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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

軍人勅諭

2020-07-23 06:12:03 | 日記

「軍人勅諭」は略称で正式には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」です。西南戦争竹橋事件自由民権運動などで、明治維新後の徴兵よる国軍に動揺が広がり、国軍の精神的支柱を確立するために山県有朋が提案、西周(にしあまね)が作成、井上毅、福地源一郎等が加筆して1882年(明治15年)1月4日明治天皇が陸海軍軍人に下賜したものです。

実は1878年明治11年10月の竹橋事件直後に、軍人勅諭とほぼ同文の「軍人訓誡」を西周が起草し、陸軍卿山縣有朋が陸軍全将兵に配布していたのですが、「訓戒」を行き渡らせるためには「勅諭」という天皇から直接下賜された形が不可欠だったのです。

国民に広く知られていた軍人勅諭の内容は、

一 軍人は忠節を尽くすを本文とすべし
一 軍人は礼儀を正しくすべし
一 軍人は武勇を尚(とうとぶ)べし
一 軍人は信義を重んずべし
一 軍人は質素を旨とすべし

の5か条ですが、総字数2,700字に及ぶ長文です。

軍人勅諭は陸軍では全文暗誦する決まりで、海軍では全文の暗記は求められませんでしたが、昭和初期の私の世代の陸軍幼年学校志望の男の子たちは全文を暗記していました。

軍人勅諭の前文では、

「我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平に狃れて朝廷の政務も漸文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ」

と述べています。

その意は、古は天皇自らが兵を率いていましたが、中世になって古の徴兵は武士に代わり兵馬の權が武士の棟梁に歸し、世の亂と共に政治の大權も其手に落ちて七百年の間武家の政治になった我が国の兵馬の権と支配体制の移り変わりを的確に述べています。

幕府が政權を返上して古の制度に復し、兵馬の大權が天子が統ふる所となったので、子々孫々に至るまでこの旨を傳へ、再び中世以降の如き失體なからんことを望むとしたのが軍人勅諭です。

「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と天皇が軍を率いると定め、5か条の忠節の項では「上官の命令を承ること実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と命じ「政論に惑わず政治に拘わらず」「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」「天皇のため国のために命を捨てよ」と求めました。この勅諭は天皇の署名のみで国務大臣の副署はありません。

大日本帝国憲法での天皇の大権は国務、皇室、統帥、祭祀、栄典授与の五つでした。国務と皇室は国務大臣と宮内大臣が輔弼しますが、統帥には輔弼機関がなく、輔弼機関に代わるのは軍部がもつ天皇に直接奏聞することができる帷幄上奏権で、軍事は天皇が政府を介さず直接軍を統率しました。

昭和の時代になるとこの天皇の統帥権を盾に、軍部が政府の外交政策に従わなくなり、支那事変では軍部が戦線を拡大し、遂には対米戦争に突入して我が国が破滅の道を歩む元になります。

1890年(明治23年)に発布された教育勅語も国民道徳教育の理念を示すものでしたが、1930年代治安維持法国家総動員法が施行された軍国主義の時代には、教育勅語の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」が神聖化されて、軍国主義の教典と化しました。

1866年12月孝明天皇の崩御で即位した明治天皇は当時まだ14歳で、その折の小御所会議で土佐藩主山内豊信が「幼冲の天子」と称したことは広く知られています。後に大帝と云われた明治天皇も国家の意思決定の外におかれていました。

1867年10月に大政奉還、12月王政復古の大号令で新政府が樹立されたものの1868年1月鳥羽伏見で朝廷側の倒幕軍と佐幕派の諸藩軍の戊辰戦争が始まります。戊辰戦争は1年半続き、そのさなかの1868年3月14日に明治天皇が紫宸殿で公家や大名を率いて神に誓ったのが、木戸孝允が最終推敲した「五箇条の御誓文」です。

