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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

院政と源平合戦(日本の支配態勢3)

2019-06-27 06:38:20 | 日記

摂関政治が衰えた平安時代末期から鎌倉時代武家政治が始まるまでに見られた政治形態に、院政があります。上皇や法皇が天皇に代わって行う政治で、1086年に白河院が始め当初は藤原氏の摂関政治と対立しますが、保元平治の乱後は武家政治と対立していきます。

源平合戦とも云われる治承・寿永の乱は、1180年治承4年)から1185年元暦2年)まで6年に及ぶ平氏政権に対する反乱が全国各地で起こり、最終的には平氏が敗れて源頼朝による鎌倉幕府が樹立されます。

白河天皇の母は歴代の摂政関白を輩出した御堂流摂関家の出ではなかったため、白河天皇は摂関政治から脱して親政を行いました。1086年応徳3年)に8歳の堀河天皇に譲位し、上皇となって引き続き政務に当たったのが院政の始まりです。上皇として堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間にわたって政務を執りました。「平家物語」には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があります。

1107年嘉承2年)堀河天皇が亡くなり、鳥羽天皇が即位しますが5歳と幼少で政務を執れず、白河上皇は堀河天皇の時代よりさらに院政を強化することができました。鳥羽天皇は1123年(保安4年)崇徳天皇に譲位しますが、その後も実権は白河法皇が握り続けました。

白河法皇が亡くなると鳥羽上皇による院政が開始され、鳥羽上皇も子の崇徳天皇近衛天皇後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷きました。鳥羽上皇は1141年永治元年)崇徳天皇に譲位を迫り、寵愛する藤原得子の産んだ近衛天皇を即位させます。

1155年久寿2年)に近衛天皇が没すると、祖父の鳥羽法皇に養育された二条天皇が即位するまでの中継ぎとして、崇徳上皇の弟であり二条天皇の父である後白河天皇が立太子をせずに即位しました。

1156年保元元年)鳥羽法皇が亡くなると、藤原通憲(信西)は後白河天皇の対立勢力である崇徳上皇と藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の武力で後白河天皇に勝利をもたらします。敗れた崇徳上皇は讃岐に配流され、頼長は敗死しました。これが保元の乱(ほうげんのらん)です。

1158年二条天皇が即位し、後白河院制の下で権勢を握ったのは信西でした。後白河法皇は34年に亘り院政を行います。信西は国政改革に辣腕を振るいましたが、北面武士の中で最大の兵力を有する平氏の後ろ盾が不可欠で、平清盛を厚遇し子の成憲と清盛の娘の婚約で平氏との提携を世間に示しました。

後白河院政派・信西一門・二条親政派・平氏一門と4つの政治勢力が形成され、後白河院政派と二条親政派は激しく対立しますが、反信西では一致します。清盛は両派の対立には中立的でした。

1159年(平治元年)12月清盛が熊野参詣に赴いた折に反信西派がクーデターを起こし、12月9日深夜藤原信頼と源氏の軍勢が院御所を襲撃して後白河院を軟禁し、13日信西は山城国まで逃れましたが自害しました。

二条天皇と後白河上皇の身柄を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行い源義朝を播磨守、嫡子頼朝右兵衛権佐につけます。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱きました。

京都の異変を知って清盛が17日帰京すると、義朝の武力に頼った信頼の軍事的優位が揺らぎます。信西と親しかった内大臣三条公教は清盛を説得し、二条親政派と二条天皇の六波羅脱出計画を練りました。

この計画を知らされた後白河院が25日夜仁和寺に脱出、日付が変わると二条天皇が六波羅の清盛の邸へ移りました。公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結し、信頼と提携関係にあった摂関家の忠通、基実父子も参入したことで、信頼、義朝追討の宣旨が下されます。

義朝は寡兵のため六条河原であえなく敗れ、東国への脱出を図りますが頼朝とはぐれて12月29日尾張国で殺害されました。後白河上皇と二条天皇の対立は小康状態となり、平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め政治への影響力を増しました。これが平治の乱です。

清盛は妻の時子が乳母だったことから二条天皇の後見役となって検非違使別当中納言になる一方で、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇と上皇の双方に仕えました。

1161年応保元年)後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王 後の高倉天皇)が生まれ、上皇側にこの皇子を皇太子にする動きがみられると、二条天皇は後白河院近臣の平時忠平教盛藤原成親坊門信隆らを解官して、後白河上皇の政治介入を停止しました。

清盛は二条天皇支持の姿勢を明確にして親政を軌道に乗せ、関白近衛基実に娘盛子を嫁がせて摂関家と緊密な関係を結ぶ一方、院政を停止させられた後白河上皇にも蓮華王院を造営して荘園を寄進します。

