参勤交替(さんきんこうたい)は江戸時代に全国に250以上あった各藩の大名に2年ごとに江戸へ出仕させ、1年後に自分の領地へ帰らせた制度で、参覲交代、参覲交替とも書きます。
幕府が諸藩の謀反を防ぐために、往復の旅費や江戸の滞在費で財政的負担を掛けて軍事力を低下させ、大名の正室と跡継ぎや有力家臣の子弟も江戸に常住させて人質としたのです。
「参勤」は自分の領地から江戸へ赴く旅「交代」は自分の領地に戻る旅のことで「参って」「覲(まみ)える」ことから、正しくは「参覲交代」と表記しますが「参勤交代」が一般化しました。
園部藩参勤交代行列図
鎌倉幕府には御家人が三年に一度鎌倉に参勤する制度があり、和田・畠山・三浦・佐々木などの譜代は鎌倉に定住し、時おり領地に戻る生活をしました。戦国時代織田信長は安土に城を築いて支配下の大名に屋敷を与え、豊臣秀吉は大坂城・聚楽第・伏見城の屋敷に大名の妻子を住まわせたのが参勤交代の原形です。
1600年(慶長5年)関ヶ原で徳川家康が勝つと諸大名は江戸に参勤するようになり、参勤交代は自発的なものから制度として定着していき、1617年(元和3年)以降は東国と西国の大名がほぼ隔年で参勤する形になりました。
1635年(寛永12年)三代将軍徳川家光の時に武家諸法度が改定され「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されて参勤交代が明文化されました。幕府はそれまで妻子を領地に置いていた譜代大名にも正室と跡継ぎを江戸に住まわせるよう命じます。
諸大名はこの制度のための大きな出費で軍事力を削がれ、跡継ぎが江戸育ちで領地との結びつきが希薄になりましたが、幕府は諸藩の財政が破綻しては本来の軍役が出来なくなるので「大名行列は身分相応に行うべき」と通達します。
武家諸法度の寛永令の条文「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事」からこのあたりの事情を読み取ることが出来ます。
諸大名は江戸と国元の一年おきの往復が義務となり、街道の整備費、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の維持費などで大きな負担を強いられましたが、1665年(寛文5年)に家臣の子弟の在府は不要になり、大名妻子の江戸在住だけが継続されます。
1853年(嘉永6年)ペリーが来航して欧米列強が開国を迫ると、幕府は鎖国を維持するため日本全国の軍備と海岸警備の増強を図り、1862年(文久2年)参勤交代を3年に1回100日とし、大名の帰国中は江戸屋敷の家臣を減ずるよう命じました。大名の嫡子・妻子の帰国を認め関所改めも簡略化しましたが、結果において幕府の威光を弱めました。
1864年(元治元年)8月京都で「禁門の変」が起こり、長州藩と幕府・薩摩藩が武力衝突します。幕府はこれを期に参勤交代制度を元に戻そうと図りますが、幕府の威信はすでに大きく低下しており1867年(慶応3年)の大政奉還に至って参勤交代は姿を消しました。
参勤交代の資料は数多く存在しますが、加賀藩の家老横山政寛が書き残した「御道中日記」には、掛かった日数や費用、苦労話がこと細かに書き残されています。
参勤交代の準備は予算の調達から始まり、徳川御三家や幕府の役人、勅使、他の大名の行列とすれ違わないような日程の調整や、宿代の交渉など準備作業は多岐にわたりました。
「金沢板橋間駅々里程表」には、金沢と板橋の間の宿泊の可能性があるすべての宿場間の距離が記されていて、限りある予算と労力でいかに江戸にたどり着くかの苦労が見て取れます。
予め幕府へ届出た期日に江戸に到着することは必須で、一日遅れると現代の貨幣価値にして数千万円以上の損失に繋がりました。道中には橋や道路の整備が不十分な場所もあり、あらかじめ橋や道路を建設しておいたり、軍事上幕府が橋を築かせない大きな河川では大量に人足を雇って、人を盾にして渡ったと云われます。
大井川の河越
加賀藩が親不知(おやしらず)を越えるには断崖の下の海岸線の狭い砂浜に沿って進まねばならず、波にさらわれないように700人の近隣住民を雇い人垣で防いで通行した記録があります。
参勤交代の大名は偶数年に江戸に来る組と奇数年に来る組に分けられ、隣国の大名同士は意図的に異なる組にされ、領国でも江戸でも隣国の大名同士の談合が出来ないように仕組まれました。各大名は4月、6月、8月のいずれかの月に国元を出発するよう決められ、江戸を出る月も定められていました。
参勤交代は軍役ですから大名は兵力として大勢の武士を引き連れましたが、道中で大名が暇を持て余したり、江戸での暮らしに不自由のないよう、かかりつけの医師、茶の湯の家元や鷹匠までが同行し、大名のための多数の手回り品を持ち運ぶ大掛かりな行列になりました。
