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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

奥州藤原氏の栄華

2020-09-17 06:11:47 | 日記

マルコ・ポーロの「東方見聞録」に、ジパングはカタイ中国大陸)の東の海上にある島国で莫大な金を産出し、王の宮殿は金でできていると書かれていますが、マルコ・ポーロの話は奥州藤原氏平泉中尊寺金色堂がモデルとされます。

奈良時代までの日本は金を産出しておらず、749年に百済王敬福奥州で砂金が発見されたと云う記述が残っており、8世紀後半からは渤海・新羅などへ輸出され、遣唐使の滞在費用に砂金が持ち込まれて後の「黄金の国」のイメージが作られました。

奥州藤原氏は前九年の役後三年の役の後の1087年から源頼朝に滅ぼされる1189年まで、平泉を中心に東北地方一帯に勢力を張った豪族です。産金による経済力を背景にした平泉文化が栄えました。

奥州藤原氏の遠祖である藤原頼遠は諸系図によると「太郎太夫下総国住人」と記され、陸奥国に移住した経緯は分かっていません。父の藤原正頼従五位下で頼遠が無官であることから、平忠常の乱で忠常側についた頼遠が罪を得て陸奥国に左遷され、多賀国府の官人となったと推測されています。

頼遠の子経清の代には亘理地方に荘園を経営するなど勢力を伸し、経清は陸奥奥六郡を支配する豪族安倍頼時の娘を娶って、安倍氏一門の南方の固めとなっていました。

奥州藤原氏が藤原氏の係累かどうかは長年疑問符がつけられていましたが、経清は五位以上の藤原氏交名を記した1047年の「造興福寺記」に名があり、藤原摂関家から一族の係累と認められていたことが確認できます。

東北地方弥生時代以降も続縄文文化擦文文化に属する人々が住むなど、関東以南とは異なる歴史をたどりました。中央政権の支配も強くは及んでおらず律令制の時代には陸奥国出羽国が置かれ、俘囚と呼ばれた蝦夷の人々と関東以南から移住して来た人々が入り混じって生活していました。

11世紀半ばの陸奥国には安倍氏出羽国には清原氏という強力な豪族がいました。安倍氏の出自については不明で「平泉雑記」が伝える神武天皇の東征に抗した長脛彦の兄の安日彦津軽亡命をもって安倍氏の発祥とする説、奥州に下った中央豪族の安倍氏のいずれかが任地で子孫を残した説、朝廷に従った蝦夷とする説があり、太政官符に「故俘囚首安倍頼時」との記載があります。

当時陸奥6郡を支配し勢力のあった安倍頼時が国府貢賦を納めず、徭役も務めないため、陸奥守藤原登任、秋田城介平繁成らが討伐に当たりましたが果たせず、朝廷は1051年源頼義を陸奥守に任じて追討を命じました。

頼時は一時帰服しましたが、頼義の任期終了間際の1056年に反乱を起し衣川りました。頼義は重任して安倍氏征伐にあたり翌年頼時を敗死させましたが、頼時の子貞任を中心に安倍氏の結束は堅く頼義らの苦戦が続きました。出羽の俘囚清原光頼、武則らの応援を得て1062年ようやく貞任を倒し、この乱を鎮定しました。前九年の役です。

この役の前半安倍氏の当主であった頼時は1057年に戦死し、その子の安倍貞任1062年に敗死して安倍氏は滅亡しましたが、頼時の娘の1人が亘理郡の豪族藤原経清に嫁ぎ男子をもうけていました。

経清は前九年の役の終に安倍氏に加担したため頼義に捕えられて斬られましたが、その妻(頼時の娘)は、頼義の3倍の兵力を率いて参戦して戦勝の立役者になった清原武則の長男武貞に再嫁することになり、安倍頼時の外孫である経清の息子も武貞の養子となり長じて清原清衡を名乗りました。

1083年清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡、その異父弟の清原家衡との間に内紛が生じます。この内紛に源頼義の嫡男義家が介入し、真衡の死もあって一旦は清原氏の内紛は収まります。

義家の裁定で清原氏の所領だった奥六郡が清衡と家衡に3郡ずつ分割継承されましたが、これを不服とした家衡が清衡との間に戦端を開き、義家はこの戦いで清衡側につき家衡を討ちました。後三年の役です。

