ミッドウェー海戦は第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)日本時間6月5日から7日にかけて、北西ハワイ諸島の最北西にあるミッドウェー環礁攻略をめざす日本軍を米軍が迎撃して起きた海戦です。
ミッドウェー海戦関連地図
日本空母部隊はミッドウェー基地航空隊および米空母部隊との航空戦の結果、4隻の空母と艦載機290機を失い、第二次世界大戦の日本の敗北への転換点になりました。
連合艦隊は1941年12月8日緒戦の真珠湾攻撃で米戦艦群を壊滅し、10日マレー沖海戦で英戦艦2隻を撃沈して意気軒高でした。1942年1月29日軍令部は米豪遮断作戦の一環として聯合艦隊に「ニューギニア」および「ソロモン」群島の攻略を指示し、これに基づいて陸海軍協同で3月にラエ、サラモア、4月にツラギ、ポートモレスビーの奇襲攻略(FS作戦)を計画しました。
4月上旬インド洋作戦に投入された南雲機動部隊がセイロン沖海戦で英東洋艦隊に勝利しましたが、すでにミドウェー作戦(MI作戦)が予定されていたため主力の撃滅までには踏み込まず、インド洋の通商破壊戦を潜水艦に任せて日本本土に引揚げました。
英海軍のラッセル・グレンフェル大佐は英東洋艦隊が壊滅を喫した場合、チャーチル首相の政治生命が終わって英国は戦争から脱落し、第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性があったと指摘しています。
連合艦隊は戦争を早期終結に導く案としてハワイ諸島攻略を見据えたミッドウェー作戦(MI作戦)を立案していました。その際に現れる米空母を撃滅できればハワイ攻略は容易であると見ました。軍令部は「ニューギニア」及「ソロモン」群島の攻略するFS作戦で米豪間を遮断し、オーストラリアを孤立させる方針でした。
連合艦隊渡邉安治参謀が山本五十六司令長官のMI作戦の意思を軍令部伊藤整一次長に直接伝え、伊藤次長は4月5日にFS作戦に修正を加えて連合艦隊の作戦案を採用することを内定、ミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略するAL作戦を連合艦隊に諮り、連合艦隊も同意しました。
1942年4月18日、米空母が日本本土に接近してB-25双発爆撃機を発進させたドーリットル空襲があり、東京、名古屋、大阪への散発的爆撃の被害は微小でしたが、我が国に大きな衝撃を与えました。本土空襲の精神的影響を心配していた山本長官はMI作戦の必要性を改めて認識し、陸軍も同意して陸海軍の総攻撃計画に発展しました。
米豪遮断のFS作戦の一環としてポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出した南洋部隊の計画は暗号解読で事前に連合国に知られていて、3月8日ラエとサラモアを占領した直後の3月10日、米空母部隊のレキシントンとヨークタウンのがラエとサラモアに攻撃を敢行、攻略部隊の艦船18隻中4隻沈没、14隻中破小破、戦死130名の損害を出して海路からのポートモレスビーの攻略は断念を余儀なくされました。
このためインド洋作戦を終えて帰国中の第一航空艦隊の空母2隻が敵空母撃滅に向かうことになり、珊瑚海海戦が発生しました。5月8日の戦闘は空母同士の史上初の海戦となって、米空母レキシントン、ヨークタウンと日本海軍の空母瑞鶴、翔鶴が攻撃を交わし、レキシントン撃沈、ヨークタウン中破の戦果を挙げましたが、攻略部隊援護の軽空母祥鳳が沈没、一航艦の翔鶴が損傷を受け、無傷の瑞鶴も艦載機の損傷が大きく、この結果MI作戦に参加予定の一航艦の空母が6隻から4隻に減ることになりました。
ハワイ攻略を視野に入れた連合艦隊のMI作戦の主目的はミッドウェー攻略後に現れる米空母の撃滅でしたが、軍令部の主目的はアリューシャン列島西部とミッドウェーを同時に攻略して、米空母の日本本土近接を避ける哨戒基地の前進でした。一航艦草鹿龍之介参謀長と第二艦隊白石萬隆参謀長は軍令部でMI作戦の説明を受けて、ドーリットル空襲直後であったことから主目的は本土再空襲阻止のための哨戒基地の前進と解釈しました。
4月28日から行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と5月1日から始まった「第二段作戦図上演習」で不安な結果が出ます。図上演習は連合艦隊宇垣纏参謀長が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、赤軍(米軍)長官が戦艦日向の松田千秋艦長でした。
この図上演習でミッドウェー攻略中に米空母が出現して空母決戦が行われ、空母加賀、赤城が沈没して攻略作戦の続行が難しくなりました。宇垣は審判をやり直し4隻の空母のうち3隻を残して演習を続けます。
