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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

東京駅赤レンガ駅舎

2024-01-18 06:21:03 | 日記

1889年(明治22年)神戸駅まで開通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄の日本鉄道の上野駅を結ぶ、高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)第9回帝国議会でこの新線の中ほどに、中央停車場を建設する案が可決されました。

中央停車場は繁華街のある東側(現在の八重洲側)ではなく、陸軍の練兵場跡地だった西側(現在の丸の内側)に設定され、日露戦争終結後の1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月20日に開業、東京駅と命名されました。

駅の位置や規模、構内の配置は、ドイツから招聘されて日本の鉄道建設を指導していたフランツ・バルツァーによって、我が国にとって象徴的な皇居正面の現在の場所に決められたものです。

プラットフォームはレンガ積の高架式4面8線で、新橋駅までは複々線の高架橋が計画されます。バルツァーが提案した日本風の瓦屋根に唐破風をあしらった駅舎のデザインは、純西洋風の建物が欲しい日本政府には不評で、辰野金吾の設計になります。

駅舎は中央に「天皇の駅」を象徴する皇室用玄関を設け、レンガと鉄筋造りの3階建、総建坪9,545 m2・長さ330 mの「辰野式ルネッサンス」と呼ばれる豪壮華麗な西洋式建築になりました。

南北にそれぞれドーム状の屋根があり、当時は丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分けて使用されました。皇室専用の中央の玄関は細かい装飾が各所に施されます。

1914年は第一次世界大戦の開戦の年で、青島(チンタオ)のドイツ要塞を攻略した神尾光臣陸軍中将が凱旋し、皇居に参内するイベントに合わせて開業式が行われました。

開業当時の東京駅 1914年(大正3年)

赤レンガ駅舎は第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で、米軍の焼夷弾が屋根を貫通して炎上、屋根と内装を焼失しました。

この爆撃に使われた焼夷弾は、油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾、ナパーム弾を一つの束にまとめ、投下後に空中で散弾のように分散する新型の「クラスター爆弾」で、3月10日の東京大空襲で下町の10万人の人々を焼死させた焼夷弾でした。

 

東京大空襲で破壊された赤レンガ駅舎 1945年(昭和20年)

赤レンガ駅舎は1947年(昭和22年)に開業当初より一回り規模を縮小して応急工事を終えたまま、日本国有鉄道が、度々、建て替え構想を出しては延期されて60年が経過してしまいます。

1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に際して、駅の土地の再開発が検討され、赤レンガ駅舎を建て替えて高層化するか、開業当初の形態に復元して保全するかが課題になりました。

「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」などの赤レンガ駅舎の保存運動が起こり、1988年(昭和63年)政府は「東京駅周辺地区再開発構想」で赤レンガ駅舎の形態保全方針を決め、JR東日本などが検討して1999年(平成11年)に建築初期の形態への復原が決ります。

2003年(平成15年)4月18日赤レンガ駅舎は国の重要文化財に指定され、2007年5月30日より鹿島・清水・鉄建の建設共同企業体の担当で、赤レンガ駅舎を創建時の姿に復原する工事が開始されました。

復原後の東京駅丸の内駅舎 重要文化財

2012年(平成24年)6月10日

1914年に竣工した中央停車場の主任設計者の辰野金吾は、1879年工部大学校(現東京大学工学部)卒業の第一期生でロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルに学び、官費留学生としてイギリスでさらに建築学を専攻しました。

帰国後大学で教鞭をとりながら日本銀行本店などを設計しましたが、辰野の建築が全国に広がるのは民間の建築家として事務所を立ち上げた1903年以降です。

辰野金吾の建築の特徴は赤レンガに白い花崗岩でラインを描き、屋根に塔や小屋を載せた「辰野式」と呼ばれるデザインで、重厚で趣きのある外観が多くの日本人の心を惹き付けました。

建築家として辰野が是非手掛けたいと思っていたものの一つが実は中央停車場で、依頼が来たのは帝国大学工科大学の教授を辞した翌年の1902年で、願ったり叶ったりだったのです。

辰野が設計したのは3階建て、全長335mのレンガと鉄筋造りの駅舎ですが、その建築様式は伝統的な西洋建築に基づきながらも、辰野式と呼ぶに相応しい独自の様式によりました。関東大震災でびくともせず、堂々と建っている赤レンガ駅舎の雄姿に、多くの人びとが励まされたと云います。

1999年(平成11年)赤レンガ駅舎は創建当初の形態への復原が決り、2007年5月30日工事が開始されます。空襲で破壊されて応急工事のままだった赤レンガ駅舎は、鉄骨鉄筋コンクリート壁で躯体を増築して創建当初の3階建てに戻し、外壁、尖塔、南北両ドームの内外の意匠も忠実に再現して、新たに地下1、2階を増築、免震構造としました。

3階の外壁は創建当初と同じ仕様の厚さ15 mmの化粧煉瓦を貼った外壁に復原し、戦後の修復で2階に移されていたイオニア式柱頭を当初の3階に戻し、支柱の形状も創建時のものにしました。失われていた花崗岩の柱頭飾りや銅の高欄は、モックアップを用いてディテールや施行方法を検証し、創建当時の意匠に復原しました。

