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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

参勤交替

2021-04-29 07:52:54 | 日記

参勤交替(さんきんこうたい)は江戸時代に全国に250以上あった各藩の大名に2年ごとに江戸へ出仕させ、1年後に自分の領地へ帰らせた制度で、参覲交代、参覲交替とも書きます。

幕府が諸藩の謀反を防ぐために、往復の旅費や江戸の滞在費で財政的負担を掛けて軍事力を低下させ、大名の正室と跡継ぎや有力家臣の子弟も江戸に常住させて人質としたのです。

「参勤」は自分の領地から江戸へ赴く旅「交代」は自分の領地に戻る旅のことで「参って」「覲(まみ)える」ことから、正しくは「参覲交代」と表記しますが「参勤交代」が一般化しました。

園部藩参勤交代行列図

鎌倉幕府には御家人が三年に一度鎌倉に参勤する制度があり、和田・畠山・三浦・佐々木などの譜代は鎌倉に定住し、時おり領地に戻る生活をしました。戦国時代織田信長は安土に城を築いて支配下の大名に屋敷を与え、豊臣秀吉は大坂城・聚楽第・伏見城の屋敷に大名の妻子を住まわせたのが参勤交代の原形です。

1600年(慶長5年)関ヶ原で徳川家康が勝つと諸大名は江戸に参勤するようになり、参勤交代は自発的なものから制度として定着していき、1617年(元和3年)以降は東国と西国の大名がほぼ隔年で参勤する形になりました。

1635年(寛永12年)三代将軍徳川家光の時に武家諸法度が改定され「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されて参勤交代が明文化されました。幕府はそれまで妻子を領地に置いていた譜代大名にも正室と跡継ぎを江戸に住まわせるよう命じます。

諸大名はこの制度のための大きな出費で軍事力を削がれ、跡継ぎが江戸育ちで領地との結びつきが希薄になりましたが、幕府は諸藩の財政が破綻しては本来の軍役が出来なくなるので「大名行列は身分相応に行うべき」と通達します。

武家諸法度の寛永令の条文「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参覲致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事」からこのあたりの事情を読み取ることが出来ます。

諸大名は江戸と国元の一年おきの往復が義務となり、街道の整備費、道中の宿泊費や移動費、国元の居城と江戸藩邸の維持費などで大きな負担を強いられましたが、1665年(寛文5年)に家臣の子弟の在府は不要になり、大名妻子の江戸在住だけが継続されます。

1853年(嘉永6年)ペリーが来航して欧米列強が開国を迫ると、幕府は鎖国を維持するため日本全国の軍備と海岸警備の増強を図り、1862年(文久2年)参勤交代を3年に1回100日とし、大名の帰国中は江戸屋敷の家臣を減ずるよう命じました。大名の嫡子・妻子の帰国を認め関所改めも簡略化しましたが、結果において幕府の威光を弱めました。

1864年(元治元年)8月京都で「禁門の変」が起こり、長州藩と幕府・薩摩藩が武力衝突します。幕府はこれを期に参勤交代制度を元に戻そうと図りますが、幕府の威信はすでに大きく低下しており1867年(慶応3年)の大政奉還に至って参勤交代は姿を消しました。

参勤交代の資料は数多く存在しますが、加賀藩の家老横山政寛が書き残した「御道中日記」には、掛かった日数や費用、苦労話がこと細かに書き残されています。

参勤交代の準備は予算の調達から始まり、徳川御三家や幕府の役人、勅使、他の大名の行列とすれ違わないような日程の調整や、宿代の交渉など準備作業は多岐にわたりました。

「金沢板橋間駅々里程表」には、金沢と板橋の間の宿泊の可能性があるすべての宿場間の距離が記されていて、限りある予算と労力でいかに江戸にたどり着くかの苦労が見て取れます。

予め幕府へ届出た期日に江戸に到着することは必須で、一日遅れると現代の貨幣価値にして数千万円以上の損失に繋がりました。道中には橋や道路の整備が不十分な場所もあり、あらかじめ橋や道路を建設しておいたり、軍事上幕府が橋を築かせない大きな河川では大量に人足を雇って、人を盾にして渡ったと云われます。

