gooブログはじめました!

歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ガラス

2020-04-30 06:17:41 | 日記

ガラスの存在を意識することは日常あまりありませんが、住宅の外壁には必ずガラス窓があって、外光を取り入れ、換気をし、外の様子が見渡せることで人々の毎日の生活のリズムを作る大切な働きをしてきました。現在では外装をガラスにして眺望を良くした別荘や、全面ガラス張りにした高層建築が目を惹くようになりました。

ガラスは紀元前4,000年古代メソポタミアでつくられたガラスビーズが起源とされていますが、紀元前1,550年ごろにはエジプトで粘土の型に流し込んだ最初のガラス器が作られて西アジアへ広まり、食器や工芸品としてガラスは一挙に人びとの生活に浸透します。

ガラスは化学的にはケイ酸化合物で、その多くは透明で硬く薬品に侵されにくく表面が滑らかです。この特性を利用して窓ガラスレンズ食器などの生活の分野や、人の目には直接触れにくい産業の分野で幅広く用いられています。

ガラスは非結晶性で全体が均一で透明です。ガラス化する物質は珍しくなくヒ素イオウなどは単体でガラス化します。ホウ酸、リン酸などの酸化物も二酸化ケイ素と同じく骨格となってガラスを形成し、工業的に非常に重要な耐熱ガラスのパイレックスは12%のホウ酸を含むホウ酸塩ガラスです。

ガラスの着色には金属イオンや非金属イオンコロイドなどを添加しますが、酸化鉄 - 緑、硫黄 - 茶色、マンガン - 黒。コバルト- 深い青、硫化カドミウム - 黄色、 - 赤などが用いられます。

ガラスの分子構造例

アモルファス構造をとった二酸化ケイ素が骨格となり、ナトリウム・イオン(薄緑色)、カルシウム・イオン(緑色)を含む。桃色はイオン化した酸素。アルミニウム原子(灰色)が安定剤として働く。

黒曜石は火山から噴出した溶岩がガラス状に固まった天然ガラスで、人の造ったガラスよりも古くから使われ、青銅器が発明される以前には最も鋭利な刃物として、青銅器が用いられなかったメソアメリカ文明インカ文明では黒曜石を挟んだ木剣や石槍が青銅器時代以後も武器の中心でした。

紀元前4千年のメソポタミアの古代ガラスは砂、珪石、ソーダ灰、石灰などの原料を高温で溶融し、冷却・固化して製造されました。エジプトで紀元前1,550年ごろに最初のガラス器が作られ西アジアへ広まりましたが、年代の確められたものとしてサルゴン2世(紀元前722年~705年)の銘入りの壷があります。

紀元前4世紀から1世紀のエジプトでは、王家の求める高度な技法でつくられるガラスがヘレニズム文化を代表する工芸品となり、中国では紀元前5世紀に鉛ガラスを主体とするガラス製品や印章が製作されています。

紀元前1世紀後半にはエジプトのアレクサンドリア吹きガラス法が発明されて、現代でも使用されているガラス器製造の基本となり、安価なガラスが大量に生産されて食器や保存器として用いられるようになりました。

この技法はローマ帝国全域に伝わり、板状のガラスもごく一部では窓ガラスに使用されましたが、ローマ帝国の衰退とともにヨーロッパでは一旦生産が停滞します。

東ローマ帝国の地中海東部やササン朝ペルシャ、中国の北魏南朝では引き続き高水準のガラスが製造されていて、日本では福岡県の須玖五反田遺跡などで古代のガラス工房の存在が確認され、勾玉の破片や鋳型が見付かっています。

5世紀シリアで手吹き法によりガラス球を造り、遠心力を加えて平板状にする板ガラス製造法が生み出され、凹凸はあるものの平板なガラスを製造することに成功しました。

8世紀にはイスラム圏で彩色の技法が登場し、9世紀から11世紀の中東ではカット装飾が多用され、東ローマ帝国でステンドグラスが製造されます。西ヨーロッパでも8世紀頃からガラスの製作が再開され、12世紀にはゴシック調教会建築にはステンドグラスが欠かせない存在になり、13世紀に無色透明なガラスがドイツ南部やスイス、イタリア北部に伝来しました。

