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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

明石 元二郎

2023-07-20 06:23:48 | 日記

明石 元二郎(あかし もとじろう)は1902年(明治35年)ロシア帝国公使館付陸軍武官に赴任し、1904年(明治37年)日露戦争が始まるとロシア国内の政情不安を画策して、戦争継続を困難にするほどの諜報活動に従事しました。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世をして「明石元二郎一人で満州の日本軍20万に匹敵する戦果を上げた」と称賛せしめたほどです。日本の勝利に貢献した実績は広く評価されていますが、諜報活動と云う表には出せない活躍のためその実態はほとんど知られていません。明石は後に陸軍大将に進級、大正7年(1918年)7月台湾総督に就任します。

明石元二郎

明石は1864年9月1日(元治元年8月1日)明石助九郎貞儀の次男として生まれました。明石家の家格は福岡藩黒田家の家中で最上位に次ぐ「大組」で、1,300石の大身の家系でした。1877年(明治10年)陸軍士官学校幼年生徒となり、1883年(明治16年)陸軍士官学校(陸士6期)を卒業して歩兵少尉に任官、1889年(明治22年)陸軍大学校(5期)を卒業しました。

ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)フランス公使館付陸軍武官となります。翌1902年ロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、後に首相となる田中義一陸軍武官が当時行っていたロシア国内の情報を収集して、ロシアの反政府分子と接触する工作活動を引き継ぎました。

パリ公使館付武官のころ 2列左から2人目 

首都ペテルブルクのロシア公使館に着任した明石は、日英同盟下のイギリス秘密情報部員シドニー・ライリーと知り合います。日英同盟は外国とは同盟を結ばなかったイギリスが我が国と初めて軍事同盟を結び、ロシアの満州支配の動きを牽制しようとしたものです。

1903年(明治36年)明石の依頼で、ライリーは建築用木材の貿易商と偽って戦略的要衝である旅順に移住し、ロシア軍司令部の信頼を得てロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスや日本にもたらしました。

1904年(明治37年)日露戦争が始まると、駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移動し、明石はこの地を本拠として活動します。開戦直前の1月参謀本部次長児玉源太郎は、開戦後もロシア国内の情況を把握するためペテルブルク、モスクワ、オデッサに、非ロシア人の情報提供者2名ずつを配置するよう明石に電令を発し、明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀職になります。

ロシア第一革命は日露戦争の最中の1905年1月に起こった「血の日曜日」事件をきっかけに、国会の開設などの改革をロシア政府に実行させた騒動です。1月9日の血の日曜日事件は旅順の陥落直後にガポン神父が計画した請願行進で「憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、敗北を重ねる日露戦争の中止、各種の自由権の確立」など、当時のロシア民衆の皇帝への素朴な請願を代弁したものでした。当時のロシア民衆は皇帝を信頼し、皇帝への直訴で情勢が改善されるものと信じていたのです。

その以前にサンクトペテルブルクで行われたストライキは10万5千人に及んだと云われ、当日の請願行進参加者は6万人に達しました。デモ隊を市街中心部へ入れないように動員された軍隊は、余りの人数の多さに侵入を阻止できず、各地で非武装のデモ隊に発砲して血の日曜日になりました。

ペテルブルクに続いて各地で労働者が暴動を起こし、変革を求める声は全国に広がります。この段階では、厳しく弾圧されたロシア社会民主労働党や社会革命党などの社会主義者は、地下に潜るか国外に亡命中で、まだ、ロシア国内で主導権を握っていませんでした。

ロシア陸軍は1月の旅順陥落に続いて3月に奉天会戦で敗れ、5月にはバルチック艦隊が日本海海戦で全滅、戦争中止を求める声が強まりました。6月に黒海艦隊所属の戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こし、オデッサでも市民が蜂起します。皇帝は戦争の継続を断念するに至り、1905年9月5日ポーツマス条約を締結します。

明石の工作の目的はロシア国内の反乱分子を糾合し、革命政党エスエルを率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じて、ロシア国内の反戦反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものでした。

明石は様々な人物と接触しました。フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、その他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などです。

特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス率いるフィンランド革命党を通じて、様々な抵抗運動組織と連絡を取って資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などが展開されていきました。デモやストライキが先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために兵力を割かねばならず、極東へ派兵しにくい状況が作られました。

