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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

練り物

2016-09-28 06:28:39 | 日記

魚の身を練り固めて加熱した食品を練り物と云います。かまぼこ、ちくわ、はんぺん、薩摩揚げなどの総称です。地元で多く取れるを原料として、ほとんどの場合2種以上の魚を混ぜて使います。そのまま、あるいは軽く焼いて、しょうが醤油やからし醤油で食べたり、おでん種、うどんの具、煮物の材料などに用います。

「蒲鉾(かまぼこ)」の原料にはタラ類、サメ類、イトヨリ、ベラ類などの白身魚が使われます。原料を脱水砕肉し、でんぷんなどの副原料を加えて成形加熱しますが、などの板に半円筒形に盛りつけた「板かまぼこ」が一般的です。

古くはすり身をの棒に筒状に巻きつけて、その形が(がま)の穂に似ていることから「蒲鉾」と呼ばれたもので、焼き上げて竹の棒を抜き去ると現在の竹輪の形になります。最も初期の蒲鉾は海の魚ではなく、淡水魚ナマズが原料でした。

板の上にすり身を成形した「板蒲鉾」が登場すると、元祖の方は「竹輪蒲鉾」と呼び分けられましたが、「蒲鉾」が脱落して「ちくわ」となり、板蒲鉾の方は板が外れて「かまぼこ」になりました。平安時代の「類聚雑要抄」には、藤原忠実が永久3年(1115年)に転居祝いに宴会を開いた時のを刺したかまぼこの記載があり、これが文献上の最古のかまぼこです。

白身の魚は高価で、かまぼこもご馳走と考えられました。本能寺での織田信長の最後の晩餐に供され、豊臣秀頼の大好物でもあったとも伝えられます。かまぼこが商品として販売されるようになったのは江戸時代からです。

江戸時代の終わり頃の「守貞謾稿」(1837年)に、「蒸しかまぼこ」が詳しく述べられていますが、江戸では焼いたかまぼこがすたれ、京阪地方でも蒸してから焼くようになりました。関西で「焼きかまぼこ」と呼ばれるのは、蒸したのちに表面に焼き目をつけたものです。

現在では板付き蒲鉾が全国で作られていますが、小田原蒲鉾は関東かまぼこの代表として有名になりました。魚の白身をに晒し、石臼などですり潰し、砂糖みりん卵白を加えて練り合わせ、練り合わせた身をへら状の特殊な包丁で「かまぼこ板」に半円状に盛りつけていきます。

小田原で蒲鉾づくりが盛んになったのは、今から220年前の天明年間と云われます。このころの小田原は沿岸漁業が盛んで、たくさんの魚が獲れていました。このたくさん獲れる魚の保存の目的で生れたのが小田原蒲鉾です。

漁れる魚の評判を聞きつけて、小田原に移り住んだ江戸日本橋の蒲鉾職人がいたとも云われています。交通が不便だった当時は、箱根に新鮮な魚を届けることは難しく、そこで供されたのが保存性のよい蒲鉾です。

小田原蒲鉾は参勤交代で箱根路を通る大名に賞味され、職人たちはより一層技術の向上に励みました。今日の小田原蒲鉾の味や風格はこうして作り上げられ、その美味しさが多くの人々の口伝えで全国へ広まっていったのです。

小田原では「鈴廣」、「籠清」が有名ですが、両者のかまぼこの味には微妙な違いがあります。籠清には「角焼」と云うグチを原料に直火で焼いてから蒸し上げた香ばしい風味の手造り蒲鉾があります。弾力とコクのある逸品で、小田原を通るたびに買っていたせいで、私は籠清の贔屓(ひいき)です。

かまぼこの歯応えは「足(あし)」と呼ばれ、かまぼこの価値を左右します。この「足」は、魚肉の筋原繊維を構成するミオシンS-S結合ジスルフィド結合)が関与しています。数十年前にかまぼこのぷりぷり感が、一斉になくなったことがありました。

当時のかまぼこにぷりぷり感を増すために使われていた、水ガラスの使用が禁止されたためです。水ガラスはケイ酸ナトリウムで、に溶かして加熱すると水飴状になり大きな粘性がでます。それ以降、安いかまぼこは粉っぽさが難点ですが、高級品のぷりぷり感は復活しています。

焼くだけで加熱したかまぼこは、「焼抜きかまぼこ」とも「焼通しかまぼこ」とも呼ばれます。板面から加熱するので板に焦げ目が付き、濃厚な旨味があります。神戸市などで作られる「焼通しかまぼこ」は、ハモなどのすり身を原料とし焼き上げて作ったもので、「蒸しかまぼこ」とは異なる歯ごたえと香ばしさ、濃厚な旨味を持ちますが高価です。

「白焼かまぼこ」は、山口県萩市特産の「焼抜きかまぼこ」ですが、すり身に直接火が当たらないため表面に焼き色がつかず、白くプリプリに焼き上がります。加熱後室温で冷すと、表面にきれいなちりめんじわができます。名産の「白銀」は独特の風味と歯ごたえを持ち、一度食べると記憶に残る味です。 

