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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

2つのPOS

2014-06-25 06:17:52 | 日記

一般社会でのPOSはpoint of saleの頭文字で、スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどで、商品名・価格・数量・日時などの販売実績を収集し、商品を販売した時点での情報を管理する、コンピュータを用いた経営手法の意味で用いられています。

商品単品の仕入れ先毎のデータ集計を容易に行うことができるほか、仕入時の過不足を低減して、商品仕入れの精度を向上することができることは、ご存じのとおりです。大手チェーンなどではさらに、通信回線を使用して本社の大型コンピュータに接続し、全国の在庫や販売の管理を行っています。

医療の領域でもPOSと呼ばれるシステムが使われていますが、患者さんは同じ病気でも、示す病態、治療経過はまったく多様です。規格化された商品の集合ではありませんから、スーパーマーケットで使われているPOSのように、単品として扱うわけにはいきません。それでも内容が多様な診療録の記載を一定の方式に定めて、論理的に整理された、読んで理解しやすい診療録にするよう、工夫されたのがカルテにおけるPOSなのです。

POS (Problem-Oriented System) システムは、日本診療録管理学会、日本医師会などが推奨しているカルテの記載方式です。これまで手書きのカルテの時代にも推奨されてきたのですが、わが国では広く普及するには至らず、普及のためのチャンスとして、電子カルテにはPOSの採用が求められています。

POSは、問題指向型の解決方針をとる診療録です。基礎医学者から見たかつての臨床医のカルテは、記載が充分でなく、論理性に欠け、共通な一定の方式で書かれてはいないものでした。この問題を改善すべく、臨床医のための診療録記載様式として提唱されたのがPOSです。現在では医師の診療録の記載方式にとどまらず、すべての医療者が協調して診療にあたる、チーム医療のための診療情報の根幹をなす記載方式となっています。

基礎データとして現病歴、既往歴、現症などを記載し、基礎データから患者さん固有の問題点をプロブレムとして抽出、プロブレムごとに診断方針、治療方針を立て、その診療経過を記載していくものです。

プロブレムは、主訴でも、症状でも、何についての記載かが明確であればよく、単純な病状であれば、患者さんのプロブレムを病名一つに絞って、単一のプロブレムで記載します。プロブレムの内容はS(Subjective)、O(Objective)、A(Assessment)、P(Plan)に分けて記載していきます。

Sは患者さんの主観的な病状の記載で、Oは検査データを含む医療者の捉えた客観的な病状を記録します。AはSとOをもとに、医師をはじめ医療スタッフが下す診療上の判断です。Pは患者さんに対する診療計画です。

従来、診断確定までの経緯や治療方針の立案は、医師の内的な思考に属し、必ずしもカルテに記載しないでよいと云う考え方がありました。POSでは、主治医の思考過程、判断の根拠を重視し、A、Pで明確に示すことを求めています。主治医のアセスメント、診療計画が明示されていると、診療に協力する医療スタッフに、主治医の意図が明確に伝わるからです。

medical pos


POSは問題点に絞って記載していく方式ですから、病状の変化や治療に変更があった場合に、簡潔明瞭に、記載していきます。変化のないときの患者さんの所見や診療行為を、毎日、すべて繰り返して記載すると、かえって変化を捉え難くなります。

カルテが電子化されて、診療記録が読める字に代わり、POSで記載方式が統一されたことで、医療スタッフ全員による患者さんの診療情報の共有は、格段に向上しました。これでこそすべての医療者が、それぞれの専門を活かして、チーム医療に参加できるようになるのです。

このことは、また、患者さんにとっても、カルテが読んで理解できるにようになったことを意味します。今では医療者任せではなく、患者さん自身もインフォームドコンセントを与えることで、ご自分の医療に参加しなくてはならないのですから、理解ができるカルテの存在は貴重です。

電子カルテは、当初、メーカーによって、それぞれのコンピュータ言語で作成されてきましたが、診療録記述の共通言語や、画像の標準規格を採用することが決まり、各病院間での情報交換も工夫されるようになりました。

デジタル化された電子カルテでは紙の病歴と違って、これまで病院を悩ませてきた保管場所の問題はありません。古い病歴を探し出すのに、四苦八苦する必要もありません。これからは、生まれてから一生涯の個人の医療記録をすべて保存し、必要に応じて参照することも容易になります。

