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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

黒船来航(日米修好通商条約締結)

2021-06-24 06:20:02 | 日記

「日米修好通商条約」は1858年7月29日(安政5年6月19日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約です。江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約で、条約批准書原本には14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、1860年5月22日(安政7年4月3日)にワシントンで批准書が交換されました。

アメリカ側に「領事裁判権」を認め、日本に「関税自主権」がない不平等条約で、条約の第13条に1872年(明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の条項が設けられていましたが、その時期の明治政府はまだ体制が整っておらず不平等条約改正交渉の開始は1876年からになります。

不平等条約改正交渉は難航し、日清戦争開戦直前の1894年7月16日の「日英通商航海条約」の締結で領事裁判権(治外法権)の撤廃がはじめて実現しましたが、関税自主権を回復したのは日露戦争後の1911年2月21日の「新日米通商航海条約」でした。

「日米和親条約」により初の総領事として安政3年7月21日(1856年8月21日)下田に到着したタウンゼント・ハリスは、8月3日に上陸して下田奉行と会見しました。下田奉行はアメリカ政府との交渉の間ハリスの滞在を認めて8月5日玉泉寺を提供し、ハリスは総領事館と定めました。

                     タウンゼント・ハリス総領事

下田玉泉寺

幕府は8月29日目付岩瀬忠震を下田に派遣し、岩瀬は下田奉行とともにハリスと会見します。ハリスは天城越えをして江戸に至り、安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城で将軍家定に謁見し国書を渡しました。

ハリスの強硬な主張で幕閣にはアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸し出され、老中首座であった堀田正睦は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させます。

交渉は15回に及び清直と忠震は国内情勢の厳しさから自由通商が無理なことを説きましたが、ハリスは聞き入れず通商開始を主張します。正睦は交渉内容に合意が得られた時点で勅許を得て条約を締結する方針としました。

正睦は忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に京都に至り条約の勅許を得ようと努めましたが、3月12日中山忠能・岩倉具視ら公家88人が抗議の座り込みを行い、孝明天皇も勅許しませんでした。

ハリスは清と交戦中の英仏軍が日本を侵略する可能性を指摘し、それを防ぐにはアメリカと結ぶほかはないと説得、幕閣の大勢は英仏艦隊来襲の前にアメリカと条約を締結する方向に向かいます。

事態打開のため大老に就任したのは井伊直弼でした。直弼は条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも最後まで勅許を優先させることを主張しましたが、老中松平忠固は即時条約調印を主張して幕閣の大勢は忠固に傾き直弼は孤立しました。

井伊直弼像

直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示しましたが、交渉担当の井上清直が已むを得ない際は調印しても良いかと問い、「已むを得ざれば是非に及ばず」と答え、列強の侵略戦争よりは勅許をまたずに調印することも可としました。

閣議後清直と忠震は神奈川沖のポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切ります。条約調印の4日後正睦と忠固は老中を罷免され、清直、忠震も違勅の責めを負い左遷されます。

米国海軍外輪フリゲート艦ポーハタン号

万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換のため、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順の遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、副使木村喜毅を乗せた咸臨丸も随行しました。咸臨丸艦長は勝海舟でジョン万次郎や福澤諭吉も乗船し1月13日品川を出帆しました。

勅許のない条約締結は日本に大きな政争をもたらし、安政5年(1858年)から安政6年にかけて直弼は反対派の幕臣や志士、公家ら多数を処罰したため(安政の大獄)政情が不穏となり、安政7年3月3日直弼は桜田門外で暗殺されます。

朝廷はその後も条約を認めようとしませんでしたが、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国艦隊が兵庫沖で条約勅許を強硬に要求するに及び、慶応元年9月16日(1865年11月4日)条約が勅許されて開国への移行が確定しました。

大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)新政府は、王政復古に伴って従来の条約は「大君」(将軍)を「天皇」と読み替え、引続き有効であることを列国公使に通告します。

