gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

南極大陸

2019-07-25 06:30:24 | 日記

このところトランプ政権は北極海の戦略的重要性を強調し始めましたが、最大の皮肉はトランプが地球温暖化を否定して「パリ協定」を離脱したにも拘らず、北極海の氷が解けて船舶の航行の自由度が増していることです。

北極点にも南極点にも氷の上を歩いて到達出来ますが、北極は世界地図には載っていません。北極は数1,000mの深さの海の上に浮いている平均2mの厚さの平らな氷の塊でしかないため、地図には表示されないのです。

 

南極はオーストラリア大陸の2倍の面積を持つ世界で5番目に大きな大陸で、平均2,500mの厚さので覆われ、平均気温が最も低く、平均海抜が最も高い大陸です。

北極の冬の平均気温は-25℃、南極は-50~60℃ですが、北極は氷の下が-1.9℃(塩分35‰)と温度の変わらない海なので寒くなりにくく、南極は平均海抜2,500mの高さがあり、最高峰は4,892m のヴィンソン・マシフでその分寒冷になります。南極大陸で観測された最低気温は2018年7月に記録された-97.8℃、最高気温は2015年3月に南極半島北端で観測された17.5℃です。

 

2億年前南極大陸は超大陸ゴンドワナの一部でした。現在の南極の西南極は北半球に位置し東南極は赤道上で、熱帯または温帯の気候であった時期が長く、森林で覆われて多様な生物が生きていました。

1億8,000万年前からゴンドワナは徐々に分裂し、1億6,000万年前にアフリカ大陸が南極大陸と分離し、1億2,500万年前にインド亜大陸も離れました。4,000万年前オーストラリアとニューギニアが分離し南極大陸が独立しました。南極大陸の現在の形は2,500万年前に形成されましたが、この頃から最初の氷が形成され始めます。

2,300万年前には南アメリカ大陸との間にドレーク海峡が開き、その結果南極環流が生じて南極大陸は完全に独立します。二酸化炭素の減少は環境変化に大きく影響し、森林に替わって1,500万年前以降大陸は氷で閉ざされました。現在の南極大陸は地表の98%が氷床で覆われていて、地球上の淡水の70%、氷の90%が南極大陸にあります。

 

南極大陸には70を超える湖が大陸氷床の下に存在します。ボストーク湖は1996年にロシアのボストーク基地直下に発見された最大の氷底湖で、50~100万年前に氷によって封鎖されたものと考えられていましたが、最近の調査では他の湖と大きな水の流れのあることが判明しました。

 

南極大陸や周辺諸島には2つの火山帯があります。ロス島のエレバス山は世界で最も南にある活火山です。南極にあるもう一つの活火山はサウスシェトランド諸島のデセプション島で、1970年に噴火しその後も温泉や小規模な噴火が確認され、今後も噴火の可能性があります。

南極圏に初めて半恒常的に居住した人々は、1786年から1年以上の期間をサウスジョージア島で過ごしたアザラシ猟師のイギリス人やアメリカ人でした。1966年までは捕鯨が行われていて、夏は1,000人以上、最盛期には2,000人以上が住み、冬にも200人程度が残っていました。この頃の住人はノルウェー人でしたが、イギリス人の比率も増えつつありました。

南極大陸に生きる陸生脊椎動物は非常に少なく、無脊椎動物では南極ササラダニなど5種類のダニハジラミ線形動物緩歩動物輪形動物オキアミトビムシ目などがいます。体長6mmにもならない飛べない小虫ナンキョクユスリカは南極大陸に広く分布する固有種です。ユキドリは南極大陸でもっぱら繁殖活動を行う3種の鳥のひとつです。

植物プランクトンを餌とする海洋生物は多様で、ナンキョクオキアミはその代表です。南極にはペンギンシロナガスクジラシャチダイオウホウズキイカオットセイアザラシなどが棲息しています。亜南極域を含めるとペンギンはコウテイペンギンアデリーペンギンキングペンギンアゴヒゲペンギンなど8種類がいます。

 

