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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

日ロ平和条約

2018-11-28 06:17:46 | 日記

2018年11月14日安倍首相はシンガポールでプーチン大統領と日ロ首脳会談を行い、領土交渉を含む平和条約締結交渉を加速させることで合意したと発表しました。

2018年9月のウラジオストクの国際会議の場で、プーチン大統領が同席した安倍首相に抜き打ち的に「前提条件抜きの年末までの平和条約締結」を提案しましたが首相は即答せず、北方領土の帰属問題解決が先と云う日本の立場を後に改めて伝えています。今回の会談は大統領の提案後の初の公式会談では、首相から平和条約締結を切り出したと云われます。

これまで日本政府は我が国固有の領土として、北方四島の一括返還を求めてきました。会談の翌日も官房長官が日本政府の基本方針は領土問題解決と平和条約締結で、この方針に変わりはないと繰り返しましたが、ポツダム宣言を受諾しサンフランシスコ平和条約に署名した我が国は、千島列島に関するすべての権利、権原及び請求権を放棄しています。四島の一括返還を求める法的根拠はありません。

1956年の「日ソ共同宣言」には平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すと書かれていますが、1960年日本が日米新安保条約を締結したことにソ連が反発し、ソ連領である2島を引き渡すのは両国間の友好関係に基づくものであったとして、2島の引き渡しを撤回しました。1993年エリツィン大統領が来日した際に「日ソ間のすべての約束は日ロ間でも引き続き適用される」ことが確認されて、2島引き渡しが復活したのです。

2016年11月には谷内国家安全保障局長が「2島を引き渡したら米軍基地が置かれるのか」とのロシア側の質問に「可能性はある」と正直に答えていて、日米安保の下ではどこにでも米軍基地は自由に設置できますから、日米安保を解消しない限り2島の引き渡しはあり得ないのです。

「北方領土問題」については以前にも書きましたが、日本人誰もがこれまでの歴史的経過を正しく理解しているべきです。2015年10月14日のブログをそのまま再掲しますが、参考にしていただければ幸いです。

 

北方領土問題(再掲)

2015-10-14 06:31:37 | 日記

北方領土問題は、現在ロシア連邦が実効支配している択捉島国後島色丹島歯舞群島の4島の返還を日本が求めている問題ですが、戦後70年も日ロ間で平和条約が結ばれていないことの方がより大きな問題です。

歴史的な千島列島の帰属については、1855年に日本とロシア帝国が日露和親条約を結び、択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間を国境線としました。1875年日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、千島列島を日本領、樺太をロシア領とします。1905年日露戦争で、南樺太が日本に割譲されました。

1941年に日本は第二次世界大戦に突入しましたが、1943年11月にエジプトのカイロで行われたルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談では、連合国側の勝利を確信して対日方針が協議され、12月1日に発表されたのが「カイロ宣言」です。

「カイロ宣言」では日本の無条件降伏と、満州台湾澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立が宣言されています。カイロ宣言の対日方針はその後の連合国の基本方針となりポツダム宣言に継承されますが、南樺太や千島列島については触れていません。

1945年2月ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談し、日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2、3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡す戦勝権益が話し合われました。

1945年4月5日ソ連は、日ソ中立条約の破棄を我が国に通告します。日ソ中立条約は1年前に通告しなければ自動更新されることになっており、この通告で1946年4月25日に失効することになりました。

日ソ中立条約の失効前の1945年8月8日に、ソ連はヤルタ協定に従い対日宣戦布告し、8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連軍は、8月25日に南樺太を占領、8月28日から9月1日までに択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領しました。8月18日カムチャツカ半島から千島列島に侵入したソ連軍は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領しています。

日本は8月14日ポツダム宣言を受諾し、9月2日連合国が作成した降伏文書に調印しました。ポツダム宣言の第8条には、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国と、われらの決定した諸小島に限られなければならないと記されています。

1946年1月29日GHQ指令第677号により、南樺太・千島列島・歯舞・色丹の日本の行政権が停止され、南樺太・千島はソ連の行政管轄区域となりました。1946年2月2日ソ連邦最高会議は、南樺太及び千島列島を1945年9月20日に溯って国有化宣言します。