良質の原料を輸入できたヴェネツィアのガラス技術は名声を高めましたが、1291年からは機密保持のためにムラーノ島に職人を隔離して数世紀にわたって精巧なガラス作品が造られ、15世紀には酸化鉛と酸化マンガンの添加で屈折率の高いクリスタルガラスが完成しました。

1670年代に入るとドイツ・ボヘミア・イギリスの各地で同時多発的に無色透明なガラスの製法が完成します。これは精製した原料にチョークまたは酸化鉛を混ぜるもので、厚手で透明なガラスが得られてカットやグレーヴィングが可能になり、高度な装飾の重厚なバロックガラスやロココ様式のガラスが作られました。

18世紀に入るとフランスで板ガラスの鋳造法が開発されます。20世紀初頭にいたるまで、この方法と吹きガラス法で作った大型の円筒を切り開いて板ガラスにする方法の2つが、板ガラス製造の基本技術となりました。

1791年には炭酸ナトリウムの大量生産法がフランスのニコラ・ルブランによって発明され、このルブラン法によって原料供給が大きく改善されてガラス工業の近代化が急速に進みます。

1851年には世界初の万国博覧会ロンドンで開催されましたが、メイン会場の水晶宮は鉄とガラスで作られた巨大な建物で、科学と産業の時代の象徴として注目を浴びました。

1861年ベルギーソルベー法が開発されてソーダ灰の増産が進み、ガラスを溶かす窯にも大きな進歩が起きました。フリードリヒ・ジーメンスらが1856年特許を取得した蓄熱式槽窯を用いた製法で、溶融ガラスの大量供給が可能となります。

19世紀末から20世紀初頭にかけてのアール・ヌーヴォーはガラス工芸に大きな影響を与え、エミール・ガレルイス・カムフォート・ティファニーなどの優れたガラス工芸家が現れ多くの作品を残しました。

「江戸切子」(えどきりこ)は江戸時代半ばから生産されたガラス細工で、透明鉛ガラスに手作業で切子細工を加えたものです。色ガラスの層が薄く鮮やかなのが特徴で、文様としては矢来・菊・麻の葉模様など身近な和の文様を繊細に切子しています。江戸切子は震災・戦災など幾多の困難を経て、途絶えることなく今日まで続いてきました。

様々なカットが施された江戸切子

「薩摩切子」(さつまきりこ)は薩摩藩幕末から明治初頭に生産したカットグラスです。長崎伝来の外国のガラス製造書を元に、江戸のガラス職人を招いた薩摩藩主島津斉興によって始められ、斉彬集成館事業(洋式産業)の下で薩摩切子を保護しました。

江戸切子と対照的に厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスを用いたもので明治期に消滅し、色被せガラスの技法は薩摩の職人や海外の技術を導入した江戸切子が継承しています。

薩摩切子の冷酒グラス

現存する薩摩切子は大変に少なく200点程と云われます。1985年昭和60年)代に復刻が試みられ、現在は現存する薩摩切子を忠実に再現した復刻物や新デザインの創作品が生産されています。

カットグラスの起源は明らかではありませんが、ヘレニズム、ローマ時代に発達してパルティアやササン朝ペルシアに伝わり、ガラスの主要な装飾技法となりました。正倉院蔵の円形切子白瑠璃碗(るりわん)は典形的な例です。

ステンドグラスは着色ガラスの小片をリムを用いて結合し模様を表現したもので、多くのキリスト教の教会で用いられ、外部からの透過光で非常に美しく映ります。原型を留める最古のステンドグラスはドイツバイエルン州アウクスブルク大聖堂の12世紀初頭の作品と考えられています。

