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ミッドウェー海戦(1)連合艦隊の奢り

2021-09-30 06:17:51 | 日記

ミッドウェー海戦は第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)日本時間6月5日から7日にかけて、北西ハワイ諸島の最北西にあるミッドウェー環礁攻略をめざす日本軍を米軍が迎撃して起きた海戦です。

ミッドウェー海戦関連地図

日本空母部隊はミッドウェー基地航空隊および米空母部隊との航空戦の結果、4隻の空母と艦載機290機を失い、第二次世界大戦の日本の敗北への転換点になりました。

連合艦隊は1941年12月8日緒戦の真珠湾攻撃で米戦艦群を壊滅し、10日マレー沖海戦で英戦艦2隻を撃沈して意気軒高でした。1942年1月29日軍令部は米豪遮断作戦の一環として聯合艦隊に「ニューギニア」および「ソロモン」群島の攻略を指示し、これに基づいて陸海軍協同で3月にラエ、サラモア、4月にツラギ、ポートモレスビーの奇襲攻略(FS作戦)を計画しました。

4月上旬インド洋作戦に投入された南雲機動部隊がセイロン沖海戦で英東洋艦隊に勝利しましたが、すでにミドウェー作戦(MI作戦)が予定されていたため主力の撃滅までには踏み込まず、インド洋の通商破壊戦を潜水艦に任せて日本本土に引揚げました。

英海軍のラッセル・グレンフェル大佐は英東洋艦隊が壊滅を喫した場合、チャーチル首相の政治生命が終わって英国は戦争から脱落し、第二次世界大戦の結末が変わっていた可能性があったと指摘しています。

連合艦隊は戦争を早期終結に導く案としてハワイ諸島攻略を見据えたミッドウェー作戦(MI作戦)を立案していました。その際に現れる米空母を撃滅できればハワイ攻略は容易であると見ました。軍令部は「ニューギニア」及「ソロモン」群島の攻略するFS作戦で米豪間を遮断し、オーストラリアを孤立させる方針でした。

連合艦隊渡邉安治参謀が山本五十六司令長官のMI作戦の意思を軍令部伊藤整一次長に直接伝え、伊藤次長は4月5日にFS作戦に修正を加えて連合艦隊の作戦案を採用することを内定、ミッドウェーと同時にアリューシャン列島西部を攻略するAL作戦を連合艦隊に諮り、連合艦隊も同意しました。

1942年4月18日、米空母が日本本土に接近してB-25双発爆撃機を発進させたドーリットル空襲があり、東京、名古屋、大阪への散発的爆撃の被害は微小でしたが、我が国に大きな衝撃を与えました。本土空襲の精神的影響を心配していた山本長官はMI作戦の必要性を改めて認識し、陸軍も同意して陸海軍の総攻撃計画に発展しました。

米豪遮断のFS作戦の一環としてポートモレスビー攻略を目指して珊瑚海に進出した南洋部隊の計画は暗号解読で事前に連合国に知られていて、3月8日ラエとサラモアを占領した直後の3月10日、米空母部隊のレキシントンヨークタウンのがラエとサラモアに攻撃を敢行、攻略部隊の艦船18隻中4隻沈没、14隻中破小破、戦死130名の損害を出して海路からのポートモレスビーの攻略は断念を余儀なくされました。

このためインド洋作戦を終えて帰国中の第一航空艦隊の空母2隻が敵空母撃滅に向かうことになり、珊瑚海海戦が発生しました。5月8日の戦闘は空母同士の史上初の海戦となって、米空母レキシントン、ヨークタウンと日本海軍の空母瑞鶴、翔鶴が攻撃を交わし、レキシントン撃沈、ヨークタウン中破の戦果を挙げましたが、攻略部隊援護の軽空母祥鳳が沈没、一航艦の翔鶴が損傷を受け、無傷の瑞鶴も艦載機の損傷が大きく、この結果MI作戦に参加予定の一航艦の空母が6隻から4隻に減ることになりました。

ハワイ攻略を視野に入れた連合艦隊のMI作戦の主目的はミッドウェー攻略後に現れる米空母の撃滅でしたが、軍令部の主目的はアリューシャン列島西部とミッドウェーを同時に攻略して、米空母の日本本土近接を避ける哨戒基地の前進でした。一航艦草鹿龍之介参謀長と第二艦隊白石萬隆参謀長は軍令部でMI作戦の説明を受けて、ドーリットル空襲直後であったことから主目的は本土再空襲阻止のための哨戒基地の前進と解釈しました。

4月28日から行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と5月1日から始まった「第二段作戦図上演習」で不安な結果が出ます。図上演習は連合艦隊宇垣纏参謀長が統監兼審判長兼青軍(日本軍)長官を務め、赤軍(米軍)長官が戦艦日向の松田千秋艦長でした。

この図上演習でミッドウェー攻略中に米空母が出現して空母決戦が行われ、空母加賀、赤城が沈没して攻略作戦の続行が難しくなりました。宇垣は審判をやり直し4隻の空母のうち3隻を残して演習を続けます。

ミッドウェー攻略は一週間遅れで成功でしたが、一部の駆逐艦は燃料不足で座礁しました。攻略前に米空母がハワイから出撃してくる可能性がありましたが、赤軍長官松田が空母を出撃させることはありませんでした。

