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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

浮世絵

2023-06-22 06:21:04 | 日記

安土桃山時代は我が国の絵画が史上最も絢爛豪華だった時代で、織田信長や豊臣秀吉らの権力者が、城郭や寺社などの大規模な建築物の内部装飾に贅の限りを尽くしました。

江戸時代初期から流行った浮世絵は、狩野派などの安土桃山の大和絵を源流に持ちながら、庶民的な風俗画を母胎とした安価な町人の絵画として広く受け入れられたもので、19世紀にはヨーロッパに輸出されて大きな影響を与えています。

浮世絵には筆で描いた肉筆画と木版の印刷画があり、印刷画は一枚摺と版本(木版印刷の本)に分かれます。初期の浮世絵は肉筆画のみでしたが、庶民に広まったのは大量生産による低価格の版画で、部数を多く摺ることによって廉価で販売されました。

江戸時代は寺子屋のおかげで我が国の識字率が極めて高く、庶民が版本を読むことが広まり、版本の挿絵として描かれ始めた浮世絵が独自の発展を遂げたのです。

版本挿絵「伊勢物語」国立国会図書館

浮世絵の題材は庶民階級からみた風俗が主で、初期には歌舞伎や遊郭などの役者絵や美人画が描かれ、後には名所絵など多くの画題に拡がっていきました。江戸幕府に対する体制批判や風俗の乱れを封じるために、幕府から度々浮世絵の禁令が出されています。

江戸前期の慶長・元和年間(1596年~1624年)から宝暦年間(1751年~1764年)の初期の浮世絵は肉筆画のみでした。桃山期の「洛中洛外図屏風」と比較すると、同じ題名の岩佐又兵衛の屏風絵、通称「舟木本」慶長19年~元和元年(1614年~1615年)では、民衆の描写が目立つようになっています。

岩佐又兵衛 「洛中洛外図屏風(舟木本)」国宝 1615年頃

彦根屏風は国宝指定名称が「紙本金地著色風俗図」の、六曲一隻、縦94.0cm横271.0 cmの中屏風画ですが、遊里を描いた近世初期風俗画の代表作です。後の浮世絵の源流になったと云われます。

寛永6年(1629年)から11年(1634年)の間の作のようで、明治中頃までは近世初期風俗画の常で作者は岩佐又兵衛とされてきましたが、現在では人物描写や画中の山水画法などが又兵衛とは異なり、狩野派の絵師の誰かの手によるものという見方になりました。

狩野派絵師「紙本金地著色風俗図(彦根屏風)」紙本金地著色六曲一隻 国宝

菱川師宣は安房国の縫箔(金銀箔を交えた刺繍)屋出身で「見返り美人」に代表される掛物(掛軸)のほか、巻子(かんす まきもの)、浮世草子、枕絵などの版本で多彩な活動をし、師宣によって江戸の文化が上方と肩を並べに至ったと云われます。

菱川師宣「見返り美人」東京国立博物館蔵

版本の最初は墨一色でしたが、後期には墨摺本に筆で彩色する「丹絵」や一枚摺りが登場しました。 奥村政信は赤色染料を筆彩した紅絵や、墨に膠を多く混ぜ光沢を出す漆絵、2、3色摺りを可能にした紅摺絵、拓本を応用した白黒反転の石摺絵の創始に関わりました。

政信は自ら版元を運営して自由な作画と販売の経路を獲得し、自分の作品だけでなく他の版元の商品も扱って商機を広げ、活動期間は半世紀に渡りました。重ね摺りの際のずれを防ぐ目印「見当」を考案したこと、高価で丈夫な越前奉書紙を用いたことが錦絵を生み出す要因になります。

奥村政信「芝居狂言浮絵根元」寛保3年(1743年) 

当時の劇場を浮世絵の手法で描く

歌舞伎は幕府の禁令によって男性のみが演じますが、歌舞伎の役者絵に特化したのが鳥居派です。「瓢箪足蚯蚓描」(ひょうたんあし みみずがき)と呼ばれる瓢箪のようなくびれた足に、蚯蚓が這いまわったような強い墨線を生かした描写や「大々判」という大きな判型(55×33㎝)で知られました。