ゴシック様式の教会にはステンドグラスが欠かせず、教会堂は光あふれる空間となりました。12世紀の代表的なステンドグラスはパリの南西90kmのシャルトル大聖堂のもので、西正面と南北の入り口上部にあるプレート・トリサリー形式のバラ窓など、176ものステンドグラスを誇ります。

クリスタルガラスは透明度の高いガラスで高級洋食器・グラス・トロフィーシャンデリアジュエリービーズなどがつくられています。「クリスタル」は本来二酸化ケイ素結晶してできた石英を指すのですが、日本硝子製品工業会の「クリスタルガラス」の定義は、高い透明度と屈折率が1.520以上で光沢、澄んだ音色で特徴付けられる非結晶ガラスです。

バカラ」は高級クリスタル食器ブランドで、グラス、花瓶、シャンデリアなどからジュエリーにも進出、ロシア皇室が愛用したことで知られます。1764年フランス王ルイ15世によりロレーヌ地方のバカラ村にガラス工場設立が許可され、1816年初めてクリスタルガラスを製造しました。

ルイ18世を皮切りにフランス王室・イギリス王室・ロシア皇室などヨーロッパの王室や日本の皇室もバカラを注文しています。製品はテーブルウェア(各種グラス・デキャンタなど)はもちろん、アクセサリー・花瓶・香水瓶・置物・シャンデリアなどに及びます。2018年中国の「フォーチュン・ファウンテン・キャピタル」が1億6,400万ユーロ(約210億円)でバカラを買収しました。

スワロフスキー」は1895年の設立で、クリスタルのカットと研磨を行う世界初の機械を発明し、業界に革命をもたらしました。スワロフスキー・クリスタルはココ・シャネルクリスチャン・ディオールといったジュエラーやクチュリエに絶賛され、20世紀の美術品に欠かせない素材となりました。

スワロフスキー・クリスタルは通常のクリスタルガラス(酸化鉛の含有量24%)に比べて酸化鉛が最低32%と多く含まれ、スワロフスキーはファッション・ジュエリーの代表的ブランドです。

ガラスの用途は板ガラス、瓶・管球などのガラス製品、ガラス繊維の3分野に大別されます。板ガラスの製造は設備・装置に莫大な資金を要するため我が国でもヨーロッパでも大企業の寡占状態で、2019年の板ガラスの世界シェアは「AGC」(旧旭硝子)、フランスの「サンゴバン」「日本板硝子」がトップ争いをしていて、液晶用ガラスも米国「コーニング」に次ぎAGCが世界2位、「日本電気硝子」が3位のシェアを誇ります。

ガラス繊維分野は1950年代から「AGC」、ユニチカなど数社で長繊維、短繊維が生産されるようになり、長繊維はFRP(繊維強化プラスチック)の素材や工業用材料に使われて小型船舶が木製からFRP製となり、短繊維はグラスウールとして住宅用断熱材や保温、保冷、吸音材として使用されて土壁が消えました。

1990年代に入ると光学領域で光ファイバー、マイクロレンズ、光導波路、エレクトロニクス用にはICフォトマスク、ガラス磁気ディスク、ディスプレー用基板ガラスなどが、精密機械領域では高純度石英ガラス、ゼロ膨張結晶化ガラス、プレス成形非球面レンズなど、これまでのイメージをはるかに超えた高機能ガラス群が出現しました。

2002年の統計で日本だけでも建築用に3,900億円、車両用に1,700億円、生活用品に3,000億円、電気製品等に8,300億円分のガラスが出荷されています。

2007年(平成19年)まで我が国のガラス業界で収益を挙げていたのは、日本独自の技術のテレビの液晶ディスプレイや自動車ガラスの世界的需要でしたが、2008年のリーマンショックで大きな打撃を受けました。

ガラスの市場には1990年代に韓国、台湾、2000年代に中国メーカーが本格的に参入してきましたが、世界有数のガラスメーカーを複数持つ我が国は今でも世界で一流の座を護っています。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和恐慌

