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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

夜着

2019-03-20 06:14:34 | 日記

布団(ふとん)は布の袋の中に綿化学繊維羽毛羊毛などが詰められ、綿や化学繊維は掛け布団にも敷き布団にも用いられますが、羽毛は主に掛け布団、羊毛は主に敷き布団に用いられます。

敷き布団はの上に敷くものでしたが、現代ではベッドの上に直接敷いたり、マットレスを敷いてその上に敷いたりもしています。掛け布団は中わたの種類により保温性・保湿性が大きく異ります。真綿木綿綿を50%以上中綿に使用しているものを綿布団と呼びます。

水鳥ダウンを中綿に使用している比率が50%以上のものを羽毛布団と呼び、水鳥の胸元から摂れるダウンは非常に軽くて保湿性・保温性が高く、高級羽毛布団として販売されます。

羽毛よりも芯が固い水鳥の羽根を使っているものが羽根布団で、羽根布団は羽毛布団よりも保温性がかなり劣りますが、羽根は大量に採取が可能なため低価格化が進んでいます。

羊毛を中綿に重量比で50%以上用いた布団を羊毛布団と呼び、羽毛布団や綿布団のようなふわふわ感に欠けますが敷き布団には優れています。化繊が50%以上の化繊布団は低価格で人気があります。

古代の人々は「むしろ」や「丸太」の上で寝ていました。現在の敷き布団に相当するものは「むしろ」で、「むしろ」は「萱」「藁」「稲」「蒲」などを編んで作った敷物です。

弥生時代の竪穴式住居跡からは、丸太などの寝台で寝ていたことが推測され、地面より低い土間に毛皮などを敷いて寝ていたこともあるようです。

奈良時代以前に中国より寝床が伝わり、皇族や貴族、高級官僚などの間で使用されました。

 

奈良~平安時代(710年-1192年)には身分の高い人もふかふかの敷き布団には寝ておらず、掛け布団にあたるものは衾(ふすま)で麻や絹、楮(こうぞ)が使われました。

日本に現存する最古の寝床は756年(天平勝宝8年)に光明皇后が聖武天皇の遺愛の品を東大寺に納めた正倉院御物の御床になります。檜製で長さ237.5㎝、幅118.5㎝、高さ38.5㎝でシンプルな造りです。

奈良時代に畳が登場しますが、現存するのは正倉院にある聖武天皇が使用した「御床畳」(ごしょうのたたみ)で御床の上に置かれました。真薦(まこも)を編んだ筵(むしろ)のようなものを5、6枚重ねて、表に藺草の菰(こも)をかぶせて錦の縁をつけてあります。

平安時代に入ると敷き蒲団に当たるものが畳になります。何枚もむしろを重ねた畳を八重畳(やえだたみ)と呼びましたが、現在の厚さのある立派な畳とは違い質素なものでした。 

平安時代の公家貴族は寝殿(しんでん)に暮らし、母屋(もや)にすえる天蓋付きの御帳(みちょう)で寝ていました。座臥のためだった御帳は後には権威の象徴になりました。

皇后などは浜床(はまゆか)という黒漆の台を置きましたが、通常は板敷きの上に繧繝縁(うんげんべり)の畳二帖を並べて敷いて四隅に柱を立て、その上に白絹張の明障子(あかりしょうじ)を乗せました。四隅と前後左右正面に帳(とばり)を垂らし上部四方の外側に帽額(もこう)(横幅の裂)をめぐらしてありました。

平安時代から藁床(わらとこ)を利用した現代のような畳が上流階級に普及しましたが、中世の農民の家は大部分が極めて粗末な藁ぶきに荒壁の小屋で、土間で火を焚いて炊事をし、夜になれば藁(わら)にもぐって寝ていたと思われます。

鎌倉〜室町時代(1192年~1573年)には富裕層の敷き布団が畳で、掛け布団が着物の時代が長く続きました。鎌倉時代の絵巻物では上流階級は板張りの床に畳を敷き、畳の上に「上蓆(うわむしろ)」を敷いて着物を掛け布団にして寝ています。

 

日本に初めて綿の種子がもたらされたのは799年~800年(延暦18年~19年)のことでしたが最初の栽培はうまくいかず、三河国で栽培が軌道にのったのは明応年間(1492年~1500年)と云われます。

