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幕末の海外留学(慶應2年以前)

2023-11-23 06:15:54 | 日記

幕末に我が国から海外に派遣された留学生は、1862年(文久2年)3月に幕府が蒸気船開陽丸を発注した際に、榎本武揚、西周らの15名をオランダに派遣したのが始まりです。

幕府が幕臣以外の留学希望者の出国を解禁したのは4年後の1866年5月で、この間に幕府に隠れて密航して海外留学をした留学生も能力や意欲が抜群で、我が国に特別の貢献をもたらしました。

1862年6月18日幕府がオランダに派遣した最初の留学生は、軍艦操練所から榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、田口俊平、蕃書調所から津田真道、西周、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海で、鋳物師や船大工等の職方7名が加わりました。

品川から咸臨丸で出発しましたが4名が麻疹に罹り、下田で療養して8月23日長崎着、9月11日オランダ船でバタビアへ向かいます。ジャワ島沖の暴風で船が座礁して無人島に漂着、救出されてバタビアで客船に乗り換え、1863年(文久3年)4月18日オランダのロッテルダムに到着しました。

1865年オランダで撮影した幕府留学生

後列左から伊東玄伯、林研海、榎本武揚、(布施鉉吉郎)、津田真道

前列左から沢太郎左衛門、(肥田浜五郎)、赤松則良、西周

内田正雄と田口俊平は欠席、( )は留学生でない

翌1863年長州藩が幕府に知られぬよう、井上馨ら5名を英国へ密航させます。1864年には幕府操練所で洋学を学んだ江戸在中の安中藩士新島襄が、まったくの個人で米国へ密航しました。

1865年幕臣6名がロシアへ留学し、薩摩藩から英国へ森有礼ら15名が密航、佐賀藩士3名も英国へ密航します。

1866年幕府から英国へ中村正直ら14名が留学、薩摩藩から米国へ仁礼景範ら8名が密航、横井左平太、横井大平兄弟が個人で米国へ密航しました。

1866年5月幕府は希望者の海外留学を解禁します。

1867年福井藩の日下部太郎が幕府発行の海外旅行免許で米国へ留学しましたが、病を得て3年後に留学先で亡くなります。日下部は八木郡衛門の長男に生まれ、13歳で入学資格が15歳以上の福井藩校明道館に入学、21歳で長崎へ遊学した俊英で、グイド・フルベッキが教える済美館で横井小楠の甥の横井左平太(伊勢佐太郎)、横井太平(沼川三郎)兄弟と英語習得に励みました。22歳の時に藩主の松平春嶽から日下部の名を拝領します。

日下部はニュージャージー州ニューブランズウィックに到着、1年前に密航していた伊勢佐太郎と沼川三郎の変名を名乗る横井兄弟に迎えられます。ラトガース大学付属中学校で英語と基礎教育を受け、ここの教師でラトガース大学生でもあった2歳年上のウィリアム・グリフィスと出会いました。

23歳でラトガース大学に入学、常にクラスの首席で通し、3年間に読破した本は優に200冊を超え、これらの本は日下部の遺品として故郷に送られました。

藩からの仕送りだけの乏しい生活と過度の勉学で結核を患い、卒業2か月前に24歳で夭逝したのです。ラトガース大学は抜きんでた秀才の死を悼み、大学の傍のウィロー・グローブ・セメタリーに埋葬して墓碑を建立し「大日本越前日下部太郎墓」と日本語表記しました。

大学はさらに全米大学の優秀な卒業生で組織するファイ・ベータ・カッパ協会の会員に日下部を推薦し、その証の金の鍵が、教師として福井藩に招聘されたグリフィスによって父の手に渡されました。当地で病を得た日本人留学生は多く、横井兄弟も帰国後に結核で亡くなっています。

日下部太郎

我が国では海外留学以前に外国人教師を招いていて、ペリーの初来航から2年後の1855年幕府は長崎に海軍伝習所を設け、オランダ海軍士官を教官としました。海軍伝習所で仕込まれた榎本武揚たちは、幕府がオランダに軍艦を発注したのをきっかけに留学が認められたのです。