1165年(長寛3年)二条天皇が亡くなると、後継の六条天皇は幼少のため近衛基実が摂政として政治を主導し、清盛は大納言に昇進して基実を補佐します。

1166年永万2年)摂政近衛基実が急死して基実の弟松殿基房が摂政となり、後白河院政が復活しました。平氏にとっては基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば大打撃になるので、清盛は基実の妻であった娘の盛子に摂関家領を相続させます。

憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、1167年仁安2年)に太政大臣になりますが3か月で辞任して、清盛は表向き政界から引退し嫡子重盛を後継者としました。

1168年(仁安3年)後白河院はわずか5歳の六条天皇を退位させ、8歳の高倉天皇を擁立して院政を敷きます。

 

1172年(承安2年)高倉天皇は清盛の娘徳子を中宮に迎え、1178年(治承2年)徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生すると早々に皇太子に決めました。

1179年清盛の娘で近衛基実の妻であった盛子が死去すると、後白河院は盛子が相続していた摂関家領のすべてを没収し、清盛の嗣子重盛が死去すると重盛の知行国も没収します。

この挙に1179年(治承3年)11月清盛は大軍を率いて福原から上洛し、後白河法皇を幽閉して院政を停止します。清盛の娘婿の近衛基通が摂政になり、院の近臣の多くが解官され、翌1180年高倉天皇は安徳天皇に譲位して高倉院政が開始されました。

この政変で平氏の知行は17か国から32か国に急増しましたが、東国では新たに国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばし、国衙を巡る在地の勢力争いは一触即発の状況となりました。

1180年(治承4年)安徳天皇の即位で皇位継承が絶望となった後白河院の皇子以仁王が源頼政を頼んで、平氏追討・安徳天皇廃位・新政権樹立の令旨を発しました。挙兵直前に企てが漏れて以仁王らは平氏に討ち取られましたが、以仁王の令旨は各地の武士に伝えられ反平氏の動きが起こります。

伊豆に配流されていた頼朝は8月17日に挙兵して伊豆国目代の山木兼隆を襲撃します。その直後頼朝は相模国石橋山で大庭景親らに惨敗して海路で安房国へ逃れ、三浦半島の豪族の三浦氏と合流して房総半島の上総広常千葉常胤、武蔵の足立遠元畠山重忠らの諸豪族を傘下に加え、急速に大勢力となりました。

10月6日頼朝は先祖ゆかりの鎌倉へ入って関東政権を樹立し、甲斐武田信義や、信濃木曾義仲も相次いで兵を挙げました。平氏政権は平維盛忠度らの追討軍を東国に派遣しますが、10月18日駿河国富士川で反乱軍と対峙し目立った交戦もないまま平氏軍は敗走します。

東国以外でも土佐源希義河内源義基義兼父子、美濃土岐氏近江佐々木氏熊野湛増伊予河野氏肥後菊池氏のほか、若狭越前加賀の在庁官人など多くの勢力が挙兵しました。

畿内では寺社勢力を中心に反平氏の動きが活発化し、清盛は遷都していた福原から京に都を戻して制圧に乗り出します。1180年12月平重衡は畿内最大の反平氏勢力興福寺を焼き討ちにし、1181年正月に紀伊熊野三山勢力が挙兵しますが平氏は畿内制圧に成功しました。

その中で高倉上皇が亡くなり、平氏は後白河院政の復活を余儀なくされます。閏2月に清盛が没して平氏は強力な指導者を失いました。当時の坂東の武士達の最優先事項は自らの権益の確保と拡大でしたが、頼朝は御家人に対して本領安堵、新恩給付と所領の保証を行って主従関係を強固にし、坂東における地位を固めていきます。

1181年6月木曾義仲が信濃から越後を席巻し、北陸へ転進して在地勢力と結び、義仲を頼って来た以仁王の子北陸宮(ほくろくのみや)を推戴して北陸における優位を確立しました。

1183年(寿永2年)4月平氏は平維盛通盛率いる大軍を北陸に派遣します。平氏軍は越前・加賀の反乱勢力を撃破しますが、5月に加賀越中国境の倶利伽羅峠で木曽義仲に大敗しました。

 

7月義仲軍は延暦寺まで到達し、多田行綱は摂津・河内を占拠して平氏の補給路を遮断、遠江安田義定も東海道を進撃して京都に迫りました。京都の防衛を断念した平宗盛安徳天皇三種の神器を護り西国に逃れます。