前年の真珠湾攻撃で敵戦艦群はすでに壊滅しており、MI作戦では敵空母の撃滅を目指していたのですから、赤軍長官に戦艦の艦長ではなく、空母の艦長を指名していれば図上演習がこれとは違ったものになっていたかもしれません。

実は開戦の前に行われた前年の真珠湾攻撃の兵棋演習でも、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに、参加した味方空母4隻中3隻が沈没、1隻が大破で機動部隊全滅という結果が出ていました。真珠湾攻撃の実戦では6隻の空母を参加させています。

戦訓分科研究会では宇垣は一航艦の草鹿参謀長に「敵に先制空襲を受けた場合、或は陸上攻撃の際に敵海上部隊に側面をたたかれた場合如何する」と注意を喚起し、一航艦はミッドウェー攻撃を二段攻撃とし、第二次攻撃隊は米空母の出現に備えて攻撃機の半数を魚雷装備で待機することにしました。

第二艦隊近藤信竹長官は米空母が健在で、ミッドウェーにも戦力があることから米豪遮断に集中すべきであると反対し、ミッドウェーを占領しても補給が続かないと指摘しました。一航艦草鹿参謀長、源田実航空参謀、第二航空戦隊山口多聞司令官もMI作戦に反対しましたが、連合艦隊司令部は聞き入れません。

5月25日連合艦隊はMI作戦の図上演習・兵棋演習、続いて作戦打ち合わせを行い、各部隊から準備不足のため作戦を延期することが望まれましたが、一航艦の出撃延期を一日だけ認め、6月4日のミッドウェー空襲予定を5日に変更しましたが、7日の攻略予定は変更しませんでした。

出撃前日の5月26日の連合艦隊の作戦計画の説明と打ち合わせでは、山口少将から索敵計画が不十分との指摘がされましたが、連合艦隊司令部は攻略中に敵空母が現れることはまったく考慮に入れず、索敵計画は改めませんでした。

空母はアンテナの関係から敵信傍受が不十分で、一航艦の草鹿参謀長は連合艦隊宇垣参謀長に怪しい徴候はすぐ知らせてくれと何度も確認しています。

MI作戦の主力である一航艦(南雲部隊)はインド洋作戦を終えて4月下旬に本土に戻っていましたが、開戦以来の艦艇、人員の疲労が溜まっており、広範囲の人事異動が行われたため艦艇、航空部隊双方の技量が低下しました。

MI海戦後の戦闘詳報では「新搭乗員は昼間の着艦ようやく可能なる程度」と評価され、雷撃隊は「この技量のものが珊瑚海で戦果を収めたのは不思議」とされています。水平爆撃と急降下爆撃も満足な訓練ができず、戦闘機の編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけでした。

それでも連合艦隊司令部、軍令部、南雲部隊のいずれも自信に溢れていました。5月5日大海令第18号「連合艦隊司令長官は陸軍と協力しミッドウェーおよびアリューシャン西部要地を攻略すべし」が発令され、艦艇350隻、総兵力10万人からなる大艦隊が編成され、就役したばかりの大和を含む戦艦部隊が参加しました。

当初一航艦の空母6隻すべての参加予定だったMI作戦は、5月上旬の珊瑚海海戦で翔鶴が損傷を受け、無傷の瑞鶴も所属機の損耗が激しく、2隻が参加できなくなったため、空母数では4対3、ミッドウェー基地航空機を計算に入れて航空兵力はほぼ互角と想定されました。

索敵計画のK作戦では6月2日までに予定した2個潜水戦隊での哨戒線構築が4日に遅れ、珊瑚海海戦に参加した米空母が2日にその海域を通過してハワイへ戻るのを見逃しました。

ミッドウェー周辺の航空索敵予定は経由地のウェーク環礁が二式大艇には浅すぎて使えず、ウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー海域の索敵ができなくなりました。仮に予定通りミドウェー北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かったと云われます。

隊合艦隊が最も重視した第2次K作戦はフレンチフリゲート礁で潜水艦から給油を受けた二式大艇によるオアフ島の航空索敵でしたが、これも暗号を解読した米軍にフレンチフリゲート礁に艦艇を配置されて実施できなくなりました。この航空索敵も行われていれば真珠湾の米空母の動向が掴めたかもしれません。

米軍は日本軍の暗号解読の結果「AF」が次の主要攻撃目標で「A」「AO」「AOB」がアリューシャン方面であると判断し、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが主要攻撃目標と予想しました。

諜報部の青年将校ジャスパー・ホームズはミッドウェーから「飲料水不足」の緊急電を平文で打たせ、日本の暗号電文に「AFは真水不足」が現れたことでAFはミッドウェーと確信します。

ニミッツ大将はミッドウェーを5月3日に視察、航空機は最新鋭のTBF雷撃機を含む120機、人員は3,000人、防爆掩蓋や砲台も配備して5,000名の上陸部隊を撃退するには十分な兵力にしました。

5月26日以降日本軍の暗号が変更されて解読不能になりますが、米情報部はそれ以前に日本海軍各部隊の兵力、指揮官、予定航路、攻撃時期を知り、ミッドウェー攻撃が主目標と知って、ニミッツ大将はアリュ―シャンを放置してミッドウェーに主力を集中します。

