榎本武揚(えのもと たけあき)は1836年10月5日(天保7年8月25日)幕臣榎本武規の次男として生まれ、昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学しました。帰国後に幕府海軍の指揮官となり「戊辰戦争」では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領します。
1864年オランダハーグの榎本武揚
榎本は戊辰戦争最後の「箱館戦争」で新政府軍に降伏し2年半投獄されましたが、降伏を呼び掛けた黒田清隆の尽力で助命され、釈放後明治政府に仕えました。最終階級は海軍中将で、明治政府では数々の大きな働きをしていますが、戊辰戦争で最後まで朝敵であったことが災いしてか、明治になってからの活躍はほとんど知られていません。
榎本は明治政府の開拓使として北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大臣、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任、子爵となりました。殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設しています。
1867年(慶応3年)大政奉還で江戸幕府が崩壊し、1868年江戸幕府最後の箱館奉行となった杉浦誠は、奉行所と五稜郭を新政権に明け渡して蝦夷地全域を引き継ぎました。奉行所は箱館府と改称されて蝦夷地開拓の役割を果たすことになりましたが、引き継ぎから半年後函館、五稜郭が戦場と化します。
1868年(明治元年)8月旧幕府海軍副総裁榎本武揚が旧幕府軍主力艦隊8隻を率いて品川沖を脱走し、仙台で新撰組を含む旧幕府陸軍と合流、10月20日に蝦夷地に上陸しました。箱館に進軍した旧幕府脱走軍は新政権の箱館府軍と交戦し、箱館府知事清水谷公考は10月25日に青森へ退却、翌26日に旧幕府脱走軍は無人の五稜郭を占拠し、松前・江差へ進軍して蝦夷地全域を制圧します。
翌1869年春新政府軍が反撃を開始しました。4月9日乙部に上陸した新政府軍は三方から箱館に向かって進軍し、圧倒的な戦力差により4月末には箱館を除く道南各地をほぼ制圧しました。5月11日新政府軍は箱館総攻撃を行い箱館市街を占領、元新撰組副長土方歳三が戦死し、箱館港では旧幕府脱走軍の艦隊が全滅します。
新政府軍は5月11日五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告し、5月12日箱館港に碇泊した新政府軍の軍艦「甲鉄」が五稜郭に向かって艦砲射撃を行います。甲鉄の大砲は港から3kmの位置にあった五稜郭にも充分に砲弾が届く強力なもので太鼓櫓に命中しました。
5月14日旧幕府軍は降伏を拒否しますが、榎本は拒否の回答とともに戦火で失われるのを避けるため、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた「海律全書」を、新政府軍海軍参謀に贈りました。これに対して新政府軍は、いずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒肴を送って、謝意を表しています。
5月17日榎本は新政府軍の黒田清隆と会見して18日に降伏し、戊辰戦争が終結しました。旧幕府軍幹部は東京へ護送されて6月30日辰ノ口の牢獄に収監されます。新政府内では木戸孝允ら長州閥が榎本らの厳罰を求める一方、榎本の才能を評価している黒田は剃髪して助命を主張し、何の動きもないまま拘禁が続きました。
榎本武揚助命のため剃髪した黒田清隆(左)
1872年(明治5年)1月榎本は特赦により出獄し、3月6日放免され、同月8日黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕で任官、北海道鉱山検査巡回を命じられます。
5月末北海道へ向かい、翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い、石炭隗を開拓使に持ち込んだ情報を元に石狩炭田に関心を示します。
1873年(明治6年)1月中判官に昇進、東京の開拓使仮学校で、黒田、榎本がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンと地質調査方針策定の会談を行いましたが、榎本はケプロンに更迭されたトーマス・アンチセルを再登用しようとしてケプロンに反対されます。同年夏榎本は石狩山地に入って空知炭田を発見、良質な炭層である分析結果を提出しますが、ケプロンは榎本の調査結果を信用しません。