エビにそっくりなナンキョクオキアミは体長6㎝で大規模な群れをつくり、アザラシ、イカ、マジェランアイナメ、ペンギン、アホウドリなどの重要な餌です。年間でアザラシ類が6,300万~1億3,000万t、鯨類は3,400万~4,300万t、鳥類は1,500万~2,000万t、イカ類は3000万~1億t、魚類は1,000万~2,000万tのナンキョクオキアミを消費していると見積もられています。

クジラや鳥など大型の生物が周遊し、蠕虫やナマコや遊泳するカタツムリなどが北極・南極の両海洋部で発見されるのは、両極と赤道域を繋いで流れる海洋深層水の温度変化が5℃を上回らないためと考えられています。

南極海の水は冷たい表層水、暖かい深層水、冷たい底層水の3つに大きく分かれますが、表層の水は海氷や空気によって冷やされマイナスの温度である一方、深層の水はプラスの温度です。

地表に生える藻類地衣類を含む菌類以外に、約100種の蘚類や25種の苔類などコケ植物が大陸に広く分布しますが、顕花植物は南極半島のナンキョクコメススキナンキョクミドリナデシコの2種類しか存在しません。成長する季節は夏のみで長くとも2~3週間に限られます。

菌類は1,150種が確認され、藻類も数百種存在し、夏の間さまざまな氷雪藻珪藻が沿岸水域で豊富に繁殖します。近年、氷河の下になる深いところから古代生態系に属する複数のバクテリアが生きた状態で発見されました。

1980年に発効された南極の海洋生物資源の保存に関する条約は、南氷洋で操業するすべての漁業活動を制御するよう定めていますが、密漁は止みません。マジェランアイナメはチリ沿岸産と偽ってアメリカ市場で売られ、2000年の密漁は32,000tでした。

1998年に南極条約議定書が発効され、南極の生物多様性の保護と管理に関する主要な手段となりました。域外から意図せざる外来生物が南極大陸に持ち込まれるリスクに注意を払っています。

南極大陸では石炭・石油・天然ガスが発見され、大陸棚を含めるとコバルトマンガンニッケルチタンウランプラチナクロムの存在も推定されています。宝石類では昭和基地近郊だけでもルビーサファイアベリルガーネットが発見されています。1998年の議定書で経済的な発掘や採掘は2048年まで一切禁止されました。

観光は1957年から行われており、クルーズ船のほとんどは南極半島付近に立ち寄り、象徴的な野生生物を観察しやすい場所を訪れます。遊覧飛行では1979年にニュージーランド航空のエレバス山墜落事故で257名が死亡しましたが、カンタス航空は1990年代半ばにオーストラリア発の南極上空飛行を再開しています。

 

南極大陸の地域に領有権を主張する国は複数ありますが、領有権の主張は正当性を持たず、新たな領有権主張は1959年以降中断しています。毎年28の国々の研究者が、地球上の他の地域では出来ない生物学地質学海洋学物理学天文学雪氷学気象学などの研究を行っています。

地質学ではプレートテクトニクス宇宙空間からの隕石、ゴンドワナ大陸分裂の証拠探査が主に行われます。南極大陸の地質調査は厚い氷の層に阻まれてきましたが、リモートセンシング地中レーダー探査衛星画像の使用など新たな技術が導入されて、氷の下に眠る構造が明らかになり始めました。

西南極の地質はアンデス山脈と似ていて、南極半島古生代終盤から中生代初頭に海底沈殿物が隆起と変成作用を起こして形づくられました。西南極で一般的な岩石はジュラ紀に形成された火山岩の安山岩流紋岩です。

東南極は30億年以上前に形成された変成岩火成岩の台地で構成され、この上に比較的近年デボン紀やジュラ紀に積み上がった砂岩石灰岩頁岩などが載り、南極横断山脈が形成されました。

 

南極点まで100m以内の距離にあるアムンセン・スコット基地は厚さ2,800mの氷の上にありますが、宇宙マイクロ波背景放射の調査をドームで行っています。高地であるため大気が薄く、気温や湿度が低く、光害の影響も少ない南極大陸内陸部は、鮮明な宇宙の画像を得られる地球上では稀な場所です。