日米修好通商条約について、日本側に残った問題点は領事裁判権を認め、関税自主権を放棄し、同じ内容の条約をアメリカ以外の4か国とも締結してしまったことでした。

ハリスは交渉に当たり先手を打って条約草案を提出し、開港の候補地を箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港としましたが、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し大坂の開港には反対しました。

ハリスが江戸、大坂の大都市の開港を強く要求したため、アメリカ人が商取引のために滞在することには同意しました。ハリスは品川が遠浅で貿易港に適しないことを認め、江戸の開港地は神奈川・横浜となりましたが実際に開港したのは横浜で、大坂の外港として兵庫が開かれることになりました。

草案ではアメリカ人が日本人と雑居することが可能でしたが、幕府は外国人の居留地を一箇所にまとめることを主張、ハリスは出島のようにならないことを条件に居留地の設定を了承し、アメリカ人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることは禁じられました。

領事裁判権に関してはすでに「下田条約」で幕府が認めており、これはあっさりと合意され、関税率は附則である貿易章程で決められました。

当時日本側には関税自主権の概念がなかったため関税率だけを問題にしました。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案、ハリスは輸出税無しの輸入税20%を提案した結果、輸出税を5%、一部輸入税を10%から5%とすることで合意しました。

下田条約のありうべからざる結果として、アメリカの通貨と日本の通貨の金銀等価交換により大量の金が海外に流出し、日本国内にインフレをもたらす事象が起こりました。

当時の日本の一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣で、このため日本の金銀比価は金1対銀4.65で、諸外国の相場の金1対銀15.3に比べて銀が著しく高価でした。幕府は交渉過程で金貨基準の貨幣交換を主張しましたが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切ります。

草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていましたが、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い外国通貨の国内流通を提案し、ハリスは同意して1年間は日本通貨との交換を認めるよう要求、幕府がこれに合意した結果が問題でした。

外国人商人が日本国内で1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、一分銀4枚で小判に両替して国外に持ち出し地金として売れば、地金としての小判の価値は4ドルに相当したので莫大な利益が得られることになりました。

このために大量の金が海外に流出し、この状況は万延小判が発行されて国内の金銀比価が国際水準となるまで1年間続き、国内経済の混乱とインフレをもたらしました。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを日記に記しています。

ハリスと云えば「唐人お吉」がでてきますが、お吉はハリスに、おふくは通訳官のヒュースケンに侍妾として仕えるために派遣され、ヒュースケンはその通りにおふくを受け入れましたが、厳密な清教徒であるハリスはお吉を受け入れず僅か3日で解雇しています。お吉の運命が狂ったのは取り返しがつきませんが、お吉は唐人ではなかったことになります。

慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降、輸入品は低関税で日本に流入し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手で行われ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右しました。

1899年(明治32年)には外国人に居住、旅行の自由と営業の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出しました。大きな経済力を持ち習慣や考え方を異にする外国人が日本人の間に入って自由に生活し生産活動や経済活動に従事することは「第二の開国」と呼びうる衝撃でした。

神戸外国人居留地

課題として残ったのは永代借地権で、所有権よりも深刻な問題になりました。借地ないし地上の建物に対する租税は国税・地方税を問わず一切課税できず、こうした外国人保有地は1903年(明治36年)の段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8,553坪におよび、永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはなんと1937年(昭和12年)で、それが実施に移されたのは更に5年後でした。

不平等条項を撤廃するにはアメリカ一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認したすべての国々の同意を必要としました。日本は開国以来半世紀を経て、立憲君主制と東アジア最強の軍事力を背景に、列強と並ぶ地位を獲得しましたが、不平等条約改正が明治政府にとっての悲願となりました。

陸奥宗光は第2次伊藤内閣の外務大臣に就任、青木周蔵元外相を英国公使として条約改正交渉の任にあたらせました。青木は自身が外相として交渉していた際に合意できなかった3点につきイギリス側を満足させ、1894年(明治27年)7月16日イギリスとの間で日英通商航海条約を締結、領事裁判権撤廃に初めて成功したのが日清戦争の半年前でした。領事裁判権の撤廃成功は日清戦争の勝利より大きい対外的成果であったと云う見方もあります。陸奥は外務大臣の間に15か国すべてとの間で領事裁判権の撤廃を成し遂げました。