大井川の河越

加賀藩が親不知(おやしらず)を越えるには断崖の下の海岸線の狭い砂浜に沿って進まねばならず、波にさらわれないように700人の近隣住民を雇い人垣で防いで通行した記録があります。

参勤交代の大名は偶数年に江戸に来る組と奇数年に来る組に分けられ、隣国の大名同士は意図的に異なる組にされ、領国でも江戸でも隣国の大名同士の談合が出来ないように仕組まれました。各大名は4月、6月、8月のいずれかの月に国元を出発するよう決められ、江戸を出る月も定められていました。

参勤交代は軍役ですから大名は兵力として大勢の武士を引き連れましたが、道中で大名が暇を持て余したり、江戸での暮らしに不自由のないよう、かかりつけの医師、茶の湯の家元や鷹匠までが同行し、大名のための多数の手回り品を持ち運ぶ大掛かりな行列になりました。

その人数は禄高によって大きく異なりますが、百万石の加賀藩の場合2,500人から3,000人、多いときは4,000人に達しました。1841年(天保12年)に行なわれた紀州徳川家の参勤交代では武士1,639人、人足2,337人、馬103頭の記録が残されており、多くの領民が集まって見物する格式と威光に満ちた大行列でした。

自国領内では威厳を保つために服装を整え大量に人を雇って人数を多く見せかけ、領内を離れると人数も半数に減らし旅装束に着替えました。費用節約のため一日6〜9時間急ぎ足で30〜40km移動し、日程に遅れが生じると50 km近く進むこともありました。

領民はどの大名に対しても下馬し道を譲らなければなりませんでしたが、自国の領主と徳川御三家以外には土下座の必要はありませんでした。飛脚やお産の取上げに向う産婆を除いて、行列の前を横切ったり行列を乱す行為は無礼打ちの対象で、公事方御定書によって「切捨御免」でした。このため徳川御三家の場合は「下に、下に」それ以外の諸藩は「片寄れ、片寄れ」または「よけろ、よけろ」と声をかけました。

参勤交代の行列は当然他藩の領地を通りますが、通過される側の大名は贈り物や道の清掃、整備、渡し舟の貸出などもし、通る方も返礼の品を送るなど両者とも気を遣いました。

西国の大名の多くは整備の進んだ東海道を通りましたが、橋が築かれていない複数の大きな河川がしばしば増水で川止めになり、日程の変更と出費の増大に見舞われました。幕府の許可を得て川止めのない中山道に経路を変更する大名もいました。

五街道

大名は本陣と呼ばれる施設に宿泊しますが、大名が命を狙われる可能性は宿泊中が高く、護衛は寝込みを襲われないよう終夜武器を手放しませんでした。本陣の宿主にとって大名一行の宿泊は大口の収入源でしたが、行列が日程の変更を余儀なくされて宿泊が急遽中止になることも多く、宿泊準備費用を巡って面倒が絶えなかったと云います。

草津本陣

草津宿は東海道五十三次52番目の宿場で中山道が合流

国の史跡に指定されている

関所では大名の籠の窓を開けて関所の役人に顔を見せて通過し、関所の役人は行列の人数や槍、弓などの装備を幕府に報告しました。

江戸の住民にも威厳を見せるため、大名行列が江戸下屋敷に到着すると服装を替え、予め雇っておいた人足を加えて華美な行列に仕立て直し、江戸城に到着すると大名は将軍に拝謁し在府生活が始まります。

江戸で一年を過ごす大名が多かったのですが、関東の大名は半年ごとに国元と江戸を往復するよう定められ、長崎警護の福岡藩と佐賀藩は2年のうち100日を江戸で過ごせばよく、対馬藩は3年に4か月、松前藩は5年に4か月のみを江戸で過ごしました。

参勤交代の費用は江戸からの距離によって異なりますが、藩収入の5%から20%、江戸藩邸の費用を含めると50%から75%が当てられました。庄内藩酒井氏の場合1702年(元禄15年)から1706年(宝永3年)までの歳出の82%が江戸で消費され、岸和田藩岡部氏の場合1776年(安永5年)の江戸での費用が全体の84%に達していて、中小の藩では参勤交代に要する費用が歳出の大部分を占めました。