真衡、家衡の死後、清原氏の所領はすべて清衡が継承し、実父経清の姓である藤原を再び名乗り藤原清衡となりました。これが奥州藤原氏の初代です。清衡は朝廷藤原摂関家砂金などの献上品や貢物を欠かさず、中央からの国司を受け入れ、朝廷は奥州藤原氏の事実上の奥州支配を容認しました。

奥州藤原氏は朝廷における政争には関わらず、源平合戦の最中も奥州17万騎と云われた強大な武力を背景に政治的中立を守り、平穏の中に独自の政権と文化を確立します。清衡は1094年頃平泉に居を移し政治文化の中心都市の建設に着手、壮大な中世都市平泉の原型をつくり奥州藤原氏100年の栄華の基礎を築きました。

1105年清衡は中尊寺を興し1124年金色堂を建立しました。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い、奥州藤原氏の権力と財力の象徴と云われますが、清衡の中尊寺建立の趣旨は、12年も続いた戦乱で亡くなった者たちの霊を敵味方の別なく慰め、辺境の地に仏国土を建設するためでした。

清衡は法華経に深く帰依し「中尊寺建立供養願文」の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」で、ひとりも漏れなく諸仏の功徳を直に受けることができると述べています。ちなみに中尊寺供養願文では自らを「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現しました。

金銀螺鈿をちりばめた金色堂の落慶の翌年、当時としては長命の73歳で没しました。金色堂に納められた清衡ら4代のミイラを調査した結果は曾孫の泰衡まで4代は直系で、清衡の顔は頬骨の秀でた比較的短い顔で鼻筋が通っていて、身長は159cm、手の形は小さく華奢、四肢の筋はよく発達していて、史料の没年齢と矛盾はないとされます。

藤原基衡は清衡の次男として生まれ、異母兄の惟経と父の跡目を争い勝利して2代目となりました。この争いには惟経の母が生まれた清原氏と、基衡の母の安倍氏との両豪族の権力争いが絡んでいたようです。

基衡は基盤固めに成功して独立政権を強化し、1142年陸奥守を拝命した藤原師綱が赴任したところ、国司の威光がまるで及ばないほど基衡の権勢は強かったと云われます。基衡は師綱とはいさかいを生じますが、次の国司の藤原基成とは親交を深め基成の娘を3代目秀衡の嫁に迎え入れて、その後下向する国司はほとんどが基成の近親者となりました。

初代清衡は平泉に本拠地を移し政庁となる「平泉館」(ひらいずみのたち)を建て、中尊寺を構成する大伽藍群を建立していきましたが、この時点の平泉にはこの2つの建造物群しかなく、都市機能は衣川を挟んだ対岸の地区にあり、中尊寺金色堂建立の頃を境に建造物は南へと伸びていきました。

2代基衡の時代には平泉館の新しい中心となる大型建物の新築、毛越寺の建立やそれに合わせた東西大路の整備などが行われ、都市機能が着実に整備されていきます。

1117年に基衡が毛越寺(もうつうじ)を興し、その後造営を続けた壮大な伽藍と庭園の規模は、京のそれを凌いだと云われます。「吾妻鏡」によれば堂塔四十余宇、禅房五百余宇があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、中尊寺をしのぐ規模でした。

毛越寺の本尊とする薬師如来像を仏師雲慶に発注し、あまりにも見事な出来栄えで鳥羽法皇に京都の外への持ち出しを禁じられましたが、関白藤原忠通に取り成してもらい、法皇の許しを得てようやく安置することができたと云います。このことだけでもどのくらいの黄金が使われたか分かりません。

3代秀衡の時代には平泉館の大改築、無量光院の建立、それにともなう周囲の新市街の形成など、平泉全体の都市景観が大きく変わり最も栄えました。初代から3代の変化を順に「山平泉」「里平泉」「都市平泉」とも云います。

平泉の黄金文化を支えたと伝えられる金鉱山は北から、八針(岩手県気仙郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折宮城県気仙沼市)、大谷(宮城県気仙沼市)で三陸海岸沿岸に並んでいます。