鳥居清長は当初鳥居派の伝統である役者絵を多く描きましたが、後に美人画が主になり、初期の美人画には背景に室内の雰囲気や外の景色も描かれています。

鳥居清長「美南見十二候 九月 漁火(いざよう月)」

時代が昭和の1953年、ミスユニバース第2回世界大会で伊東絹子が3位に入賞して8頭身美人が日本女性の憧れになりましたが、江戸時代に描かれた浮世絵の美人は8頭身どころか、いずれも9頭身、10頭身です。

江戸中期は明和元年(1764年)から寛政年間(1789年~1801年)の約35年間で、明和元年には旗本などの趣味人の間で絵暦交換会が流行り、その需要に応えたのが鈴木春信でした。金に糸目をつけない趣味人たちの姿勢が多色摺り版画を生みだし、錦のような美しい色合いから「錦絵」と呼ばれました。

春信の錦絵は和歌や狂歌、「源氏物語」「伊勢物語」「平家物語」などの物語文学を当世風俗画に当てはめて描いた「見立絵」が多く、明和期の浮世絵界をリードしましたが、高価格の摺物で庶民の手には届きませんでした。

鈴木春信「中納言朝忠(文読み)」

「雨夜の宮詣」は謡曲の「蟻通明神」に見立てた当世風俗の美人画で、雨にもめげず恋の成就を祈る少女の情景に見事置き換えられていると評価されています。

鈴木春信「雨夜の宮詣」笠森おせん

春信の「時計の晩鐘」は全体が調和の取れたしっとりとした色合いで構成され、描かれた人物が周囲の背景に溶け込んでいます。人物だけしか描かなくなった中期以降の美人画や役者絵とは、別の系統の絵かと思わせます。

鈴木春信「坐舗八景 時計の晩鐘」中判錦絵17枚(巻軸仕立)

勝川春章は安永年間(1772年~1781年)に、細判錦絵でどの役者か見分けられる描写をし、役者名が記されていなければ特定できない鳥居派の役者絵を圧倒しました。同様の手法で相撲絵市場も席巻し、天明年間(1781年~1789年)には肉筆美人画に軸足を移しましたが高額でも好評でした。

喜多川歌麿が名声を得たのは版元蔦屋重三郎と組み、1791年(寛政3年)頃に美人大首絵を版行してからです。 雲母摺りの「婦人相学拾躰」や、市井の美人の名前を出せないお触れが出たために絵で当て字にした「高名美人六家撰」、顔の輪郭線を無くした「無線摺」、花魁から最下層の遊女まで描く様々な試みを蔦重の下で行いました。

喜多川歌麿「寛政三美人」

絵入狂歌本「画本虫撰」「潮干のつと」では贅を尽くした料紙や彫摺技術が注ぎ込まれましたが、寛政の改革の一環として寛政2年(1790年)改印(あらためいん)制度ができ、松平定信が老中を辞める寛政5年(1793年)まで、浮世絵への取り締まりが度々行われています。「市井の美人の名前を出せないお触れ」もその一つで、1804年(文化元年)歌麿は「絵本 太閤記」によって大坂で手鎖50日の刑を受けています。

寛政6年(1795年)5月蔦屋重三郎が、東洲斎写楽による大首役者絵28点を一挙に版行しました。無名の絵師に大部でかつ高価な黒雲母摺大判を任せたのは異例のことでした。

雲母摺、大判28枚の役者の大首絵はデフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張して、その役者が持つ個性を大胆かつ巧妙に描き、また表情やポーズもダイナミックに描いた、それまでになかったユニークな作品でした。

東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」寛政6年(1794年)

当時は歌舞伎座が不況にあえぎ鳥居派もあおりを受けていて、その間隙を縫ったのが蔦重でした。それまでの役者絵は、贔屓客に購入してもらいやすいように役者を美化して描いていて、写楽は悪役の醜さや女形の老いをそのまま絵にしましたが、一両年に留まりました。写楽がいかなる人物であったのかは定かでありません。

