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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

アッツ島玉砕

2021-10-28 06:14:58 | 日記

1943年(昭和18年)米軍は前年のミッドウェー海戦の陽動作戦で日本軍に占領された米国領土、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島の奪回を図りました。

アッツ島はアリューシャン列島の西に位置し、山崎保代大佐指揮下の陸軍が占領していましたが兵力も防御施設も不十分で、大本営はアッツ島増援を検討はしたものの、最終的には5月20日アッツ島の玉砕とキスカ島からの撤退を発令しました。

アリューシャン列島

アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激闘の末、5月29日に全滅しました。太平洋戦争で日本国民に初めて玉砕が発表された戦いであり、米国領土内で行われた唯一の地上戦です。

前年の1942年4月18日米空母発進のB-25爆撃機による日本本土空襲(ドーリットル空襲)があり、実害はほとんどなかったものの帝都上空を通過されたことが日本にとっては大きな衝撃で、同年6月上旬に実施したミッドウェー作戦の陽動作戦と本土空襲の阻止を兼ねてアッツ、キスカの2島を占領したのです。

第五艦隊と第四航空戦隊(空母龍驤、隼鷹)を基幹とする機動部隊と攻略部隊がアリューシャンに向かい、6月7日第一水雷戦隊と陸軍の北海支隊(支隊長穂積松年少佐、1,150名)の輸送船がアッツ島に到達し6月8日に占領、キスカ島も舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊が占領しました。

大本営海軍部と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」と考え、第五艦隊と陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていて、占領方針は当初統一されていませんでした。

6月23日大本営は西部アリューシャン列島の長期確保を指示します。米軍は大型爆撃機での空襲、潜水艦の投入、巡洋艦隊によるキスカ島への艦砲射撃を行いますが、当時の大本営の関心はガダルカナル島攻防戦に集中しており、特に検討を加えることもなく北海支隊にアッツ島からキスカ島への移駐を命じ、第五艦隊の協力で穂積支隊はキスカ島へ転進しました。

10月18日アメリカのラジオ放送でアムチトカ島に米軍が上陸したと誤認した大本営は急遽アッツ島の再占領を決め、10月24日北海守備隊(司令官峯木十一郎陸軍少将)を新しく編成し、占守島を守備していた米川浩中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊2,650名が10月29日第五艦隊の軽巡洋艦、駆逐艦に分乗してアッツ島へ再上陸しました。

11月1日大本営は各方面に陸海軍中央協定を示します。第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮する。キスカ島とセミチ島に陸上航空基地、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設する。陸上航空基地の建設は陸軍が行い、急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任すると定められました。

2島で飛行場の建設と陣地強化がはじまりますが、地形や補給の関係で飛行場の建設は遅々として進まず、一年のほとんどが霧か時化で守備隊には精神を病む者が続出し、絶え間ない空襲や艦砲射撃の恐怖、補給不足による栄養失調が輪をかけました。

各島への輸送と部隊配備は12月末完了予定でしたが、輸送船の被害や水上戦闘機の進出の遅れで翌年3月末に延びます。当時日本艦船は米空軍機と潜水艦によりアリューシャン列島から退避を余儀なくされており、補給や輸送の断絶はアッツ島、キスカ島の命脈が絶たれることを意味しました。

1943年(昭和18年)初頭米艦隊がアッツ島に艦砲射撃を加えたことで、米軍の上陸が間近と予想されました。2月に米軍はアムチトカ島飛行場の使用を開始し、アリューシャン方面の制空権は米軍のものになります。

大本営はアリューシャン列島の保持方針を堅持し、2月5日北部軍司令部を改変して北方軍司令部(司令官樋口季一郎陸軍中将)としました。西部アリューシャンの防衛は北方軍と第五艦隊の担当となり、アッツ島の陸上航空基地建設が決まり飛行場完成は3月末を目標とします2月11日大本営陸軍部はキスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三個大隊、地区隊長佐藤政治大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一個大隊、地区隊長山崎保代大佐に交代)を区分しました。

3月10日第五艦隊と第一次増援輸送船団が到着したのがアッツ島に対する最後の輸送船補給で、3月27日の第二次増援輸送がアッツ島沖海戦で中止された後は潜水艦による輸送に限定されます山崎大佐は4月18日に潜水艦でアッツ島に到着します。

4月下旬滑走路1,000mの飛行場がほぼ完成し、視察に来た海軍士官は大本営に戦闘機一個戦隊のアッツ進出を具申しました。大本営海軍部は一旦同意しましたが間もなく取り消し、陸軍は失望し憤慨します。

山崎保代大佐(玉砕後二階級特進 陸軍中将)

米軍は当初キスカ島への上陸を企画しましたが、米軍の兵力や両島の防備状況からアッツ島に目標を変更、上陸作戦は濃霧期直前の5月7日とし3日で作戦を終える予定でした。

1943年(昭和18年)5月4日戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻からなる攻略部隊がアラスカから出撃、A・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1,000名が5月12日に上陸を開始、霧に紛れて北海湾と旭湾、北部海岸に橋頭堡を築くことに成功しました。

アッツ島に上陸したアメリカ軍

日本軍は上陸した米軍を程なく発見しましたが、上陸1日目は霧に遮られて地上戦はなく、米軍は艦砲射撃を行いましたが有効な損害を与えられず、2日目に北海湾に上陸した米軍北部隊が周辺を一望できる高台にある日本軍の陣地を霧に紛れて攻撃しました。

日本軍は機関銃と小銃で北部隊を撃退しましたが、陣地の位置が米軍に知られて野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機の銃爆撃を浴び、たこつぼと塹壕だけの陣地の守備隊は100名前後の戦死者を出して陣地を放棄しました。

日本軍は防御の拠点を移し15日まで激しい戦闘を行います。米軍南部隊は前進を開始しましたが、平地は霧が晴れ山上の日本軍陣地は霧に包まれたままで、米軍兵士の証言によると戦艦の14インチ砲が火を噴くたびに、砲の破片、銃の断片、日本兵の死骸、手や足が霧の中から転がってきたと云います。

青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路

米軍南部隊は三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受けて第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥り、アメリカ軍はこの渓谷を「殺戮の谷」と呼びました。

殺戮の谷

その後米軍南部隊は北部隊と合流すべく高地の日本軍陣地に攻撃を仕掛け、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機関銃でアメリカ軍を海岸まで後退させます。

15日米軍北部隊を押さえていた北部の日本軍が米軍の砲爆撃で陣地を放棄、山崎部隊長は戦線を後退させ、武器弾薬の補給と一個大隊の増援要請の電報を北方軍宛に打電しました。

南部の日本軍陣地も砲爆撃を受け、米軍は戦車5両を突入させて一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に後退します。18日から米軍は勢いに乗り日本軍の戦線に攻撃を加えますが、日本軍の各陣地は高地に拠って抵抗し寡兵よく米軍の攻撃を撃退しました。

米軍の増援を要求したブラウン少将は16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が着任します。5月20日大本営は北方軍司令部にアッツ島への増援の中止を通告し、大きな衝撃を与えました。

当時の海軍は南太平洋方面の戦況で到底北方の反撃に協力する余力がなく、大本営陸軍部は海軍がキスカ撤収に無条件に協力する約束を取り付けて、山崎部隊を見殺しにすることにしたのでした。

21日北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれりとの結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電しました。

これに応えて山崎部隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電します。

23日札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ玉砕を命ずる電文を打ちました。

「軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り、最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」です。

アッツの日本軍は米軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となりましたが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅しました。翌29日山崎部隊長は生存者を集め各将兵の労をねぎらった後、戦闘に耐えられない重傷者を自決させ、最後の電報を東京の大本営宛に打電します。

日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから平地へ下る形で最後の突撃を行います。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃でした。この意表を突いた突撃でアメリカ軍は混乱に陥り、布陣していた米陸軍工兵第50連隊の陣地の一部を突破しましたが、工兵隊の丘で猛反撃を受けます。

山崎部隊長は終始陣頭で指揮を執っていたことが確認されています。米軍のある中尉は「霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。

どの兵隊もボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵の身の毛がよだった。

わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり、這うように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗をともに握りしめた。拡声器で“降参せよ”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された」。

5月30日大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて玉砕の語を使いました。5月21日に山本五十六元帥戦死の公表があった直後だったため、日本国民は大きな衝撃を受けました。

8月29日朝日新聞はアッツ島戦死者の名簿を掲載しましたが、戦死者の名簿が掲載されたのはこれが最初で最後、9月29日札幌市の中島公園でアッツ島守備隊将兵約2,600名の合同慰霊祭が行われました。

聨合艦隊宇垣纏参謀長は5月13日の日記に「斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり」と記しています。

民需に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を運ぶ輸送船を確保できず、1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会では山本親雄軍令部第一課長が次の弁明をしています。

「今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。聨合艦隊が無為にしていても毎月4万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動20数万屯は要る。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない」。これは正に戦争継続力がないことを示すものでしょう。山本元帥の「1年は支えてみせる」と云った、戦争の終結を図るべき時期はすでに過ぎていました。

撤収の決まったキスカ島では5月27日から6月21日の間に延べ18隻の潜水艦が820名を救出し、7月27日13時40分濃霧をついてキスカ湾内に侵入した救出艦隊が一時的に霧の晴れる幸運も加わり、大発のピストン輸送でキスカ島守備隊約5,200名を僅か55分で収容しました。

使用した大発は回収せず、守備隊には小銃も投棄させて身軽にしたことが収容時間を短縮して、艦隊はキスカ湾を全速で離脱、再び深い霧に包まれて空襲圏外に脱出することができました。

機密作戦に必要な濃霧が発生する天候を待ち続け、1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも作戦を強行しなかった指揮官木村昌福中将の冷徹な判断が奇跡を起こしたのです。8月15日米軍は大兵力でキスカ島に上陸作戦を敢行しましたが、日本軍はもぬけの殻でした。

アッツ島で玉砕した山崎部隊長の大本営へ最後の電文は以下の通りです。

「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(全線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり

二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす

三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」。

アッツ島玉砕の碑

第二次世界大戦で日本海軍が撃沈した連合国艦船の洋上漂流者を数多く救助したことはよく知られていますが、漂流中の我が国の海軍将兵も敵艦船に救助されています。

日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置され、両国の俘虜の名前が交換され官報での公表や家族への通知も行われました。旅順要塞降伏後に日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されましたが「旅順口生還者」と呼ばれ冷遇されることはありませんでした。

陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では「第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス」と、尽くすべきところを尽くさずして降伏することを認めていませんが、軍人に最後まで戦えというのは、戦う武器があり、戦闘能力のあるうちのことです。

ちなみに第二次世界大戦でのヨーロッパを中心とした各国の捕虜数の合計は2千6百万人に上ります。戦時国際法通りに捕虜が保護されたとは到底云えませんが、投降者は意志に反して死傷するのを避けることができ、相手は戦闘を回避できました。負けて戦闘能力を失った重傷者が死ななければならない意義は一体どこにあるのでしょう。

東条英機陸相が1941年(昭和16年)1月8日に普達した「戦陣訓」は軍人勅諭の繰り返しに過ぎず、普達する必要があったとは評価されていませんが、その中の「生きて虜囚の辱を受けず」の一句が民間人にまで影響を及ぼしました。

日米で最大の地上戦が行われた沖縄では「生きて虜囚の辱を受けず」の一句のために、非戦闘員である民間人までもが米軍の呼びかけに応じず、多くの命が失われました。日米の戦争による対決は歴史の必然かと思いますが、この句の存在に必然性はなく、決して許されるべきではないのです。

 


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ミッドウェー海戦(2)空母対決

2021-10-14 06:27:20 | 日記

1942年6月3日から5日に連合艦隊のミドウェー攻撃があることを暗号解読で知った米海軍は、第16任務部隊の空母エンタープライズ、ホーネットが5月27日、第17任務部隊の緊急修理を終えたばかりのヨークタウンが30日、迎撃のため真珠湾を出てミッドウェー向かいました。(米軍資料との対比のため ミッドウェー時間で表示します。)

ハワイ諸島

ミッドウェー環礁は西北ハワイ諸島の西北端

米軍は5月29日からミッドウェー基地の32機の飛行艇による哨戒を開始し、同日ミッドウェー攻撃に向かう日本輸送船団の付近で米潜水艦が長文の緊急電を発信しています。6月1日第16任務部隊と第17任務部隊はミッドウェーの北東で合流し、フレッチャー少将が機動部隊の指揮官になりました。

6月2日から4日にかけてミドウェーの飛行艇やB-17が日本の輸送船団を攻撃しますが被害は僅かで、米太平洋艦隊司令部はB-17が攻撃した艦船は敵主力機動部隊ではなく、間違えて攻撃に向わないよう第16、第17両任務部隊に緊急電を打ちます。

6月4日04:15ミッドウェーから飛行艇、04:30にヨークタウンから爆撃機が哨戒に出発、ショート大尉が日本の水上偵察機と交戦したと報告しました。この時点で南雲部隊はヨークタウンの西方200海里を航行しています。

南雲部隊の索敵は水上機任せの1回だけで、重巡利根、筑摩、戦艦榛名から各2機の水上偵察機が索敵に発進、赤城 、加賀から艦攻各1機が発進したに過ぎません。

04:30南雲部隊は友永丈市大尉指揮のミッドウェー第一次攻撃隊108機を発進させます。艦攻18機には基地攻撃用の800キロ爆弾を搭載していました。敵空母の出現に備えて4空母に残した第二次攻撃隊は零戦36機、艦爆36機、艦攻41機で、赤城、加賀の艦攻には魚雷、蒼龍、飛竜の艦爆には通常爆弾が装着されていました。

05:15アディ大尉の飛行艇が利根4号機を発見、05:30に南雲部隊を発見して平文で報告します。

05:40チェイス大尉の飛行艇がミッドウェー攻撃隊を発見、06:00ミッドウェーから戦闘機26機が迎撃に離陸、続いて雷撃機6機、B-26爆撃機4機、急降下爆撃機28機が南雲部隊の攻撃に発進しました。

無電の混戦があって米空母部隊がこれらの事情を把握したのはミッドウェー基地が発信した06:03の平文の緊急電でしたが、第17任務部隊のフレッチャー少将は南雲部隊の位置をほぼ特定し、06:07第16任務部隊のスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を攻撃せよ」と命じます。

06:16ミッドウェー上空に達した第一次攻撃隊(友永隊)107機を発見した米軍機は飛行艇の吊光弾投下で戦闘機の奇襲を開始し、先頭の友永機を始め艦攻多数が被弾しましたが、15分の空中戦で零戦隊が迎撃戦闘機26機のうち15機を撃墜し、帰還できた7機も使用不能にしました。

06:30から07:10にかけて友永隊は基地施設を爆撃しましたが、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失い、艦攻6機、艦爆4機、零戦12機が損傷しました。

ミッドウェー環礁

手前は飛行場のあるイースタン島 奥が飛行艇基地のあるサンド島

06:55利根1号機が南雲部隊に向けて敵15機が飛行中と報告、南雲部隊は零戦6機を直掩に加えます。

07:00友永大尉から第二次攻撃の要ありと報告を受けた南雲部隊はミッドウェー基地への再空襲を決め、07:15各艦で待機中の第二次攻撃隊に陸上攻撃用爆弾への換装を命じました。

07:05 利根が雷撃機6機とB-26爆撃機4機を発見します。ミッドウェー司令官シマード大佐が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入したため戦闘機の護衛なしに出撃してきていて、雷撃機6機のうち3機は直掩機が撃墜、残り2機も魚雷投下後に撃墜、赤城はすべての魚雷を回避しましたが機銃掃射で両舷送信用空中線が使用不能となり、旗艦としての通信能力に支障を来しました。

07:00過ぎに攻撃隊発進を命じた第16任務部隊のスプルーアンス少将は07:28日本軍偵察機が艦隊上空に現れたため、全機を飛行甲板に並べて一気に発艦させる通常の方式を取らず117機を逐次発艦させました。この決断が結果的に勝因に繋がります。

エンタープライズ艦上のTBD雷撃隊

7:28利根4号機は「敵らしきもの10隻、ミッドウェーより方位10度、240浬」と発信しました。この位置は米艦隊の実際の位置より160kmもずれていました。この位置情報の誤りが南雲部隊の判断に極めて重大な影響を及ぼしますが、利根4号機は新規に搭載した機体で磁気コンパスの自差修正ができず、位置情報を誤って伝えたのではないかと云われます。

磁気上の北極点は地図上の北極点から2,000km離れたカナダに位置し、磁気コンパスの北は磁気の北極点を指すので、地図上の位置を知るのにはその場その場で補正が必要なのです。

草鹿龍之介参謀長は米空母の存在を感じ「艦種知らせ」と指示しますが、鈍速の水上機が直掩機のいる敵艦隊に接近するのは容易ではありません。

07:53ミッドウェー基地の爆撃機16機が南雲部隊上空に達しました。07:55直掩機の迎撃で6機が撃墜され、飛龍と蒼龍を襲いますが命中弾を得られず8機を失いました。08:10 B-17 17機が赤城、蒼龍、飛龍を狙いましたが被害はありませんでした。

08:00から08:30にかけて友永隊が戻ってきますが、ミッドウェーからの敵機が南雲部隊を攻撃している最中で、母艦上空での待機を余儀なくされます。

08:20の段階で南雲司令部は米空母がいる確証を持っていません。08:30「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェーより方位8度、250浬」との報告が入りこの空母はホーネットでしたが、報告の暗号解読のため情報の把握は10分遅れます。

山口少将は一刻を争う状況と判断し、現装備のまますぐに攻撃隊を発進させるよう南雲長官に進言しますが、南雲長官は雷装へ再度兵装転換をしても米機動部隊から攻撃を受ける前に攻撃隊の発進が可能と判断、幕僚も第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えます。

08:30フレッチャー少将がヨークタウンから35機の攻撃隊を発進させました。

08:37南雲部隊の各空母は第一次攻撃隊の収容を開始、08:55各空母は「第一次攻撃隊収容終ラバ敵機動部隊を捕捉撃滅セントス」と命じられます。南雲長官は米空母の発見を連合艦隊に通報、赤城では09:30に第一次攻撃隊の収容を完了したとされ艦攻の再雷装が開始されますが、蒼龍では09:50までかかっています。

9:20ホーネット雷撃隊15機が南雲部隊上空に到達、南雲部隊の直掩機18機に加賀から5機、赤城から3機が加わります。ホーネット艦載機は連携が取れておらず、雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙い、直掩機により全機撃墜されました。

ホーネットの戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できず、戦闘機隊と爆撃機13機はミッドウェーへ向い燃料切れで戦闘機全機と爆撃機3機が不時着水、残りの爆撃機20機がホーネットに帰艦しました。

09:50エンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に達し、加賀を目標にしますが9機を失い魚雷は命中しません。

10:10ヨークタウンの雷撃隊が南雲部隊上空に到達し、他の3空母より前方を航行していた飛龍を12機で攻撃しましたが雷撃は成功せず、結果的に米空母から出撃した雷撃機41機は3機を除いて全滅でした。

10:23レスリー少佐のヨークタウン爆撃隊が戦場に到着し、10:24頃マクラスキー少佐のエンタープライズ爆撃隊も南雲部隊を発見しました。

先に加賀を狙ったのはマクラスキー少佐のエンタープライズ爆撃隊で、10:22~10:24(到着時刻と一致しません)ギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中し、続いて3発が命中しました。加賀では艦橋近くの命中弾と燃料車の爆発で艦橋が破壊され、岡田次作艦長以下指揮官が戦死します。

南雲部隊の直掩機はその前のヨークタウン雷撃隊に対応して低空に降りていて、見張りの発見も遅れ「敵、急降下」と加賀の見張り員が叫んだときは手遅れでした。

10:24レスリー少佐のヨークタウンの爆撃隊17機が蒼龍を攻撃し、数機は発艦直後のアクシデントで爆弾を誤投下していましたが、機銃掃射で突入しました。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こします。ヨークタウン爆撃隊の命中弾は3発です。

10:24連携に失敗したエンタープライズの爆撃隊のベスト大尉率いる3機が赤城を狙いました。赤城は直援機が着艦して補給し再び発艦する直前でした。

10:26直援の零戦1機が赤城より発艦し高度50m付近で赤城を見ると、発艦前にいた位置に爆弾が落ち2番機が逆立ちして炎上していました。ベスト大尉機の爆弾が中部エレベーター付近に命中し、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂、格納庫内の攻撃機や爆弾・魚雷の誘爆で大火災が発生したのです。2発目は左舷後部甲板縁で炸裂します。

エンタープライズ隊は併せて14機を失いましたが、わずか数分の間に南雲部隊の3空母が所属機を満載した状態で被弾、誘爆を起こして戦闘能力を喪失しました。

蒼龍の被害は最も深刻で、被弾からわずか20分後の10:45総員退去が発令されます。19:00に火勢が衰えましたが再度の爆発で19:13沈没しました。

加賀で艦長に代わって指揮をとった天谷孝久飛行長は16:23総員退去を命じ、19:25大爆発が2回起きて加賀は沈みます。

赤城は機関部へのダメージはなく、兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料が次々と誘爆を起こし大火災が発生し、舵が固定して動かなくなり洋上に停止しました。

赤城の南雲司令部は軽巡長良に移り、赤城は消火を続けますが再度の誘爆で19:25艦長は総員退艦を命じ、翌5日4:50雷撃で処分されました。

二航戦の山口多聞司令官は飛龍を単艦で北東方向に進めており、三空母から離れた位置にいてヨークタウンの雷撃隊12機の攻撃をかわしていました。

10:50南雲部隊の次席指揮官阿部弘毅少将は3空母の被弾炎上を連合艦隊司令部に通報「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」とし、飛竜には「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じます。

同時刻に山口少将は阿部少将の命令に先立ち「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と発信しています。山口少将は来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断し、飛龍1隻の力で十分戦えると考えました。敵空母が攻撃を終えた艦載機の収容中を狙える時間帯でした。

山口多門少将(最終 中将)

11:00第一波空母攻撃隊小林道雄大尉の艦爆18機、零戦6機の24機が発艦し、同時刻に筑摩5号機から「敵空母の位置味方の70度90浬、我今より攻撃隊を誘導す」と連絡があります。

11:00過ぎ赤城の零戦7機、加賀の零戦9機、蒼龍の零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦します。ミッドウェー攻撃から帰還した飛竜の友永大尉機は左翼主タンクを射抜かれていて、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機でした。

11:20飛龍の第一波空母攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズの爆撃隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊から2機が攻撃に向かい、護衛機は4機に減りました。

ヨークタウンでは11:15攻撃隊の着艦作業が始まりましたが、着艦事故が発生して甲板が損傷、11:50修理が終わり、12:00レーダーが南西46浬に日本軍機を探知します。輪形陣を組むヨークタウンは直掩機12機を発進させました。

飛龍第一波攻撃隊22機は筑摩5号機の誘導でヨークタウンを発見、直掩機の迎撃で零戦3機、艦爆10機が撃墜され、8機がヨークタウンを攻撃しました。急降下中に艦爆3機が撃墜されますが5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させヨークタウンは航行不能となり、フレッチャー司令官は重巡アストリアに移乗しました。ヨークタウンは14:00過ぎに火災を鎮火し再び20ノット航行が可能になります。

飛龍第一波空母攻撃隊は艦爆13機と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけでした。零戦1機が海面に不時着、艦爆1機が修理不能で、修理後使用可能なのは艦爆2機・零戦1機です。

12:00南雲司令部も長良の周囲に第三戦隊(戦艦榛名、霧島)、第八戦隊(重巡利根、筑摩)、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かい飛龍と輪形陣を組みます。

12:20筑摩5号機は新たな米軍機動部隊を発見しました。13:30飛龍から第二波空母攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進、零戦2機は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機でした。

友永大尉は被弾して左翼主タンクが使えませんが、「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げての発進でした。この時点で山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に2隻の敵空母がいることを知りました。

14:30飛龍の第二波攻撃隊が敵空母部隊を発見しますが、筑摩5号機が撃墜されて情報がなく、空母は被弾、炎上後に鎮火して航行中のヨークタウンでしたが、友永大尉は別の空母と判断しました。