この基地の下1.5kmの氷の中にはアイスキューブ・ニュートリノ観測所があり、世界最大の遮蔽性と検出媒体の性質の両方を持つ南極大陸の氷を利用して観測が行われています。

1970年代から南極大陸上空の大気圏にあるオゾン層の観測が行われ、最初にオゾンホールを発見したのは南極観測隊忠鉢繁です。観測したオゾン全量があまりに小さく忠鉢は計器の故障を疑ったほどでしたが、1984年の国際オゾンシンポジウムで発表しました。イギリスも観測結果から1985年にオゾンホールを発見し、このホールは人類が使用したフロン類によってオゾンが破壊されて生じたものと判明しました。大気層に見られる巨大なオゾンホールは年々南極上空で成長しています。

成層圏でのオゾン層はほとんどの紫外線を吸収しますが、南極上空で欠乏するとそこの成層圏の温度が6℃程下がります。そうなると南極大陸を取り囲むように吹く西風(極渦)が強まり、大陸の冷気を封じ込めて東南極の氷床の温度が下がります。

対照的に南極半島周辺の温度は上昇して氷の溶解を促進しますが、オゾン層破壊による南極圏への極渦効果の高まりによって、大陸沿岸の海氷はむしろ増えることが見込まれています。

南極大陸は日照が少なく、気温が非常に低く、水はほとんど氷の状態で存在し、少ない降水は雪として降り注ぎ、夏に溶けない分が蓄積されて巨大な氷床を形成して陸を覆います。その一部は大陸沿岸へ向かう年間数m の氷河流になり、沿岸部では数百mの動きを持ち、大陸上の氷の塊が押し出されて棚氷(氷河が海に張り出して浮いている部分、厚さ100~300m)を形成します。

東南極は大陸の大部分を占める広大で標高が高く寒冷な領域です。氷床を沿岸へ押し出す役目をする降雪が少なく、東南極氷床全体の質量収支はほぼ均衡または僅かに増加していると考えられています。

氷の融解と海面上昇の相関については、北極海は海水が凍って比重の軽くなった氷が海面に浮いているだけで、溶ければ元の海水になるため海面上昇は起こりません。南極大陸の周辺の浮氷も凍ったり溶けたりしますが、元は海水なので海面上昇とは無関係です。

グリーンランドは北極海と北大西洋の間にある日本の面積の6倍近い世界最大ですが、大部分が北極圏に属して全島の80%以上は氷床万年雪に覆われ、氷の厚さは3,000m以上に達します。

1972年以降にグリーンランドの氷の融解がもたらした海面上昇は1.37㎝になりますが、上昇の半分は過去8年間に急速に起きていて、現在は1980年代の6倍の速さで海面上昇が進行しています。

南極大陸の氷がすべて溶けると海面が60m上昇し、グリーンランドの氷が全部溶けると7mの海面上昇をもたらす計算になりますが、南極大陸では氷が解けると氷の重さで沈んでいた土地が隆起するので、その差し引きで海面上昇は40〜70mと考えられています。

しかし現在の南極の氷の収支からは、南極のすべての氷が溶けてしまう心配はしなくてもよさそうなのが救いです。

 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

承久の乱(日本の支配態勢4)

2019-07-11 06:36:11 | 日記

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年承久3年)に後鳥羽上皇鎌倉幕府執権北条義時討伐のために兵を起こした、日本史上初の朝廷武家政権との武力闘争です。朝廷が敗れ後鳥羽上皇は隠岐に配流されました。

1185年源頼朝が樹立した鎌倉幕府は諸国に守護地頭を設置しましたが、西国では依然として朝廷の力が強く、幕府と朝廷の二頭政治の状態にありました。初代将軍頼朝が落馬して死亡し、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝が暗殺されて源氏の血統が絶え、1219年以降鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握ります。

この2年後の承久の乱で幕府の政治体制が固まり、京都に六波羅探題が置かれて朝廷の権力は制限され、幕府は皇位継承にも影響力を持ちます。

後鳥羽上皇は多芸多才で「新古今和歌集」を自ら撰する外に武芸にも通じた異色の天皇で、北面武士に加えて西面武士を置き朝廷の軍事力の強化を図りました。

 