後白河法皇は都落ちに同行せず比叡山へ逃れ、安徳天皇を奉じる平氏の正統性が弱まりました。義仲軍が上洛を果たした都では安徳天皇に代わる天皇を擁立することになり、義仲は北陸宮の即位を強硬に主張しますが高倉上皇の第四皇子の後鳥羽天皇が即位して、二人の天皇が存在する異例の事態が起きます。

同年9月後白河法皇の命で義仲は平氏追討のため山陽道へ向かい、閏10月に備中水島で平氏軍に大敗します。義仲の不在中に後白河法皇は頼朝に使者を送り上洛を促しますが頼朝は動かず、東海道東山道北陸道国衙領荘園をもとの国司本所へ返す宣旨の発布を法皇に要請しました。法皇は頼朝の要請を入れ「寿永二年十月宣旨」を発します。平治の乱以降流刑者であった頼朝は以前の従五位下の位階に復し、反逆者でなくなりました。

頼朝が義経を上洛させると伝え聞いた義仲は山陽道から帰京します。義経は11月初めに近江まで達し、義仲は11月後白河法皇を幽閉して松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立、法皇に頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌1184年正月には征東大将軍となって官軍の体裁を整えました。

頼朝は範頼を援軍として派遣し、正月20日範頼と義経は勢多と田原から総攻撃を開始します。義経は宇治の防衛線を突破して入洛し法皇の身柄を確保しました。義仲は近江粟津で戦死します。

平氏はその間に勢力を立て直して1184年正月には摂津福原まで戻っていました。都では安徳天皇の元にある三種の神器を武力で奪還すべく、範頼・義経が福原の平氏を二手に分かれて急襲し、一ノ谷合戦で海上へ敗走させます。

一ノ谷で敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置きますが、義経は1185年正月後白河法皇に出陣の許可を得、同年2月阿波勝浦に上陸して在地武士を味方に引き入れ、背後から屋島を急襲して平氏を追い落としました。

平氏は長門へ撤退し、1185年(元暦2年)3月24日関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われ、安徳天皇と二位尼三種の神器とともに入水し平氏は滅亡しました。

 

治承・寿永の乱は単なる源氏と平氏の争いではありませんでした。この乱には寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、北陸や九州の在地豪族など源平には無縁の武士の勢力も数多く蜂起しています。

平氏は武家として初めて政治の実権を握りましたが、摂関政治とまったく同じ政治形態を踏襲し短期間に滅亡しました。これに代わる源頼朝は朝廷から距離を置くため鎌倉に幕府を設けました。頼朝が平家討伐の最大の功労者であった義経を許さなかったのは、義経が後白河法皇に囲い込まれて頼朝に対抗する勢力に育てられることを恐れたためと思われます。

創成期の鎌倉幕府と朝廷は多くの軋轢を抱えながらも荘園公領制の維持では利害が一致しており、両者が全面衝突するのは30年後の承久の乱になります。


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武士の起こりと武家政権(日本の支配態勢2)

2019-06-13 06:16:40 | 日記

古代にも軍事を主務とする物部氏大伴氏などの豪族がいましたが、古代後期から中世初期にかけて現れた軍事専門の貴族を軍事貴族と呼びます。地方に土着した軍事貴族は力をつけて団結し、やがては武力を背景にした武家政権が誕生する素地を作ります。

7世紀後期に形成された律令制では官職の世襲を認めなかったため、各地に軍団が設置されると物部・大伴氏に代わって軍団が軍事を担いました。8世紀末から9世紀にかけては軍団が廃止され、軍事動員が必要な時は太政官が「発兵勅符」を出し、国衙(こくが 国司の役所)が国内で兵力を動員しました。9世紀末になると農民の偽籍・浮浪・逃亡が顕著となり、動員の対象となる農民を把握することが難かしくなります。

9世紀末から10世紀初期に坂東で中央へ納める官物を強奪する「群盗蜂起」が頻発し、朝廷は発兵勅符を「追捕官符」に代えて受領に広い軍事裁量権を与え、国単位で動員した兵力を国衙・押領使・追捕使の指揮下に入れることにしました。

この軍制改革は地方への権限移譲の始まりで、律令制を支配原則としなくなった王朝国家への転換を示すものでした。群盗追討で名を馳せたのが藤原為憲藤原利仁藤原秀郷平高望国香父子、源経基らの下級貴族で、父祖の世代が対戦した蝦夷の戦術を学び、大鎧太刀を身につけて長弓を操る騎馬戦士として活躍しました。

 

彼らは国司や押領使として勲功を挙げ、国衙から公田経営を任されるなど自らの経済基盤を築きましたが、朝廷の彼らに対する処遇には不満が蓄積していきます。

935年〜941年の承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平将門と藤原純友が地域紛争に介入したときの対応を国衙が誤り、それをきっかけとした朝廷への不満の爆発でした。は

関東では平将門受領と地方富豪層の間の紛争の調停に入りましたが、そのこじれから国衙と戦う羽目になり結果的に関東を制圧しましたが、新皇と自称するに至って叛乱とみなされ朝廷軍に鎮圧されました。

瀬戸内海では海賊鎮圧に当たっていた藤原純友が京から赴任した受領達と対立し、伊予の国衙を奪い、東は淡路から西は大宰府までを攻略しましたが、将門の乱を収拾した朝廷軍の追討を受け滅ぼされました。

両者の鎮圧に勲功のあったのは公家の血統であっても官位が低い者たちでした。彼らの不満を抑えるために朝廷は五位・六位の中・下流公家に昇進させ、承平天慶の乱の勲功者とその子孫は兵の家(つわもののいえ)として認知されていきます。

11世紀に入ると官職の世襲が確立され、兵の家の家系も固定化していきました。彼らの多くは六位の身分でしたが、上層の者は四位・五位まで昇進して受領級の官職に任命されて軍事貴族になりました。

四位に叙されるのは藤原南家藤原北家清和源氏桓武平氏に限られ、当初源頼光頼信らが正四位に叙されて清和源氏が武家の棟梁と目されましたが、源義親の代に失脚して平忠盛が正四位に昇り、武家の棟梁が清和源氏から桓武平氏へ移ります。

軍事貴族の「武家」としての職能は国衙軍制の中で発揮されました。郡司や富豪百姓との関係を継続的に構築していき、在地の豪族との間には主従関係が徐々に築かれていきます。

一方摂関家など有力公家の家司や上皇の院司として、私的に奉仕する側面も持つようになります。清和源氏は代々藤原北家家司として仕え、摂関家への貢献によって源頼光源頼親兄弟、源頼義源義家父子が相次いで正四位と軍事貴族最高位に叙せられ武家の棟梁の立場を得ました。

白河院院政を開始すると平忠盛は院司となり、正四位に叙せられて軍事貴族の最高位者として台頭します。武家の棟梁の地位が源氏から平氏へ移ったのは、政治の実権が摂関家から院政を布く治天の君へと代わった事情がありました。

12世紀中期の保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱平清盛は宿敵の源義朝を倒し、1160年正三位参議1167年には太政大臣に昇り、清盛一族は平氏政権を樹立します。

平氏は武家政権ですが、平氏一門で朝廷の官位を占めて清盛は天皇外戚となり、摂関政治とまったく同じ政治形態を踏襲しました。平家は繁栄を誇りましたが全国的に同時多発した反平氏の兵乱で、木曽義仲や源頼朝によって滅ぼされました。

本格的な武家政権は源頼朝鎌倉幕府に始まります。頼朝は当初東国武士集団による反乱の旗手として登場しましたが、平家を打倒した治承・寿永の乱を経て、寿永2年(1183年)に後白河院から東海道東山道の実質的支配権を認める「寿永二年十月宣旨」を与えられます。

頼朝は右近衛大将を辞任して鎌倉に戻り、1191年建久2年)正月に前右近衛大将として「政所」を設置しました。政所は三位以上の公卿に設置を許された政務財政を司る家政機関ですが、頼朝は鎌倉に地方政権を樹立したのです。

1192年建久3年)頼朝は武家の権力者として独立して武家を統制するため、近衛大将より格下の征夷大将軍を求めて鎌倉幕府を開き、守護地頭の設置を朝廷に認めさせました。

 

頼朝とその嫡流は三代で滅びますが、外戚であった御家人北条氏摂家から藤原頼経を将軍として迎えて幕府を維持し、北条氏は執権として実権を握ります。

頼朝の政権確立後も大内惟義源頼茂藤原秀康など一部の軍事貴族は従来通り検非違使や北面武士に任じられ、朝廷や京都市中の警固をして朝廷の軍事力を担っていましたが、後鳥羽上皇が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)に加わって滅亡します。

承久の乱では鎌倉幕府が朝廷に勝利し旧平家の官領にも守護地頭を置いて、各地で国衙領荘園を浸食して支配を強め、全国統一を果たした初の武家政権となりました。

鎌倉時代後期になると執権北条氏の専制が強化される一方、元寇が原因で多くの御家人が没落し、鎌倉幕府に対する不満が高まっていきました。これが後醍醐天皇による倒幕の流れになり、幕府は足利氏新田氏等の有力な御家人に離反されて滅亡します。