五箇条の御誓文は新政府の政治方針を示したものですが、それに基づいて新政府は「政体書」を発布しました。古に倣い太政官に権限を集中し、太政のもとに議政、行政、神祇、会計、軍務、外国、刑法の七官をおき、議政官立法を、刑法官司法を、他の五官に行政を担当させる三権分立主義の構想でしたが、時流に乗れず頓挫しました。

戊辰戦争は錦の御旗を掲げて戦った官軍が勝利しましたが、官軍と云ってもの諸の兵の集合体で、明治政府直属の御親兵も長州藩の一部に諸藩の浪人を加えたものに過ぎず、戊辰戦争が終ると元の藩兵に戻ってしまいました。

大村益次郎、西郷従道、山縣らは早くから「国民皆兵」の必要性を唱えましたが、徴兵制度は特権階級である武士の解体を意味し、政府内にも島津久光を筆頭に多くの反対論者がいました。

1871年明治3年)山縣の構想で「徴兵規則」を制定、各府藩県より士族卒族・庶人にかかわらず1万石につき5人の徴兵を定め、翌には西郷隆盛の構想の一部を取り込んで薩長土の軍が親兵として編成されました。この兵力を背景に同年廃藩置県が断行されます。

「徴兵令」は1873年に公布された法令で、国民皆兵主義をとり満20歳に達した男子兵役義務を定めましたが当初は多くの免役規定があり、1927年(昭和2年)に「兵役法」と改称、原則として帝国臣民のすべての男子に兵役の義務を課すものになりました。

1871年明治4年12月政府首脳と留学生を含む総勢107名の岩倉使節団がアメリカヨーロッパ諸国に2年近くに渡って派遣されます。一国の政府首脳がこぞって国を離れるのは極めて異例ですが、政府の首脳が西洋文明や思想に直接触れて、多くの国々の国情を体験する機会を得たことは優れた企画でした。同行した留学生も帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、我が国の文明開化に大きく貢献しました。

左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通

廃藩置県ですべての士族を支配下に置いた明治政府は、人口の5%にあたる華士族に国家予算の4割近くを俸禄として支払うことになります。1875年(明治8年)9月禄高によって米で支給していた俸禄を貨幣で支給することに変え、1876年には俸禄を廃止して30年内に償還する金禄公債を下付しました。

旧幕時代に大名であった華族は充分に報われましたが、士族にとっては1876年3月8日の廃刀令と8月5日の金禄公債証書発行条例は、帯刀俸禄と云う精神的、経済的特権を奪われるものでした。

これが契機となって同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こります。翌1877年(明治10年)2月には西郷隆盛を擁した私学校生徒に九州各地の士族2万5,000名が加わって、西南戦争が勃発しました。半年以上に及んだ不平士族の最大かつ最後の反政府反乱で、勝ったのは不平士族ではなく、徴兵された平民の官軍でした。

竹橋事件は西南戦争に参戦した近衛砲兵が直後の1878年8月に起こした反乱で、西南戦争の政府軍の勝利には近衛砲兵の大きな功績があったのに論功行賞が兵には及ばないことに不満を抱いたものです。東京鎮台兵に制圧されて死刑55名を含む400名が処罰されましたが、政府は近衛兵が反乱を起こしたことに強い衝撃を受けます。

1881年明治天皇は7月30日から10月11日まで東北、北海道を巡幸しましたが、巡幸中に大隈重信らが明治政府中枢から追放される「明治14年の政変」が起きます。北海道開拓使長官黒田清隆が、国費 1,400万円をかけた事業を同じ薩摩出身の五代友厚に 38万円で払下げる決定をし、佐賀出身の大隈がこれに強く反対しました。

伊藤博文らは払下げを中止する決定を行う一方、これをきっかけに維新以来財政政策を巡って常に対立関係にあった大隈を10月11日の御前会議で罷免し、翌 12日には大隈が提唱していた2年後の国会開設に代えて、10年後の明治 23年に国会を開設し憲法を制定する詔勅を下しました。

