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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

無人トラック

2015-05-27 06:21:58 | 日記

無人トラックと云っても、人が乗っていない間にトラックが勝手に暴走したと云う話ではありません。人が乗らなくても、人が運転しているのと同様に働くトラックの実用化の話です。 

特定の軌道内を走る交通機関は他の交通と競合しませんから、無人運転がすでに実用化されています。「ゆりかもめ」は東京の新橋臨海副都心を結ぶモノレールで、お台場への交通の主要経路ですが車内に運転士車掌はいません。1995年に新橋-有明間 11.9 km が開業し、2006年には有明-豊洲間 2.7 km が繫がっています。 

他の車両が走っている街なかの道路に無人車を導入するのは、まだ、時間がかかると見られますが、ドライバーが運転しなくても安全に走れる車の実用化は、すぐそこまで来ています。わが国でも最近公道上で運転者がハンドルを握らない、自動走行のテストが行われています。 

人や車のいない鉱山では、無人の大型ダンプカーが実用化されています。コマツが誇る世界最大級のダンプトラック930E₋4は、タイヤの直径が4メートル近く、高さは7メートルあって二階建ての一軒家並の大きさです。無人運行システム「フロントランナー」によって複雑な鉱山の地形で290トンの土砂、鉱石を積載して、無人で走行することが可能です。無人でありながら人の思い通りに走り、止まり、曲がり、土砂、鉱石を積み、障害物を感知すれば自在に避けて目的地を目指します。

まるで意思を持ったようなこの動きは高精度GPS位置情報システム、ミリ波レーダ、光ファイバージャイロなどの最先端技術の結晶です。このシステムの導入によって、必要なオペレーターの手が省け、最適な運転による燃料費やメンテナンス費の低減、生産性の向上、安全性向上などのメリットが得られています。 

2005年に南米チリの世界最大級の銅鉱山に、コマツの無人ダンプが試験的に導入され、2007年末には本格導入が開始されました。また、2008年末にはオーストラリアの鉄鉱山でも稼動を開始しました。2011年には150台の無人ダンプの追加受注を受けていて、英豪資源大手の腰を据えた未来の鉱山構想が始動しました。

さらに2012年に入ってからは、インドネシアの石炭鉱山向けに超大型の無人ダンプを納入することになりました。これでコマツが無人ダンプを運用する鉱山は、世界で3カ所となります。「技術革新がこのまま進めば、近い将来鉱山ダンプはすべて無人になる。」とコマツ野路社長は述べています。

Autonomous Haulage System(AHS)とは、超大型ダンプトラック930E/830Eをベースとした、無人ダンプトラック運行システムです。高精度GPSや障害物検知センサー、各種コントローラー、モジュラーマイニングシステムズ社の無線ネットワークシステム等を搭載したダンプトラックを、中央管制室で運行管理し完全無人稼働を実現させます。 

目標となる走行コースと速度情報は、中央管制室から無線でダンプトラックに自動配信され、ダンプトラックは高精度GPSおよび推測航法で自身の位置を把握しながら、目標コースを目標速度で走行します。 

有人車両の油圧ショベルや、ホイールローダー等の積込み機にも、AHSが使われます。高精度GPSが鉱石の積込み場では積込み機のバケットの位置を計算し、ダンプトラックを適正な積込み位置へ自動誘導します。また、積み下ろし場までの走行コースも中央管制室から配信され、所定の場所で安全かつ正確に荷降ろしすることを可能にします。

 
これらの無人ダンプトラックおよびAHSエリア内で稼動する有人車両は、管制システムによってリアルタイムで群管理され、安全で効率的な協調稼働が実現します。万が一ダンプトラックの走行中に、他の車両等が走行コースに近づいた場合も障害物センサーが検知し、緊急停止することで安全性を確保しています。 

コマツが先陣を切った無人ダンプ市場には、ライバルも参入を急いでいます。米キャタピラーも無人ダンプの実用化を着々と進め、米国ナバホ石炭鉱山で数台が試験走行を繰り替えしています。オーストラリアのソロモン石炭鉱山では、2015年までに4台の無人ダンプカーが商業稼働する計画です。 

一方、通常の公道上を走る無人トラックの開発も進められています。我が国の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が、2013年2月下旬に公開した大型トラックの自動隊列走行システムでは、4台のトラックが4mの車間距離を維持しながら、きれいな一列縦隊を乱すことなく時速80㎞でテストコースを駆け抜けました。先頭車がハンドルを切ったりブレーキを掛けたりすると、2台目以降もぴったり追随し、2台目以降の運転手はハンドルすら握らなくていいのです。 