後鳥羽上皇の財源は諸国にある膨大な荘園群でしたが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれると年貢の未納が起こり、上皇やその近臣と紛争を起こします。

1219年三代将軍実朝が暗殺され、頼朝正室の北条政子が幕府の政務を代行し、弟の義時執権として補佐することになりました。幕府の新たな京都守護として北条氏の外戚の伊賀光季と、幕府の宿老大江広元の嫡男で朝廷とつながりの深い大江親広が派遣されます。

幕府は新将軍に後鳥羽上皇の皇子の雅成親王を迎えたいと申し出ますが、上皇は愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘と倉橋荘の地頭の撤廃と、幕府御家人仁科盛遠義時に無断で西面武士となって所領を没収された処分の撤回を条件とします。

義時はこの条件を拒否し、弟の時房に1,000騎を与えて上洛させて交渉させますが不調に終わります。義時は摂関家から将軍を迎えることとし、同年6月に九条道家の子三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が政務を執る体制を採りました。

同年7月内裏守護の源頼茂後鳥羽上皇の指揮する兵に襲撃され、頼茂は仁寿殿に篭り火を掛けて自害する事件が起きました。後鳥羽上皇が鎌倉調伏の加持祈祷を行っていたのを頼茂が知ったのが理由とされています。

後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めましたが土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実をはじめ多くの公卿たちも反対でした。順徳天皇は討幕に積極的で仲恭天皇に譲位して協力します。

譲位後近衛家実が退けられて新帝の外戚九条道家が摂政となり、寺社に命じて秘かに義時調伏の加持祈祷が行われました。朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となります。

1221年(承久3年)5月14日後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に、北面武士・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士たち1,700余騎を集め、その中には幕府御家人尾張守護小野盛綱近江守護佐々木広綱検非違使判官三浦胤義も含まれていました。

幕府の京都守護大江親広は京方に加わりましたが、伊賀光季は応じませんでした。親幕派の大納言西園寺公経が幽閉され、翌15日に京方の800騎が伊賀光季を襲い、光季は討死しましたが下人を落ち延びさせて変事を鎌倉に知らせます。

後鳥羽上皇は幕府の有力御家人に対して義時追討の院宣を発します。朝廷も諸国の御家人、守護、地頭らを対象に、義時追討の官宣旨を出しました。京方の士気は大いに上がり、京方は院宣の効果を絶対視して諸国の武士はこぞって味方すると確信していました。

19日に鎌倉に上皇挙兵の急報が伊賀光季と西園寺公経から届き、上皇が義時追討の院宣を幕府の有力御家人に送った使者はその後に着いて幕府方に捕らえられます。

有力御家人の三浦義村には上皇近臣の弟の胤義から決起をうながす使者が送られましたが、義村は誘いの密書をただちに幕府に届け、21日には挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきます。

上皇挙兵の報を御家人達より先に知った幕府は、「承久記」によれば北条政子が大勢の御家人達を前に幕府創設以来の頼朝の恩顧を説き、讒言により非議の綸旨を下されたが、逆臣の藤原秀康・三浦胤義等を討取り実朝の遺業を引き継ぐよう涙ながらに訴えました。

 

御家人の院宣に抗する姿勢は固まりましたが、鎌倉の武士の多くはどちらに味方をすれば勝てるかをしぶとく分析し、北条家からの恩賞の約束なども検討した上で鎌倉への支持を決めたのでした。

義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らで軍議が開かれ、広元が京への出撃を主張し、政子の裁決で5月22日には東海道東山道北陸道の三方から京へ向けて出兵しました。

あまりにも急であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向しました。「増鏡」によると泰時は鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いて来た場合の対処を義時に尋ね、義時は「朝廷には弓は引けぬ。兵だけであれば力の限り戦え」と答えました。幕府軍は進軍中に急速に兵力が増え「吾妻鏡」によれば19万騎になりました。