歴代の藤原家当主がいくら理想の都を築こうと望んでも、京から下向して来た僧侶や公家、官人の中に優れた企画力のある人たちがいて、技能に長けた大勢の職人たちを呼び寄せなければ、第二の京と云われた都市は築けなかった筈です。黄金の力はそれが成就できたほど偉大なのでしょう。

秀衡は1157年基衡の死去を受けて家督を相続します。出羽国陸奥国押領使となり、両国一円の軍事・警察の権限を司り、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率しました。この頃都では平家が全盛期を迎えますが、秀衡は遠く奥州にあっても、平泉に次ぐ人口を誇る仏教文化の大都市でした。

秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などで評価を高めました。また陸奥守として下向した藤原基成の娘と婚姻し中央政界とも繋がりを持ちます。

1170年従五位下鎮守府将軍に叙任されます。朝廷には陸奥現地の者をこの職に任じない規定があり、1181年従五位上・陸奥守に叙任されたときも前例のない東北政治の地元委譲として論議を呼びました。これらの叙任は前年に挙兵した鎌倉の頼朝や源義仲を背後から牽制するために、平宗盛が推挙したことによるものでした。

秀衡は鞍馬山を逃れた源義経を匿って養育しますが、1180年源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると義経は兄の元へ向かいます。留めることをあきらめた秀衡は佐藤継信忠信兄弟を付けて送り出しました。

1186年平家を滅ぼした頼朝は、秀衡に陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しようと書状を送ります。このことは秀衡を頼朝の下位に位置づける目論見でしたが、秀衡は鎌倉との衝突は避けて馬と金を鎌倉へ届けました。

頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、いずれ鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は、1187年2月10日頼朝に追われた義経を頼朝との関係が悪化するのを覚悟の上で受け容れます。

1187年9月4日義経が秀衡の下に居る事を確信した頼朝から朝廷へ「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」という訴えがあり、院庁下文が陸奥国に出されました。この2か月後、義経が平泉入りしてから9か月後の1187年10月29日秀衡は死去します。

秀衡には6人の息子がいましたが後継者は正室腹の次男泰衡でした。側室腹の長男国衡の存在感は大きく、身近な一族の娘から生まれた長男で武勇優れた国衡への期待が高かったと考えられますが、秀衡は両者に融和を説き、国衡に自分の正室である藤原基成の娘を娶らせて、後継者から外された国衡の立場を強化しました。

また国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせ、義経を主君として三人の結束で頼朝の攻撃に備えよと遺言し、この処置で2人の兄弟間の衝突は回避され家督は泰衡が継ぎました。

頼朝の圧力が強まったのは秀衡の死後です。泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して1189年閏4月500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成衣川館に襲って義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡しました。秀衡の時代には軍事力の行使を避けていた頼朝が7月自ら奥州に出兵し、泰衡は家臣の造反により殺されて奥州藤原氏は滅びました。

京の公家達は奥州藤原家から莫大な恩恵を受けながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があり、2代秀衡が従五位下鎮守府将軍に叙された時に右大臣九条兼実は「玉葉」の中で秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いています。

しかし得体の知れない蛮族の筈の安倍貞任は後三年の役で「衣のたてはほころびにけり」と問いかけた源義家に、すかさず「年を経し糸の乱れの苦しさに」と応えます。それを聞いて感じいった義家は思わず弓に番えていた矢を外してしまうのですが、読みかけられた下の句に当意即妙に上の句を付けるだけの教養が蝦夷の人びとにもあったようです。

藤原氏の初代清衡は陸奥押領使に、2代基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、3代秀衡は鎮守府将軍に、4代泰衡は出羽、陸奥押領使で、押領使の世襲で軍事指揮権を公的に行使することが認められ、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていましたが、平氏を滅ぼしたのちには残る北の脅威の奥州藤原氏を除くことに決めていた頼朝が朝廷と組んだ政略の前に、泰衡は敵ではありませんでした。

藤原氏の栄華は四代で潰えましたが、金色堂をはじめ破壊されずに残った栄華の跡は世界遺産に登録されています。

 