「笹かまぼこ」は、笹形の木枠あるいは製枠にすり身を入れて成型し、贈答品などではその後細かく手をいれて、竹串に刺して焼いて作られます。明治初期に仙台でヒラメの大漁が続いた際に保存するため、形を整えたすり身を焼いたものですが、その時にの葉の形にしたのが始まりとされます。 

当初は「かまぼこ」、「のひらかまぼこ」などと呼ばれていましたが、昭和10年(1935年)に創業した「阿部蒲鉾」が、旧仙台藩伊達家家紋「竹に雀」の笹にちなんで「笹かまぼこ」と呼ぶようになってから、旧仙台藩地域で名称が統一されていきました。

 仙台の特産品との認識もありますが、気仙沼市石巻市塩竈市を始め旧仙台地域の特産品で、宮城県には「鐘崎」や「高政」など笹かまぼこを主力製品とする水産物加工会社が軒を連ねており、かまぼこの消費量・生産量共に日本一です。戦後、お土産としてしか手に入らなかった時代には、仙台に行く人がいると笹かまぼこを楽しみに待っていたものです。 

「巻かまぼこ」は、富山県の板無しかまぼこで、断面に鳴門の渦巻きのような模様ができるのが特徴です。もともとは昆布を巻き込んだ「昆布巻きかまぼこ」を作るための製法で、昆布の代わりに焼き締めた蒲鉾で巻く「赤巻」、「青巻」などがあります。富山県では板かまぼこを作らず売ってもいません。 

「細工蒲鉾」は島根大社地方を中心に古くから作られてきていて、婚礼の引出物として有名です。富山の細工蒲鉾は大きいものでは、体長60センチほどの尾頭付きのタイや、富士山宝船末広などが描かれたものなど様々な種類があります。 

「なると」は白の切り口にピンクの渦巻きのある細長い円筒形の製品ですが、つなぎが多めで魚肉の風味に乏しく、粉っぽいためもっぱら調理の素材として用いられます。ラーメンをはじめ中国料理の材料に使われるほか、茶わん蒸しや煮込みうどんの具としておなじみのものです。

「つみれ」は湯に入れて茹でるので、「つみ入れ」とも呼ばれます。鶏卵澱粉などのつなぎを加えた練り物を一口大にちぎり、団子状にした茹でかまぼこです。なべ物やおでんの煮込み料理向きで、わん種にも使われます。

使用される魚は地域によって異なり、関東のイワシ・アジ、九州・日本海沿いのトビウオなど赤身の場合もあり、北海道のスケソウダラ、関西のエソなど白身の場合もあって、見た目が異なります。

「黒はんぺん」はサバやイワシが使われ、焼津が名産の半月状に形取りした茹でかまぼこです。赤身魚が原料なので色は黒く魚の旨味が濃厚で、わん種にしたり、おでん種にします。

「はんぺん」は純白のマシュマロのような茹でかまぼこで、東京や銚子が産地です。すり身と山芋で気泡をたくさん含ませた非常に柔らかい口当たりで、そのまま食べてもおいしく、もちろん、おでん種になります。同じ「はんぺん」と呼ばれていても、「黒はんぺん」とは、まったく、異質の練り物です。

元々は関東周辺の地域色の強い食品でしたが、戦後になって「紀文のはんぺん」として全国的に販売され、この白いはんぺんが「はんぺん」として定着しました。しかし現在も消費の殆どは関東周辺です。

原料にはスケトウダラのほかに、ヨシキリザメアオザメオナガザメなどのサメ類やカジキなどが使われることもあります。サメを原料とするのは極上品とされ値段も張りますが、練り物の中では唯一とろける様な舌触りです。

「伊達巻」はすり身に卵と砂糖を混ぜて四角い形に入れて焼いたあと、竹のすだれで「の」の字に巻いたものです。焼いたままで巻き込まないのが「厚やき」で、口取りや折り詰め用に関東では伊達巻、関西では厚やきが多く使われます。正月のお節料理には欠かせないものですが、単に甘い卵焼きにすぎないものがある一方で、すり身の味が効いた素晴らしい逸品もあります。

「薩摩揚げ」は鹿児島特産の油で揚げ揚げかまぼこです。琉球から伝わり、薩摩を経由して全国に広がったとされます。おでん種としては欠かせない存在です。「薩摩揚げ」は鹿児島沖縄以外の呼び名で、当地では「つけ揚げ」と呼ばれていて、丸形・角形など様々な形があり、ゴボウイカなどの素材を包み込んだいろいろな種類があります。西日本では揚げかまぼこの総称の「てんぷら」の名で呼ばれます。

数十年前に東京池袋のデパートの食堂街に薩摩揚げを食べさせるお店が進出し、鹿児島で食べたのと同じ本場の薩摩揚げに感動したものです。揚薩摩揚げほど有名でなくても、揚げかまぼこには食べごたえのある名品が全国に結構あります。