将来的には診療所における電子カルテ化も進み、日本全国どこででも個人の医療記録が参照できるようになるでしょう。また、医療記録だけでなく、介護の記録など健康福祉にかかわる個人の情報も、すべて統一されて保存され、相互に利用ができるようになるでしょう。

21世紀は電子カルテの時代です。


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ケーブルカー

2014-06-18 06:22:35 | 日記

ケーブルカーは山岳の急斜面で、鋼索(ケーブル)で繋がれた車両を巻上機等で運転する鉄道であるのは、ご承知の通りです。アメリカ英語のCable carはサンフランシスコ・ケーブルカーのような、軌道の下で常に動いているケーブルを、車両が掴んだり放したりして動く、循環式ケーブルカーを指します。

イギリス英語のCable carはロープウェイを指し、日本のような鋼索の両端に車両を繋いで、井戸の釣瓶のように一方の車両を引き上げると、もう一方の車両が降りてくる交走式ケーブルカーは、Funicular(フニクラー)と呼びます。

交走式のケーブルカーには、単線交走式と複線交走式があります。複線交走式は2つの車両がそれぞれ別の線路を昇り降りします。単線交走式のうち、2つの車両で運行する単線二両交走式では、中間地点を複線として、車両の行き違いが出来るようになっています。わが国に多い形式です。

多くのケーブルカーは電力で鋼索の巻上機を動かしますが、外部から引っ張って運転するので、車両には動力の必要がありません。車内照明や自動ドアなどのために、架線などから電力を供給していますから、パンタグラフがついている車両があるのはそのためです。

車両は傾斜に対して床が水平になるよう、平行四辺形の車両を用いて車内は階段状になっています。当然、向きは変えられません。ケーブルカーの車両に乗務している乗務員は、必ず進行方向の前方に乗務しています。よく運転士と勘違いされますが、前方確認のために車掌が乗務しているので、運転士は山上駅の運転室で巻上機を操作しているのです。

ケーブルカーは安全確保のため、ケーブル切断や過速度を検知した場合、自動的に作動する機構を備えており、楔状の制動子でレールを挟み込むなどの方式で、急斜面でも暴走せずに停止できるようになっています。

現存する世界最古のケーブルカーは、1873年にサンフランシスコに建設されたケーブルカーです。急な坂の多いサンフランシスコで、馬車に代わる輸送機関として、アンドリュー・スミス・ハレディーが考案しました。山岳地の輸送機関ではなく、街の真ん中に設置された市街電車です。

cable car

現在は、パウエル - ハイド線 (Powell-Hyde)、パウエル - メイソン線 (Powell-Mason)が、市内の中心部であるマーケット・ストリート (Market Street) と、フィッシャーマンズ・ワーフ (Fisherman's Wharf) を結んでいます。

ケーブルカーはサンフランシスコを訪れる人びとの観光の目玉ですが、フィッシャーマンズ・ワーフも昔は食事の不味かった米国で、美味しいイタリア料理が食べられる場所の1つでした。

もう1本、カリフォルニア・ストリート線 (California Street)がビジネス街である エンバカデロ(Embarcadero) 付近から、ヴァンネス・アベニュー (Van Ness Avenue) まで、カリフォルニア・ストリート (California Street) を東西に走っています。

線路の中央の溝の下に敷設されているケーブルは、時速9マイルのスピードで動いていて、運転士がそのケーブルをテコの原理を利用した装置で掴むことによって、車両を走行させます。停車する場合はケーブルを離してブレーキをかけます。これらのケーブルは3路線分ともすべて、ケーブルカー博物館内の動力室を通るよう敷設されていて、同室内の大型モーターによって循環させられています。

日本の最初のケーブルカーは、1918年に開業した生駒ケーブルです。奈良県生駒市の鳥居前駅から宝山寺駅を経て、生駒山上駅までを結ぶ近畿日本鉄道の鋼索鉄道線です。宝山寺線は、1918年(大正7年)鳥居前駅 - 宝山寺駅間が開業。1926年(昭和元年)宝山寺2号線が開業して、鳥居前駅 - 宝山寺駅間が複線化され、1929年(昭和4年)山上線の 宝山寺駅 - 生駒山上駅間が開業しました。

