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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

シベリア抑留

2022-10-27 06:10:40 | 日記

シベリア抑留は第二次世界大戦後にソ連によって武装解除された日本軍人が、主にシベリアへ労働力として移送され、長期にわたる抑留と強制労働によって多数の人的被害を生じたものです。

舞鶴港に上陸するシベリア抑留帰還者

抑留された捕虜の総数は作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名と考えられましたが、65万人が定説です。厳寒の下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要されて5万8千人が死亡し、死亡者個人が特定されているのは2019年12月時点で4万1,362人です。

このソ連の行為は武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものですが、シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月「日本人の送還問題は既に完了したと考える」と発表しました。

1945年(昭和20年)8月9日未明ソ連は、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告し、満州との国境に展開する174万のソ連極東軍が、満州および朝鮮半島北部に侵攻しました。8月10日にはモンゴル人民共和国も日本に宣戦布告し、日本は8月14日に降伏を声明しましたが、ソ連は8月16日に南樺太、18日に千島列島へ侵攻して占領しました。

当時非公開であったアメリカとソ連のヤルタ秘密協定では、ソ連の対日参戦への見返りとして、ソ連に南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州での旅順租借権の回復と大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が約束されていました。

8月16日大本営から即時停戦命令が出され、19日に関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥が停戦交渉に入り、26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わりました。

停戦会談では在留民間人の保護についての交渉が成立しましたが、実際には日本軍崩壊後に民間人はまったく何の保護も得られず、多くの被害が出ました。軍人の捕虜については言及されていません。

スターリンは8月16日に日本軍捕虜を労働力には用いない命令を出しましたが、23日にこれを翻し、日本軍捕虜50万人をソ連内へ移送して強制労働を行わせる命令に代えました。日本軍は8月下旬までに武装解除され、既に離隊していた人たちも連行されます。

第二次世界大戦の欧州でのソ連の捕虜の扱いは極めて残酷で、ポーランド侵攻以降に獲得した各国の捕虜は389万9,397人に及びますが、1949年1月1日の段階で56万9,115人が死亡し、54万2,576人が抑留されたまま。独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は特に高く、スターリングラード攻防戦での捕虜は6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人でした。

日本人捕虜は満州の産業施設にあった工作機械を撤去してソ連に搬入する作業に使役された後、ソ連領内に移送されました。日本軍将兵のみならず、在満民間人、満蒙開拓移民団の男性も続々とハバロフスクに集められ、ソ連は捕虜を1,000名程度の作業大隊に編成し、貨車に詰め込みました。

ソ連兵は「ダモイ」(帰れるぞ)と叫び捕虜を貨車に乗せましたが、日没の方向から西へ向かっていることが分かり、捕虜たちは絶望しました。一説には70万人ほどが移送されたと云われ、ロシア国立軍事公文書館には76万人分に相当する資料が収蔵されています。

移送先はシベリア以外に、中央アジア、カフカス地方、バルト三国、ヨーロッパロシア、ウクライナ、ベラルーシなどソ連領内各地のほか、モンゴル人民共和国にも送り込まれました。

シベリア抑留では過酷で劣悪な環境と強制労働で、抑留者の1割に当たる約6万人の死亡者を出しましたが、日本共産党の隠れ党員だった捕虜が大手を振って立ち回り、農村出身者が多い兵卒や下士官の中には、定期的に施された共産主義教育に感化されて熱心な共産主義者になり「民主運動」を行った者も多く、革命思想を持たない捕虜を「反動」と呼んで、執拗な吊し上げや露骨な暴行を働きました。

日本政府が、関東軍の軍人がシベリアに連行されて、強制労働をさせられている情報を把握したのは、1945年(昭和20年)11月です。翌1946年日本政府の要請でGHQとソ連との間で引揚げ交渉がようやく開始され、同年12月19日「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立しました。

結果として1947年から1956年にかけて47万3千人のシベリア抑留者の日本への帰国が実現しましたが、ソ連政府は1949年(昭和24年)5月20日の時点で「本年5月から11月までで全員引き上げるだろう」と発表し、その数を9万5千人としました。この当時GHQと日本政府が把握していた抑留者数40万8,700人と大きく食い違っていました。

シベリア抑留の初期には我が国の旧軍制度がそのまま持ち込まれ、旧軍の階級的な身分差別と将校特権が大手を振ってまかり通り、下級兵士は「兵隊地獄」と「強制労働地獄」の二重苦にあえぎ、将校は国際法によって捕虜労働を免除されています。

将校は旧軍時代と同様に軍隊式の敬称・敬礼や当番兵サービスを求め、配給食料のピンハネを行い、作業現場では兵隊にノルマの超過達成を求める鬼のような現場監督と化したと云われますが、一方で階級章をはぎ取られ兵士と同じ苦しみを受けた将校もいたようです。

日々が地獄のようだった「シベリア抑留」について、我が国の抑留者が総括的な記録を残せる筈はなく、ソ連の提示した概要は明らかに実態を示すものではないので、個人の体験談を綴り合わせる以外シベリア抑留の真実を知ることはできません。

私自身が接したことのある抑留者は2人です。最初の人は昭和25年に戦後ようやく父親が我が家を建てた時に、工事に来ていた左官屋さんでした。ソ連とともに日本に宣戦布告したモンゴルの首都ウランバートルに移送され、旧来の蒙古のパオの集落に代わるソ連式の現代的大都市建設工事に携わり、本職でなければできない左官技術が高く評価されてモンゴル人から大事にされたようで、当時を懐かしむ様子をさりげなく聞かせてくれた大変運のいい人でした。

もう1人は昭和26年に帰国して未だ日が浅く、栄養失調が明らかに目に見える状態で職探しに父親を訪ねてきた人で、最も死亡率の高かったシベリヤ残留組の一人でした。酷寒の中栄養失調で木材の切り出しに従事し、強烈な共産主義教育を受けました。

何とか死なずにみんなで帰国の日を迎えようと、人々をまとめるのに精一杯の努力を払ったことが重い口からよく分かりましたが、話している間も絶えず全身で周囲に気を配っている様子で、シベリアではこんな風にして毎日生きてきたのかと心が痛んだ印象が強く残っています。

今にして思えば昭和24年の下山事件や三鷹事件など、後に裁判で無罪となった共産党員が大量に検挙され、シベリア帰国者に対しても赤狩りが行われていたようですから、それが異様な緊張を伴う周囲への気配りに繋がっていたのかも知れません。

抑留された日本人57万5千人のうち死者数は5万5千人とされていますが、この人数については戦後70年以上経った現在もまだ正確な数字が分かっていません。集団帰国最終の1956年までに帰還した抑留者は47万人です。

中島裕さんは陸軍特別幹部候補生で、満州でソ連軍に武装解除され、10月に敦化から牡丹江まで250キロを徒歩で移動し、牡丹江郊外の掖河でソ連へ搬送する物資の積載作業に従事、11月にシベリアの収容所に移されました。

列車に乗せられて2週間あまりの11月18日、中島さんたちを乗せた列車はイルクーツク州に着き、タイシェットから46キロの第5収容所に到着、車外に出された途端、氷のような風が頬に突き刺さりました。

ラーゲリ(捕虜収容所)はシベリアを中心にソ連全土で約2,000か所に及んだと云われますが、第5収容所は後のソ連側の調査で最も死亡率が高かかったラーゲリで、冬の-40℃は当たり前、寒さの一番厳しい場所でした。

シベリア抑留地

2段の寝棚を持つ木造の宿舎に収容され、白樺の皮や短冊状に切った枝に昼夜火を灯していましたが、明るいのは火の周りだけ、ほとんど真っ暗闇でした。最初の日床につくと15分もしないうちに猛烈なかゆみに襲われ、南京虫のせいで、一晩中、ほとんど寝られませんでした。

水が貴重で、ソ連兵たちはコップ1杯の水で口をゆすぎ、少しずつ口から水を出してそのまま顔を拭いていて、それをまねるようになりました。風呂は年に数回。5リットルぐらいのお湯を桶にもらって体を洗い、2杯目で洗い流すといった具合でした。

当初はラーゲリから3キロ程のところで木材を伐採し、トラックへ積載する作業で、斧で3分の1切った後に、反対側から2人用のノコギリで切って行くものでしたが、2人1組で1日3本がノルマでした。

伐採作業

ソ連軍から支給された服や靴は-30℃までしか寒さに耐えられないもので、-40℃以下に冷えるとさすがに休息日になりました。切り倒した丸太をトラックへ積み込むのに地面が凍っていて、丸太と一緒に滑って下敷きになる死亡事故がよく発生しました。

地域の作業が終わる度に現場は遠のいて、朝夕の移動も大変になり、その道中、隊列を乱したり遅れたりすると、監視兵に蹴り飛ばされたり銃床で殴られたりされ、現場監督にムチを振るわれました。

与えられた食事は、過酷な労働で命を維持することができないほど僅かで粗末でした。朝食はライ麦が原料の黒パン一切れと、親指大の青いトマトが入った塩のスープ。昼は精白していないコーリャンの「カーシャ」(雑炊)がつきますが、飯盒の蓋に入る程しかありません。夜はえん麦のカーシャ、形のない魚や肉が入っていました。

食事の時間ごとに修羅場を迎えます。3キロの黒パンを炊事場から受け取った当番が20等分します。配膳係が切り分けるときの殺気といったらない。同じ棟にいる20人全員が目をギラギラさせて不公平がないか見張っていて、全員が納得して分配しても多少の誤差でよくケンカになりました。

3食分で1,000キロカロリー程度、皆どんどん痩せ細っていき、最初の冬を越せなかった抑留者は全体の32.9%に及びました。最初こそ同じ建物の者たちが死者の通夜を全員でして埋葬しましたが、連日になると死者をすぐ裸にして、着ていた服の取り合いになりました。

そんな中で生き延びるには気持ちしかなく「必ず生きて帰るぞ」と、日々、強く思いながら過ごしたそうです。生き延びることができた理由を挙げるとすれば、下痢をほとんどしなかったことかと云います。

やがて厳寒の冬が過ぎ、暖かい日差しが戻ってきて、徐々に食料事情も良くなっていきました。夏には平原に生い茂った野草を自分たちで煮て食べ、キノコが生える時期は手当たり次第岩塩で味付けして食べましたが、毒のあるなしなどは構っていられません。

こうして最初の四季を越した中島さんは生きるペースを掴んでいき、重労働以外の仕事に配置されることもありました。ラーゲリでは定期的に身体検査があり、その検診であまり健康でないと判断されると、衛生兵の手伝いをしたり、便所の手入れをさせられました。

中でも長かったのが病院での入院患者の世話係で、中島さん自身が木の伐採中下敷きになって右足を骨折して入院、ギプスをした後に患者たちの世話を命じられましたが、世話をした患者たちの7~8割は亡くなりました。ちょうどその頃ラーゲリ内でソ連側による思想教育が着々と進んでいましたが、中島さんは病院勤務だったため逃れることができたのでした。

昭和23年6月中島さんはソ連兵から「帰還者」として名前を呼ばれましたが、別のラーゲリに移されるだけかもしれないと半信半疑で列車に乗り込み、辿り着いたのが日本海に面したナホトカでした。

船に乗り込むのを待つまでの10日間、毎晩、共産主義思想をどこまで吸収したか質問され、うまく答えられなければラーゲリへ逆戻りです。北極圏に戻された人すらいる中で、質問に答える勉強に必死になって励みましたが、すべては再び祖国の地を踏むためでした。

6月11日英彦丸に乗り込むことになりましたが、ソ連軍将校や思想教育をみっちり受けた日本人アクチブが、まだ共産主義に染まり切っていない人間を引きずり下ろそうと目を光らせていて気が気でなく、名前を呼ばれて船のタラップを登り切ることができ、やっと船長や船員、看護婦さんたちに「ご苦労様でした」と温かく出迎えてもらえました。

まったく何も語ろうとしなかったシベリア抑留の帰還者たちも高齢になり、残された寿命が少なくなるにつれて、ぼつぼつ自分の体験を語ったり、記録に残す人たちが出てきました。個々の体験談は涙なしには読めないものが多く、中島さんもその一人です。2006年頃からは積極的に抑留体験の講演を行ってこられました。

幸いにして帰還できた抑留者の経験談を繋ぎ合わせると抑留の実態の、部分、部分を知ることは出来ますが、抑留の正確な全体像を把握することは今後もできないままでしょう。

我が国では玉音放送のあった8月15日を終戦記念日としていますが、第二次世界大戦の終了は戦艦ミズリー号艦上で、ボツダム宣言の受諾に署名をした9月2日の時点です。

9月2日以前に武装解除した日本兵は捕虜だと云うソ連の主張にも一理はあるのですが、ポツダム宣言9条には「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる」と記載されており、日本軍捕虜50万人をソ連内へ移送して強制労働を行わせたのは、明らかにポツダム宣言に違反しています。

一方8条に日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならないと明記してあるボツダム宣言を受諾した日本が、北方4島は我が国固有の領土であると主張して、未だに、日ロ間で平和条約を締結することが出来ていないのも違反です。

1956年の「日ソ共同宣言」には、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すと書かれていたのですが、1960年の日米安保条約の期限切れに際し、日本が「日米新安保条約」を新たに締結したことにソ連が反発し、ソ連領である2島を日本に引き渡すのは返還ではなく、両国間の友好関係に基づく譲渡であるとして、2島の引き渡しを撤回しました。

しかし2001年の日ソ両国の「イルクーツク声明」の中では、日ソ共同宣言に記載された平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の2島の譲渡を引き継ぐことが改めて確認されています。法的有効性のある文書が存在するのですから、ありうる筈のない4島返還を平和条約締結の前提要件として固執するのをやめて、平和条約を締結することの方が格段に重要でしょう。

 

 


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玉音放送

2022-10-13 06:27:51 | 日記

「玉音放送」は1945年(昭和20年)8月15日正午に放送された「大東亜戦争終結ノ詔書」の音読レコード(玉音盤)のラジオ放送を指します。前日から玉音放送が予告され、「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」と伝えられました。私は中国の天津で短波放送を聞いていましたが、雑音で放送内容はまったく聞き取れませんでした。

日本国内でも音質が極めて悪く、天皇の朗読に独特の節回しがあり、詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたため「論旨はまったく分からなかった」という人が大半で、戦後のNHKなどの特集番組で強調された「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分しか人々は知らないのが実情でしょう。

「大東亜戦争終結ノ詔書」は天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するため、8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外で告示されたもので、迫水久常内閣書記官長が作成し昭和天皇の裁可があったものです。

大東亜先勝終結の詔書 原本

大東亜戦争の終戦を決定した最後の御前会議での昭和天皇の発言の全記録について、鈴木内閣の内閣書記官長迫水久常氏が戦後(昭和30年)に語り、元陸上自衛官中垣秀夫氏が紹介した、余り人の目に触れなかった記録があります。

8月9日の最高戦争指導会議では、ポツダム宣言を無条件に受諾して戦争を終結すべしという意見と、このまま本土決戦を覚悟して戦争を継続すべしとの意見が対立しました。

閣議では、経済関係閣僚から国内の経済力、軍需力の話があり戦争終結が主張されましたが、内相は戦争をやめると右翼が騒動を起す恐れがあって国内治安が心配といい、陸相は関東軍には対ソ戦の力がなく2か月で関東軍は全滅するだろうと述べ(9日早朝ソ連軍が満州、朝鮮半島北部に侵攻開始)、この会議の間に長崎には第2回目の原子爆弾が投下されています。

迫水氏の語ったのは以下の内容です。

総理からのご相談に、私(迫水)が「陛下の御聖断を得て事を決する外はございますまい」と答えると、総理は「実は自分もそう考えて今朝拝謁したときに、いよいよの場合は陛下にお助けを願いますとお願いして来た」と云われました。

問題は陛下の御聖断をどう云う方法で受けるかでした。総理が参内して陛下の思召しを伺つて大臣その他に伝えるのでは、陸軍の若い人達などが信じないと思い、御前会議を開いてその席で御聖断を承るようにしようと決心しました。

御前会議を開くには陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の同意を必要としますが、両総長の同意が得られません。半ば両総長をだますようにして二人の署名花押をとり、御前会議を開くことにしました。
御前会議は8月9日夜11時から開かれました。列席者は総理・外務・陸軍・海軍の4大臣、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長、枢密院議長の7名が正規の構成員で、陪席員は私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計画局長官の4名、合計11名でした。
会議は総理の司会で、先ず私がポツダム宣言を読み上げ、次に外相が指名されて、この際ポツダム宣言を受諾し戦争を終えるべきであると言葉は静か乍ら断乎申され、阿南陸相は涙と共に今日迄の軍の敗退をお詫びし、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない、本土を最後の決戦場として戦うに於いては、地の利あり人の和あり死中活を求め得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉砕し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると云われました。
次の米内海相はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意であると云われ、平沼枢密院議長は外相の意見に同意、参謀総長・軍令部総長はほぼ陸相と同様の意見でした。約2時間半、陛下は終始熱心に聞いて居られましたが、一同の発言の終ったとき総理が立ち「本日は列席者一同熱心に意見を開陳致しましたが、只今まで意見はまとまりません。事態は緊迫していてまったく遅延を許しません。ここに天皇陛下の御思召しを伺って、私共の意見をまとめ度いと思います。」と述べ、陛下の御前に進まれ「只今お聞きの通りで御座います。何卒お思召しをお聞かせ下さいませ」と申し上げました。
陛下は「それならば自分の意見を言おう」「自分の意見は外務大臣の意見に同意である」と仰せられました。その一瞬を皆様、御想像下さい。静寂と云ってこれ以上の静寂はありません。次の瞬間はすすり泣きで、そして次の瞬間は号泣でした。建国二千六百余年日本の始めて敗れた日であります。
お言葉はそれで終りかと思いましたが陛下は「念のため理由を言っておく」と仰せられました。
「大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。

先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。

このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。或は日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。

自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。それにこのまゝ戦を続けることは世界人類にとっても不幸なことである。」

陛下のお言葉は更に続き、国民がよく今日まで戦ったこと、軍人の忠勇であったこと、戦死者戦傷者に対するお心持、又遺族の事、更に外国に居住する日本人即ち今日の引揚者に対して、又戦災に会った人に対して御仁慈の御言葉があり、陛下のお言葉は終りました。
後に残った一同は陛下のお思召しに従い、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結することとし、唯一つ米国側に対し「このポツダム宣言の諸条件の中には、天皇の国家統治の大権を変更する要求は含まないものと諒解するが、この点について明確なる返事をして欲しい」という留保をつけて「ポツダム宣言を受諾する用意がある」旨を中立国を通して連合国に通知することにしました。

10日の早朝打った電報の返事はなかなか来ません。流石に10日、11日には米軍の空襲はありませんでした。12日朝サンフランシスコの放送で先方の回答の内容を知り得たのですが、正式の回答は13日朝到着しました。陛下は皇族・重臣・元帥・軍事参議官などを次々にお召しになってお考えをおさとしになりました。この際東条大将は陛下にもう一度御考え直しを願ったという風に聞いています。
13日には正式回答を議題として閣議が開かれました。先方の回答の要点は次の2つです。
(イ)日本国天皇及び政府の統治権は或る場合には連合軍司令官の制限の下におかれることがある。
(ロ)日本国最終の政治形態は日本国民の自由なる意思によって決定せられる。
先方の回答の遅れた理由は連合国間で意見が分かれたためで、ソ連は勿論、英国も支那も天皇制の廃止を主張しましたが、米国だけが前駐日大使グル―さんなど知日派の人々の働きによって、こういう回答になったのだそうです。
この回答に対して大部分の大臣は、ポツダム宣言を受諾する結果として国体が変るわけではないということを先方が承知したものであるとして、終戦に賛成でした。

陸相と両総長はこの回答では明瞭でないから、もう一度先方に確かめてもっとはっきりした返事が来ればよいが、そうでない限り国体を護持し得るかどうか明瞭でない以上、飽くまで戦争を継続せよと主張しました。
この間米国側から盛んに日本の回答の遅延を責めてきて、もう一度先方の意向を問い合わせたのでは交渉の糸が切れてしまうことは明かでした。両総長の同意を得られない限り御前会議を開く途はなく、陛下よりお召しを願うことにしました。
14日午前11時一同はお召しによって参内、今度は23人でした。総理が経過の概要を説明したあと、陸相、参謀総長、軍令部総長から先方の回答では国体護持について心配である、しかし先方にもう一度たしかめても満足な回答は得られないであろうから、このまゝ戦争を継続すべきであるという意見を申し上げました。
陛下から他に発言するものはないかという御合図があって「皆の者に意見がなければ自分が意見を云おう、自分の意見は先日申したのと変りはない、先方の回答もあれで満足してよいと思う」と仰せられました。