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零戦

2020-09-03 06:24:06 | 日記

「零式艦上戦闘機」(零戦)は第二次世界大戦中の日本海軍の主力戦闘機で、支那事変から太平洋戦争初期に長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた運動性能で米英の戦闘機に対し絶対的な強さを誇りました。

大戦中期以降はアメリカ空軍の対零戦戦法の確立、「F6Fヘルキャット」などの新鋭機の投入で劣勢となりましたが、海軍は後継機の開発が遅れたため終戦まで日本海軍航空隊の主力で、戦闘爆撃機特攻機としても使われました。開発は三菱重工業ですが、中島飛行機が総生産数の6割以上を生産し合計1万機に達しました。ちなみに陸軍戦闘機の「隼」の生産数は5千機です。

 

1941年12月7日真珠湾攻撃のため赤城を発艦する零戦二一型

日本の軍用機の名称は採用年次の「皇紀」の下2桁を冠する規定で、零戦の制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、下2桁の「00」から「零式」となりました。

零戦は速力、上昇力、航続力を優れたものとするための軽量化に徹し、機体骨格に肉抜き穴を開け、ボルトねじに至るまで軽量化しました。そのため設計上想定されていない瑕疵が機体の破壊に直結し、1940年3月試作機が昇降舵マスバランスの疲労脱落により空中分解して墜落、1941年4月には2機が補助翼と主翼ねじれによる複合フラッタにより急降下中空中分解、日米開戦直前まで主翼の構造強化や外板増厚などの大掛かりな改修が行われています。

軽量化を徹底した結果は、乗降通路の主翼フラップ部分は人が乗れない強度となり、操縦席の出入りに胴体フィレット下と胴体側面に引き込み式のハンドルとステップを取り付けているほどです。

主脚を機体内、尾輪を尾部に引き込む設計とし、住友金属が開発した超々ジュラルミンを主翼主桁に使用しました。空気抵抗を減らす目的で沈頭鋲を機体全面に使用し、生産工程が増える設計となりました。

高速時と低速時では操舵の舵角が同じでも舵の利きが異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変えなければなりませんが、零戦では操縦索に伸び易いものが使われ高速飛行時には操縦桿を大きく動かしても、気流の抵抗で動きにくくなっている舵面との間で操縦索が引き伸ばされ、舵角が付き過ぎないよう補正されて操縦性がきわめてよい結果を生んでいます。

機銃の照準用望遠鏡が前面キャノピーから突き出ていると空気抵抗が増し、搭乗員はスコープを覗き込まなければなりませんが、零戦では光像式照準器を採用しハーフミラーに十字を投影することで、広範囲の視野を保ったまま射撃することが出来ました。プロペラピッチ変更を自動的に行う恒速回転プロペラが装備され、操縦席にあるレバーで任意のピッチに変更も可能で航続力を伸ばしました。

爆撃機を一撃で撃墜するために機首の7.7mm機銃2挺に加えて翼内に20mm機銃2挺を搭載しました。7.7mmでは効果の薄いF4Fにも有効で、空戦で20㎜機銃が活躍したことは多くの搭乗員が認めています。弾数が不足しがちでしたが、大戦中盤からは携行弾数が初期の60発から最終的に125発に増えました。

当初は九六式無線電話機(対地通信距離100km、電信電話共用)を搭載し、大戦後半はより高性能の三式無線電話機(対地通信距離185km、電信電話共用)に変更、この他に無線帰投方位測定器が新たに搭載されています。

戦闘機にとって非常に重要な高い運動性能を持ち、同世代の他国の戦闘機よりも横、縦とも旋回性能が格段に優れ、気化器が多重の弁を持つため背面飛行の制限がなく、急激な姿勢変化に対するエンジンの息継ぎもなくて、機体の旋回性能限界までの操縦が可能でした。

零式艦上戦闘機二一型 (A6M2b) 三面図

しかし徹底した軽量化で機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度はF4Fなどの米軍機よりも低い629.7 km/hでした。五二型以降では外板厚増加などの補強が行われ740.8 km/h まで改善されました。

零戦は遠隔地への爆撃機の侵攻を援護できた戦闘機で、長大な航続力は作戦の幅を広げました。開戦時のフィリピン攻略戦では、当時の常識からは空母なしでは実施不可能な遠距離を基地から飛んで作戦に参加しました。