2020-04-16 06:18:39 | 日記

「昭和恐慌」は1929年(昭和4年)秋に発生した「世界恐慌」が1930年に我が国に波及し、たまたま我が国が同時に行なった金解禁が二重の痛手となった大恐慌を指します。戦前日本経済危機的状況に陥れた最も深刻な恐慌ですが、発端は大正年間の第一次世界大戦でもたらされた好景気に続く戦後不況でした。

第一次大戦で戦場となった欧州諸国が復興しヨーロッパ製品アジア市場に戻ってくると、我が国に戦後不況が発生し1920年大正9年)には金融恐慌に発展、1923年関東大震災で再び恐慌に陥りました。

震災で被害を受けた企業が振り出した手形が決済不能となることが危惧されて「モラトリアム令」(支払猶予令)が出されましたが、日銀が手形の再割引を行った震災手形には、震災に関係のない戦後不況に起因する手形が多数紛れ込むモラルハザードが生じました。

第一次大戦中の1917年(大正6年)アメリカに続いて日本もそれまでの金本位制から離脱していて、アメリカは1919年戦後早々に金本位制に復帰しましたが、日本は1919年末に内地外地あわせて正貨準備が20億4,500万円あり、国際収支黒字であったのにもかかわらず金解禁を行いませんでした。

1920年代には世界の主要国が次々に金本位制へ復帰し、国際金本位制のネットワークが再建されて大衆消費社会を迎え「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と、好調な対外投資によって世界経済は安定を享受していました。

日本政府もこのような世界の潮流に乗るべく金解禁を実施しようとしましたが、1920年代の日本経済は慢性的な不況下にあり、立憲政友会が反対で金解禁に踏み切ることができない中、1927年(昭和2年)片岡直温蔵相の失言がきっかけの取り付け騒ぎで「金融恐慌」に陥り、為替相場が下落する状況が続いていました。

1928年フランスが新平価による金解禁を行うと主要国中で日本のみが取り残され、日本の金本位制復帰の思惑がらみで円の為替相場が乱高下し、為替の安定のための金解禁が輸出業・輸入業の別なく財界全体の要求となります。

立憲民政党濱口雄幸内閣は「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるための物価引き下げ策を採用、市場にデフレ圧力を加えて産業合理化を促し高コストと高賃金を解決しようとしました。

これは多くの中小企業に痛みを強いる改革でしたが、井上準之助蔵相は徹底した緊縮財政政策を進める一方で、正貨を蓄え保有外貨が3億ドルに増加し為替相場が48ドルまで戻りました。

濱口内閣は1929年11月21日に翌1930年(昭和5年)1月11日をもって旧平価による金解禁を実施すると発表し、金解禁に伴う景気への悪影響を最小限に抑制するため、国民に消費節約と国産品愛用を訴えました。

浜口内閣蔵相時代の井上準之助

1929年12月7日付けの大阪毎日新聞は「下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」という見出しで金本位制復帰によるデフレを歓迎しました。

1930年1月11日100円=49.875ドルの旧平価による金解禁が実施され、当初の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報 1930年1月12日)「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞 1930年1月22日)と礼賛され、新聞・雑誌には「不景気を徹底させよ」と勇ましいスローガンが飛び出しました。

しかし1か月後には「金解禁で産業界は高率操短時代」(中外商業新報 1930年2月17日~19日)「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞 1930年2月20日)と云った新聞記事の見出しが出始めます。

日本政府は1929年11月に翌年1月の金解禁の大蔵省令を公布しましたが、その直前の10月24日ニューヨークウォール街株価が大暴落し、この「暗黒の木曜日」に端を発した恐慌が世界中に波及して、日本経済はこの「世界恐慌」の波及と金解禁による二重の打撃を受けることになります。