5月28日に発令された米軍の作戦計画は「遠距離で敵空母を発見撃破してミッドウェー空襲を阻止、ミッドウェー島守備隊が同島を死守する」というものでした。

5月初めの珊瑚海海戦で米第17任務部隊は海路からのポートモレスビー防衛に成功し、軽空母祥鳳を撃沈、主力空母翔鶴に損傷を与えましたが、主力空母レキシントンを失いヨークタウンが中破して、5月28日現在ニミッツ大将が使用できる空母は2隻のみでした。

5月28日空母エンタープライズ、ホーネットの第16任務部隊が迎撃のため真珠湾を出港しミッドウェーを目指します。中破したヨークタウンは5月27日に真珠湾にやっとたどり着き、乾ドックで応急の突貫工事を実施、72時間の不眠不休の作業で空母の機能を取り戻し、30日ヨークタウンの第17任務部隊も修理工を乗せたままミッドウェーに向かいました。日本側は損害を与えたヨークタウンがMI作戦に間に合うとは想像もしていません。

6月1日二十四航戦からミッドウェーの600海里圏での敵の潜水艦や飛行艇との会敵、第2次K作戦の航空索敵実施不能が連合艦隊司令部に伝えられましたが、無線封鎖を重視した司令部は南雲部隊に連絡しません。

6月5日南雲部隊のミッドウェー第一次攻撃隊が上空に達します。米軍機は事前に退避しており、敵機のいない飛行場を爆撃した攻撃隊は効果不十分と報告、南雲部隊はミッドウェーの第二次攻撃を決めます。

敵空母がミッドウェーに出撃してきていることを知らない南雲部隊は、空母の出現に備えて装着してあった第二次攻撃隊の魚雷を陸上爆弾に転換中に敵空母発見の報が入ります。第二次攻撃隊に再度魚雷への交換を命じましたが発艦する前に敵空母艦載機が来襲、赤城、加賀、蒼龍が所属機を満載したまま、わずか数分の間に被弾、艦内誘爆を起こして戦闘力を失いました。

少し離れた位置にいた山口少将の飛竜だけが攻撃をかわして無事で、母艦に戻れずに飛竜に着艦した赤城らの所属機とともに敵空母群に挑み、ヨークタウンを仕留めたものの相討ちとなり、山口司令官は加来止男艦長とともに飛竜と運命を共にし、ミッドウェー作戦は潰えました。

ミッドウェー海戦での日本海軍の損害は航母赤城加賀蒼龍飛龍 、重巡三隈沈没。重巡最上、駆逐艦荒潮損傷。航空機(艦載機289機、水偵4機)293機喪失。米海軍の損害は空母ヨークタウン、駆逐艦ハムマン沈没。航空機(基地航空機を含む)約150機喪失でした。

6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈、米軍機120機撃墜。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」で、6月18日「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正しましたが、虚偽の大本営発表はここから始まり、空母4隻を失ったことは長く厳重に秘匿されました。

ニミッツ大将は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦を集中運用していれば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう」と語り、ゴードン・ウィリアム・プランゲGHQ戦史室長は米軍のいないアリューシャン2島の占領に空母龍驤、隼鷹を投入、ミッドウェーに用いなかったことが山本五十六最大の失策と指摘しています。

連合艦隊は南方攻略作戦の成功から敵を軽視し、初の空母決戦であった珊瑚海海戦で1隻の軽空母を失い、2隻の正規空母のMI作戦参加が不能となったにもかかわらず珊瑚海で大きな戦果を挙げたとして、初の空母対決に関しまったく検討を加えていませんでした。

連合艦隊がMI作戦で奇襲が成功すると決め込み、待ち受けられて先制攻撃を受ける可能性をまったく考慮しなかったのは大失態です。それに反して米軍は暗号解読でMI作戦の概要を把握し、迎撃態勢を整えていました。

敵に暗号を解読されていたのはインド洋作戦でも、珊瑚海海戦でも同じでしたし、後に山本長官の搭乗機が撃墜されたのも、暗号を解読されて待ち伏せを受けたためです。

連合艦隊は6月4日に大本営からの通知や米軍通信の傍受で、ミッドウェーに敵機動部隊がいる兆候を掴んでいたのに、南雲部隊には知らせていません。南雲部隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、敵の電信増加が何を意味するのかも判断がつかず、第一次攻撃隊発進直前も敵はこちらの企図をまったく知らず、空母はハワイにいるものと判断していました。

南雲部隊はミッドウェーの第二次攻撃を決定、敵機動部隊の出現に備えて待機させていた第二次攻撃隊の雷装を陸用爆弾に転換するよう命じました。敵空母発見の報で再び雷装へ転換を命じましたが間に合わず、敵空母艦載機に先をこされて3隻の空母の戦力を数分で失う失態を犯しました。

同様の兵装転換はミッドウェー海戦の2か月前のセイロン沖海戦でも命じており、その戦訓を生かせなかった批判があります。

5月5日セイロン島のコロンボ爆撃の際、第二次攻撃隊は英艦隊出現に備えて雷装で待機していましたが、南雲司令部は英艦隊の出現なしとみてコロンボの2回目の爆撃のため雷装から爆装に換えたところで、敵艦隊発見の報告があり再び雷装への転換を命じます。