2階以下は既存の構造煉瓦と同じ厚さ15mmと45mmの化粧煉瓦を貼り、線路側はコンコース側の壁を撤去して、トップライトからの自然光で復原された丸の内駅舎内を見ることが出来るようにしました。

辰野の建築の特徴は赤レンガに白い花崗岩でラインを描き、屋根に塔や小屋を載せたデザインです。辰野は200以上の建築物を手掛けたと云われ、現存するものの多くは重要文化財に指定されていますが、北は北海道、南は辰野の故郷の唐津まで、それぞれの建物が街のシンボルとして愛され、観光スポットとして人気を保っています。

辰野金吾

日本で最初の洋式建築家のひとり

現在の丸の内駅舎は2000年代に入って復原された赤レンガ駅舎は、八角形のドームの天井に取り付けられた8羽の鷲や8つの干支のレリーフも創建当時の意匠を見事に復原し、本来の細部に至るまで辰野の設計に基づいた東京駅の姿を、時代を超えて見ることができるのは奇跡とも云われます。

創建当時のドーム内部

爆撃の応急修理後のドーム内部(2006年3月26日)

復元された北ドーム天井

ドーム内部の保存と復原の基本方針は部位によって異なり、3階以上の壁面と天井面は、干支や2mを超える大きさのワシの彫刻やレリーフが存在した創建時の意匠を忠実に再現し、1階と2階は3階以上の部分との調和を図りながら機能性に優れた新しいデザインとなりました。

3階張出部を支えていた装飾付きの鉄骨支柱はRCで補強されて円柱にかわったため、全体としては装飾のない機能的な意匠になりましたが、ドームに施されたレリーフは南北のドームともまったく同一です。

方位を飾る干支は当時漆喰でしたが、落下防止のためガラス繊維強化石膏(GRG)とし、鷲の像は繊維強化プラスチックで再現しました。干支の彫刻はドーム内の8か所のコーナーにその干支の方位に従って、十二支のうち八支の彫刻が配置されていて、いずれも灰緑色をバックにガラス繊維強化石膏で作られています。

復元されたドームの天井の装飾

工事による一時的解体に伴い、それまで使用していた雄勝石の屋根材65,000枚は産地の宮城県石巻市雄勝町の業者に送られて、選別・清掃・補修した上で保管されていましたが、東日本大震災による津波で塩害を蒙り、使用可能な45,000枚のみが再利用され、工事全体では457,000枚のスレートが必要で、不足分はスペイン産のスレートで補われました。

ドーム部分の屋根は建設当時の銅板葺きに戻されて、0.4 mmの銅板が合計1t使用され、時計下の外壁レリーフは2m四方の銅板3枚を使って叩き出されたものを使用しました。線路側の中央部の屋根はガラス化して、屋根裏をホテルのゲストラウンジにします。

外壁の花崗岩は中央部御車寄せ周りと1階腰石が北木産花崗岩(北木石)で、その他は全て稲田産花崗岩です。保存・復原工事に際しては広場側復原部には稲田産花崗岩、線路側は中国産花崗岩を使用しましたが、職人の数が減って丸の内駅舎のすべての花崗岩を国内で加工することは難しく、稲田産花崗岩は日本で切り出して中国へ運び、中国で加工して丸の内駅舎へ取り付けられました。

タイルレンガを繋ぐ目地には覆輪目地が施されています。これは既に失われてしまった工法で、職人が3か月間試行錯誤し専用の鏝まで復活させて、半円形に盛り上がった目地を再現したものです。

大正時代は建具がすべて木製でしたが、窓枠は三協立山製のアルミニウムにフッ素樹脂塗装されたサッシに替えられました。木の風合いにできる限り近づけるよう、辰野が設計した岩手銀行中ノ橋支店を視察するなど、試行錯誤の末「東京駅専用ビル用サッシ」を開発したものです。窓の装飾に使われるアルミ製鋳物も三協立山が手掛けました。

2012年(平成24年)6月10日復原された駅舎の1階が開業し、10月1日全面開業しました。また、復原工事に伴って営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」も拡大して再開業、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」が規模を拡大して再開、地下に新規にレストランが開かれました。

丸の内駅舎の復原工事に併せて、改札内1階に商業施設「セントラルストリート」を設ける工事が行われ、同年10月1日にグランドオープンしました。復原工事費用はJR東日本などが「空中権の売買」を行って捻出したものです。

1908年(明治41年)3月に着工し、1914年(大正3年)12月に開業した日本の玄関口東京駅丸の内駅舎は、日本の近代化を担う首都東京に誕生した中央駅として数々の歴史の場面を眺めてきました。

1945年(昭和20年)の東京大空襲で破壊された赤レンガ駅舎は、2003年(平成15年)重要文化財に指定され、2012年(平成24年)に創建当時の姿に見事に復原されています。歴史と未来を繋ぐTokyo Station Cityは、我が国の大正時代の文化の象徴をこれからも限りなく、後世に伝えていってくれることでしょう。

 

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