陛下は玉砕を以って君国に殉んぜんとする国民の心持はよく判るが、ここで戦争をやめる外は日本を維持するの道はないということを、先日の御前会議と同じく懇々とおさとしになり、更に皇軍将兵戦死者、戦傷者、遺族、更に国民全般に御仁愛のお言葉がありました。
しかし私共を現実の敗戦の悲しみを超えて、寧ろ歓喜にひたらせたものはこの次に仰せられた陛下のお言葉でした。
陛下は「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それは難しいことであり、時間も長くかかるであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する」と仰せられました。陛下は我等国民を信頼なさって日本再建を御命じになったのです。
陛下は更に一般の国民には、ラジオを通じて親ら諭してもよいと仰せられ、内閣で速かに終戦に関する詔勅の草案を作って差し出すようお言葉がありました。これで御前会議を終り閣僚は内閣に帰って終戦の議を決定し、終戦の御詔勅の草案を審議しました。

実は終戦の詔勅は内閣に於て起草すべきものでありましたから、私はその責任者として既に10日の夜から13日の夜まで、夜半にその起草をしていました。9日夜の御前会議の陛下のお言葉をそのまま文語体に改め、14日御前会議の陛下のお言葉で修正を加えた案を審議しました。
午后8時審議を終了して陛下のお手許に差し出し、御嘉納があって一切の詔書公布の手続きを終了したのは14日午后11時でした。直ちに米国にポツダム宣言を受諾した旨を電報しました。

詔書

朕(チン)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以(モッ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(ソ)四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々(ソモソモ)帝国臣民ノ康寧(コウネイ)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(トモ)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(ケンケン)措(オ)カサル所曩(サキ)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ユエン)モ亦(マタ)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾(ソキ)スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如(ゴト)キハ固(モト)ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戦已(スデ)ニ四歳(シサイ)ヲ閲(ケミ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(オノオノ)最善ヲ尽(ツク)セルニ拘(カカワ)ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之(シカノミナラズ)敵ハ新(アラタ)ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真(シン)ニ測ルヘカラサルニ至ル

而(シカ)モ尚(ナオ)交戦ヲ継続セムカ終(ツイ)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(カク)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(セキシ)ヲ保(ホ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是(コ)レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以(ユエン)ナリ

朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃(タオ)レタル者及(オヨビ)其ノ遺族ニ想(オモイ)ヲ致セハ五内(ゴナイ)為(タメ)ニ裂ク且(カツ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(コウム)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(シンネン)スル所ナリ

惟(オモ)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之(コレ)ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若(モ)シ夫(ソ)レ情(ジョウ)ノ激スル所濫(ミダリ)ニ事端(ジタン)ヲ滋(シゲ)クシ或ハ同胞排擠(ハイセイ)互(タガイ)ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(ダイドウ)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム

宜(ヨロ)シク挙国一家子孫相伝ヘ確(カタ)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念(オモ)ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(アツ)クシ志操ヲ鞏(カタ)クシ誓(チカッ)テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ

爾臣民其レ克(ヨ)ク朕カ意ヲ体セヨ

御 名 御 璽
  昭和二十年八月十四日

                           内閣総理大臣 男爵  鈴木貫太郎
                           海軍大臣       米内光政
                           司法大臣       松坂広政
                           陸軍大臣       阿南惟幾
                           軍需大臣       豊田貞次郎
                           厚生大臣       岡田忠彦
                           国務大臣       桜井兵五郎
                           国務大臣       左近司政三
                           国務大臣       下村宏
                           大蔵大臣       広瀬豊作
                           文部大臣       太田耕造
                           農商大臣       石黒忠篤
                           国務大臣       安倍源基
                           外務大臣兼大東亜大臣 東郷茂徳
                           国務大臣       安井藤治
                           運輸大臣       小日山直登

 


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