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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

あかり

2020-01-23 06:16:46 | 日記

人類が「火」を使うようになったのは原始時代に煮炊きのために枯れ枝などを燃やしたのが始まりで、「あかり」として使うようになったのは夜行性の猛獣から身を護るために「焚き火」をしたのが世界共通の歴史でしょう。

枯れ枝の次にあかりの燃料になったのは「灯油」です。灯油は火を近づけただけでは燃えませんが、「火皿」に満たした灯油に「灯芯」を浸し、灯芯が油を吸い上げると火を灯せます。灯油を燃やす器具の代表が「灯台」です。

灯油は我が国でも古墳時代から使われていたようで、初期の灯台は「結灯台」(むすびとうだい)と云って、三本の棒をくくって一つの台としただけの簡単なものでした。その後上流階級では安定した形の灯台が使われるようになり、平安貴族が愛した高級品には「菊灯台」があります。

灯台の柱には長短があって、柱の長い灯台は部屋を明るくするために用いられましたが、すきま風で火が消えるのを防ぐために反射板がつけられ、反射板は風を防ぐ役割とひかりを反射する役割を兼ねました。この灯台は真下が火皿の陰になって暗く「灯台下暗し」の語源になります。

ちなみにインターネットで「灯台」で検索すると、各地の岬の先端に建っていて海上の船舶の航行の安全を図る灯台しか出てきません。海の灯台は強い光を遠くに送るためのものですから灯台の下の暗さは問題にならず、灯台下暗しの語源にはなりえません。

「結灯台」から始まった灯台に、室町時代に「瓦灯」(かとう、がとう)と云う器具が現れます。後の江戸時代に庶民のあかりとして普及するのですが、火皿を載せる台の上に瓦職人が焼いた瓦の材質の釣鐘型の蓋をかぶせたものです。

蓋の中で灯すと就寝時の仄かなあかりになり、火皿を取り出して蓋の上に載せると作業をする時のあかりになりました。燃えない器具なので防火にも役立ちました。

灯油には植物性のものと動物性のものがあります。島国日本では魚油も多く利用され、明治時代初期まで灯していた漁村もありましたが、動物油は臭いがあり屋内のあかりには向きませんでした。

植物油の初めはハシバミ油であったと云われ、ゴマ油、エゴマ油、ホソキ油などが文献に出てきます。室町時代末期から江戸時代初期にかけては、菜種の生産や油搾りが盛んに行われるようになりました。

江戸時代の室内のあかりの主流は「行灯」(あんどん)です。行灯は箱型の木枠に和紙を貼って中に火皿を置き、火を灯す構造です。床や机上に置いて使う置き行灯、天井から吊るす八間行灯、柱にかける掛け行灯などがありました。

行灯の初期は和紙で囲っただけの単純なもので、移動もでき、置きあかりにも使えましたが、携行用は後にろうそくを使う更に便利な提灯に取って代わられ、据付型が主流になります。

行灯では和紙が発光面になるため見た目が明るく、和紙は当時の最も反射率の高い素材の一つでした。扉があり手元で文字を読む時は、扉を開けて直接の光で読むことが出来ます。

就寝時に常夜灯として使われていたのが「有明行灯」(ありあけあんどん)です。有明とは夜明けを迎えても空にまだ月が残っている状態ですが、その名のとおり明け方まで火が長持ちし、三日月や満月の透かしのある黒漆の箱型の蔽(おお)いに囲まれた大変優雅なあかりです。向きによって満月や三日月と光量の調節ができました。火皿から落ちる油や灯芯のかすなどで行灯を汚さないように、陶器の「行灯皿」が用いられます。

有明行灯の特徴は火皿を置く火袋と外箱が取り外せることです。外箱の中に火袋をしまうと持ち運べるだけでなく、蔽いとして使えば外箱の透かし模様に限定された明かりが眠りの邪魔にならず、火袋を載せる台として使えば普通の行灯になる優れものでした。

灯油の次に主要な光源になったのは「ろうそく」です。ろうそくは奈良時代に日本に伝来し宗教的な用途で使われましたが、高価なものなので長らく一部の人びとしか使えませんでした。

「提灯」(ちょうちん)は「蝋燭」(ろうそく)を光源とした携行用のあかりで、竹ひごを筒状に組み、その周囲に障子紙を張って中にろうそくを入れ、障子を通して外を照らします。夜これを持ち歩くと道中の明かりになり、家の前に吊るせば外灯になりました。

周りに障子紙が貼られているので風で火が消えることがなく、上下に穴が空いているため酸素不足で消えることもありません。また伸縮自在な構造なので、使用しない時は上下方向に折り畳めます。

提灯について書かれた最も古い文書は1085年応徳2年)の「朝野群載」ですが、庶民も使えるようになったのは江戸時代に蝋燭が普及してからです。様々な形があって祭事に使われる提灯には神社仏閣の名称や家紋などが描かれ、夕涼みのための岐阜提灯などには風景が描かれています。

「秋田竿燈(かんとう)まつり」は秋田市で行われる祭りで、竿燈全体を稲穂に見立て、連なる提灯米俵に見立てて豊作を祈ります。重要無形民俗文化財に指定されていて、二本松提灯祭り福島県)、尾張津島天王祭愛知県)と並び日本三大提灯祭りになっています。

最初につくられた折りたたみ式提灯は「箱提灯」で安土桃山時代に出現し、和ろうそくの価格が下がるにつれて、携帯用のあかりとしては行灯にとって代わりました。

龕灯(がんどう)は江戸時代の携帯用提灯ですが、正面のみを照らして持ち主を照らさないため、強盗が家に押し入る際に使ったとか、目明かしが強盗の捜索に使ったとかで「強盗提灯」(がんどうちょうちん)とも呼ばれました。

金属製または木製で桶の形をしていて、内側では二軸ジンバルにより2本の鉄輪が回転し、鉄輪の中央に固定されたロウソクが常に垂直に立っていて、龕灯を振り回しても火が消えない工夫がされています。

蝋燭(ろうそく)は綿糸などを縒り合わせたものをにして芯の周囲にパラフィンを成型し、蠟から露出している芯に火を点します。光源の明るさの単位の「燭光」は、特定の規格のろうそくの明るさを基準として決められた単位です。

古代エジプトではミイラの作成などに古くから蜜蝋が使われ、2,300年前のツタンカーメン王の墓から燭台が見付かっていて、古くからろうそくが使われていたようです。紀元前3世紀エトルリアの遺跡からは燭台の絵が出土し、この時代の中国の遺跡でも燭台が出土しています。

ヨーロッパではガス灯が登場する19世紀まで、室内の主な照明にろうそくが用いられました。キリスト教の儀式にはろうそくが欠かせず、伝統的なキリスト教の祭儀では祭壇の上にろうそくが献じられます。修道院などでミツバチを飼い、蜜ろうそくを生産していました。

蜜ろうそくのほかに獣脂を原料とするろうそくも生産され、マッコウクジラの脳油を原料とするものが高級品で、19世紀にはアメリカを中心に盛んに捕鯨が行われました。

シャンデリアは沢山のろうそくを光源とする最も贅沢な照明器具ですが、従僕が長い棒の先に灯りをつけ、それぞれのろうそくに点火していました。現在使われているシャンデリアは光源が電球に代わっていますが、ろうそくの時代の形態を踏襲しているために球数が非常に多く、LED電球の出現で電気代を気にせず点けておけるようになりました。

日本でろうそくが最初に登場したのは奈良時代で、当時のろうそくは中国から輸入された蜜ろうそくと考えられています。平安時代になり蜜ろうそくに代わって松脂ろうそくの製造が始まり、その後「和ろうそく」と呼ばれるはぜの蝋やの蝋などを使ったものになりました。

江戸時代に木蝋の原料となるハゼノキが琉球から伝わり、提灯の需要が増えたこともあって和ろうそくの生産量が増加しましたが、明治以降は輸入された西洋ろうそくにとって代わられます。

ろうそくはくつろいだ雰囲気の照明なので、現代の高級レストラン等でもテーブルの上のあかりとして使われています。バースデー・ケーキにろうそくを立てて点灯し、誕生日を迎えた人がそれを一気に吹き消すのはポピュラーなイベントでしょう。

日本の仏事でもろうそくは欠かせず、お盆やお彼岸のお参りや寺社の参拝で線香とともにろうそくを燭台に立てます。仏事の蝋燭の色は朱・金・銀・白の4色で、朱は年忌法要・祥月命日・お盆・春や秋のお彼岸の時に、金は仏前結婚式や落慶法要などのお祝いの時に、銀は通夜・葬儀・中陰の時に灯します。本来仏教では本来白は使用しませんが、朱・金・銀の蝋燭の代替品として用いられます。

石油ランプは明治維新直前の1860年頃に我が国に輸入されました。当時の石油価格は菜種油の半値で、明るさも灯台の0.25燭光、行灯の0.2燭光をはるかに上回る3.2燭光だったので、家庭用の石油ランプは急速に普及しました。一般家庭に電灯が登場するのは明治末期で、明治時代は石油ランプの時代でした。

石油の輸入量は明治元年(1868年)の121kℓから同8年には1万kℓを超え、同27年には20万kℓに達しました。江戸時代に灯明油が売り上げの大部分を占めていた油問屋は、石油ランプの時代がくるとランプや石油も同時に取り扱うようになります。

石油ランプは油壺に石油を入れ石油を吸った芯に火をつけて、ガラス製のほやで火が消えないように風から守り、調節ねじで芯の長さを変えて炎の明るさを調整します。

置きランプの他に天井から吊るすランプ、壁に掛けるランプもあります。吊りランプはあかりを下方に反射させるために笠がついています。石油ランプのほやの内側は石油の燃焼で出るすすで黒く汚れるので、 ほや掃除は子ども達の仕事でした。今でも山小屋などで使われています。

19世紀半ばに西欧の家庭では一時期室内照明にガス灯が使われましたが、当時のガス灯は室内での使用に適したものではありませんでした。日本で最初にガス灯が灯されたのは1871年(明治4年)の大阪市で、造幣局の工場内や近隣の街路にガス灯が灯されました。

1872年横浜市に街路灯として出現し、1873年には銀座にもガス灯が登場しましたが、ガス灯の街路灯は現在でもモニュメントとして使われていて、レトロブームで復元されたものもあります。

我が国の家庭用の照明はガス灯を経ずに、石油ランプから電灯に移行しました。2019年の台風15号で千葉県でおきた1か月にわたる大停電では、あかりだけでなく、水道が止まり、冷凍庫が使えず、TV、スマホ、インターネットによる通信が途絶して大きな社会問題になりました。

最新の家庭用停電対策としてはソーラ-パネルと蓄電池による自家発電があり、車をEV車にして自宅で給電し停電時にはEV車のバッテリーの電気を自家用に用いることもできますが、通常の家庭の停電対策は今でも懐中電灯やろうそくでしょう。

最新の停電対策とは大きな落差がありますが、懐中電灯もろうそくも切れてしまった場合に油漬けの缶詰に小さな穴を開けて、こよりを差し込んで点火すると数時間は燃えていて、いにしえの灯台の有難みが味わえるそうです。

 

 


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名言

2020-01-09 06:13:03 | 日記

「名言」は真理、人間の生き方、戒めなどを簡潔にまとめた短です。武術相場商売の真髄を端的に表現する格言や諺もこの類です。

近頃は「論語」(ろんご)と云ってもよく知らない人が多いでしょうが、論語は孔子の死後、孔子と孔子の高弟の言行を弟子達が記録した書物で、古来中国では必読の書でした。科挙の出題科目にもなり注釈書が数多く存在します。

江戸幕府が正学とした「朱子学」では「論語」が「四書」の1つで、「孟子」「大学」「中庸」と併せて武士や町人の間に広く浸透し、論語の中の名言が数多く現代にも継承されています。

中国で布教していたイエズス会宣教師が、論語を大学中庸と共にラテン語に翻訳し、ヴォルテールモンテスキュー等の思想家に大きな影響を与え、啓蒙思想の発展に寄与したと云われます。

論語は全20篇で構成されていて、篇の名称は各篇の最初の二文字(または三文字)を採ったものです。

学而(がくじ)、為政いせい)、八佾(はちいつ)、里仁りじん)、公冶長(こうやちょう)、雍也(ようや)、述而(じゅつじ)、泰伯(たいはく)、子罕(しかん)、郷党(きょうとう)、先進(せんしん)、顔淵(がんえん)、子路(しろ)、憲問(けんもん)、衛霊公(えいれいこう)、季氏(きし)、陽貨(ようか)、微子(びし)、子張(しちょう)、堯曰(ぎょうえつ)

の20篇512の短文から成ります。

孔子は紀元前552年に魯国で生まれた春秋時代の思想家、哲学者、儒家の始祖で、父親が早く亡くなり母親の下で苦学して礼学を修めました。35歳の時に内乱で君主が斉国へ追放されると、孔子も後を追って斉に亡命します。魯に帰国すると多くの弟子が集まり、51歳のときに中都の宰(長官)に取り立てられ、その実績により最高裁判官である大司寇と外交官の任に就きました。

55歳の時に自分の理想を受け入れてくれる君主を求めて弟子とともに諸国巡遊の旅に出ますが、孔子の教えに耳を貸す名君は現れず68歳で13年にわたる遊説の旅を終えて魯に帰国し、詩書などの整理を行い紀元前479年73歳でその生涯を閉じました。

孔子には3,500人の弟子がいて、孔子の教えは弟子たちの手によって「論語」にまとめられました。私の子どもの頃には論語はまず耳から入って来るもので、孔子の言は尊敬を込めて「しのたまわく」で始まり、他の人の言は「しいわく」でした。

近年の論語の解説のほとんどで孔子の言も「しいわく」になっていて、論語がいかに日本人の日常から遠くなったかを感じますが、現在でも論語を出典とする名言は数多く使われています。

学而01-01

子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方來、不亦樂乎、人不知而不慍、不亦君子乎

しのたまわく、まなびてときにこれをならう、またよろこばしからずや、ともありえんぽうよりきたる、またたのしからずや、ひとしらずしていきどおらず、またくんしならずや

孔子がおっしゃった、学んだことを復習するのは、喜ばしいことだ、友人が遠くから訪ねてくれるのは、楽しいことだ、人に理解されなくても気にしないのは、立派なことだ

日中双方が知っている名言のため、中国から来た訪日団の歓迎会などではよく引用されます。

学而01-03 

子曰、巧言令色、鮮矣仁

しのたまわく、こうげんれいしょく、すくなしじん

孔子がおっしゃった、言葉巧みにお世辞をいい、愛想笑いの上手い人に人格者はいない

今回論語の原文を当たっていて偶々見つけたのですが、まったく同じ「子曰、巧言令色、鮮矣仁」が陽貨17-17にダブって存在します。多くの弟子たちがそれぞれ孔子の言を記録したので重なったのでしょう。この言は今でも結構使われています。

為政02-04

子曰、吾十有五而志于學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從、所欲、不踰矩

しのたまわく、われじゅうゆうごにしてがくにこころざす、さんじゅうにしてたつ、しじゅうにしてまどわず、ごじゅうにしててんめいをしる、ろくじゅうにしてみみしたがう、しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがいて
、のりをこえず

孔子がおっしゃった、私は15歳で学問を志し、30歳で学問で身を立て、40歳で学問への迷いがなくなり、50歳で自らの天命を知った、60歳で人の言葉を偏見無く聴け、70歳で心のままに行動しても、人の道を踏み外すことが無くなった

孔子が自分の人生を振り返って述べた感慨ですが、15歳・30歳・40歳・50歳・60歳・70歳の節目の年齢で、志学・而立・不惑・知命・耳順・従心がそれぞれの人の人生の指針になってきました。

現在の日本では40歳の「不惑」だけが惑わなくなったと云う本来の意味ではなく「不惑の年を迎えてしまった」とか「40歳になっても不惑にはなれない」とか「惑い」を強調するのに使われています。

為政02-11

子曰、温故而知新、可以爲師矣

しのたまわく、ふるきをたずねてあたらしきをしれば、もってしたるべし

孔子がおっしゃった、歴史や伝統を学び現代を理解し、それを活かすことができれば師になれる

これも有名な言葉です。孔子は歴史に学ぶ、特に客観的、実証的に学ぶことを勧めていたと云われます。現代でも充分に通用する言です。

為政02-24

子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也

しのたまわく、そのきにあらずしてこれをまつるは、へつらいなり、ぎをみてなさざるは、ゆうなきなり

孔子がおっしゃった、自分の祖先でもないのに祭るのは、諂うことだ、正義を行うべきときに行動しないのは、臆病者だ

現在、後半の「見義不爲、無勇也」だけが独り歩きしているようですが「非其鬼而祭之、諂也」も権威に盲目的に従うとか忖度することに対する戒めの言であるとしたら、我が国の現状では前半も正に必要な警句だと云えましょう。

里仁04-08

子曰、朝聞道、夕死可矣

しのたまわく、あしたにみちをきかば、ゆうべにしすともかなり

孔子がおっしゃった、朝に正しい道を知ることが出来たら、その日の夕方に死んでも構わない

里仁04-25

子曰、徳不孤、必有鄰

しのたまわく、とくはこならず、かならずとなりあり

孔子がおっしゃった、徳があれば孤立しない、必ず仲間がいるものだ

雍也第六06-20

子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者

しのたまわく、これをしるものはこれをこのむものにしかず、これをこのむものはこれをたのしむものにしかず

孔子がおっしゃった、よく知る人でも、それを好む人には勝てない、好む人でも、それを楽しむ人には勝てない

この言は「知識がある」状態より「好きだ」「楽しんでいる」という状態の方が、より深い段階にあることと通常解釈されていますが、異なる解釈もあって「道を理解している者はそれを実践している者には及ばない。道を実践している者は道の境地に達している者には及ばない」とします。論語には注釈書が多く、孔子の言がいろいろに解釈されていることの一例です。