1904年(明治37年)5月児玉源太郎がポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキと会談しました。満洲軍で激務にあった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石の手で連携がとれていたためです。

明石のロシア国内の政情不安を画策し、ロシアの戦争継続を困難にすることを意図した活動は、日露戦争後の1906年(明治39年)に参謀本部に提出された「明石復命書」によって、日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになります。

明石は当時の国家予算2億3,000万円の内100万円の巨額な工作資金を、一人で消費しましたが、それは参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断で参謀本部から支給されたものです。

100万円は今の価値では400億円以上の大金でしたが、大国ロシアを掻き回すにはいくらあっても足りなかったでしょう。この大金の使途は復命書に明細を添え、残金27万円が返却されています。

明石復命書は明石の情報工作の手法が具体的にまとめられたもので、情報活動に携わる者の必読の書とされ、後に陸軍中野学校ではスパイ養成のテキストにしたほどでした。

明石はロシア帝国公使館付陸軍武官として赴任する前に、ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年にフランス公使館付陸軍武官を務めています。ドイツ語、フランス語、ロシア語、英語に堪能だったと云い、この語学力を生かしてロシア国内の情報を収集、ロシアの反政府運動家との接触を試みる工作活動を行ったのです。

1894年(明治27年)ドイツ留学を命じられた時の明石は、フランス語は得意でしたがドイツ語の習得に、寝食を忘れて没頭しました。同年日清戦争がはじまって呼び戻されたので、4か月でドイツ語をマスターしたことになります。

フランスでの出来事でしょうか、ドイツとロシアの軍人が横にいた明石に「ドイツ語は話せるか」とフランス語で訊ね、明石が「ドイツ語は分からない」と答え、安心した2人の秘密の会話をすべて聞くことが出来たという話があります。

参謀次長長岡外史は「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評していますが、明石の謀略活動の意図は、研究者の間で、ほぼ、評価が一致しているようです。

明石は1904年(明治37年)ジュネーヴのレーニンの自宅で会談し、レーニンの社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出ました。レーニンは、当初、応ぜず、明石は「タタール人の君がタタールを支配するロシアのロマノフを倒すのに、日本の力を借りるのが何で裏切りだ」と説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功しました。後にレーニンは「日本の明石大佐には本当に感謝している」と語っていたそうです。

このレーニンとの会談やレーニンの発言には、事実かどうかの疑念も提示されていますが、明石は指導者としてのレーニンに一目おき、復命書の中で「礼仁」という字を当てて敬意を払い、1917年のロシア革命当時に至っても日本政府にレーニンの名を知っている者のは誰もいなかったことから、実際に会った公算が大きいと思われます。

明石の諜報活動を知ることができるのは参謀本部に提出された明石復命書だけですが、原本は終戦の際に焼却されてしまい、残っていた複写に明石自身が「落花流水」と題をつけています。その大半はロシアの成り立ちから日露戦争に至るまでの歴史を詳しく調べ上げたもので、あの年代に日本で書かれたロシア史の中で完璧なものと云われます。

不平党の重要人物の項には「倉保」(クロポトキン)「布破」(プレハーノフ)「瓦本」(ガポン)「礼仁」(レーニン)が出てきます。明石はこういった革命勢力に近づき、煽動し、援助することで、背後からロシアを脅していったのです。

第二次世界大戦後に発刊されたデニス・ウォーナー夫妻の名著「日露戦争全史」には、明石大佐の項の初めに「ニコライ皇帝が想像していたよりも遥かに身近なところで、この戦争とロシア宮廷の運命に極めて大きな影響を与える事件が、今や引き続いて生起しようとしている」と述べられています。
明石の前任者であった田中(後の大将、総理大臣)も非常にロシア語が堪能で、自らギイチ・ノブスケビッチ・タナカ(ロシアの名称は中に父親の名をはさむ)と称するほどでした。この田中と海軍の広瀬武夫がすでに革命党員と接触したり、明石の下工作に当たることをやっていました。

明石はロシア国内にうまくスパイをもぐり込ませ、満州への兵站、輸送の状況などを逐一報告させていますから、バルチック艦隊がどんな編成で、いつ頃出港していくと云う報告なども全部していたはずです。