このシステムが目指しているのは燃費の削減です。2台目以降の運転を全自動にすることで余分なブレーキ、アクセル操作をなくし、車間距離も4mまで詰めることで空気抵抗を軽減することを狙っています。4台隊列、時速80㎞、車間4mの条件で試算すると、4台がそれぞれ単独で走る場合に比べて燃費を15%削減できるとのことです。 

NEDOが今回開発した技術では高規格の高速道路の走行を想定しており、実際に開業前の新東名高速道路で走行試験を実施済みです。NEDOは公道での実証実験などを経て、いずれ実用化への道を探りたいとしていますが、全自動運転や車間距離4mでの高速運転を前提とすれば、道路交通法の改正や全自動運転時に事故が発生した場合の自動車保険の扱いなど、制度面での整備も必要になります。 

わが国ではなかなか道路事情が許さないでしょうが、アメリカでは交通量の少ない道路での長距離輸送には自動走行トラックは魅力的です。テクノロジーベンチャーのペロトン・テックは、ロボット技術により自動走行が可能な大型トラック、コンボイの公道での試験走行に成功し、近く本格的運用を開始すると発表しました。 

このコンボイは人間の運転手によって走行しているトラックの後方を、一定の車間距離を保ちながら走行することが可能な半自動ロボットトラックです。このロボット技術により複数台のトラックを同時に、一定間隔を保ちながら走行させることが可能だと云われます。 

米トラックメーカーのオシュコシュ社は、軍隊用に開発された無人運転トラックのテラマックスを披露しました。無人トラックが担うのは物資の輸送です。現在イラクでは40台のコンボイトラックの運転に80人の兵士が当たっていますが、テラマックスが導入されれば兵士の数は10人で済み、輸送中の襲撃による兵士の死亡の危険が減ると期待されています。


2001年に米政府は、軍用トラックの3台に1台を2015年までに無人運転とすることを義務づける法案を提出しました。これに伴い、国防省はDARPAという研究機関を立ち上げ、2003年からラフな路面でも自動運転の可能な車の開発をコンテスト形式で行っています。テラマックスはDARPA認定テストをパスしたプロトタイプです。

いずれにしても車両の無人化は、コンピュータの進化とその応用の拡大が齎した成果です。人が運転していない車両にはなんとなく心配が付きまといますが、人間の操作とコンピューによる操作のどちらが、より信頼性が高いかの問題です。 

宇宙へ飛び出して戻ってくるロケットがコンピュータで制御されているのですから、人の注意力の確かさを頼りにして、コンピュータの誤作動を心配するのは時代錯誤かもしれません。 

コンピュータ制御にはプログラムされていない事態に、どう対処できるかの問題は残りますが、不測の事態への対処を除いては人間の注意力より遥かに信頼性は高いのです。注意力が衰え勘違いの多くなった高齢者が、コンピュータ制御の安全な自動車(自ぶんで動く車)に乗れる時代は、すぐそこかも知れません。

 


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オイルショック

2015-05-20 06:19:51 | 日記

 オイルショックには、1973年(昭和48年)の第一次オイルショックと、1979年(昭和54年)の第二次オイルショックがあります。原油の供給逼迫と価格高騰による世界経済の大混乱です。

わが国ではオイルショックをきっかけとしてトイレットペーパー騒動と云う買い付け騒ぎが起き、当時を知る人にはオイルショックの背景などはそっちのけで、買い付け騒ぎの記憶ばかりが残っているようです。最近でも何か事件が起こるたびに、トイレットペーパーを買い占めなきゃと云う噂が飛ぶほどトラウマになっています。

第一次オイルショックは1973年10月16日に、産油国が原油価格を70% 引き上げる決定をしたのが元です。買い付け騒ぎは10月19日に当時の田中角栄内閣中曽根康弘通産相が、「節約の呼びかけ」を発表したのがきっかけです。

10月下旬には「紙がなくなる」という噂が流れはじめ、同年11月1日午後1時半ごろ大阪千里ニュータウンの大丸プラザが、特売広告に「紙がなくなる」と書いたところ、300人近い主婦の列ができ、2時間のうちにトイレットペーパー500個が売り切れました。

その後来店した客が広告の品の売り切れに苦情をつけたため、店では特売品でないトイレットペーパーを並べましたが、それもたちまち売り切れ、噂を聞いた新聞社が書き立てた結果、騒ぎが大きくなりました。不安心理からが各地に飛び火し、パニックは全国に急拡大しました。

それまでトイレットペーパーは客寄せの特売商品として扱われていましたが、この時は倍の値段でも売れました。このため商店は在庫確保に奔走し、問屋の在庫すらなくなったと云われています。最初の内楽観視していた人も、実際に店頭からトイレットペーパーが消えると買い溜めに走りました。