榎本は「北海道土地売貸規則」が制定されると、1873年(明治6年)北垣国道とともに石狩川沿いの対雁の土地10万坪、小樽の土地20万坪の払い下げを受け、対雁に「榎本農場」を開き、小樽に「北辰社」を設立しました。
1873年10月ロシア帝国との樺太の国境画定交渉のために駐露特命全権公使に決まっていた澤宣嘉が病死し、榎本が代役として1874年1月10日領土交渉使節に決まり、14日日本初の海軍中将に叙され、18日駐露特命全権公使に任命されます。
6月サンクトペテルブルクに着任して、1875年(明治8年)5月7日「樺太千島交換条約」を締結し、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡することを取り決めました。
樺太千島交換条約
1878年(明治11年)7月26日榎本はサンクトペテルブルクを出発して帰国の途に就きますが、ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断しました。オランダ語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、英語を自由に使いこなす榎本は、モスクワを経てニジニ・ノヴゴロドまでは鉄道で、その後は船と馬車を乗り継いで9月29日にウラジオストックに到着、10月4日小樽に帰着して札幌滞在の後、10月21日に帰京しました。この時に小樽の手宮洞窟にある古代文字を調査し報告しています。
1879年(明治12年)2月12日条約改正御取調御用掛を命じられ、9月10日外務省二等出仕、11月6日外務大輔となり、18日議定官を兼任しました。在外時に不平等条約改正の必要性を痛感していた榎本は極端な外国崇拝には反対で、欧化の著しい外務畑では孤立気味でした。
1880年(明治13年)2月28日海軍卿に就任しましたが、海軍の人事に介入して薩摩出身者の怒りを買い、1881年(明治14年)4月7日海軍卿を免ぜられて予備役に退きます。
当時政府は明治宮殿の建設を計画していました。榎本は公使時代のロシア宮廷の知識を買われ、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌1882年(明治15年)5月27日皇居造営事務副総裁に就きました。
同年8月12日駐清特命全権公使となり北京へ赴任、1883年(明治16年)末に李鴻章と会談して親交を深めます。1884年朝鮮で甲申事変が発生し、日本との間の緊張が高まったために李鴻章は解決を急ぎ、榎本は日本側全権の伊藤博文を支えて李鴻章と度々会談して条約締結に貢献、1885年6月9日に「天津条約」が締結されました。
この天津条約は1858年6月アロー戦争で追いつめられた清朝政府が、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの4か国と結んだ条約とは別の条約です。1885年10月清国駐在を免ぜられ帰国しました。
12月22日内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任します。1887年(明治20年)5月24日子爵に叙され、1888年4月30日黒田内閣が誕生して逓信大臣に留任、同年電気学会を設立、初代会長となりました。
1889年(明治22年)2月11日大日本帝国憲法発布式で儀典掛長を務め、同日暗殺された森有礼の後任として、3月22日文部大臣になります。第1次山縣内閣でも留任し、明治天皇の希望であった道徳教育の基準策定を命じられますが積極的には取り組みませんでした。
1890年2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭されて枢密顧問官となり、同年開催された内国勧業博覧会の副総裁を務めます。
1891年(明治24年)3月6日に1885年榎本と伊庭想太郎らが旧幕臣の子弟のために設立した徳川育英会を母体に、東京飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任しました。校長は永持明徳です。
育英黌には農業科(現東京農業大学)、商業科、普通科の3科がありましたが、農業科は翌1892年10月23日小石川区大塚窪町に移転し、1893年私立東京農学校と改称、榎本は校主となり、校長は伊庭でした。
1894年に徳川育英会から独立しましたが、毎年の入学者が50人を超えず榎本は廃校を決意しますが、農学校の評議員横井時敬が運営を引き継いで、1897年(明治30年)農学校は大日本農会に移管されました。
1891年(明治24年)5月11日大津事件で外務大臣青木周蔵が引責辞任し、29日榎本が任命されて青木が取り組んでいた条約改正交渉を継承、1892年(明治25年)4月12日条約改正案調査委員会を立ち上げます。同年ポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に、不平等条約である同国の領事裁判権を撤廃しました。