陸奥宗光

関税自主権回復の条約改正が達成されたのは1904年(明治37年)に始まった日露戦争で日本が強国ロシアに勝利し、1905年のポーツマス条約の締結で国際的地位が格段に高まった後のことです。

1911年7月16日にはイギリス・ドイツ・イタリアなど10か国との、8月3日にはフランス・オーストリア両国との、通商航海条約が満期日に当たっていて、満期日の1年前に当たる1910年小村壽太郎外相は条約の規定に従いアメリカを含む13か国に廃棄通告を行いました。小村外相は片務的な協定税率の改正を目指すほか日本に残る不利な条項の一掃を図ったのです。

1910年1月最初にイギリスとの改正交渉を開始しましたが難航し、小村は優先的に交渉する相手をアメリカに換えました。4月からアメリカと交渉し列国との交渉も次々に始まりました。1911年(明治44年)2月21日ワシントンD.C.で、関税自主権回復を規定した改正条項を含む「日米通商航海条約」が調印され4月4日発効しました。

ドイツとは6月24日に日独通商航海条約を結び、イギリスとは7月17日に改正通商航海条約が発効し、フランスとは8月19日に日仏通商航海条約を調印しました。日本は名実ともに列強と完全に対等な国際関係に入りましたが、ペリー来航による開国から実に56年の歳月が経過していました。

小村壽太郎

粘り強い外交交渉によって劣悪な国際法上の地位を向上させていった日本政府でしたが、日清戦争後の下関条約を結んだ陸奥宗光によって治外法権を回復し、日露戦争後にポーツマス条約を結んだ小村寿太郎によって関税自主権の束縛から脱しえたことは、国を救うのに卓越した外交官の存在がいかに大切かを如実に示しています。

第二次世界大戦に敗れた我が国はサンフランシスコ平和条約締結と同時に「日米安保条約」を結ばされ、70年余の後の今日も未だに占領下の状態にあります。日米安保条約の存在のためロシアとの講和条約は結べず、我が国は真の独立国ではありません。

「永世中立国」は古くから存在する国際法で自国に対する軍事的脅威を自力で解決する軍備を持たなければなりませんが、我が国は朝鮮戦争をきっかけに西側の軍備の一端を担わされ、憲法九条を掲げながらも既に自他ともに認める軍事大国になっています。

我が国が真の独立を達成するには、1年前に通告すれば破棄できる日米安保条約を解消してロシアと講和し、アメリカ、ロシア、中国を保証国として永世中立国宣言をすべきです。日米安保条約を破棄できる政治家は、いつになったら現れるのでしょうか。

 


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黒船来航(日米和親条約締結)

2021-06-10 06:14:52 | 日記

 

嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航

「日米和親条約」は1854年(嘉永7年)江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約です。日本側全権は林復斎大学頭、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーで、この条約で日本は下田と箱館を開港し鎖国が終りを迎えました。

アヘン戦争における清国の敗北が我が国に詳細に伝えられている中で、日本人漂流民7人の送還のために来航したアメリカのモリソン号を浦賀や薩摩で砲撃した事件がおこり、幕府は1842年(天保13年)「異国船打払令」を「薪水給与令」に改め、外国船が日本に寄港した際には必要な食料や薪水を与え、速やかに退去させる方針に変えました。

幕府はこの方針の変更を諸外国に伝えるよう長崎のオランダ商館長に要請しましたが、対日貿易を独占していたオランダは1851年まで諸外国に知らせることはしませんでした。

老中水野忠邦は狭い江戸湾で敵艦が封鎖行動に出れば、江戸の消費量の6割の物資を運搬している廻船が江戸に入れなくなることを恐れていました。1845年4月17日鳥島やその周辺海域で遭難した日本の漁師22人を救助したアメリカのマンハッタン号が浦賀に入港し、幕府は長崎に限っていた漂流民の受け入れを例外として浦賀で行いました。

