「戊辰戦争」は1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」から始まり、1869年(明治2年)の「箱館戦争」で終わった国内戦争ですが、江戸幕府の中世の政治体制が終わり、明治維新によって我が国は近代国家に生まれ変わりました。
戊辰戦争については、江戸城の無血開城の途を開いた西郷隆盛、勝安芳の会談や、「会津戦争」での鶴ヶ城の落城と白虎隊の最後などは良く伝えられていますが、「東北戦争」で朝敵となった庄内藩の新政府軍への果敢な敵対行為、新政府軍に加わって抜群の功績を挙げた久保田藩(秋田藩)の活躍については、多くは語られていません。
京都所司代として京都の治安を担当していた会津藩主松平容保は、尊王攘夷派を弾圧して志士たちの恨みを買い、鳥羽・伏見の戦いでは弟の桑名藩主松平定敬と共に旧幕府軍の主力となって、朝敵と認定されます。
鳥羽伏見の戦いに勝った新政府は、慶応4年(1868年)1月17日仙台藩に会津藩の追討を命じますが、仙台藩は動きません。2月25日庄内藩に会津藩追討への参加を迫りましたが、庄内藩は拒否します。会津藩は天皇への嘆願書で恭順を表明しましたが、新政府の権威は認めず、謝罪もせず、武装も解きませんでした。
3月22日会津藩と庄内藩討伐のための新政府軍が海路仙台に到着します。「奥羽鎮撫総督府」の総督九条道孝、副総督澤為量、参謀醍醐忠敬、下参謀世良修蔵(長州藩)、大山綱良(薩摩藩)らが率いた薩摩兵、長州兵200名、筑前兵158名、仙台兵100名でした。3月29日奥羽鎮撫総督府は東北地方諸藩に会津藩と庄内藩の追討を命じます。
戊辰戦争の戦線の変遷
4月10日庄内藩主酒井忠篤が江戸城下を荒らし回っていた薩摩藩の江戸屋敷を焼き討し、翌4月11日に江戸城が無血開城、4月19日仙台藩主伊達慶邦率いる仙台軍が会津藩領に進攻しました。仙台藩は3月26日に会津藩に降伏勧告をしており、4月21日会津藩は仙台藩に降伏します。
会津藩の降伏の条件は、会津藩が武装を維持して新政府の立ち入りを許さずに藩主松平容保が城外へ退去して謹慎することと領地の減封でした。しかし会津藩は数日後に合意を翻す内容を仙台藩に伝え、仙台藩は会津藩への降伏の説得を諦めます。
4月23日澤副総督率いる新政府軍が、庄内藩攻撃のため仙台から出陣しました。新政府軍は奥羽鎮撫使先導役を命じられた天童藩の先導で庄内藩に向かいましたが、庄内藩の強力な武力に大敗を喫し、逆に、天童城や城下の半分を焼き討ちされます。
庄内藩は大富豪の本間家の献金で軍備の洋式化が進んでいて、7連発のスペンサー銃など最新式の銃や大量の弾薬を手にしており、最終的には4,500名の兵力を動員します。
宇都宮城を旧幕府軍が4月19日に一時的に占領した報が伝わると、仙台藩では会津藩、庄内藩と協調して新政府に敵対する意見が多数に上ります。閏4月4日仙台藩主席家老但木成行は奥羽14藩の会議を開き、会津藩、庄内藩の赦免の嘆願書を新政府に提出します。歎願書には要求が入れられない場合、新政府に敵対する声明が付けられていました。閏4月17日新政府は嘆願書を却下し、奥羽14藩は政府軍への敵対を決めます。
閏4月20日仙台藩と福島藩は仙台からの新政府軍の留守中に、総督府の下参謀世良修蔵、報国隊勝見善太郎を捕えて斬首し、九条総督と醍醐参謀を仙台城下に軟禁しました。
閏4月21日薩摩藩士鮫島金兵衛を軍監とする盛岡藩兵が新政府軍への援軍として仙台まで来ましたが、仙台藩は盛岡藩の進軍を遮って鮫島を殺害し、盛岡藩兵は仙台藩と戦端を開くのを避けて撤兵しました。
閏4月22日会津藩と庄内藩の赦免を嘆願する会議を、新政府に敵対する軍事同盟に切り換える工作が仙台藩と米沢藩を中心に展開されました。赦免の嘆願書は天皇に直接建白する形に変更され、閏4月23日新たに東北の11藩を加えた25藩による「奥羽列藩盟約書」が調印されて、会津、庄内両藩への寛典を要望する太政官建白書も作成されます。