その人数は禄高によって大きく異なりますが、百万石の加賀藩の場合2,500人から3,000人、多いときは4,000人に達しました。1841年(天保12年)に行なわれた紀州徳川家の参勤交代では武士1,639人、人足2,337人、馬103頭の記録が残されており、多くの領民が集まって見物する格式と威光に満ちた大行列でした。
自国領内では威厳を保つために服装を整え大量に人を雇って人数を多く見せかけ、領内を離れると人数も半数に減らし旅装束に着替えました。費用節約のため一日6〜9時間急ぎ足で30〜40km移動し、日程に遅れが生じると50 km近く進むこともありました。
領民はどの大名に対しても下馬し道を譲らなければなりませんでしたが、自国の領主と徳川御三家以外には土下座の必要はありませんでした。飛脚やお産の取上げに向う産婆を除いて、行列の前を横切ったり行列を乱す行為は無礼打ちの対象で、公事方御定書によって「切捨御免」でした。このため徳川御三家の場合は「下に、下に」それ以外の諸藩は「片寄れ、片寄れ」または「よけろ、よけろ」と声をかけました。
参勤交代の行列は当然他藩の領地を通りますが、通過される側の大名は贈り物や道の清掃、整備、渡し舟の貸出などもし、通る方も返礼の品を送るなど両者とも気を遣いました。
西国の大名の多くは整備の進んだ東海道を通りましたが、橋が築かれていない複数の大きな河川がしばしば増水で川止めになり、日程の変更と出費の増大に見舞われました。幕府の許可を得て川止めのない中山道に経路を変更する大名もいました。
五街道
大名は本陣と呼ばれる施設に宿泊しますが、大名が命を狙われる可能性は宿泊中が高く、護衛は寝込みを襲われないよう終夜武器を手放しませんでした。本陣の宿主にとって大名一行の宿泊は大口の収入源でしたが、行列が日程の変更を余儀なくされて宿泊が急遽中止になることも多く、宿泊準備費用を巡って面倒が絶えなかったと云います。
草津本陣
草津宿は東海道五十三次52番目の宿場で中山道が合流
国の史跡に指定されている
関所では大名の籠の窓を開けて関所の役人に顔を見せて通過し、関所の役人は行列の人数や槍、弓などの装備を幕府に報告しました。
江戸の住民にも威厳を見せるため、大名行列が江戸下屋敷に到着すると服装を替え、予め雇っておいた人足を加えて華美な行列に仕立て直し、江戸城に到着すると大名は将軍に拝謁し在府生活が始まります。
江戸で一年を過ごす大名が多かったのですが、関東の大名は半年ごとに国元と江戸を往復するよう定められ、長崎警護の福岡藩と佐賀藩は2年のうち100日を江戸で過ごせばよく、対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月のみを江戸で過ごしました。
参勤交代の費用は江戸からの距離によって異なりますが、藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めると50%から75%が当てられました。庄内藩酒井氏の場合1702年(元禄15年)から1706年(宝永3年)までの歳出の82%が江戸で消費され、岸和田藩岡部氏の場合1776年(安永5年)の江戸での費用が全体の84%に達していて、中小の藩では参勤交代に要する費用が歳出の大部分を占めました。
参勤交代用の街道の整備費、道中の宿泊費や移動費、江戸藩邸の維持費などのもたらす経済効果は絶大で、交通の発達や都市の発展を後世にもたらしましたが、熊沢蕃山・室鳩巣らによって参勤交代が諸藩の財政難の原因であると批判され、徳川吉宗の時代には江戸の在府期間が半年に短縮されました。
参勤交代の道中での大名の暗殺や病気、事故などに対処するために大切なのが行列の「持ち物」で、そんなものまでと驚くようなものも運ばれましたが、大きな漬物石を載せた「漬物樽」もその一つでした。
大名は道中での毒殺を防ぐために本陣の食事を口にせず、藩主お抱えの料理人が同行して領国から持参した食材を使って食事を出すので、常日頃使用している調理器具もそのまま持ち物になりました。
「鉄板」も人足泣かせで、これは全国の大名が持ち運んでいたものではありませんが、徳川御三家の紀州藩では幅3mの鉄板を運び、宿に着くとその都度藩主の部屋に持ち込んで、藩主の寝床が床下から刺客に襲われないようにしました。藩主は道中だけでなく宿でも携帯用の厠を使用しましたが、宿の雪隠は寝床と同様下から狙われる場所でした。
18世紀の江戸の人口の4分の1の25万人は参勤交代で地方から来ていた武士たちで、この武士たちを通じて江戸の文化が全国に広まり、地方の言語・文化・風俗が江戸に流入しました。全国どこでも同じ画像が見られる現代のテレビが、日本文化の均一性に貢献しているのと同じ現象です。
参勤交代は諸藩の経済的負担が大きすぎ、頻発する飢饉に対応し切れない負の要因にもなりましたが、差引勘定では江戸時代の経済の発展に貢献し、江戸から遠い諸藩にまで均一な文化をもたらした役割が勝ったと評価できるでしょう。