しかし山口多聞少将から「攻撃隊発進の要あり」と意見具申があり、爆装のままの急降下爆撃隊53機を発艦させ、英主力艦隊へ合流を目指していた巡洋艦2隻を撃沈しました。

5月9日はトリンコマリーの空襲の間に哨戒機が英空母1隻と駆逐艦3隻を発見し、雷装で控えていた第二次攻撃隊が直ちに発艦して撃沈します。トリンコマリー空襲から帰還した第一次攻撃隊も空母攻撃に向かわせるべく南雲部隊は無警戒で攻撃機に雷装中に、敵の陸上双発爆撃機9機の奇襲を受け旗艦赤城を狙った編隊爆撃が行われましたが命中しませんでした。飛龍では本国への帰途に兵装転換を試しましたが、問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間を要する結果が出ています。

インド洋作戦では陸上用の爆装でも艦艇攻撃に有効であったこと、雷装で待機していた二次攻撃隊が空母発見で直ちに発進できたこと、雷装転換には時間を要し予期しない陸上機の攻撃を受けたことが実体験されていたのに、ミッドウェー海戦では利根四号機が報告した敵空母の実際の位置が報告された地図上の位置よりも160㎞も近かかったことが判断を誤らせたとは云え、セイロン沖海戦の経験がまったく活かされていません。

GHQの戦史室長ゴードン・ウィリアム・プランゲは、南雲の判断は戦術上の間違いではなく情報上の失策であると分析しましたが、航空参謀の吉岡少佐は敗北の責任は敵機動部隊の出現がないと決めつけた連合艦隊司令部も同罪であると語っています。

加賀、赤城は海軍軍縮条約で建造中止となった戦艦を改装した大型空母で、三層の飛行甲板を持つ三段式空母として竣工し、後に最上段の全通式の飛行甲板のみに改装されて中下段が閉鎖式の格納庫となっていました。

加賀竣工時

加賀改装後

米空母の開放式格納庫は艦内で爆発があっても爆風は外に逃げ、艦載機や燃料弾薬等を投棄して二次被害を抑えることができ、日本の密閉式格納庫は直撃弾が艦内で爆発すると爆風の逃げ場がなく、誘爆を起こして甚大な被害を生じたとされますが、米空母も珊瑚海で閉鎖式であったレキシントンが沈没し、開放式であったヨークタウンは中破しても沈んでいません。

応急修理に成功したヨークタウンはミッドウェーでも第一波攻撃隊の急降下爆撃で被弾炎上し、航行不能になりましたが、ましたが消火に成功、20ノットで航行可能となり、第二波攻撃隊が無傷の空母と誤認して再攻撃するほどに回復しました。

赤城は爆弾2発で大破、これは第二次世界大戦で撃沈された正規空母の最少の被弾数です。

米軍は空母3隻、重巡7隻ほか57隻の総力をミドウェー決戦海面に集中しましたが、日本は戦艦11隻、空母7隻、重巡17隻ほか350隻を動員したのに、決戦海面での南雲部隊は空母4隻、戦艦2隻、重巡2隻ほかに過ぎず、300浬後方に空母鳳翔を含む主力部隊が続いていましたがまったく何の役にも立っていません。

戦艦同士の艦隊決戦はお互いを視認できる距離での砲撃戦ですが、相手がどこにいるか分からない空母同士の決戦では、一にも二にも索敵により遠くの敵空母を発見して艦載機が攻撃を加えなければ勝てないのに、連合艦隊の意識は戦艦大和の出現で、水上決戦時代の幻影に立ち戻ってしまったのでしょうか。

日本はミッドウェーの敗北で主力空母4隻を失って早期の終戦を図る機会をまったく失い、勝ち目のない戦いを続けることになります。

 

ミッドウェー海戦(2)空母対決 に続く。


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ナイル川

2021-09-16 06:20:32 | 日記

ナイル川はアフリカ大陸東北部を北に流れ地中海に注ぐ長さ6,650kmの大河で、この下流域に紀元前3800年ごろ古代エジプト文明が生まれ、紀元前3150年ごろエジプト古王国が築かれました。

ナイル川沿いの遺跡群

紀元前2200年頃にはその南のヌビアにクシュ王国が建国され、クシュはエジプトのトトメス1世によって滅ぼされましたが、紀元前900年頃ナパタで再興し、紀元前747年にはエジプトに攻め込んでエジプト第25王朝を築きました。

エジプトはペルシア帝国の支配を経てプトレマイオス朝のもとで独立を回復しますが、紀元前30年クレオパトラ7世の時にローマ帝国の皇帝直轄地となります。

395年ローマ帝国が東西に分裂してエジプトは東ローマ帝国領となり、4世紀から5世紀にかけてキリスト教が普及しますが、639年イスラム帝国に征服されイスラム化しました。

古代からナイル川は7月にエチオピア高原に降るモンスーンの影響で氾濫を起こし、この洪水が砂漠気候で少雨のエジプトに肥沃な土壌をもたらしました。

洪水と云っても毎年決まった時期に起こる穏やかなもので、この時期を知るために世界最古のシリウス暦が作られ、洪水後に農地を元通りに配分する測量術と幾何学が発達しました。