1929年(昭和4年)10月のウォール街大暴落

金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の円安でしたが、井上蔵相は100円=49.85ドルの旧平価での解禁を行い、実質的にはの切り上げになりました。

井上蔵相が円高で輸出商品が割高となりデフレと不況に陥る恐れのある旧平価での解禁を敢えて行ったのは、円の国際的信用を落としたくない思いに加えて、生産性の低い不良企業を淘汰して日本経済の体質改善を計る必要があると判断していたためでした。

金融界も金融恐慌後の資金の集中により体質強化が計られていてデフレを乗りきる自信が備わっており、為替の不安定に悩まされていた商社も金解禁に賛成しました。

ウォール街の大暴落が世界恐慌の前触れであると予見した者は誰一人おらず、井上蔵相も翌年の金解禁を公表した時点ではウォール街の大暴落は一時的で、アメリカの経済はいずれ活況を呈すると考えていたのです。

金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べるリーズ・アンド・ラグズによって一時的に国際収支の好調が得られ、為替相場の上昇がみられましたが、結果において1930年1月は金解禁のタイミングとしては最悪でした。

井上蔵相の狙いとは裏腹に対外輸出は激減し、金解禁後わずか2か月で日本国内で兌換された1億5,000万円の正貨が海外に流出、1930年を通して2億8,800万円におよび、1931年になっても正貨流出は激しさを増しました。

日本の輸出先は生糸がアメリカ、綿製品や雑貨中国をはじめとするアジア諸国でしたが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージを強く受けた地域で、1930年3月には日本国内の商品市場が大暴落して、生糸、鉄鋼農産物等の価格は急激に低下し、株式市場の暴落が起こり金融界を直撃しました。

中小企業倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街に溢れ、国民の購買力も減少しました。1930年中に破産した会社は823社、減資した会社は311社、解散減資総額は5億8,200万円に及んでいます。労働運動も激化し、全体の3割にあたる3万の小売商夜逃げしました。

当時稀少だった大学卒業の学士が職にありつけない異変が生じ「大学は出たけれど」が流行語となり、1930年の失業者は全国で250万人と推定されています。

1930年の日本の1人あたりの国民所得は、アメリカの9分の1、イギリスの8分の1、フランスの5分の1、ベルギーの2分の1にすぎません。1929年を100%とした1931年の国民所得は77%に減少、卸売物価は70%に下落、米価は63%に暴落、輸出は53%、輸入も60%への激減でした。

昭和恐慌でとりわけ大きな打撃を受けたのは農村で、生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年の豊作による米価の下落、朝鮮台湾からのの流入による過剰米の増大で農村は壊滅的な打撃を受けました。政府は農業恐慌に対して農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持策をとりましたが、緊縮財政の枠の中での対策ではまったく不十分でした。

濱口内閣は対外的には協調外交を進めていて、1930年4月に「ロンドン海軍軍縮条約」に調印しましたが、11月に軍縮条約調印が統帥権干犯であると反発する愛国社佐郷屋留雄によって東京駅で濱口首相が狙撃され、一命は取りとめましたが1931年4月内閣不一致で総辞職しました。

政府は同じ4月に「工業組合法」「重要産業統制法」を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進しましたが、重要産業統制法は指定産業の不況カルテルの結成を容認するもので、これが後の統制経済の先駆けとなります。

濱口内閣の後は同じ立憲民政党の若槻禮次郎第2次若槻内閣を組閣しましたが、1931年9月関東軍による満洲事変が勃発しました。同月イギリスが金本位制から離脱したことで大量の売り・ドル買いを誘発し、ドル買いを進めた財閥に対して「国賊」「非国民」と攻撃する声が国民の間に高まりました。

若槻首相は満洲事変の不拡大を声明しましたが関東軍はそれを無視して戦線を拡大し、若槻内閣は恐慌に対する有効な対策を講じられないまま事変の収拾に行き詰まって総辞職、1931年(昭和6年)12月立憲政友会犬養毅が組閣します。