明石はスパイについて面白い評価を下していて、金が目当てのスパイが一番いい。主義主張でやっているより、ひもじい思いをしているプロのスパイの方がよく働くと云っています。

明治37年10月1日明石はパリにロシア、ポーランド、フィンランドの革命家を集めて資金を出し、ロシアで大反乱をおこす工作を企てます。不平分子を煽動してロシア国内を攪乱させる目的で、まず、フィンランド独立運動を進めているフィンランド人の弁護士シリヤクスに接触、これがフィンランドの独立とロシア革命、日本の勝利に大きな働きをするきっかけになります。

シリヤクスを通じてスウェーデン参謀本部のアミノフ大尉と会え、彼がロシア国内のスパイに秘密の手紙や資金を送ってくれるようになります。長年ロシアの圧制に苦しんでいたフィンランド人の亡命者たちが協力してくれたのです。

ポーランド人も同じで、ロシア陸軍に配属されているポーランド人は「戦前は15%ぐらいだったが今は30%いる。この連中に反軍、独立のサボタージュをおこさせると大きな力になる」と云っています。

1905年(明治38年)には全ロシアで286万人がストライキに参加し、これは前年の115倍だそうです。公正な史書としての評価の高い谷寿夫の「機密日露戦史」は、谷が陸軍大学で日露戦史を講義したテキストですが、その中でもこのことが指摘されています。

ヨーロッパ諜報活動時代 中央が明石

明石は陸軍部内で高く評価されていたのですが、ある将校が明石に「閣下が日露戦争中にやられた働きは、大へんなものでございますね」と云うと、明石は苦い顔をして「俺の功績が日露戦争の正史のどこに書いてあるか」と云ったそうです。

正史とは何を指すのか分かりませんが、谷中将の「機密日露戦史」には「日露戦役戦勝の一原因もまた明石大佐ならざるか」と述べられていて、男爵受爵もこの功によるものとされています。

1914年(大正3年)4月明石は参謀次長に就任しました。日露戦争中の明石は当時の国家予算2億3,000万円の内の100万円の巨額工作資金を一人で使うほど、参謀本部の信頼は厚かったのですが、陸軍部内には「スパイ蔑視」の風潮があってこの路線からは外されていき、1918年(大正7年)7月台湾総督に就任、陸軍大将に進級します。

総督在任中には台湾電力を設立して水力発電事業を推進し、鉄道貨物輸送の停滞を消解するため海岸線を敷設、台湾人が日本人と均等に教育を受けられるよう帝国大学進学への道を開き、台湾最大級の銀行の華南銀行を設立しています。また、嘉南平原の旱魃・洪水対策で嘉南大圳の建設を承認し、台湾総督府の年間予算の3分の1以上にもなったその建設予算の獲得に尽力しました。

総督在任1年4か月の1919年(大正8年)10月公務のため本土へ渡航する洋上で病を得、郷里の福岡で満55歳で亡くなります。「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言し、遺骸は台北市の三板橋墓地に埋葬されました。1999年に現地の有志により、台北県三芝郷の福音山基督教墓地へ改葬されています。

 


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シーボルトの日本探索

2023-07-06 06:27:09 | 日記

「シーボルト」が江戸時代の我が国に西洋医学を伝えたことはよく知られていますが、膨大なコレクションをヨーロッパに持ち帰って日本を紹介し、ヨーロッパの文明に大きな影響を及ぼしたことはあまり知られていません。

晩年のシーボルト

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは長崎出島のオランダ商館に派遣された医師ですが、オランダ人ではなく、ドイツのヴュルツブルク出身の生粋のドイツ人です。シーボルト家はドイツ中部の名門で、祖父の代から貴族に列せられて医者や医学の教授を多数輩出し、父クリストフもヴュルツブルクの大学の医学の教授でした。

ヴュルツブルクでは父の友人で解剖学と生理学が専門で、博物学に造詣の深いイグナーツ・デリンガー教授の家に下宿して高校を卒業、大学で医学を学びました。1820年に大学を卒業し、母が住み、彼自身も一時期を過ごした田舎町ハイディングスフェルトで医者を開業します。

シーボルトは名門貴族の誇りが高く町の開業医として一生を終わることを許せなかったのか、翌年には海外の博物学の調査研究に出かける決意を固め、計画を具体化させていったと見られます。