桃山時代になると胴服(どうふく)と呼ばれる綿入りの上着が登場します。胴服は羽織の原型で、昼間は上着として着られ夜は掛け布団に使用されました。中綿は絹の真綿だったと推測されます。

綿の栽培が成功すると日本各地に広がり、現在の布団に近いもので寝る習慣が生まれます。「夜着」と云う寝具の名称が現れたのは16世紀の後半でした。

夜着は掻巻(かいまき)で、着物に綿が入って肩が覆われる保温性の高いものです。生地は上質のものでは絹で友禅染、庶民では藍染による麻や木綿製が多く、縞や絵絣、中型染め、筒描で模様を描いたものなどがあります。

江戸時代になると綿花の国内生産の発展とともに、寝具としての夜着や布団の生産が始まりました。17世紀半ばからは中流以上の武士や町人の間でも、綿布に木綿綿を詰めた四角い敷き布団が使われるようになりました。

庶民が使っていた敷き布団はせんべい布団でしたが、大名や裕福な商人などは木綿綿がたっぷり入った、ふかふかの敷き布団でした。布団の生地も木綿ではなく絹です。

掛け布団として登場した「夜着」は17世紀半ばから中流以上の武士や町人の間で愛用されるようになり、時代が下ると庶民にも広く普及しました。加賀藩で使われた夜着は肩まで覆われる掛け布団で、木綿綿をたっぷり入れてふかふかにしました。貧しい庶民の間には天徳寺と呼ぶ和紙を材料とした紙布団が登場しました。

 

幕末になると衿や袖のつかない長方形の夜着が作られます。この頃から上掛けを大蒲団や掛け布団、敷く方を敷き布団と呼ぶようになりました。

明治時代(1868年~1912年)に安価な外国綿が流入し始めると、綿布団は一般庶民にも少しずつ手の届くものになりました。次第に四角い掛け布団が広まりを見せますが、明治時代にこうした寝具が使えたのは庶民では一部に限られ、農民は相変わらず藁のかますや、もみがらなどで寝ていました。

「わた屋」は木綿綿や真綿を売りましたが布団は商品ではなく、布団は家庭で仕立てるものでした。家庭では数年に1度わた屋に中綿を打ち直しに出して、ふかふかになった綿で布団を仕立て直していました。

日本で初めて既成の寝具を販売したのは京都の岩田市兵衛です。1987年(明治21年)インド綿が大量に輸入された際に布団を生産して販売しました。同じ頃蚊帳の専門店だった西川商店も布団販売を始め、1891年横浜で輸入綿糸仲立業を営んだ北川与平は1898年神戸に本拠を移して支那綿の輸入を始めました。大阪、神戸が綿花輸入の中心地になります。

昭和に入っても綿布団は高級品で、戦後しばらくはその状況が変わりませんでした。昭和30年前後でもわら布団を作って寝ていたり、干したあまも(海草)を床に敷いて畳の代わりにしたり、布団に入れて使っていた地域があります。

我が国の平均寿命は明治時代から40歳台が続き、昭和22年に52歳となってから今日の長寿時代を迎えますが、蛋白摂取量の少なかったことのほかに寒さ対策の不足が高い乳児死亡率をもたらし、平均寿命を短くしていたのではないかと云われます。

寒冷地では堀炬燵に足を入れて寝るのが温かく寝るための効果的な手段ですが、戦後の保温性の低い日本家屋では下着を充分着込み、湯たんぽを入れて寝るのが寒さをしのぐ対策でした。それでも肩が寒くて掻巻が羨ましく思えたものです。

我が国の住宅も気密性の高い建物に変って暖房も行き渡りましたし、電気毛布や、布団の下に敷いて布団を温める製品も使われるようになりましたが、寒い朝いつまでも布団の中にいたいと云うのは、温かく寝られるようになったごく近年のことです。

明治時代に欧米からベッドが伝わりますが、病院軍隊か金持ちのステータスに留まっていて、一般には広がりませんでした。昭和30年代に双葉製作所(後のフランスベッド)が月賦販売をはじめ、折からの団地ブームでベッドが庶民に普及していきました。

現在はベッドの使用が増えて、寝ている間の快適性は単に布団の保温性や柔らかさの他に、ベッドのマットレスの性状も大きく関係するようになりました。へたりの来ない固めのスプリングマットレスが好まれた時代が過ぎて、体圧分散型のマットレスが使われ始めました。