自動操縦装置や充分な航法装置のない零戦は、洋上を長距離進出後に母艦へ帰還するには搭乗員の高度な技量と経験が必要でした。ちなみに当時の各国の戦闘機の航続力は1,200kmほどで、零戦は2,200km、増槽を付けると3,800kmを飛ぶことが出きました。

海軍の航空機は日米開戦時に3.900機を定数としていましたが、1942年までは鳳翔龍驤祥鳳瑞鳳大鷹の各空母、および内南洋や後方の基地航空隊には零戦の配備が間に合わず、配備されていたのは一世代の前の固定脚の九六式艦戦でした。

零戦の開発は「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発します。1937年5月にメーカーに提示されましたが、海軍の要求性能は「ないものねだり」と評されるほど高いもので、中島飛行機が辞退、三菱の単独開発で前作の九六式艦戦に引き続き堀越二郎が設計主務者として開発しました。

1938年4月三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越は、十二試艦戦計画説明審議会で格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望しました。

横須賀航空隊の源田実は支那事変の実戦体験から、あえて挙げるなら格闘性能、そのために他の若干の犠牲は仕方ないと返答し、航空廠実験部の柴田武雄は攻撃機隊掩護のための航続力と敵を逃がさない速度の2つを重視、どちらも正論で堀越は真剣に両者の期待に応えることにしました。

1939年4月1日に試作一号機が初飛行。試作2号機まではエンジンが三菱の瑞星13型でしたが、出力不足で試作3号機から中島の栄12型に換装されました。翌1940年(昭和15年)7月24日A6M2零式一号艦上戦闘機一型が制式採用されます。

1940年7月15日中国戦線横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦15機が進出しました。零戦はまだ実用試験中のもので、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼けつくおそれがあり、またGが大きくなると脚が飛び出すこと、20mm機銃が出なくなることが未解決の問題でした。

最初の出撃は8月19日の九六式陸上攻撃機護衛任務では会敵せず、1機が着陸に失敗し転覆、最初の喪失となりました。9月12日三度目の出撃で、敵は交戦を避け日本軍機が去った後に大編隊を飛ばせて追い払っているように見せていることが判明しました。

翌日再び出撃した進藤大尉は途中から引き返して、ようやく敵機の大編隊と遭遇しました。相手は国民党空軍の精鋭のアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機33機でしたが、スピード・火力ともに優れた新鋭の零戦に次々と撃墜されました。

この戦闘で初陣を飾った13機の零戦は損失を出さず、機銃が故障した1機を除き12機すべてが1機以上を撃墜する戦果を上げました。進藤大尉は撃墜27機と判断、マスコミはこの戦果を一斉に報じました。零戦隊は13機中3機が被弾、1機が主脚故障のため着陸に失敗し転覆しました。

その後も大陸での零戦の活躍は続き、初陣から1年後の1941年8月までの間、戦闘による損失は対空砲火で撃墜された3機のみで、空戦で撃墜された機は皆無、太平洋戦争開戦前の中国大陸では零戦の一方的勝利に終わりました。

零戦は長大な航続距離とその空戦性能によって太平洋戦争初期に連合軍航空兵力を撃破し、連合軍将兵に零戦に対する恐怖心を植え付けました。真珠湾攻撃の1941年12月8日から1942年3月のジャワ作戦終了までに、合計565機の連合軍機を空中戦で撃墜または地上で撃破しましたが、このうち零戦の戦果は471機を占めるとされます。

1942年6月米軍はアリューシャン列島のアクタン島に不時着した零戦をほぼ無傷で鹵獲しました。この機体を徹底的に研究し、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方、高速時の横転性能や急降下性能に問題があることを突き止めました。

米軍は「ゼロと格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下でゼロと空戦をしてはならない」「上昇するゼロを追尾してはならない」の「三つのネバー」を全てのパイロットに指令しました。

1943年にオーストラリアのポートダーウィンで英国のスピットファイアとの戦闘が数度起きています。この一連の戦闘では一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻した零戦隊を、基地近くで迎撃するスピットファイア隊に有利な状況でした。