義時は捕らえていた上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返します。幕府軍の出撃を予測していなかった京方は狼狽し、藤原秀康を総大将として迎え撃つことになりました。京方は1万7,500騎を美濃国へ差し向けますが、美濃と尾張の国境の尾張川で兵力を分散して布陣する愚を犯しました。

6月5日武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2,000騎を撃破し、藤原秀康と三浦胤義は支えきれないとみて早々に退却します。

6日に主力の泰時、時房の率いる東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻で、山田重忠だけが杭瀬川で奮戦しますが京方は総崩れになります。北条朝時率いる北陸道軍4万騎も砺波山で京方を撃破し、加賀国に乱入して京を目指しました。

京方が見込んでいた鎌倉方御家人の幕府からの離反はなく、予想外の防禦戦を強いられた京方は都周辺の兵力を確保していたものの、西国の武士は参戦する前に勝敗が決してしまうことになりました。

美濃・尾張の敗報で、上皇は自ら武装して比叡山に登り僧兵の協力を求めますが、それまでの上皇の寺社抑制策が災いして拒否され、京方は残る全兵力で宇治・瀬田に布陣して宇治川で幕府軍を防ぐことにしました。

6月13日京方は宇治川の橋を落として防戦します。幕府軍は豪雨による増水のため攻めあぐねましたが翌14日に佐々木信綱を先頭に敵前渡河し、敵陣の突破に成功しました。京方は潰走して14日夜には幕府軍が京へなだれ込み、寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち略奪暴行を働きました。

 

「承久記」によると敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をと御所に駆けつけますが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返し、山田重忠は「大臆病の君に騙られた」と門を叩き憤慨しました。

後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる院宣を下します。上皇に見捨てられた京方の武士は東寺に立て篭って抵抗しました。

三浦義村がこれを攻めて藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害しました。その後山田重忠も落ち延びた先で自害し、藤原秀康は幕府軍の捕虜となりました。

7月首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島に配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐国へ流され、後鳥羽上皇の皇子の雅成親王頼仁親王もそれぞれ但馬国備前国へ流されました。仲恭天皇が廃され、後堀河天皇が即位します。

後鳥羽上皇に拘束されていた親幕派の西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。後鳥羽上皇の膨大な荘園群は没収されて行助法親王(後堀河天皇の父)に与えられましたが、その支配権は幕府が握っていました。

討幕計画に参加した上皇方の一条信能らの公卿は鎌倉に送られる途上で次々に処刑され、坊門忠信らの院近臣も各地への流罪や謹慎処分になりました。藤原秀康、藤原秀澄後藤基清佐々木経高河野通信大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放されます。

幕府軍の総大将の泰時、時房は京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士を統率します。朝廷は京都守護に代って新たに設置された六波羅探題の監視を受けることになり、幕府の統制が強化されました。

西国での京方の公家、武士の所領3,000か所が没収されて戦功があった幕府方の御家人に分け与えられ、執権北条氏と御家人との信頼関係が強まって多くの御家人が西国に移り住み、幕府の支配が強く及ぶようになります。

幕府は皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てることになりました。承久の乱は鎌倉と京都の二元政治を終わらせ本格的な武家政権を確立しました。

承久の乱の翌年に生まれた日蓮は、この時の朝廷には既に国家を統治する力がなく「王法すでに尽ぬ」と解しました。古代の支配者であった天皇は律令制の崩壊とともに中世以降政治上の実権を失います。

政治の実権を握った各時代の武家政権は自らの権威づけに朝廷を利用したため、朝廷は権威の象徴として永らえましたが、人民が国家の支配者として朝廷を実感することはありませんでした。明治維新も下級武士のクーデターであったため、幕藩体制に代わる政治体制を築き上げるには天皇を絶対的な支配者と位置付けることが必要でした。

古代の支配者は権威の象徴として人民に元号を使用させましたが、後醍醐天皇一代で文保元応元亨正中嘉暦元徳元弘建武延元と9回も改元されるようでは、十干十二支の六十周年の紀年法で事足りていた人民の日常には、元号はまったく無縁の存在でした。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする