摂関政治が衰えた平安時代末期から鎌倉時代の武家政治が始まるまでに見られた政治形態に、院政があります。上皇や法皇が天皇に代わって行う政治で、1086年に白河院が始め当初は藤原氏の摂関政治と対立しますが、保元・平治の乱後は武家政治と対立していきます。
源平合戦とも云われる治承・寿永の乱は、1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)まで6年に及ぶ平氏政権に対する反乱が全国各地で起こり、最終的には平氏が敗れて源頼朝による鎌倉幕府が樹立されます。
白河天皇の母は歴代の摂政関白を輩出した御堂流摂関家の出ではなかったため、白河天皇は摂関政治から脱して親政を行いました。1086年(応徳3年)に8歳の堀河天皇に譲位し、上皇となって引き続き政務に当たったのが院政の始まりです。上皇として堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間にわたって政務を執りました。「平家物語」には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があります。
1107年(嘉承2年)堀河天皇が亡くなり、鳥羽天皇が即位しますが5歳と幼少で政務を執れず、白河上皇は堀河天皇の時代よりさらに院政を強化することができました。鳥羽天皇は1123年(保安4年)崇徳天皇に譲位しますが、その後も実権は白河法皇が握り続けました。
白河法皇が亡くなると鳥羽上皇による院政が開始され、鳥羽上皇も子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷きました。鳥羽上皇は1141年(永治元年)崇徳天皇に譲位を迫り、寵愛する藤原得子の産んだ近衛天皇を即位させます。
1155年(久寿2年)に近衛天皇が没すると、祖父の鳥羽法皇に養育された二条天皇が即位するまでの中継ぎとして、崇徳上皇の弟であり二条天皇の父である後白河天皇が立太子をせずに即位しました。
1156年(保元元年)鳥羽法皇が亡くなると、藤原通憲(信西)は後白河天皇の対立勢力である崇徳上皇と藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の武力で後白河天皇に勝利をもたらします。敗れた崇徳上皇は讃岐に配流され、頼長は敗死しました。これが保元の乱(ほうげんのらん)です。
1158年二条天皇が即位し、後白河院制の下で権勢を握ったのは信西でした。後白河法皇は34年に亘り院政を行います。信西は国政改革に辣腕を振るいましたが、北面武士の中で最大の兵力を有する平氏の後ろ盾が不可欠で、平清盛を厚遇し子の成憲と清盛の娘の婚約で平氏との提携を世間に示しました。
後白河院政派・信西一門・二条親政派・平氏一門と4つの政治勢力が形成され、後白河院政派と二条親政派は激しく対立しますが、反信西では一致します。清盛は両派の対立には中立的でした。
1159年(平治元年)12月清盛が熊野参詣に赴いた折に反信西派がクーデターを起こし、12月9日深夜藤原信頼と源氏の軍勢が院御所を襲撃して後白河院を軟禁し、13日信西は山城国まで逃れましたが自害しました。
二条天皇と後白河上皇の身柄を確保して政権を掌握した信頼は、臨時除目を行い源義朝を播磨守、嫡子頼朝を右兵衛権佐につけます。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱きました。
京都の異変を知って清盛が17日帰京すると、義朝の武力に頼った信頼の軍事的優位が揺らぎます。信西と親しかった内大臣三条公教は清盛を説得し、二条親政派と二条天皇の六波羅脱出計画を練りました。
この計画を知らされた後白河院が25日夜仁和寺に脱出、日付が変わると二条天皇が六波羅の清盛の邸へ移りました。公卿・諸大夫は続々と六波羅に集結し、信頼と提携関係にあった摂関家の忠通、基実父子も参入したことで、信頼、義朝追討の宣旨が下されます。
義朝は寡兵のため六条河原であえなく敗れ、東国への脱出を図りますが頼朝とはぐれて12月29日尾張国で殺害されました。後白河上皇と二条天皇の対立は小康状態となり、平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め政治への影響力を増しました。これが平治の乱です。
清盛は妻の時子が乳母だったことから二条天皇の後見役となって検非違使別当・中納言になる一方で、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇と上皇の双方に仕えました。
1161年(応保元年)後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王 後の高倉天皇)が生まれ、上皇側にこの皇子を皇太子にする動きがみられると、二条天皇は後白河院近臣の平時忠、平教盛、藤原成親、坊門信隆らを解官して、後白河上皇の政治介入を停止しました。
清盛は二条天皇支持の姿勢を明確にして親政を軌道に乗せ、関白近衛基実に娘盛子を嫁がせて摂関家と緊密な関係を結ぶ一方、院政を停止させられた後白河上皇にも蓮華王院を造営して荘園を寄進します。
1165年(長寛3年)二条天皇が亡くなると、後継の六条天皇は幼少のため近衛基実が摂政として政治を主導し、清盛は大納言に昇進して基実を補佐します。
1166年(永万2年)摂政近衛基実が急死して基実の弟松殿基房が摂政となり、後白河院政が復活しました。平氏にとっては基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば大打撃になるので、清盛は基実の妻であった娘の盛子に摂関家領を相続させます。
憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、1167年(仁安2年)に太政大臣になりますが3か月で辞任して、清盛は表向き政界から引退し嫡子重盛を後継者としました。
1168年(仁安3年)後白河院はわずか5歳の六条天皇を退位させ、8歳の高倉天皇を擁立して院政を敷きます。
1172年(承安2年)高倉天皇は清盛の娘徳子を中宮に迎え、1178年(治承2年)徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生すると早々に皇太子に決めました。
1179年清盛の娘で近衛基実の妻であった盛子が死去すると、後白河院は盛子が相続していた摂関家領のすべてを没収し、清盛の嗣子重盛が死去すると重盛の知行国も没収します。
この挙に1179年(治承3年)11月清盛は大軍を率いて福原から上洛し、後白河法皇を幽閉して院政を停止します。清盛の娘婿の近衛基通が摂政になり、院の近臣の多くが解官され、翌1180年高倉天皇は安徳天皇に譲位して高倉院政が開始されました。
この政変で平氏の知行は17か国から32か国に急増しましたが、東国では新たに国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばし、国衙を巡る在地の勢力争いは一触即発の状況となりました。
1180年(治承4年)安徳天皇の即位で皇位継承が絶望となった後白河院の皇子以仁王が源頼政を頼んで、平氏追討・安徳天皇廃位・新政権樹立の令旨を発しました。挙兵直前に企てが漏れて以仁王らは平氏に討ち取られましたが、以仁王の令旨は各地の武士に伝えられ反平氏の動きが起こります。
伊豆に配流されていた頼朝は8月17日に挙兵して伊豆国目代の山木兼隆を襲撃します。その直後頼朝は相模国石橋山で大庭景親らに惨敗して海路で安房国へ逃れ、三浦半島の豪族の三浦氏と合流して房総半島の上総広常、千葉常胤、武蔵の足立遠元、畠山重忠らの諸豪族を傘下に加え、急速に大勢力となりました。
10月6日頼朝は先祖ゆかりの鎌倉へ入って関東政権を樹立し、甲斐の武田信義や、信濃の木曾義仲も相次いで兵を挙げました。平氏政権は平維盛、忠度らの追討軍を東国に派遣しますが、10月18日駿河国富士川で反乱軍と対峙し目立った交戦もないまま平氏軍は敗走します。
東国以外でも土佐の源希義、河内の源義基・義兼父子、美濃の土岐氏、近江の佐々木氏、熊野の湛増、伊予の河野氏、肥後の菊池氏のほか、若狭・越前・加賀の在庁官人など多くの勢力が挙兵しました。
畿内では寺社勢力を中心に反平氏の動きが活発化し、清盛は遷都していた福原から京に都を戻して制圧に乗り出します。1180年12月平重衡は畿内最大の反平氏勢力興福寺を焼き討ちにし、1181年正月に紀伊の熊野三山勢力が挙兵しますが平氏は畿内制圧に成功しました。
その中で高倉上皇が亡くなり、平氏は後白河院政の復活を余儀なくされます。閏2月に清盛が没して平氏は強力な指導者を失いました。当時の坂東の武士達の最優先事項は自らの権益の確保と拡大でしたが、頼朝は御家人に対して本領安堵、新恩給付と所領の保証を行って主従関係を強固にし、坂東における地位を固めていきます。
1181年6月木曾義仲が信濃から越後を席巻し、北陸へ転進して在地勢力と結び、義仲を頼って来た以仁王の子北陸宮(ほくろくのみや)を推戴して北陸における優位を確立しました。
1183年(寿永2年)4月平氏は平維盛・通盛率いる大軍を北陸に派遣します。平氏軍は越前・加賀の反乱勢力を撃破しますが、5月に加賀越中国境の倶利伽羅峠で木曽義仲に大敗しました。
7月義仲軍は延暦寺まで到達し、多田行綱は摂津・河内を占拠して平氏の補給路を遮断、遠江の安田義定も東海道を進撃して京都に迫りました。京都の防衛を断念した平宗盛は安徳天皇と三種の神器を護り西国に逃れます。
後白河法皇は都落ちに同行せず比叡山へ逃れ、安徳天皇を奉じる平氏の正統性が弱まりました。義仲軍が上洛を果たした都では安徳天皇に代わる天皇を擁立することになり、義仲は北陸宮の即位を強硬に主張しますが高倉上皇の第四皇子の後鳥羽天皇が即位して、二人の天皇が存在する異例の事態が起きます。
同年9月後白河法皇の命で義仲は平氏追討のため山陽道へ向かい、閏10月に備中水島で平氏軍に大敗します。義仲の不在中に後白河法皇は頼朝に使者を送り上洛を促しますが頼朝は動かず、東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとの国司・本所へ返す宣旨の発布を法皇に要請しました。法皇は頼朝の要請を入れ「寿永二年十月宣旨」を発します。平治の乱以降流刑者であった頼朝は以前の従五位下の位階に復し、反逆者でなくなりました。
頼朝が義経を上洛させると伝え聞いた義仲は山陽道から帰京します。義経は11月初めに近江まで達し、義仲は11月後白河法皇を幽閉して松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立、法皇に頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌1184年正月には征東大将軍となって官軍の体裁を整えました。
頼朝は範頼を援軍として派遣し、正月20日範頼と義経は勢多と田原から総攻撃を開始します。義経は宇治の防衛線を突破して入洛し法皇の身柄を確保しました。義仲は近江粟津で戦死します。
平氏はその間に勢力を立て直して1184年正月には摂津福原まで戻っていました。都では安徳天皇の元にある三種の神器を武力で奪還すべく、範頼・義経が福原の平氏を二手に分かれて急襲し、一ノ谷合戦で海上へ敗走させます。
一ノ谷で敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置きますが、義経は1185年正月後白河法皇に出陣の許可を得、同年2月阿波勝浦に上陸して在地武士を味方に引き入れ、背後から屋島を急襲して平氏を追い落としました。
平氏は長門へ撤退し、1185年(元暦2年)3月24日関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われ、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水し平氏は滅亡しました。
治承・寿永の乱は単なる源氏と平氏の争いではありませんでした。この乱には寺社勢力が反平氏を掲げて蜂起し、北陸や九州の在地豪族など源平には無縁の武士の勢力も数多く蜂起しています。
平氏は武家として初めて政治の実権を握りましたが、摂関政治とまったく同じ政治形態を踏襲し短期間に滅亡しました。これに代わる源頼朝は朝廷から距離を置くため鎌倉に幕府を設けました。頼朝が平家討伐の最大の功労者であった義経を許さなかったのは、義経が後白河法皇に囲い込まれて頼朝に対抗する勢力に育てられることを恐れたためと思われます。
創成期の鎌倉幕府と朝廷は多くの軋轢を抱えながらも荘園公領制の維持では利害が一致しており、両者が全面衝突するのは30年後の承久の乱になります。