参勤交代用の街道の整備費、道中の宿泊費や移動費、江戸藩邸の維持費などのもたらす経済効果は絶大で、交通の発達や都市の発展を後世にもたらしましたが、熊沢蕃山・室鳩巣らによって参勤交代が諸藩の財政難の原因であると批判され、徳川吉宗の時代には江戸の在府期間が半年に短縮されました。

参勤交代の道中での大名の暗殺や病気、事故などに対処するために大切なのが行列の「持ち物」で、そんなものまでと驚くようなものも運ばれましたが、大きな漬物石を載せた「漬物樽」もその一つでした。

大名は道中での毒殺を防ぐために本陣の食事を口にせず、藩主お抱えの料理人が同行して領国から持参した食材を使って食事を出すので、常日頃使用している調理器具もそのまま持ち物になりました。

「鉄板」も人足泣かせで、これは全国の大名が持ち運んでいたものではありませんが、徳川御三家の紀州藩では幅3mの鉄板を運び、宿に着くとその都度藩主の部屋に持ち込んで、藩主の寝床が床下から刺客に襲われないようにしました。藩主は道中だけでなく宿でも携帯用の厠を使用しましたが、宿の雪隠は寝床と同様下から狙われる場所でした。

18世紀の江戸の人口の4分の1の25万人は参勤交代で地方から来ていた武士たちで、この武士たちを通じて江戸の文化が全国に広まり、地方の言語・文化・風俗が江戸に流入しました。全国どこでも同じ画像が見られる現代のテレビが、日本文化の均一性に貢献しているのと同じ現象です。

参勤交代は諸藩の経済的負担が大きすぎ、頻発する飢饉に対応し切れない負の要因にもなりましたが、差引勘定では江戸時代の経済の発展に貢献し、江戸から遠い諸藩にまで均一な文化をもたらした役割が勝ったと評価できるでしょう。

 

 


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江戸四大飢饉

2021-04-15 06:26:23 | 日記

江戸四大飢饉とは1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)の「寛永の大飢饉」、1732年(享保17年)の「享保の大飢饉」、1782年(天明2年)~1787年(天明7年)の「天明の大飢饉」、1833年(天保4年)~1839年(天保10年)の「天保の大飢饉」を指します。

江戸時代に起きた飢饉のうちでも四大飢饉は長期にわたる冷害・旱魃・水害などの異常気象や、害虫の異常発生、火山噴火などによって起きた凶作の連続で被害が大きく、なかでも天明の大飢饉は近世における最大の飢饉でした。

天命の大飢饉

1770年代の東北地方は悪天候や冷害で農作物の収穫が激減していましたが、1783年4月13日岩木山、8月3日浅間山が噴火し、各地に大量の火山灰を降らせました。火山灰の堆積による作物の直接の被害のほか、火山の噴煙が日射量の低下をもたらした冷害で、農作物に壊滅的被害が生じ翌年から深刻な飢饉におちいりました。

杉田玄白は「後見草」で東北地方の農村を中心に全国で数万人が餓死したと伝えていますが死人の肉を食べるほどの惨状で、ある藩の記録に「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情」とあります。諸藩は幕府に失政を咎められることを恐れて、被害の深刻さが表沙汰にならないように努めたので、実際の餓死者は遥かに多かったとみられています。

被害は特に陸奥でひどく弘前藩では死者が10数万人に達したと伝えられ、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失いました。飢餓とともに疫病もはやり、1780年から1786年の間に全国で92万人余の人口減少を招いたとされます。

農村部から逃げ出した農民は都市部へ流入して治安が悪化し、1787年には江戸や大坂で米屋の打ちこわしが起こり、江戸では千軒の米屋と八千軒以上の商家が襲われる無法状態が3日間続き、打ちこわしは全国へ波及しました。