古代のエジプトはナイル川の第一急流までの間が河川交通で結ばれており、エジプト文明が盛んになるにつれてその影響力は徐々に次の急流にまで伸びていきます。

第12王朝期には第二急流のすぐ下流にまで達し、冬季は季節風を利用して帆掛け船で川を遡行することができ、現在でもファルーカと呼ばれる帆船が利用されています。

アビドス遺跡の壁画の船列 3,800年前

16世紀にヨーロッパとの交流が始まり青ナイル川周辺の地理が知られ、1615年ポルトガルのイエズス会の修道士ペドロ・パエスがタナ湖を発見、1770年にスコットランド人の探検家ジェームズ・ブルースによりタナ湖が青ナイル川の源流であることが確認されました。

白ナイル川の源流は不明のままで白ナイル源流の探索はヨーロッパ人のアフリカ探検の主要なテーマとなり、1858年にイギリス人のジョン・ハニング・スピークがヴィクトリア湖を発見しました。

実はアフリカ内陸部に象牙の交易路を持っていたアラブ人交易商の1160年頃の地図にヴィクトリア湖が描かれており、ナイル川の水源であることも示されていましたが、ヨーロッパには伝わっていなかったのです。

スピークはこの湖をイギリス女王の名を取って「ヴィクトリア湖」と名付け、ナイル川の水源だと信じましたが確証には至らず、ヴィクトリア湖より南にあって大西洋にそそぐコンゴ川の水源であるタンガニーカ湖をナイル川の源流であると考えたバートンとの間で、大論争が起きました。

1862年スピークはヴィクトリア湖北岸から大きな川が北へ流れ出していることを確認し、この流出地点の滝をリポン滝と名づけナイル川の源流の謎は解けたと考えましたが、サミュエル・ベーカー夫妻が1864年アルバート湖を発見し1866年に発表したためさらに混乱しました。

アルバート湖はナイル川の上流部に位置していて、流入する水の大部分はヴィクトリ湖からなのですが、エドワード湖からセムリキ川も流れ込んでいて、湖の北からアルバートナイルが流れ出しています。

デイヴィッド・リヴィングストンがこの論争を受けて探検に乗り出しましたが、源流の確定に至らずに客死しました。その跡を継いだヘンリー・モートン・スタンリーは1875年ヴィクトリア湖のリポン滝を確認したのち湖を周回して、ヴィクトリア湖がナイル川の源流であることを確定しました。

ヴィクトリア湖には多数の流入河川がありますが、ヴィクトリア湖に流れ込む最長の川はルワンカゲラ川で、その支流でもっとも長いルヴィロンザ川がナイル川の最上流とされます。

白ナイルと青ナイル

ヴィクトリア湖は標高1134mで赤道直下のサバナ気候により降水量が多く、ナイル川への流出口にはオーエン・フォールズ・ダムが建設されて発電しています。

ヴィクトリア湖から500km下流でキオガ湖とマーチソン・フォールズを経て標高619mのアルバート湖に至ります。アルバート湖から南スーダンに入り急流を一つ越えると首都ジュバです。

ジュバからは勾配が非常に緩やかでノ湖で支流のバハル・エル=ガザル川が合流し、そこから先は白ナイル川と呼ばれます。

このあたりはスッドと呼ばれる大湿原で、大量の水分が蒸発して流量が激減し、スーダンのハルツームで青ナイル川と合流します。スッドの出口であるマラカルから800km先のハルツームまでの標高差は12mしかなく非常に流れが緩やかで、ハルツームを過ぎて80km地点に北から6番目の急流が出現します。

ここからエジプトのアスワンまでの間は急流が舟運を拒んできました。第6急流の北200kmには古代のクシュ王国の都のメロエがあり、さらにその北ハルツームから300km下流のアトバラでアトバラ川が合流します。

これより北は完全な砂漠気候でナイル河谷を除いては人が住んでいません。第4急流付近にはメロエ以前にクシュの都であったナパタがあり、2009年メロエダムが完成し大規模な発電を開始しました。エジプトに入るとアスワン・ハイ・ダムとそれによって出来たナセル湖があり、ナセル湖の長さは550kmに及びます。

アスワン以北が古くからのエジプトで、幅5kmほどのナイル河谷に人が住みアスワンからカイロまでが上エジプトで、この区間はほぼ一本の河川ですが、北西へと流れる支流があってカイロ南西にファイユーム・オアシスを作りカルーン湖に注ぎ込みます。

カイロから北はナイル川三角州が発達している下エジプトで、アレクサンドリアからポートサイドまで240kmの幅を持ち、多くの分流が地中海に注いでいます。

ナイル川は全体を通して流量が非常に大きく変化し、上流のアルバート湖付近の流量は1048㎥/秒、南スーダンのサッド湿地では蒸発により流量が大きく減少し510㎥/秒となります。

サッド湿地を下りマラカルで合流するソバト川は流量の変化が大きく、増水期の3月には680㎥/秒で渇水期の8月には99㎥/秒です。増水期にはソバト川に多くの浮遊物が流れ込み白ナイルの語源となっていますが、合流点付近の白ナイル川の流量も1218㎥/秒から609㎥/秒の範囲で変化します。