NASAが1970年にロケット打ち上げ時の宇宙飛行士にかかる強烈な加速重力を緩和する体圧吸収素材を開発し、1980年代にこの素材を一般公開したことで、最高の睡眠をもたらす「テンピュール」のマットレスとピローのコレクションが完成しました。
テンピュール製品が1991年に販売開始されると直ちに人々に愛され始め、現在、世界98の国と地域の人々がテンピュールの上質なサポートと快適性を享受しています。

「エアウィーヴ」は日本製で極細繊維状樹脂を3次元的に絡みあわせた立体構造を持ち、快眠環境を考えたマットレスパッドで体圧を分散できます。復元性が高く寝返りが楽なのが特徴です。

エアウィーヴの転機となったのは2010年のバンクーバー五輪で、腰痛に苦しむ上村愛子などモーグル選手団が使用して一気に拡がり、選手団94名中70名が選手村にエアウィーヴを持ち込みました。

旅先へ丸めて持っていけるポータブルタイプの他、布団タイプ、ピロー、クッションなどへ展開していて、マットレスの販売数は2011年度が3万枚、翌度は15万枚と5倍に飛躍しました。日本航空の国際線ビジネスクラスや石川県旅館加賀屋」などでも採用されています。

80歳を越えた私は腰痛のために10日ほど寝付いたことがありましたが、その短い間にも臀部の筋肉が衰えて尾骨が突き出てくるようになり、これが高齢者に多い褥瘡の原因なのかとびっくりしました。以後夫婦ともどもテンピュールを使用するようになりましたが、横を向いて寝ても肩や腰などの出っ張っているところが深く沈み込んで、間違いなく体圧の分散を感じます。

 

歳をとれば朝晩の布団の上げ下ろしは無理ですし、畳に敷いた布団から立ち上がるのも至難の業になります。この対策には適当な高さのベッドを使う必要があります。一旦褥瘡になるといかに大変かを医師として知っている私としては、手の届く値段の体圧分散型のマットレスもありますから、よく研究して手に入れることは絶対のお勧めだと思います。

寒い冬の間ベッドで温かく寝る工夫として、1畳用のホットカーペットをベッドの下で使うことをお勧めします。部分的床暖房として安価で効果は抜群です。温かく寝る手段を持たなかった昔の人に較べると現代人は幸せなのです。

1日の3分の1の時間は寝床にいることになるのですから、元気で長生きするためには、理に適った心地のよい寝床を用意することが必須の要件だと思います。

 

 

 

 


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活字離れ

2019-03-06 06:39:18 | 日記

「活字離れ」は識字率が高い国や年代層で、書籍新聞などのの活字媒体の利用率が低下する現象を云います。教育者や保護者は、若者の言語能力の低下や勉学意欲の減退などの知的水準の低下の原因として活字離れを指摘しますが、果たしてそうでしょうか。

従来の紙の活字媒体の発信者は書籍の著者や新聞・雑誌の記者などの限られた人達でしたが、今では一般の人びとがブログやSNSを通じてネット上で活字を発信しています。ネットの情報はYouTubeなどを除けば活字媒体そのものです。紙の活字を読むことが減っても活字離れとは正反対の現象が起きています。

アメリカの市場調査会社GfK NOPによると、本・新聞・雑誌などの活字媒体を読む時間は、30か国の平均で週6.5時間だそうです。活字媒体を読む時間の上位5か国はインド10.7時間、タイ 9.4時間、中国8時間、フィリピン 7.6時間、エジプト7.5時間で、下位5か国は韓国3.1時間、日本4.1時間、台湾 5時間、ブラジル5.2時間、イギリス5.3時間でした。

世界新聞協会によると、2001年の日本の新聞の発行部数は7,089万部で中国の8,547万部に次ぎ、1,000人当たりの発行部数では中国が91部、米国が263部、ドイツが322部で、日本は647部と圧倒的多数でした。そんな日本でも発行部数は1997年をピークに2004年までは前年比マイナス、プラスを行き来し、2005年以降はマイナスのままです。

1990年代の末から書籍・雑誌の販売が落ち込み、1996年の2兆6,563億円がピークで2017年には1兆3,701億円に売上が減り、雑誌は19年連続、書籍は10年連続前年比割れが続いています。

1947年に調査開始した毎日新聞の読書世論調査では、2002年に59%と最高の書籍読書率を記録し雑誌読書率も84%に達しましたが、2003年に雑誌読書率が急落しました。