幕末の留学生には日本には海軍がない、国際社会のことを何も知らない、自ら海外に赴いて知識や技術を修得して外敵から祖国を守りたいと云う、共通の抱負がありました。

オランダで榎本たちを世話したのは、日本に滞在して教えた経験のあるオランダ人とその紹介による人々で、留学の目的は攘夷のためでしたが、実際は国際親善そのものでした。

この時武士に同行した7人の職方が、オランダで造船や機械工学を学んでいます。輸入するだけでなく、自分たちで動かし、さらには自分たちでそれを造る、新しい人材に必要なのは身分ではなく、知識と技量と強い信念でした。

身分制を脱した西洋社会の活力をその目で見た武士達は、もはや、武士だけでは国を護れないと祖国に変革を求めます。かつて外夷と認識した相手を学ぶべき模範とみなすのに、時間はかかりませんでした。

同じ頃、職務上多様な外国語文献に接していた幕府雇の洋学者西周と津田真道は、西洋に学ぶべきは国防のための自然科学だけではないと、人文科学を学ぶ留学を希望してオランダ行きを許されました。榎本も化学に熟達する一方で、国際法等を熱心に学んでいます。

幕末の武士はすべてを身分で縛られていました。幕藩体制の不安を自覚している幕府は海外の知識や情報の独占に固執し、西は津和野藩、津田は津山藩出身で、能力に優れ幕府の機関に採用されていたがゆえに留学できたのです。

1866年(慶応2年)7月17日開陽丸が竣工し、10月25日榎本ら留学生が開陽丸とともにオランダを出発、1867年(慶応3年)3月26日横浜港に帰りました。

開陽丸

蒸気機関での巡航速度18哩、砲の射程距離3,900m

幕府以外の各藩にとって、藩士を海外留学させる途は幕府に隠れてさせる密航でした。諸藩士の海外密航の先頭を切ったのは「長州五傑」です。

長州五傑

後列左から遠藤謹助、野村弥吉、伊藤俊輔

前列左から井上聞多、山尾庸三

ペリー艦隊来航時に密出国を試みた吉田寅次郎(松陰)の刑死から4年後、長州藩は国を護る海軍を興すために西洋で学びたいという井上聞多の願いを叶え、5人を脱藩者扱いにして金策までしましたが、密航に不可欠なのは現地まで運んでくれる外国人協力者でした。

英国系商社が長州藩士のイギリス密航にあえて手を貸したのは、幕府への背信を犯しても、最も強硬な攘夷派の藩と人脈をつくることの得失を計算しての政治的判断でした。

1863年(文久3年)5月10日攘夷の朝命を受けた長州藩が、下関海峡を通過する米・仏・蘭船を砲撃します。同年8月15日~17日(文久3年7月2日~4日)前年の生麦事件の解決を迫るイギリス艦隊が、鹿児島湾で薩摩藩と激突しました。

1863年には尊王攘夷の高まりから、攘夷の即時断行を命じる朝廷に幕府は従わざるをえなくなっていました。イギリスは西国諸藩の排外主義の強さを十分に認識していても、幕府が日本政府という認識を捨てて、現時点の友好的政権である幕府とのパイプだけに依存することはしませんでした。

長州藩が留学をさせたのは攘夷のためですが、井上は最初に寄港した上海で海外の現実をその目で見て、早くも攘夷の無謀を覚り、攘夷の考えを捨てています。

長州五傑は山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助の3人と、半年前に英国公使館焼き討ちに加わった伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)の5名で、1863年5月12日横浜を出港し11月にロンドンに到着します。

長州藩に次いで薩摩も隠密留学をさせました。1863年にイギリスと交戦し彼我の実力を思い知らされた薩摩藩は、2年後の1865年に森有礼ら15名(他に視察員4名)を抗戦相手国であったイギリスに一挙に密航させます。

長州、薩摩の両藩は外国勢との武力衝突の体験だけでなく、密航藩士がもたらす情報によって、国際社会の現実を直視する政治的構想能力を獲得していきます。それは幕府に代わって開国政策を継承できる、政権交代可能な対抗勢力の出現を意味しました。

政権交代はイギリスにとって、貿易の独占に固執する幕府よりも望ましい体制でした。19世紀の大英帝国の極東におけるプレゼンスは、幕府とフランスの提携を除けば、優位だったのです。薩長両藩への接近はイギリスの必然でした。