その後ハルツームで青ナイル川、アトバラでアトバラ川が合流し、アトバラより下流では砂漠気候の乾燥地帯を流れるために、蒸発による影響を大きく受けます。

1月から6月にかけての乾季の青ナイル川の流量は約113㎥/秒で、アトバラ川は雨季以外にはほとんど流量がなく、ナイル川の流量は白ナイル川からのものが7割から9割を占めます。

エチオピア高原の雨季にはアトバラ川も青ナイル川も流量が増大し、8月の青ナイル川の流量は5,600㎥/秒以上となり、ナイル川の流量の8割から9割を占めます。

青ナイルは標高1,800mのタナ湖から短い距離で急激に高度を下げるため、河床を侵食し大量の堆積物を下流にもたらします。この土は肥沃で洪水時にエジプトに堆積し農産物の富をもたらしてきました。

アスワン・ハイ・ダム建設以前のアスワンでの流量は増水期には渇水期の15倍に達しましたが、1971年のダム建設後のダム下流の水量は年間を通じて一定です。

アスワン・ハイ・ダム

ナイル川の源流が確定されるとヨーロッパ列強がこの地域に手を伸ばし始め、エジプトに強力な利害を持つイギリスがとくに熱心でした。ナイル上流が他の列強に支配されると、ナイルの水に頼るエジプトが甚大な被害をこうむる可能性があったからです。

こうした中でエジプトの圧政に耐えかねたモスリムのムハンマド・アフマドが1881年にマフディー戦争を起こします。1882年にエジプトを保護国としたイギリスはチャールズ・ゴードンを派遣しましたが、1885年にハルツームが陥落しゴードンも殺害され、マフディー国は現在のスーダンの領域まで領土を拡大し、イギリスは一時スーダンからの撤退を余儀なくされました。

エジプト最南端の赤道州の総督エミン・パシャはドイツ人で、彼を救出する名目でイギリスとドイツがそれぞれ軍を派遣しますが、イギリス軍が1889年にエミン・パシャを救出したものの赤道州政府は消滅しました。

ヘルゴラント=ザンジバル条約は、1890年にイギリスとドイツの間で結ばれた条約です。ドイツが北海のヘルゴラント島とカプリビ回廊、およびドイツ領東アフリカのダルエスサラームの海岸を獲得し、ケニア海岸沿いにある小さな保護領ウィトゥランドをイギリス領東アフリカの一部とすることを認めたものです。

これによりナイル上流域はすべてイギリスの勢力範囲となり、ヴィクトリア湖周辺のブガンダ王国、ブニョロ王国、トロ王国、アンコーレ王国といった国々と条約を締結し、1894年にウガンダ保護領が成立しました。

このころのイギリスはイギリス植民地でアフリカを南北に縦断する政策を掲げ、フランスはアフリカ大陸最西端のダカールからサヘル地帯を次々に植民地化して、フランス植民地によるアフリカ横断を狙いました。

この二つの政策はファショダで衝突しフランスが譲歩して撤退、ナイル川流域のイギリスの覇権が確立され、流域のほとんどがイギリスによって一体的に統治されることになりました。

1922年にエジプト、1956年にスーダン、1962年にウガンダがイギリスから独立しますが、ウガンダやスーダンでは内乱や紛争が絶えず、1955年から1972年の第一次スーダン内戦、1983年から2005年にかけての第二次スーダン内戦が起き、2005年の和平合意に基づき2011年に南スーダン共和国が独立しました。

エジプトでは1901年にアスワン・ダムが建設され、治水能力が大幅に向上しましたが洪水を完全に阻止するまでには至らず、1952年からガマール・アブドゥル=ナーセル大統領がアスワン・ハイ・ダム計画を推進し1970年に完成させました。

アスワン・ハイ・ダムはナイルの洪水を完全に防止し、これまで洪水期に使用できなかった広大な土地の使用が可能になりました。1998年にナセル湖からの送水によって2,250kmの農地が開発され2003年に完成します。

アスワン両ダムの発電量は当時のエジプトの発電量の半分近くに及び、湖の出現によってこの地域の漁業も盛んとなりました。

しかし一方でアスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、アブ・シンベル神殿やヌビア遺跡など貴重な古代エジプトの文化遺産がダム湖に沈むため、遺跡の高台への移転を余儀なくされています。

イシス神殿 

ダム建設により水没する運命となり高台に移築

洪水がなくなりナイル川が運んで来る肥沃な土壌が農地に届かなくなると大量の肥料が必要となり、ナイル川下流地域では灌漑による塩害の発生や土砂の流出などに悩まされ、エジプト政府はこの対策をせまられています。

その南にあるスーダンでも1920年代から始められたゲジラ計画や1966年のロセイレス・ダムなどの建設で水利用と開発が進みました。ゲジラ計画は青ナイル川のセンナールダムから大規模な幹線水路を引き込み肥沃なハルツーム南のジャジーラ州を灌漑するもので、白ナイル水系にも1937年にジェベルアリダムを建設して水を引きました。

最終的に灌漑水路の総延長は4,300km、灌漑エリアは8,800 km2におよぶ大規模なものになり、スーダンは1930年代に世界有数の綿花生産国になって小麦などの生産も向上し「アフリカのパン籠」と呼ばれるようになりました。

