1943年(昭和18年)米軍は前年のミッドウェー海戦の陽動作戦で日本軍に占領された米国領土、アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島の奪回を図りました。
アッツ島はアリューシャン列島の西に位置し、山崎保代大佐指揮下の陸軍が占領していましたが兵力も防御施設も不十分で、大本営はアッツ島増援を検討はしたものの、最終的には5月20日アッツ島の玉砕とキスカ島からの撤退を発令しました。
アリューシャン列島
アッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激闘の末、5月29日に全滅しました。太平洋戦争で日本国民に初めて玉砕が発表された戦いであり、米国領土内で行われた唯一の地上戦です。
前年の1942年4月18日米空母発進のB-25爆撃機による日本本土空襲(ドーリットル空襲)があり、実害はほとんどなかったものの帝都上空を通過されたことが日本にとっては大きな衝撃で、同年6月上旬に実施したミッドウェー作戦の陽動作戦と本土空襲の阻止を兼ねてアッツ、キスカの2島を占領したのです。
第五艦隊と第四航空戦隊(空母龍驤、隼鷹)を基幹とする機動部隊と攻略部隊がアリューシャンに向かい、6月7日第一水雷戦隊と陸軍の北海支隊(支隊長穂積松年少佐、1,150名)の輸送船がアッツ島に到達し6月8日に占領、キスカ島も舞鶴鎮守府第三特別陸戦隊が占領しました。
大本営海軍部と連合艦隊は「キスカやアッツの守備は陸上兵力と水上機だけで良い」と考え、第五艦隊と陸軍は「飛行場を建設して積極作戦に打って出たい」と考えていて、占領方針は当初統一されていませんでした。
6月23日大本営は西部アリューシャン列島の長期確保を指示します。米軍は大型爆撃機での空襲、潜水艦の投入、巡洋艦隊によるキスカ島への艦砲射撃を行いますが、当時の大本営の関心はガダルカナル島攻防戦に集中しており、特に検討を加えることもなく北海支隊にアッツ島からキスカ島への移駐を命じ、第五艦隊の協力で穂積支隊はキスカ島へ転進しました。
10月18日アメリカのラジオ放送でアムチトカ島に米軍が上陸したと誤認した大本営は急遽アッツ島の再占領を決め、10月24日北海守備隊(司令官峯木十一郎陸軍少将)を新しく編成し、占守島を守備していた米川浩中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊2,650名が10月29日第五艦隊の軽巡洋艦、駆逐艦に分乗してアッツ島へ再上陸しました。
11月1日大本営は各方面に陸海軍中央協定を示します。第五艦隊司令長官が北海守備隊を指揮する。キスカ島とセミチ島に陸上航空基地、キスカ島とアッツ島に水上航空基地を建設する。陸上航空基地の建設は陸軍が行い、急速輸送は海軍艦艇が、その他は陸軍輸送船が担任すると定められました。
2島で飛行場の建設と陣地強化がはじまりますが、地形や補給の関係で飛行場の建設は遅々として進まず、一年のほとんどが霧か時化で守備隊には精神を病む者が続出し、絶え間ない空襲や艦砲射撃の恐怖、補給不足による栄養失調が輪をかけました。
各島への輸送と部隊配備は12月末完了予定でしたが、輸送船の被害や水上戦闘機の進出の遅れで翌年3月末に延びます。当時日本艦船は米空軍機と潜水艦によりアリューシャン列島から退避を余儀なくされており、補給や輸送の断絶はアッツ島、キスカ島の命脈が絶たれることを意味しました。
1943年(昭和18年)初頭米艦隊がアッツ島に艦砲射撃を加えたことで、米軍の上陸が間近と予想されました。2月に米軍はアムチトカ島飛行場の使用を開始し、アリューシャン方面の制空権は米軍のものになります。
大本営はアリューシャン列島の保持方針を堅持し、2月5日北部軍司令部を改変して北方軍司令部(司令官樋口季一郎陸軍中将)としました。西部アリューシャンの防衛は北方軍と第五艦隊の担当となり、アッツ島の陸上航空基地建設が決まり飛行場完成は3月末を目標とします2月11日大本営陸軍部はキスカ島を担当する第一地区隊(歩兵三個大隊、地区隊長佐藤政治大佐)と、アッツ島を担当する第二地区隊(歩兵一個大隊、地区隊長山崎保代大佐に交代)を区分しました。
3月10日第五艦隊と第一次増援輸送船団が到着したのがアッツ島に対する最後の輸送船補給で、3月27日の第二次増援輸送がアッツ島沖海戦で中止された後は潜水艦による輸送に限定されます山崎大佐は4月18日に潜水艦でアッツ島に到着します。
4月下旬滑走路1,000mの飛行場がほぼ完成し、視察に来た海軍士官は大本営に戦闘機一個戦隊のアッツ進出を具申しました。大本営海軍部は一旦同意しましたが間もなく取り消し、陸軍は失望し憤慨します。
山崎保代大佐(玉砕後二階級特進 陸軍中将)
米軍は当初キスカ島への上陸を企画しましたが、米軍の兵力や両島の防備状況からアッツ島に目標を変更、上陸作戦は濃霧期直前の5月7日とし3日で作戦を終える予定でした。
1943年(昭和18年)5月4日戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻からなる攻略部隊がアラスカから出撃、A・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1,000名が5月12日に上陸を開始、霧に紛れて北海湾と旭湾、北部海岸に橋頭堡を築くことに成功しました。
アッツ島に上陸したアメリカ軍
日本軍は上陸した米軍を程なく発見しましたが、上陸1日目は霧に遮られて地上戦はなく、米軍は艦砲射撃を行いましたが有効な損害を与えられず、2日目に北海湾に上陸した米軍北部隊が周辺を一望できる高台にある日本軍の陣地を霧に紛れて攻撃しました。
日本軍は機関銃と小銃で北部隊を撃退しましたが、陣地の位置が米軍に知られて野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機の銃爆撃を浴び、たこつぼと塹壕だけの陣地の守備隊は100名前後の戦死者を出して陣地を放棄しました。
日本軍は防御の拠点を移し15日まで激しい戦闘を行います。米軍南部隊は前進を開始しましたが、平地は霧が晴れ山上の日本軍陣地は霧に包まれたままで、米軍兵士の証言によると戦艦の14インチ砲が火を噴くたびに、砲の破片、銃の断片、日本兵の死骸、手や足が霧の中から転がってきたと云います。
青い矢印が米軍の進路、赤い矢印は29日の日本軍最後の反撃の進路
米軍南部隊は三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受けて第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥り、アメリカ軍はこの渓谷を「殺戮の谷」と呼びました。
殺戮の谷
その後米軍南部隊は北部隊と合流すべく高地の日本軍陣地に攻撃を仕掛け、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機関銃でアメリカ軍を海岸まで後退させます。
15日米軍北部隊を押さえていた北部の日本軍が米軍の砲爆撃で陣地を放棄、山崎部隊長は戦線を後退させ、武器弾薬の補給と一個大隊の増援要請の電報を北方軍宛に打電しました。
南部の日本軍陣地も砲爆撃を受け、米軍は戦車5両を突入させて一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に後退します。18日から米軍は勢いに乗り日本軍の戦線に攻撃を加えますが、日本軍の各陣地は高地に拠って抵抗し寡兵よく米軍の攻撃を撃退しました。
米軍の増援を要求したブラウン少将は16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が着任します。5月20日大本営は北方軍司令部にアッツ島への増援の中止を通告し、大きな衝撃を与えました。
当時の海軍は南太平洋方面の戦況で到底北方の反撃に協力する余力がなく、大本営陸軍部は海軍がキスカ撤収に無条件に協力する約束を取り付けて、山崎部隊を見殺しにすることにしたのでした。
21日北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれりとの結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電しました。
これに応えて山崎部隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電します。
23日札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ玉砕を命ずる電文を打ちました。
「軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも、地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り、最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」です。
アッツの日本軍は米軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となりましたが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅しました。翌29日山崎部隊長は生存者を集め各将兵の労をねぎらった後、戦闘に耐えられない重傷者を自決させ、最後の電報を東京の大本営宛に打電します。
日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから平地へ下る形で最後の突撃を行います。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃でした。この意表を突いた突撃でアメリカ軍は混乱に陥り、布陣していた米陸軍工兵第50連隊の陣地の一部を突破しましたが、工兵隊の丘で猛反撃を受けます。
山崎部隊長は終始陣頭で指揮を執っていたことが確認されています。米軍のある中尉は「霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。
どの兵隊もボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵の身の毛がよだった。
わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり、這うように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗をともに握りしめた。拡声器で“降参せよ”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された」。
5月30日大本営はアッツ島守備隊全滅を発表し、初めて玉砕の語を使いました。5月21日に山本五十六元帥戦死の公表があった直後だったため、日本国民は大きな衝撃を受けました。
8月29日朝日新聞はアッツ島戦死者の名簿を掲載しましたが、戦死者の名簿が掲載されたのはこれが最初で最後、9月29日札幌市の中島公園でアッツ島守備隊将兵約2,600名の合同慰霊祭が行われました。
聨合艦隊宇垣纏参謀長は5月13日の日記に「斯の如き状況に於てアリューシャン方面を確保せんが為に兵力を続々と送り込めば、或は輸送船沈められ等してガ島の全く二の舞を演ずるやも測り知れず、然れば聨合艦隊としてはその将来をも保し難きものあり」と記しています。
民需に必要な輸送船をガダルカナルなどの南方戦線へ投入したため、蘭印地域から本土へ原油を運ぶ輸送船を確保できず、1943年(昭和18年)5月28日の大本営陸海軍部合同研究会では山本親雄軍令部第一課長が次の弁明をしています。
「今内地には燃料は30万屯程度しか手持がない。聨合艦隊が無為にしていても毎月4万屯宛油は減っていく。機動部隊が北方作戦に出動すれば一行動20数万屯は要る。若し出動して敵艦隊を決定的に撃破することが出来ればよいが、そうでなければ9月頃迄聨合艦隊主力は動けない」。これは正に戦争継続力がないことを示すものでしょう。山本元帥の「1年は支えてみせる」と云った、戦争の終結を図るべき時期はすでに過ぎていました。
撤収の決まったキスカ島では5月27日から6月21日の間に延べ18隻の潜水艦が820名を救出し、7月27日13時40分濃霧をついてキスカ湾内に侵入した救出艦隊が一時的に霧の晴れる幸運も加わり、大発のピストン輸送でキスカ島守備隊約5,200名を僅か55分で収容しました。
使用した大発は回収せず、守備隊には小銃も投棄させて身軽にしたことが収容時間を短縮して、艦隊はキスカ湾を全速で離脱、再び深い霧に包まれて空襲圏外に脱出することができました。
機密作戦に必要な濃霧が発生する天候を待ち続け、1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも作戦を強行しなかった指揮官木村昌福中将の冷徹な判断が奇跡を起こしたのです。8月15日米軍は大兵力でキスカ島に上陸作戦を敢行しましたが、日本軍はもぬけの殻でした。
アッツ島で玉砕した山崎部隊長の大本営へ最後の電文は以下の通りです。
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(全線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり
二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす
三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり(以下略)」。
アッツ島玉砕の碑
第二次世界大戦で日本海軍が撃沈した連合国艦船の洋上漂流者を数多く救助したことはよく知られていますが、漂流中の我が国の海軍将兵も敵艦船に救助されています。
日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置され、両国の俘虜の名前が交換され官報での公表や家族への通知も行われました。旅順要塞降伏後に日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されましたが「旅順口生還者」と呼ばれ冷遇されることはありませんでした。
陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では「第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス」と、尽くすべきところを尽くさずして降伏することを認めていませんが、軍人に最後まで戦えというのは、戦う武器があり、戦闘能力のあるうちのことです。
ちなみに第二次世界大戦でのヨーロッパを中心とした各国の捕虜数の合計は2千6百万人に上ります。戦時国際法通りに捕虜が保護されたとは到底云えませんが、投降者は意志に反して死傷するのを避けることができ、相手は戦闘を回避できました。負けて戦闘能力を失った重傷者が死ななければならない意義は一体どこにあるのでしょう。
東条英機陸相が1941年(昭和16年)1月8日に普達した「戦陣訓」は軍人勅諭の繰り返しに過ぎず、普達する必要があったとは評価されていませんが、その中の「生きて虜囚の辱を受けず」の一句が民間人にまで影響を及ぼしました。
日米で最大の地上戦が行われた沖縄では「生きて虜囚の辱を受けず」の一句のために、非戦闘員である民間人までもが米軍の呼びかけに応じず、多くの命が失われました。日米の戦争による対決は歴史の必然かと思いますが、この句の存在に必然性はなく、決して許されるべきではないのです。