大塩平八郎の乱は1837年(天保8年)大坂町奉行所の元与力大塩平八郎と門人らが起こしたものです。1833年に始まった天保の大飢饉で1876年までに全国各地で百姓一揆が発生していましたが、大坂も米不足で大坂東町奉行の元与力で陽明学者であった大塩平八郎は、奉行所に民衆の救援を進言しましたが受け入れられず、自らの蔵書5万冊すべてを売却して救済に当たりました。

大坂町奉行の跡部良弼は大坂の窮状を顧みず豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶の就任式のため江戸へ廻米しており、平八郎はこのような窮状の中で米の買い占めで利を求める豪商に対する怒りが募り、家族を離縁した上で家財を売却し、武装蜂起に備えて大砲や焙烙玉(爆薬)を整え、大阪町奉行所の不正や役人の汚職を訴える書状を江戸の幕閣に送りました。

決起直前になって町目付平山助次郎が離反し2月17日夜東町奉行跡部良弼に決起計画と参加者を密告しました。19日早朝にも数名の大塩の門弟が東町奉行所に計画を通報し、計画が奉行所に察知されたことを知った大塩は2月19日の朝自らの屋敷に火をかけて蜂起します。

大塩一党は総勢300人ほどの勢力となって、船場で三井や鴻池などの豪商を襲い大砲や火矢を放ちましが、僅か半日で鎮圧されてしまいました。

大塩平八郎の乱

船場の大火

幕府はこれらの世情から寛政の改革を試み、幕藩体制の強化と各地の新田開発や耕地灌漑事業を始めましたが、行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川は耕作地に近すぎて洪水を頻発させました。

当時は田沼意次の重商主義の時代で「商業的農業の公認による年貢増徴策」によって地方の諸藩は稲作を奨励し、当時は耐寒性イネ品種が普及する前で温暖な地域でなければ育たないコメを寒冷地域に作付けしたため、減作や無作などの危機的状況を招きました。さらに備蓄米を江戸への廻米に向けて失政を重ね、大凶作で米価の上昇に歯止めがかからず飢饉が全国規模に拡大しました。

弘前藩では天明初年の杜撰な新産業政策が失敗して藩財政は困窮し、天明2年から年貢を増徴、農民が万一のために貯蔵していた備荒蓄米を強制的に買上げて江戸へ廻米し、京阪の商人への借財の返済に当てて藩財政の穴埋めをしました。藩内の米は領民の必要量に足りなくなり餓死者が続出、秋田藩領へ逃散する者が続出し一冬で8万人を超える死者を出しました。

南部藩はもともと気候条件が悪くコメの生産性も低くて、江戸時代230年間を通して約50回の凶作・飢饉が記録されました。天明3年は土用になっても「やませ」で気温が上がらず稲の成長が止まり、加えて大風、霜害によって収穫皆無という未曾有の大凶作になり、その年の秋から翌年にかけて多くの餓死者を出しました。

自然災害の上に苛烈な年貢が課せられて農民の負担は限度を超え、コメの再生産が不可能な状態に陥り7万5千人を超える死者を出しました。これは南部藩人口の4分の1に当り、飢えた領民は野山の草木や獣畜を食べ尽し、領内各所で人肉を食べた記録が残されています。

八戸藩は南部藩の支藩で南部藩の北方に位置し、1783年(天明3年)の収穫は実高から9割5分以上の減、翌年も8割を超える減となりました。天明5年の調査で藩人口6万5千余のうち3万人が餓死し、その直後に疫病が蔓延してさらに数千人が死亡しました。

仙台藩は宝暦の飢饉の影響が回復する前に、幕府から国役普請(費用の10分の1を幕府が負担し残りを国役とした各地の土木工事)の莫大な費用負担を命じられて極度の財政窮乏に陥りました。そのため天明元年に「買米仕法」を復活し、年貢米だけでなく上層農民のもつ余剰米を低価格で買い集めて江戸へ廻米し、藩財政の穴埋めに回しました。

買米仕法は役人の汚職や米の密移出をもたらして藩内の米価の高騰を招き、天明4年には藩札を発行して強制的に幕府正金との引き換えを計りましたが、藩札が暴落して領民の困窮が進み、他藩からの米買入も実現しませんでした。