読売新聞の読書週間世論調査では、1990年代後半から月に1冊も本を読まなかった人が1~3冊読んだ人を上回るようになり、本の無読率は50%前後を推移しています。学生の読書量減少も顕著で、1985年に1割だった無読率は2005年に4割へ増加し、月4冊以上読んだ学生は4割から2割に減りました。

一方全国学校図書館協議会では、青少年層向けのライトノベルや良質な児童文学、ベストセラー小説の流行で若者の読書量が増加していると見ており、読売新聞の調査とは相反します。

毎日新聞と共同で行っている「5月中に読んだ本の冊数」調査では、高校生は1970年代の4.5冊から1980年代に7冊台と増え、1990年代に低下傾向となりましたが2000年代に入って急上昇し、2003年には8冊と高水準を記録しました。

同様に2冊だった中学生が2004年に3.3冊、1.5冊だった小学生は1.8冊へと調査開始以来の高水準に達しました。2001年に「子どもの読書活動の推進に関する法律」が出来、学校で「朝の10分間読書」が広まったのも影響したようです。

総務省統計局の調査によると「趣味としての読書」をする人の割合は1986年以降40%前後ですが、1年あたりの平均読書日数は1986年の103日から2001年の85日へ減少しています。2005年には「文字・活字文化振興法」が成立し、成人を対象とした施策・推進事業も進行中です。

古代の文書作成はメソポタミアの楔形文字の誕生に始まり、発掘された最古の文書は紀元前3,300年頃の粘土板文書です。重要な文書は粘土板を焼き固めて保存性を高めてあります。

粘土板文化圏はメソポタミアを中心に広範囲に及び、古代オリエントの多くの言語にわたっています。紀元前7世紀アッシリアアッシュールバニパルの宮廷図書館は地下に埋もれましたが、この図書館の粘土板文書群の出土で古代メソポタミアの文献史学的研究が大きく前進しました。

 

紀元前3世紀ヘレニズム時代の図書館として、アレクサンドリア図書館が有名です。この図書館は付近を訪れる旅人の所持する本を没収して写本を作るほど資料収集に徹し、今日の図書館・公文書館博物館を兼ねた学術殿堂でした。

中世のヨーロッパでは修道院に併設された図書館が多く、手書きの写本は貴重であったため、本は鎖で本棚に繋がれていました

 

図書館は学者や貴族しか利用できなかったり有料であった時代が長く続き、グーテンベルク印刷術で本が大量に出版されるようになった後に民衆の間で組合図書館や都市図書館が開設されました。

史上初めて木版印刷が行われたのは中国です。中国では9世紀以降大量の印刷物が作成されましたが、の咸通9年4月15日(868年)と年紀が明記された「金剛般若波羅蜜経」が敦煌で発見されています。

我が国では764年天平宝字8年)に藤原仲麻呂恵美押勝)の乱を平定した称徳天皇が、鎮護国家を祈念して6年の歳月を掛け、770年宝亀元年)に「無垢浄光大陀羅尼経」に基づく「陀羅尼」を100万巻印刷し、木製の百万塔に納めて10万基ずつ法隆寺など10大寺院に奉納しました。

百万巻とは俄かには信じがたい膨大な数ですが、2005年現在法隆寺に4万数千基の百万塔が残されていますから事実なのでしょう。虫食い防止のために黄檗で染められた紙に印刷された陀羅尼は、現在残っている世界最古の印刷物です。

 

活字印刷が最初に行われたのも中国で1041年1048年頃の北宋畢昇の膠泥(こうでい)活字によるものです。膠(にかわ)で固めた土に文字を彫って焼き固めた活字を、蠟を塗った鉄板に配置して下から熱を加えて蠟を溶かして固定し、表面に墨を塗って上から紙を当てて印刷しました。

高麗では13世紀頃の活字が見つかっていますが、現存している金属活字で印刷された最古の印刷物は、禑王3年(1377年)に清州の興徳寺で刊行された「白雲和尚抄録仏祖直指心体要節」です。末尾に「在淸州興德寺用金屬活字印製而成」と書かれています。

 

我が国の平安時代から室町時代にかけての印刷物は、長らく経典や仏教関係の著作に限られていましたが、17世紀の始めに京都嵯峨の角倉家が本阿弥光悦らの協力を得て、それまで印刷の対象にならなかった「伊勢物語」「徒然草」「方丈記」のほか謡曲を出版しました。

