「日米修好通商条約」は1858年7月29日(安政5年6月19日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約です。江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約で、条約批准書原本には14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、1860年5月22日(安政7年4月3日)にワシントンで批准書が交換されました。
アメリカ側に「領事裁判権」を認め、日本に「関税自主権」がない不平等条約で、条約の第13条に1872年(明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の条項が設けられていましたが、その時期の明治政府はまだ体制が整っておらず不平等条約改正交渉の開始は1876年からになります。
不平等条約改正交渉は難航し、日清戦争開戦直前の1894年7月16日の「日英通商航海条約」の締結で領事裁判権(治外法権)の撤廃がはじめて実現しましたが、関税自主権を回復したのは日露戦争後の1911年2月21日の「新日米通商航海条約」でした。
「日米和親条約」により初の総領事として安政3年7月21日(1856年8月21日)下田に到着したタウンゼント・ハリスは、8月3日に上陸して下田奉行と会見しました。下田奉行はアメリカ政府との交渉の間ハリスの滞在を認めて8月5日玉泉寺を提供し、ハリスは総領事館と定めました。
タウンゼント・ハリス総領事
下田玉泉寺
幕府は8月29日目付岩瀬忠震を下田に派遣し、岩瀬は下田奉行とともにハリスと会見します。ハリスは天城越えをして江戸に至り、安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城で将軍家定に謁見し国書を渡しました。
ハリスの強硬な主張で幕閣にはアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸し出され、老中首座であった堀田正睦は下田奉行井上清直と目付岩瀬忠震を全権として、安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を開始させます。
交渉は15回に及び清直と忠震は国内情勢の厳しさから自由通商が無理なことを説きましたが、ハリスは聞き入れず通商開始を主張します。正睦は交渉内容に合意が得られた時点で勅許を得て条約を締結する方針としました。
正睦は忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に京都に至り条約の勅許を得ようと努めましたが、3月12日中山忠能・岩倉具視ら公家88人が抗議の座り込みを行い、孝明天皇も勅許しませんでした。
ハリスは清と交戦中の英仏軍が日本を侵略する可能性を指摘し、それを防ぐにはアメリカと結ぶほかはないと説得、幕閣の大勢は英仏艦隊来襲の前にアメリカと条約を締結する方向に向かいます。
事態打開のため大老に就任したのは井伊直弼でした。直弼は条約調印当日の6月19日(1858年7月29日)の閣議でも最後まで勅許を優先させることを主張しましたが、老中松平忠固は即時条約調印を主張して幕閣の大勢は忠固に傾き直弼は孤立しました。
井伊直弼像
直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示しましたが、交渉担当の井上清直が已むを得ない際は調印しても良いかと問い、「已むを得ざれば是非に及ばず」と答え、列強の侵略戦争よりは勅許をまたずに調印することも可としました。
閣議後清直と忠震は神奈川沖のポーハタン号に赴き、艦上で条約調印に踏み切ります。条約調印の4日後正睦と忠固は老中を罷免され、清直、忠震も違勅の責めを負い左遷されます。
米国海軍外輪フリゲート艦ポーハタン号
万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換のため、正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順の遣米使節がポーハタン号でアメリカに派遣され、副使木村喜毅を乗せた咸臨丸も随行しました。咸臨丸艦長は勝海舟でジョン万次郎や福澤諭吉も乗船し1月13日品川を出帆しました。
勅許のない条約締結は日本に大きな政争をもたらし、安政5年(1858年)から安政6年にかけて直弼は反対派の幕臣や志士、公家ら多数を処罰したため(安政の大獄)政情が不穏となり、安政7年3月3日直弼は桜田門外で暗殺されます。
朝廷はその後も条約を認めようとしませんでしたが、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国艦隊が兵庫沖で条約勅許を強硬に要求するに及び、慶応元年9月16日(1865年11月4日)条約が勅許されて開国への移行が確定しました。
大政奉還後の明治元年1月15日(1868年2月8日)新政府は、王政復古に伴って従来の条約は「大君」(将軍)を「天皇」と読み替え、引続き有効であることを列国公使に通告します。
日米修好通商条約について、日本側に残った問題点は領事裁判権を認め、関税自主権を放棄し、同じ内容の条約をアメリカ以外の4か国とも締結してしまったことでした。
ハリスは交渉に当たり先手を打って条約草案を提出し、開港の候補地を箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港としましたが、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し大坂の開港には反対しました。
ハリスが江戸、大坂の大都市の開港を強く要求したため、アメリカ人が商取引のために滞在することには同意しました。ハリスは品川が遠浅で貿易港に適しないことを認め、江戸の開港地は神奈川・横浜となりましたが実際に開港したのは横浜で、大坂の外港として兵庫が開かれることになりました。
草案ではアメリカ人が日本人と雑居することが可能でしたが、幕府は外国人の居留地を一箇所にまとめることを主張、ハリスは出島のようにならないことを条件に居留地の設定を了承し、アメリカ人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることは禁じられました。
領事裁判権に関してはすでに「下田条約」で幕府が認めており、これはあっさりと合意され、関税率は附則である貿易章程で決められました。
当時日本側には関税自主権の概念がなかったため関税率だけを問題にしました。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案、ハリスは輸出税無しの輸入税20%を提案した結果、輸出税を5%、一部輸入税を10%から5%とすることで合意しました。
下田条約のありうべからざる結果として、アメリカの通貨と日本の通貨の金銀等価交換により大量の金が海外に流出し、日本国内にインフレをもたらす事象が起こりました。
当時の日本の一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣で、このため日本の金銀比価は金1対銀4.65で、諸外国の相場の金1対銀15.3に比べて銀が著しく高価でした。幕府は交渉過程で金貨基準の貨幣交換を主張しましたが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切ります。
草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていましたが、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い外国通貨の国内流通を提案し、ハリスは同意して1年間は日本通貨との交換を認めるよう要求、幕府がこれに合意した結果が問題でした。
外国人商人が日本国内で1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、一分銀4枚で小判に両替して国外に持ち出し地金として売れば、地金としての小判の価値は4ドルに相当したので莫大な利益が得られることになりました。
このために大量の金が海外に流出し、この状況は万延小判が発行されて国内の金銀比価が国際水準となるまで1年間続き、国内経済の混乱とインフレをもたらしました。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを日記に記しています。
ハリスと云えば「唐人お吉」がでてきますが、お吉はハリスに、おふくは通訳官のヒュースケンに侍妾として仕えるために派遣され、ヒュースケンはその通りにおふくを受け入れましたが、厳密な清教徒であるハリスはお吉を受け入れず僅か3日で解雇しています。お吉の運命が狂ったのは取り返しがつきませんが、お吉は唐人ではなかったことになります。
慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降、輸入品は低関税で日本に流入し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手で行われ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右しました。
1899年(明治32年)には外国人に居住、旅行の自由と営業の自由とを認める「内地雑居」の状況を生み出しました。大きな経済力を持ち習慣や考え方を異にする外国人が日本人の間に入って自由に生活し生産活動や経済活動に従事することは「第二の開国」と呼びうる衝撃でした。
神戸外国人居留地
課題として残ったのは永代借地権で、所有権よりも深刻な問題になりました。借地ないし地上の建物に対する租税は国税・地方税を問わず一切課税できず、こうした外国人保有地は1903年(明治36年)の段階で横浜、神戸、東京、大阪、長崎各市で総計48万8,553坪におよび、永代借地権を完全に解消する協定が成立したのはなんと1937年(昭和12年)で、それが実施に移されたのは更に5年後でした。
不平等条項を撤廃するにはアメリカ一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認したすべての国々の同意を必要としました。日本は開国以来半世紀を経て、立憲君主制と東アジア最強の軍事力を背景に、列強と並ぶ地位を獲得しましたが、不平等条約改正が明治政府にとっての悲願となりました。
陸奥宗光は第2次伊藤内閣の外務大臣に就任、青木周蔵元外相を英国公使として条約改正交渉の任にあたらせました。青木は自身が外相として交渉していた際に合意できなかった3点につきイギリス側を満足させ、1894年(明治27年)7月16日イギリスとの間で日英通商航海条約を締結、領事裁判権撤廃に初めて成功したのが日清戦争の半年前でした。領事裁判権の撤廃成功は日清戦争の勝利より大きい対外的成果であったと云う見方もあります。陸奥は外務大臣の間に15か国すべてとの間で領事裁判権の撤廃を成し遂げました。
陸奥宗光
関税自主権回復の条約改正が達成されたのは1904年(明治37年)に始まった日露戦争で日本が強国ロシアに勝利し、1905年のポーツマス条約の締結で国際的地位が格段に高まった後のことです。
1911年7月16日にはイギリス・ドイツ・イタリアなど10か国との、8月3日にはフランス・オーストリア両国との、通商航海条約が満期日に当たっていて、満期日の1年前に当たる1910年小村壽太郎外相は条約の規定に従いアメリカを含む13か国に廃棄通告を行いました。小村外相は片務的な協定税率の改正を目指すほか日本に残る不利な条項の一掃を図ったのです。
1910年1月最初にイギリスとの改正交渉を開始しましたが難航し、小村は優先的に交渉する相手をアメリカに換えました。4月からアメリカと交渉し列国との交渉も次々に始まりました。1911年(明治44年)2月21日ワシントンD.C.で、関税自主権回復を規定した改正条項を含む「日米通商航海条約」が調印され4月4日発効しました。
ドイツとは6月24日に日独通商航海条約を結び、イギリスとは7月17日に改正通商航海条約が発効し、フランスとは8月19日に日仏通商航海条約を調印しました。日本は名実ともに列強と完全に対等な国際関係に入りましたが、ペリー来航による開国から実に56年の歳月が経過していました。
小村壽太郎
粘り強い外交交渉によって劣悪な国際法上の地位を向上させていった日本政府でしたが、日清戦争後の下関条約を結んだ陸奥宗光によって治外法権を回復し、日露戦争後にポーツマス条約を結んだ小村寿太郎によって関税自主権の束縛から脱しえたことは、国を救うのに卓越した外交官の存在がいかに大切かを如実に示しています。
第二次世界大戦に敗れた我が国はサンフランシスコ平和条約締結と同時に「日米安保条約」を結ばされ、70年余の後の今日も未だに占領下の状態にあります。日米安保条約の存在のためロシアとの講和条約は結べず、我が国は真の独立国ではありません。
「永世中立国」は古くから存在する国際法で自国に対する軍事的脅威を自力で解決する軍備を持たなければなりませんが、我が国は朝鮮戦争をきっかけに西側の軍備の一端を担わされ、憲法九条を掲げながらも既に自他ともに認める軍事大国になっています。
我が国が真の独立を達成するには、1年前に通告すれば破棄できる日米安保条約を解消してロシアと講和し、アメリカ、ロシア、中国を保証国として永世中立国宣言をすべきです。日米安保条約を破棄できる政治家は、いつになったら現れるのでしょうか。