宝山寺線は、2つのケーブルカーが並ぶ複線ですが、単線並列形態で、それぞれ宝山寺1号線、宝山寺2号線と呼ばれます。山上線は1つのケーブルカーからなる単線で、通常は宝山寺1号線と山上線だけが運行されていて、正月などのお客の多い時期には、宝山寺2号線も同時に運行されます。

宝山寺線の沿線にマンションが建つなどして宅地化されたため、通勤通学路線としても機能しているケーブルカーです。住宅地を通過するために踏切も3箇所あり、山上線にも歩行者専用の踏切が2箇所あります。通常の日本のケーブルカーのように、人里離れた山岳地にあるのとは少し異なります。

日光鋼索鉄道線は、昭和の時代に栃木県日光市の馬返駅から明智平駅までを結んでいた路線距離1.2km、高低差428.1m の東武鉄道のケーブルカーです。日光駅から馬返駅までの日光軌道線と連絡する形で運行されていましたが、1970年(昭和45年)に廃止されています。

1929年に馬返 – 明智平 – 中宮祠間の工事の認可が得られたのですが、昭和恐慌の影響で工事は中止され、1931年11月に再開されました。明智平 - 中宮祠間のケーブルカーの敷設は断念され、自動車専用道路に変更されました。1932年(昭和7年)に馬返 - 明智平間のケーブルカーが開業し、翌年には明智平 - 展望台間の明智平ロープウェイも開業しています。

1931年生まれの私は、父親がこのケーブルカーとロープウェイの建設の責任者であったため、当時、日光に住んでいて、竣工早々のケーブルカーにも、ロープウェイのゴンドラにも乗ったはずなのですが、まったく記憶はありません。しかし、竣工記念写真集が我が家に残されていて、子供の頃、何回となく広げてみていましたから、ロープウェイの展望台駅からの華厳の滝の写真などは、現場の記憶はなくても目に焼き付いていました。

戦時中の1943年(昭和18年)には、ロープウェイは不要不急線に指定され撤去されました。ケーブルカーは奥日光への実用交通機関でもあり、地元の陳情を受けて存廃を検討中に終戦を迎え、結果的に存続されました。1950年(昭和25年)には、ロープウェイも復活しています。

戦後平和になると観光ブームがおこり、自動車道路と連携したケーブルカーやロープウェイが山岳地のメインルートになりますが、やがて道路の整備が進むと、主たる交通手段は自家用車や観光バスに取って代わられます。1954年(昭和29年)に第1いろは坂がわが国で2番目の有料道路になり、1965年(昭和40年)に第2いろは坂が完成して日光有料道路となりましたが、現在では無料化されています。

1968年(昭和43年)には、日光駅から馬返駅までを結んでいた日光軌道線が廃止されたため、バスが奥日光へ直通するようになり、途中の馬返駅でケーブルカーに乗り換える理由がなくなって利用客が激減し、日光鋼索鉄道線は1970年(昭和45年)に廃線となってしまいました。

明智平駅と展望台駅を結ぶ明智平ロープウェイは、展望台駅から華厳滝のほか、中禅寺湖や男体山などの素晴らしい景観を望むことができるため、ケーブルカーが廃止された後も残ることになりました。

戦後、1950年代からは、全国で休止されていたケーブルカーの路線が復活したり、新規に多くの路線が建設されたりします。父親は日光のケーブルの建設に携わったことから、高尾山ケーブルの復活、伊豆の十国峠のケーブルの新設を皮切りに、数多くのケーブルカーの新設に関与したようです。

赤城山ケーブルの計画に当たっては、建設予定ルートを2度も歩いて上り下りして探索した結果、その後に心臓発作を起こすことになりました。山歩きを好む人々は別として、誰であっても労せずに高いところへ登って、景色を堪能することのできる点で、ケーブルカーの恩恵は大きいものがあります。

1970年代以降の新しく建設された登山用交通機関は、どんな地形でも建設ができるうえに、土地買収が少なくて済み、環境破壊も少ないロープウェイが主役となって、ケーブルカーの新規建設は止まってしまいました。