日本政府は買い溜めの自粛を呼びかけましたが効果はなく、11月12日に石油とは何の関係もないトイレットペーパー等の紙類4品目を、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律」と云う、厳めしい法律に基づいて特定物資に指定し、翌1974年1月28日には「国民生活安定緊急措置法」の指定品目に追加して、標準価格を定めました。

翌年3月になると在庫量も通常の水準に回復し、トイレットペーパー騒動は収まりましたが、第一次オイルショックがわが国のみならず、石油の供給逼迫、価格の高騰で世界経済にもたらした混乱は、実は、大変なものだったのです。

1973年10月6日第四次中東戦争が勃発して、これを契機に10月16日にOPECのうちのペルシア湾岸6ヶ国が原油公示価格を、1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70% 引き上げると発表しました。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減を決定します。

またOAPECは10月20日以降イスラエルが占領地から撤退するまで、イスラエル支持国への石油の輸出を禁止する決定をしました。さらに12月23日にOPEC のペルシア湾岸6ヶ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる決定をします。

OPECやOAPECの一方的値決めで価格が自由に跳ね上がる、需要と供給と云う経済の原則を無視した石油価格の上昇は、中東の石油にエネルギー源を依存してきた先進工業国の経済に大打撃を与えました。

特に1960年代以降エネルギー源を石油に置き換えてきた日本では、景気を直撃しました。前年からの列島改造ブームの地価急騰で、急速なインフレが発生していた我が国は、石油危機の便乗値上げにより、さらに、インフレが加速されたのです。

当時の日本はイスラエルを直接支援したことはありませんでしたが、最大のイスラエル支援国家であるアメリカと強固な同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性がありました。三木武夫副総理を、急遽、中東諸国に派遣して支援国家リストから外すように交渉する一方で、「国民生活安定緊急措置法」、「石油需給適正化法」を制定して事態の深刻化に対応しました。

1973年(昭和48年)11月16日「石油緊急対策要綱」を閣議決定し、総需要抑制策が採られます。その結果日本の消費は低迷し、大型公共事業が凍結、縮小されました。日本の消費者物価指数1974年(昭和49年)には23% 上昇し、狂乱物価と呼ばれます。

インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資を抑制する政策がとられ、その結果1974年(昭和49年)は、-1.2% と云う戦後初めてのマイナス成長を記録し、高度経済成長がここに終りを告げました。

デパートエスカレーターの運転中止、ネオンサインの早期消灯、ガソリンスタンドの日曜休業、最終列車の時間の繰り上げが行われました。プロ野球は平日のナイターの開始を19時から18時に繰り上げ、週末、祝日はデーゲームとしました。テレビ深夜放送が休止され、NHKは総合、教育ともに23時以降の放送を休止し、民放5社も深夜放送を自粛しました。

積極的調整政策は産業の不振を招き、新規採用の停止、残業時間の短縮などの雇用調整が行われ、原油とはなんの関係のない紙資源の不足で、週刊誌や漫画雑誌の頁数が軒並み削減され、書籍は文字を小さくし、かつ、頁内の行数を増やすなどしたため、読みにくい書籍が発刊されました。

国民生活に直接の影響はありませんでしたが、超音速旅客機コンコルドは燃料の高騰を見込んで世界中で発注キャンセルが相次ぎ、燃費のよくないロータリーエンジンの採用も多くの自動車メーカーが断念しました。

1975年にフランスのジスカールデスタン大統領の発案で、第一次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第一回のサミットが開かれます。翌年から参加国が1つ増えてG7となり、1998年にG8になるまでこの体制が続きました。

第二次オイルショックは1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したのがきっかけです。イランから大量の原油を購入していた日本は、需給が逼迫しました。1978年末にはOPECが、翌年より原油価格を4段階に分けて14.5% 値上げすることを決定しましたが、第一次オイルショック並の原油価格の高騰です。

1979 年 6 月の原油価格は1バレル当たり 18 ドルでしたが、1980 年 4 月 28 ドル、9 月にはついに 39 ドルを突破しました。この石油高騰が第 2 次オイルショックと呼ばれます。

しかし第一次オイルショックでの学習効果、省エネルギー政策の浸透、企業の合理化効果などで、日本経済は比較的軽微な影響で済ますことができました。またイランも石油販売を再開し、数年後には価格が下落に転じました。

2度のオイルショックの結果、先進国の経済が中東の石油に極端に依存しすぎていたことが明らかとなり、中東以外での新しい油田開発が積極的に行われるようになりました。原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究への契機ともなり、石油の備蓄体制も強化されます。