ソ連は連合国の一員として日本統治への関与を求め、連合国軍最高司令官の諮問機関である対日理事会に参加しましたが、アメリカ占領軍のマッカーサーは対日理事会を無視し、日ソ両国の外交ルートはほぼ完全に途絶しました。

その後1948年に日ソ間の民間貿易協定が結ばれ、ソ連が併合を宣言した南樺太や千島列島の日本人島民や、満州や朝鮮半島に取り残された居留民、さらにシベリアに抑留された日本軍将兵の日本への送還は続けられましたが、両国間の継続的な外交関係は築かれないままでした。

1950年2月14日ソ連は国共内戦に勝利した中華人民共和国との間に、中ソ友好同盟相互援助条約を締結しました。同年6月25日に勃発した朝鮮戦争では日本がアメリカ軍の後方支援基地となる一方、ソ連が中国を全面的に軍事援助し、空軍兵士を参戦させました。

ソ連がシベリア抑留者の一部を戦争犯罪人としてソ連国内で服役させたことや、日本政府とアメリカ占領当局がレッドパージにより日本共産党を弾圧し事実上非合法化したそれぞれの国内事情も、関係正常化の阻害要因となりました。

1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本と連合国との戦争状態は正式に終結しましたが、講和会議に中華人民共和国を招請しなかったことに反発したソ連は、会議には参加したものの条約調印は拒否しました。

日本では親米の吉田首相が1954年に退陣し、アメリカ以外の国も重視した外交を模索する鳩山一郎へ政権交代したことで、対ソ外交交渉開始への環境が整います。また日本の国連加盟には、安保理事会拒否権を発動するソ連との関係正常化が不可欠となりました。

1955年6月ロンドンで日ソ国交正常化交渉が開始されましたが、日本側の松本俊一全権大使とソ連側のマリク駐英大使による交渉は北方領土問題で難航し、交渉は中断しました。12月に日本を含む18ヵ国の国連への一括加盟案に、ソ連は拒否権を発動します。

しかし対ソ国交回復と国連加盟を自らの政権の中心課題とする鳩山首相の熱意で、河野一郎農相のモスクワ訪問など交渉再開への道筋が付けられ、日ソ漁業交渉の決着が国交正常化への地ならしとなりました。

1956年10月鳩山首相はモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記との首脳会談が行われました。焦点の北方領土問題は、まず、国交回復を先行させ、平和条約締結後にソ連が歯舞群島色丹島を我が国に引き渡す前提で、平和条約の締結交渉を行う合意がされました。

 

10月19日鳩山首相とブルガーニン首相が署名し、12月12日に発効した「日ソ共同宣言」の内容は次の通りです。

日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。

日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。

ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。

ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。

ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。

日ソ両国は通商関係の交渉を開始する。

日ソ両国は漁業分野での協力を行う。

日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す。

となっています。

4島返還を主張する我が国の論拠は、平和条約に署名していないソ連との間では領土問題は確定しておらず、ソ連の占領地の併合は領土権の侵害であり、とくに北方4島は1855年の日露和親条約で平和的に確定して以来、一貫して日本固有の領土であったと云うものです。

しかし1951年のサンフランシスコ平和条約 第二章 第二条(c)では、日本国は千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しています。政府は平和条約国会でヤルタ協定の千島列島の範囲には国後島・択捉島が含まれると説明していましたが、日ソ共同宣言の前の1956年2月にはこの説明を取り消します。

我が国がポツダム宣言を受諾したこと、サンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄していること、ヤルタ協定でのソ連の戦勝権益とされた千島列島には国後島、択捉島を含んでいることで、ソ連が平和条約に署名しておらずソ連との間で領土問題は確定していないと云う論拠で、我が国固有の領土として4島の返還を主張するのは無理があります。

1960年岸信介内閣が日米安保条約改定を行ったことにソ連が反発、ソ連領である歯舞群島と色丹島を引き渡すのは、両国間の友好関係に基づくものだったとしてソ連側が2島の返還を撤回したため両国の政治的関係は再び冷却しました。1973年に日本の田中角栄首相がモスクワを訪問するまで、両国の首脳会談は17年間も開かれていません。