米沢藩は1767年(明和4年)上杉鷹山による改革が開始され、宝暦の飢饉などの経験から1774年に備荒貯蓄制度を進め飢饉対策が建てられていました。1783年(天明3年)8月には救荒令により麦作を奨励し、同時期の近隣他藩が江戸への廻米を強行しているなかで、米沢藩は越後と酒田から11,605俵(領民10万人の1日2合として90日分)の米を買入れ領民に供給しました。

白河藩は凶作で打ち壊しなどの事態が起きると、藩主松平定信が分領の越後から米を取り寄せ、会津藩や江戸、大坂から米や雑穀を買い集め、藩内の庄屋や豪農などからも寄付を募りました。定信は農民に開墾を奨励する重農主義を取っており、自らの質素倹約を説いた藩を挙げての対策が功を奏し、領民から一人も餓死者を出さなかったと伝えられます。定信はその手腕を買われて後に幕府の老中に任じられます。

飢饉をもたらした異常気象の原因には諸説がありますが、有力な説は火山噴出物による日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドのラーカギーガル (Lakagígar、英名Laki) 火山  の巨大噴火と、同じくアイスランドの1783年から1785年にかけてのグリムスヴォトン (Grímsvötn) 火山の噴火による北半球の日照不足です。

これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆って地上に達する日射量を減少させ、10年間に渡って北半球に低温・冷害をもたらしました。

1783年4月13日岩木山が噴火、8月5日浅間山の大噴火が始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉を悪化させました。1783年からのアイスランドの巨大火山噴火の日傘効果は10年続きましたが、我が国の異常気象による不作は1782年に始まっていて、1783年の浅間山とラキの噴火では1783年の飢饉の原因を説明し切れません。

天命3年の火山の噴火

1785年(天明5年)八戸の対泉院に餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)と戒壇石(かいだんせき)が建立されました。両碑の裏面には天明の大飢饉当時の八戸領内の天候や作物の状況、食生活、餓死者や病死者の数、放火や強盗といった治安悪化の様子や飢饉で得た教訓を後世に伝える内容が記されています。

餓死萬霊等供養塔

戒壇石裏面

人肉を食す様子を記した部分はいつの日か削られていますが、1988年(昭和63年)青森県史跡に指定され、気象条件が稲作に向かない土地で農民が稲作を強いられ、徹底した年貢米の収奪がさらに窮状に拍車をかけたことをよく伝えています。 

明治以降日本は西欧から新たな技術を取り入れ、独自の技術開発を進めて食料の増産に力を入れましたが、凶作は絶えませんでした。昭和に入っても凶作は起こり、昭和9年(1934年)10月26日付け秋田魁新聞は被害の実態を次のように報じています。

「秋田県由利郡直根村百宅のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の民は天に号泣し地に哀訴の術も空しく、飢え迫る日を待つのみの状態である。同は戸数100戸、作付け反別80町歩、冷害のためほとんど全滅だ」。

昭和9年秋田県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母兄弟を飢餓より救うべく、悲しい犠牲となった彼女たちの数は1万1,182人で、前年の4,417人に比べて2.7倍に増加している。身売り娘が多かったのは秋田の米どころの雄勝・平鹿・仙北三郡で、身売り防止が広く呼びかけられたが、小作農家の貧しさの根本的解決がない限り身売りの根絶は困難であった」。

二・二六事件は1936年(昭和11年)に「昭和維新尊皇斬奸」を掲げて青年将校らが蹶起した事件ですが、士官たちが蹶起に至った背景の一つは当時の農村の窮状でした。隊付将校は農村の兵たちの姉妹が身売りから逃れられない窮状を知り、憂国の念を強くしたのです。

日本人にとって米を主食とすることは有史以来の宿願でした。敗戦後10年を経て昭和40年代初頭に肥料、農薬、農業機械の導入でようやく米の自給が実現でき、名実ともに我が国の主食となりましたが、その時には学校のパン給食や栄養改善運動などで食事の欧風化が進み始めていて米離れに向かいました。

水稲の作付面積は1969年(昭和44年)の 317万haをピークに、生産量も 1967年(昭和42年)の 1,426万tをピークに、2000年(平成12年)以降作付面積は半減し生産量は60%になり、日本人1人あたりの年間消費量も1990年代(平成2年~平成11年)後半には一頃の半分以下の60kg台に落ち込んでいます。