オイルショックでは原油輸出国だけが利益を得たと考えられがちですが、アメリカは1972年当時輸入原油の割合はわずか 5% に過ぎず、しかもアラブ諸国からの輸入量はそのうちの 18% だったので、値上げの影響を受けるどころか原油価格の高騰で、アメリカに本拠を置くメジャーが莫大な利益をえました。国際為替市場における米ドルの力は、急激に強化されたのです。

1980年代はOPEC以外での原油生産が増えたことや欧米に原油市場が誕生したことで、原油価格は市場により決定されるようになり、OPECは公式販買価格の設定を放棄せざるを得なくなりました。原油価格はその後40ドルから20ドルの間で推移します。

1999年アジア通貨危機の影響などで、一旦20ドルを割り込んだ原油価格は、2003年イラク戦争を機に上昇に転じます。中東情勢やテキサス州ハリケーン被害などによる供給不安、中国の需要増大などから原油価格の上昇は急激で、2008年7月には147.27ドルにまで達しました。

2008年12月にはサブプライムローン金融危機による需要の低迷から、原油価格は30ドル台前半まで一気に急落しましたが、2010年4月に原油価格は85ドル付近まで再上昇し、2011年からは再び100ドルを超えるようになりました。

2008年7月の147ドルまでの原油価格の急上昇は、第一次、第二次の学習効果があったにしても大変な異常事態だと思われるのですが、その後に価格が急落したためか、第三次オイルショックとは云われないのです。この時の原油価格の急騰急落の本質は石油の需給の問題ではなく、投機の対象としての値動きであったと見られているのでしょうか。

2014年の半ばまで原油価格は100ドルを超えていましたが、2014年後半以降は原油価格が値下がりの一方となり、2015年1月5日には、ついに50ドルの大台を割り込みました。米国のシェ-ルオイルの増産があるにしても、この下落の原因の解析は、いまだ、充分ではありません。

半年近く経って原油価格は、ようやく、50ドルの大台を回復しましたが、過去の石油の需給関係、価格の変動に対する、かつての世界中での切羽詰まった関心は、いずれにしても、なんとなく薄れてきているように見えてしまいます。

 


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縁側

2015-05-13 06:33:22 | 日記

京都の町屋のように空襲の被害をまったく受けず、昔のまま保存されている住まいもありますが、戦後70年の間に日本の住宅は都市でも、田舎でも、随分変わりました。

一番変わったのは空襲で丸焼けとなり、やっと掘立小屋を建てて雨露をしのいだ時代から、ウサギ小屋と外国人から揶揄された狭い簡易住宅や、エレベーターのない公団アパートに入れるのが精一杯の幸せの時代が続いた都市の住宅でしょう。

東京で云えば昭和20年(1945年)3月10日の大空襲で10万人が焼死し、下町の大部分が焼野原となりました。中心部から遠く離れた山の手の住宅街は空襲の被害を免れましたが、そこには戦前の日本の優良な住宅が残ったのです。

たとえば田園調布は渋沢栄一らによって理想的な住宅地の開発を目標に、大正12年(1923年)8月から分譲が開始されました。道路を造り街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広くとって緑地の一部として、街全体を庭園のようにすることを目指したのです。

分譲開始直後の9月1日に関東大震災が起き、東京府だけでも3万軒の住宅が倒壊し、17万軒が焼失、7万人の死者・行方不明者を出しました。震災に懲りた裕福な人たちが府下の田園調布に移り住んで、新しい山の手の住宅街が形成されはじめたのです。

昭和6年(1931年)に私が生まれた渋谷は、すでに山手線の主要駅になっていましたが、まだ、渋谷村字代官山でした。東京市に編入されて渋谷区となったのは翌年のことです。

田園調布はその渋谷からでも、とんでもなく遠く離れた土地だったのです。山手線の駅をターミナルとする各私鉄は、利用客を増やすために沿線の宅地開発に力を入れ、かなり遠くの駅の周辺でも区画を整理し、広い敷地を確保した分譲地を販売しました。東京の住宅地は西へ西へと広がっていったのです。

山手線の外側のこれらの裕福な住宅は、200坪から500坪くらいの広い敷地に建てられ、道路に面した塀はモルタル塗りや大谷石造りで庭先は垣根で囲い、外壁は防火上モルタル塗りの、応接間だけを洋風にした木造の和風建築でした。表玄関は洋風のドアをもち、内玄関は昔ながらの格子戸と云う作りです。

長い縁側を持つ2階建ての住宅には、雨戸が付きものでした。雨戸の開け閉めは結構大変で子供たちの朝夕の仕事になり、お手伝いさんがいても縁側の雑巾がけは子供たちもやらされました。庭の草取りにも動員されましたから、子供たちが家の仕事に協力するのはごく自然なことだったのです。