1993年エリツィン大統領の来日時に「日ソ間のすべての約束は日ロ間でも引き続き適用される」と云う確認がされました。2000年プーチン大統領が来日して「56年宣言(日ソ共同宣言)は有効であると考える」と発言し、2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」では、平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を日本へ引き渡すことを明記した日ソ共同宣言の法的有効性が、文書で確認されています。

今年安倍内閣はプーチン大統領の訪日を機に、北方領土問題の解決に取り組む積りのようですが、外交交渉では安保関連法案の強行採決のような理屈抜きは通用しません。法的有効性が文書で確認されているのは、2001年に両国が発表した「イルクーツク声明」の中の、日ソ共同宣言に記載された平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の2島の返還です。2島の返還には法的有効性のある文書が存在するのですから、4島返還に固執しないで、平和条約を早期に締結することの方が格段に重要です。


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ドイツ人追放 

2018-11-14 06:15:19 | 日記

我が国ではナチス・ドイツがユダヤ人に対して行った「ホロコースト」はよく知られていますが、ポーランド人に対して行った「ジェノサイド」や、ナチスへの復讐として東欧に居住していたドイツ人がすべて本国へ追放された「民族浄化」については知られていません。被害者、加害者の双方が、長年、言葉にするのをはばかったほどの凄惨な歴史です。

第二次大戦で敗けたドイツはソ連とポーランドに国土の25%を奪われましたが、ポーランド・チェコスロバキアハンガリーユーゴスラヴィアに数十世代にわたって住んできた民族ドイツ人や、東プロイセンカリーニングラードリトアニアに住んでいた民族ドイツ人も追放されました。

1986年に発表された調査では追放された民族ドイツ人の総数は11,926,000人で、自発的に移動した人数を含めると1,650万人に及びました。1945年以前の東部のドイツ領から7,122,000人、ダンツィヒから279,000人、ポーランドから661,000人、チェコスロバキアから2,911,000人、バルト三国から165,000人、ソ連から90,000人、ハンガリーから199,000人、ルーマニアから228,000人、ユーゴスラビアから271,000人が追放されました。

ソ連とポーランドは追放にあたってドイツ人への食料の提供を禁止し、飢餓や病気、民兵による暴行、復讐のための殺戮に加えて、移動中の冬の寒さが追い討ちをかけ、200万人の犠牲者を出しました。

 

ドイツ人追放の遠因は、東欧にドイツ民族の「生存圏」を求めたヒトラーの東方植民地化計画にあります。1933年政権を掌握したヒトラーは1934年にポーランドと不可侵条約を締結しましたが、ドイツの関心は住民の95%がドイツ人なのに第一次大戦国際連盟保護下に置かれたダンツィヒと、150万ものドイツ系住民が住んでいるポーランド回廊によってドイツ本土から切り離されている東プロイセンにありました。

ヒトラーは1939年4月28日ポーランドとの不可侵条約とロンドン海軍軍縮条約を破棄します。ドイツの動きを見たイギリスは、8月25日フランス・ポーランド軍事同盟を補完するポーランド・イギリス相互援助条約を締結しました。

実はその2日前の8月23日にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結され、ドイツがポーランドを侵攻してもソ連が反対しないこと、条約の秘密議定書でポーランドの西側3分の1はドイツ、東側3分の2はソ連が占領することが合意されていました。

1939年9月1日ドイツとスロバキアがポーランドに侵攻し、9月3日イギリスフランスがドイツに宣戦布告して第二次大戦が始まります。ドイツと接する長大な西側国境線を薄く浅くしか防衛出来なかったポーランド軍は開戦直後にドイツ軍に戦線を突破され、9月17日にはソ連が東側国境から侵攻を開始して、9月中にドイツ軍とソ連軍がポーランド全域を征圧しました。

これが「ポーランド侵攻」ですが、その前の5月にヒトラーの命令でポーランド人の絶滅を図った「タンネンベルク」作戦が秘密裏に練られ、6万1,000人のポーランド人活動家、知識人、俳優、元将校が逮捕者リストに収載されていた裏の歴史があります。

侵攻直前の8月にドイツ国内のポーランド系活動家2,000人が逮捕殺害され、ポーランド侵攻後リストに載った2万人のポーランド人が銃殺されました。ドイツ空軍は侵攻直後から無差別爆撃で民間人に甚大な被害を与えましたが、これもタンネンベルク作戦の思想の反映と見られます。