この政変で大隈らと伊藤らの権力争いは決着し、明治政府の政策は以後薩長藩閥グループによって決定されていきます。明治天皇は政変にはまったく関わっておらず、国会開設の勅諭が出されたのは巡行が終わった翌日でした。

軍人勅諭の下賜に天皇が直接関わっていないのも同じで、竹橋事件直後に山県が陸軍に発した「軍人訓戒」と同じ内容を「勅諭」の形で下賜することで「天皇の軍隊」が生まれたのです。

大政奉還で発足した明治政権内部にはさまざまな亀裂が生じ、その修復は困難を極めました。下級武士と少数の公家から成る新政権が徳川300年の治世を超える強大な政権を構築するためには、絶対不可侵の天皇が統率する国軍を整えて統一国家体制を確立することが必須で、軍人勅諭の下賜はその目的を果たすためでした。

天皇の兵馬の大権は我が国が第二次世界大戦に敗れるまで続きます。

 


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続縄文文化と擦文文化

2020-07-09 06:15:13 | 日記

今から2千数百年前に米づくりの技術をもった人びとが西日本にやってきて、本州に弥生文化が広がり縄文文化が終わりを迎えます。この人びとは中国の長江付近からきたようです。

弥生文化の人びとは弥生式土器を用い青銅や鉄などの金属の道具も使っていて、縄文文化の人びとは弥生文化の人びとと混血しながら現在の日本人の祖先になったと考えられています。

弥生文化は西日本から広まって東北地方まで達しましたが、北海道の人びとは米づくりをせず、縄文土器を使い続け、縄文文化を発展させていきました。しかし本州との交易によって縄文時代にはなかった鉄器を手に入れ、狩猟、漁労、採集の技術が発達しました。紀元前数世紀から7世紀ころまで北海道で続いたこの文化を「続縄文文化」と呼んでいます。

続縄文文化の初めのころ、北海道には南西部と北東部で異なる文化が広がっていました。南西部には道南の恵山(えさん)から名付けられた「恵山式土器」を用いる人々がいて「恵山文化」と呼ばれています。

続縄文文化前半の恵山文化の土器。

北海道博物館所蔵

恵山文化は多くの貝塚を残していて釣り針やモリなどがたくさん見つかり、海の漁労に依存していたと考えられますが、有珠モシリ遺跡からは南海産のイモガイ製貝輪が発見され、本州と交流があったことが分かります。

北東部では道南とは異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられました。芦別市の滝里安井遺跡には4,000個の道内最大のコハクの首飾りがあり、サハリン産のコハクも見つかっていて北方と交流があったと考えられています。

続縄文文化の後半には北海道全域に「後北式土器」が広がり、この土器は東北地方や新潟県にも広がっていて、続縄文文化が東北地方北部にも伝わっていたことが分かります。

続縄文文化後半の後北式土器

北海道博物館所蔵

余市町のフゴッペ洞窟では1〜4世紀ごろの岩に描かれた刻画が見つかっています。小樽市の手宮洞窟で見つかったものも同じ刻画だと分かりましたが、この岩面に刻画を描く文化がどこからきたのかは謎のままです。

余市町のフゴッペ洞窟刻画

5世紀になるとそれまで北海道に住んでいた人びとの文化とは大きく異なる文化をもつ人びとが、サハリンから北海道のオホーツク海沿岸にやってきました。この人びとの文化を「オホーツク文化」と呼んでいます。

このオホーツク文化は日本海沿岸にも広がり奥尻島にも遺跡がありますが、遺跡は沿岸部に限られ、内陸部には見つかりません。オホーツク文化の人びとはクジラやアザラシなどの海獣をとり、イヌやブタを飼い、大陸や本州と交易を行っていました。