応接間との境は洋風のドアでしたが、縁側と畳の部屋の仕切りは障子で、部屋と部屋の間は襖(ふすま)で仕切られていましたから、大勢が集まるときは襖を取り払って、続きの部屋を一間として使ったのです。畳替えと襖の張替えは本職の職人さんの仕事で、障子の張替えは家族の仕事でした。

冬は火鉢と炬燵しか暖房はなく、家中どこからともなく隙間風が入ってきましたから、夜の室温は外気とあまり変わりません。火鉢では室温はほとんど上がりませんから、温まれるのは炬燵だけです。夜になると家族みんなが家中で一つの茶の間の掘り炬燵に集まる暮らしでした。

晴れた昼間は縁側には燦々と陽が当たりましたから、冬の間に全身が芯まで温まれるのは縁側の日向ぼっこでした。日光が射すと掃除した後の部屋の空気の中に細かい塵の浮いているのが目立ちます。縁側のガラス戸を閉め切っておけばサンルームとなって室内の気温も上がるのに、大抵の家は開け放して、陽も当たるけれど外気の中の生活をしていました。

寝るのは火鉢もこたつもない部屋ですから寝具も冷たく、寝巻の下に充分下着を着こんだ上に湯たんぽが必需品でした。寝具を陽に当てた日は布団が温かく、幸せな寝床になりました。当時は家が建て込んでおらず、庭もあり樹木もありましたからヒートアイランド現象はなく、冷房はなくても夏の方が冬より過ごし易かったのです。

この立派な住宅を戦前の日本家屋の例に挙げたのには、3つの理由があります。1つめは戦前の我が国の住いは、木材を吟味し職人の技を尽くした木造建築で、諸外国に比べても遜色のないゆとりのある居住空間をもっていたのです。

2つめはこれらの焼け残った立派な住宅は、戦後、占領軍の否応なしの接収の対象になりました。3つ目は戦後の経済の興隆期に猛烈な地価の高騰があったため、長男が親の家をそのまま継ぐことはなくなり、遺産相続のたびに1軒分の広い土地が相続人の人数に応じて分割されたり、売却した後に代価を分け合ったりして、かつての広い敷地を持った高級住宅街が消滅し、隣家と軒を接する狭さの目立つ住宅地に変容したことです。

2つ目の話に戻りますが、敗戦後各都市では占領軍の行政とその家族の住居のために、焼け残ったビル、商業施設、学校、病院、公園、住宅、土地などが強制的に接収されました。東京では皇居前の第一生命ビルにGHQの総司令部が置かれましたが、半分焼け残った帝国ホテルなどのコンクリートの建物や、これはと思われる個人の住宅が接収されたのです。

帝国陸軍の代々木練兵場が接収されて、日本政府の負担でワシントンハイツと云う米軍住宅地が建設され、練馬にもグラントハイツと云うアメリカ人専用の大規模なニュータウンが建設されました。そこには小学校をはじめPXと呼ばれるスーパーマーケットや映画館、ガソリンスタンド、ボーリング場などアメリカ文化が直輸入されたのです。

米軍住宅は敷地を充分にとり、日本の建設業者や大工が、従来、慣れ親しんだ尺間法でアメリカ仕様の2x4住宅を建て、これが図らずも我が国初の2x4工法の住宅になりました。

ワシントンハイツは1946年昭和21年)に建設され、1961年(昭和36年)に、3年後の東京オリンピックの選手村・競技場用地にするために全面返還が決まりました。日本政府は移転費用の全額を負担して、調布飛行場に代替施設を建設しました。

ワシントンハイツは1964年(昭和39年)8月12日に返還が完了し、代々木選手村として使用された後、現在は代々木公園国立代々木競技場国立オリンピック記念青少年総合センターNHK放送センターなどになっています。

米軍家族のために接収対象になった個人の家は、有無を云わせず立ち退かされました。丹精込めた日本庭園が芝生やプールに造り替えられたり、返還されてみたら床の間にペンキが塗られていた例もあったと云います。桂離宮にまでペンキを塗る改築命令が出されたそうですから、当時の強引なやり口が目に見えるようです。

日本の住まいは明治を迎えて封建的な身分制度の規制がなくなり、資力に応じて住宅が造られてきました。西欧化の波が住宅にも訪れましたが、明治時代に実際に洋館を建てたのは政治家、実業家などに限られ、その場合でも普段の生活は併設された和風住宅であったりしました。

西洋建築に刺激を受けた和風建築の大工の技量も上がり、建築の質は向上していきます。明治後期から昭和初期の富裕層により建てられた住宅は、当時の日本の良質の木材をふんだんに使い職人の高い技術に支えられて、最も優れた品質を持っています。大正以降はサラリーマン、知識人ら都市の中流層が洋風の生活に憧れ、一部を和洋折衷にした住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。