泰伯08-09

子曰、民可使由之、不可使知之

しのたまわく、たみはこれによらしむべし、これをしらしむべからず

孔子がおっしゃった、人々を従わせることはできても、その理由を人々に理解させるのは難しい

この言は「民に為政者を信じついていこうと思わせることが肝要で、政策を理解させる必要はない」と解釈されて、江戸時代の「愚民政策」の元になったとされてきましたが、原文からは愚民政策とは云えない解釈ができることが分かります。

子罕09-22

子曰、後生可畏、焉知來者之不如今也、四十五十而無聞焉、斯亦不足畏也已

しのたまわく、こうせいおそるべし、いずくんぞらいしゃのいまにしかざるをしらんや、しじゅうごじゅうにしてきこえることなくんば、これまたおそるるにたらざるのみ

孔子がおっしゃった、後輩を馬鹿にしてはならない、彼等の将来が吾々の現在に及ばないと誰がいい得よう、だが四十歳にも五十歳にもなって注目を惹くに足りないようでは、おそるるに足りない

この言も「後生可畏」だけが独立して使われています。

先進11-15

子貢問、師與商也孰賢、子曰、也過、也不及、曰、然則師愈與、子曰、過猶不及

しこうとう、しとしょうといずれかまされる、しのたまわく、しやすぎたり、しょうやおよばず、いわく、しからばすなわちしまされるか、しのたまわく、すぎたるはなおおよばざるがごとし

子貢が質問した、師(子張)と商(子夏)ではどっちが上か、孔子がおっしゃった、師はやりすぎ、商はまだ不足、子貢が質問した、師が上ですか、孔子がおっしゃった、やりすぎは不足と同じだ

最後の「子曰、過猶不及」だけが独り歩きして「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」として使われています。

子路13-23

子曰、君子和而不同、小人同而不和

しのたまわく、くんしはわしてどうせず、しょうじんはどうしてわせず

孔子はおっしゃった、君子は他者と調和し上手くやっていくが、
決して他者に引きずられたり流されたりしない、つまらない人は他者に振り回されたり、こびへつらったりするが、決して他者と調和しようとはしない。

衛霊公15-30

子曰、過而不改、是謂過矣

しのたまわく、あやまちてあらためざる、これをあやまちという

孔子がおっしゃった、誰でも過ちを犯すが、それに気づきながらも改めようとしないことこそ、本当の過ちだ

これも今もよく使われる言ですが、今の政治家には特に必要な戒めでしょう。

紀元前に論語が現れた頃には、漢文はすでに当時の口語の煩雑さを整理して簡潔な形に凝集させた文章語として成立していましたが、条件と結果であると句、と語の関係が語順によってのみ示され、読み方は読者の常識に任されるなど簡潔すぎる特徴をもちました。

漢文は当初帰化人を始めごく一部の人たちの間で原文のまま使われていましたが、次第に表意文字である漢字に相当する日本語を訓読みとして読み方に加え、返り点、送り仮名を振って日本語として読むようになりました。

そのため原文での読みの判断と日本語として通用させる段階での読みの判断の幅が広がる結果をもたらし、これが論語の解釈が必ずしも一つではない原因になっています。

論語の中の名言は現代社会に数多く伝わっていますが、古来我が国では論語に限らず社会で生きていく上での決まりごとを、子どものうちからしっかり身につけさせる「しつけ」が厳しく行われてきました。しかし、昨今、家庭でのしつけがなおざりになっているのではないかと思われます。

戦後70年の半ば頃から小学校での学級崩壊が始まり、中学校での校内暴力が発生しました。最近では大人が「きれた」暴力沙汰がまかり通り、親が我が子を虐待して死に至らせるまでの事件が頻発しています。これらは我が国の伝統にはなかったことです。

嘘と隠蔽が大手を振ってまかり通る今の我が国の社会のあり様は、幼時からの正しいしつけがなされずに来た積み重ねのように思えます。東京の酷暑をマイルド・サニーと偽ってオリンピックを招致し、歯の浮く様な「おもてなし」で対応するのが我が国伝統の美徳ではないでしょう。

自らを厳しく律し、他人に対して敬意を以って接する、良き人間性を取り戻すことが現在の我が国に不可欠です。良き人間性の回復なしに我が国の良き将来は望めません。

 


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