ケーブルカーは地面に接している安心感は絶大ですが、視野がほぼ180度に限られます。その点ロープウェイのゴンドラは、宙づりになったらどうなるかと云う不安はありますが、360度と云うか、上へも下へも制限のない広い視野が得られるので、スリルとともに、景観がより楽しめるのは間違いありません。残念ながら、ケーブルカーの時代は過去のものになったようです。


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カルテの尊厳

2014-06-10 15:11:47 | 日記

カルテが手書きであった時代にも、素晴らしいカルテが書かれていましたが、内容が立派でも悪筆で読みにくいカルテや、充分な記載のないあまり立派でないカルテもありました。昔はカルテが主治医の占有物で、他の医療者が手を触れることのないものでしたから、カルテは日常の診療に際しては、それほど他の医療者に尊重される存在ではなかったのです。

現代の医療は、20種以上の医療職が分担して参加するチーム医療に進化しました。医師の作成する診療録に加えて、看護記録、検査記録、画像記録、服薬指導記録、栄養指導記録、リハビリテーション記録など、患者さんの診療過程で把握される、あらゆる情報を記載した文書を、今では診療記録としています。

診療記録の記載はすべて、カルテ開示の対象です。診療記録には真正性が求められていて、一切の改ざんは許されていません。診療記録が後日に訂正されることはありえますが、カルテ開示の際には、訂正前の記載、訂正者、日時も同時に提示することが義務付けられています。診療記録は法的に重要な意味を持つので、その意味では、公文書に当たると云ってもよいでしょう。

医師法24条には、「医師は診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない。」と規定されていて、従来は医師のカルテが診療録と呼ばれてきました。

医師法に規定された記録義務の他に、医師法施行規則23条で、「診療を正当化し、治療と転機を妥当とするに足る、充分な資料を含んだ記録がなされなければならない。」と記載内容も規定されています。医師のカルテは、これらの法的要件も満たさなければならないのです。

わが国の医療は、国民皆保険制度のもとで行なわれていますから、診療報酬請求の根拠は診療記録の記載内容に基づきます。診療記録に記載のない診療行為は、診療報酬が請求できません。つまり、法規的にも、制度的にも、医療行為は記録されることによってはじめて、公的に認知されるものになるのです。

種々の医療職が複雑な、しかも高度な医療をそれぞれが行なう、チーム医療の機会が増えると、医療過誤を起こさないためには、患者さんの身体状況や医療内容が、医療行為の行なわれる前にも後にも、参加者全員に正確に把握されていなければなりません。

診療記録には患者さんの訴える主観的な病状だけでなく、医療スタッフによるあらゆる客観的な情報が記載されます。診断や治療計画策定に至るまでの意思決定のプロセスや、行なわれた診療行為のアセスメント、転帰と全経過の総括的な考案なども、正確かつ簡潔に記載されていなければならないのです。

現代の医療はインフォームドコンセント、すなわち患者さんの同意を得ないと始めることができません。患者さんの病状、医師の推奨する治療法の利益や危険性、選択可能な別の治療法の説明など、患者さんに充分な情報提供を行ない、患者さんの同意が得られれば同意書を作り、同意のプロセス、同意の得られた場所、日時、同席者も診療記録にファイルします。

診療記録には、診断から治療に至るまでのすべての経過が記載されていますから、予期せざる事態が発生した場合には、原因を追及して責任の所在を明らかにできます。予期せざる事態は患者さんに原因することもあり、医療者のミスである場合もありますが、医療者が自らの担当した診療行為を説明できるのは、唯一、診療記録だけです。再発を防止するための、リスクマネージメントの観点からも診療記録は大切です。

医療の透明性が社会から強く求められるようになった結果、診療情報の開示は、患者さんの権利として確立されました。患者さんにとって必ずしもやさしい読み物とは云えませんが、以前に比べれば、理解しやすい、論理的な記録に変わっています。

診療記録にはそれまでの経過や医療行為の結果だけでなく、これから行う医療行為の計画も記載されていますから、かつて医師の占有物であったカルテは、今では患者さんへの日常診療に対する医療スタッフ全員の行動指針として、重要な役割を帯びることになりました。診療記録に尊厳性が加わったと云っても、過言ではないのです。