第二次世界大戦の空襲で多くの住宅が焼失した都市部では、敗戦後の1947年に政府主導で「バラック住宅」の建設が始まります。1950年にはこの「バラック住宅」の居住性や耐久性を高めるために住宅金融公庫を発足させ、「木造住宅建設基準」を設定して戦災復興住宅の建設に力を注ぎました。

金融公庫は住宅建設費や土地購入費を融資し住宅建設を軌道に乗せましたが、当時の住宅レベルは住むには極めて不充分なものでした。平均的な間取りは6畳と4畳半に台所と便所で、この中で食事、就寝、接客と棲み分けをし、風呂は銭湯を利用しました。

戦前は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致の住宅が多かったのですが、戦後はサラリーマンの増加で職住分離の住宅が主流になります。狭い住宅では玄関が入口になり、縁側がなくなり、床の間がなくなりました。

高度経済成長期に入ると、住宅需要はますます盛んとなります。木材資源の逼迫する中で住宅を大量に供給するため、外壁のモルタル塗りや室内の合板の利用が激増しました。高級木材と高い技量に支えられてきた伝統工法は、筋交いやボルト・ナットを用い、使用する木材量の少ない木造軸組工法に取って代わられました。

1970年代からはプレハブ住宅が普及し、住宅の工業製品化が進みます。鉄骨構造鉄筋コンクリートの住宅が増え、窓枠もサッシの時代になって雨戸がなくなります。木造軸組工法の住宅にもプレカット材が使われるなど、伝統的な工法からは大きく隔たったものになります。ユニットバスなどは工業製品化のうちのヒット作品でしょう。

日本の生活習慣が欧米形に変化した結果、和室を造らない場合も多くなり、和風建築には欠かせなかった漆喰和紙などの建材は使われなくなりました。サイディングアルミサッシコンクリートブロック、石膏ボードなど1960年代以前にはなかった建築材料が多く用いられるようになりました。

住宅の質の均一化や高気密化が進み、エアコンが普及して冬も暖かく夏も涼しく過ごせる住宅に代わりました。一頃シックハウス症候群などの、建築材料の健康上の問題も生じましたが解決されています。かつては余程粗末な住宅でなければ、床の間のない家はなかったのですが、現在都会では和室はあっても床の間は形だけのものしか造られなくなりました。

一方、アメリカ式の個人主義の影響か、家族が各自の閉鎖的な個室を求めるようになりました。ウサギ小屋から比べれば大分広くはなりましたが、地価の高騰で建築面積のゆとりを取ることは難しく、狭苦しい小部屋を数だけ増やして、部屋数を誇示するようになったのです。 

殆どの家が入口から直接各自の個室に入れて、昔のように家中のみんなが1つの炬燵に集まるようなことはなくなりました。最近は居住面積も増えリビングダイニングを大きくとる傾向になってきて、広めの空間ができてきたのは好いことだと思います。 

急激な地価の高騰が続いてどんな土地でも購入しさえすれば、値上がりで資産家になれた時代は、すでに、過去のものです。土地付きではあっても、隣家と軒を接する庭のない戸建住宅に住む意味は希薄になりました。建て込んだ土地の木造住宅は、大地震に対する備えも不十分です。 

居住性の向上のためにも、震災への備えのためにも、今後は、3,4百軒分の土地をまとめて10数軒分の土地に40階、50階建の高層マンションを建て、残りの周囲の土地を全部緑地にすれば、今よりも災害に強い広い住宅に住め、眺望にも満足できて、公園並の緑地の樹木や草花に囲まれた生活ができると思うのですが、いかがでしょう。

 

 

 


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トリプルスリー

2015-05-06 06:36:54 | 日記

トリプルスリーは打率3割、本塁打30本、30盗塁を1シーズン中に記録するもので、野手の攻撃面での総合力の高さを象徴するものです。これまでの達成者は岩本義行、別当薫、中西太、蓑田浩一、秋山幸二、野村健二郎、金本知憲、松井稼頭央です。生涯成績では張本勲が日本プロ野球で唯一、打率3割、本塁打300本、盗塁300個と云うグレイトなトリプルスリーを記録しています。

川上哲治1950年に、長嶋茂雄は入団した1958年に、いずれも本塁打1本の差でトリプルスリーを逃しました。特に長嶋は一塁を踏み忘れて「幻の本塁打」となった1本があったために記録を逃しています。青田昇は1950年に盗塁1個でトリプルスリーを逃しました。