零戦隊が優勢に戦い、最終的にこの一連の戦闘における喪失機の総計は零戦5機に対しスピットファイア42機となり、零戦隊の圧倒的な勝利で終わっています。英陸軍航空部隊は西南太平洋戦域で零戦によって壊滅しました。

1943年2月、ポートダーウィン空襲の際の連合国側新聞

零戦が終局を迎えるはじまりは、1942年末大型・高速・重武装の「ロッキードP-38ライトニング」の登場からでした。1943年米海軍は「グラマンF6Fヘルキャット」を使い始め、1943年の夏以降になると前線が伸び切り補給が行き届かなくなった日本と連合国軍の形勢は逆転しました。

ロッキードP38ライトニング

グラマンF6Fヘルキャット

大戦末期に米軍に占領されたマリアナ諸島などから日本本土に襲来するB-29には、零戦の高高度性能は不足で迎撃には使えませんでした。1944年10月20日最初の神風特別攻撃隊が零戦によって編成され、それ以降も終戦まで零戦は特攻に使用されます。

登場時には高性能を誇った零戦ですが、後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ海軍はうまくいかず、戦争中盤以降米軍は2,000馬力級エンジンのF6Fヘルキャットなど新型戦闘機を投入しましたが、日本海軍は零戦の僅かな性能向上でこれらに対抗せざるを得なかったのです。

終戦時点で完全な形で残っていた機体は少ないのですが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在します。2016年1月復元しアメリカで登録した機体(N553TT)をゼロエンタープライズ・ジャパンが「零戦里帰りプロジェクト」として海上自衛隊鹿屋基地で試験飛行させました。

レッドブル・エアレース千葉大会でデモ飛行を行う零戦二二型復元機

中島飛行機を創立した中島知久平は1917年(大正6年)に「日本の防衛はお金の掛からない新兵器を基礎とした戦い方を見つけてゆくしかない。戦艦一隻を建造するには莫大な費用がかかるが、飛行機なら戦艦一隻の費用で三千機が作れる。これに魚雷を積めば力は戦艦よりも優れている。飛行機は1月で完成する」と創立の趣旨を述べています。

世界の海軍で空母として新造されたのは1922年(大正11年)に竣工した我が国の「鳳翔」が最初です。鳳翔の建造と同時に初の国産複葉「一〇式艦上戦闘機」が開発されました。鳳翔は度々改装されミッドウエイ海戦に参加しましたが、以後は練習空母となったため生き残り、戦後南方からの復員船として活躍します。

全力公試中の鳳翔。(1922年11月30日)

一〇式艦上戦闘機

世界の海軍は空母を保有しながらもその価値については半信半疑でした。真珠湾攻撃、マレー沖海戦で航空機だけで戦艦が撃沈されて、ようやく世界の海軍は航空兵力の偉大さを確信したのです。

太平洋戦争では巡洋艦同士の砲撃戦は起きたものの、戦艦同士の洋上決戦は遂に起こらず、戦艦の主砲は上陸作戦の援護に陸上を砲撃することにしか用いられませんでした。

ガ島を撤退した後のマリアナ沖海戦で、連合艦隊は9隻の空母を擁して最後の決戦を挑みましたが、正規空母3隻とほぼすべての空母搭載機476機を失って、空母機動部隊の戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半は米軍の占領するところとなり、西太平洋の制海権制空権は完全に米軍に掌握されました。

空母の運用に先見の明のあった日本海軍でしたが、太平洋戦争突入後も軍令部、連合艦隊共に大艦巨砲主義からは脱し切れておらず、空母機動部隊中心の運用に問題を残しました。

山本五十六連合艦隊司令長官は霞ヶ浦航空隊付の際に飛行機の操縦を学んでいますが、飛行機乗りはみんな若くて佐官どまりで、空母機動部隊の運用に習熟した将官クラスの指揮官を欠いたことが敗因に拍車をかけたように思われます。

最近、開戦直前のハルノートの意義が改めて問われていますが、日本の軍部は西欧の軍学を学び始めた明治中頃から孫子の兵法を学ぶことを止めました。孫子の兵法の神髄「勝てる戦いはやらずに済ます、負ける戦いは何としても避ける」が昭和の軍部に浸透していれば、第二次世界大戦突入は避けられた気がして悔やまれます。

 

 


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