安土桃山時代は我が国の絵画が史上最も絢爛豪華だった時代で、織田信長や豊臣秀吉らの権力者が、城郭や寺社などの大規模な建築物の内部装飾に贅の限りを尽くしました。
江戸時代初期から流行った浮世絵は、狩野派などの安土桃山の大和絵を源流に持ちながら、庶民的な風俗画を母胎とした安価な町人の絵画として広く受け入れられたもので、19世紀にはヨーロッパに輸出されて大きな影響を与えています。
浮世絵には筆で描いた肉筆画と木版の印刷画があり、印刷画は一枚摺と版本(木版印刷の本)に分かれます。初期の浮世絵は肉筆画のみでしたが、庶民に広まったのは大量生産による低価格の版画で、部数を多く摺ることによって廉価で販売されました。
江戸時代は寺子屋のおかげで我が国の識字率が極めて高く、庶民が版本を読むことが広まり、版本の挿絵として描かれ始めた浮世絵が独自の発展を遂げたのです。
版本挿絵「伊勢物語」国立国会図書館
浮世絵の題材は庶民階級からみた風俗が主で、初期には歌舞伎や遊郭などの役者絵や美人画が描かれ、後には名所絵など多くの画題に拡がっていきました。江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために、幕府から度々浮世絵の禁令が出されています。
江戸前期の慶長・元和年間(1596年~1624年)から宝暦年間(1751年~1764年)の初期の浮世絵は肉筆画のみでした。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比較すると、同じ題名の岩佐又兵衛の屏風絵、通称「舟木本」慶長19年~元和元年(1614年~1615年)では、民衆の描写が目立つようになっています。
岩佐又兵衛 「洛中洛外図屏風(舟木本)」国宝 1615年頃
彦根屏風は国宝指定名称が「紙本金地著色風俗図」の、六曲一隻、縦94.0cm横271.0 cmの中屏風画ですが、遊里を描いた近世初期風俗画の代表作です。後の浮世絵の源流になったと云われます。
寛永6年(1629年)から11年(1634年)の間の作のようで、明治中頃までは近世初期風俗画の常で作者は岩佐又兵衛とされてきましたが、現在では人物描写や画中の山水画法などが又兵衛とは異なり、狩野派の絵師の誰かの手によるものという見方になりました。
狩野派絵師「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」紙本金地著色六曲一隻 国宝
菱川師宣は安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身で「見返り美人」に代表される掛物(掛軸)のほか、巻子(かんす まきもの)、浮世草子、枕絵などの版本で多彩な活動をし、師宣によって江戸の文化が上方と肩を並べに至ったと云われます。
菱川師宣「見返り美人」東京国立博物館蔵
版本の最初は墨一色でしたが、後期には墨摺本に筆で彩色する「丹絵」や一枚摺りが登場しました。 奥村政信は赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ光沢を出す漆絵、2、3色摺りを可能にした紅摺絵、拓本を応用した白黒反転の石摺絵の創始に関わりました。
政信は自ら版元を運営して自由な作画と販売の経路を獲得し、自分の作品だけでなく他の版元の商品も扱って商機を広げ、活動期間は半世紀に渡りました。重ね摺りの際のずれを防ぐ目印「見当」を考案したこと、高価で丈夫な越前奉書紙を用いたことが錦絵を生み出す要因になります。
奥村政信「芝居狂言浮絵根元」寛保3年(1743年)
当時の劇場を浮世絵の手法で描く
歌舞伎は幕府の禁令によって男性のみが演じますが、歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派です。「瓢箪足蚯蚓描」(ひょうたんあし みみずがき)と呼ばれる瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写や「大々判」という大きな判型(55×33㎝)で知られました。
鳥居清長は当初鳥居派の伝統である役者絵を多く描きましたが、後に美人画が主になり、初期の美人画には背景に室内の雰囲気や外の景色も描かれています。
鳥居清長「美南見十二候 九月 漁火(いざよう月)」
時代が昭和の1953年、ミスユニバース第2回世界大会で伊東絹子が3位に入賞して8頭身美人が日本女性の憧れになりましたが、江戸時代に描かれた浮世絵の美人は8頭身どころか、いずれも9頭身、10頭身です。
江戸中期は明和元年(1764年)から寛政年間(1789年~1801年)の約35年間で、明和元年には旗本などの趣味人の間で絵暦交換会が流行り、その需要に応えたのが鈴木春信でした。金に糸目をつけない趣味人たちの姿勢が多色摺り版画を生みだし、錦のような美しい色合いから「錦絵」と呼ばれました。
春信の錦絵は和歌や狂歌、「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」などの物語文学を当世風俗画に当てはめて描いた「見立絵」が多く、明和期の浮世絵界をリードしましたが、高価格の摺物で庶民の手には届きませんでした。
鈴木春信「中納言朝忠(文読み)」