飢餓は現在も存在していて、昭和のはじめや敗戦直後の話ではなく、コロナ騒ぎが始まる前から学校給食がないと飢える子供たちがいて、子供食堂が全国に必要なのがGDP世界第3位の日本の実情です。

毎年世界中で生産された食料の3分の1に当たる13億tが廃棄されていて、先進国では消費段階での食べ残しや賞味期限切れですが、低開発国では貯蔵、運搬、マーケティングなどの不備で消費者に回る前に無駄になっています。

廃棄される食品の量は世界中の飢餓の人びとに充分たべさせられる量をはるかに超えているので、飢餓の現場でのNPOの支援活動に頼るだけではなく、人類全体がもっと叡智を働かして世界的な視野で根本的な飢餓対策に取り組むべきなのは明らかでしょう。

 


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札差

2021-04-01 07:00:23 | 日記

江戸時代の身分制度は士農工商(しのうこうしょう)であったとされてきましたが、実は「武士」が上位に「百姓」「町人」が下位に並んでいたもので「工」はなく町に住む職人は町人、村に住む職人は百姓だったと認識が変わり、2000年代には文部科学省検定済教科書から「士農工商」の記述がなくなっています。

古来士の数はいたって少く士と農の違いは曖昧で、農は戦いの度に雑兵として合戦に駆り出されて大軍をなしたものでした。はじめて常備軍として軍団を組織し戦力として即動員可能にしたのは織田信長です。1582年の太閤検地(天正9年)や1588年の刀狩によって武士と百姓の身分が分けられ固定化がはじまります。

江戸時代には職業が世襲となり、武士は支配者層として苗字帯刀、切捨御免の特権が許され、髷の結い方、服装などで差がつけられました。上位や中位の武士の間では身分の移動はなく、百姓、町人は職業を変えることはできましたが、武士と百姓、町人間の通婚は禁じられていました。

大きな都市が出現して商売に専従する町人が増えますが、1842年(天保13年)9月の天保の改革の御触書では幕府は「百姓の余技として町人の商売を始めてはならない」とし、農村出身の奉公人の給金に制限を設けました。これは百姓が土地を離れて農業が衰退することを危惧したものです。

1603年江戸幕府が開かれて以来、1637年~1638年の島原の乱を除いては国内で200年もの間合戦がなく、一部の武士が行政官として働いた以外、大半の武士は戦うと云う本務を失い生産性がまったくなくなりました。江戸中期になると産業の発達や貨幣経済によって町人が政治、経済に大きな力を持ちはじめ、経済的に武士と町人の力関係が逆転する事態が生じます。

幕府の旗本・御家人たちの収入は石高に応じた蔵米の現物給付でした。支給の当日給付を受ける蔵米取は、浅草御蔵の前の水茶屋や米問屋の店先などで呼出しを待ちましたが、そのうちに水茶屋や米問屋が蔵米の受け取りを代行するようになったのが札差です。

浅草御蔵

京都、大阪と併せて三御蔵あった

浅草御蔵は旗本、御家人へ米を現物支給し幕府の非常備蓄米を貯蔵した

 

大阪の蔵屋敷

江戸と同じく船便を利用した

札差(ふださし)の「札」は米の支給手形のことで、蔵米が支給される際に竹串に挟んで御蔵役所の入口にある藁束に差し順番を待ちました。札差は蔵米の受け取りを代行して米を武家に届け、武家で消費し切れない米を売ることも代行して手数料を取りました。

蔵米支給日が近づくと札差は得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって手形を預かり、蔵米を受け取ると余分の米を当日の米相場で売り、米と手数料を差引いた現金を各屋敷に届けました。客の武士たちは札旦那と呼ばれ、旗本・御家人は札差を蔵宿と呼びました。