歌川豊国は典型的な美化した役者絵を描き、曲亭馬琴・山東京伝らの読本挿絵を描いて商業的成功を得ます。「絵本太閤記」で歌麿と共に摘発されましたが、歌麿の没後は歌麿の抜けた美人画の跡を埋め、多くの弟子を得て、浮世絵の最大流派となる歌川派の基礎を築きました。

歌川豊国「役者舞台之姿絵」寛政6年

江戸後期は享和年間(1801年~1804年)から慶応年間(1865年~1868年)の約70年間で、渓斎英泉は遊女屋や白粉屋を経営した経験が美人画に活かされたのか「婀娜」(あだ)と呼ばれる「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現 」でその時代特有の美を表現しました。

渓斎英泉「艶本春情富士乃雪 上巻」1824年

葛飾北斎は勝川春章の下で役者絵を描き、独自の肉筆美人画様式を得て北斎を名乗ります。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本「椿説弓張月」で挿絵を担当し、絵師としての名声を高めました。

その後「北斎漫画」がヒットし、版元西村屋与八と組んだ「富嶽三十六景」で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使した斬新な構図で広く世間に受け入れられました。

西村屋と「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」や版本「富嶽百景」を版行し、名所絵という新ジャンルを確立して90歳で亡くなるまで絵師であり続けます。

葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」

葛飾北斎「富嶽三十六景 凱風快晴」

歌川広重は「東都名所」文政13年~天保2年(1830年~1831年)以降、ベロ藍を用いますが、北斎に比べ抑えた色使いでした。天保5年(1834年)頃版元保永堂から「東海道五十三次」全55枚揃えを版行し、残存枚数や版木の消耗具合から、相当売れたと推察されます。

また全揃いを画帖に仕立てたものも武家や豪商が購入したと考えられ「富嶽三十六景」に版行時期が近いので、版元と広重が北斎を意識したものと思われます。安政3年~5年(1856年~1858年)に版元魚屋の下で、目録を含め120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の「名所江戸百景」が版行されました。

歌川広重 「東海道五十三次乃内 日本橋」

歌川国貞は豊国門下で名を挙げて三代豊国を襲名し、柳亭種彦と組み「偐紫田舎源氏」等の合巻の挿絵で成功を得ました。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年の版元恵比寿屋庄七での役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようで、市場の成熟で浮世絵師としてもっとも多くの作品を残したと云われます。

歌川国貞「淡雪奈四郎としての中村鶴蔵」1852年

 

嘉永7年(1854年)日米和親条約が結ばれて鎖国が終り、安政5年(1858年)には日米修好通商条約に続きオランダ・ロシア・フランス・イギリスとも修好通商条約が結ばれ、下田、函館の2港に加え4港が開港されました。

横浜は安政6年の開港で、江戸や神奈川の人々が見たこともなかった外国人の顔貌や服装、建造物に興味を惹かれた結果生まれたのが「横浜絵」です。

歌川貞秀「神名川横浜新開港図」

浮世絵の価格は形式や年代によってバラつきがありますが、19世紀の大判錦絵の実勢価格は20文前後、時代が遡る宝暦頃(1751年~1761年)の細判紅摺絵の役者絵は1枚4文でした。これは紅摺絵が僅か2,3色摺りで紙質も薄いため安価だったと考えられます。

寛政7年(1795年)の町触では、20文以上の錦絵は売ってもよいが在庫限りに、新たに制作する錦絵は16文から18文に制限されます。天保の改革で色摺りは7、8回まで、値段は1枚16文以下と規制されました。

天保14年(1843年)の「藤岡屋日記」には、紅を多用した極彩色の神田祭の錦絵が16文では売れば売るほど赤字になったと記されています。鈴木春信の中版は65文程度で売られ、代表作である「座舗八景」は8枚揃いで桐箱に入れられ金1分でした。