「雨夜の宮詣」は謡曲の「蟻通明神」に見立てた当世風俗の美人画で、雨にもめげず恋の成就を祈る少女の情景に見事置き換えられていると評価されています。
鈴木春信「雨夜の宮詣」笠森おせん
春信の「時計の晩鐘」は全体が調和の取れたしっとりとした色合いで構成され、描かれた人物が周囲の背景に溶け込んでいます。人物だけしか描かなくなった中期以降の美人画や役者絵とは、別の系統の絵かと思わせます。
鈴木春信「坐舗八景 時計の晩鐘」中判錦絵17枚(巻軸仕立)
勝川春章は安永年間(1772年~1781年)に、細判錦絵でどの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定できない鳥居派の役者絵を圧倒しました。同様の手法で相撲絵市場も席巻し、天明年間(1781年~1789年)には肉筆美人画に軸足を移しましたが高額でも好評でした。
喜多川歌麿が名声を得たのは版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に美人大首絵を版行してからです。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」や、市井の美人の名前を出せないお触れが出たために絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く様々な試みを蔦重の下で行いました。
喜多川歌麿「寛政三美人」
絵入狂歌本「画本虫撰」「潮干のつと」では贅を尽くした料紙や彫摺技術が注ぎ込まれましたが、寛政の改革の一環として寛政2年(1790年)改印(あらためいん)制度ができ、松平定信が老中を辞める寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われています。「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つで、1804年(文化元年)歌麿は「絵本 太閤記」によって大坂で手鎖50日の刑を受けています。
寛政6年(1795年)5月蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行しました。無名の絵師に大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せたのは異例のことでした。
雲母摺、大判28枚の役者の大首絵はデフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張して、その役者が持つ個性を大胆かつ巧妙に描き、また表情やポーズもダイナミックに描いた、それまでになかったユニークな作品でした。
東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」寛政6年(1794年)
当時は歌舞伎座が不況にあえぎ鳥居派もあおりを受けていて、その間隙を縫ったのが蔦重でした。それまでの役者絵は、贔屓客に購入してもらいやすいように役者を美化して描いていて、写楽は悪役の醜さや女形の老いをそのまま絵にしましたが、一両年に留まりました。写楽がいかなる人物であったのかは定かでありません。
歌川豊国は典型的な美化した役者絵を描き、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて商業的成功を得ます。「絵本太閤記」で歌麿と共に摘発されましたが、歌麿の没後は歌麿の抜けた美人画の跡を埋め、多くの弟子を得て、浮世絵の最大流派となる歌川派の基礎を築きました。
歌川豊国「役者舞台之姿絵」寛政6年
江戸後期は享和年間(1801年~1804年)から慶応年間(1865年~1868年)の約70年間で、渓斎英泉は遊女屋や白粉屋を経営した経験が美人画に活かされたのか「婀娜」(あだ)と呼ばれる「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現 」でその時代特有の美を表現しました。
渓斎英泉「艶本春情富士乃雪 上巻」1824年
葛飾北斎は勝川春章の下で役者絵を描き、独自の肉筆美人画様式を得て北斎を名乗ります。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本「椿説弓張月」で挿絵を担当し、絵師としての名声を高めました。
その後「北斎漫画」がヒットし、版元西村屋与八と組んだ「富嶽三十六景」で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使した斬新な構図で広く世間に受け入れられました。
西村屋と「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」や版本「富嶽百景」を版行し、名所絵という新ジャンルを確立して90歳で亡くなるまで絵師であり続けます。
葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」
歌川広重は「東都名所」文政13年~天保2年(1830年~1831年)以降、ベロ藍を用いますが、北斎に比べ抑えた色使いでした。天保5年(1834年)頃版元保永堂から「東海道五十三次」全55枚揃えを版行し、残存枚数や版木の消耗具合から、相当売れたと推察されます。