日本にとって悲願であった領事裁判権の撤廃を果たしたのは、通常、1894年(明治27年)の陸奥宗光の「日英通商航海条約」とされていますが、その2年前の出来事です。
1892年8月8日第1次松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となります。1894年(明治27年)1月22日第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任しました。
当時政府は新たに製鉄所(後の八幡製鐵所)の建設を計画していて、1893年の閣議決定で民営に決まりましたが、榎本は大臣就任後官営を主張し先の決定を覆しました。1896年(明治29年)製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布され、榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就け、1897年には荒井郁之助による浦賀船渠の設立を後援しています。
1895年(明治28年)かねてより問題となっていた足尾銅山の鉱毒被害で、栃木県知事佐藤暢と群馬県知事中村元雄が連名で、足尾銅山に関する要望書を政府に提出しました。榎本はこれを放置、1896年9月の大洪水で鉱毒被害が激化し、翌1897年2月田中正造が国会で政府の取り組みを非難する演説を行います。
被害農民は1千名を超える陳情団を上京させ、榎本は3月5日被害農民と面談しましたが、田中の国会質問に対して、3月18日榎本と内務大臣樺山資紀の連名で「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない」という回答書を出し、被害農民の第2回大挙東京押出しを惹き起こしました。
3月23日榎本は津田仙の案内で現地を視察し、24日に鉱毒調査委員会を設置、27日に陳情団と再度面談した後、29日大臣を引責辞任しました。
榎本は長年海外への殖民に関心を抱いていて、1879年渡辺洪基らと東京地学協会を立ち上げ、ボルネオ島とニューギニア島を買収して日本人を移住させることを発案します。1891年外務大臣に就任すると「移民課」を新設し、ニューギニア島やマレー半島などに外務省職員や移住専門家を派遣して植民地建設の可能性を調査させました。
そこへメキシコ政府が開発のための外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使の建野郷三にメキシコ殖民の可能性を調査させます。建野がメキシコの地代は安く、日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾きメキシコに中南米初の領事館を開設しました。
外務大臣辞任後の1893年(明治26年)榎本が会長となって殖民協会を設立、根本正をメキシコに派遣しコーヒー生産が期待できるという報告を受け、続いて1894年アメリカ留学帰りの橋口文蔵をメキシコ南部のチアパス州へ派遣し、エスクイントラが入植に最適との報告を受けました。
殖民団の資金集めのため1895年の墨国移住組合設立に続き、1896年12月榎本が社長となって日墨拓殖株式会社を設立します。資金調達が不調であるにもかかわらず1897年1月メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結、3月24日36名の殖民団が横浜を出発しました。
殖民団は5月19日にエスクイントラに到着しますが、マラリアが蔓延したことに加えて、雨季でジャングルの伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わず、僅か3か月で殖民地は崩壊しました。榎本は1900年(明治33年)事業を殖民協会員で代議士の藤野辰次郎に譲渡して手を引きます。
晩年の榎本武揚
1898年(明治31年)工業化学会の初代会長となります。1900年盟友黒田清隆が死去した際には葬儀委員長を務めました。1905年(明治38年)10月19日海軍中将を退役し、1908年(明治41年)10月26日死去、享年73。同月30日海軍葬が行われました。
芦尾鉱毒事件やメキシコ移民などの褒められない問題も起こしましたが、明治政府に於ける貢献度は余人には代えがたいものがあります。榎本の、本来、褒められなければいけない多くの業績を陽の当たらないものにしたのは、榎本が戊辰戦争で最後まで朝敵であったことに拘った、薩長の元老政治の弊害だったのでしょうか。