海岸近くに集落をつくり、地面を五角形あるいは六角形に掘り下げた竪穴住居に住み、遺跡からは帯飾り、軟玉、小鐸、鉾などが見つかっています。これらはアムール川中下流域の靺鞨文化(4~9世紀)、同仁文化(5~10世紀)の遺跡から見つかるのと同じものです。

オホーツク式土器

ところ遺跡の森所蔵

クマの彫刻品

トコロチャシ跡遺跡出土 ところ遺跡の森所蔵

同じころ本州文化の影響をうけた北海道特有の文化が成立します。縄文土器と石器が使われなくなり、本州の土師器に似た土器と鉄器が使われます。この文化を「擦文文化」(さつもんぶんか)と呼びますが7~12世紀ごろまで続きました。

擦文土器は前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6~7世紀)、東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半~8世紀)、擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期のもの(9世紀)に大別されます。また青森県五所川原窯で作られた須恵器も北海道各地から出土しています。

擦文土器

札幌市K-446遺跡出土 札幌市埋蔵文化財センター所蔵

擦文時代の集落は狩猟や採集に適した住居の構え方をしていました。秋から冬にかけてサケ、マスなどをとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に構築したカマド付きの四角い竪穴住居の大集落の本拠で過ごし、他の時期は川の中流より奥に作った狩猟のための集落で過ごしたと考えられています。

伊茶仁カリカリウス遺跡の竪穴住居跡
擦文時代の集落として最も規模が大きく2549軒の住居跡がみつかっている

標津町ポー川史跡自然公園

擦文文化の人々は河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆など栽培した雑穀を食料にしていました。擦文時代に普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などの加工用の道具としたと考えられています。斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられ、銅鏡や中国の銅銭も見つかっています。これらの金属器は主に本州との交易で手に入れたもので、北方経由で大陸から入ってきたものもあります。

鉄製の鋤(すき) 北海道博物館所蔵

このころの北海道は東北地方と盛んな交流があり、交易によって鉄製品が急速に広まり、鉄を加工する野鍛冶の技術ももたらされました。東北地方のものとよく似た江別市や恵庭市の末期古墳では、本州産の鉄器の副葬品が見つかっています。

オホーツク文化(5~9世紀)と擦文文化(7~12世紀)は8~9世紀ごろに融合して、10世紀になるとオホーツク文化と擦文文化の両方の特徴をもった土器がつくられます。この土器を「トビニタイ土器」と呼んでいます。

トビニタイ土器

羅臼町飛仁帯出土 北海道博物館所蔵

住居も両文化の特徴をもち、遺跡は海岸だけでなく擦文文化と同じく内陸の河川沿いにもみられるようになりました。オホーツク文化の人びとが擦文文化に近い生活に移っていったことを示しています。

13・14世紀になると道南には和人が住み着くようになりました。また陶器や鉄鍋が広がって土器がつくられなくなります。住居は竪穴住居から平地住居になりカマドから炉にかわります。このように北海道の文化は北からの人びと、南からの人びとが異なる文化を相互に受け容れたものになりました。

擦文文化は北海道を中心として11世紀から13世紀に終末を迎えたようですが、10世紀から11世紀にかけては本州の北緯40度以北にも擦文文化圏が広がったとする見解を複数の研究者が示しています。
10世紀半ば(平安時代中期)から12世紀のはじめ(平安時代後期)には、北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、これを「蝦夷」(えみし)から「蝦夷」(えぞ)への転換時期とする見解が出されています。

アイヌ文化にはオホーツク文化と擦文文化の両方の要素が受け継がれていますが、アイヌ文化への移行についてははっきりしたことが分かっていません。土器が消滅して追跡が困難になったのかも知れないと云われています。