叔父のアダム・エリアス・フォン・シーボルトは、一族の旧友のオランダ陸海軍軍医総監で国王ウィレム一世の侍医であるフランツ・ヨゼフ・ハルバウルにシーボルトの就職を依頼し、ハルバウルはオランダ領東インド陸軍勤務の軍医少佐という破格な職をシーボルトに斡旋してくれました。

シーボルトはこの破格の職に赴任する前にヨーロッパの学会と緊密な関係を構築しておくことを望み、1822年7月にヴュルツブルクを出発すると幾つものアカデミーや学会の会員資格の獲得を試みます。シーボルトが特に望んだのは、当時、もっとも名声の高かった帝室カール・レオポルト自然科学者アカデミーへの入会で、植物学者エーゼンベックの援助で許可されました。

エーゼンベックとの親密な関係は後々まで続き、1829年シーボルトの著わした植物分類学の唯一の論文「日本のアジサイ属について」を発表したのはこのアカデミーの学会誌でした。

シーボルトは1822年9月に出発して5か月後にジャワ島のバタビアに到着しました。東インド総督のファン・デル・カペレンの目にとまったシーボルトは、バタビア芸術科学協会員に任命され、長崎出島のオランダ商館に特別の任務を担って派遣される医師に抜擢されます。

当時の出島の医師は10人ほどのオランダ人の健康管理をする閑職でしたが、シーボルトは日本の動植物界と鉱物界について調査し、日本人の特性を探求する「国家の施策に基づく特別な指令の下に行動する特殊な任務をおびた職」に任命されたのです。

日本の自然や文化を物証的に研究するには、収集したコレクションを学術的に分類し直すことが必要です。オランダ国立自然史博物館(ナチュラリス)、オランダ国立大学植物学博物館ライデン大学分館、オランダ国立民族学博物館などの収蔵標本を利用しないと、新しい研究を展開することはできないのでした。

シーボルトの初来日は1823年(文政6年)から1829年(文政12年)の7年間です。我が国は「化政文化」の爛熟期にあり、伊能忠敬、上田秋成、十返舎一九、小林一茶、歌川豊国など多数の文化人が活躍していました。

その100年前の1720年(享保5年)に八代将軍吉宗がオランダ書の輸入を解禁しており、多くの学術書が渡来して「解体新書」(1774年)のように翻訳されたものもありました。西洋医学への関心が高まって蘭方医が急増し、植物・動物学や天文・暦学にも関心が向かっていました。

我が国の植物学の研究は医学・薬学と関係の深い本草学に伴うもので、その中心的役割を果たしていたのは明時代に李時珍が著した中国の「本草綱目」です。小野蘭山は「本草綱目」を解説し、類似する日本の植物との異同を論じた名著「本草綱目啓蒙」を著わし、日本の本草学を完成させました。岩崎灌園が日本初の植物図鑑「本草図譜」を著わしたのもこの時代でした。

当時ヨーロッパとの唯一の窓口であった長崎では、オランダ人を垣間見、輸入された書籍を読むことは出来ましたが、医学の実地をオランダ人医師から直接学ぶ機会が渇望されていました。

シーボルトは出島で開業した1年後に、出島の外で鳴滝塾を開くことを特に許され、日本各地から来た多くの塾生に講義します。塾生には高野長英・二宮敬作・伊東玄朴・小関三英・伊藤圭介らがいて、シーボルトは実地の診療も許可されました。

日本の文化の探索・研究を開始したシーボルトは、1825年に出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1,400種以上の植物を栽培し、日本茶の種子をジャワに送り当地で茶の栽培が始まっています。

1826年4月にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、道中、日本の自然を研究することに没頭し、地理や植生、気候や天文などを調査しています。1826年将軍徳川家斉に謁見しました。

将軍御典医桂川甫賢、蘭学者宇田川榕庵、元薩摩藩主島津重豪、中津藩主奥平昌高、蝦夷探検家最上徳内、天文方高橋景保らと交り、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送っています。徳内から北方の地図を贈られ、景保からは最新の日本地図を受け取りました。

来日してまもなく一緒になった楠本滝との間に1827年娘イネをもうけ、アジサイを新種として記載した際には滝の名をとって、Hydrangea otaksa と命名しています。