岩本義行と別当薫は1950年の初の、しかも、同時達成者です。この8人の中で比較してみると、最高打率は別当薫の.335、最多本塁打も別当の43本で、最多盗塁は中西太の36盗塁となります。

打率3割と本塁打30本、打率3割と30盗塁は、結構、達成されていますが、30本塁打と30盗塁の組み合わせは難しいようです。1963年に張本が33本塁打41盗塁を記録しましたが、打率は.280でトリプルスリーを逃しました。

岩本義行は1936年の日本職業野球連盟の発足に際し、全球団による大争奪戦の対象となりましたがプロ野球には参加せず、六大学出身のスター選手を揃えたクラブチームの強豪東京倶楽部に所属して3番や4番を打ち、第11回都市対抗野球大会での準優勝に貢献しました。

1938年のシーズン前に東京倶楽部が解散したので、この年発足した南海軍の創設に参加しました。岩本は初代の主将となりましたが、初戦のオープン戦の途中で召集令状を受け2年間兵役に服します。復員した1940年から1942年までは南海でプレーし、1941年東西対抗戦で西軍の4番を打っています。

1942年には打率本塁打打点の打撃三部門のすべてで2位、7月11日後楽園球場での対名古屋軍戦では、1試合3本塁打のプロ野球新記録を達成しましたが、再び召集を受けました。

戦後はアマチュアの全広島でプレーした後、1947年石本秀一の要請で7年ぶりにプロ球界に復帰し太陽ロビンスに入団しました。37歳の高齢のため契約金はなかったそうです。余談になりますが、野球は点を取らないと勝てないと云う理由で、翌1948年に太陽ロビンスは大陽ロビンスとなります。

大陽ロビンスは1950年に松竹ロビンスとなってセ・リーグに加盟し、同年セ・リーグ初代王者となります。実はこの松竹の監督就任を小西得郎が固辞し、チームは監督不在のままキャンプに突入しました。岩本はキャンプ地倉敷からオート三輪で東京まで駆けつけ、明治の大先輩を説得して小西が監督に就任します。

岩本は3月11日の開幕第2戦でセ・リーグ第1号の本塁打を満塁で放ち、3番小鶴誠、5番大岡虎雄とクリーンアップを組んで4番打者として水爆打線を構成します。打率.319、39本塁打、34盗塁で史上初のトリプルスリーを達成し、リーグ優勝に大きく貢献しました。

毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでも3本塁打を打ち、第6試合では4点リードされた無死満塁で、同点本塁打を警戒したオリオンズに敬遠で歩かされます。岩本自身が「ノーアウト満塁で敬遠なんて、自分の長い野球生活で後にも先にもない」と驚く作戦でした。

1951年8月1日の対大阪タイガース戦では、自らの記録を塗り替える史上初の1試合4本塁打を記録し、二塁打も放って1試合18塁打のプロ野球記録を達成しました。同年は31本塁打で本塁打王、打率は2位で.351、盗塁は10でした。

この年の4月22日国鉄戦から6月6日巨人戦まで、27試合連続ヒットを記録し、この記録は1976年張本勲に抜かれるまでセ・リーグ記録でした。前年とこの年に2年連続で、外野手シーズン最多補殺8と云うセ・リーグ記録を残しています。

またまた余談ですが、松竹ロビンスは1953年(昭和28年)に大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなり、翌1954年(昭和29年)には洋松ロビンスと改称し、そして1955年(昭和30年)には大洋ホエールズになっています。

1953年に松竹ロビンスとの合併の際、松竹が小西監督の続投に難色を示して岩本に監督就任を要請しましたが、岩本は小西の顔を立てて辞退し小西監督の続投となります。この年はシーズン24死球を記録し、55年間日本記録でした。頭部に死球を受けても平然と一塁に歩き、これにはぶつけた投手の方が青くなったと云う伝説があります。当時は、まだ、ヘルメットはありませんでした。

1954年に一旦はプロ野球を引退し、富士鉄釜石補強選手として同年の第25回都市対抗野球大会と翌第26回大会に出場しました。1956年には強化三ヵ年計画を打ち出した東映フライヤーズ選手兼任監督として、三度目のプロ野球復帰を果たし明治生まれ最後の現役選手となります。

1957年8月18日阪急戦では5番レフトとして先発出場し、45歳5ヶ月で本塁打を打ち史上最年長記録となりました。同年限りで現役を引退しましたが、1960年まで5年間、毒島章一土橋正幸山本八郎などの主力選手を率いて監督を務め、1958年には5選手をオールスターゲームに送り、1959年には高卒新人の張本勲を抜擢するなど、チームを初めてAクラス入りさせます。