スーダンのオマル・アル=バシール大統領は2009年に白ナイル川と青ナイル川の合流するハルツームの北にメロウェダムを建設しましたが、ナイル川の水は周辺諸国にとって貴重で、とくにエジプトはナイルの水への依存率が97%(1996年)に達するので激しい争奪戦の的になっています。

1929年にはエジプトと、エジプトと共同でスーダンを統治していたイギリスの間で水利協定が結ばれて両国間の水配分が決定され、エジプトは自らの水の利用に影響する上流での河川開発事業で拒否権を保持することが認められました。

1959年にはスーダンとエジプトの間で新たな水利協定が結ばれ、ナイルの年間水量840億m3のうち蒸発分100億m3を除いた555億m3がエジプト利用分、185億m3がスーダン利用分と決定されました。

この配分や既得権はエジプトにとって非常に有利なもので上流域諸国に不満が高まり、1999年2月にナイル川流域イニシアチブが流域9か国によって結成され、ナイル川の総合開発や水資源の配分について総合的に話し合う場となりました。

上流域の不満は大きく2010年5月には「ナイル流域協力枠組み協定」という新協定が提案されましたが、これは他国に影響を与えない範囲で自国内の水資源を自由に使えるようにするもので、下流に当たるエジプトとスーダンは水の割当量減につながるとして拒否します。

ナイル川流域諸国

一方上流域にあたるエチオピア、ケニア、ウガンダ、ルワンダ、タンザニアはこれに参加し、さらに青ナイル川の上流で一番多くの水量を支えているエチオピアはグランド・エチオピア・ルネサンス・ダムの建設を推進し、両陣営間の対立が表面化しました。

特に問題になっているのはエチオピアが2011年から建設している総工費45億ドルの「グランド・エチオピア・ルネサンスダム」で、同国は6年でダムを満杯にする方針を立て2020年7月から貯水を始める意向を示しました。

アフリカ連合が調停に入り2020年は貯水を終えましたが、2021年も貯水の意向を示したことで揉め、ナイルの水争いが全面決着に至るかどうかは不透明です。

いずれにしてもエジプトに古代文明をもたらしたのは、ナイル川下流の毎年の定期的な氾濫がもたらした肥沃な土地であったことに間違いなく、チグリス川、ユーフラテス川流域で同時代にシュメール文明が栄えたのも、人の定住に及ぼす川の重要性を示すものでしょう。

 


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帝国ホテル

2021-09-02 07:43:28 | 日記

帝国ホテル東京

2021年3月25日「帝国ホテル東京」の建て替えが発表されました。建て替えの対象は本館、タワー館、駐車場ビルで、3代目の建物である本館の建物は竣工から50年、タワー館も竣工から38年が経過しています。

新タワー館はオフィス、商業、サービス、アパートメントなどとして2024年度から2030年度にリニューアルされ、ホテル、宴会場などの新本館の建て替えは2031年度から2036年度の実施予定で、総事業費は約2,000億円から2,500億円が見込まれています。

タワー館の建て替えは三井不動産との共同事業で、現タワー館を解体して新タワー館を建設し、新本館も現本館を解体した土地に建設しますが、帝国ホテルが所有し運営します。

「帝国ホテル」は1886年(明治19年)国を代表するホテルとして計画され1890年(明治23年)に開業しました。隣接する「鹿鳴館」とともに国際交流の場を目指したホテルで、井上馨が渋沢栄一と大倉喜八郎の2人を口説いて建設したものです。

経営権は渋沢から大倉、その後は長男の大倉喜七郎へと引き継がれ、戦後に喜七郎が公職追放に遭い財閥解体によって大倉家の持ち株が放出されると、1953年(昭和28年)に金井寛人がその株式の多くを獲得して会長となりました。

1977年(昭和52年)金井の死後はその全持ち株が小佐野賢治の国際興業に譲渡され、2004年(平成16年)に国際興業がサーベラス ファンドに買収されますが、2007年(平成19年)国際興業保有の帝国ホテル株式の大半が三井不動産に売却されて、現在は三井不動産が33%を保有する筆頭株主になっています。

「初代帝国ホテル」は1890年(明治23年)の竣工で木骨煉瓦造、3階建、客室数60でした。設計はドイツで建築を学び帰国したばかりの若手建築家渡辺譲です。

渡辺は海外で学んだ知識を活かしてホテルを建てましたが、当時の海外の市街地型ホテルの主流であった道路に接した建て方ではなく、日本の邸宅風の建物配置を選び、建物内部の装飾にも日本趣味のアレンジを加えました。

初代帝国ホテル

二代目帝国ホテルの「ライト館」はフランク・ロイド・ライトの設計で、鉄筋コンクリートと煉瓦コンクリート造、地上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270、1923年(大正12年)に竣工しました。

1914年(大正3年)頃から総支配人林愛作は旧知のアメリカ人建築家ライトと新館設計の相談を重ね、1916年(大正5年)に契約を結びました。翌1917年にライトが来日し1919年9月着工しましたが、ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制で臨みました。

フランク・ロイド・ライト

鷲が翼を広げたような巨大なホテルは10のブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせた構造で建物全体に柔軟性を持たせ、一部に倒壊があっても全体には影響を及ぼさない仕組みになっていました。大規模ホテルとして世界で初めて全館にスチーム暖房を採用し、耐震と防火に配慮した設計でした。