札差の俸禄米受取り代行手数料は米100俵につき金1分で、これを米問屋に売却する手数料も100俵で金2分と定められていて、米の運搬費用は札差持ちでした。

蔵宿

旗本・御家人は食用には余る蔵米を札差に依頼して換金した

始めのうちの札差の仕事は蔵米受け取りの代行でしたが、そのうちに旗本や御家人に蔵米を抵当にして金を用立てる金融が重要な仕事になりました。金に困ると武士たちは自分の蔵宿である札差に次回の蔵米の受領、売却の依頼を確約して借金をします。

札差は支給日に、蔵米と蔵米を売却した現金から代行の手数料と借金の元利を差引いた残金を武家に届けますが、札差はこうした札旦那を何人も持つことによって金融業者として力を着けました。

1723年(享保8年)浅草蔵前の札差109人が南町奉行大岡越前守御番所に株仲間結成を願い出て、翌1724年札差株仲間が公許され株仲間以外の者が札差となることはできなくなります。

札差株仲間は御蔵前片町組・森田町組・天王町組の三組に分かれ、各組から月番で行事5名が出て、毎月の扶持米、春夏冬の俸禄米、幕府の財政上の支出米などにつき蔵前米相場を調べて、店の前に公示することを義務づけられました。

札差たちは1724年に従来の貸金の年利25%を20%に下げることを申し出ましたが「これから年一割半より高利貸し出し申す間敷候、それ以下は相対次第」と申し渡され、法定利息を15%に下げられてしまいます。

札差はすべて自前の資金で金貸しをしていたわけではなく、資金の出資者がより高利の庶民向け金融に流れたため貸金調達が難しくなり、旗本、御家人に希望通りの金融ができなくなったと陳情しました。

大岡越前守は「年一割半より高利には仰付けられがたく候。併しながら、この上少々の儀は借り主と相対次第に仕るべき由」として、相対で少々高くしても認めることにしました。これにより惣札差連印で請書を提出、札差株仲間結成以後の蔵米担保の札差貸金利子は公定の15%に3%上乗せされ、18%の年利が寛政改革まで続きます。

109人に限られた札差の株(営業権)を譲渡する際の株価が高騰し、譲渡先は札差仲間の兄弟や子供、長年札差の家に奉公した者など信頼のおける相手に限り、その住所も蔵前にすることを申合わせます。

1764年から1788年の明和・天明期の田沼時代の最盛期が札差業大繁昌の頃で、札差株は千両株と謳われ、最も景気がよいと思われていた大口屋治兵衛が伊勢屋太兵衛に株を譲り廃業したのは1767年(明和4年)でした。

1778年(安永7年)「奥印金」が禁止されて株仲間が79人に減った時期がありますが、その後は再び増えて1789年寛政の棄捐令発布時札差は96組でした。

天保年間に株仲間の解散令が発せられましたが新規開業者は現れず、1851年(嘉永4年)株仲間が再興されても、江戸札差の顔ぶれはほとんど変わりませんでした。

旗本・御家人に金融を続け多額の利潤を得た札差は、次第に武士に対し無礼な態度をとるようになります。借金を申し込んできた旗本たちへの応対は手代の対談方に任せて遊興にふけり、1781年~1801年の天明から寛政の頃には娘を「お譲様」女房を「御新造様」と武家と同じ呼び方で呼ばせました。

月番の行事役は御蔵の「中の口」の詰所に出仕して御蔵の米切手の出入を取扱い、この月番行事には札差自身が出向きましたが、それ以外の業務はすべて手代に任せ、自身は月100両も弁当代に使って江戸中の有名店の珍味を取寄せ、他の月番と遊里での遊びを語り、賭け碁や賭け将棋をし、小判を並べて博奕をすることもあったと云います。

当時、芝居小屋や吉原に出入りして粋(いき)を競い、豪遊した町人を通人(つうじん)と呼びましたが、中でも「十八大通」と呼ばれた通人の多くは札差が占めました。

江戸の長者番付

伊勢屋をはじめ札差の名前が多くみられる

旗本・御家人は年を経るごとに札差からの借金がかさみ、翌年・翌々年の蔵米までも担保として押えられ、それらの借金を返済する宛てはまったくなくなりました。札差の側も新たな融資には応じなくなります。

