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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ガダルカナル島の戦い

2020-08-20 06:31:10 | 日記

「ガダルカナル島の戦い」は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)年8月から半年に渡って日本軍連合国軍が繰り広げた西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島争奪戦です。1943年2月日本軍がガ島から撤退し連合国軍は対日反攻作戦の第一歩で勝利しました。

ラバウルはニューブリテン島にあります

1941年12月真珠湾攻撃、マレー半島上陸作戦、フィリピン航空撃滅戦で始まった太平洋戦争は予想以上に日本軍に有利に展開し、1942年に入ると米豪分断作戦としてニューギニアポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)、ニューカレドニアフィジーサモアの攻略作戦(FS作戦)が策定され、ミッドウェー攻略作戦(MI作戦)後の7月に予定されました。

ミッドウェーは北西ハワイ諸島の端にある環礁ですが、6月4日に行われたミッドウェー海戦では暗号を米軍に解読され待ち伏せされた連合艦隊が、主力空母4隻を失う惨敗を喫し、MI作戦、FS作戦も中止せざるを得なくなりました。

しかし日本海軍は米豪分断を諦めず、ニューブリテン島のラバウル以南に基地航空隊を進出させるため、ガ島に飛行場を建設1942年8月5日に滑走路の第1期工事が完了しました。

ミッドウェー海戦に勝利して意気が上り、対日反攻作戦の第一段階として海軍のキング大将がサンタクルーズ諸島、ツラギ、その周辺島嶼の占領、陸軍マッカーサー大将がラバウル攻略を主張していましたが、海軍案にまとまり7月2日ウォッチタワー作戦が発令されました。

作戦開始日は8月1日の予定でしたが、7月4日に米軍偵察機が日本軍のガ島飛行場建設を発見したことから延期され、飛行場占領を最優先に8月7日早朝アメリカ海兵隊主体の10,900名がガ島テナル川東岸に上陸しました。大本営は連合国軍の反攻を1943年と想定していたので完全な奇襲になりました。

ルンガ川東岸の第11設営隊1,350名は敵兵力の把握も出来ないまま駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯が占領されました。第13設営隊長岡村徳長少佐は1,200人の設営隊員をルンガ川西岸地区に移動してルンガ川橋梁を破壊し、同日夕方第11設営隊隊長門前鼎大佐が数十名の部下と加わって、ルンガより4km西方にあるマタニカウ川西岸に防衛線を敷きます。

日本海軍はラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17計53機)と第8艦隊重巡5、軽巡2、駆逐艦1)で反撃し、陸軍のグアム島にいた一木支隊、パラオ諸島にいた川口支隊をガ島に投入することになりました。

7日と8日の攻撃で25航戦は34機を失う大被害を出しましたが、米空母が進出している貴重な情報を得、8日夜第8艦隊は連合国軍艦隊と第一次ソロモン海戦がおきます。

重巡4隻を撃沈、1隻を大破する大戦果を挙げましたが、本来の目的であった米輸送船団攻撃の意図が第8艦隊には徹底しておらず、凱歌を挙げて米輸送船団への攻撃を行わずに戦闘範囲から離脱し、離脱後警戒を解いたところで重巡加古が米潜水艦の雷撃で沈没しました。揚陸作業を中断して輸送船団を一旦退避させていた連合国軍は重火器を含む大量の物資の揚陸に成功し、後のガ島の戦いの帰趨が決定的になります。

一木清直大佐率いる一木支隊の第1梯団は駆逐艦6隻に分乗して18日にガ島のタイボ岬に上陸しましたが、実質は1個大隊の戦力しかありませんでした。大本営は当初連合国軍の本格的上陸と考えましたが、上空からの偵察で輸送船団を発見できず、一木支隊に届いたのは「連合軍兵力は2,000名、上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」と云う誤認情報でした。

19日第5海兵連隊のL中隊がマタニカウ川を渡河しましたが、日本軍は激しく抗戦して日本の狙撃兵に米軍の指揮官が次々と倒されます。日本軍の退路を遮断するためにI中隊がククムから西のコクンボナに上陸し、日本軍は後退しますが海兵隊にも追撃する余力はありませんでした。

ガ島に上陸した一木支隊は一路西を目指します。一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵の防御陣地があるとは想定しておらず、他方海兵隊は19日に倒した日本軍斥候階級章から、タイボ岬に上陸したのが陸軍部隊であることを知って20日夕刻までに防備を固めていました。

20日夕方イル川を越えて先行した一木支隊の将校斥候34名中31名が戦死し、2時間後に生還した兵から報告を受けた一木大佐は各中隊に即攻撃を命じました。9時頃尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ銃砲撃を受け、立ち往生しているところに支隊本部が合流します。

10時半一木隊長はイル川渡河を決めましたが、強力な砲兵に援護された機関銃座を前に100名余の損害を出し攻撃を一旦停止します。敵兵力が10,900人の大軍であることを知らない一木大佐は、1時間後に再び白兵攻撃を命じ200名を越す損害を出しました。

翌21日夜明けとともに敵機が上空を舞い、海兵隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つ迂回攻撃を仕掛け、午後からは戦車を投入したため一木支隊は壊滅しました。8月25日までに生きてタイボ岬まで戻ったのは916名中126名でした。

一木支隊の行動概要図

戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられていたため、一木支隊の残存兵は飢餓に悩まされました。輸送船で横須賀第5特別陸戦隊とともに送り込まれた一木支隊第2梯団は20日のイル川渡河戦には間に合っていません。

米軍が占領後「ヘンダーソン」と名付けた飛行場が20日から機能し始め、後に空母エンタープライズサラトガワスプの艦載機も、母艦が損傷して使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃しました。

20日に敵機動部隊を発見した連合艦隊は川口支隊の船団輸送を中止し、トラック島の機動部隊(空母翔鶴、瑞鶴、龍驤)に出撃を命じ、23日から24日に第二次ソロモン海戦が戦われます。

日米両軍とも空母戦力に大きな被害を出しましたが、米軍は護衛空母ロング・アイランドがヘンダーソン飛行場への航空機の送り込みに成功して基地航空隊の動きが活発化、一木支隊第2梯団の輸送船団は空からの攻撃で輸送船1隻、駆逐艦1隻を失いショートランド泊地へ退避、川口支隊の輸送は駆逐艦と舟艇になりました。

9月7日までに川口支隊と一木支隊の第2梯団がガ島に上陸しますが「出迎えた一木先遣隊の生き残りは、痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって食うものをと手を出し、米をやるとナマのままかじる状態」でした。10月中旬に上陸した第2師団も「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」の兵に迎えられ、最後に上陸した第38師団も同様の経験を語っています。

川口支隊はヘンダーソン飛行場の背後に迂回して飛行場を攻撃する作戦を立てましたが、険しい山岳地形の密林を工兵部隊がつるはしとスコップで開いた啓開路では、重火器や砲弾の運搬は不可能でした。

12日午後8時に米軍陣地に総攻撃を行う手はずでしたが、夕方までに攻撃位置に着けたのは一部で、第一次総攻撃が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてです。

60隻の小型舟艇に分乗してガ島に向かった川口支隊の別働隊1,000名は、空襲や故障でばらばらになって、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着き、総攻撃には間に合いませんでした。

川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火で前進を阻まれて戦いに至らず、中央隊の青葉大隊の一部が国生大隊と合流して米軍の第一線を突破し、1個中隊がヘンダーソン飛行場南端を確保しましたが混戦のすえ敗走します。

この戦闘で激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけで、川口支隊の戦死者・行方不明者は700名、再起を期してアウステン山からマタニカウ川西岸に5,000名が留まりましたが食料・弾薬の不足が深刻化し、ガ島は「餓島」の様相を呈します。23日から27日の間に米軍はマタニカウ川東岸に駐屯する川口部隊に逆上陸を含む6度の攻撃をかけますが、多数の損害を出し後退しました。

10月初旬百武晴吉中将以下の第17軍戦闘司令部がガ島へ進出し、飛行場を挟んで川口支隊とは反対側の西側に上陸して飛行場を占領すべく、第2師団が派遣されました。海軍は戦艦、巡洋艦のヘンダーソン飛行場への艦砲射撃で支援し、米空母の出撃に備えて第3艦隊(空母翔鶴、瑞鶴)がガダルカナル島北方海域に進出しました。

10月中旬に日本軍はガ島に増援の歩兵と武器、食糧を送り込みますが、米海兵隊はヘンダーソンとは別に小規模の戦闘機用の滑走路を完成させていて、日本軍はそれを知らずガ島周辺の制空権を確保できませんでした。

10月26日の南太平洋海戦で日本軍は多数の航空機搭乗員を失いましたが、敵空母1隻を撃沈、同1隻中破の戦果を挙げ、一時的には米艦隊が展開する空母が無くなります。この報告で第38師団1万名の輸送が決りました。

11月10日第38師団先遣隊が上陸し14日に主力の輸送が開始され、制海権の確保と飛行場砲撃のために戦艦2隻を含む第11戦隊が派遣され、第三次ソロモン海戦が起きます。

日本海軍は戦艦2隻を失い、飛行場の砲撃も効果を挙げえず、輸送船団は米軍機の空襲で11隻中6隻が沈没、1隻が中破離脱し、強行突入した4隻は岸辺に乗り上げたのち攻撃を受けてすべて炎上、揚陸した兵器・弾薬・食糧も焼失しました。

最終的に揚陸された兵力は2,000名、少量の弾薬と食糧4日分でした。ガ島の兵力は数字上3万名に達しましたが、伝染病や餓死寸前の兵が大半で戦闘可能兵員は8,000名程度でした。

低速の輸送船はガダルカナルに近づくことができず、駆逐艦による「鼠輸送」も3か月間に10数隻が撃沈され、潜水艦による輸送まで試みられましたが、搭載力が小さく成功しても効果は微々たるものでした。

ガ島ではほとんどの部隊で陣地を「守る」のは立つこともできない傷病兵で、何とか歩ける兵が食糧の搬送に当たり、やっと手に入れた米を担いだまま体力を失って絶命する兵もいれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵も現れたと云われます。餓島の悲惨な状況は報道班員の手記や新聞記事で当時から結構国民に知られていました。

12月31日の御前会議でガ島からの撤退が決り、1943年2月1日から7日に撤兵が行われ、身動きの出来ない傷病兵のやむを得ない「自決」か「処分」が大規模に行われました。ガ島だけでなく、1941年東條英機陸相が示達した戦陣訓の「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」が、第二次世界大戦中多くの軍人の玉砕や民間人の自決を決定づけたのは確かでしょう。

日本軍のガ島上陸総兵力は31,404名、撤退できたのは10,652名、それ以前に負傷し後送されたのが740名で、戦闘での戦死者は5,000名で、15,000名は餓死か戦病死と推定されています。米軍の損害は戦死1,598名、戦傷4,709名でした。

太平洋戦争の攻守が逆転したのは、空母4隻を失ったミッドウェー海戦と云うのが定説ですが、実はそれに先立つ珊瑚海海戦がミッドウェーの敗戦に大きな影響を与えています。

珊瑚海海戦はMO作戦の一環で、空母の機動部隊をソロモン諸島の東側から、陸軍の攻略部隊をラバウルから珊瑚海に侵入させ、これを阻止しようとした米軍が空母2隻の機動部隊を送りこみ、史上初の空母機動部隊同士の決戦が行われました。
5月7日両軍とも索敵の不手際で日本軍は米軍のタンカーネオショー」を空母と間違えて攻撃、米軍は攻略部隊の護衛についた小型空母祥鳳翔鶴型航空母艦と間違えて攻撃し、撃沈しました。日本軍は敵空母2隻に薄暮攻撃をかけましたが戦果は挙げられず、帰還したのは27機中6機でした。
翌8日は両軍ともほぼ同時刻に索敵機が敵空母を発見、両軍の攻撃部隊は途中ですれ違いましたが互いに無視して敵空母攻撃に向かいます。瑞鶴がスコールに隠れたため米機の攻撃は翔鶴に集中、翔鶴は中破して北へ離脱、瑞鶴は無傷でしたが艦載機の損耗が激しく、敵空母2隻を撃沈したと誤認して北へ離脱しました。レキシントンとヨークタウンは中破で、レキシントンは漏れ出たガソリンに引火・炎上したため、米駆逐艦に雷撃処分されます。

炎上する米空母レキシントン

日本側発表の戦果は「サラトガ型・ヨークタウン型空母各1隻撃沈・戦艦2隻撃沈破、わがほう小型空母1沈没、飛行機31機未帰還」で、大本営発表はこの海戦から戦果の水増しが始まります。

過大戦果の発表や自軍損害の秘匿は連合軍側も同じで、米海軍省は「日本艦艇撃沈確実25隻、撃沈おおむね確実5隻、撃沈やや確実4隻」と発表しています。

実際の損害は連合国軍が空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスの沈没、空母ヨークタウンの損傷、航空機69機の喪失で、日本軍は空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島の損傷、航空機97機の喪失でした。

瑞鶴は無傷でしたが艦載機を喪失し、翔鶴は修理に3か月が必要で、両艦ともミッドウェー作戦に参加できず、第一航空艦隊は三分の一の戦力を失ってミッドウェー作戦に臨むことになりました。

連合艦隊の総力を挙げたミッドウェー海戦の損害は、正規空母の赤城加賀蒼龍飛龍と重巡三隈の沈没。重巡最上、駆逐艦荒潮損傷、艦載機289機喪失でした。米軍は空母ヨークタウン、駆逐艦ハムマンの沈没、基地航空隊を含めて約150機を喪失しました。

6月10日の大本営発表は「空母エンタープライズ型1隻、ホーネット型1隻撃沈。米軍機120機撃墜。日本軍損害 空母1隻喪失、巡洋艦1隻大破、35機喪失」で、18日に「空母1隻撃沈を取り消し、大破認定。巡洋艦1隻、潜水艦1隻撃沈」と訂正しましたが、空母4隻を失った事実は長く厳重に秘匿されました。

第二次世界大戦の我が国の戦没者は310万人です。軍人軍属の戦没者は230万人ですが、その過半数は戦死ではなく餓死です。ガ島でなくても熱帯のジャングルで食糧の調達ができず、補給もされず、餓死者と栄養失調で体力を消耗しマラリア、アメーバ赤痢などで死んだ病死者数が、戦死者数を上回ったのです。これが大東亜戦争の現実です。

餓島で敗北を喫した後の1943年2月9日の大本営発表は「ソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年8月以降引続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘克く敵戦力を撃砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」でした。

列強諸国の帝国主義の最終結末として我が国が太平洋戦争に突入した歴史の必然性を私は必ずしも否定しませんが、「負ける戦いは何としても避ける」と云う孫子の兵法の神髄を実践する余地はあったと考える立場です。大本営発表には、日本国民を総力戦に引き込み310万の犠牲者を出しながら、真実を伝えなかった責任が問われるべきでしょう。

 


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支那事変

2020-08-06 06:17:21 | 日記

「支那事変」は1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)までの大日本帝国中華民国の戦争を指します。なぜ「日中戦争」ではなく支那事変だったのかは、当初、両とも宣戦布告をしなかったからです。

北支での事件に端を発して中支から中国全土へと戦線が拡大しましたが、中国は宣戦布告をすると第三に中立義務が生じてそれまで受けていた支援が受けられなくなるために、日本際的な孤立を招くのを避けるために、両者とも宣戦布告をしませんでした。

1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まり、中国は12月10日に日本に宣戦布告し、日本は12月12日東条英機内閣の閣議決定で支那事変を「大東亞戰爭」に含めました。日中戦争は1945年日本が降伏するまで8年間続いたのです。

日中戦争の発端となった北京郊外のになぜ日本軍が駐留していたのかは、中国がアヘン戦争以来列強諸国から国の主権を侵害されていて、外国軍隊の駐兵権を認めていたからです。

18世紀末英国は清国から茶、陶磁器を大量に輸入して大幅な輸入超過になり、その対策として清が禁じているアヘンを大量に密輸し、貿易収支を逆転させて清の銀が枯渇しました。

清の道光帝は1838年林則徐に密輸の取り締まりを命じ、林則徐は1839年3月に英国商人の総量1,400tを超えるアヘンを没収して処分しました。怒った英国は1840年8月に軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸兵4,000名を清に向かわせ、沿岸地域を占領しながら首都北京に近い天津沖まで英国艦隊が北上したのがアヘン戦争です。

驚いた道光帝は1841年1月に広東貿易の早期再開、香港割譲、賠償金600万ドルの川鼻条約を締結し、1842年8月南京条約で従来の広東福建浙江の3港に福州上海を加えた5港を自由貿易港とし、多額の賠償金を支払い、香港割譲に合意しました。さらに1843年の虎門寨追加条約で治外法権、関税自主権の放棄、英国の最恵国待遇の承認が決まります。

英国はアヘン戦争に勝利しましたが交易上のメリットが得られなかったのが不満で、1856年から1860年にかけて第二のアヘン戦争と云われるアロー戦争を起し、英仏連合軍が1860年北京を占領しました。天津条約が結ばれましたが清が1年以内に行うべき批准を拒んだため、英仏軍は再び天津に上陸して北京を占領します。

ロシアの仲介で北京条約が結ばれて九龍半島南端が英国へ割譲され、ロシアと清の間にも仲介を口実に新たな条約が締結されました。1898年の展拓香港界址専条で99年間の英国の新海租借が決まります。

これにより「扶清滅洋」を叫ぶ義和団排外運動が展開されます。清の西太后がこの運動を支持し1900年に欧米列国に宣戦布告しました。北京の公使館員や居留民保護のために8か国連合軍が北京に進出し、大日本帝国も連合軍最大の8,000名の兵力を投入しました。

北京議定書での賠償金額は過酷で、当時の清朝の歳入が8,800万両であったのに賠償金の総額は利息を含めて9億8,000万両に上りました。北京、天津への外国の駐兵権を認めさせ、大日本帝国も北京と天津に清国駐屯軍を常駐させます。盧溝橋事件の際に日本陸軍が北京周辺にいたのは、この時に認めさせた駐兵権によります。

20世紀は列強各帝国義の絶頂期で、清も植民地化の対象でした。1911年清朝政府が外国資本を財源とした鉄道国有化政策を打ち出すと、民衆の反対運動が起こって四川暴動となり、政府軍の蜂起が武昌で起こり長沙、西安、上海へと広がり、清朝からの独立と共和制国家樹立を宣言したのが「辛亥革命」です。1912年1月蜂起軍は孫文を臨時大総統に選び「中華民国」が誕生しました。

1912年2月に清朝の内閣総理大臣袁世凱宣統帝を退位させ、皇帝を退位させた功績で孫文に臨時大総統の移譲を迫り3月に実現しました。1915年に袁世凱は側近の楊度に自らの皇帝即位運動をさせて帝政を復活し、1916年に年号を洪憲と定め国号を「中華帝国」に改めましたが、国中から非難を受け3月に帝政を廃し失意のうちに病死しました。

中国は軍閥が入り乱れて覇を競い合う状態になり、1926年から1928年にかけて第一次国共合作による国民革命軍が北京軍閥打倒のために起こした内戦が「北伐」です。前年に死去した孫文の遺志を継いだ蔣介石は、1926年7月反帝国主義や売国軍閥の打倒と人民の統一政府の建設を掲げて、10万の国民革命軍総司令として北伐を開始しました。

北伐軍は各地で軍閥軍を撃破し武漢・南昌・福州・杭州・南京を落とし、1926年3月上海に達しました。北伐に呼応して各地で民衆が蜂起します。民衆の社会主義への傾斜を恐れた蔣介石は上海クーデターを起こして共産党勢力に大弾圧を加え、第一次国共合作は崩壊しました。
上海クーデターで中断された北伐は1928年4月に再開されて北伐軍が北京に迫ると、日本は居留民保護を名目に度々山東出兵を行います。5月には山東省済南で北伐軍と日本軍が衝突し済南事件が起こりますが、蔣介石は日本との全面対決を避け迂回して北京に向かいました。

北伐軍は反軍閥、反帝国主義という本来の志向から外れ、南京政府による全国統一という権力闘争に転じました。国民革命軍も直隷派軍閥の馮玉祥、山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宋仁らの軍閥混成軍に過ぎなかったのです。

北京の張作霖軍と呉佩孚、孫伝芳らの軍閥軍に戦闘意欲はなく、6月3日に張作霖が北京を脱出し6月8日北伐軍が北京に無血入城し、6月15日南京政府が全国統一を宣言しました。一方北京を脱出した張作霖は6月4日に関東軍によって謀殺され、関東軍は一気に満州の実効支配を目論みます。

1930年代の中国は国民政府と中国共産党の内戦、日本の軍事的侵略が本格化します。1931年関東軍の謀略によって満州事変が勃発し満州全域を占領、1932年「満州国」を誕生させますが、日本際的非難を浴びて1933年国際連盟から脱退するに至りました。

共内戦では1933年国民党軍が共産党軍を壊滅寸前まで追いつめ、共産党軍は長征に出ます。1934年10月に江西省を出発して翌1935年10月に陝西省に到るまでの「2万5千里の長征」で、長征の途中1935年1月にそれまでのコミンテルン指導体制に代って毛沢東の指導権が確立しました。長征は中国共産党の偉大な歴史として語り継がれていますが、その実は国民党軍の攻撃を受けての苦難の敗退で、8万6千の兵力が最後には8千に減少したと云われます。

共産党は同年10月の八・一宣言で、国民政府に対し抗日民族統一戦線を呼びかけました。1936年12月張作霖の子の張学良蔣介石を監禁し国共内戦の停止を同意させた西安事件が起こります。抗日民族統一戦線結成の端緒となり1937年の支那事変のはじまりと共に第二次国共合作が成立しました。

1937年7月の事件では日本政府は不拡大方針を明し、中華民国政府も事件の沈静化を求めて停戦協定を申し出ていますが、共産党は対日戦争を呼びかけ、国民党軍も日本に対する武行使を決めました。

国民党軍は北京及び天津の電線切断作戦を展開し、修理に訪れた日本軍を襲撃する郎坊事件を起こします。日本軍修理した電線で援軍を要請し、翌日日本軍戦闘機国民党地を襲し、地を占領しました。その後北京近郊で在留邦人230人が虐殺される通州事件が起こると、日本国内世論は暴戻支那膺懲を唱えました。
事件前から上海では日本軍国民党軍との間で険悪な空気が漂っていて、1936年4月には中華民国駐在のドイツ軍事顧問団ファルケンハウゼンが蒋介石に対日開戦を進言、国民党軍は1936年末には上海停戦協定を破って上海の非武装地帯で地を構築し、ドイツ軍事顧問団から訓練を受けてドイツ製の武器を装備した精鋭部隊を配備していました。

1937年7月北支で事変が起こると日本海軍軍人撃事件、日本海軍拉致事件が発生し、8月12日国民党軍 3万が上海内の際共同租界の日本人地区を包囲し、4千の日本軍陸戦隊は陸軍に増援を要請します。

13日に中国側の撃で戦闘が開始され、陸戦隊は応戦しましたが積極的な攻勢には出ませんでした。15日には撃も始まり、日本政府も不拡大方針を撤回して航空隊による渡洋爆撃を敢行、日本各地の特別陸戦隊上海派遣しました。

8月23日日本陸軍上海派遣軍2個師団が上陸し攻勢に出ます。10月上海ほぼ日本軍が制圧しましたが一部の地は突破できず、11月日本軍広州湾に上陸すると国民党軍は一斉に退却を開始します。現地の日本軍が追撃に移り、大本営も期解決を求めて追撃を容認、首都攻略戦を許可しました。

12月日本軍が南への攻撃を開始すると蒋介石率いる中華民国部は南京から逃げ出し、降伏勧告が視されて日本軍による総攻撃が始まり南内に突入しました。

日本国内では南陥落を祝う提行列が行われ、蒋介石首都重慶へ移して徹底抗戦の構えを見せますが、共産党毛沢東は南陥落の報を受けて祝杯を上げたと云われます。

国民党軍の殲滅に至らなかった日本軍は、徐州にが集結しているとの情報で徐州へ向かいますが国民党軍は退却し、蒋介石日本軍の進撃を遅らせるために河の防を破壊するよう命じます。

日本軍の進撃は止まって殲滅を免れたものの、黄河の氾濫は河南省安徽省江蘇省にまたがる54,000㎢の領域に及んで、自国民の死者は100万人とも云われますが、国民党軍は日本軍が堤防破壊したと非難しました。

1945年8月の日本降伏に至るまで、日本軍は中国を点(都市)と線(鉄道)で抑えていました。我が国が鬼畜米英と唱えたように日本は東洋鬼(とんやんくい)と呼ばれていましたが、当時北京にいた少年の私が知ることが出来た中国人の本音は、かつて中国を支配した元や清の異民族王朝が滅びたように、今は日本が占領していてもいずれ漢民族の世に戻ると云う悠然たるものでした。1945年8月の日本の敗戦後も中国軍単独では日本軍の武装解除は出来ず、北支の日本軍の武装解除は米軍が国民党軍を空輸してようやく始まりました。
清は20世紀の欧米列強の帝国義の絶頂期に、正に、植民地状態にされましたが、欧米列強に劣らず大日本帝国も第一次世界大戦勃発の翌年1915年(大正4年)1月、清朝を倒した袁世凱政府に対しドイツの山東省権益の継承と日露戦争で得た日本の権益の拡大を求めて「対華21か条要求」を突き付けています。

第1号から第4号は山東省のドイツ権益の日本による継承、南満州・内モンゴル権益の期限延長、漢冶萍公司の日中共同経営、中国沿岸部の外国への不割譲でしたが、第5号では政治・財政・軍事面で中国政府が日本人顧問を雇用することを求めていました。

秘密条項だった第5号がリークされて日本は国際的非難を受け、第5号を削除した最後通牒を5月9日中国が受諾し、山東省に関する条約、南満州及び内蒙古に関する条約が締結されましたが、正に大日本帝国の侵略主義を象徴する要求でした。

日米開戦の前年1940年第二次近衛文麿内閣は「基本国策要綱」に「大東亜共栄圏」構想を掲げます。欧米勢力をアジアから排除して日本・満州国中華民国を中軸とし、英領インド帝国までを含む広域の政治的、経済的共存共栄を図る構想でした。

1940年(昭和15年)は皇紀2千6百年に当たり、我が国の中国、東南アジアへの侵略を正当化する理由として、日本書紀にある神武天皇の「八紘一宇」を基本国策要領に盛り込んだものです。

第二次大戦後にアジアの国々が欧米の植民地から脱したきっかけにはなりましたが、「大東亜共栄圏の建設、ひいては世界万国を日本天皇の御稜威の下に統合し、おのおのの国をしてそのところを得しめる」と云う大日本帝国の野望が万国に受け入れられる筈はなく、大東亜戦争の敗戦によって大日本帝国の思い上がりが正されたのは、世界史の観点からは当然の帰結でしょう。

 


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