蓑田浩二は1975年に、阪急ブレーブスからドラフト2位の指名を受けて入団しました。阪急のことは、社会人野球時代から名が知られていた山口高志が入ったチームと云う知識しかありませんでした。簑田は広島出身で広島東洋カープのファンだったため、同年の日本シリーズでカープを倒した相手チームに参加するのは躊躇があったようです。

もともと内野手でしたが、加藤秀司ボビー・マルカーノ大橋穣森本潔と並ぶ内野陣には付け入る余地はなく、2年目に外野手に転向します。しかし外野も大熊忠義福本豊バーニー・ウイリアムスらのレギュラーの壁が厚く、1年目、2年目は控えに甘んじていました。ターニングポイントとなったのが2年目、巨人と対戦した1977年の日本シリーズ第4戦でした。

9回2死、1点ビハインドの場面で、四球で出塁した藤井栄治の代走として出場します。打者も高井保弘が代打となり、浅野啓司吉田孝司のバッテリーを相手に盗塁を成功させました。簑田はバッテリーにはさほど警戒されていないと感じたそうで、上田利治監督からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていました。

高井のレフト前ヒットで、蓑田は二塁から本塁に突入します。高井が打った瞬間から三塁コーチの石井晶は腕を回していましたが、簑田本人は三塁に到達する前に、これでは本塁で刺されると思ったそうです。本塁でのタイミングはアウトでしたが、吉田のタッチをうまくかわした同点のホームインが、阪急の逆転勝利に繫がったのです。

この時阪急ベンチ全員が喜んでいる中で、上田監督だけは「スタートが遅い。二死なんだから、もっと思い切ってスタートを切れ。」と注文を付けました。簑田にとっては野球の奥深さを考えさせられるきっかけになり、それからは状況に応じて考えたプレーをするように心がけます。

「あのプレーは運も良かった。守備固めで張本に代わってレフトに入った二宮の返球がすばらしかった。ノーカットだったら完全にアウトだったが、サードの高田さんが中継に入り返球が1メートル内側に逸れた。」と語っています。

1978年には怪我で離脱した大熊に代わって2番左翼のレギュラーに定着し、61盗塁を記録します。福本の70盗塁に及ばず、盗塁王のタイトルは獲得できませんでした。

同年から8年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得し、打力、走力のほかに守備力にも秀でた、正に、理想の外野手でした。強肩外野手のように評されるのですが、簑田自身は「自分は遠投90メートルもいかないし、強肩じゃない。バックホームで走者を刺すのに強肩は必要ない。」と云い、「それよりも重要なのは、状況に応じて守備位置を考えること。」と解説しています。

1980年には31本塁打、39盗塁、31犠打を記録します。この“30-30-30”は打率3割ではなく30犠打ですが、日本で唯一の記録です。1981年には右翼手コンバートされます。簑田は「レフトよりライトのほうが楽しかった。走者を三塁に進ませない返球や、ホームで走者を刺すプレーは、自分がホームランを打つよりも快感だった。」と語っています。

1982年後期から3番打者の起用が中心となり、1983年には打率.312、本塁打32本、35盗塁をマークし、中西太以来30年ぶりに史上4人目のトリプルスリーを達成しました。オールスター前に番記者から、この記録の達成ペースにあることを知らされ、30年ぶりの快挙と知って強く意識したそうです。

特に意識したのは盗塁でした。打順が3番なので、当初は4番打者の前でアウトになってはと自重していた盗塁を、シーズン後半は意識して増やしトリプルスリーを達成しました。

1983年には両リーグ最多の17補殺を記録します。岩本の2年連続のセ・リーグ最多捕殺記録が8でしたから、その守備力のすごさが分かります。しかし1985年には頭部の死球など怪我に泣かされ、若手の成長もあって1988年金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍しました。

ジャイアンツでは、同年に開場した広い東京ドームに対応できる守備の名手として期待されたのです。日本シリーズで近鉄に怒涛の3連勝を決められて後が無くなった第4戦では、1番に起用されて初回に二塁打を放ち、三進後浅いセンターフライでタッチをかいくぐって先制得点を挙げ、シリーズの流れを変えました。

桑田真澄は簑田のバッティングを見て、「右の篠塚さんみたいだ」とその高い打撃技術を絶賛しています。1990年7月23日にシーズン限りでの現役引退を表明し、閉幕まで打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めました。

別当薫については以前「デッドボール」と云う題で、中西太についても「打球」と云う題でエピソードを紹介しました。秋山幸二、野村健二郎、金本智憲は皆さんの記憶に新しい選手ですし、特に松井稼頭央は現役の選手ですから、今回は若い方のご存じない岩本義行と蓑田浩二にしぼってみました。

 

 


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