ミッドウェー攻略は一週間遅れで成功でしたが、一部の駆逐艦は燃料不足で座礁しました。攻略前に米空母がハワイから出撃してくる可能性がありましたが、赤軍長官松田が空母を出撃させることはありませんでした。
前年の真珠湾攻撃で敵戦艦群はすでに壊滅しており、MI作戦では敵空母の撃滅を目指していたのですから、赤軍長官に戦艦の艦長ではなく、空母の艦長を指名していれば図上演習がこれとは違ったものになっていたかもしれません。
実は開戦の前に行われた前年の真珠湾攻撃の兵棋演習でも、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、参加した味方空母4隻中3隻が沈没、1隻が大破で機動部隊全滅という結果が出ていました。真珠湾攻撃の実戦では6隻の空母を参加させています。
戦訓分科研究会では宇垣は一航艦の草鹿参謀長に「敵に先制空襲を受けた場合、或は陸上攻撃の際に敵海上部隊に側面をたたかれた場合如何する」と注意を喚起し、一航艦はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし、第二次攻撃隊は米空母の出現に備えて攻撃機の半数を魚雷装備で待機することにしました。
第二艦隊近藤信竹長官は米空母が健在で、ミッドウェーにも戦力があることから米豪遮断に集中すべきであると反対し、ミッドウェーを占領しても補給が続かないと指摘しました。一航艦草鹿参謀長、源田実航空参謀、第二航空戦隊山口多聞司令官もMI作戦に反対しましたが、連合艦隊司令部は聞き入れません。
5月25日連合艦隊はMI作戦の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、各部隊から準備不足のため作戦を延期することが望まれましたが、一航艦の出撃延期を一日だけ認め、6月4日のミッドウェー空襲予定を5日に変更しましたが、7日の攻略予定は変更しませんでした。
出撃前日の5月26日の連合艦隊の作戦計画の説明と打ち合わせでは、山口少将から索敵計画が不十分との指摘がされましたが、連合艦隊司令部は攻略中に敵空母が現れることはまったく考慮に入れず、索敵計画は改めませんでした。
空母はアンテナの関係から敵信傍受が不十分で、一航艦の草鹿参謀長は連合艦隊宇垣参謀長に怪しい徴候はすぐ知らせてくれと何度も確認しています。
MI作戦の主力である一航艦(南雲部隊)はインド洋作戦を終えて4月下旬に本土に戻っていましたが、開戦以来の艦艇、人員の疲労が溜まっており、広範囲の人事異動が行われたため艦艇、航空部隊双方の技量が低下しました。
MI海戦後の戦闘詳報では「新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評価され、雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海で戦果を収めたのは不思議」とされています。水平爆撃と急降下爆撃も満足な訓練ができず、戦闘機の編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけでした。
それでも連合艦隊司令部、軍令部、南雲部隊のいずれも自信に溢れていました。5月5日大海令第18号「連合艦隊司令長官は陸軍と協力しミッドウェーおよびアリューシャン西部要地を攻略すべし」が発令され、艦艇350隻、総兵力10万人からなる大艦隊が編成され、就役したばかりの大和を含む戦艦部隊が参加しました。
当初一航艦の空母6隻すべての参加予定だったMI作戦は、5月上旬の珊瑚海海戦で翔鶴が損傷を受け、無傷の瑞鶴も所属機の損耗が激しく、2隻が参加できなくなったため、空母数では4対3、ミッドウェー基地航空機を計算に入れて航空兵力はほぼ互角と想定されました。
索敵計画のK作戦では6月2日までに予定した2個潜水戦隊での哨戒線構築が4日に遅れ、珊瑚海海戦に参加した米空母が2日にその海域を通過してハワイへ戻るのを見逃しました。
ミッドウェー周辺の航空索敵予定は経由地のウェーク環礁が二式大艇には浅すぎて使えず、ウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー海域の索敵ができなくなりました。仮に予定通りミドウェー北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かったと云われます。
隊合艦隊が最も重視した第2次K作戦はフレンチフリゲート礁で潜水艦から給油を受けた二式大艇によるオアフ島の航空索敵でしたが、これも暗号を解読した米軍にフレンチフリゲート礁に艦艇を配置されて実施できなくなりました。この航空索敵も行われていれば真珠湾の米空母の動向が掴めたかもしれません。
米軍は日本軍の暗号解読の結果「AF」が次の主要攻撃目標で「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であると判断し、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが主要攻撃目標と予想しました。
諜報部の青年将校ジャスパー・ホームズはミッドウェーから「飲料水不足」の緊急電を平文で打たせ、日本の暗号電文に「AFは真水不足」が現れたことでAFはミッドウェーと確信します。
ニミッツ大将はミッドウェーを5月3日に視察、航空機は最新鋭のTBF雷撃機を含む120機、人員は3,000人、防爆掩蓋や砲台も配備して5,000名の上陸部隊を撃退するには十分な兵力にしました。
5月26日以降日本軍の暗号が変更されて解読不能になりますが、米情報部はそれ以前に日本海軍各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期を知り、ミッドウェー攻撃が主目標と知って、ニミッツ大将はアリュ―シャンを放置してミッドウェーに主力を集中します。
5月28日に発令された米軍の作戦計画は「遠距離で敵空母を発見撃破してミッドウェー空襲を阻止、ミッドウェー島守備隊が同島を死守する」というものでした。
5月初めの珊瑚海海戦で米第17任務部隊は海路からのポートモレスビー防衛に成功し、軽空母祥鳳を撃沈、主力空母翔鶴に損傷を与えましたが、主力空母レキシントンを失いヨークタウンが中破して、5月28日現在ニミッツ大将が使用できる空母は2隻のみでした。
5月28日空母エンタープライズ、ホーネットの第16任務部隊が迎撃のため真珠湾を出港しミッドウェーを目指します。中破したヨークタウンは5月27日に真珠湾にやっとたどり着き、乾ドックで応急の突貫工事を実施、72時間の不眠不休の作業で空母の機能を取り戻し、30日ヨークタウンの第17任務部隊も修理工を乗せたままミッドウェーに向かいました。日本側は損害を与えたヨークタウンがMI作戦に間に合うとは想像もしていません。
6月1日二十四航戦からミッドウェーの600海里圏での敵の潜水艦や飛行艇との会敵、第2次K作戦の航空索敵実施不能が連合艦隊司令部に伝えられましたが、無線封鎖を重視した司令部は南雲部隊に連絡しません。
6月5日南雲部隊のミッドウェー第一次攻撃隊が上空に達します。米軍機は事前に退避しており、敵機のいない飛行場を爆撃した攻撃隊は効果不十分と報告、南雲部隊はミッドウェーの第二次攻撃を決めます。
敵空母がミッドウェーに出撃してきていることを知らない南雲部隊は、空母の出現に備えて装着してあった第二次攻撃隊の魚雷を陸上爆弾に転換中に敵空母発見の報が入ります。第二次攻撃隊に再度魚雷への交換を命じましたが発艦する前に敵空母艦載機が来襲、赤城、加賀、蒼龍が所属機を満載したまま、わずか数分の間に被弾、艦内誘爆を起こして戦闘力を失いました。
少し離れた位置にいた山口少将の飛竜だけが攻撃をかわして無事で、母艦に戻れずに飛竜に着艦した赤城らの所属機とともに敵空母群に挑み、ヨークタウンを仕留めたものの相討ちとなり、山口司令官は加来止男艦長とともに飛竜と運命を共にし、ミッドウェー作戦は潰えました。
ミッドウェー海戦での日本海軍の損害は航母赤城、加賀、蒼龍、飛龍 、重巡三隈沈没。重巡最上、駆逐艦荒潮損傷。航空機(艦載機289機、水偵4機)293機喪失。米海軍の損害は空母ヨークタウン、駆逐艦ハムマン沈没。航空機(基地航空機を含む)約150機喪失でした。
6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈、米軍機120機撃墜。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」で、6月18日「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正しましたが、虚偽の大本営発表はここから始まり、空母4隻を失ったことは長く厳重に秘匿されました。
ニミッツ大将は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦を集中運用していれば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう」と語り、ゴードン・ウィリアム・プランゲGHQ戦史室長は米軍のいないアリューシャン2島の占領に空母龍驤、隼鷹を投入、ミッドウェーに用いなかったことが山本五十六最大の失策と指摘しています。
連合艦隊は南方攻略作戦の成功から敵を軽視し、初の空母決戦であった珊瑚海海戦で1隻の軽空母を失い、2隻の正規空母のMI作戦参加が不能となったにもかかわらず珊瑚海で大きな戦果を挙げたとして、初の空母対決に関しまったく検討を加えていませんでした。
連合艦隊がMI作戦で奇襲が成功すると決め込み、待ち受けられて先制攻撃を受ける可能性をまったく考慮しなかったのは大失態です。それに反して米軍は暗号解読でMI作戦の概要を把握し、迎撃態勢を整えていました。
