋覚治の養子になり、横浜のアメリカ人医師のヘボン塾で学びました。

1867年(慶応3年)藩命により12歳で、勝海舟の息子の小鹿と渡米留学します。高橋は在横浜のアメリカ人貿易商に学費や渡航費を着服され、ホームステイ先とされた彼の両親にも騙されて年季奉公の契約書にサインさせられて、奴隷同様に酷使される経験をします。高橋はその苦境を経たゆえに抜群の英語力を習得し、帰国後内閣総理大臣にまで上り詰めました。

内閣総理大臣 高橋是清

諸藩からの留学が政府公認の出世コースに変質すると、命懸けの覚悟を欠いた平凡な能力の若者たちの留学は、ありふれたものになります。数年の滞在に見合う学力向上のまったく見られない留学生がざらにいました。

1873年(明治6年)日本政府は官費留学生を一旦すべて帰国させます。帰国者に対する試験の結果、その多くの留学成果のなさは歴然でした。外国で専門教育を受けられるレベルの留学生がほとんどいない以上、国内での基礎教育に注力すべきとなって、お雇い外国人教師にその任が期待されました。

1875年開成学校で最も優秀だった鳩山和夫や小村寿太郎が、文部省最初の派遣留学生として渡米しました。次年度には穂積陳重や櫻井錠二、杉浦重剛たちが英国に渡りました。彼らはグリフィスが開成学校で情熱を傾けて教育した生徒たちです。

それから10年、高等教育を担える日本人教師が育つとともに、高給取りの外国人教師は不要とされ一斉に解雇が進みます。近代日本のエリートは外国人以上に自国の西洋化に積極的で遠慮がなく、旧幕時代を破壊した維新の日々が遠くなるにつれ、禁じられた密航留学をしてまで我が国の国際化の先頭に立った青年たちの必死の努力が忘れられていきました。

我が国最初の留学生のひとりであった榎本武揚は、幕臣として戊辰戦争を最後まで戦い抜いた賊軍の将であったため、降伏して受牢した後に明治政府に尽くした後半生が、これまで、正当に評価されてきたとはまったく云い難く、薩長の藩閥意識に囚われたまま西洋の背中を追い続けた、明治の元老政治の象徴とも云える存在になりました。

 


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斗南藩

2023-11-09 06:31:06 | 日記

「斗南藩」(となみはん)は「戊辰戦争」で朝敵となり廃藩にされた、会津藩の松平容保の嫡男容大(かたはる)に、明治2年(1869年)11月3日元南部藩領の陸奥の国二戸郡と三戸郡、北郡を与えて、家名存続が許されたものです。

斗南藩の石高は二戸郡3,969石、三戸郡22,048石、北郡8,729石、総計208村34,747石で、蝦夷地の後志国歌棄、瀬棚、太櫓及び胆振国山越の計4郡も支配地になりました。

斗南藩領

旧会津藩士4,700名余の謹慎が解かれたのは明治3年(1870年)1月5日で、当初は三戸藩と名乗り後に斗南藩に改めます。斗南藩の名称については、薩長が要職を独占した明治政府で陸軍大将にまで進んだ柴五郎が「斗南」は漢詩の「北斗以南皆帝州」からとったとした説が広く受け入れられていますが、この説に該当する古典は見当たりません。

慶応元年(1865年)会津藩士秋月悌次郎が蝦夷地へ左遷された時に詠んだ「唐太以南皆帝州」との類似が指摘されていて、斗南藩の竹村俊秀の「北下日記」には「斗南トハ外南部ノ謂ナリ」と記されています。

明治3年4月18日斗南への移住の第一陣として300名が八戸に上陸しました。藩主となった松平容大は幼児で、藩士の冨田重光の懐に抱かれて駕籠に乗り三戸郡北部の五戸に向かいます。南部藩の旧五戸代官所が最初の藩庁になり、後に現青森県むつ市田名部の「円通寺」に移りました。

現青森県むつ市圓通寺

明治3年閏10月までに旧会津藩士約4,700名の内、4,332戸、1万7,327人が斗南に移住し、50戸220人あまりが蝦夷地に入植、残り約2,000人は会津で士族籍を離れます。

斗南藩の表高は3万石、内高は3万5千石となりましたが、藩領の多くは火山灰地質の厳寒不毛の地で、実際の収納高は7,380石に過ぎず、とりわけ下北半島に移住した旧会津藩士は苦しい生活を強いられました。

明治4年(1871年)7月14日廃藩置県により、斗南藩は僅か1年半で「斗南県」になりますが、斗南県少参事廣澤安任らが政府に建言して「青森県」に編入し直され、二戸郡の一部が岩手県に編入されました。

青森県発足の時点で、会津からの移住者の内3,300人は既に他の地域へ移転しており、旧藩主たちの東京在住が決まって容大がいなくなり、明治6年(1873年)に米の配給が打ち切られ、転業資金が交付されると、斗南藩士の多くが下北から会津や東京などへ転出し、明治7年(1874年)末までに会津には1万人が帰郷しました。

斗南に残った藩士は50戸ほどで、明治5年(1872年)に廣澤らが日本初の民間洋式牧場を開設したほか、入植先の戸長・町村長・吏員・教員になった者が多く、青森県知事をはじめ衆議院議員、郡長、県会議員、市町村長や青森県内の各学校長が輩出しました。

田名部を去った旧藩主容大は、明治17年(1884年)子爵となり華族に列します。明治26年(1893年)一年志願兵として陸軍に入り日清戦争に参加しました。

志願して陸軍に入った大尉時代の松平容大

会津松平家は江戸幕府では徳川御三家に次ぐ家柄で、28万石の名門でした。嘉永6年(1853年)の黒船来航以降佐幕派と倒幕派の対立が激化した中で、文久2年(1862年)藩主松平容保は京都守護職を命じられて尊王攘夷運動の激しい京都で治安維持に努め、天皇や庶民からは厚い信頼を得ましたが薩長の恨みを買いました。

慶応4年(1868年)1月「鳥羽・伏見の戦い」で戊辰戦争が始まり、明治2年(1869年)6月の「函館戦争」で終わりを告げますが、幕府軍は新政府軍に各地で敗退を続け、会津藩は鶴ヶ城の落城で廃藩を命じられます。会津藩は天皇への忠義も厚く信頼関係がありながらも、朝敵の汚名を着せられたのでした。
廃藩から1年後の明治2年11月容保の息子の容大を当主として会津松平家の再興が許され、斗南藩の人々は御家再興を喜び合いましたが、与えられたのは石高3万石とは云うものの実石7千石の不毛の地で、会津藩士の新たな苦難が始まりました。

明治3年(1870年)の春、旧会津藩の1万7千人が会津をはじめ東京や越後高田などの各地から、陸路や海路で斗南にやってきます。廃藩転じて新天地での再出発の期待はまったく裏切られ、待っていたのは寒冷で痩せた土地での厳しい現実でした。

生活は困窮を極め、米は政府から支給されたもののひどい品質で、人々は草や木の根もあさり、飢えをしのごうとしました。冬になると炉で火を焚いても寒風が部屋を吹き抜け、食べ物も布団も満足なものはなく、子供や老人が次々と息を引き取ります。

徳玄寺 山門

現むつ市の中心街の一角に浄土真宗の「徳玄寺」があります。幼児だった斗南藩藩主松平容大の生活の場であり、重臣たちが会議を行った場所です。

徳玄寺の近くに曹洞宗の円通寺があり、円通寺は恐山菩提寺の本坊で仮館として藩庁が置かれ、現在のむつ市を拠点に街づくりをしようとしていたことが分かります。

街は一番町から六番町までの大通りによって屋敷割をし、東西に門、1戸建約30棟、2戸建約80棟、深井戸18か所などが建設され、斗南藩の人々はここを「斗南ヶ丘」と呼び、開拓を推し進めようとしたのです。

一旦滅びた藩の再興となれば会津藩士は嬉し泣きの筈ですが、その背景には思いやりではない裏の事情がありました。会津に駐留する新政府軍は傲慢そのもので、これに怒った幽閉中の会津藩士が脱走しては新政府軍を襲撃する事件が多発していたのです。

会津藩に示された候補地は会津からはるか北の現在の青森県でした。会津藩士の町野主水らはこの決定に激怒します。3万石ならば実はうってつけの土地がありました。会津の猪苗代です。

猪苗代は若松に次ぐ町で、藩祖保科正之を祀る「土津神社」や代々の藩主の墓地があり、藩祖保科正之が徳川秀忠の子だったために許されたのか「一国一城令」の掟に反した猪苗代城まであったのです。

その猪苗代にすればいいのに、なぜ、青森なのか。28万石を3万石にするだけも無理なのに、移転候補地の土地の実石は7千石でした。全国各地の不平士族の反乱に悩まされていて、会津藩士を猪苗代に残したくない明治政府の思いが、青森への移転を決めたのでした。

斗南藩士が移住を開始したのは明治3年(1870年)4月ですが、翌4年7月の「廃藩置県」により、斗南藩は、突然、終わりを告げます。その時点で会津から移住した内の3,000人はすでに出稼ぎで離散しており、斗南に残る者、会津に戻る者、北海道へ渡る者、東京に移住し軍隊や警視庁に入る者、斗南藩の人々は廃藩置県でやっと生き地獄から解放されます。

柴五郎は万延元年(1860年)会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれ、8歳の時に戊辰戦争が勃発しました。新政府軍が会津城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで会津から脱出しましたが、祖母、母、妹は自邸で自決します。

五郎は父とともに斗南へ移住し、北のやせた大地で飢餓のため生死の境をさまよいました。「挙藩流罪」とも云われた敗者へのこの仕打ちに、父は「薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ」と五郎を叱りました。五郎は藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京、15歳で陸軍幼年学校へ入学、士官学校を卒業して頭角を現していきます。

会津藩の敗残少年から陸軍大将となった柴五郎

清朝末期の中国では義和団事件が起こります。アロー戦争後の天津条約で外国人宣教師による中国内陸部でのキリスト教布教が認められましたが、義和団の排外主義運動が大きく展開されて西太后がこの運動を支持し、1900年 6月21日清国は欧米列国に宣戦布告しました。

当時北京の公使館区域には外国人が925名いて、中国人のクリスチャン3,000名ほどが逃げ込んでいました。各国公使館の護衛兵と義勇兵は併せても481名に過ぎませんが、北京城での籠城を余儀なくされます。

各国の寄り合い所帯の籠城は意思疎通が大問題でした。日本公使館付き駐在武官で英語・フランス語・中国語に堪能な柴五郎中佐が、8月14日に8か国連合軍が北京に到達するまでの2か月の間、北京籠城戦を指揮し城内を護り抜いたのです。柴は解放後の北京での外国軍による略奪や虐待も厳しく戒め、各国から称賛を浴びました。

山川浩は若くして会津藩の家老となった人物です。鶴ヶ城で籠城軍の指揮を執った指揮ぶりが新政府軍に認められて後に陸軍入りし、陸軍中佐で西南戦争に従軍して次の歌を詠んでいます。

薩摩人 見よや東の丈夫が 提げ佩く太刀の 鋭(と)きか鈍きか

山川の最終階級は陸軍少将で、東京高等師範学校長や貴族院議員を務め、旧藩の後進の育成に尽力しました。

陸軍少将山川浩

山川の弟の健次郎は白虎隊の生き残りですが、米国に国費留学して日本人初の物理学教授となり、東京帝国大学総長の在任期間が合計11年11か月と歴代総長の最長在任者となりました。

山川健次郎 東京帝国大学総長

妹の捨松は岩倉使節団に伴われて津田梅子らとともにアメリカに留学、我が国の女子教育に貢献したほか、日露戦争で満州軍総司令官を務めた薩摩出身の大山巌に嫁いでいます。

大山捨松 公爵夫人

松江豊寿陸軍大佐は第一次世界大戦中「板東俘虜収容所」の所長を務めました。父が会津に戻ってから生まれた子ですが、窮乏と屈辱の少年時代を過ごし、刻苦勉励して士官学校へ入り陸軍士官となりました。会津藩の子弟として賊軍の悲哀を味わった松江には、1,000人余のドイツ人俘虜たちの悔しさや屈辱が分かっていました。

捕虜の多くは山東半島のドイツの青島(チンタオ)要塞で降伏した民間人の現地志願兵で、彼らの職業は家具、時計、楽器の職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など多岐にわたり、当時のドイツの一流の技術を身に付けていました。

収容所長の松江は捕虜たちを公正で寛大に扱い、捕虜たちの持つドイツの優れた手工業を我が国に伝えさせました。捕虜がその指導のために収容所を出る際にも監視は付かず、捕虜の体育や芸術活動も披露されました。松江は陸軍省に呼び出されて捕虜を甘やかすなと予算を削られ、会津者と蔑まれながらも信念を貫きます。

我国では毎年暮れに全国各地でベートーベンの交響曲第九番が演奏されますが、日本で初めて第九が演奏されたのは板東俘虜収容所です。全国から楽器を集め、足りない楽器は自分たちで作り、男性2部合唱でドイツ人俘虜の感謝の念が歓喜の歌を披露したのです。

第一次世界大戦がドイツの敗北で終わり、ドイツ兵捕虜の多くは故国に帰りましたが170名が日本に残ることを選択し、ドイツ文化を伝え、我が国の工業化の指導に役立ち、生肉店、レストラン、ケーキ屋、酪農業等を開業しました。

誰でも知っているユーハイムやローマイヤはドイツ兵捕虜が作った会社です。敗戦後であっても祖国に帰らず、捕虜になっていた国に大勢が望んで住み着くとは、考えられない話でしょう。

坂東の地を50年ぶりに踏んだ元捕虜のパウル・クレイは「私は第二次世界大戦でもソ連の捕虜となり終戦から10年後に解放されたが、ソ連のラーゲルで冷酷と非情を嫌というほど思い知らされた。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたか」と語っています。

坂東俘虜収容所長 松江豊寿陸軍大佐

最終階級少将

坂東は最も有名な日本の俘虜収容所です。収容所跡は2018年に国の史跡に指定され、現在はドイツ村公園として整備されていますが、別れの日を意識したドイツ兵捕虜が何百年も残るようにと、感謝の念を込めて1つひとつ石を積み上げためがね橋が「ドイツ橋」と呼ばれて残されています。

 


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