再び狙われたヨークタウンは直掩機16機で艦攻4機と零戦2機を撃墜し、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜しましたが、両舷から挟み撃ちの形で4本の魚雷がヨークタウンに向かい、2本が左舷に命中しました。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能となり左舷に傾斜して総員退艦が命じられ、艦長を含む乗組員全員が脱出します。

友永隊の攻撃でヨークタウンの左舷に2本目の魚雷が命中した瞬間

戦闘詳報では黄色い尾翼の友永機が対空砲火で被弾炎上し、艦橋付近に激突自爆したと記録されています。橋本大尉の率いる5機のうち1機は魚雷が落ちませんでしたが、全機が飛龍に帰還しました。

山口少将は二波の攻撃で2隻の空母を大破させたものと判断、同じ空母を2度攻撃したとは気付きませんでした。第二波攻撃隊が雷撃した空母の後方で「別の空母炎上中」と報告したためです。

14:45偵察中のアダムス大尉は平文で「敵発見、空母1、戦艦1、重巡2、駆逐艦4」と発信しました。エンタープライズは自艦の爆撃隊10機、エンタープライズに退避中のヨークタウン爆撃隊11機を戦闘機の護衛なしに発進させました。

15:40第二波空母攻撃隊が戻り飛竜に着艦しましたが、艦攻5機、零戦2機を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着、艦攻1機と零戦3機のみが修理後戦闘可能でした。

二波の攻撃での被害は山口少将の予想をはるかに上回り、三次攻撃に逡巡したといわれます。この間赤城、加賀、蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍上空を守り、敵からの攻撃はこの直掩機で阻止できるという考えでした。

艦爆の発進準備が終わり友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機が着艦しようとした時、米爆撃隊が飛龍の上空に達しました。エンタープライズ爆撃隊指揮官ギャラハー大尉は、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入します。

17:30直衛機6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗しましたが、ヨークタウン隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするように攻撃し飛龍に爆弾4発が命中します。

急降下爆撃を受けて炎上する飛龍

炎上した飛龍は21:23まで機関は無事で離脱と消火に努めましたが、誘爆が発生して消火不能となり、翌5日2:30総員退艦が命じられ、山口少将は加来止男艦長と共に駆逐艦巻雲の雷撃によって沈む飛龍と運命を共にします。

ミッドウェー海戦 戦闘経過

皮肉なことに4隻の日本空母が沈んだのはすべて急降下爆撃機の爆弾によります。ヨークタウンに2度目の攻撃でとどめを刺したのは魚雷ですが、最初に航行不能の損害を与えたのも3発の爆弾でした。

雷撃機は低速で海面上を低く水平に飛ぶため迎撃する敵戦闘機に撃墜される可能性が大です。その点急降下爆撃機は垂直に近い急降下が始まると加速し敵戦闘機に撃墜される可能性は減ります。

雷撃の方が破壊力は大きいとしても、南雲部隊司令部が山口少将の緊急発進の進言を退けてまで、陸上用爆弾から魚雷に乗せ換えて発進を遅らせる意義があったのかという疑問がどうしても残ります。

ミドウェーでの日米空母対決は、ミドウェー攻略以前に米空母が出現することはないと決めてかかった日本海軍が、暗号を解読して待ち伏せた米空母艦載機によって4隻の空母と所属機のすべてを失い、米海軍は空母1隻を失いましたが2隻は攻撃すら受けない一方的な勝利に終わりました。

空母対決では敵空母を発見して攻撃する機会が得られなければ話になりませんが、南雲司令部の索敵は1回のみで巡洋艦、戦艦の水上機を割り当て、空母が出した索敵機は九七艦攻2機のみです。敵空母が出現することをまったく考えていなかったこと自体、連合艦隊司令部を含めて言語道断の失策でしょう。

南雲艦隊はミドウェー基地からの陸上機の攻撃はすべて回避し、空母艦載の雷撃機も41機中38機を撃墜して雷撃を受けていないので、我が方の兵員の技量が劣っていたために敗れたとは到底考えられません。ミッドウェー海戦での空母対決は、初戦の勝ちに驕った日本海軍の油断が負の要因を積み上げ、敗れるべくして敗れたのです。

 


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