「じゃこ天」は愛媛県宇和島地方の特産の「揚げかまぼこ」で、原料としては、ホタルジャコが最適とされ、頭と内臓を取り骨や皮ごとすりつぶすため色は黒く、食べるときにざらざらとした舌触りが残ります。黒はんぺんとともに、かまぼこ類では最も素朴な感じのものです。

全国各地の食べ歩きなど滅多に出来るものではありませんが、今ではインターネットで各地の名産品が検索でき、宅急便で届けてもらえます。たまに期待外れもありますが、なにしろ旅費の出費がないのですから諦めがつきます。試めしてみない手はないのです。

いずれにしても練り物は、周囲がすべて海に囲まれた日本特有の保存食品として、数世紀にわたって味の進化を遂げたものです。現代は家庭で生の魚を調理することが減っていますが、手間のいらない練り物は、たまに楽しむ贅沢な逸品と日常のお惣菜に差はあっても、日本食が続く限り途絶えることはないでしょう。

              

                         

                               

 

 

 

 


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ベーシックインカム

2016-09-21 06:18:33 | 日記

2016年6月5日スイスで、「ベーシックインカム」の導入の是非を問う国民投票が行われ、反対が76.9%で否決されました。「basic income」とは最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して生活を送るのに必要な額の現金を、無条件で支給する構想です。頭文字をとってBIとも云われます。

今回の報道ではいずれも、すべての国民へ無条件に支給をする本来のベーシックインカムの是非を問うたものとされていますが、実際は月額2,500スイスフラン(約30万円)以上所得のある人はベーシックインカムがもらえず、2,500スイスフラン未満でも所得がある人は減額される、所得制限を想定したものだったようです。

今回注目すべきなのはベーシックインカムの賛成派のデモです。ロボットの恰好をしている人たちが「We work for you」と書いたプラカードを掲げていました。これまでベーシックインカムでは、みんなが食べるのに困らなくなれば、誰も嫌な仕事をしなくなると云われてきたのですが、人の代わりにロボットが働いてくれると訴えたスイスの人たちには、時代の先見性があります。

ベーシックインカムは1970年代ヨーロッパで議論がはじまっていて、2000年代になってからは新自由主義者を中心に話題に上ってきました。生存権保証のための現金給付政策は、すでに多くの国で生活保護や失業保険、医療扶助、子育て給付などのかたちで実施されていますが、ベーシックインカムはそれぞれの個別な対策ではなく、全国民へ包括的に一定水準以上の生活を補償する給付を行います。

国民全員に差別なく給付するイメージから、共産主義的・社会主義的と見られますが、ベーシックインカムは自由主義資本主義経済の下で行うことを前提としています。ベーシックインカムでは生活保護・最低賃金・社会保障などの個別対策で行政担当者が行ってきた、恣意的運用に基づく不公正や差別がなくなります。

トマス・スペンスは1797年の著書「幼児の権利」で、地域共同体ごとに地代(税金)を集め、公務員の給料などの必要経費を差し引いた後の剰余を、年4回老若男女に平等に分配する案を発表しました。1848年にJ・S・ミルが「経済学原理」の中で、労働のできる人にもできない人にも一定の最小限度の生活資料を割り当てる案を示したのも、BIの思想を反映しています。

1887年には米国のエドワード・ベラミーが、“Looking Backward”の中でベーシックインカムに近いシステムを描きました。国家があらゆる財の唯一の生産者となった未来の社会(西暦2000年)では、毎年、国民生産の各人の分け前分のクレジットカードが発行されて、公営倉庫から、いつでも、なんでも、買うことができるユートピア社会を描いています。

私企業に代わって国家が唯一の生産者となる点では、自由競争を否定しないBIとは一致しませんが、それぞれの人に富を平等に分配する点は同じです。また、その分配の方法として現金ではなく、クレジットカードを発想したことは極めて斬新です。

BIは小さな政府を実現するのに役立つと云われます。労働者の生活保障を考えなくてもよい点から、企業は雇用調整を行うことが自由にできるので、雇用の流動性が向上し新産業創出の効果があるとも云われます。

これまでワーキングプアは所得が貧困層のレベルでも、従来の社会保障制度では救済されませんでした。ベーシックインカムはすべての人が最低限より上の生活を送れるように、誰もが平等に給付金を手にした上で、働けば働くほど収入が増えるため、労働意欲が向上するという意見もあります。

否決されたスイスのBIの給付額は日本円で一人当たり月額約30万円を想定するものでした。月額30万円を現在の日本の物価に当てはめれば充分な額と云えそうですが、スイスの物価高から云うとそうではないと云う意見もあります。

BIでは公的給付の平等性は確保されるので、働くことのできない身体障碍者や高齢者でも困窮状態は解消されますが、大病で給付の枠を超えて医療費がかさむ場合は、更なる扶助が行える制度とする必要があるでしょう。

我が国では月額5万〜10万円と云う、他に収入を得る手段がなければ最低限の生活が困難な給付金額でベーシックインカムの議論がされていますが、この金額ではベーシックインカムの議論とは云えません。ベーシックインカムの本来の考え方は、普通の人が生活を楽しめるだけの余裕のある給付を前提にしたものです。

ベーシックインカムでは、財源をどこに求めるのかが議論の的です。これまで給付金を賄う収入源として、「消費税」、「所得税」、「相続税」、「資産税」などが挙げられています。

ハンガリー、アイスランド、スウェーデン各国の消費税率は27%、25.5%、25%ですが、消費税のみで財源を賄うことは非現実的です。我が国の2011年の相続税の課税価格は10兆7,299億円で、税額(税収)は1兆2,520億円です。相続を認めない形の100%の税率にしても、当然、足りません。

日本銀行の資料による2013年6月末の個人金融資産残高は1590兆円で、貯蓄税を創設し、これに税率1%の貯蓄税を課した場合15.9兆円ですが、2%にすればこの倍、3%にした場合はこの3倍になります。

所得税に関しては、法人税をBIの財源とするのは大きな意味があります。以前にも指摘しましたが、我が国では企業の所得にかかる法人税、法人住民税、法人事業税の合計の「法定実効税率」は、2013年度の資本金1億円超の企業の場合、一律、38.01%の筈でした。しかし大手各社は、租税特別措置による優遇税制や国際的な節税スキームを駆使し、実際に払った税金は国民の想像を絶する少額で、「法定実効税率」の何分の一、何十分の一と云う企業が多いのです。

2013年の税負担率が低かった大企業の1位、三井住友フィナンシャルグループは税引き前純利益1,479億8,500万円、法人税等支払額は300万円、実効税負担率は0.002%にすぎません。2位のソフトバンクは税引き前純利益788億8,500万円、法人税等支払額は500万円、実効税負担率は0.006%で、他にも税負担率の低い有名企業が目白押しです。

トヨタの2014年3月期連結決算は、売上高が前期比16.4%増の25兆6919億円、営業利益は6年ぶりに過去最高を更新して73.5%増の2兆2921億円、税引き前当期純利益は73.9%増の2兆4410億円の好決算でした。しかし世界一の自動車メーカーのトヨタがそれまでの5年間、国内で税金を一切払っていなかったのには唖然とさせられます。サラリーマンは家計が赤字でも、所得税は軽減されません。

ロボットの専門家は、2050年には現在の人の職業の60%が、ロボットに奪われると予想しています。60%の人の職業がロボットに代わられるとしても、60%の人を失業者にすることはできないのです。ロボットのしてくれる60%の仕事の成果をみんなで分かち合い、残された40%の仕事をシェアし、60%分生じた余暇をみんなで楽しむ世の中にしないと社会の幸せは訪れません。

現在若い人たちを結婚もできない経済状態に追い込みながら、少子化で将来の労働力が失われると騒いでいる人たちは、2050年になると生産人口より働き口の方が少なくなると云う見通しにどう答えるのでしょう。ロボット専門家の予想が外れることは、まず、ありません。

コンピュータの出現によるIT革命は、蒸気機関の発明による産業革命より、はるかに、大きなインパクトを社会に、しかも、急速に与えています。制度疲労を起こして身動きの取れない今のアナログの社会制度の上で、将来のBIの財源を議論するのはまったくナンセンスです。

IT革命による急激な時代の変化は、人々の予想を超えて進んでいきます。企業がロボットに働かせた分だけ失業者を増やすのでは、人々の幸せは訪れません。企業はロボットの分の人件費が収益に回れば、既得権にしがみつかず法定実効税率に基づいて、正規に所得税を支払うべきなのです。

ベーシックインカムは誰にも平等に生まれてから死ぬまで給付され、どんな条件もつかず代償も要求しません。労働による収入があってもなくても、受給できるのです。働いてもよいし、自分の時間を何に使ってもよいのです。人々はそれぞれの人生で、自分がやりたいことをすることが可能になります。BIが実現すれば、女性にとっても出産や育児がそれほど負担にならない世の中が、初めて訪れるでしょう。

ベーシックインカムは自由主義思想を打破するものではなく、個人でも、企業でも、いくら働いて収益を挙げても、所得税さえきちんと社会に還元すればいいのです。1887年にベラミーが予想したクレジットカードは、すでに実現しました。BIのユートピアの世界も、2050年には実現するかもしれません。

社会の変化こそすべてです。アナログからデジタルに変わるこれからの社会の変化に人類の叡智が対応できることを信ずれば、人が生きていることに意味があり、生きていることに対して給付が行われ、生きている人の誰にも公平で豊かな社会が保証されるのは、未来の時代の必然の帰結です。

 

 


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水中翼船

2016-09-14 06:17:54 | 日記

 

通常の船は水中に沈み込んだ船体分だけ水を排除して、浮力を得ています。航行時には排除する水による大きな抵抗が生じ、抵抗力は速度二乗に比例するので、エンジンの出力を上げても通常の船舶の速度の限界は、40ノットあたりになります。

速度を上げる方法として、船体と水との接触を極端に少なくする水中翼船が開発されたのです。水中翼船は船腹より下に水中翼を持っていて、低速で航行する際には船体は水面下まで浸かっていますが、高速航行をする際には仰角のついた水中翼の揚力で船体が水面上に持ち上げられ、水中翼のみが水中に浸っている形で船体に対する水の抵抗がなくなります。

水中翼船は高速航行時に水中翼の全てが水面下にある全没翼型水中翼船と、水中翼の一部が水面上に出る半没翼型水中翼船に大別されます。全没翼型には単胴型と双胴型があり、単胴型の全没翼型水中翼船の代表はアメリカボーイング社ジェットフォイルです。また、双胴型の全没翼型水中翼船には、三菱重工が開発したスーパーシャトル400があります。

半没翼型の水中翼には大きな上反角が付けられていて、ある程度の振動を伴うものの、水中翼の制御をしなくても安定して浮上できます。全没翼型はコンピュータによる水中翼の制御技術が確立された後、安定して浮上できるようになりました。現在では全没翼型が水中翼船の主流です。

日立造船スーパージェットは、双胴船体の間に前後各1枚の全没型水中翼を装備し、船体重量の8割を水中翼の揚力により、残りの2割を船体の浮力によって支えるハイブリッド型です。

1909年イギリスのジョン・アイザック・ソーニクロフトは、弓形の水中翼をもつ船を設計しました。弓形水中翼と60馬力のエンジンを装備した全長6.7mのボートMirandaⅢを建造し、その後継機であるMirandaⅣが35ノット(65㎞/h)を記録しました。

アメリカのアレクサンダー・グラハム・ベルは、ウィリアム・E・ミーチャムの水中翼の基本原理の記事を読み、1908年フレデリック・ウォーカー・ボールドウィンと共に、水中翼船の実験を開始しました。その後ベルとボールドウィンは、軍用の水中翼船の開発に関わります。

様々なデザインを試し、最終的にHD-4を完成させました。1919年9月9日HD-4は船舶速度の世界最高記録114km/hを達成します。この記録は以後10年間破られることがありませんでした。

ドイツではフォン・シェルテル男爵が、スイスでシュプラマルと云う会社を起こし、1952年シュプラマルは世界初の半没翼型の商用水中翼船PT10を建造し、乗客32名を乗せて35ノット(65km/h)で航行しました。1968年バーレーン生まれの銀行家がシュプラマルを買収し、日本、香港、シンガポール、イギリス、ノルウェー、アメリカを相手に営業を拡大します。

1952年から1971年にかけて、シュプラマルは数多くの水中翼船を設計します。これらはいずれも半没翼型でしたが、PT150は前方の水中翼が半没型で後方の水中翼が全没型でした。シュプラマルの設計に基づく水中翼船は200隻以上建造されています。

同じ頃ソ連でも水中翼船の改良が進み、1980年代までに様々な水中翼船型のフェリーや川船が建造されました。アメリカ国内初の水中翼船の商用航路は、1961年のニュージャージー州アトランティック・ハイランドから、マンハッタン南部の商業地区までを結ぶ航路でした。

水中翼船が高速艇として軍事利用されたのは1960年代以降です。アメリカ海軍はペガサス級水中翼ミサイル艇を、1977年から1993年にかけて運用しています。イタリア海軍はスパルヴィエロ級ミサイル艇を建造し、海上自衛隊もそれを基に1号型ミサイル艇3隻を就役させました。

日本では1960年代に、商業用半没翼型水中翼船が相次いで登場しています。新明和工業の小型船(15人乗)、三菱造船の小、中型船(80人乗)、日立造船の小、中、大型船(130人乗)です。

シュプラマル社のライセンス契約により水中翼船を建造していた日立造船は、PT20(70人乗)やPT50(130人乗)を中心に50隻ほど生産し、これらは瀬戸内海を中心に運航されました。代表的な運航会社としては瀬戸内海汽船石崎汽船阪急汽船名鉄海上観光船があります。また東海汽船の東京湾横断航路でも使われていたため、首都圏でも見ることができました。

これらの半没翼型水中翼船は低燃費で高速航行が可能な反面、の影響を受けて乗り心地が悪い上に維持コストが高くつきました。船体から外側へ張り出した水中翼の接触を防ぐ専用の接岸施設のない港には入港できず、次第に他の高速船や全没翼型のジェットフォイルにシェアを奪われていきます。1999年5月で半没翼型水中翼船は、国内定期航路から姿を消しました。

日本国内ではその後、ジェットフォイルが利用されています。ジェットフォイル(Jetfoil)は、米国ボーイング社によって開発された水中翼船ボーイング929の愛称です。折りたたみ式の全没翼型水中翼を持ち、耐荒天性能が高く乗り心地も改善しています。ガスタービンを動力としたウォータージェット推進です。

停止時や低速では通常の船と同じく船体の浮力で航行し、艇走と呼ばれます。速度が上がると翼に揚力が発生し、しだいに船体が浮上して離水し、最終的には翼だけで航行する翼走になります。

船体の安定は、自動姿勢制御装置によって制御された水中翼のフラップによって保たれ、進行方向を変える際もフラップを使うため、飛行機のように船体を傾けながら旋回します。翼走状態では水面の波の影響を受けにくく、高速で乗り心地がよいのが利点です。

水中翼は跳ね上げ式になっており、停っている時、低速の時の吃水を抑えることができます。また水中翼の左右への張り出しもないため、特別の設備のない港にも着岸できます。水中翼にはショックアブソーバーが付いていて、材木などの多少の障害物の衝突には耐えられます。

航空機メーカーであるボーイング社が、その技術を水上に応用する研究を始めたのは1962年頃で、当初は軍事目的でした。1967年にパトロール用の小型艇が実用化され、これがベトナム戦争で役立ち、その後NATOの依頼によってミサイル艇が開発されました。このときの型番が929です。

これを基に旅客用が開発されたのは1974年で、型番は929-100型となり、ジェットフォイルの名前もこのときに付けられました。ボーイング社は合計28隻を製造した後ライセンス川崎重工業に譲り、1989年に日本製1号艇が就航しました。現在は川崎重工が、川崎ジェットフォイル929-117として製造しています。

日本国内の定期航路に本格的に投入されたのは、佐渡汽船新潟港両津港間の航路で1977年です。水中翼は頑丈ですが、2002年1月に神戸港関西国際空港間の航路で船底に穴が開き、沈没寸前に至る事故が発生しています。原因は公表されていませんが、当時は空港連絡橋が閉鎖される程の悪天候でした。

海上浮遊物への対策が採られているものの、衝突事故が数回起きています。1992年1995年には新潟~佐渡間航路で、2004年末ごろからは福岡釜山間航路でクジラと見られる生物に衝突しました。前部水中翼が破損して、高速航行が不能になる事故は数回発生しています。最近では2016年2月に、伊豆大島へ向かう東海汽船のジェットフォイルがクジラと衝突しました。

我が国での主な航路は、佐渡汽船の新潟~両津間、東海汽船東京竹芝旅客ターミナル)~久里浜/館山伊豆大島利島新島式根島~神津島間と熱海~伊豆大島間、九州郵船の博多(博多ふ頭)~壱岐(郷ノ浦/芦辺)~対馬(厳原)~対馬(比田勝)間、種子屋久高速船の指宿~種子島(西之表)間/屋久島(宮之浦/安房)間が運行されています。

日本と国外を結ぶ航路としては、JR九州高速船が運行する博多~釜山間があります。戦前、戦中の満州との連絡は、大連航路を用いるか、関釜連絡船で釜山へ渡り鉄道で朝鮮半島を経由するかでした。当時の関釜連絡船は7時間半を要し、現在のジェットフォイルは3時間で結んでいます。

船体にかかる水の抵抗を減らす工夫で高速化が実現した2種類の高速船のうち、ホバークラフトは水陸両用と云う利点から軍事用としては生き残りましたが、民生用の定期航路からは姿を消しました。もう1つの水中翼船は軍事用、民生用ともに現役です。

昔は小さな船で外洋に出ると、結構、揺れたものです。東京湾内では笑い合っていた仲間が三浦半島の突端を回ると途端に全員気分が悪くなり、冬季としてはごくごく当たり前の揺れだと云うのに、吐ける容器を争って探し回ったこともありました。高速で耐荒天性能が高く快適に航行できる水中翼船は、わが国の方々の定期航路で貴重な存在となっています。

 


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EU

2016-09-07 06:17:48 | 日記

 

European Union(EU)は、欧州連合条約により設立されたヨーロッパの地域統合体です。国を超えての地域連合の壮大なる実験とも云われています。加盟国数は2013年7月現在28か国で、日本名は欧州連合、略称はEUが使われます。

2016年6月23日にイギリスで行われたEU離脱か残留かを決める国民投票では、離脱派が約1,740万票(51.9%)を集めて勝利しました。イギリスのEU離脱は2年後です。

第二次世界大戦後、ソ連を中心とする共産主義陣営に組み込まれた東欧・中欧諸国と、超大国アメリカ大西洋の向こうに控える西欧諸国との間に東西冷戦が勃発しました。西欧諸国の統合を目指す民間の運動がおこり、西側各国政府の最初の行動として、アメリカのマーシャル・プランの受け入れに1948 年 4 月欧州経済協力機構(OEEC)が設立されました。

1952年欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が成立し、1958年1月1日欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体( Euratom)が発足しましたが、この3つの共同体は1967年に欧州諸共同体(EC)に統合されます。EECでは共同市場構想が掲げられ、1985年に域内の人、商品、サービスの移動の自由を図るシェンゲン協定が結ばれました。

ECには当初のフランス西ドイツイタリアオランダベルギールクセンブルクの6か国に加え、1973年にはイギリスアイルランドデンマークが加盟し、1981年にはギリシャ1986年にはスペインポルトガルが加盟しました。

1989年には東欧諸国政変が相次ぎ、1989年11月9日ベルリンの壁が崩壊し、1990年10月3日ドイツが統一されて、旧東ドイツがECに組み込まれます。その後も東欧諸国が自由主義陣営に加わることが想定されるため、1992年2月7日欧州連合条約調印されて、1993年11月1日にEUが発足したのです。

EUには超国家的性格の経済分野の枠組みと、加盟国間の協力的性格である共通外交・安全保障政策の枠組みや、司法・内務協力の枠組みの「3つの柱」があります。

経済分野では通貨統合が進められ、1998年5月1日欧州中央銀行(ECB)が発足し、1999年1月1日に単一通貨ユーロが導入されました。外交分野では北大西洋条約機構(NATO)と協調し、EU域内の市民の人権を謳う欧州連合基本権憲章が公布されています。

EUでは加盟国の増大と機構の肥大化に伴う組織の効率低下が問題となり、2004年10月28日に従来の諸条約を一本化した「欧州憲法条約」が調印されました。しかし欧州憲法条約が超国家主義的だとして2005年5月にフランス、6月にはオランダが批准せず、ヨーロッパ統合過程は一時頓挫しました。

2007年3月議長国のドイツはEUの機構改革を図り、欧州憲法条約から超国家的な性格を排除した「リスボン条約」が2007年12月に調印されましたが、この条約も2008年6月のアイルランドの国民投票で反対が賛成を上回りました。アイルランドは2009年10月に再度の国民投票で条約を批准し、他の加盟国も11月までに批准を済ませて、2009年12月1日にリスボン条約は発効しました。

EUはリスボン条約に基づき、「欧州理事会」、「EU理事会」、「欧州委員会」、「欧州議会」のほかに新たに「欧州対外活動庁」を設け、一つの国家の政治形態には見られない独特で複雑な仕組みを築いていて、この仕組みを理解するのは大変です。

EUにおける政策の執行と決定に関する権限は、3つの機関に配分されています。EU理事会は加盟国政府を代表し、欧州委員会はヨーロッパを代表、欧州議会は市民を代表するものとされています。

「欧州理事会」はEU加盟国国家元首または政府の長EU理事会議長欧州委員会委員長で構成されます。欧州理事会はサミットに相当し、立法権はないもののEUの最高意思決定機関と位置づけられ、年4回の会合での決定事項はEUの政治指針を定めます。

「EU理事会」は加盟国の閣僚1人ずつで構成され、立法権を有しEUの主要な政策決定機関です。EU理事会は取り扱い分野によって、各国のその分野の担当閣僚で構成されます。総務理事会外務理事会経済・財務理事会のほか7つの理事会があります。

議長は6か月ごとに各加盟国が輪番制で務めますが、政策決定はその国の人口によって持ち票が割り当てられた特定多数決方式によります。EU理事会は立法や予算について、欧州議会と権限を共有します。

「欧州委員会」はEUの政策執行機関で、法案の提出、決定事項の実施、基本条約の支持などEUの運営を担っています。欧州委員会は各加盟国から1人ずつの委員構成ですが、それぞれの委員は加盟国の利益を代表しない独立した立場と定められています。

欧州委員会を率いる委員長は、EU理事会が指名し欧州議会が承認します。委員長は加盟国政府の協力で指名した委員に担当政策を割り当て、その委員会人事案はEU理事会が採択し、欧州議会の承認を得て発足します。

欧州委員会事務局の正規職員は2007年4月時点で23,043人、契約職員・加盟国からの出向職員として9,019人が勤務し、官僚機構が肥大化しています。2010年以後EUが導入した新しい法規制は、3,500にも及ぶと云います。

「欧州議会」は751人の議員で構成され、5年ごとにEU加盟国民の直接選挙で選ばれ、政治志向によって会派が結成されます。欧州議会はEU理事会とともに立法および予算に関する権限を有します。

リスボン条約ではEU理事会議長を実質上のEU大統領とし、EU理事会は年に最低4回の公式会合と不定期の非公式会合を開き、EUの方針や政策の大局を決定します。EU理事会でまとめられた政策案は欧州議会に諮られます。欧州議会の権限はリスボン条約で、EU理事会に匹敵するまで大幅に強化されました。

1999年に単一通貨ユーロが導入された後のEUの金融政策を担うのは、ECBと加盟国の中央銀行で構成する欧州中央銀行制度で、ユーロ未導入の国の通貨は、対ユーロ相場の変動幅が一定以内に制限されています。2014年1月までにユーロは18か国まで広がりました。

EUの域内では経済格差が目立ち、EU全体で32,300ドルだった2007年のGDPは、加盟国別ではルクセンブルクの80,500 ドル、アイルランドの43,100 ドルに対して、ルーマニアが11,400 ドル、ブルガリアが11,300 ドルで、2004年以降に加盟した諸国はすべてEU全体の数値を下回っていました。

2008年のリーマンショック以降、EU加盟国の失業率の悪化は顕著で、2014年のユーロ圏の失業率は11.7%、スペインの失業率は25%、ギリシャの失業率は27%です。EU加盟国のうち、ポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインの5カ国の財政問題の深刻化が指摘されています。

財政危機を招いた根底は、ユーロによる通貨統合の枠組みそのものにあるとする指摘が目立ちます。ユーロの導入で金融政策が統一された半面、ユーロ参加各国は自国の通貨で資金繰りをすることができなくなりました。

2001年にユーロを導入したギリシャは、対GDP財政赤字比を3%以内に収めるというユーロ加盟条件を満たしたことがありません。2009年にはずさんな財政運営と過剰消費体質が明らかになり、EUはギリシャのデフォルトを避けるために、ギリシャの借金を一部免除し多額の資金援助を行なっています。

ギリシャに対する資金援助は、2010年の第1次の1,090億ユーロ(約10兆9千億円)、2016年の第2次の1,300億ユーロ(約13兆円)に上ります。ギリシャに対しては公共工事を大幅に減らし、最低賃金を引き下げ、公務員を1万5千人削減するなどの厳しい緊縮財政の完全実施を強く迫っています。

ノルウェーは2015年の調査で、有権者の7割がEU加盟に反対です。EUに加盟すればEUの主張や共通農業政策、共通刑法に従うことが求められるためで、EUではなくEFTAに加盟しています。EFTA加盟国の一人当たり所得はEUの約1.5倍です。

アイスランドは2015年に加盟する意志がないことをEUに通告しました。自国通貨を有するアイスランドは、2008年のデフォルト以降、自国通貨の暴落の恩恵を受けて輸出増で景気が回復し、2012年には失業率を4.5%に改善させ、EUの平均失業率よりもはるかに低い数字です。

軍事・安全保障面では1948年調印の「西欧同盟」を事実上吸収し、平和維持や人道支援の分野での加盟国間の協力関係を強化しています。しかし東西冷戦時代からソ連に軍事的に対抗してきたのはEUではなく、アメリカ、カナダを含む北大西洋条約機構(NATO)です。

2015年11月29日ドイツのメルケル首相がEU・トルコ間で事前交渉し、多くのシリア難民をEUに受け入れる提案を行いました。EUはトルコからの移民流入数を制限する措置と引きかえに、トルコをEUへ加入させる道を開くことで合意しました。

この協定によってトルコはエーゲ海のパトロールとギリシャへの不法入国の取り締まりを強化し、EU加盟国に受け入れを拒否された移民をトルコに連れ戻すことになっています。その見返りにEUは30億ユーロをトルコに提供しましたが、トルコは更なる資金提供を求めています。

EUの政策決定については、リスボン条約で2014年から票決制度が改められました。新しい特定多数決方式では各国の持ち票数が人口に基づいて配分され、345票のうちフランス、ドイツ、イタリア、イギリスには29票が配分され、キプロスやラトビアなどには4票しか配分されません。

EU理事会が多数決で政策を決めるには、賛成する加盟国が55% 以上、賛成する加盟国の人口がEU全体の65% 以上であることを要します。新しい特定多数決方式では国数が増えてもEU理事会での決定はスムーズに行われますが、決定が大国寄りになるのは避けられません。

2016年6月23日イギリスでEU残留か離脱かを決める国民投票が行われましたが、事前の大方の予想が外れてEU離脱が決定しました。世界の経済界の反応は各国株価の暴落、ポンド、ユーロの低下でした。いずれにしてもイギリスの離脱はEUへの通告後2年先なので、世界経済の混乱はひとまず収束したようです。

イギリスのEU離脱に関しては多くの議論があります。イギリスはかつて世界の陸地の4分の1を海外領土にもつ史上最大の帝国でした。シティは19世紀から今日まで主要な金融センターとして、ウォール街と共に世界経済を先導してきました。

2015年にも世界11位の輸出国と世界6位の輸入国であり、対内直接投資と対外直接投資は共に世界2位で、ポンドはドルユーロに次ぐ世界第3位の準備通貨です。2015年のヨーロッパへの移民、難民の数は百万に達したと云われますが、イギリスのEU離脱の理由はEUへの移民、難民の問題だけではないようです。

イギリスが今後どうなるのか、イギリスの後追いのEU離脱があるのかどうか、EUの将来がどうなるのか、まだ、誰にも正確には見通せないところでしょうが、イギリスが国家としてのアイデンティティを取り戻すEU離脱は、イギリスにとって、必ずしも、不利な選択とは私には思えません。

 

 


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