犬養内閣高橋是清蔵相はただちに金輸出を禁止し、民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換して積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレ政策を採りました。その結果国際的な軍縮の動向の中にもかかわらず軍拡政策は景況改善後も継続され、満洲事変・支那事変を通じて軍部の発言力が増大していきます。

日本の金本位制復帰はわずか2年に終わりましたが、この2年間の深刻な恐慌は社会的危機感を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥団琢磨らを襲うテロとなって暴発し、軍国主義と戦争への道を準備する結果になりました。

金輸出再禁止により円相場が一気に下落し、円安に助けられて輸出が急増し景気が急速に回復する思わざる結果で、1933年(昭和8年)に我が国は他の主要国に先駆けて世界恐慌前の経済水準に回復しました。

日本の輸出の急増は米英などからは「ソーシャル・ダンピング」(国家規模の不当廉売)と批判され、米英仏などの植民地を多く持つ国々は日本の輸出力に対抗するために、自国の植民地で排他的なブロック経済圏を構築しました。このブロック経済化で窮地に立たされた日本もこれに対抗し、日満支円ブロック構築を目指してアジア進出を加速することになります。

日本と同じ後発資本主義国で植民地に乏しいドイツイタリアも自国の勢力拡大を目指して膨張政策へ転じ、植民地を持つ国と持たざる国の二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となりました。

第一次世界大戦後の戦後不況、金融恐慌、昭和恐慌と続く我が国の経済不況の流れで、特に農村部が娘の身売りを余儀なくされるまでに疲弊したことが政財界に対する国民の不信につながり、国家体制の変革を目指した青年将校らの五・一五事件、二・二六事件の軍事クーデタを招き、その後軍部の国家総力戦に対応した発言力が強化され、高度国防国家構想に基づく軍国主義への途を辿ることになります。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雛祭りと端午の節句

2020-04-02 06:40:43 | 日記

「雛祭り」(ひなまつり)はの健やかな成長を祈る節句行事で、雛人形に雛あられ菱餅などを供え白酒ちらし寿司を楽しみますが、江戸時代までは旧暦3月3日に行われ、明治の改暦以後は新暦3月3日に行うのが一般的になりました。旧暦の3月3日はの花が咲く時期であるため「桃の節句」とも呼ばれます。

現代の雛祭りは室内で行われますが、かつては農村部で暖かく春らしくなった旧暦3月3日に子供が野遊びに出掛けて「草花びな」を作ったり弁当を食べたりする風習があり、現代でも伝承している地域があります。江戸時代には9月9日重陽の節句に雛人形をもう一度飾る「後(のち)の節供」の習慣もありました。

「雛祭り」がいつ頃から始まったのかはっきりとはしませんが、平安時代京都貴族の子女の雅びな人形遊びがあった記録があります。紙で作った人形を川へ流す「流し雛」も古くからありましたが、雛人形が災厄よけの「守り雛」として祀られる様になり、3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは安土桃山時代以降と推測されています。

江戸時代には「人形遊び」と「節句の儀式」が結びついた雛祭りが全国に広まりましたが、初期には立った形の「立雛」や座った形の「坐り雛」で男女一対の内裏雛でした。

女雛は天冠、男雛は立纓冠を着用(江戸時代、遠山記念館所蔵)

雛人形は女子の一生の災厄の身代りをさせる身分の高い女性の嫁入り道具となり、華美で贅沢なものになっていきました。時代が下ると人形は精巧さを増して十二単の装束を着せた「元禄雛」大型の「享保雛」などが作られました。これらは金箔張りの屏風の前に人形を並べた立派なもので、享保年間に江戸幕府が倹約政策をとった際には大型の雛人形が一時期禁止されたほどです。

3段飾り

鳥居清長「子宝五節遊 - 雛遊」 )