ライトの完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こし、アメリカでの仕事のため度々帰国しながら施工の総指揮を取り続けましたが、1922年(大正11年)4月初代帝国ホテルが失火から全焼して新館の早期完成が経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなりました。

さらに当初の予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂を注いだこのホテルの完成を見ることなく同年7月離日しました。ホテルはライト館の完成済みの部分を利用して営業を再開します。

其の後の建築はライトの日本における一番弟子の遠藤新によって続けられ、1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を経て本館が完成しました。

左から遠藤新、フランク・ロイド・ライト、伊藤文四郎

9月1日落成記念披露宴の開催準備中に関東大震災がおこり、周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われる中で、小規模な損傷はあったものの、ほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルは、ひときわ人々の目を惹きました。ライトはこのことを遠藤からの手紙で知り狂喜したと云います。

ライト館 全景

ライト館 夜景

1945年(昭和20年)3月10日第二次世界大戦末期の東京大空襲で、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多くの焼夷弾が落下し、総床面積の四割強を焼失する大きな被害を蒙りましたが、敗戦とともにGHQに接収されて大規模な修復工事が行われ復旧しました。

占領が終わり日本を訪れる外国人が増え始め、1954年(昭和29年)にライト本館の裏手(現在のインペリアル・タワーの敷地)に客室数170の第一新館、1958年(昭和33年)その横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成しました。

1964年(昭和39年)ライト本館を取り壊し、跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設する計画が発表されます。

ライト館の存続を訴える大規模な反対運動も起りましたが、本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがするなどの問題があり、なにしろ都心の一等地の巨大な敷地を占める建物が客室数270では話になりませんでした。

ライト館は1967年(昭和42年)に閉鎖され翌年春までに取り壊されて、1970年(昭和45年)跡地に近代的外観の新本館が日本万国博覧会開会に合せて竣工しました。

ライト館の玄関部分は博物館明治村(犬山市)に移築され、十数年の歳月をかけて再建されて今日でも在りし日の面影を偲ぶことができます。

ライト館玄関 明治村

また東武ワールドスクウェア(日光市)に、縮尺25分の1のミニチュアのライト館全景が再現されています。

縮尺25分の1のライト館 日光市

ライト館は玄関、大食堂、劇場などの公共部分を中央に列ね、左右に客室棟が配置されていました。玄関から個々の客室に到るまでのすべてが全体計画で統一され、極めて多様な秀れた立体的空間が構成された世界的に貴重な建築物です。

ライト館の凄さは煉瓦や大谷石の外装と一貫性を保って、内装にも取り入れたところにあります。灯りを単に室内照明とするのではなく、時間とともに変化していく日光の取り込みや「光の籠柱」など、自分の目で実際に見なければ感得しようのない見事な光の芸術がちりばめられています。

中央玄関は建物の特色をよく現わしていて、大谷石に幾何学模様の彫刻を施し、レンガには櫛目を入れ柔らかで華麗に仕上げています。メインロビー中央は三階までの吹き抜けで、大階段、左右の廻り階段を昇るごとに中央玄関内の吹き抜けのすべての空間で劇的に視野が展開します。

ライト館 正面玄関

玄関正面階段

正面階段上ロビー

ダイニングルーム

ライト館の外壁に用いられたのは当時としては珍しい黄色いスダレ煉瓦(スクラッチタイル)で、やきものの街として知られる愛知県常滑市に設立した「帝国ホテル煉瓦製作所」でつくられました。

技術指導に迎えられた伊奈初之烝と長三郎親子の努力と職人たちの試行錯誤の繰り返しで、ライトの要望に応えた煉瓦400万個と何万個もの繊細な形をしたテラコッタが完成しました。

ライト館の壁を覆ったスダレ煉瓦(スクラッチタイル)

 外装の大谷石 

内装の大谷石 

1923年(大正12年)の関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京は百貨店、銀行、官庁などが鉄筋コンクリート造に建て替えられ、外壁にはライト館を真似たタイルやテラコッタが施され、テラコッタの華やかな装飾が震災復興のシンボルになりました。

ライト館の館内は高窓から陽光が降り注ぎ、光を通す孔のある透かし彫りの煉瓦や、彫刻を施した大谷石、繊細なテラコッタが陰影をつくり出し、独特の神秘的な空間を演出しました。

 屋根の光の創造

室内の陽光

光の籠柱

1905年ライトが来日したころの我が国は鎖国が終わり西洋化に突き進んでいて、西洋から見た日本独特のエキゾチックな要素はなくなりかけていましたが、ライトは古い日本の文化に強く魅せられました。

ライトは日本の木造建築の持つ簡潔性に惚れ込み、ライト館の構成の左右対称性は宇治の平等院の鳳凰堂にヒントを得たものと云われます。自らの浮世絵の蒐集にはライト館設計で得た収入の多くを充てています。

他に類を見ないライト館の内装の見事な芸術性を理解していただくのには、限られたブログの写真だけではとても無理で、明治村を訪れてご自分の目で直接見て堪能していただく以外に方法はなさそうです。

明治村に復元されたのはライト館の玄関のみですが、日本人にとってだけでなく、世界の人々に遺された建築文化の至宝として、その素晴らしさを正に実感していただけると思います。

 


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