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二刀流

2014-06-04 06:17:18 | 日記
二刀流と云っても、宮本武蔵の話ではありません。プロ野球でも投手と野手を兼ねる選手を、二刀流と呼びます。プロ野球の黎明期には二刀流の選手がいましたが、近年は分業が徹底して、21世紀になってからは、大リーグでは2003年と2004年のブルックス・キーシュニックのみ、日本では2013年からの大谷翔平のみです。同じ時期に投手と野手を兼ねて、好成績を持続した選手は意外にいないのです。

半世紀前の日本のプロ野球には、伝説的な二刀流の使い手が2人いました。1人はプロ野球が開幕した1936年から活躍し、2リーグ分裂後も現役だったミスタータイガースの藤村冨美男です。打者としての成績が優ります。もう一人は1939年にプロ入りし、1リーグ時代の1953年まで、セネタース、西鉄、阪急に在籍して、抜群の成績を上げた野口二郎です。野口は投手成績が優ります。

藤村は1936年(昭和11年)の第1回日本職業野球大会の最初の公式戦、対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板し、1安打完封勝利を収めました。その後投手として好成績を収める傍ら、内野手としても出場しています。

第二次世界大戦の終わった1945年(昭和20年)、藤村は復員早々の11月23日、明治神宮野球場での東西対抗戦に西軍の3番打者として出場し、東軍の白木義一郎から放ったランニングホームランで、戦後のプロ野球初本塁打を飾りました。

1946年にはタイガースの監督を兼任し、再開されたリーグ戦で5番に座り打率.323を記録する傍ら、投手不足のためにピッチャーとしても登板しました。この年13勝2敗の成績を挙げています。

1947年以降は不動の4番打者として、タイガース打線の象徴となりました。同年の優勝には打点王として貢献、ベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続でベストナイン賞を受賞しています。

1948年からは物干し竿と呼ばれた長尺バットで、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に、本塁打を量産しました。同年10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録、この年、日本プロ野球初の年間100打点を記録しました。

1949年には187安打、46本塁打、142打点と、主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新する驚異的な記録を残します。首位打者は惜しくも小鶴誠に譲り三冠王にはなれませんでしたが、大阪人のタイガースに対する熱狂的な愛情は、この時に生まれました。

1949年末から1950年始にかけて球界は2リーグに分裂し、主力選手の引き抜きに揺れました。タイガースも若林忠志、別当薫、土井垣武等の主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれましたが、藤村はタイガースに残留し弱体化したチームを支えたのです。

1950年は、前年に藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にしますが、藤村はセ・リーグ最初の首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻みました。この年記録した191安打は、2010年にマット・マートンに破られるまで60年間阪神の球団記録で、イチローに破られるまでは、44年間日本プロ野球記録でした。

また、この年は146打点を記録しましたが、小鶴がそれを上回る日本記録となる161打点を記録したため、打点王を逃しています。146打点は、打点王を逃した記録としては現在に至るまでの最多記録です。

1953年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで第一線でプレーしました。1956年には日本球界2人目の、代打満塁逆転サヨナラ本塁打を達成しましたが、選手兼任監督では藤村が唯一の達成者です。

藤村は打者としての通算17年間で、安打数1694、打率.300、本塁打数228を達成、投手としては8年間で、34勝11敗、防御率2.35の記録を残した見事な二刀流です。

弟がピッチャーで阪神にいたため、場内アナウンスでは藤村兄と呼ばれていましたが、私にはこの方がなじみ深いのです。後楽園球場での巨人・阪神戦では、いつも少しは空席の残っている阪神側の内野席に座ることが多かったので、薄紫のビジターのユニフォームを着て、目の前の3塁を守る藤村兄の雄姿が、いまだに目に浮かびます。

もう一人の二刀流の野口二郎は、1939年に東京セネタースに入団、1年目に33勝をあげると、翌年も33勝、防御率0.93で最優秀防御率のタイトルを得ました。1942年5月23日の朝日戦で、あわやノーヒットノーランの快投を演じた翌24日、対名古屋軍戦も先発登板し、この試合で、当時、世界最長の延長28回を344球で完投したと云う、信じられないような記録の持ち主です。

同年は66試合に登板して40勝264奪三振を記録しましたが、シーズン40勝は、ヴィクトル・スタルヒンと稲尾和久の42勝に次ぐ大記録です。この年のシーズン19完封は、翌年に藤本英雄がタイ記録を作ったものの、現在もプロ野球タイ記録です。戦前、戦中には5年間で平均登板数58試合、平均勝利数31勝、平均投球回数419回に及びました。