また全揃いを画帖に仕立てたものも武家や豪商が購入したと考えられ「富嶽三十六景」に版行時期が近いので、版元と広重が北斎を意識したものと思われます。安政3年~5年(1856年~1858年)に版元魚屋の下で、目録を含め120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の「名所江戸百景」が版行されました。
歌川広重 「東海道五十三次乃内 日本橋」
歌川国貞は豊国門下で名を挙げて三代豊国を襲名し、柳亭種彦と組み「偐紫田舎源氏」等の合巻の挿絵で成功を得ました。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年の版元恵比寿屋庄七での役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようで、市場の成熟で浮世絵師としてもっとも多くの作品を残したと云われます。
歌川国貞「淡雪奈四郎としての中村鶴蔵」1852年
嘉永7年(1854年)日米和親条約が結ばれて鎖国が終り、安政5年(1858年)には日米修好通商条約に続きオランダ・ロシア・フランス・イギリスとも修好通商条約が結ばれ、下田、函館の2港に加え4港が開港されました。
横浜は安政6年の開港で、江戸や神奈川の人々が見たこともなかった外国人の顔貌や服装、建造物に興味を惹かれた結果生まれたのが「横浜絵」です。
歌川貞秀「神名川横浜新開港図」
浮世絵の価格は形式や年代によってバラつきがありますが、19世紀の大判錦絵の実勢価格は20文前後、時代が遡る宝暦頃(1751年~1761年)の細判紅摺絵の役者絵は1枚4文でした。これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで紙質も薄いため安価だったと考えられます。
寛政7年(1795年)の町触では、20文以上の錦絵は売ってもよいが在庫限りに、新たに制作する錦絵は16文から18文に制限されます。天保の改革で色摺りは7、8回まで、値段は1枚16文以下と規制されました。
天保14年(1843年)の「藤岡屋日記」には、紅を多用した極彩色の神田祭の錦絵が16文では売れば売るほど赤字になったと記されています。鈴木春信の中版は65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ金1分でした。
天保の改革の風刺との風評が立った歌川国芳の大判三枚続「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、商品回収のうえ版木が削られる憂き目を見ましたが、歌川貞秀の模刻が100文で密かに売られ、国芳の大判三枚続「八犬伝之内芳流閣」1840年(天保11年)は1枚38文、3枚揃いが118文で、曲亭馬琴は割高だと感じつつも、色版を多く使って手間がかかっていると聞き及んで買い求めています(馬琴日記)。
浮世絵が最も早くヨーロッパに渡ったのは、1798年(寛政10年)にカピタンたちが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったものです。シーボルトは日本から多量の資料を持ち帰って、1832年~1852年に「Japonica」20分冊を刊行しましたが、そこには「北斎漫画」が掲載されています。
浮世絵は19世紀半ばの万国博覧会にも出品され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与え、1876年には"japonisme"という語がフランスの辞書に登場しました。
ゴッホは歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」の模写を残し、「タンギー爺さん」の背景に「いせ辰」の版画の浮世絵を描き込みました。
ゴッホ タンギー爺さん
ゴッホは「花魁」も描いていて、ジャポニスムが最も良く表れた作品です。
ゴッホ「花魁」1887年
モネの「ラ・ジャポネーズ」では、現代日本の女性であってもおかしくない流し目の美女が描かれ、背景の壁と床には日本の団扇がちりばめられています。
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」
モネの「睡蓮」の連作は画面全体を水面が占め、水面に映る空や岸辺に生える樹木の存在が見る者に空と大地を感じさせます。浮世絵の影響があったものでしょうか、空と地平線を必ず描いていた従来の西欧の風景画とは一線を画する画法で、蓮池だけしか描かれていないのに池の広さや、空や大地の無限の大きさが感じられます。
モネ「睡蓮」1906年 シカゴ美術館
浮世絵は19世紀以降多量の作品が国外に渡りボストン美術館に5万点、ヴィクトリア&アルバート博物館に3万8千点、大英博物館に2万点、プーシキン美術館に3万点と、50万点の大量の浮世絵が海外に収蔵されていて、日本国内の30万点を遥かに上回ります。
江戸時代の我が国は寺子屋の普及による高い識字率が庶民向けの版本の刊行を可能にし、版本の挿絵として始まった浮世絵が絵画として独自の発展を遂げましたが、浮世絵は海外に非常に大きな影響を与えた、世界に誇りうる日本文化と云って憚りはないでしょう。