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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

榎本武揚

2023-12-21 06:41:24 | 日記

榎本武揚(えのもと たけあき)は1836年10月5日(天保7年8月25日)幕臣榎本武規の次男として生まれ、昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学しました。帰国後に幕府海軍の指揮官となり「戊辰戦争」では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領します。

1864年オランダハーグの榎本武揚

榎本は戊辰戦争最後の「箱館戦争」で新政府軍に降伏し2年半投獄されましたが、降伏を呼び掛けた黒田清隆の尽力で助命され、釈放後明治政府に仕えました。最終階級は海軍中将で、明治政府では数々の大きな働きをしていますが、戊辰戦争で最後まで朝敵であったことが災いしてか、明治になってからの活躍はほとんど知られていません。

榎本は明治政府の開拓使として北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大臣、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任、子爵となりました。殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設しています。

1867年(慶応3年)大政奉還で江戸幕府が崩壊し、1868年江戸幕府最後の箱館奉行となった杉浦誠は、奉行所と五稜郭を新政権に明け渡して蝦夷地全域を引き継ぎました。奉行所は箱館府と改称されて蝦夷地開拓の役割を果たすことになりましたが、引き継ぎから半年後函館、五稜郭が戦場と化します。

1868年(明治元年)8月旧幕府海軍副総裁榎本武揚が旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走し、仙台で新撰組を含む旧幕府陸軍と合流、10月20日に蝦夷地に上陸しました。箱館に進軍した旧幕府脱走軍は新政権の箱館府軍と交戦し、箱館府知事清水谷公考は10月25日に青森へ退却、翌26日に旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠し、松前・江差へ進軍して蝦夷地全域を制圧します。

翌1869年春新政府軍が反撃を開始しました。4月9日乙部に上陸した新政府軍は三方から箱館に向かって進軍し、圧倒的な戦力差により4月末には箱館を除く道南各地をほぼ制圧しました。5月11日新政府軍は箱館総攻撃を行い箱館市街を占領、元新撰組副長土方歳三が戦死し、箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅します。

新政府軍は5月11日五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告し、5月12日箱館港に碇泊した新政府軍の軍艦「甲鉄」が五稜郭に向かって艦砲射撃を行います。甲鉄の大砲は港から3kmの位置にあった五稜郭にも充分に砲弾が届く強力なもので太鼓櫓に命中しました。

5月14日旧幕府軍は降伏を拒否しますが、榎本は拒否の回答とともに戦火で失われるのを避けるため、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた「海律全書」を、新政府軍海軍参謀に贈りました。これに対して新政府軍は、いずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒肴を送って、謝意を表しています。

5月17日榎本は新政府軍の黒田清隆と会見して18日に降伏し、戊辰戦争が終結しました。旧幕府軍幹部は東京へ護送されて6月30日辰ノ口の牢獄に収監されます。新政府内では木戸孝允ら長州閥が榎本らの厳罰を求める一方、榎本の才能を評価している黒田は剃髪して助命を主張し、何の動きもないまま拘禁が続きました。

榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)

1872年(明治5年)1月榎本は特赦により出獄し、3月6日放免され、同月8日黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕で任官、北海道鉱山検査巡回を命じられます。

5月末北海道へ向かい、翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い、石炭隗を開拓使に持ち込んだ情報を元に石狩炭田に関心を示します。

1873年(明治6年)1月中判官に昇進、東京の開拓使仮学校で、黒田、榎本がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンと地質調査方針策定の会談を行いましたが、榎本はケプロンに更迭されたトーマス・アンチセルを再登用しようとしてケプロンに反対されます。同年夏榎本は石狩山地に入って空知炭田を発見、良質な炭層である分析結果を提出しますが、ケプロンは榎本の調査結果を信用しません。

榎本は「北海道土地売貸規則」が制定されると、1873年(明治6年)北垣国道とともに石狩川沿いの対雁の土地10万坪、小樽の土地20万坪の払い下げを受け、対雁に「榎本農場」を開き、小樽に「北辰社」を設立しました。

1873年10月ロシア帝国との樺太の国境画定交渉のために駐露特命全権公使に決まっていた澤宣嘉が病死し、榎本が代役として1874年1月10日領土交渉使節に決まり、14日日本初の海軍中将に叙され、18日駐露特命全権公使に任命されます。