天保の改革の風刺との風評が立った歌川国芳の大判三枚続「源頼光公館土蜘作妖怪図」は、商品回収のうえ版木が削られる憂き目を見ましたが、歌川貞秀の模刻が100文で密かに売られ、国芳の大判三枚続「八犬伝之内芳流閣」1840年(天保11年)は1枚38文、3枚揃いが118文で、曲亭馬琴は割高だと感じつつも、色版を多く使って手間がかかっていると聞き及んで買い求めています(馬琴日記)。

浮世絵が最も早くヨーロッパに渡ったのは、1798年(寛政10年)にカピタンたちが葛飾北斎に日本人男女の一生を図した巻子を注文し、故国に持ち帰ったものです。シーボルトは日本から多量の資料を持ち帰って、1832年~1852年に「Japonica」20分冊を刊行しましたが、そこには「北斎漫画」が掲載されています。

浮世絵は19世紀半ばの万国博覧会にも出品され、ヨーロッパの芸術家に大きな影響を与え、1876年には"japonisme"という語がフランスの辞書に登場しました。

ゴッホは歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」の模写を残し、「タンギー爺さん」の背景に「いせ辰」の版画の浮世絵を描き込みました。

ゴッホ タンギー爺さん

ゴッホは「花魁」も描いていて、ジャポニスムが最も良く表れた作品です。

ゴッホ「花魁」1887年

モネの「ラ・ジャポネーズ」では、現代日本の女性であってもおかしくない流し目の美女が描かれ、背景の壁と床には日本の団扇がちりばめられています。

クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」

モネの「睡蓮」の連作は画面全体を水面が占め、水面に映る空や岸辺に生える樹木の存在が見る者に空と大地を感じさせます。浮世絵の影響があったものでしょうか、空と地平線を必ず描いていた従来の西欧の風景画とは一線を画する画法で、蓮池だけしか描かれていないのに池の広さや、空や大地の無限の大きさが感じられます。

モネ「睡蓮」1906年 シカゴ美術館

浮世絵は19世紀以降多量の作品が国外に渡りボストン美術館に5万点、ヴィクトリア&アルバート博物館に3万8千点、大英博物館に2万点、プーシキン美術館に3万点と、50万点の大量の浮世絵が海外に収蔵されていて、日本国内の30万点を遥かに上回ります。

江戸時代の我が国は寺子屋の普及による高い識字率が庶民向けの版本の刊行を可能にし、版本の挿絵として始まった浮世絵が絵画として独自の発展を遂げましたが、浮世絵は海外に非常に大きな影響を与えた、世界に誇りうる日本文化と云って憚りはないでしょう。

 


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寺子屋

2023-06-08 06:18:07 | 日記

「寺子屋」(てらこや)は、江戸時代に上方で手習師匠が町人の子弟に読み書き、計算等を教えた施設の呼び名です。江戸では「筆学所」「幼童筆学所」と呼ばれました。

 

寺子屋

寺子屋の歴史は室町時代後期に寺に寝泊まりして勉強した師弟教育が始まりで、寺子屋が庶民の間で一般的になったのは江戸時代です。戦乱の世が終わり平和な社会が到来して、武力による武断政治から文書を介した法治主義に替わり、庶民の間にも文字や計算を学ぶ必要性が広がって、職に就く際に必要な知識の習得を寺子屋が引き受けたのです。

新田開発で耕地面積が2倍に増えて小百姓や分家の田畑や屋敷の所有が可能になり、年貢の恣意的な搾取が禁止されて、割付け状を発行し領収の皆済目録を渡す文書を介するものになりました。

これを可能にしたのは幕府の文書が北は蝦夷地から南は琉球まで「御家流」(おいえりゅう)の書体で統一されていたからです。寺子屋で庶民が学ぶ教科書も御家流の書で、明治時代に活字文化が普及するまで日本の標準書体でした。

高札

経済活動が活発化して、商家だけではなく農家でも商取引、土地売買、金銭貸借、家産相続など、文書による契約手続きが不可欠になった結果、読み書き算盤が必須の社会となり、高札(こうさつ)や御触(おふれ)を読み、互いに取り交わす証文が読めなければ不利益を蒙る時代となって、庶民の教育熱が一気に高まり、全国に寺子屋が誕生しました。