日本書紀によれば、658年阿倍比羅夫が軍船を率いて齶田(秋田)に向かい、蝦夷は組織力と戦力に勝る比羅夫軍に戦わずして降伏し、比羅夫は蝦夷の首領に位を授け渟代(めしろ)・津軽の二部の郡領に任命し、有馬浜(津軽半島)に渡り嶋(北海道)の蝦夷を招き大いに饗応して帰還しました。
659年二回目の遠征で北海道南部の蝦夷に禄を授け、660年の三回目の遠征では石狩川で粛慎(しゅくしん)と云う未知の民族と遭遇して戦いに勝ち、粛慎人47名が来朝して服従の儀礼を行い、凱旋した比羅夫は生け捕ったヒグマ2頭とヒグマの毛皮70枚を献上したとされています。

780年蝦夷の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱が起こり、紀古佐美(きのこさみ)は征東副使として遠征し、789年には征東大使として蝦夷を攻めますが、陸奥の衣川で阿弖利爲(あてるい)の軍に惨敗しました。

征夷大将軍坂上田村麻呂の名は有名ですが、794年に大伴弟麻呂の副将軍として参加した征討についても、801年に今度は田村麻呂自身が征夷大将軍として4万を率いて行った征討についても詳しい記録がなく、夷賊を討伏したとする文言しか残っていません。

802年田村麻呂は造陸奥国胆沢城使として胆沢城を造営するために陸奥国へ派遣され、10か国の浪人4,000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられています。

同年胆沢城の造営中に、大墓公阿弖利爲(たものきみあてるい)と盤具公母禮(いわぐのきみもれ)が500余人を率いて降伏してきます。このことが都に伝わり、田村麻呂が付き添って阿弖利爲と母禮を平安京まで連れて来ますが、2人とも斬られてしまいます。

「日本紀略」には公卿会議のやり取りが記載されていて、田村麻呂は阿弖利爲と母禮を故郷に帰して、彼らに現地を治めさせるのが得策であると主張しましたが、789年に紀古佐美(きのこさみ)が阿弖利爲に大敗した故事から、現地を知らない京の公家達に押し切られたようです。

東北地方弥生時代以降も続縄文文化擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南の本州とは異なる歴史をたどりました。中央政権の支配も強くは及んでおらず、律令制の時代に陸奥国出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷(えぞ)の人びとと関東以南から移住した人びとが入り混じって生活していました。

日本書紀によれば、7世紀半ばに朝廷が中国に対して蝦夷という異民族を従えていると主張していて、蝦夷を異民族とするのが政治的概念になったようですが、長谷部言人らの人類学者は石器時代の人骨の研究から異民族ではなく、東国の北辺に住み朝廷に服さなかった人びとを蝦夷と称したと考えています。

「日本書紀」「続日本紀」が伝える「正史」は朝廷が中心の歴史書です。その他の地域、特に東北、北海道の当時の人びとの生活は有史以前と同様に、考古学によらないと把握できないのです。

東北地方は弥生文化を経て古墳文化へ続く本州の他の地域と同じ流れでしたが、北海道は弥生文化を経ずに、縄文文化から続縄文文化へと展開しました。北海道の古代文化が北からもたらされたもので、本州の南からもたらされた弥生文化とは異なることを明らかにしたのは考古学です。

明治に発掘された土器の歴年の分析が正確度を増したのは昭和に入ってからですし、土器の以前の石器が初めて発掘されたのは昭和の中頃です。現在では化石のDNAの解析が進み、父系遺伝するY染色体ハプログループのアダムの原始のハプロタイプAからRまでの系統図が描かれていて、特定の民族がどの系統に属するかを知ることが出来るようになりました。

弥生文化は南から来た弥生人と縄文人の混血で発展したものですが、擦文文化は北から来たオホーツク人とアイヌに共通のハプログループY遺伝子が高い頻度で確認され、弥生時代以降の東北の人びとにも低頻度に見出だされるので、日本の古代文化が南からの文化と、北からの文化に大きく分けられることがDNA解析でも裏付けられたことになります。

我が国の古代の研究は始まってまだ間もないと云ってもよく、多くの科学的な研究手段を獲得した今後の考古学はどこまでの新たな解明をしてくれるのでしょう。

 

 


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