後醍醐天皇建武の新政は天皇独裁・公家優先で国衙領の復活を目指し、武家への恩賞や武家領を減じたので武家の支持を得られませんでした。1335年建武2年)執権北条高時の遺児時行が鎌倉幕府再興をめざして中先代の乱をおこし、足利尊氏この乱を機に後醍醐天皇に反旗を翻し多くの武家が尊氏の下に結集して建武政権を攻め、後醍醐天皇は三種の神器を持って京から逃れました。

その後尊氏は北畠顕家に敗れて九州に落ち延びましたが、翌年には光厳上皇院宣を掲げて入京し、後醍醐天皇と和解して持明院統光明天皇を擁立し(北朝)、征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開きました。

 

後醍醐天皇は再び武家政権と対立し吉野に逃れて南朝を開き、南北朝に分かれた全国的な争乱の時代になります。足利三代将軍義満の計らいで南北朝は合体しますが、南朝が滅びずに北朝と合体する形になったことは、その後も武家に対して天皇が権威を持ち続ける力になりました。

義満は明との正式な通交を望み、1401年応永8年)「日本国准三后源道義」の名義で使節を明に派遣します。建文帝は義満を日本国王に冊封して、1404年(応永11年)から日本国王が明皇帝に朝貢する形式の勘合貿易が始まりました。明に要請されて義満は明の多年の懸案であった倭寇を鎮圧します。

義満が「日本国王」の冊封を受けたことについては、義満は叙任権祭祀権元号改元、治罰の綸旨の封印など朝廷の権限を次々に奪っていき、子の義嗣を天皇にして自らは治天の君として皇位簒奪を目指したとされていますが、国王号は朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったとも云われます。

応仁の乱は1467年応仁元年)に発生して11年間にわたって続き、幕府管領家の畠山氏斯波氏の家督争いから、細川勝元山名宗全の勢力争いに発展し、八代将軍足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大しました。十数年に亘り京都が主戦場となった1493年明応2年)の明応の政変へと続き、室町幕府は近畿の一地方政権となり、世は戦国時代に移行します。

武家は決定的な政治勢力となりましたが、地方の戦国大名は自らの権威付けのため朝廷から官位官職を受けるのを望みました。京風の公家文化が武家に伝わって天皇崇拝が強まり、武家の台頭する中で天皇の権威は新たな形で復活します。

これらの戦国大名の中で織田信長は将軍足利義昭を擁して上洛しましたが、義昭は信長と対立を深め、1573年(元亀4年)に信長が義昭を追放して室町幕府は消滅しました。

信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を果たしましたが、武家の棟梁としての征夷大将軍には就けず、公家近衛前久の猶子として関白宣下を受け、1586年(天正14年)正親町天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣として豊臣政権を樹立しました。

秀吉の次の天下人の徳川家康は、清和源氏を唱えて征夷大将軍に就き江戸幕府を開きます。江戸時代は264年続きましたが、幕府は禁中並公家諸法度を定めて朝廷を統制しました。

 

江戸幕府は鎌倉幕府に倣い朝廷とは独立した政権を目指しましたが、御三家の水戸家の大日本史編纂を機に天皇の権威が浮上し、江戸幕府朝廷から政権を委任されているとする大政委任論が生まれます。

江戸幕府は農地を基盤とする封建制の政権で、商業の発達による前期資本主義的社会の成立に財政の体制が対応し切れず、士農工商の最下位にある商人への幕府・各藩の借入が拡大していきます。江戸時代末期になると幕府の財政的な傾きと共に尊皇思想が広まっていきました。

諸外国が幕府に開国・通商条約締を求めてくると尊皇攘夷倒幕運動が盛んになり、公武合体の不調、長州征討の敗北により、十五代将軍徳川慶喜は朝廷に大政を奉還して武家政権は終焉を迎えます。

徳川家は武家として残りましたが、鳥羽・伏見の戦いに始まる薩長土肥雄藩と徳川家を中心とする旧幕府勢力との「戊辰戦争」は、官軍となった薩長土肥側の勝利に終わります。

内戦に勝った雄藩側も討幕の動きは下級藩士のクーデターの面を持っていたため、幕藩体制に代わる政治体制を樹立するには征夷大将軍を超える権威を必要としました。

討幕の主役だった下級藩士と少数の公家は14歳で帝位についた明治天皇を戴く政府を起ち上げ、封建的な幕藩体制から近代的な官僚機構を擁する直接君主制に移行します。

廃藩置県により大名華族、武士は士族にされ、武家は消滅しました。武家の思想は家族制度や軍事国家の建設など近代日本に沿う形で生き残って、その後の軍国日本を生む元になります。

 

 


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