敵に暗号を解読されていたのはインド洋作戦でも、珊瑚海海戦でも同じでしたし、後に山本長官の搭乗機が撃墜されたのも、暗号を解読されて待ち伏せを受けたためです。
連合艦隊は6月4日に大本営からの通知や米軍通信の傍受で、ミッドウェーに敵機動部隊がいる兆候を掴んでいたのに、南雲部隊には知らせていません。南雲部隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、敵の電信増加が何を意味するのかも判断がつかず、第一次攻撃隊発進直前も敵はこちらの企図をまったく知らず、空母はハワイにいるものと判断していました。
南雲部隊はミッドウェーの第二次攻撃を決定、敵機動部隊の出現に備えて待機させていた第二次攻撃隊の雷装を陸用爆弾に転換するよう命じました。敵空母発見の報で再び雷装へ転換を命じましたが間に合わず、敵空母艦載機に先をこされて3隻の空母の戦力を数分で失う失態を犯しました。
同様の兵装転換はミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも命じており、その戦訓を生かせなかった批判があります。
5月5日セイロン島のコロンボ爆撃の際、第二次攻撃隊は英艦隊出現に備えて雷装で待機していましたが、南雲司令部は英艦隊の出現なしとみてコロンボの2回目の爆撃のため雷装から爆装に換えたところで、敵艦隊発見の報告があり再び雷装への転換を命じます。
しかし山口多聞少将から「攻撃隊発進の要あり」と意見具申があり、爆装のままの急降下爆撃隊53機を発艦させ、英主力艦隊へ合流を目指していた巡洋艦2隻を撃沈しました。
5月9日はトリンコマリーの空襲の間に哨戒機が英空母1隻と駆逐艦3隻を発見し、雷装で控えていた第二次攻撃隊が直ちに発艦して撃沈します。トリンコマリー空襲から帰還した第一次攻撃隊も空母攻撃に向かわせるべく南雲部隊は無警戒で攻撃機に雷装中に、敵の陸上双発爆撃機9機の奇襲を受け旗艦赤城を狙った編隊爆撃が行われましたが命中しませんでした。飛龍では本国への帰途に兵装転換を試しましたが、問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間を要する結果が出ています。
インド洋作戦では陸上用の爆装でも艦艇攻撃に有効であったこと、雷装で待機していた二次攻撃隊が空母発見で直ちに発進できたこと、雷装転換には時間を要し予期しない陸上機の攻撃を受けたことが実体験されていたのに、ミッドウェー海戦では利根四号機が報告した敵空母の実際の位置が報告された地図上の位置よりも160㎞も近かかったことが判断を誤らせたとは云え、セイロン沖海戦の経験がまったく活かされていません。
GHQの戦史室長ゴードン・ウィリアム・プランゲは、南雲の判断は戦術上の間違いではなく情報上の失策であると分析しましたが、航空参謀の吉岡少佐は敗北の責任は敵機動部隊の出現がないと決めつけた連合艦隊司令部も同罪であると語っています。
加賀、赤城は海軍軍縮条約で建造中止となった戦艦を改装した大型空母で、三層の飛行甲板を持つ三段式空母として竣工し、後に最上段の全通式の飛行甲板のみに改装されて中下段が閉鎖式の格納庫となっていました。
加賀竣工時
加賀改装後
米空母の開放式格納庫は艦内で爆発があっても爆風は外に逃げ、艦載機や燃料弾薬等を投棄して二次被害を抑えることができ、日本の密閉式格納庫は直撃弾が艦内で爆発すると爆風の逃げ場がなく、誘爆を起こして甚大な被害を生じたとされますが、米空母も珊瑚海で閉鎖式であったレキシントンが沈没し、開放式であったヨークタウンは中破しても沈んでいません。
応急修理に成功したヨークタウンはミッドウェーでも第一波攻撃隊の急降下爆撃で被弾炎上し、航行不能になりましたが、ましたが消火に成功、20ノットで航行可能となり、第二波攻撃隊が無傷の空母と誤認して再攻撃するほどに回復しました。
赤城は爆弾2発で大破、これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母の最少の被弾数です。
米軍は空母3隻、重巡7隻ほか57隻の総力をミドウェー決戦海面に集中しましたが、日本は戦艦11隻、空母7隻、重巡17隻ほか350隻を動員したのに、決戦海面での南雲部隊は空母4隻、戦艦2隻、重巡2隻ほかに過ぎず、300浬後方に空母鳳翔を含む主力部隊が続いていましたがまったく何の役にも立っていません。
戦艦同士の艦隊決戦はお互いを視認できる距離での砲撃戦ですが、相手がどこにいるか分からない空母同士の決戦では、一にも二にも索敵により遠くの敵空母を発見して艦載機が攻撃を加えなければ勝てないのに、連合艦隊の意識は戦艦大和の出現で、水上決戦時代の幻影に立ち戻ってしまったのでしょうか。
日本はミッドウェーの敗北で主力空母4隻を失って早期の終戦を図る機会をまったく失い、勝ち目のない戦いを続けることになります。
ミッドウェー海戦(2)空母対決 に続く。