江戸時代後期には「有職雛」と呼ばれる宮中の平安装束を正確に再現したものが現れました。また18世紀の終わり頃からは囃子人形、幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されました。嫁入り道具や台所の再現、内裏人形に付き従う従者人形や小道具、御殿や壇飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていきます。

雛人形は宮中の殿上人の装束を模していて、伝統的には男雛の冠は垂纓冠(すいえいかん)で、女雛の冠は天冠、髪型には「大垂髪」(おすべらかし)と「古典下げ髪」があります。

大垂髪は平安時代からの垂れ髪形式が鎌倉・室町を経て、江戸時代後期の前髪部分を大きく張った比較的新しい髪型です。古典下げ髪は平安時代に長く黒い髪が美人の条件とされていたため、髪をすべて後ろへ流し僅かに垂らした両頬の毛を切りそろえた髪型です。

雛人形の多くは藁で作られた土台に衣装を着せ、別に作られた頭部を合体していて、木目込みの技法で比較的小さなサイズで作られているものも人気があります。土製のものや陶器・木製のものもあり、内裏雛が座っている形のものが多いのですが立雛もあります。

雛人形が嫁入り道具の一つだった時代には母方の実家から贈るのが一般的でしたが、関東地方では主に武家の持ち物、暮らしを表現したものが多く、関西地方では御所、宮中の暮らしを模したものが多くて、関東と関西では飾り方や各人形の形、持ち物が異なっています。

「内裏雛」(だいりびな)

男雛と女雛が一対で、天皇皇后を模したものとされます。皇族用の繧繝縁(うんげんべり)の厚畳の親王台が敷かれます。男雛は束帯に冠、飾り太刀をつけ、手には笏を持ち、女雛は五衣唐衣裳装束(十二単)に頭には平額(ひらびたい)に 釵子(さいし)櫛をつけ手に檜扇を持ちます

三人官女(さんにんかんじょ)

宮中に仕える女官で通常3体1組の人形を二段目に配置します。手に持つ道具は、中央が島台または三方、向かって右に長柄(ながえ)、左には提子(ひさげ)で、三人の中央の官女はリーダー格とされ眉を剃り鉄漿(おはぐろ)をつけた既婚者の姿です。

五人囃子(ごにんばやし)

のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、三段目に配置します。向かって右から「謡」(うたい)「笛」(ふえ)「小鼓」(こづつみ)「大鼓」(おおかわ)「太鼓」(たいこ)の順に並べます。能囃子の代わりに「五人雅楽」の楽人の場合もあります。

随身(ずいじん、ずいしん)

四段目に配置する右大臣左大臣です。向かって右が左大臣で年配者、向かって左が右大臣の若者で、いずれも武官の姿です。

仕丁(しちょう)

従者と護衛を表わし、通常3人1組の人形を五段目に配置します。

五段の雛人形

現代では男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、結婚式の新郎新婦もそれに倣っています。明治時代までは左が高位であったため帝は左に立ちました。大正天皇は即位式で西洋に倣って右に立ち、それが新しい皇室伝統となったのにならって、男雛を右(向かって左)に配置するのが一般的になりました。

昔は雛人形や道具類・調度類を平面に並べていましたが、江戸時代から段飾りが行われるようになり、昭和時代を中心に五段、七段飾りが多くなりました。平成になると団地やマンションで和室がなかったり飾るスペースがないのが理由で、内裏雛のみ、内裏雛と三人官女のみの簡素化されたセットが主流になります。

雛祭りが終わっても雛人形を片付けずにいると婚期が遅れると云うのは昭和初期に作られた俗説で、旧暦の3月3日は梅雨が間近で、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるのが理由だったとされます。

雛人形の生産地は関東地方に集中していて、さいたま市岩槻区鴻巣市が有名で、佐野市にも小規模ながら存在します。全国の商業施設で販売されていますが、集中して軒を連ねるのは人形の問屋街の東京都浅草橋駅周辺で「吉徳大光」「人形の久月」「秀月」といった専門店があります。