日本植物誌 図版52 アジサイ

3年後に再来日する予定で1828年、一旦、帰国することにした際、先に出発した船が難破して日本の浜に流れ着き、積荷の一部に幕府禁制の日本地図があったためシーボルトは幕府から国外追放処分を受け、1829年12月に長崎を離れて1830年オランダに帰り着きました。

シーボルトは日本で収集した文学的・民族学的コレクション5,000点以上の他に、哺乳動物標本200、鳥類900、魚類750、爬虫類170、無脊椎動物標本5,000以上、植物2,000種、植物標本12,000点を持ち帰り、東洋学者のヨハン・ヨーゼフ・ホフマンを研究協力者とします。

翌1831年オランダのウィレム1世からライオン文官功労勲爵士とハッセルト十字章を下賜され、コレクション購入の前金が支払われました。1842年にオランダでも貴族に列せられ、帰国後15年が過ぎた1845年シーボルトはヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚して3男2女を授かります。

仕事が軌道に乗り新たな家庭を築いたにもかかわらず、シーボルトは一貫して日本に戻る希望を抱き、1855年の日本の開国で幕府がシ-ボルトの日本追放処分を取り消すと、各方面に日本再訪を打診します。

しかし公式の立場での日本再訪はできず、私企業のオランダ貿易会社の顧問として、1859年から1862年まで待望の日本再訪が実現しました。1859年シーボルトは長男アレクサンダーを伴って長崎に上陸し、娘のイネにも会うことができ、追放処分で離日した際3歳だったイネは33歳となり、1852年に孫に当たる「たか」が生まれていました。

シーボルトの孫 たか

再来日したシーボルトは1861年幕府の顧問となって江戸に移りましたが、オランダ総領事の反目を買い、多くの失望と幻滅を味わって1862年4月日本を離れてオランダに帰りました。1863年オランダ陸軍少将の地位を得て退職し、1864年生まれ故郷のヴュルツブルクに戻って、1866年10月18日ミュンヘンで70年の生涯を閉じます。

16世紀から17世紀前半にかけてオランダは新しい航路の開拓や確かな航海術で、スペイン、ポルトガルに代わって世界貿易の支配権を握り、ヨーロッパ列強の一つになっていましたが、1651年から始まったイギリスとの戦争で制海権を失い、オランダの繫栄に陰りを生じました。

当時のヨーロッパは大変な激動期にあり、フランス革命とそれに続くナポレオンの台頭でオランダはフランスやイギリスに占領され、海外領土でオランダ国旗が掲揚され続けていたのは出島だけでした。

シーボルトはどうすれば鎖国下の日本から最大限の資料と情報を手に入れられるかを周到に考え、まず、日本人に関心の高い最新の西洋医学の知識と技術を伝えて、日本人との交流を深めることを図ります。

シーボルトが医学や自然科学で披瀝した新知識と実技は、日本人にとって何もかも斬新でした。出島の外にある鳴滝に私塾を設けることができたのは特例中の特例で、シーボルトは西洋文明の日本への伝達者として、それまでの誰よりも成功したのです。

帰国後のシーボルトは日本での学術研究の成果を纏めて刊行すべく努めますが、コレクションを分析して植物や動物の分類についての論文を書くのには莫大な時間が必要で、シーボルトにその時間はありませんでした。

シーボルトは収集した文献やメモを頼りに原稿の書ける、江戸参府紀行、日本の歴史、民俗、風習、文物をまとめた「日本」を執筆し、当時のヨーロッパの人々に測り知れない大きな影響を与えました。

日本での収集品のほとんどが保管されたオランダのライデンに住み、ジャワ号で運んだコレクションは彼の希望通りオランダ政府に買い上げられ、引き続き東インド軍医少佐に任命されて、日本での調査の成果の出版を目指しました。

1826年の江戸参府以降、シーボルトは民族学資料の収集を積極的に行っていて、芸術的な価値の有無に関わらず日常の生活用品を収集し、それぞれの品の役割や使い方を丹念に記録しました。シーボルトの体系的かつ網羅的な民族学関係資料の収集は、世界初の民族学博物館としてライデン国立民族博物館を誕生させる契機となります。

シーボルトの民族学的資料の価値の第一は、収集したコレクションの産地、収集日時が正確に記録されていることです。第二はコレクションを画家の川原慶賀に描かせ、それを取り巻く人々の日常生活が判るように記録を残したことです。家や船のような大型のものは正確に縮小した模型を作らせました。

ニホンカモシカ

日本動物誌 図版20 ウグイス(雄)

オオサンショウウオ

シーボルトのコレクションは1837年民族学博物館で一般に公開され、訪問者の中には著名な学者や芸術家、後のオランダ国王ウィレム二世をはじめ王侯貴族がいました。博物館を通じて日本が紹介されたのです。

シーボルトの民族学コレクションには相当数の浮世絵が含まれていて、シーボルトは葛飾北斎の「北斎漫画」に最初に注目したヨーロッパ人でした。博物館で展示された「北斎漫画」の最初の10巻は、ヨーロッパ美術界に日本趣味をもたらします。

シーボルトは日本の植物に特別な関心を寄せていましたが、カメラの未発達な時代に植物の生きた姿を記録するには画家が必要でした。このためにドゥ・フィレネーフェが来日しますが、シーボルトは自らの要求する高いレベルの植物の素描画を長崎の絵師の川原慶賀に1,000点近く描かせています。

シーボルトが「フロラ・ヤポニカ」にフランス語で書いた解説は、植物の自生地、分布、生育地の状況、栽培状況、学名の由来、日本名とその由来、利用法、薬理、処方など多岐にわたっています。

本草学者の水谷豊文と弟子の伊藤圭介や大河内存真、さらに宇田川榕菴,桂川甫賢など、日本人学者との接触を通じてシーボルトが得た情報は大変貴重で、シーボルト植物画コレクションの多くに宇田川榕菴のイニシャルW.J.が残されています。

シーボルトは彼の来日中の植物学の驚くべき進歩に鑑み、国際的に一流の植物分類学者の援助が必要不可欠と判断し、ミュンヘン大学のツッカリーニに依頼します。「日本」「ファウナ・ヤポニカ」「フロラ・ヤポニカ」はシーボルトの3部作ですが、シーボルトは当時の最高水準の質の高い色刷り図版で日本の植物のリアルな姿を伝えました。

3部作はいずれも自費出版で、豪華な図版を伴う大形本の出版には莫大な経費がかかり、その資金集めにヨーロッパ中の宮廷や貴族、商人の間を見本を持って回って予約を募りました。

シーボルトにとって日本植物の魅力は、露地植え出来る園芸植物の数が限られていたヨーロッパで、日本の植物が園芸植物として役立つ資源性でした。シーボルトは日本植物によって、ヨーロッパの園芸植物や庭園を大改良する野心を抱いたのです。

まず日本の植物をヨーロッパの環境に馴らす作業を開始し、ライデン近くのライダードルプに馴化植物園を設け、日本や中国の植物を導入する「園芸振興協会」を設立、種苗輸入のための「シーボルト商会」を興しました。

1844年日本から持ち帰った植物を販売する「有用植物リスト」が出来上がり、球根や苗、種子が売られました。このリストに載った日本産植物は魅力的で、その多くがヨーロッパにも多少とも類似した類縁の植物であることにヨーロッパの人々は驚きました。筆頭はカノコユリで、その球根は同じ重さの銀と取引きされたと云われています。

シーボルトがヨーロッパにもたらした植物の顧客リストには、オランダ国王や皇太子など多くの名士が名を連ねています。シーボルトの努力なくしては日本植物がこれほど速やかに、ヨーロッパの庭園を席巻することはなかったでしょう。

オランダの園芸風景

シーボルトは当時のヨーロッパにとって未知の国であった日本の文化が、多様で豊かな植物相に大きく依存していることを知り、日本の自然と文化を総合的に調査研究するために、あらゆる資料を集めまくったのです。

シーボルトは日本文化の特徴を具象的に示す浮世絵、日用品、調度品がヨーロッパにはない独自性と高い芸術性をもっていることに気付き、日本のすべてを紹介するには博物館が必要だと考え、世界に先駆けてライデンに民族学博物館を誕生させたのです。

シーボルトは彼の植物への愛情をこめた「フロラ・ヤポニカ」を完成させる前に亡くなりましたが、シーボルトの熱い思いは21世紀の今日でも大きく息づいていて、慶賀らが描いたおびただしい数の日本植物の素描画は、シーボルトの壮大なフロラの構想を、今日も、明らかに示してくれています。

 

 

 

 

 


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