ポーランド軍の戦死者は6万5,000人、民間人の死者はポーランド人15万人、ドイツ系ポーランド人5,000人と推定され、ポーランド軍は42万人がドイツ軍の捕虜となり、24万人がソ連軍の捕虜となりました。

ポーランドはドイツスロバキアソ連リトアニアの4か国によって分割され、ドイツはポーランドの総督府統治地域を除くドイツ占領地域をすべてドイツ領に編入し、ドイツ領になった地域のポーランド人の財産を没収し総督府統治地域へ追いやりました。

ソ連はポーランドの東部をウクライナ白ロシアに編入し、ドイツとの住民交換の約束でバルト三国ガリツィアベッサラビアに住んでいた40万人のドイツ人をドイツ領に編入されたポーランドに移住させました。総督府地域のポーランド人は家から追い出され、家族は引き裂かれ、子供が誘拐され、強制労働を課されました。

ポーランドのドイツ人は特権的な生活を享受し、ワルシャワのドイツ人の1日平均摂取カロリーは2,613 kcalでしたが、ポーランド人は669 kcalで食物を隠れて調達したのが発覚すれば即座に銃殺されました。ゲットーのユダヤ人は253 kcalでした。

ポーランドの人口は1939年の4,280万人から1945年には3,460万人にまで激減します。ナチスにより370万人が故意に殺害され、230万人が迫害で死亡するか行方不明になったと判明するのは後のことです。ドイツが併合したチェコスロバキアでもチェコ人を劣等民族扱いしたナチスの蛮行は、広く連合国側に伝えられます。

一方ソ連によるポーランド占領でも180万人のポーランド市民が殺害されるか国外追放されました。スターリンはかつてのポーランド・ソビエト戦争での敗北の雪辱を果たしたのです。

ポーランド人はソビエト化教育を受けるか、シベリアなどに移住させられるか、労働収容所に入れられるか、殺害されるかで、100万人以上のポーランド人がシベリアや中央アジアに強制移住させられ、カティンの森の事件では捕虜のポーランド軍将校や官僚など2万1,000人が銃殺されました。

1941年6月22日ドイツがソ連に奇襲作戦を仕掛け、独ソ戦が始まります。ヒトラーはかねてからスラブ人を東欧の広大な地域から放逐して、ドイツの植民地を設けることを企図していました。

ヒトラーはソ連戦をボリシェヴィキと戦う「イデオロギーの戦争」と唱え、同時にユダヤ人やジプシーを絶滅する戦争としました。開戦当初からドイツ軍にはユダヤ人やジプシーの大量虐殺が命じられ、占領地のソ連人の共産党員、集団農場員も家族ごと組織的に殺害され、それに対する報復としてソ連軍のドイツ軍捕虜殺害が繰り返されました。

1941年の冬を迎えたドイツ軍はソ連領深くまで進攻し、クレムリンを10数キロ先に望む地点まで到達しましたが、かつてのナポレオンのモスクワ遠征と同じくロシアの極寒には勝てず、ドイツ自慢の機械化兵団は戦車のエンジンが凍り付いて動かず、1942年6月から1943年2月までのスターリングラード攻防戦も守り抜かれて、破竹の勢いだったドイツ軍優位が逆転します。

独ソ戦でのドイツ軍の戦死者は1,075万人で民間人の死者は600万人~1,000万人、ソ連軍の戦死者は1,470万人で民間人の死亡者は2,000万人〜3,000万人とされます。ソ連の軍人・民間人の死傷者の合計は第二次大戦のすべての交戦国の中で最大です。

両国の捕虜、民間人に対する扱いはともに苛酷を極め、戦争初期のソ連軍捕虜の500万人はほとんどが死亡し、ドイツ軍捕虜の300万人はソ連によって強制労働に従事させられ100万人が死亡しました。

ドイツ人の東方開拓史はゲルマン民族大移動で成立したフランク族の国がフランス、イタリア、ドイツの基礎になる領域に3分裂した9世紀に、ドイツ語を話す人々がエルベ川の東に入植したのが始まりです。

12世紀から13世紀にかけて開拓者は入植地に巨大な農場を開拓し、ユンカー(地主貴族)になりました。広大な未開拓地の少数のスラブ系先住民はドイツ文化に同化して衝突は起きませんでした。ユンカーの家系にスラブ系の苗字があるのはこの名残りです。

ドイツ帝国時代の国家主義者に強く影響を受けたヒトラーは、スラブ系民族を排除して東欧をドイツの領土とすることを目指し、ナチスの東方生存圏は東はウラル山脈の西まで、北はスエーデンまでを指す概念に拡大されました。

 

第二次大戦末期に始まったドイツ人追放は、ナチスが行った残虐行為が契機となったものですが、大戦中の1943年のテヘラン会談とドイツ降伏後の1945年7月から8月にかけてのポツダム会談で、米英ソ三国首脳により戦後ドイツの処理問題が話し合われ、将来の各地での民族間紛争を避けるためにドイツ人追放が決められました。

ソ連とポーランドの国境線を西へ移動し、東はメーメル川から西はオデール、ナイセの2つの川の間のドイツ領をポーランドの暫定統治地域とし、東プロイセンはソ連とポーランドで分割、これらの地方にいたドイツ人を追放しました。

ソ連当局から24時間以内の退去が通告され、携行品は30kg以内に限られ、残された財産はすべてソ連とポーランド政府に没収されました。旧ドイツ領以外のチェコスロバキアのズデーテン地方やハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビアに住んでいたドイツ人の追放も同時に行われました。

 

ドイツ人の本格的な受難は1945年6月にドイツが降伏してから始まります。ソ連占領地域のドイツ人女性はほぼ全員がソ連兵に強姦されました。捕虜になったドイツ軍の内100万人が復員を果たせずに死亡し、民間人のドイツ人も大量にソ連へ送られて強制労働に従事させられ、その大部分は1950年の半ばまで帰国できませんでした。

同様のことがポーランドや、シレジア、ポメラニア、東プロイセンの旧ドイツ領でも起っています。ポーランドではホロコーストを生き延びた2千人のユダヤ人がどさくさに紛れてポーランド人に虐殺され、チェコでは100万人のズデーテン・ドイツ人のうち25万人が復讐に燃えたチェコ人に殺戮されました。

米英仏のドイツ占領地域で状況が改善されたのはスターリン主義への恐怖心が高まり、ソ連兵によるドイツ人への強姦・誘拐・虐殺・略奪のあまりのひどさへの嫌悪感が東西冷戦を呼び起こしたからです。ドイツ人が体験した虐殺、国外追放、強制移住、強制収容の苦難については長く語られることがありませんでした。

最初にタブーを破ったのはノーベル文学賞作家のギュンター・グラスです。ダンツィヒ生まれのこの作家は、小説「蟹の横歩き」の中でこのテーマに挑みました。

ヒルケ・ローレンツは「戦争の子供たち」にインタビューをしました。「まるでいけないことであるかのように、戦争の話はぽつぽつとしか出なかった。同情を表すのは非常識なことだった」と彼女は云います。

地下壕で味わった爆撃の恐怖のトラウマや、母親や姉妹がレイプされるのに何もできずに目撃した体験、両親との死別について生き残った人々に語ってもらうのは並大抵のことではありません。かつて加害者だったドイツ人は他の民族に加えた苦しみを前にして、自分たち自身の苦しみをどうやって言葉にすればいいのでしょう。

ポーランド人は今もドイツ人の復讐を恐れながら暮らしていると云われ、チェコでも1945年から1946年にかけてのドイツ人への凄惨な加害の連鎖が深く記憶に刻まれています。収まることを知らない民族間の紛争は、相手の息の根を止めないと自分がやられる狩猟民族特有の狩猟本能によるものでしょうか。

ヨーロッパで大切なのは、これからの世代が民族の枠を超えて歴史を正しく学び、民族間で争うことの愚を悟ることでしょう。今後どの国もヒトラーやスターリンのような常軌を逸した狂気の独裁者の存在を許してはなりませんが、戦争は普通の人をヒトラーやスターリンにします。戦争だけは絶対にしてはいけないのです。

 

 


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