嵯峨本と呼ばれるこの印刷は、一文字、一活字ではなく、本阿弥光悦流の書体の崩し字のいくつかを纏めて一活字とし製版したものです。

 

源氏物語(1008年)は長大な作品で数多くの写本が残され、江戸時代半ばまでは写本で読み継がれてきました。源氏物語にも嵯峨本と云われるものがありますが、活字がやや小さく字間が狭いなど、嵯峨本より後の時代の作と考えられ「伝嵯峨本源氏物語」と呼ばれています。

ヨーロッパでは1445年頃にヨハネス・グーテンベルクが活版印刷術を発明しましたが、アルファベットは26文字しかないのが利点です。欧州初の活版印刷書籍は聖書で、史上最も多く印刷されたのも聖書です。

 

中国や日本などの漢字文化圏では準備する活字の字数が膨大になるため、活版印刷は定着しませんでした。嵯峨本の伊勢物語では約2,100個の木活字が作られましたが、1度しか使わない木活字が16%にも及ぶなど効率が悪く、木版印刷に逆戻りしました。

1609年(慶長14年)に京都で本屋新七が中国の漢詩「古文真宝」を出版し、これを契機に本屋の文化が開花します。17世紀末には400軒ほどの本屋が出来て、その9割が京都にありました。

江戸時代中期になると出版の中心が京都から江戸へ移ります。須原屋茂兵衛は「江戸切絵図」と呼ばれる江戸の地図や、武家の名前や身分、家紋などが書かれた「武家年鑑」など公的な出版物を手掛け、蔦谷重三郎は洒落本・人情本・黄表紙などの娯楽本や浮世絵で喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出しました。江戸時代中期以降日本の木版印刷が盛んになったため、18世紀までの出版物の部数は中国や日本の木版印刷が欧米の活版印刷を上回っています。

我が国の図書館的施設としては、古くは律令制中務省に属し儒教仏教の経典、仏像なども管理した図書寮(ずしょりょう)、貴族で文人の石上宅嗣平城京に置いた日本初の公開図書館芸亭(うんてい)、鎌倉時代北条実時が設けた日本最古の武家文庫金沢文庫室町時代関東での最高学府であった足利学校が有名です。青柳文庫は青柳文蔵が仙台藩に書籍9,936冊と文庫開設資金を献上し、1831年天保2年)に公開の文庫が設けられて身分に関係なく閲覧や貸出がされました。

日本初の近代的図書館は幕府の遣欧使節団の一員であった市川清流の建白により、1872年明治5年)明治政府が湯島聖堂内に設けた「書籍館」(しょじゃくかん)です。京都にも「京都集書院」が設けられました。

1897年(明治30年)に「帝国図書館官制」が公布され、上野に移されていた書籍館の後身の帝国図書館が1906年に新築されて、現在、国立国会図書館支部上野図書館になっています。

 

世界には数千万単位の図書を所蔵する大図書館があり、日本には2013年現在公共図書館が3,246館あって、4億2,383万冊を所蔵しています。日本最大の図書館は国立国会図書館です。

定年までの20年間専門外の書籍や雑誌を読む時間がまったくなかった私は、退官後に如何に自分が社会の事情に疎いかを思い知らされました。その後10年以上毎週数冊の本を図書館から借り出し、少しは社会の出来事を知るようになりました。

新聞は15年前にやめ、雑誌も購入していませんが、活字離れの認識はありません。昭和一桁生まれの私の情報源がインターネットなのですから、活字離れと云うのは単に文字情報を得る手段が、アナログ媒体からデジタルに代わっただけなのだと思います。

人生の楽しみとしてノベルやノンフィクションを読むのに従来の書籍を好む人が多いのは理解できますが、社会の最新情報の収集にはネット情報の即時性や、取得、保存、検索の容易さが間違いなくアナログ情報に勝ります。この頃の子供たちもゲームを卒業してスマホで情報を取得し、関心のある事柄については大人顔負けの知識を持っていると云われます。

IoT、ビッグデータ、AI、ロボット等の技術革新を原動力とする第4次産業革命のまっただ中にある現在、文字離れと云われようが云われまいが、今の子ども達が幼いころからIT時代の情報機器の扱いに習熟していることは、将来の社会の発展に向かって大変心強いことだと思います。

 

 


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