藩による密航が期待できない藩士がやむにやまれぬ留学の志を抱いた場合、絶望的なリスクを承知の上で個人の密航に踏み切らねばなりません。1864年の安中藩士新島襄の個人的密航が今日に伝わるのは、函館から1年かけてたどり着いたボストンで明日をも知れぬ身となった彼に、密航した船の持ち主A.ハーディという支援者が奇蹟的に現れたからです。新島の密航の成功は個人の密航の一般的な例では決してないのです。

横井小楠の二人の甥の左平太と大平の密航についても藩の許可こそありませんでしたが、国元に小楠を慕う支援者がいて、長崎で師事した宣教師フルベッキがいました。それにもまして米国改革派教会伝道局幹部の J.M.フェリスたちの善意がなければ、横井兄弟のニューブランズウィックへの途はありえなかったのです。

日本の武士の志に感じて無償で手を差し伸べる現地の支援者との出会いと云う、攘夷の理念とは対極の現実が単独密航者に不可欠で、最も得難い条件でした。

幕府の留学生は現地で、薩摩人や長州人と思わざる出会いをします。幕府に対する藩や、藩同士の競争意識は密航の動機ではあっても、外国で巡り合った留学生たちは志を同じくする日本の同胞でした。

幕府が留学を解禁したのは1866年5月で、大政奉還まで1年半を残す時期です。1867年3月に渡米した日下部太郎は幕府の認可留学の最も早い例ですが、密航留学時代が終わると金とコネのある有力者の子弟が、続々、海を越えます。

日下部が客死した1870年だけでも40人近くの留学生が渡米し、その前年までに渡航していた学生も20名以上いました。彼ら異郷に学ぶ同胞の交流の中心地がニューブランズウィックでした。

5年前に英国に密航した薩摩藩留学組からも何人かがニューブランズウィックに合流して、日下部と共に学び、亡くなった際にはグリフィスと一緒に、葬儀や遺品の整理に尽くしました。病床で学業を手放さず異国の土となった日下部の姿は、現地同胞とグリフィスに忘れがたい記憶を残したのでした。

高橋是清は1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれの幕府御用絵師川村庄右衛門の子で、生後まもなく仙台藩の高橋覚治の養子になり、横浜のアメリカ人医師のヘボン塾で学びました。

1867年(慶応3年)藩命により12歳で、勝海舟の息子の小鹿と渡米留学します。高橋は在横浜のアメリカ人貿易商に学費や渡航費を着服され、ホームステイ先とされた彼の両親にも騙されて年季奉公の契約書にサインさせられて、奴隷同様に酷使される経験をします。高橋はその苦境を経たゆえに抜群の英語力を習得し、帰国後内閣総理大臣にまで上り詰めました。

内閣総理大臣 高橋是清

諸藩からの留学が政府公認の出世コースに変質すると、命懸けの覚悟を欠いた平凡な能力の若者たちの留学は、ありふれたものになります。数年の滞在に見合う学力向上のまったく見られない留学生がざらにいました。

1873年(明治6年)日本政府は官費留学生を一旦すべて帰国させます。帰国者に対する試験の結果、その多くの留学成果のなさは歴然でした。外国で専門教育を受けられるレベルの留学生がほとんどいない以上、国内での基礎教育に注力すべきとなって、お雇い外国人教師にその任が期待されました。

1875年開成学校で最も優秀だった鳩山和夫や小村寿太郎が、文部省最初の派遣留学生として渡米しました。次年度には穂積陳重や櫻井錠二、杉浦重剛たちが英国に渡りました。彼らはグリフィスが開成学校で情熱を傾けて教育した生徒たちです。

それから10年、高等教育を担える日本人教師が育つとともに、高給取りの外国人教師は不要とされ一斉に解雇が進みます。近代日本のエリートは外国人以上に自国の西洋化に積極的で遠慮がなく、旧幕時代を破壊した維新の日々が遠くなるにつれ、禁じられた密航留学をしてまで我が国の国際化の先頭に立った青年たちの必死の努力が忘れられていきました。

我が国最初の留学生のひとりであった榎本武揚は、幕臣として戊辰戦争を最後まで戦い抜いた賊軍の将であったため、降伏して受牢した後に明治政府に尽くした後半生が、これまで、正当に評価されてきたとはまったく云い難く、薩長の藩閥意識に囚われたまま西洋の背中を追い続けた、明治の元老政治の象徴とも云える存在になりました。

 

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