江戸幕府の下では誰でも自由に寺子屋を始めることができ、江戸時代の庶民の日常生活に必要な読み書きそろばんは、師匠の「手本」を見ながら「いろは」や数字などを、それぞれ、書き習う形で身につけました。

1883年(明治16年)に文部省が実施した教育史の全国調査「日本教育史資料」(1890年—1892年 二十三巻)によると、寺子屋は19世紀に入る頃から増加し、安政から慶応にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業しました。全国に16,560軒の寺子屋があり、江戸だけで大寺子屋が400~500軒、小規模なものを含めて1,000~1,300軒ありました。

寺子屋はまったくの私的教育施設で、筆子はおよそ9~11歳から通い始めて13~18歳になるまでの幅広い年代層の者が学びましたが、年齢による入学期の決まりはなく、進級も基本的に個人の能力に合わせる仕組みでした。卒業や修学期間も定まっておらず、1施設当たりの生徒数は10~100人と様々です。

寺子屋で指南されたのは「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始まり、地理・人名・書簡の作成法など、社会での実生活に必要な学問でした。

教材には漢字を学ぶ「千字文」、人名が列挙された「名頭」「苗字尽」、地名・地理を学ぶ「国尽」「町村尽」、往復書簡の書式をまとめた「庭訓往来」「商売往来」「百姓往来」などの往来物、「四書五経」「六諭衍義」などの儒学書、「国史略」「十八史略」などの歴史書、「唐詩選」「百人一首」「徒然草」などの古典も用いられています。

千字文

様々な書簡を作成することが必要になった江戸時代の民衆には、往復書簡を集めた形式の往来物が頻用され、実生活に即した「往来物」は教科書の代名詞にもなりました。

寺子屋に通うには学費が必要でしたが金額に定めはなく、「束脩」(そくしゅう)と呼ばれる入学金や「謝儀」(しゃぎ)と呼ばれる授業料、年に1度の畳替えの「畳料」や、手を温めるための「炭料」などがありましたが、「謝儀」は家庭の経済状況によって払える額に留まりました。

いずれの場合も師匠が高額な収入を得ていたことはなく、物納の親もいました。寺子屋は午前8時ごろから午後2時ごろまでで、子どもたちはその後に家業を手伝っていたのです。

当時の寺子屋の師匠は一生の師である例が多くて、師匠が亡くなると筆子が費用を出し合って師匠の墓を建てることは珍しくなく、筆子塚は房総半島だけでも3,350基以上が確認されています。

明治初期に東京府が実施した寺子屋の調査書には、師匠726名の旧身分が記録されていますが、多いのは平民で、次に多いのが士族でした。女性の師匠も86名いて、士族の教師が最も多い地方や、平民に次ぎ僧侶の教師が多い地方もありました。

江戸時代や明治初期の日本の都市部の識字率は世界的に非常に高く、嘉永年間(1850年頃)の就学率は70~86%で、イギリスの主な工業都市での20~25%(1837年)、フランスでの1.4%(1793年)、ロシア帝国時代のモスクワでの20%(1850年)に比べ格段に高い率でした。

1872年(明治5年)明治政府によって学制が敷かれ、小学校を建てることになりましたが、校舎建設や教員養成の追いつかない初期には寺子屋を活用しました。

地方政府は寺子屋を調査し、師匠の旧身分などの調査書を作成して適当な者を小学校の教員に採用しました。学制の施行と共に寺子屋は姿を消しましたが、かつての寺子屋の師匠たちが小学校で教鞭をとったのです。

小学校の教員資格を「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或ハ中学免許状ヲ得シモノ」と定めましたが、仮教員として採用された後に教員講習を受ければ正規の教員になれました。また大規模な寺子屋はそのまま初期の小学校として使用されました。

識字率、就学率はしかしながら全国的には必ずしも均一でなく、鹿児島県や青森県では格段に識字率が低率でした。男女共学の寺子屋が多数でしたが、男子限定や女子限定の寺子屋も少なくありませんでした。