江戸時代には雛祭りは「五節句」の「祝日」でした。1873年の新暦採用で「五節句」の祝日が廃止され、戦後の新たな祝日制定にあたっては5月5日端午の節句が「こどもの日」となりました。

雛壇の上に数多くのに「吊るし雛」を飾る。山梨県甲州市甘草屋敷

鴻巣雛を巨大な「ピラミッドひな壇」に飾る。埼玉県鴻巣市

百段階段でひなまつり 」茨城県久慈郡大子町十二所神社参道

「端午」(たんご)も五節句の一つで、端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれます。旧暦の5月5日に男子の健やかな成長を祈願して各種の行事を行いましたが、現在では新暦5月5日が「こどもの日」の祝日になっています。

宮中の行事については奈良時代に記述があり、菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い、天皇から「薬玉」(くすだま 薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜り、貴族社会では薬玉をお互いに贈りあう習慣があったそうです。

鎌倉時代からは「菖蒲」が「尚武」と同じ読みで、菖蒲の葉が剣を連想させることから端午は男子の節句になりましたが、それ以前の旧暦の5月5日は女性の仕事だった田植えの真っ最中で、田植えを1日休むことの出来る女性の休日だったと云います。

、武者人形や金太郎武蔵坊弁慶を模した五月人形を室内の飾り段に飾り、庭前に「こいのぼり」を立てるのが典型的な端午の節句の祝い方ですが、鯉のぼりが広まったのは江戸時代になってからです。

江戸時代まで端午の日に子供が河原などで石合戦をする「印地打ち」の風習がありましたが、負傷や死亡が相次いだために禁止され、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行しました。

端午の日には柏餅を食べますが、は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まりました。男子の初節句が盛大に祝われることも多く、親族総出で祝うこともあります。

5月5日にちまきを食べるのは、中国の楚の詩人屈原汨羅江(べきらこう)に身を投げた命日に、彼を慕う人々がちまきを投げ入れて供養したのが由来とされます。

「五節句」は中国から伝わり、我が国の宮中行事などが合わさったもので、江戸時代初期に幕府が人日(じんじつ)正月7日、上巳(じょうし)3月3日、端午(たんご)5月5日、七夕(しちせき)7月7日、重陽(ちょうよう)9月9日を「式日」と定めました。明治時代に新暦に代わって旧暦の「五節句」の祝日は廃止されましたが、この風習が現在まで続いているものです。

上巳は祝日ではなくなりましたが、女児がいる家庭では新暦3月3日を雛祭りとしてお雛様を飾ります。近年の住宅事情から段飾りのお雛様を飾るのは難しく、内裏雛だけが飾られることが多いようです。

雛人形はもはや嫁入り道具ではなくなり、女子が誕生すると両親が健やかな成長を祈って買い求めているのが現状でしょう。雛祭りは女子のための行事ですが、白酒は子どもに飲めるものではなく、菱餅も雛あられも子供が好むものではなさそうです。

端午は「こどもの日」の祝日になりましたが、5月5日は今でも男子の節句です。田園地帯で「鯉のぼり」のひらめくのが見られるのは嬉しいことですが、大家族主義の習慣が残っている地方では初節句を祝う催しも続いています。

都市中心部では鯉のぼりを立てる空間はありませんし、ゴールデンウィークの大型連休には家族旅行に行くことが多く、どこの家庭でも5月5日が「こどもの日」として特別に意識されることが少なくなりました。柏餅は食べても、ちまきまでは念頭になく、菖蒲湯に入ることもないようです。

近年の傾向として江戸時代から始まった「七五三」や1949年(昭和24年)に祝日に制定された「成人の日」が、社会的にお祝いとして強く意識されているようですが、どちらも商業主義の格好の標的になっている感は否めません。

お雛祭りも端午の節句も地味な存在にはなりましたが、子ども達の健やかな成長を祝う伝統に裏付けられた行事として、これからも続いていって欲しいものです。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする