シベリア抑留は第二次世界大戦後にソ連によって武装解除された日本軍人が、主にシベリアへ労働力として移送され、長期にわたる抑留と強制労働によって多数の人的被害を生じたものです。
舞鶴港に上陸するシベリア抑留帰還者
抑留された捕虜の総数は作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名と考えられましたが、65万人が定説です。厳寒の下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要されて5万8千人が死亡し、死亡者個人が特定されているのは2019年12月時点で4万1,362人です。
このソ連の行為は武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものですが、シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月「日本人の送還問題は既に完了したと考える」と発表しました。
1945年(昭和20年)8月9日未明ソ連は、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、満州との国境に展開する174万のソ連極東軍が、満州および朝鮮半島北部に侵攻しました。8月10日にはモンゴル人民共和国も日本に宣戦布告し、日本は8月14日に降伏を声明しましたが、ソ連は8月16日に南樺太、18日に千島列島へ侵攻して占領しました。
当時非公開であったアメリカとソ連のヤルタ秘密協定では、ソ連の対日参戦への見返りとして、ソ連に南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州での旅順租借権の回復と大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が約束されていました。
8月16日大本営から即時停戦命令が出され、19日に関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が停戦交渉に入り、26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わりました。
停戦会談では在留民間人の保護についての交渉が成立しましたが、実際には日本軍崩壊後に民間人はまったく何の保護も得られず、多くの被害が出ました。軍人の捕虜については言及されていません。
スターリンは8月16日に日本軍捕虜を労働力には用いない命令を出しましたが、23日にこれを翻し、日本軍捕虜50万人をソ連内へ移送して強制労働を行わせる命令に代えました。日本軍は8月下旬までに武装解除され、既に離隊していた人たちも連行されます。
第二次世界大戦の欧州でのソ連の捕虜の扱いは極めて残酷で、ポーランド侵攻以降に獲得した各国の捕虜は389万9,397人に及びますが、1949年1月1日の段階で56万9,115人が死亡し、54万2,576人が抑留されたまま。独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は特に高く、スターリングラード攻防戦での捕虜は6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人でした。
日本人捕虜は満州の産業施設にあった工作機械を撤去してソ連に搬入する作業に使役された後、ソ連領内に移送されました。日本軍将兵のみならず、在満民間人、満蒙開拓移民団の男性も続々とハバロフスクに集められ、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成し、貨車に詰め込みました。
ソ連兵は「ダモイ」(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せましたが、日没の方向から西へ向かっていることが分かり、捕虜たちは絶望しました。一説には70万人ほどが移送されたと云われ、ロシア国立軍事公文書館には76万人分に相当する資料が収蔵されています。
移送先はシベリア以外に、中央アジア、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連領内各地のほか、モンゴル人民共和国にも送り込まれました。
シベリア抑留では過酷で劣悪な環境と強制労働で、抑留者の1割に当たる約6万人の死亡者を出しましたが、日本共産党の隠れ党員だった捕虜が大手を振って立ち回り、農村出身者が多い兵卒や下士官の中には、定期的に施された共産主義教育に感化されて熱心な共産主義者になり「民主運動」を行った者も多く、革命思想を持たない捕虜を「反動」と呼んで、執拗な吊し上げや露骨な暴行を働きました。
日本政府が、関東軍の軍人がシベリアに連行されて、強制労働をさせられている情報を把握したのは、1945年(昭和20年)11月です。翌1946年日本政府の要請でGHQとソ連との間で引揚げ交渉がようやく開始され、同年12月19日「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立しました。
結果として1947年から1956年にかけて47万3千人のシベリア抑留者の日本への帰国が実現しましたが、ソ連政府は1949年(昭和24年)5月20日の時点で「本年5月から11月までで全員引き上げるだろう」と発表し、その数を9万5千人としました。この当時GHQと日本政府が把握していた抑留者数40万8,700人と大きく食い違っていました。
シベリア抑留の初期には我が国の旧軍制度がそのまま持ち込まれ、旧軍の階級的な身分差別と将校特権が大手を振ってまかり通り、下級兵士は「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重苦にあえぎ、将校は国際法によって捕虜労働を免除されています。
将校は旧軍時代と同様に軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを求め、配給食料のピンハネを行い、作業現場では兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督と化したと云われますが、一方で階級章をはぎ取られ兵士と同じ苦しみを受けた将校もいたようです。
日々が地獄のようだった「シベリア抑留」について、我が国の抑留者が総括的な記録を残せる筈はなく、ソ連の提示した概要は明らかに実態を示すものではないので、個人の体験談を綴り合わせる以外シベリア抑留の真実を知ることはできません。
私自身が接したことのある抑留者は2人です。最初の人は昭和25年に戦後ようやく父親が我が家を建てた時に、工事に来ていた左官屋さんでした。ソ連とともに日本に宣戦布告したモンゴルの首都ウランバートルに移送され、旧来の蒙古のパオの集落に代わるソ連式の現代的大都市建設工事に携わり、本職でなければできない左官技術が高く評価されてモンゴル人から大事にされたようで、当時を懐かしむ様子をさりげなく聞かせてくれた大変運のいい人でした。
もう1人は昭和26年に帰国して未だ日が浅く、栄養失調が明らかに目に見える状態で職探しに父親を訪ねてきた人で、最も死亡率の高かったシベリヤ残留組の一人でした。酷寒の中栄養失調で木材の切り出しに従事し、強烈な共産主義教育を受けました。
何とか死なずにみんなで帰国の日を迎えようと、人々をまとめるのに精一杯の努力を払ったことが重い口からよく分かりましたが、話している間も絶えず全身で周囲に気を配っている様子で、シベリアではこんな風にして毎日生きてきたのかと心が痛んだ印象が強く残っています。
今にして思えば昭和24年の下山事件や三鷹事件など、後に裁判で無罪となった共産党員が大量に検挙され、シベリア帰国者に対しても赤狩りが行われていたようですから、それが異様な緊張を伴う周囲への気配りに繋がっていたのかも知れません。
抑留された日本人57万5千人のうち死者数は5万5千人とされていますが、この人数については戦後70年以上経った現在もまだ正確な数字が分かっていません。集団帰国最終の1956年までに帰還した抑留者は47万人です。
中島裕さんは陸軍特別幹部候補生で、満州でソ連軍に武装解除され、10月に敦化から牡丹江まで250キロを徒歩で移動し、牡丹江郊外の掖河でソ連へ搬送する物資の積載作業に従事、11月にシベリアの収容所に移されました。
列車に乗せられて2週間あまりの11月18日、中島さんたちを乗せた列車はイルクーツク州に着き、タイシェットから46キロの第5収容所に到着、車外に出された途端、氷のような風が頬に突き刺さりました。
ラーゲリ(捕虜収容所)はシベリアを中心にソ連全土で約2,000か所に及んだと云われますが、第5収容所は後のソ連側の調査で最も死亡率が高かかったラーゲリで、冬の-40℃は当たり前、寒さの一番厳しい場所でした。
シベリア抑留地
2段の寝棚を持つ木造の宿舎に収容され、白樺の皮や短冊状に切った枝に昼夜火を灯していましたが、明るいのは火の周りだけ、ほとんど真っ暗闇でした。最初の日床につくと15分もしないうちに猛烈なかゆみに襲われ、南京虫のせいで、一晩中、ほとんど寝られませんでした。
水が貴重で、ソ連兵たちはコップ1杯の水で口をゆすぎ、少しずつ口から水を出してそのまま顔を拭いていて、それをまねるようになりました。風呂は年に数回。5リットルぐらいのお湯を桶にもらって体を洗い、2杯目で洗い流すといった具合でした。
当初はラーゲリから3キロ程のところで木材を伐採し、トラックへ積載する作業で、斧で3分の1切った後に、反対側から2人用のノコギリで切って行くものでしたが、2人1組で1日3本がノルマでした。
伐採作業
ソ連軍から支給された服や靴は-30℃までしか寒さに耐えられないもので、-40℃以下に冷えるとさすがに休息日になりました。切り倒した丸太をトラックへ積み込むのに地面が凍っていて、丸太と一緒に滑って下敷きになる死亡事故がよく発生しました。
地域の作業が終わる度に現場は遠のいて、朝夕の移動も大変になり、その道中、隊列を乱したり遅れたりすると、監視兵に蹴り飛ばされたり銃床で殴られたりされ、現場監督にムチを振るわれました。
与えられた食事は、過酷な労働で命を維持することができないほど僅かで粗末でした。朝食はライ麦が原料の黒パン一切れと、親指大の青いトマトが入った塩のスープ。昼は精白していないコーリャンの「カーシャ」(雑炊)がつきますが、飯盒の蓋に入る程しかありません。夜はえん麦のカーシャ、形のない魚や肉が入っていました。
食事の時間ごとに修羅場を迎えます。3キロの黒パンを炊事場から受け取った当番が20等分します。配膳係が切り分けるときの殺気といったらない。同じ棟にいる20人全員が目をギラギラさせて不公平がないか見張っていて、全員が納得して分配しても多少の誤差でよくケンカになりました。
3食分で1,000キロカロリー程度、皆どんどん痩せ細っていき、最初の冬を越せなかった抑留者は全体の32.9%に及びました。最初こそ同じ建物の者たちが死者の通夜を全員でして埋葬しましたが、連日になると死者をすぐ裸にして、着ていた服の取り合いになりました。
そんな中で生き延びるには気持ちしかなく「必ず生きて帰るぞ」と、日々、強く思いながら過ごしたそうです。生き延びることができた理由を挙げるとすれば、下痢をほとんどしなかったことかと云います。
やがて厳寒の冬が過ぎ、暖かい日差しが戻ってきて、徐々に食料事情も良くなっていきました。夏には平原に生い茂った野草を自分たちで煮て食べ、キノコが生える時期は手当たり次第岩塩で味付けして食べましたが、毒のあるなしなどは構っていられません。
こうして最初の四季を越した中島さんは生きるペースを掴んでいき、重労働以外の仕事に配置されることもありました。ラーゲリでは定期的に身体検査があり、その検診であまり健康でないと判断されると、衛生兵の手伝いをしたり、便所の手入れをさせられました。
中でも長かったのが病院での入院患者の世話係で、中島さん自身が木の伐採中下敷きになって右足を骨折して入院、ギプスをした後に患者たちの世話を命じられましたが、世話をした患者たちの7~8割は亡くなりました。ちょうどその頃ラーゲリ内でソ連側による思想教育が着々と進んでいましたが、中島さんは病院勤務だったため逃れることができたのでした。
昭和23年6月中島さんはソ連兵から「帰還者」として名前を呼ばれましたが、別のラーゲリに移されるだけかもしれないと半信半疑で列車に乗り込み、辿り着いたのが日本海に面したナホトカでした。
船に乗り込むのを待つまでの10日間、毎晩、共産主義思想をどこまで吸収したか質問され、うまく答えられなければラーゲリへ逆戻りです。北極圏に戻された人すらいる中で、質問に答える勉強に必死になって励みましたが、すべては再び祖国の地を踏むためでした。
6月11日英彦丸に乗り込むことになりましたが、ソ連軍将校や思想教育をみっちり受けた日本人アクチブが、まだ共産主義に染まり切っていない人間を引きずり下ろそうと目を光らせていて気が気でなく、名前を呼ばれて船のタラップを登り切ることができ、やっと船長や船員、看護婦さんたちに「ご苦労様でした」と温かく出迎えてもらえました。
まったく何も語ろうとしなかったシベリア抑留の帰還者たちも高齢になり、残された寿命が少なくなるにつれて、ぼつぼつ自分の体験を語ったり、記録に残す人たちが出てきました。個々の体験談は涙なしには読めないものが多く、中島さんもその一人です。2006年頃からは積極的に抑留体験の講演を行ってこられました。
幸いにして帰還できた抑留者の経験談を繋ぎ合わせると抑留の実態の、部分、部分を知ることは出来ますが、抑留の正確な全体像を把握することは今後もできないままでしょう。
我が国では玉音放送のあった8月15日を終戦記念日としていますが、第二次世界大戦の終了は戦艦ミズリー号艦上で、ボツダム宣言の受諾に署名をした9月2日の時点です。
9月2日以前に武装解除した日本兵は捕虜だと云うソ連の主張にも一理はあるのですが、ポツダム宣言9条には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる」と記載されており、日本軍捕虜50万人をソ連内へ移送して強制労働を行わせたのは、明らかにポツダム宣言に違反しています。
一方8条に日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならないと明記してあるボツダム宣言を受諾した日本が、北方4島は我が国固有の領土であると主張して、未だに、日ロ間で平和条約を締結することが出来ていないのも違反です。
1956年の「日ソ共同宣言」には、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すと書かれていたのですが、1960年の日米安保条約の期限切れに際し、日本が「日米新安保条約」を新たに締結したことにソ連が反発し、ソ連領である2島を日本に引き渡すのは返還ではなく、両国間の友好関係に基づく譲渡であるとして、2島の引き渡しを撤回しました。
しかし2001年の日ソ両国の「イルクーツク声明」の中では、日ソ共同宣言に記載された平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の2島の譲渡を引き継ぐことが改めて確認されています。法的有効性のある文書が存在するのですから、ありうる筈のない4島返還を平和条約締結の前提要件として固執するのをやめて、平和条約を締結することの方が格段に重要でしょう。