寺子屋の筆子と女性教師

近江国神崎郡北庄村(現滋賀県東近江市宮荘町)にあった寺子屋には名簿が残されていて、入門者数と人口の対比から幕末期には村民の91%が寺子屋に入門したと推定されます。1877年(明治10年)に同県で実施された調査で「6歳以上で自己の姓名を記し得る者」の比率は「男子89%、女子9%」でした。

寺子屋の教育は現代の学習指導要領でも触れられている主体的、対話的な学び方「アクティブ・ラーニング」そのものでした。師匠と教場さえあれば成立した寺子屋では一斉授業の形式はとられず、師匠が個々の筆子の実情に合わせて手作りの手本を与え、一対一で指導しました。同じ教室にいる仲間たちに教えてもらったり、教えたりしながら、生徒たちは主体的に学んでいたのです。

寺子屋は近代の学校と比較して就学の義務がなく、質量ともに一段も二段も劣るものだったと見られてきましたが、事実は違います。現在の小学校と同じくらいの年限で、社会での実生活に必要な大人の法令集、証文類の作成などまで学んでいたのです。

寺子屋の教科書

江戸時代の一般庶民の識字率の高さには、日本を訪れた列強の外国人が一様に驚いていますが、こうした学びが明治維新以降に西洋文化を理解し、優れたリーダーを輩出して、我が国の近代化を成し遂げるのに役立ったのでしょう。

上野国勢多郡原之郷村(現前橋市)の寺子屋九十九庵(つくもあん)では、19世紀後半の寺子屋の実態が明らかにされていて、先ず「源平」(名頭字尽、ながしらじづくし)で「源平藤橘」から始まる115文字の人名を学習し、次が「村名」(むらな)で生活圏である勢多郡の村名が列挙されていました。

続いて「国尽・郡尽」(くにづくし・ぐんづくし)で日本66か国の国名と上野国の郡名です。こうした師匠手作りの教科書で「源平」から「国尽」の順にすべての筆子が学んでいきました。

最初に人の名前の読み書きをマスターさせ、周辺の村名、郡名、国名と、近くから遠くへ自分の暮らす周囲の地理を覚え込ませるのは、いずれも社会生活に不可欠な基礎学習でした。

基礎学習の後は筆子の能力や家庭事情を考慮して、いくつかのコースが用意されました。1年の生活暦を綴った「年中行事」や御上(おかみ)の法令を集約した「五人組条目」は中級者用、世間を生き抜く知恵の詰まった「商売往来」「世話千字文」(せわせんじもん)が上級者用のテキストでした。「借用証文」「田畑売買証文」「関所手形」など実生活に密着した証文類は、基礎学習が済んでから学びました。

寺子屋は読み書き算用のみを教えたイメージがありますが、師匠は筆子の「しつけ」にも努力しています。駿河国駿東郡吉久保村(現静岡県小山町)の湯山文右衛門は「余力学文」を寺子屋の目標に掲げました。「論語」の「行有余力、則以学文」(行いて余力あらば、すなわちもって文を学べ)の文言です。

道徳を学問より上位に置き、道徳の実践の上で学問を学ばせました。家では親に孝、兄弟仲良く、外での行いが信義を満たすと、はじめて文字を学ぶ資格があるというのです。1844年(天保15年)「子供礼式之事 十八か条」を定め、筆子と親に提示しています。

教場内の礼儀作法や来客への接遇は、礼に始まり礼に終わる。筆子同士の喧嘩口論への親の介入を禁じ、三世の契りと言われた師弟関係を核に筆子仲間を生涯の友として大切にし、早起きして洗顔、お天道さまご先祖さまを拝み、食事時には父母に一礼を欠かしてはならないとして、家での日常の道徳にまで踏み込んでいます。

幼児を一人前の大人にする広義の教育は、人として、社会として、やらなければならない大事業です。我が国の小学校では1990年代後半に新聞やテレビで「学級崩壊」が問題になりましたが、近代教育の結晶とも云うべき国民皆学の学校制度が、登校拒否、いじめなどで揺らぎ、これを支える地域共同体が核家族化、ひきこもり、子どもの貧困、虐待などで崩壊したのです。