6月サンクトペテルブルクに着任して、1875年(明治8年)5月7日「樺太千島交換条約」を締結し、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡することを取り決めました。

樺太千島交換条約

1878年(明治11年)7月26日榎本はサンクトペテルブルクを出発して帰国の途に就きますが、ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断しました。オランダ語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、英語を自由に使いこなす榎本は、モスクワを経てニジニ・ノヴゴロドまでは鉄道で、その後は船と馬車を乗り継いで9月29日にウラジオストックに到着、10月4日小樽に帰着して札幌滞在の後、10月21日に帰京しました。この時に小樽の手宮洞窟にある古代文字を調査し報告しています。

1879年(明治12年)2月12日条約改正御取調御用掛を命じられ、9月10日外務省二等出仕、11月6日外務大輔となり、18日議定官を兼任しました。在外時に不平等条約改正の必要性を痛感していた榎本は極端な外国崇拝には反対で、欧化の著しい外務畑では孤立気味でした。

1880年(明治13年)2月28日海軍卿に就任しましたが、海軍の人事に介入して薩摩出身者の怒りを買い、1881年(明治14年)4月7日海軍卿を免ぜられて予備役に退きます。

当時政府は明治宮殿の建設を計画していました。榎本は公使時代のロシア宮廷の知識を買われ、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌1882年(明治15年)5月27日皇居造営事務副総裁に就きました。

同年8月12日駐清特命全権公使となり北京へ赴任、1883年(明治16年)末に李鴻章と会談して親交を深めます。1884年朝鮮で甲申事変が発生し、日本との間の緊張が高まったために李鴻章は解決を急ぎ、榎本は日本側全権の伊藤博文を支えて李鴻章と度々会談して条約締結に貢献、1885年6月9日に「天津条約」が締結されました。

この天津条約は1858年6月アロー戦争で追いつめられた清朝政府が、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの4か国と結んだ条約とは別の条約です。1885年10月清国駐在を免ぜられ帰国しました。

12月22日内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任します。1887年(明治20年)5月24日子爵に叙され、1888年4月30日黒田内閣が誕生して逓信大臣に留任、同年電気学会を設立、初代会長となりました。

1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務め、同日暗殺された森有礼の後任として、3月22日文部大臣になります。第1次山縣内閣でも留任し、明治天皇の希望であった道徳教育の基準策定を命じられますが積極的には取り組みませんでした。

1890年2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭されて枢密顧問官となり、同年開催された内国勧業博覧会の副総裁を務めます。

1891年(明治24年)3月6日に1885年榎本と伊庭想太郎らが旧幕臣の子弟のために設立した徳川育英会を母体に、東京飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任しました。校長は永持明徳です。

育英黌には農業科(現東京農業大学)、商業科、普通科の3科がありましたが、農業科は翌1892年10月23日小石川区大塚窪町に移転し、1893年私立東京農学校と改称、榎本は校主となり、校長は伊庭でした。

1894年に徳川育英会から独立しましたが、毎年の入学者が50人を超えず榎本は廃校を決意しますが、農学校の評議員横井時敬が運営を引き継いで、1897年(明治30年)農学校は大日本農会に移管されました。

1891年(明治24年)5月11日大津事件で外務大臣青木周蔵が引責辞任し、29日榎本が任命されて青木が取り組んでいた条約改正交渉を継承、1892年(明治25年)4月12日条約改正案調査委員会を立ち上げます。同年ポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に、不平等条約である同国の領事裁判権を撤廃しました。

日本にとって悲願であった領事裁判権の撤廃を果たしたのは、通常、1894年(明治27年)の陸奥宗光の「日英通商航海条約」とされていますが、その2年前の出来事です。

1892年8月8日第1次松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となります。1894年(明治27年)1月22日第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任しました。

当時政府は新たに製鉄所(後の八幡製鐵所)の建設を計画していて、1893年の閣議決定で民営に決まりましたが、榎本は大臣就任後官営を主張し先の決定を覆しました。1896年(明治29年)製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布され、榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就け、1897年には荒井郁之助による浦賀船渠の設立を後援しています。