1849年4月アメリカのプレブル号が長崎に来航し、オランダ商館経由でアメリカ漂流民14人を引き取りました。アメリカ海軍省が議会に提出した尋問調書では「捕鯨船内より長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物をもらい、屋敷牢はかなり自由だった。」と報告されています。

老中首座の阿部正弘は1850年のオランダ商館からの「別段風説書」で、北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によりアメリカ議会では日本の開国の議論が起きていることを承知しており、1852年の報告で翌年春以降にペリーに率いられたアメリカ軍艦が江戸にくることも報告されていました。

1852年夏このことは阿部から有力譜代大名に知らされ、同年暮には外様の雄藩である薩摩の島津斉彬にも知らされました。幕府はペリー来航の地を浦賀か長崎と想定し、長崎中心としていたオランダ通詞の配置を換えて浦賀奉行所の体制を強化しました。

1853年(嘉永6年)7月8日フィルモア米大統領の命を受けたペリー提督は6月6日に首里城を訪問し、6月14日に小笠原諸島の父島を訪問した後、蒸気外輪フリゲートのサスケハナ(旗艦)、ミシシッピ、帆走スループのプリマス、サラトガの艦隊を率いて浦賀沖に現れ、大統領の国書を渡すことが目的であることを伝えました。

旗艦 サスケハナ号

幕府は艦隊の長崎回航を強く求めましたが、ペリーが「要求を拒否するなら国書を渡すために強力な武力をもって上陸する」と回答したため、7月12日久里浜で国書を受け取る旨を伝えます。

7月14日ペリーは久里浜に上陸、大統領の開国・通商を求める親書およびペリーの信任状と書簡を渡し、7月17日翌年の再来を予告して江戸湾を去り琉球へ向かいました。

マシュー・カルブレイス・ペリー提督

アメリカの国書には日本と国交を結ぶために使節を送ること、アメリカに侵略の意思がないこと、アメリカの国土が大西洋と太平洋をまたいでいること、アメリカの蒸気船が18日で日本に至ること、日本が鎖国状態を時勢に応じて変更すべきであること、多くのアメリカ船がカリフォルニアから清国に向けて出航していること、捕鯨船も日本近海に多く出漁していることが書かれてあり、難破船の乗組員の救出、アメリカ船への水や食料の補給、通商の開始の3つの具体的な要求項目が掲げられていました。

翌1854年2月13日7隻の艦船が再び来航し横浜沖に停泊しました。蒸気船はポーハタン号(旗艦)が加わって3隻になり、艦隊は後に2隻が加わり9隻になりました。

幕府は当初要求された項目に対し具体的な回答をしない方針でしたが、3月4日難破船の乗組員の救助と食料・水・薪の補給を認めることに方針を変え、通商の開始は徳川斉昭の強い反対のため見送ることにしました。

3月4日幕府は横浜村に応接所を設置し約1か月にわたる協議の末、3月31日に全12箇条からなる日米和親条約を締結し調印します。日本側の実務担当者は林大学頭でした。

ペリーが英文版に署名しましたが、林は英文版には署名せず、林、井戸、伊澤、鵜殿の応接掛4名の署名・花押のある日本語版1通を渡しました。オランダ語版は通訳森山が署名した日本のものと通訳ポートマンが署名したアメリカのものが交換され、漢文版は通訳松崎の署名・花押のある日本のものと通訳ウィリアムズが署名したアメリカのものが交換されました。

日米和親条約の英語版原文

双方が同じ版に署名したものは1通もなく、正文を何語にするかの交渉は日米間で行われませんでした。幕府側が譲歩したのは下田、箱館の2港の開港だけで、開国に強く反対する国内の勢力を抑えることはできましたが、この条約の第11条は和文と英文で内容が異なっており、この違いが後にハリスが下田に到着した際に大きな外交問題に発展します。ペリー艦隊は6月25日に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り琉球王国と通商条約を締結しました。

下田了仙寺

下田条約が締結され、暫定的なアメリカ人休息所として設定された

日米和親条約の抜粋は以下の通りで、条約の中で日米間に相違が生じていたのは第11条でした。

第2条 下田(即時)と箱館(1年後)を開港する。この2港において薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。

第3条 米国船舶が座礁または難破した場合、乗組員は下田または箱館に移送され、身柄受け取りの米国人に引き渡される。

第10条 遭難・悪天候を除き、下田および箱館以外の港への来航を禁じる。

第11条(和文)両国政府が必要と認めたときに限って、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。

第11条(英文)両国政府のいずれかが必要とみなす場合には、本条約調印の日より18か月以降経過した後に、米国政府は下田に領事を置くことができる。

アメリカは当時東アジアとの貿易のために太平洋航路を必要としていました。当時の蒸気船では十分な燃料を積み込むことができず、水、食料についても補給が必要で、脚気や壊血病の防止、乗組員が満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給が必要で、補給のための寄港地として日本の港が必要でした。

ペリーは日本との交渉のために漢文担当の主席通訳官サミュエル・ウィリアムズと、オランダ語通訳アントン・ポートマンを乗艦させていました。フィルモア大統領の親書は漢文およびオランダ語に翻訳され、日米和親条約も日本語、英語に加えて漢文版、オランダ語版が作成されて内容の確認が行われています。会話による交渉はオランダ語が中心で、親書受け渡しの儀式にはポートマンのみが参列していますが、文書による交渉では漢文が併用されました。

日本側でもオランダ語通詞の堀達之助は多少の英語ができ、2回目の来航時には長崎でラナルド・マクドナルドから英語を学んだ森山栄之助が第1通訳となっています。米国から帰国していたジョン万次郎は徳川斉昭にスパイ疑惑の讒言をされて交渉には参加していません。

条約の日本語批准書原本は幕末の江戸城火災により焼失し、オランダ語の批准書原本のうちアメリカ合衆国が持ち帰ったものがアメリカ国立公文書記録管理局で保管されています。2004年(平成16年)には日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られました。

日米和親条約付録の下田条約の交渉が了仙寺で行われ、付録条約の交渉は日本側全権林大学頭、江戸町奉行井戸対馬守、下田奉行伊沢美作守、都築駿河守らとペリー提督の間で行われました。

5月13日両者会見の日アメリカ側は祝砲を轟かせ、大砲4門を先頭に軍楽隊演奏にのって300人の水兵が剣付き鉄砲を肩に了仙寺まで行進し、下田の人々を驚かせました。5月22日了仙寺で下田条約が調印され、25日に条約書の交換が行われます。

下田条約は日米和親条約の規定に基づく下田、箱館2港の開港にあたっての細則定めたもので13か条から成り、この付録条約の内容には米船員の上陸場所、欠乏品供給所、異人休息所(了仙寺、玉泉寺)、洗濯場、立入許可区域、鳥獣の捕獲禁止、商品取引の管理、死亡者の埋葬(玉泉寺)、港内水先案内人の設置等の細目が決められていました。

下田条約と呼ばれる条約は2つあって、もう1つは1857年(安政4年) 6月17日伊豆下田調印された日米和親条約の付属協定で、安政3年日本に着任したアメリカ総領事 T.ハリス下田奉行井上清直らの間で結ばれたものです。

後者の下田条約では下田、箱館の開港細則をさらに拡大して居留地権限について定め、特に領事裁判権制度が樹立され、新たに長崎を開港することや両港のほか長崎開港に関する細則もこの協定で定められました。
アメリカ人の下田・箱館の居留を許可すること、アメリカと日本の貨幣を同種同重量(金は金、銀は銀)で交換し、日本は6%の改鋳費を徴収することなどが定められた全5か条から成っています。とりわけ第4条で規定された領事裁判権は翌年締結された日米修好通商条約にそのまま取り入れられ、以後の各国との不平等条約に受け継がれることになります。

 

黒船来航(日米修好通商条約)に続く。

 


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