復員後の1946年に阪急に復帰しましたが、投手としての実働12年で登板517試合、通算237勝139敗、防御率1.96と驚異的な成績を挙げました。打者としては通算13年間で、安打数830、打率.248です。私がプロ野球を見始めたのは野口が引退した後なので、じかにプレーを見たことはないのですが、野口は規定投球回数と規定打席の両方を満たしたシーズンが6回ある、正に、二刀流です。

当時はチームが汽車で移動するため、移動日が必要で、日曜はダブルヘッダーでした。1試合は2時間以内に終わっていたので、ダブルヘッダーでも日没には至りませんでした。試合時間が短く、投高打低の時代であったことは確かですが、野口の投手成績は、現在のプロ野球からは信じられないレベルのものです。

この2人に象徴される、投手としても野手としても一流の成績を、同時期に挙げることは容易ではないのです。この半世紀の間に日本のプロ野球選手の体力は見違えるように向上し、攻撃力、守備力が著しく向上するとともに、分業が定着しました。投手で云えば先発とリリーフの役割分担が決まり、先発もローティションを守って登板間隔を空け、しかも100球をめどに投げるようになってきたのです。

このようにプロ野球が進化した条件の下で、大谷翔平は二刀流を試みているわけです。プロ入りした2013年を振り返ってみると、投手としては5月23日のヤクルトスワローズ戦で初登板、初先発し、5回2失点で、勝敗は付きませんでしたが、初登板史上最速の157キロを記録しました。6月1日の中日戦で、5回を投げ3失点でプロ初勝利を挙げます。

オールスターのファン投票では、実は、外野手として選出されたのですが、第1戦の5回から投手として登板し、1回2安打無失点、最速157キロを記録する投球を見せました。大谷の後に登板したセ・パ両リーグの投手は、みんな、むきになって150キロを超える速球を連投し、観ている方は大変面白かったものですが、その無理がたたってリーグ戦の後半、速球が投げられなくなった先輩投手もいました。8月23日のオリックス戦で3勝目を挙げています。

打者としてはオールスターとは逆に、投手登録で一軍入りした西武ライオンズとの開幕戦から、8番・右翼手でプロ初登場を果たしました。2安打1打点を記録し、高卒新人の開幕戦2安打は、1960年の矢ノ浦国満(近鉄)以来53年ぶりの2人目でした。

5月26日の阪神タイガース戦では、藤浪晋太郎との甲子園の因縁の対戦が再現し、5番・右翼手で出場して、藤浪から2本の二塁打を放っています。6月18日の広島東洋カープ戦では、5番・投手として先発出場し4回3失点で降板しましたが、降板後に右翼の守備につき1安打1打点で勝利打点を記録しました。

7月10日の楽天戦では、初本塁打を放ちます。高卒新人でプロ初勝利とプロ初本塁打を記録したのは、1967年の江夏豊以来46年ぶりです。翌11日の楽天戦の試合前練習中に、フリー打撃の打球が顔面を直撃し、右頬骨骨折と診断されましたが、3日後の14日の千葉ロッテマリーンズ戦には代打で復帰し、自身初の代打本塁打を放ちました。

オールスター第2戦では第1戦に引き続き、高卒新人で史上初となる1番打者に起用され、第1打席で二塁打を放っています。第3戦では1993年の清原和博以来となる高卒新人の打点を記録し、敢闘選手として賞金100万円とマツダ車1台が贈られました。

2013年の大谷は高卒新人としては、投手としても、野手としても、注目に値する成績を挙げました。大谷本人は投手として超一流になりたいようですが、投手と打者のいずれをとるのかの問題はしばらく決着がつかず、当分は、二刀流が続きそうです。

テレビに映る大谷の表情は、いつも童顔で余裕を感じさせます。おそらく大谷は、ポーカーフェイスを意識しているのではなく、うまくいっても、やり損っても、自分の完成はまだ先のものとして、目先の成績は気にもしていないのでしょう。投手としても打者としても、それほど、自らの素材については、絶対の自信を持っているのだと思われます。半世紀ぶりの逸材の将来が楽しみです。

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