1895年(明治28年)かねてより問題となっていた足尾銅山の鉱毒被害で、栃木県知事佐藤暢と群馬県知事中村元雄が連名で、足尾銅山に関する要望書を政府に提出しました。榎本はこれを放置、1896年9月の大洪水で鉱毒被害が激化し、翌1897年2月田中正造が国会で政府の取り組みを非難する演説を行います。

被害農民は1千名を超える陳情団を上京させ、榎本は3月5日被害農民と面談しましたが、田中の国会質問に対して、3月18日榎本と内務大臣樺山資紀の連名で「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない」という回答書を出し、被害農民の第2回大挙東京押出しを惹き起こしました。

3月23日榎本は津田仙の案内で現地を視察し、24日に鉱毒調査委員会を設置、27日に陳情団と再度面談した後、29日大臣を引責辞任しました。

榎本は長年海外への殖民に関心を抱いていて、1879年渡辺洪基らと東京地学協会を立ち上げ、ボルネオ島とニューギニア島を買収して日本人を移住させることを発案します。1891年外務大臣に就任すると「移民課」を新設し、ニューギニア島やマレー半島などに外務省職員や移住専門家を派遣して植民地建設の可能性を調査させました。

そこへメキシコ政府が開発のための外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使の建野郷三にメキシコ殖民の可能性を調査させます。建野がメキシコの地代は安く、日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾きメキシコに中南米初の領事館を開設しました。

外務大臣辞任後の1893年(明治26年)榎本が会長となって殖民協会を設立、根本正をメキシコに派遣しコーヒー生産が期待できるという報告を受け、続いて1894年アメリカ留学帰りの橋口文蔵をメキシコ南部のチアパス州へ派遣し、エスクイントラが入植に最適との報告を受けました。

殖民団の資金集めのため1895年の墨国移住組合設立に続き、1896年12月榎本が社長となって日墨拓殖株式会社を設立します。資金調達が不調であるにもかかわらず1897年1月メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結、3月24日36名の殖民団が横浜を出発しました。

殖民団は5月19日にエスクイントラに到着しますが、マラリアが蔓延したことに加えて、雨季でジャングルの伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わず、僅か3か月で殖民地は崩壊しました。榎本は1900年(明治33年)事業を殖民協会員で代議士の藤野辰次郎に譲渡して手を引きます。

晩年の榎本武揚

1898年(明治31年)工業化学会の初代会長となります。1900年盟友黒田清隆が死去した際には葬儀委員長を務めました。1905年(明治38年)10月19日海軍中将を退役し、1908年(明治41年)10月26日死去、享年73。同月30日海軍葬が行われました。

芦尾鉱毒事件やメキシコ移民などの褒められない問題も起こしましたが、明治政府に於ける貢献度は余人には代えがたいものがあります。榎本の、本来、褒められなければいけない多くの業績を陽の当たらないものにしたのは、榎本が戊辰戦争で最後まで朝敵であったことに拘った、薩長の元老政治の弊害だったのでしょうか。

 

 

 


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高橋是清

2023-12-07 06:21:29 | 日記

高橋 是清(たかはし これきよ)は1854年9月19日(嘉永7年/安政元年閏7月27日)生まれで、日本銀行総裁、立憲政友会総裁、内閣総理大臣を歴任した政治家で、正二位大勲位子爵です。

二・二六事件で陸軍若手将校に暗殺されたことはよく知られていますが、日露戦争の戦費を外債募集で調達に成功した近代日本を代表する財政家であったことは、あまり知られていません。

是清は幕府御用絵師の川村庄右衛門と行儀見習いで川村家へ奉公していたきん(16歳)の不義の子で、庄右衛門の妻がきんに同情して蔭で世話をし、生後4日で仙台藩の足軽高橋覚治の養子となり、その後養父母に実子が生まれて、養祖母の喜代に育てられます。
3才の時神社の敷地で遊んでいたところ、参詣にきた藩主の奥方と出会い「おばさん、いいべべだ」と奥方の膝の上にちょこんと座ってしまいました。当時の身分制度ではあってはならないことでしたが、上屋敷に呼ばれて奥方から頂戴物をするなど可愛がられました。
養祖母の喜代は是清を、愛情深く、厳しく育て、将来足軽で終わることのないよう仙台藩の菩提寺へ小姓奉公に出したことから、藩の重臣に目をかけられて横浜で英語を学ぶ機会を得ます。1864年(元治元年)11歳で横浜のアメリカ人医師のヘボン塾で英語を学び、銀行家のアレクサンダー・アラン・シャンド宅のボーイをして、生きた英語を身に着けました。このシャンドには後の日露戦争の外債募集で大いに助けられます。