1年生の学級崩壊は入学直後に多く、幼稚園や保育園の遊びを通じた情操教育から、学習が中心の小学校への環境の変化に子供が対応できにくいことが指摘されました。

現在、教育の現場に大きな変革の兆しを与えているのはITです。コロナによる学級閉鎖によって試みた、インターネットを通じた個別学習の有用性が改めて確認されたのです。

コロナ以前の2017年にソニー生命保険が行った「中高生が思い描く将来についての意識調査」があります。男子中学生が将来なりたい職業のベスト3は「ITエンジニア・プログラマー」「ゲームクリエイター」「YouTuber」で、もはや公務員でも、銀行員でも、医師でもなく、大人の想像を絶する調査結果でした。

タブレットとキーボードを用いたプログラミングの学習がすでに小学生の教科に取り入れられていますが、時代が大きく変わった今の子ども達のITに関する能力は、多くの大人たちがまったく手を出せなかったプログラミングに興じるところまで向上しているのです。

学齢期以前からアイススケート、卓球、ゴルフなどのスポーツにはまり込んで、幼少時から世界の競技大会に参加している子供たちの活躍がよく報じられます。碁や将棋の世界でも、小学校高学年の子供たちの大人に劣らない活躍が目に付くようになりました。

これらの子供たちの進歩の度合いは、大人には測り知れないほど凄まじいものですが、いずれも個別的な学習によるもので、教室でみんなと一緒に習う一律の授業から得られた成果ではありません。

スポーツの分野では、子供が興味を持った時点から合理的なフォームを身に着けるまで、根気の良い大人の手助けが必要ですし、ITの分野でも初期の学習にはたった1つのキーを押すだけのほんの一言のアドバイスであっても、その場にいる誰かの助けがなければまったく先へ進めないのは、大人の誰しもが経験していることです。

Man to man の学習の結果として高度のIT作業もこなすようになり、小学生で特許を取ったり、中高生で起業したりで、大人顔負けの実社会での活躍が知られるようになりましたが、コロナによる学級閉鎖に伴い止むを得ずITによる個別指導に移行したことで、個別指導の有用性が教育界で俄かに強く認識されるようになっています。

従来の黒板の前でクラス全員に画一的な授業をする教育は、伸びる子をどこまでも伸ばし、遅れた子をあくまでも救済する教育ではありません。

江戸時代は時代の進歩がゆっくりでしたから、その時代時代の社会に参画できる能力が獲得できれば良かったのですが、現代の子供たちに必要なのはITによって急速に進歩を遂げていく未来の事態への対応能力です。個別指導に切り替えて、伸びる子を伸びるだけ伸ばしていかないと、今後のIT中心の世の中の進歩に対応した教育とは云えません。

勉強の成果が記憶で測られる時代は過ぎました。記憶するだけならITの記憶力に勝てる筈はなく、正確に記憶するためだけに多くの時間を費やす必要は、もはや、ないのです。子供たちの未来は進歩するITを利用して、人類がこれまでに積み上げた成果を、更に、発展させるものでなければなりません。

学校がこれまで通りクラス全員の子供たちに画一的な授業を続けることは、能力のある子供たちの学習にブレーキをかけ、AIの進歩に勝てる未来の大人たちを育てる妨げにしかなりませんし、遅れた子も救ってはいないのです。

学校に行きたくない児童の中には、遅れた子供達だけではなく、スマホの世界で既に得ている知識に比べて、学校での教科の内容が幼稚で馬鹿らしく、学校についていけない子供もいるようです。

ITの時代は加速度的に変化していきます。将来自律性を獲得したAIを人類がコントロールできなくなれば、AIに人類が滅ぼされる事態が回避できなくなるのも現実に起こりうる問題です。人類の命運は、能力のある子供たちが、どこまで能力を伸ばしうるかにかかっているのです。

 


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