新政府軍が「北越戦争」で武装中立を認めなかった長岡藩、新発田藩等の「北越同盟」6藩が奥羽列藩同盟に加入し、31藩による「奥羽越列藩同盟」が成立しました。
この列藩同盟は天皇への嘆願を目的とする各藩のゆるい連合体の会議が、途中から新政府に敵対する明確な軍事同盟に換ったため、敵対を考えていなかった藩の思惑とは異なる結果となり、軍事同盟としての統一戦略を欠きます。
仙台藩と会津藩は上野戦争から逃れてきた孝明天皇の義弟、輪王寺宮公現法親王を仙台城下に迎え入れ、6月16日軍事的要素を含まない条件で列藩同盟の盟主に据えました。
新政府は軟禁された九条総督と醍醐参謀救出のために、佐賀藩士前山長定率いる佐賀藩兵と小倉藩兵を仙台に派遣します。閏4月29日この新政府軍部隊が海路で仙台に到着します。仙台藩は到着したのが薩長両藩の部隊ではなかったことから、折角、軟禁していた2名を前山の部隊に引き渡してしまい、新政府に人質を騙し取られた結果になりました。
6月18日救出された総督府の一行は盛岡に到着します。盛岡藩主南部利剛は1万両を献金しますが、態度は曖昧なままです。7月1日総督府一行は久保田藩(秋田藩)に入りました。久保田藩は国学者平田篤胤の出身地で尊王派が勢力を保っていました。
当時の久保田藩内には、弘前藩説得のために弘前に入ろうとした澤副総督が、弘前藩の反政府派に峠を封鎖されて留まっており、総督府の一行は結果的に澤、大山らの残存部隊と、久保田藩内で集結することになりました。
久保田藩の新政府への接近に気付いた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣します。新政府軍の大山らの働きかけで、仙台藩による世良の殺害を知った久保田藩の尊皇攘夷派が、7月4日仙台藩の使者と盛岡藩の随員全員を殺害し、久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱して、東北地方における新政府軍の拠点となりました。
久保田藩に続いて新庄藩、本荘藩、亀田藩、矢島藩も新政府軍に恭順を示し、庄内藩は一部の部隊を北方へ向けて7月14日新庄藩主戸沢氏の居城新庄城を攻略、以後、反政府の庄内藩、仙台藩の部隊は新政府軍に付いた久保田領、本荘領、矢島領を次々と制圧していきます。
亀田藩は列藩同盟軍との交戦中に新政府軍に見殺しにされて、庄内藩と和議を結び、再度、列藩同盟軍に参加しました。どちらに属するか定まらなかった盛岡藩は、家老の楢山佐渡が列藩同盟に与することに決め、8月9日盛岡藩は久保田藩領に進攻して大館城を攻略しました。
久保田軍は本城の秋田城まで僅か3里(12キロ)の地点に防衛陣地を構築せざるを得ないほど追い詰められましたが、9月7日には新政府軍の援軍が到着して盛岡軍を藩境まで押し返します。
9月12日に上山藩が新政府軍に降伏、22日会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決し、同日盛岡藩が新政府軍に降伏、9月24日新政府軍の領内への侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏しました。
各藩の位置関係
明治2年(1869年)5月各藩主に代わり「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂時秀、会津藩家老萱野長修が東京で、盛岡藩家老楢山佐渡が盛岡で刎首刑に処され、仙台藩家老の玉虫左太夫と若生文十郎も切腹させられました。
明治2年6月新政府から東北戦争の賞典として、久保田藩へ2万石、新庄藩へ1万5千石、弘前藩と本荘藩へ1万石、矢島藩へ1千石が、また岩崎藩(久保田新田藩)へは賞典金として2千両が下賜されました。
これらの賞典は各藩が消費した戦費や蒙った戦災の被害に対して、まったく見合わない少額で、特に久保田藩は藩領の3分の2が兵火にかかって人家の4割を焼失し、奥羽鎮撫使に従った15藩の約1万の将兵や、新庄藩、本荘藩、矢島藩から逃亡してきた藩主や藩士の家族の賄いまでのすべてを負担した結果、推定総額675,000両の戦費を消費していました。
新政府軍の中心となって働いた久保田藩の貢献度を、新政府が新政府軍並みに評価しなかった仕置きに不満が高まり、後の久保田藩領内での反政府運動に繋がります。
列藩同盟軍の中心となって敵対した庄内藩は、藩主酒井忠篤が強制隠居の上で謹慎、16万7,000石から12万石への減封で、忠篤の弟の忠宝の後継が許されました。
庄内藩への寛大な処分は、本間家を中心とする御用商人や上級武士、地主などによる新政府への献金や、西郷隆盛の意向が働いたためと云われます。忠篤は西郷への恩義を感じて、西郷の遺訓「南洲翁遺訓」を編纂したほどで、後の西南戦争でも元庄内藩士が西郷軍に参加しています。
盛岡藩主南部利剛は強制隠居の上謹慎、所領20万石が没収されて旧仙台藩領の白石へ13万石で転封され、利剛の長男利恭の後継が許されました。利恭は明治2年7月22日13万石で旧領盛岡への復帰が認められましたが、翌明治3年7月10日財政難により全国に先駆けて廃藩します。
亀田藩主岩城隆邦は強制隠居の上で謹慎、所領2万石のうち2,000石を没収されましたが、親族の堀田家から隆彰を養子に迎えて後継を許されました。
亀田藩の処分も庄内藩と同様に軽く、降伏嘆願書を提出した黒田清隆に、敵味方の両大藩に挟まれた小藩の事情を理解してもらえたのが、処分の軽く済んだ理由と云われています。
仙台藩伊達氏は全国の諸大名の中で最大の34万石の減封をされ、秩禄が減り困窮した家臣団が北海道へ入植して、新政府と共に札幌市を開拓したほか単独で伊達市なども開拓して、北海道開拓に功績を遺すことになります。
明治2年9月11日新政府は、会津松平家の禄高28万石を3万石へ減封して家名存続を許しました。11月3日封地を陸奥に決定し斗南に転封されます。現在の青森県東部の十和田市付近と、下北半島の大半の飛び地への転封でした。
斗南はまったくの不毛の土地で、実際に収穫される米は7千石に過ぎず、主家の存続を喜び、斗南の地の収容能力を超えて移住した1万7千人の旧会津藩士とその家族は、飢えと寒さで病死者が続出し、下北半島の飛び地への移住者は、特に、悲惨でした。
東北戦争の最終戦の函館戦争は、明治3年(1869年)6月黒田清隆の降伏勧告に榎本武揚が応じて終結しましたが、戊辰戦争によって諸藩の財政の極度の窮乏や、藩主の藩内統制力の喪失、勤王、佐幕両派の藩内抗争などが広く顕在化し、幕藩体制の解体が大きく促進されます。
藩主の多くは領地再編成で領主の権威が保たれ、危機から脱出できることを願って新政権への依存度を高め、この藩主階級の願望と新政府の政策が結びついて1869年(明治2年)版籍奉還が実現しました。
欧米諸国は戊辰戦争に対して局外中立の立場を取りましたが、フランスのレオン・ロッシュ公使は旧幕府側を支援、イギリス駐日公使館の通訳官アーネスト・サトウが日本の政権を「将軍」から「諸侯連合」に移すべきと発表するなど中立に反する動きが見られ、イギリスのトーマス・グラバーやプロイセンのスネル兄弟などの武器商人も、新政府、旧幕府の双方に武器を売却していました。
いずれにしても戊辰戦争が1年半の短い期間で終了し、中世の封建制度の終焉と近代の中央集権的統一国家の樹立がもたらされ、諸外国による我が国の植民地化の危機を回避できたのは、我が国にとって、大変、幸いでした。