1867年(慶応3年) 仙台藩留学生としてアメリカに渡りますが、留学を仲介した横浜在住のアメリカ人貿易商に学費と渡航費を着服され、ホームステイ先だった貿易商の両親にも騙されてサインをしたのが年季奉公の契約書で、身分を拘束されて他家で働かされました。

苦境の中でネイティブな英語を習得した是清は江戸幕府の名誉領事ブルークスに依頼し、貿易商の両親が契約先に50ドルを支払うことで年季奉公から解放されます。

渡米時代の高橋是清(写真右)(1867年)

1868年12月許されて帰国し、アメリカで知り合った森有礼の書生になり大学南校に入学しましたが、本場の英語が認められて三等教授手伝いとして16歳で教える立場に回ります。
17歳で放蕩にはまり、教師を辞めても放蕩は止まず、日本橋の流行芸妓桝吉の家に居候し、太鼓持ちとなり、箱屋をやります。箱屋とは芸者の供をして三味線の箱を運び、刻限が来ると座敷に芸者を迎えに行く男のことです。

花柳界を客の立場と箱屋の立場で経験し、お金の回り方、人と人の関係、人情などを肌で感じ、女性の目で男としても鍛えられましたが、養祖母の喜代に「一生を過たぬように」と諭されます。
1871年唐津藩で英語を教え、桝吉は芸妓を辞めて喜代の面倒を見るようになり、是清は結婚するつもりでしたが、翌年是清が東京に戻る前に実家に戻っていて二人の縁は終わりました。

是清は開成学校の教師のマッカデーに、漢字辞典の読みをローマ字にする仕事を月10円で頼まれ、様々な日本の本を英訳しているグリフィスの手伝いも月10円で引き受けて資力を着けます。
1873年森有礼の薦めで文部省に入り、十等出仕となりました。1876年官立東京英語学校の教師を務め、1878年廃校になっていた共立学校(開成高校)を再興して24歳で初代校長に就任しました。

是清は「学ぶ目的は自身の固有の能力を伸ばし磨くことで、自分で自分を教育するのが基本である」と教え、当時の教え子には正岡子規や秋山真之らがいます。

是清は前途有為な青年たちのために自分が学費を捻出しようとして貯蓄で相場に手を出し、大損をして仲買店を開業、相場のカラクリを実地で学んでいきます。

1881年文部省御用掛、農商務省工務局雇となり、1885年農商務省の初代特許局長に抜擢され、欧米を視察して特許制度を作り上げました。

1889年農商務省農務局長の前田正名から「ペルーの銀鉱を採掘する会社の設立に力を貸してくれ」と頼まれます。ペルーの中央銀行総裁のドイツ人オスカル・ヘーレンが日本からの移民を働きかけて来ていて、日本側はアンデス山脈にある銀山に強い関心を寄せたのです。
田島晴雄がペルーへ実地調査に派遣されましたが、田島はヘーレンと資本金100万円で会社設立の契約を取り交わして25万円で4鉱区を買い取り、ヘーレンが資金を立て替えたので、農夫4百人を送らなければならないと伝えてきます。

驚いた前田が是清に頼んできたのです。是清は外国人との共同事業を危ぶみましたが1万円の出資を約束し、牧野伸顕ら多くの出資者によって資本金50万円の日秘鉱業株式会社が設立されました。前田は是清にペルー行を懇願します。前田はすでに内密に農商務大臣井上馨の賛同をとりつけていて、是清は特許局長を免ぜられていたことを後で知らされます。
1890年(明治23年)1月7日リマに到着してヘーレンの別邸に滞在し、技手や職工の先遣隊とカラワクラ銀山に向かい開坑式を行いました。同年3月26日技手が血相を変えて現れ、鉱山は既に数百年間掘り起こされたあとの廃坑だと伝えました。驚いた是清が田島に訊ねると実地調査はしておらず、報告書はペルーの鉱山学校にあった雑誌を翻訳しただけと白状します。

愕然とした是清が鉱山の情報を確認し直すと「25万円どころか2千円でも買える。採算は難しい」のが実情でした。田島は大学予備門時代の是清の教え子でした。
是清は本隊の渡航の見合わせを東京に打電し、田島が先に交わしたヘーレンとの共同経営の契約を破棄するための苦肉の策として、2百万円の新会社の株式募集をするために帰国すると告げて新契約を結び、前の契約書を廃棄させます。

6月に帰国した是清は株主に事実を明かし、事業の廃止と会社解散の合意をとりつけ、ヘーレンには新会社設立が株主の賛同を得られなかったと電報で通告しました。株主の賛同を得られない場合は共同事業が廃棄される条件が、新契約書には付いていたのです。

是清は「生涯で唯一、人を騙した」と回想していますが、1万6千円に増えていた債務の返済のため屋敷を売り払いました。

1892年日本銀行総裁の川田小一郎から声をかけられ、6月1日日本銀行に入行しました。年俸は破格の1千2百円で、本店新築工事の建築事務主任の辞令を受けます。

大倉組の輸入材料調達の請求書の日付がすべて為替相場の最低の日であることから、利ザヤ稼ぎをしていたのを見抜いてこれを封じ、下請けの4人の石工の親方が頻繁にストライキを起こして工事が遅れていた件では、親方4人と直接契約を結び4面を4人に分けて請負わせて、期日より早く仕上げれば一日につき5百円の賞与を出すことにして、大幅に遅れていた工事がほぼ予定通り運びました。

日本銀行本店本館 重要文化財 辰野金吾設計 

日本銀行本店の設計は是清の唐津での教え子の辰野金吾の担当でしたが、ベルギー国立銀行を参考にして1896年(明治29年)2月に竣工しました。是清の指示で1891年(明治24年)に発生した濃尾地震を教訓に建物上部を軽量化して耐震性を高め、2階3階を煉瓦造石貼りに変更、関東大震災ではびくともしない堅牢性を示しました。

1893年9月新設の日銀西部支店長に抜擢され、1895年8月横浜正金銀行本店支配人を経て、1899年2月日本銀行副総裁に就任します。

1904年 (明治37年) 2月日銀副総裁49歳の是清は、元老の井上馨、首相の桂太郎、大蔵大臣の曾禰荒助、日銀総裁の松尾臣善らが居並ぶ築地の料亭の座敷に迎えられます。

当時、日露戦争に突入した直後の日本の公債価格がロンドン市場で大幅下落し、投資家たちは極東の小国が大帝国のロシアに勝つ見込みはないと判断していました。宴席の面々はそのロンドンで是清に外債を募集させ、戦費を調達しようとしたのです。是清が断り切れず遂に承諾した時、居合わせた全員が声を上げて泣いたと云われます。

ロンドン到着後すぐ横浜正金銀行の取引先の英国銀行に、公債引き受けを打診しましたが反応は芳しくなく、日本に好意的であるパーズ銀行や香港上海銀行でさえ公債募集を渋りました。
是清は資本家のロスチャイルド一族にも、直接、アプローチを開始します。公債発行業務を取られることを恐れたパーズ銀行と香港上海銀行が、日本の関税収入を抵当とする条件を付けて引き受けを申し出て来ました。

両行から派遣された人員に税関を管理されるこの条件を、是清は断固拒否します。この時是清を支えたのが、横浜で是清をボーイに雇っていたパーズ銀行副支配人のシャンドでした。

シャンドはパーズ銀行頭取のファーレーを説得し、更に香港上海銀行の取締役にも話をつけ、両行は常識的な条件で5百万ポンドの公債発行に同意しました。

この仮契約を祝う晩餐会に招待してくれたのが、かつて日本にいた友人のヒルでした。ヒルの邸宅でニューヨークのクーン・ローブ商会の首席代表ジェイコブ・シフを紹介されます。シフは毎年恒例のヨーロッパ旅行を終え、折しもその帰路にヒルに招待されたのでした。
シフは晩餐の席上で日本の経済状況や戦況をしきりに質問し、是清が丁寧に答えたその席上で、5百万ポンドの公債発行が決まりました。その際是清が、実は、本国からはもう5百万ポンドと云われているとシフに漏らしたところ、その翌日5百万ポンドの公債をアメリカで発行したいとシフが希望していると、シャンドが伝えて来ました。

シフはユダヤ人でロシア領内の同胞の迫害に心を痛め、日露戦争では日本に味方をする気で、黒木為楨の第一軍が鴨緑江を渡河してロシア軍を撃破したニュースでロンドン市場の日本公債が暴騰し、シフが日本支援に踏み切ろうとした2日後に是清と出会ったのでした。

是清との出会いでクーン・ローブ商会が日本の全面支援に乗り出し、シフの人脈が外債を引き受け、6回に渡る公債募集による戦費調達に成功しました。

当時の欧米人は日本をよく知らず、是清は商談の前に必ず日本の歴史を紹介し、二千五百年来の天皇の存在や武士道を説明しました。武士道に興味を抱いた資産家たちは、是清を友人として自宅に招くようになり、是清を通じて日本人の誠実な国民性が信用を得ていきます。

またシャンドの後押しも、日露戦争の総戦費支出18.7億円の43%にあたる8億円の公債募集を成功に導いたのです。

1905年1月29日貴族院議員に勅選され、再び渡英して9月に公債募集に成功し、国家予算の60年分に当たる借金をしました。この借金は第二次世界大戦後の1986年(昭和61年)まで返済が続いて完済されました。
1906年3月横浜正金銀行頭取を兼務。1907年9月23日公債募集の勲功により男爵、1911年6月第7代日本銀行総裁に就任します。

1913年(大正2年)2月第1次山本内閣の蔵相に就任、立憲政友会に入党します。1914年4月山本内閣が総辞職、1918年9月政友会の原敬内閣で2度目の蔵相となります。1920年9月7日子爵に陞爵。原が暗殺された直後、西園寺公望が是清を首班に推して大命が下りました。
1921年11月13日第20代内閣総理大臣に就任し蔵相を兼務、立憲政友会の第4代総裁となり、当時の我が国の政治課題はワシントン軍縮会議でしたが、加藤友三郎海相が手腕を発揮して会議を纏めました。

是清は1922年6月12日総辞職。後任はワシントン会議で功績を挙げた加藤が就任します。

政友会は清浦奎吾内閣の支持を巡って大分裂し、脱党した床次竹二郎らが政友本党を結成して清浦支持に回り、高橋が率いた政友会は憲政会、革新倶楽部と護憲三派を結成します。清浦は衆議院解散に打って出ました。

清浦内閣が貴族院内閣と揶揄されていたことから、是清は1924年3月貴族院議員を辞職し爵位を息子に譲っていて、同年5月の第15回衆議院総選挙に原敬の旧選挙区の盛岡市から立候補し、与党の対立候補に49票差で勝ち、総選挙は護憲三派の圧勝に終わって清浦内閣は辞職しました。
6月総理大臣に就いた憲政会総裁の加藤高明は、是清を農商務相に任命します。1925年4月商務省の分割再編に伴い、農林大臣兼商工大臣になりましたが、2週間後に両大臣を依願免職し、政友会総裁を田中義一に譲り、古希を機に政界を引退しました。

1927年(昭和2年)3月昭和金融恐慌が発生しました。同年4月若槻内閣に代わって田中義一が組閣、是清は4度目の蔵相を引き受け72歳で政界に復帰します。
我が国は第一次世界大戦中の好景気からの反動に落ち込み、1923年(大正12年)関東大震災に見舞われて、震災手形割引損失補償令は最終期限の昭和2年になっても、不良債権が整理されずにいました。

深刻だったのは台湾銀行と鈴木商店で、1827年3月14日衆議院予算委員会での片岡直温蔵相の失言で取り付け騒ぎになり、他行にも飛び火。4月鈴木商店が倒産、台湾銀行が休業、更に十五銀行の休業が明らかになり、金融不安が頂点に達しました。
是清は日銀総裁井上準之助に協力して4月21日政府発表の形で、支払猶予を認める緊急勅令を渙発すると報じ、小口支払制限を5百円以内とし、俸給や賃金支払い以外は支払いを延期、その期間を20日間と決しました。

取り付け騒ぎには現金を用意しなければならず「ありったけの紙幣を用意しろ。刷れるかぎりの紙幣を刷れ」と指示、片面だけ印刷した急造の200円札5百万円分を用意し、銀行の店頭に紙幣を積み上げて預金者を安心させ、金融恐慌を沈静化しました。

5月4日臨時国会が開かれ、支払猶予令の事後承諾、日銀の特別融通補償と台湾銀行救済融資の2法案が審議されます。野党の反対で審議未了で会期が終れば、この国は破綻です。

阪谷芳郎男爵が是清の人格と手腕と徳望に信頼して本案に賛成すべきだと全議員に訴え、会期満了30分前に法案は可決されました。是清は同年6月金融恐慌が終息したのを節目に大蔵大臣を依願退職します。

「ダルマさんが出てきた。もう大丈夫だ」と云うほどの国民の信頼を得ていた大蔵大臣の高橋是清は、1929年(昭和4年)10月24日ニューヨーク・ウォール街での株価暴落をきっかけに、世界中が大恐慌に陥った時も「もう大丈夫」でした。

内閣総理大臣 高橋是清

米国の株価は80%以上下落して工業生産が3分の1以下に落ち込み、世界貿易は3年間で70%減少、世界中の失業者が5千万人に達した世界恐慌に日本も巻き込まれたのです。
大恐慌当時の濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、第一次世界大戦を機に停止していた金本位制への復帰を果たそうとして緊縮財政政策を取っていたため、世界恐慌の中ではこれが逆効果となって日本を不況のどん底に叩き込んでしまいました。

1831年12月政友会総裁の犬養毅が組閣し、懇願されて5度目の蔵相に就任した是清は、即日、金本位制に復帰しないことを決め、金輸出を禁止し、低金利政策でお金を借りやすくし、農漁村や中小商工業者を救済するために公共事業を行いました。

これにより1833年「100円=25ドル」と円が下落し、昭和6年度に11億円とほぼ半減していた輸出額は昭和9年度に21億円に戻り、その後は増加し続けます。

1930年(昭和5年)頃の我が国の庶民の生活はどん底でした。デフレ不況に加えて昭和5年は大豊作で米価が下落、翌年は東北地方が一転冷害で凶作に陥ったのに、米価は回復しませんでした。1925年(大正14年)の米は10俵が13円60銭でしたが、1930年(昭和5年)には6円28銭に暴落、米専業農家の収入は半減しました。

この状況は是清の政策で劇的に改善し、昭和6年から昭和11年にかけては物価上昇以上に国民所得が急騰、農家の所得も1930年代中頃から増加し始め、30年代末には世界恐慌以前の好況時の所得水準に戻りました。これは世界各国の中でも断然早い景気回復です。

1932年5月15日五・一五事件で犬養首相が暗殺され、是清は首相を10日間兼任し、続いて斎藤實が組閣した際も蔵相に留任。1934年7月斎藤内閣が総辞職して、岡田啓介内閣が発足した際7度目の蔵相に就任しました。岡田啓介は共立学校教師時代の教え子です。

是清が大恐慌に対処した1931年12月から1936年2月の実質経済成長率は7.2%、インフレ率は2%で、関東大震災後バラック建で放置されていた省庁等も再建しました。

これに伴い高率のインフレの発生が予見され、陸海軍からの各4,000万円の予算増額希望に「なけなしの金を無理算段して陸海軍に各1,000万円の復活を認めた。これ以上は到底出せぬ」と是清は突っぱねます。

1936年(昭和11年)2月20日の総選挙で岡田内閣の与党民政党が大勝し、国民は是清が進めた経済政策を信任したのですが、軍事予算で軍部の恨みを買った是清は6日後の二・二六事件で、君側の奸として反乱軍青年将校に赤坂の自宅で暗殺されました。享年81歳、正二位・大勲位菊花大綬章追贈。

反乱軍将校は国家予算の60年分に当たる日露戦争の戦費を、是清一人が調達したことを知らなかったのでしょうか。「七転び八起き」の人生を地で生きた是清は「機会は決して作るべからず、自然と自分の前に来た機会を捉えなければならぬ」との名言を残しています。

 


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