借りる側は腕の立つ浪人ややくざ者を差し向けて強引に金を借り出そうとし、この札差ゆすり専門家が蔵宿師(くらやどし)で、旗本・御家人の隠居や子弟がなることが増えました。1795年(寛政7年)札差の訴えで、町奉行所が悪質な蔵宿師10数名を捕えて重追放以下の刑に処しましたが、以後も跡を絶ちませんでした。

札差も勇み肌の若者を雇って対抗し、これを対談方(たいだんかた)と云います。対談方の中には1人で50~200両もの給金を取る者がいました。

札差からの借金で首の回らなくなった旗本・御家人は、借金の担保に入っている切米を、札差が受け取る前に直取り(じかどり)しました。ここでも直取りを請負う浪人者などが現れ、1766年(明和3年)札差が幕府に訴えて出た3年後にようやく直取りが全面禁止されます。

貸付金の利息は年18%に抑えられましたが、札差は様々な方法で多くの利益を挙げました。第1が奥印金(おくいんきん)で、自分名義の金融では規定通りの利子しか得られませんが、架空の金主の保証人となって借金証文に奥印を押すと、札差と旗本・御家人の貸借ではなくなるので規定に縛られません。札差は金元の仲立ちをし保証印を押す形で礼金を取りましたが、この礼金は貸金額の1、2割で、利子とともに先引きしました。

借金の返済期日は通常次期の俸禄米支給日ですが、奥印金の場合は金主の都合と称して支給前のなるべく旗本が苦しい頃を期日とするので、ほとんど返済不能です。札差は再び元利合計を新しい元金として借金証文を書き替えますが、その際旧証文期間の最後の月を新証文の最初の月に組み込んで、1か月分の利子を二重取りしました。

当時の金利計算は月単位で、借りた日が何日であろうと1か月分の利息を取っていたので、月内に新たに契約をし直せば1か月で2か月分の利息を稼げることになります。これを月踊り(つきおどり)と云いました。

1778年(安永7年)7月18日に町奉行所の命で行われた株仲間の組織改編で、申渡しの第1項に公定の利子率(年利18%)を守ること、高利礼金や奥印金の禁止、第2項では諸役向き勤め方を札差の主人自身が勤め、「武家へ対し不作法之儀これ無き様」と定められ、この改編の目的は札差による搾取や武家に対する無礼の抑止でした。

寛政の改革の一環として出された棄捐令は、発布された1789年より6年以前(1784年)までの借金を帳消しにし、5年以内(1785年~1789年)の分の利子を年利18%から6%に下げて永年賦としました。これにより96軒の札差達は1万両以上の債権放棄を強いられ、中には閉店同様になる店もありました。借金を棒引きにしてもらった武士達は老中松平定信に感謝しましたが、札差側からの金融拒否で生活が困窮し、幕府の政策を恨むようになります。

1843年(天保14年)に発令された無利子年賦返済令はさらに厳しいもので、それまでの未払いの債権をすべて無利子とし、元金の返済は原則として20年賦としたので、当時91軒だった札差の半数以上の49軒が閉店したため幕府は札差に2万両の資金を貸下げ、38軒が再び開店しました。

1862年(文久2年)には旗本・御家人の未償還の債務を年利10%から7%に下げ、返済は金額に応じて10年・20年年賦にする安利(やすり)年賦済み仕法が発布されますが、5年後の1867年(慶応3年)には大政奉還となり、徳川幕府が倒れ旗本・御家人は家禄を失い、新政府は幕臣の負債を引き受けず、札差は顧客を失い貸し倒れになって廃業しました。

翌1868年(明治元年)12月浅草蔵前の一帯は大火に襲われ、札差の家々はこれを機にほとんどが没落し、明治維新以後に近代的な資本として生まれ変わった店は極めて少なく、かつての札差の繁栄は見られませんでした。

栄枯衰勢は世の習い、奢れるものは久しからずと云いますが、時代の流れとは云え吉原で豪遊を極めた十八大通に多くの名を連ねた札差が蔵前の大火が決定的要因となって、次の明治時代にまったく何の影響も及ぼすことなく消え去ってしまったのは、歴史上あまり類を見ない事例でしょう。

 

 


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